飛   鳥   の   塔   跡

飛鳥の塔跡→飛鳥以外の大和の塔跡

大和粟原寺跡(史跡)

天満神社境内背後(南)に、塔・金堂跡が残存する。
江戸中期、談山妙楽寺の宝庫から発見された「粟原寺三重塔露盤の伏鉢銘」(国宝・談山神社蔵)によると、当寺は仲臣朝臣大嶋が草壁皇子を偲び創立を誓願したが果さず没する。そこで比売朝臣額田が持続天皇8年(694)から元明天皇和銅8年(715)にかけてこの地に伽藍を建て、丈六釈迦仏像を鋳、金堂に安置する。また三重の塔を起し、草壁皇子とともに発願者大嶋の冥福をもあわせて祈ったとされる。中臣氏は鎌足一族であるが、藤原氏の姓は鎌足の直系のみが受け継ぎ、傍系の中臣氏は神祇伯として元姓を名乗る。
○塔跡には四天柱、側柱礎石(径約90cm内外の自然石・一部柱座の加工の痕跡もある)を完存し、大小2個の心礎が置かれる。2個のうち心礎(小)が四天柱礎の中央に置かれ、心礎(大)は心礎(小)脇に置かれる。
心礎(大)は1.8×1.67×1,2mの大きさで、中央に径82×3.6cmの円穴を彫り、1本の排水溝も彫る。この排水溝は円穴底の深さで、その意味で完全に排水溝の役割を果たす。
心礎(小)は割られていて、凡そ半分のものと1/4弱の大きさのものが残り、残りの1/4は欠失。
凡そ径60×15cmの円穴がある。心礎(大)に比べて格段に小さいものである。
○「日本の木造塔跡」:2個の心礎の関係については、研究結果によれば、心礎(大)は塔退転後一度礼拝所の台石として持ち出され、その後の塔再興にあたり、現在の心礎(小)が置かれたと思われる。さらに心礎(大)は再び元位置に戻されたが、塔跡ではなく、一段上の十三重塔の台石に転用されたのであろうということになっている。
以上が事実であれば、心礎(大)が本来の塔心礎で、心礎(小)はその後の再興塔心礎と解釈される。 <なお心礎(大)は現在の十三重塔のある金堂跡にあったと思われるが、現在は塔跡の現位置に移されたものと思われる。>塔1辺は約6m強と推定される。
2004/11/14撮影:
 大和粟原廃寺塔跡1     大和粟原廃寺塔跡2  
 大和粟原廃寺心礎(大)1  大和粟原廃寺心礎(大)2  大和粟原廃寺心礎(大)3  大和粟原廃寺心礎(大)4
 大和粟原廃寺心礎(大)5
 大和栗原廃寺心礎(小)四天柱礎    大和粟原廃寺心礎(小)2    大和粟原廃寺心礎(小)3    和粟原廃寺心礎(小)4
 大和粟原廃寺心礎(小)5
 大和粟原廃寺塔礎石1    大和粟原廃寺塔礎石2    大和粟原廃寺塔礎石3    大和粟原廃寺塔礎石4
 金堂跡は塔跡西の一段上にあり、十三重石塔と礎石が数個残る。
この石塔は「鶴の子の塔」と称し、鎌倉後期の作とされ、明治22年大宇陀町半坂に至る半坂道にあったものを、移設したと云う。
 大和粟原廃寺十三重石塔
 また塔跡東の一段低い平坦地に、金堂跡北西の竹薮等から出土した多数の礎石が並べられる。礎石は、円柱座・地覆座を連結した形式のものが多く、かなり精巧な礎石である。
 大和粟原廃寺礎石1   大和粟原廃寺礎石2   大和粟原廃寺礎石3   大和粟原廃寺礎石4    大和粟原廃寺礎石5
塔跡には石碑と役行者石像と石灯篭2期があり、石碑には「奉修(?)行両峯三百卅三度為現(?)當増益也」(寛政10年)と刻まれ、役行者台石には「大峯山上」(文政7年)とあり、これが近世の栗原寺のものとすると、江戸後期にも何らかの修験の活動拠点であったことも考えられる。
  同 石碑・役行者石像
寺跡は標高260m辺りのかなり急斜面地(北向斜面)にあり、大寺院があったとは思えない場所である。しかし三重塔跡真北に大門、すぐ南の檀上の畑に塔ノ上、さらに南に鐘ツキ堂の字を残し、塔跡北には大門の字があることから、北面していたと思われる。
 栗原寺旧仏と伝える仏像がかなり多く残存する。栗原寺は流失したことがある(時期不明)と伝えられ、その折当寺の仏像(「粟原流れ」といわれる)は近隣に移されたと云われる。桜井大願寺本尊、桜井来迎寺本尊木造地蔵菩薩立像、桜井外山(とび)報恩寺本尊、桜井興善寺毘沙門天像・薬師如来座像、石井寺薬師三尊石仏、遠くは信濃清水寺地蔵菩薩座像などが栗原寺旧仏とされる。いずれも国重文指定。
2007/01/31追加:
○「大和の古塔」 より
塔跡と金堂跡の遺跡を残し、塔跡は礎石を完存する。塔跡には今土壇はないが方約20尺、脇柱礎は薄く柱座を彫り出し方3尺程度の自然石で、四天柱礎はただ表面を均した程度のもの、心礎は約1/4を欠損、径2尺4寸深さ5寸程度の心柱座が彫り凹めてある。
但し、心礎については今塔跡にもう一つ置かれているのが本来の心礎であるという説もある。その心礎は長5尺8寸ほどで、径2尺7寸7分深さ1寸2分の心柱座及び水抜き溝を持つ巨大な礎石である。しかしこの柱座径はこの塔の心礎として大きすぎ、また原位置にある礎石をわざわざ否定することもないであろう。
 粟原寺址実測図  粟原寺塔心礎(実測図)
粟原寺伏鉢(談山妙楽寺・国宝):上径1尺5寸、下径2尺5寸、高1尺1寸4分。鋳銅鍍金。
塔は和銅8年竣工、三重宝塔七科露盤とは七輪の宝輪を持った塔であった。
 粟原寺塔伏鉢拓本
2017/04/04追加:
○「大和の古代寺院をめぐる」網干善教 より
上田三平氏の「奈良県に於ける指定史蹟 第2冊」昭和3年の「塔跡について」では最近判明した重要な事実として塔の中央よりやや偏して一個の石材があり「従来之を以て塔の心礎と見ていたが近年傍らにあった記念碑の台石を転倒してその表面を検し、初めて完全な心礎の存在を確かた。」とある。
即ち、従来心礎といわれていたものが心礎でなく、記念碑の台石をひっくり返して調べたところ、この方が心礎であったことを確かめたと。

大和安倍寺跡(史跡)

「仲麿屋敷」と称する方形の土壇(方12m)が塔跡で、東方の土壇が金堂跡(23×18m)、北方の土壇(未調査)が講堂であろうとされる。
昭和42年の発掘で、中門、塔、金堂跡が判明し、法隆寺式の伽藍配置とされる。
当寺は孝徳天皇勅願あるいは阿倍倉橋麻呂の創建と伝えられる。創建時のものと思われる「山田寺式軒瓦」/単弁蓮華文の軒丸瓦等が出土していることなどから、山田寺の創建時代(641-685)とほぼ同時期に建立されたものと推定される。
現状は史蹟公園として整備され、塔および金堂土壇が復元されている。塔跡には隅柱礎石が一個残されているのみである。
○「飛鳥時代寺院址の研究」 より
 安倍寺塔址実測図
○2002/03/28撮影:
 安倍寺塔跡土壇1     安倍寺塔跡土壇2     安倍寺塔隅礎石
○2017/03/09撮影:
昭和42年の塔跡の発掘では基壇は版築であること、基壇規模は一辺約12.1mであることが確認され、基壇中央で基壇上面から2.25mほど下に心礎のための根石や東南隅の隅柱礎の抜取穴を検出する。
 ※2002年撮影の安倍寺塔隅礎石は浮遊した礎石なのか、それとも推定復元礎石なのかは不明。
 史蹟安倍寺跡石碑     安倍寺塔跡土壇3     安倍寺塔跡土壇4     安倍寺塔跡土壇5
 安倍寺金堂跡土壇1     安倍寺金堂跡土壇1    安倍寺西回廊趾土壇1    安倍寺西回廊趾土壇2

大和吉備池廃寺

 大和吉備池廃寺・大官大寺 ※吉備池廃寺は ほぼ間違いなく百済大寺跡であろうと推定される。

大和膳夫寺

2002/04/20撮影:
 大和膳夫寺礎石
2008/05/29追加:大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
現在の香具山小学校敷地から多くの古瓦を出土し、附近には「古塔」の地名を残す。これは膳夫寺の跡であろう。膳夫寺は聖徳太子妃膳夫姫が養母巨勢女の菩提のため建立と云う。(「太子伝撰集抄別要巻」「和州寺社記」)今ここに膳夫山保寿院一宇(本尊虚空蔵)が残り、俗に二階堂と云う。
古瓦から見れば白鳳期創建で平安期まで寺運を維持する。鎌倉期には興福寺領となり、後には多武峰領となる。
「膳夫庄差図」(永正12年・多武峰蔵)には、この一帯に「タウノダン、コウトウ、カワラカマ・・」と記された地名がある。コウトウは今古塔と書くが金堂講堂で、タウノダンが塔跡であろう。
さて、三柱神社の神宮寺のような位置に保寿院(虚空蔵)1宇が残されているが、当境内に柱座を持つ礎石が2個残存する。その中の1個は径1尺9寸3分の2段式柱座を持ち、中央に径6寸5分深さ1寸7分の円孔を有する。
 多武峰蔵「膳夫庄差図」   膳夫寺跡附近図   膳夫寺礎石実測図

大和山田寺(特別史跡)

現在心礎は地下にあり、実見することは出来ない。
○塔・金堂・講堂が南北に並ぶ伽藍配置であるが、講堂は回廊外に配置される。(山田寺式伽藍配置)
昭和12年、興福寺東金堂本尊台座下から発見された金銅佛佛頭は、興福寺衆徒によって強奪された山田寺講堂本尊であったとされる。
さらに1982年の発掘調査では倒壊した東面回廊が発見され、 これは日本で最古の木造建築遺構とされる。
塔と金堂は12世紀後半に焼失し、講堂も12世紀末に焼失したと推定される。
塔跡は一辺12mの土壇で四周の中央に幅3mの階段がある。心礎と西北の四天柱礎石が原位置にあるとされる。
昭和51年の発掘調査で心礎は地下1mで発見される。心礎の大きさは1.7×1.8m高さ84cmで、径30cm深さ3cmの蓋受孔 および径23cm深さ15cmの舎利孔を穿つ。塔の一辺は7.2mと判明。
2002/03/28撮影:
 飛鳥山田寺塔跡       飛鳥山田寺復原図       飛鳥山田寺塔復原図
2007/01/31追加:
○「大和の古塔」昭和18年 より:
塔跡は水田より高さ約2尺の土壇で東西約27尺南北約22尺あり、壇上には中央に5尺×5尺4寸程の大きさで3つに割れた心礎とその西北5,6寸離れて今1個の礎石を残す。
心礎は保井芳太郎氏の調査では、明治41・2年頃発掘して上部を割りその下半が残されたもので、上半には径2尺深さ1寸の柱座を彫り凹め、その中央に径6寸深さ3寸の舎利穴蓋と径2寸深さ1寸の舎利穴があったと云い、西北の礎石は後に任意に埋め置かれたものと云う。
2011/08/16追加:
○「新版 飛鳥」門脇禎二、NHKブックス305.昭和52
 「昭和51年発掘調査・・・、これまで塔心礎のところにあった石の下から心礎が発見」される。
○2007/01/31追加:
 大和山田寺心礎:発掘心礎
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 大和山田寺心礎2:発掘心礎
2009/03/08追加:
○「山田寺展」奈良国立文化財研究所飛鳥資料館、1981 より
 昭和51〜54年に発掘調査、伽藍配置は一塔と一金堂を南北に直線に並べ、これを回廊で囲み、回廊南に中門を置き、回廊からやや離れてて講堂を配置するものであった。四天王寺式ではなく、飛鳥寺式から東西金堂を省略した配置であった。
 (同時代の橘寺<軸は東西>と同一とされる。)
講堂は8×4間と復原される。
塔基壇では、北西の四天柱礎石1個(径約1mの柱座を持つ)が原位置に残る。
基壇中央には4つに割れた礎石が裏返しに置かれていたが、これは後世の所業であった。当初の心礎は約1m地下から発掘された。
※上掲載の「大和の古塔」 昭和18年での、保井芳太郎氏報告の心礎は後世地表に置かれた礎石を報告したものであろう。
金堂土壇には2個の礎石と13個の礎石抜取穴を発掘、その結果金堂は特異な構造を持つ建築であると判明した。その構造は身舎および庇とも桁行3間・梁間2間の特殊な構造であり、これは伊賀夏見廃寺の構造と同一であるとされる。
 大和山田寺心礎:南から
 大和山田寺塔遺構1:西から     大和山田寺塔遺構2:南から     大和山田寺塔遺構3:東から
 山田寺塔平面復原図
山田寺は中世に当初伽藍が廃絶し、伽藍地は次第に耕地となり、水田の中に塔と金堂の土壇と講堂跡に江戸期に建てられた小宇を残すのみになる。土壇は幾度も耕作されたが強固な基壇はその姿を留め、明治初頭には礎石もほぼ完存したという。
明治37年高橋健自は「古刹の遺址」(「考古界」第4編第1号所収)で「土壇の崩され、礎石の失われしは比較的近年のこと」との聞き取りを載せ、附図では金堂跡に12個の礎石の現存を記す。
 高橋健自報告附図:明治37年
次いで大正6年には天沼俊一の報告(「奈良県史蹟勝地調査会報告書」第4冊)がある。講堂礎石から講堂は7×4間と復原、金堂跡には2個の礎石が残るのみ。
 天沼俊一報告附図:大正6年
2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
心礎は基壇上面から1mの所にあり、大きさは1.7×1.8m、舎利孔は2段で、蓋受孔は径30cm深さ3cm、下段は径23cm深さ15cmである。中には朱を塗った痕跡がある。
 大和山田寺心礎2
舎利容器は現存しないが、「上宮聖徳法王帝説」に舎利容器の詳細な記録が残る。
「・・・塔の心柱を建てたり。其の柱の礎の中に円き孔を作りて浄土寺と刻めり。其の中に蓋ある大鋎一口を置き、内に種々の珠玉を盛れり、其の中に金を塗れり壷あり、壷の中に亦種々の珠玉を盛れり、其の中に銀の壷あり、壷の中内に純金の壷あり、其の内に青玉の玉の瓶あり、其の中に舎利八粒納めたり」
○2011/08/16追加:
山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の発願によって建立される。
蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏一族で、祖父は蘇我馬子、伯父は蘇我蝦夷、従兄弟には蘇我入鹿にあたる。
しかし石川麻呂は蘇我本宗家(蝦夷・入鹿)とは敵対し、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らと謀り、皇極天皇4年(645)乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)に加担し、石川麻呂は右大臣に任ぜられる。
大化5年(649)蘇我日向(石川麻呂の異母弟)は、石川麻呂に謀反の意図ありと中大兄皇子に密告する。そのため、孝徳天皇の追討軍が差し向けられ、山田寺で自害し果てる。(「日本書記」)
真相は不明ながら、石川麻呂は冤罪であるとの説も広く流布するが、権力闘争には正義などないのが本当であろう。
「上宮聖徳法王帝説」裏書には、以上の事件により、造営途中であった山田寺建立は中断するも、天智天皇2年(663)塔の造立が始められ、天武天皇5年(676)「相輪を上げる」とあり、石川麻呂の死後、塔の完成を見る。
天武天皇14年(685)講堂本尊丈六薬師如来像が開眼される。(この丈六仏像は頭部のみが興福寺に現存、国宝に指定される)
平安期には伽藍は健在である記録が残るも、中世には多武峰の末寺となり、興福寺と多武峰との抗争などで荒廃する。
明治の廃仏毀釈の煽りで廃寺、明治25年再興、現在は小宇のみ残るも無住。
○「新版・古代の日本 6 近畿U」坪井清足・平野邦雄、角川書店、1991 より
 大和山田寺金堂跡発掘     大和山田寺塔跡発掘
○山田寺模造心礎
奈文研/飛鳥資料館庭園に展示
2008/08/31撮影:
 大和山田寺模造心礎1     大和山田寺模造心礎2     大和山田寺模造心礎3     大和山田寺模造心礎4
 2017/03/09撮影:
  山田寺復元心礎5       山田寺復元心礎6        山田寺復元心礎7        山田寺復元心礎8
2017/03/09撮影:
 山田寺復元塔土壇1     山田寺復元塔土壇2     山田寺復元塔土壇3     山田寺復元塔土壇4
 山田寺復元塔/金堂土壇:東回廊から撮影、手前は東回廊礎石、向かって左が塔跡
 山田寺復原金堂土壇     山田寺講堂趾遺物1     山田寺講堂趾遺物2     山田寺講堂趾遺物3     山田寺講堂趾遺物4
 山田寺北回廊趾      山田寺東回廊趾1      山田寺東回廊趾2      山田寺東回廊趾礎石
 ◇奈文研/飛鳥資料館展示
 ・東回廊部材一式は重文、東回廊は単廊で23間(67m)あり、中央間に扉口を構える。回廊は東から西に向かって倒れ、地下水によって、腐朽を免れる。最古の木造建築とされる法隆寺西院伽藍より古い7世紀前半の建築部材である。
 山田寺東回廊部材11     山田寺東回廊部材12     山田寺東回廊部材13     山田寺東回廊部材14
 山田寺東回廊部材15     山田寺東回廊部材16     山田寺東回廊部材17     山田寺東回廊部材18
 山田寺東回廊部材19     山田寺東回廊部材20     山田寺東回廊部材21     山田寺東回廊部材22
 山田寺東回廊部材23     山田寺東回廊部材24     山田寺東回廊部材25
 山田寺跡出土風招:重文     出土隅木先飾金具1:重文     出土隅木先飾金具2:重文
 宝蔵附近出土銅板五尊像:重文      宝蔵附近出土銅製押出佛:重文
 山田寺仏頭1     山田寺仏頭2:南都興福寺東金堂蔵、複製
 金堂石階耳石の羽目石:重文      金堂跡出土地覆石:重文      山田寺出土品(礎石か?)
○2012/06/24追加:
 →京都北村美術館四君子苑に山田寺より移したと伝わる金堂礎石が残る。但し本当に山田寺から移したかどうかの確証はない。
もし山田寺の四天柱礎であるとすると、形状や過剰な装飾などから見て、後世に相当手程度の加工があったものと思われる。
2017/01/19追加:
○百濟大寺式伽藍配置(百濟大寺式軒瓦)
吉備池廃寺が百濟大寺であるならば、将来は、現在の法隆寺式伽藍j配置は百濟大寺式伽藍配置と言い換えることになるかも知れない。
同様に山田寺式軒瓦は百濟大寺式軒瓦と言い換えることになるかも知れない。
 → 百濟大寺式伽藍配置(百濟大寺式軒瓦)
2017/04/25追加:
○「山田寺発掘調査報告」2002 より
山田寺における戦前までの概要
 山田寺の廃址について、近世の地誌には特別の記載は見られないが、そのような中にあっても、天保21年(1841)蘇我倉山田石川麻呂の後裔と称する越前藩士の山田重貞が、この寺跡の一部に「雪冤の碑」(穂井田忠友撰文、菘翁貫名海屋筆 、現存する。)を建てている。このことからすれば、一部の識者には、山田寺の遺址のことも、それなりに知られてはいたのである。
 明治のはじめまでは、堂塔の跡には礎石が多く残っていたといわれる。
しかし明治8、9年頃、講堂跡に小学校を建てるため礎石が割られたり、明治21年には塔心礎が盗掘されるなど、遺跡は荒れるに任せられる。
 高橋健自が、明治37年(1904年)に寺跡を訪れた時、付近の住民から近年堂塔跡の土壇が崩され、礎石も持ち去られたことを聞く。
そこでは、高橋は塔、金堂、講堂とそれらを囲む南北に長い回廊などから、四天王寺に類似する伽藍配置であったことを指摘している。
 この当時まだ、金堂跡には12個の、講堂跡には13個の礎石が残っていたというが、大正のはじめには金堂の礎石はわずか 2個だけになる。その間、心ない人によって礎石は売却されたらしく、これらの礎石の一部は、めぐり巡って今、大阪藤田美術館の構内に保管されている。
 大正6年(1917)現地の状況を実測調査した天沼俊一は、その時点での伽藍の現況と講堂礎石の測量図を作製し、講堂については7×4間の建物であると指摘する。
 昭和10年(1935)史蹟名勝天然記念物法が施行されるとすぐに、山田寺は史蹟に指定さる。
翌年の昭和11年、上田三平は山田寺跡を訪れ、その時の現況図を「奈良県に於ける指定史蹟 第2冊」に記している。そして、そ中で講堂東北方の水田中から、かって礎石20個が発見されたとの伝聞を紹介し、そこに僧房の存在を推定する。
保井芳太郎は、塔土壇南方の門跡と思われるところから8個の礎石が発見されたことを紹介する。
石田茂作「飛鳥時代寺院址の研究」では、講堂の東西両脇に回廊が取り付くいわゆる「四天王寺」式の伽藍配置を初めて想定する。
昭和16年(1941)大岡実が講堂礎石の精度の高い実測図を「建築史」第3巻第2号に載せる。(以下略)

大和本龍蓋寺(本岡寺)跡

 大和龍蓋寺の「大和本龍蓋寺跡」の項を参照。

大和日向寺

 「亡失心礎」の「大和日向寺」の項  明治8年頃心礎は掘り出され、破壊されたと云う。

大和大官大寺(史跡)

 大和吉備池廃寺・大官大寺、「亡失心礎」の「大和大官大寺」の項

大和奥山久米寺

2002/03/28撮影:
 四天王寺もしくは山田寺式伽藍配置とされる。塔跡と礎石(四天柱礎4個、側柱礎6個)が保存され、心礎の位置に十三重石塔(鎌倉期?)が建つ。そのため心礎については確認がなされていないとも思われる。寺暦についてはほとんど資料がなく、詳細は不明とされる。なお塔の一辺は約7mを測る。
 奥山久米寺塔跡1     奥山久米寺塔跡2     奥山久米寺塔跡3     奥山久米寺塔跡4     奥山久米寺塔跡5
○「飛鳥時代寺院址の研究」:
 奥山久米寺跡実測図    奥山久米寺塔跡実測図
○2007/05/01追加:「大和の古代寺院跡をめぐる」より
奥山久米寺は橿原久米寺の前身あるいは奥の院とする考察もあるが、確証は勿論ない。
 奥山久米寺心礎:「心礎(昭和51年再発掘)」という説明の写真の掲載があるが、
  この写真が本当に心礎写真なのかどうかは、判断できない。
◎2008/07/25追加:
「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」より:
近年の発掘調査の結果、塔・金堂・講堂を直線に並べる山田寺式伽藍配置と判明する。寺域は凡そ200m四方、金堂創建は620年代と推定、塔の建立は7世紀後半で一辺6.6mと確認される。また平安期まで伽藍は維持されると思われる。
なお当廃寺は一級の伽藍であり、百済大寺もしくは高市大寺に比定される説もあったが、金堂・塔の創建や退転時期が百済大寺・高市大寺のそれと一致せず、また塔の規模も九重塔とは思われず、 現在ではこの説は否定されている。
なお寺域東辺の井戸から「小治田寺」の墨書のある平安期の土器が出土と云う。近世は浄土宗久米寺と称する小寺院であった。
2008/08/31撮影:
 大和奥山久米寺講堂礎石:「飛鳥資料館」に展示
2017/03/09撮影:
 奥山久米寺出土瓦:奈文研/飛鳥資料館展示

大和飛鳥寺(史跡)

法興寺、本元興寺。昭和31-32年の発掘調査により、1塔3金堂形式の伽藍配置が確定される。
すなわち塔を中心にして、北に中金堂、東西に東金堂・西金堂が建ち、この区画は回廊で囲まれ、南に南門・中門、北に講堂を持つ伽藍配置であった。塔は建久7年(1196)落雷によって焼亡し、中世には全ての建物が失われたと伝えられる。また塔の中央部の発掘調査で、日本最古の舎利を発見。鎌倉時代に舎利を再埋納した舎利であった。心礎は地中2.7mの位置にある。
 (現地には心礎の有る位置を示す「標」があるのみ。)
2002/03/28撮影:
  飛鳥寺心礎標
○2008/05/12追加:
 飛鳥寺伽藍配置・周辺地形:奈良国立文化財研究所「飛鳥寺発掘調査報告」:「飛鳥 その古代史と風土」門脇禎二、昭和45年 より○2007/01/31追加:
 大和飛鳥寺心礎
○2007/05/01追加:「大和の古代寺院跡をめぐる」より
塔基壇は金堂と同様の壇上積、方40尺(12m)、階段は南北2方にある。基壇上は削平され礎石は1個も遺存しない。
 法興寺塔心礎発掘:昭和32年:2.7mの地下にある。
○2008/07/25追加:「日本の木造塔跡」:
心礎は現存基壇下2.7m(推定基壇からは3.3m下)にあり、その大きさは2.6×2.4m×62cmで中央部分は削平され、中央に一辺33×30cm深さ21cmの方孔が穿孔され、 さらに東壁に12×12×12cm(幅・高さ・奥行)の孔を穿つ。中央の方孔は舎利孔で下部の孔は鎮檀具孔であろう。
また方孔の周囲には一辺45cm幅3cm深さ1.5cmの周溝があり、ここから四方に幅6cmの直線の放射状の溝を出す。
建久7年(1196)塔焼失、翌年塔跡より舎利などが取り出され、再埋納されるも塔の再建はならず。
昭和32年の発掘では再埋納の舎利が取り出される。心礎の上に長径76cmほどの2個の石を組み合わせた石櫃があり、その中央には径21cm深さ15cmの円錐形孔を彫り、それを合わせた中に木箱を入れ中に金銅の舎利容器を入れたものであった。心礎上部には勾玉・金銀延板、隅には馬鈴・金銅金具・金環・鉄器などが埋納当初の状態で出土する。
○2008/05/12追加:2008/04/16朝日新聞記事
朝鮮王興寺(百済の都・扶余)跡から、2007/10月、金・銀・青銅の舎利容器が出土、そこに刻まれた銘文から百済王の発願で577年2月に創建されたことが判明する(国立扶余文化財研究所の調査)と云う。
遺跡を確認した大橋一章・早大教授は、両寺とも同じ系統の技術者がかかわったのは間違いないとする。その根拠は塔の構造、出土品、瓦の文様などがよく似ている。法興寺・元興寺(飛鳥寺)と王興寺とは類似する。また日本書記によれば、この年(577年)に百済から技術者が派遣されたと云い、その11年後飛鳥寺塔が完成したと云う。
王興寺塔(木造)は一辺14.1m、心礎から金・銀・銅の入れ子状の舎利容器が発見され、銘文から威徳王が皇子の菩提のため丁酉年(577)に創建したと判明した。
 ※銘文:「丁酉年二月十五日百済王昌為亡王子 立刹 本舍利二枚葬時 神化為三」
但し、飛鳥寺の伽藍配置は1塔3金堂形式で、王興寺は1塔1金堂で回廊東西に付属建物を持つ形式とされる。
 百済王興寺伽藍配置:国立扶余文化財研究所
 百済王興寺舎利容器1   百済王興寺舎利容器2
しかし、以上の王興寺の飛鳥寺原形説はいささか恣意的に過ぎる(我田引水的)との批判もある。
即ち、飛鳥寺造営開始の10年以上も前から飛鳥寺建立の技術者を派遣してくるなどとは、まず考えられない。この派遣は飛鳥寺とは別の寺院(大別王寺)への派遣で あろう、飛鳥寺への派遣は丁未の年(587)である。
また舎利埋納の類似性云々より、伽藍配置が決定的に違う。飛鳥寺の1塔3金堂の形式は高句麗清岩里廃寺で見られる形式であるのは周知のことである。
○2009/09/01追加;
「飛鳥の寺院 飛鳥の考古学図録3」明日香村教育委員会、平成19年 より
 飛鳥寺塔心礎埋納品
○2009/09/05追加:
「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
心礎中央に一辺50cm、深さ25cm(この法量は蓋受孔か)のニ段の方形孔がある。東壁下部に幅・高さ・奥行とも12cmの龕のような横孔がある。舎利孔である。昭和30年の発掘調査では舎利容器は既に姿を消していた。
推古元年(593)「刹柱礎中」に仏舎利が安置される。
建久2年(1196)雷火によって塔焼失、寺僧によって舎利容器は取り出され、舎利は再安置される。この様子は「本元興寺塔下堀出御舎利縁起」(建久8年)に記されると云う。舎利数百余粒と金銀器物などが取り出されと云う。
 飛鳥寺出土舎利容器:鎌倉(建久)期再安置
   ▽出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。
2017/03/09撮影:
 飛鳥大佛碑と礎石     飛鳥寺心礎標2     飛鳥大佛本堂
 飛鳥寺礎石1     飛鳥寺礎石2     飛鳥寺礎石3     蘇我入鹿首塚
 ◇奈文研/飛鳥資料館展示
 飛鳥寺舎利容器及木箱     飛鳥寺金銀延板・小粒     勾玉・管玉・水晶製切子玉・琥珀玉等     金銅金具・瓔珞
 飛鳥寺玉類
 飛鳥寺伽藍模型1     飛鳥寺伽藍模型2     飛鳥寺伽藍模型3     飛鳥寺伽藍模型4     飛鳥寺伽藍模型5

大和川原寺(史跡)

○2002/03/28撮影:
 発掘調査により、1塔2金堂形式の伽藍配置が確定される。中金堂の南東に塔・南西に西金堂が配置され、塔と西金堂は対面する配置であった。(すなわち南大門・中門・中金堂・講堂が中軸線上に並び、中門と中金堂の西に西金堂、東に塔婆が対峙する配置を採る。)
塔は天智天皇により創建され、この塔は建久2年(1191)に焼失。その後13世紀後半に再建され、おそらく慶長年間前後に焼失し、その後再建されることは無かったとされる。
塔基壇は壇上積みで一辺11.7m、高さ1.5m、塔の一辺は6m(再建塔と同じ)とされる。
 川原寺塔跡遠望1     川原寺塔跡2     川原寺塔跡3
鎌倉再興礎石:塔跡基壇上には心礎・四天柱礎3個・側柱礎10個が残されるが、これは鎌倉期再建時の礎石とされる。
 川原寺鎌倉期心礎      川原寺鎌倉期塔礎石
創建時礎石:創建時の心礎は地下1.1mのところで発見され、大きさは2.5m×1.9m×76cm、表面には径1.03m×深さ60cmの孔を持つ。また地下から四天柱礎1個、側柱礎6個も発見され る。
  (この法量は「日本の木造塔跡」からの引用であるが、深さは10cmが正しいと思われる。)
 川原寺創建時心礎
 川原寺放置礎石:放置礎石
 川原寺瑪瑙礎石:中金堂跡には弘福寺(豊山派)が現存、その境内には瑪瑙の礎石が残る。
 川原寺五重塔復元模型:川原寺五重塔復元模型(飛鳥資料館)
○創建の事情については史料が乏しく良く分からないとされるが、天智天皇が斉明天皇(皇極天皇重祚・天智天皇母・川原宮造営)の菩提のために川原宮の跡地に創建したとする説が有力とされる。
○「飛鳥時代寺院址の研究」より転載:
 川原寺址実測図  川原寺塔址実測図(鎌倉再興塔跡)  川原寺塔土壇
2008/01/08撮影:
 大和川原寺塔復元基壇1     大和川原寺塔復元基壇2
 川原寺鎌倉再興塔礎石1     川原寺鎌倉再興塔礎石2     川原寺鎌倉再興塔礎石3
 川原寺鎌倉再興塔礎石4     川原寺鎌倉再興塔礎石5     川原寺鎌倉再興塔礎石6
2009/09/01追加;
○「飛鳥の寺院 飛鳥の考古学図録3」明日香村教育委員会、平成19年 より
 大和川原寺塔跡発掘
2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
 川原寺創建時心礎2
○2017/03/09撮影:
奈文研/飛鳥資料館に川原寺伽藍模型がある。
 川原寺伽藍模型1     川原寺伽藍模型2-1     川原寺伽藍模型2-2     川原寺伽藍模型2-3
 川原寺出土瓦
川原寺現況
 弘福寺全景     川原寺塔復元基壇3     川原寺塔復元基壇4
 川原寺鎌倉再興塔礎石4    川原寺鎌倉再興塔礎石5    川原寺鎌倉再興塔礎石6
 川原寺鎌倉再興心礎2      川原寺鎌倉再興心礎3      川原寺鎌倉再興脇柱礎1     川原寺鎌倉再興脇柱礎2
 川原寺西金堂跡
 川原寺散乱礎石11     川原寺散乱礎石12     川原寺散乱礎石13     川原寺散乱礎石14     川原寺散乱礎石15
 川原寺散乱礎石16     川原寺散乱礎石17     川原寺散乱礎石18     川原寺散乱礎石19     川原寺散乱礎石20

大和橘寺(史跡)

珍しく東面する四天王寺式伽藍配置を採る(講堂が回廊外配置とされるため山田寺式ともされる)。
塔心礎の柱座は美しい形に整形される。心礎は地下1.15mにあるが、露出している状態にある。
大きさは1.9×2.8m、長方形の花崗岩を用い、中央は一段高く作り出され、その中心に径89cm深さ9cmの円柱孔があり、円柱孔を囲み3つの半円状の副柱孔が穿られている。
側柱礎(いずれも円形柱座を持つ)8個、四天柱礎2個が残存する。
塔の一辺は6.97m、基壇一辺は13.3mとされる。
当寺は聖徳太子生誕伝承地の一つであり、太子建立寺院とされる。
橘寺とは俗称で、仏頭山上宮皇院菩提寺(近世に天台宗となる)と称する。
「聖徳太子伝暦」では太子がこの地で勝鬘経を講ぜられたとき、瑞祥があり、仏堂を建立したとする。
「河内野中寺弥勒像の丙寅(天智天皇5年666)紀年銘」:
 「橘寺智識之等(詣)中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也」とある。
  (この史料は疑問とする見解もある。)
「法隆寺東院資材帳」:推古天皇14年7月、「天皇詔太子日、於朕前講説勝鬘経、則依詔太子講説三日、講竟夜蓮花零、花長二三尺溢方三四丈之地、則其地誓立寺院、是今菩提寺也」とある。
「日本書記」天武天皇9年、「乙卯(十一月)、橘寺尼房失火、以焚十房」とある。
「類従国史」延暦14年、「大和国稲二千束施入菩提寺以遭火災也」とある。
「上宮太子拾遺記」:久安4年(1148)五重塔が雷火のため焼失と云う。建仁3年(1203)ようやく三重塔が再建されると云う。
永正2年(1505)多武峰の衆徒の焼討ちでほとんどの伽藍を焼失。
近世には「今は講堂一宇残りて、・・・余は、只礎の址のみ残れり」、「正堂、念仏堂、僧舎一区あり」(大和名所圖會)の状態であった。
元治元年(1864)漸く現伽藍が再興される。
2002/03/28撮影:
 大和橘寺塔跡1     大和橘寺塔跡2     大和橘寺塔跡3     大和橘寺心礎1     大和橘寺心礎2
2008/01/08撮影:
 大和橘寺心礎11    大和橘寺心礎12    大和橘寺心礎13    大和橘寺心礎14    大和橘寺心礎15    大和橘寺心礎16
 大和橘寺塔礎石     大和橘寺塔脇柱礎
2009/09/01追加;
「飛鳥の寺院 飛鳥の考古学図録3」明日香村教育委員会、平成19年 より
 大和橘寺塔跡発掘     大和橘寺塔跡版築
2017/03/09撮影:
奈文研/飛鳥資料館にて
 大和橘寺伽藍模型

本薬師寺東塔・西塔(特別史跡)

 大和薬師寺

大和大窪寺

 大和大窪廃寺心礎・大和塔垣内廃寺

大和塔垣内廃寺

 大和大窪廃寺心礎・大和塔垣内廃寺

参考:橿原考古学研究所付属博物館礎石

2008/02/27撮影:
橿原考古学研究所付属博物館に礎石4個の展示がある。内1個は心礎様礎石(礎石1と2)で、あとの3個はかなり破損している礎石もあるが、いずれも柱座を造り出す礎石(礎石3)である。
 橿原考古研展示礎石1     橿原考古研展示礎石2     橿原考古研展示礎石3
これらの礎石についての橿原考古学研究所説明:
 出所は不明(研究所は何度か移転したこともあり、寄贈された礎石なのか発掘して展示している礎石なのかは今では全て不明、当然出所・由来なども不明、但し、形式上白鳳期の礎石と推定される。)
・心礎様礎石(図1および2):大きさは100×70cm、経25×深さ10cmの円錐形の孔がある。
表面は明らかに削平されている。しかしその大きさ(古代寺院の心礎としては小さすぎるであろう)や孔の形状(円孔ではなく、円錐形に近い)や表面の削平や孔の穿孔が後世の ものである可能性もあり、心礎である可能性は非常に少ないであろうと思われる。また研究所説明のように心礎であることは勿論、礎石である確証もない。

大和紀寺

 「亡失心礎」の「大和紀寺」の項

大和豊浦寺

2002/04/29撮影:
現在は広厳寺(向原寺)が法燈を伝える。境内他に礎石が残る。
 大和豊浦寺跡1:豊浦寺跡碑(向原寺門前)     大和豊浦寺跡2:推定豊浦寺礎石(向原寺内)
2008/01/08撮影:
広厳寺から南に20mほど入った民家の間に、「推古天皇豊浦宮跡」の碑と礎石(豊浦寺心礎と云われる)がある。
 大和豊浦寺心礎11     大和豊浦寺心礎12     大和豊浦寺心礎13     大和豊浦寺心礎14     大和豊浦寺心礎15
「飛鳥時代寺院址の研究」:塔心礎は方約5尺(151cm)で、径3尺6寸4分(110cm)の造出を持ち、その中央に径6寸9分(21cm)×4寸(12cm)の孔を穿つ。但し火災により荒れていて、原形はよく分からない。日本書記では欽明天皇13年百済から献上された仏像経論を曽我稲目が最初に祀ったのを始まりとする。その後白鳳期に隆盛を迎えたとされる。
「飛鳥時代寺院址の研究」:豊浦寺塔心礎実測図
「日本の木造塔跡」:
礎石は1/3を欠失、径1.6mほどの丸い石の表面を削平し、その上に径100cmほどの柱座があり、中央に径21×深さ12cmの孔を穿つ。

大和坂田寺(金剛寺、坂田金剛寺、南淵坂田尼寺)

「飛鳥時代寺院址の研究」:日本書記では用明天皇の時代司馬多須奈の本願とする。 (南淵坂田尼寺)明確な遺跡がなく詳細は不明と云う。
 坂田寺金銅製舎利塔(室町末期、高さ2尺5寸)が伝来する。
2007/02/11追加:
「日本書記」では、用明天皇2年(587)、天皇の病気平癒を祈願し、鞍作多須奈(鞍作止利の父)が発願、丈六の仏像を造顕、寺を建立したという。
また金剛寺については、推古天皇14年(606)、鞍作鳥(止利仏師)が近江国坂田郡の水田20町をもって建立した寺が金剛寺であると云う。(2代目あるいは3代目坂田金剛寺)
あるいは、「扶桑略記」では、継体16年(522)渡来した司馬達止が造った高市郡坂田原の草堂が坂田寺の起源とも云う。いずれにしろ鞍作氏の氏寺であったとされる。
「日本書記」:
朱鳥元年(686)、五大寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺・坂田寺)の一つに数えられる。伽藍は10世紀後半、土砂崩れより、崩壊。承安2年(1172)、多武峯の末寺の記録。
現状は坂田金剛寺址碑を残すのみで、昭和48年、49年、55年、平成2年の発掘調査で、土師器、須恵器、手彫の軒平瓦、木簡6点、「坂田寺」と記された墨書土器などが出土し、奈良期の仏堂と回廊が確認されている。飛鳥期の伽藍については不明。
なお、「坂田寺址」東・阪田の集落に、浄土宗「金剛寺」があり、「坂田寺」の系統を引くと云われるが関係は不明。
「聖徳太子の寺を歩く(太子ゆかりの三十三ヶ寺めぐり)」では、坂田寺が火災に遭い、金剛寺の門前に移り、それも焼失し、仮堂として営まれた寺院(天台宗)が現在に伝わる(浄土宗)と伝えられる。現在先代金剛寺址と本堂兼庫裏及び近江坂田から遷されたという薬師堂がある。
「増補 大日本地名辞書」吉田東伍:
坂田寺址 高市村大字坂田にあるべし。書紀通証云、坂田寺一名小墾田坂田尼寺、万葉集小墾田之坂田、一書曰司馬達等居址。日本書紀云、用明帝疾病、司馬達子鞍部多須那進奏曰、臣奉為天皇出家修道、又奉造丈六仏像及寺、天皇為悲慟、今南坂田寺仏像是也。多武峰略記云、日本紀第二十二、推古天皇十四年夏五月五日、勅鞍作鳥即賜大仁位、因以給近江国坂田郡水田廿町焉、以此田為天皇作金剛寺、是今謂南淵坂田尼寺矣、太子伝上云、用明天皇二丁未年、仏工鞍部多須奈為天皇自身出家、造丈六仏像并坂田寺矣、承安二年八月四日、南淵坂田等永可為当寺之末寺由、賜長者宣、三年正月晦、彼寺本主木幡寺上座永厳、以坂田寺流記公験等永寄進当寺了。司馬達等継体天皇の朝に仏像を以て梁国より渡来し坂田原に廬居したる事扶桑略記水鏡及元亨釈書に見ゆ、本邦の仏像最初の所なり、達等の子多須那は河内鞍部の村主と為り其子を止利と曰ふ、一門力を興法に致す、推古天皇の止利を褒美したまへる詔旨、日本書紀に曰、朕欲興隆内典方将建仏刹、肇求舎利時、汝祖司馬達等便献舎利又於国無僧尼、於是汝父多須那、為橘豊日天皇出家、又汝姨島女初為諸尼導者、以修行釈教、今汝所献仏又合朕心、此皆汝之功也。
 小墾田の坂田の橋のくづれなば桁より行かむな恋そ吾妹〔万葉集〕
歌人等中世に当り此坂田を板田に謬り換歌多し。扶桑略記云、継体天皇即位十六年壬寅、大唐漢人鞍部村主司馬達止入朝、即結草堂於高市郡坂田原、安置本尊、帰依礼拝、挙世皆云是大唐神也、然而非流布也。
2017/03/09撮影:
金堂には格狭間を浮彫りする須弥壇跡が残り、その中央から鏡・玉類・金箔・銅銭などの鎮壇具が発見されたという。
以下いずれも奈文研/飛鳥資料館
 坂田寺鎮壇具:瑞雲双鸞八花鏡、灰釉小型耳瓶、刀子、金銅製抉子、水晶玉
 坂田寺地鎮銭貨:和同開珎2点、萬年通宝3点、神功開寶7点などの皇朝12銭

大和和田廃寺

2002/04/29撮影:
水田中に「大野丘」と呼ばれる塔跡の土壇を残す。
寺域は藤原京右京十一・十二条一坊に当たると云い、トウノモト・堂の前の字名を残す。
土壇は南北約14m、東西約9.5m、高さ約1.7mを測り、発掘調査により、礎石抜き取り穴や根固め石が発見され、一辺が12.2mに復元できる塔基壇の西半分が残在したものである と結論づけられる。この塔は、基壇の版築土中の出土瓦などから、7世紀後半に創建され8世紀後半まで存続していたとされる。なお土壇上には側柱礎2個が残る。
 大和和田廃寺塔跡1     大和和田廃寺塔跡2     大和和田廃寺塔跡3
古くから大野丘北塔跡に疑せられている経緯がある。ただしこの遺跡から出土する瓦は7世紀中葉のもので、時代が合わないとされる。
 ※大野丘北塔:日本で最初に建てられた仏塔が大野丘北塔と云われる。どのような建築であったのかは全く不明と云う。「元興寺縁起」には刹柱を建てるとのみ記載される。
敏達天皇14年(585)仏教伝来とともに蘇我馬子によって建立されるも、1ヶ月後に物部氏により破壊されたとされる。(位置は今も不明)
西国三十三所名所圖會:巻之8:大野丘塔古跡
(和田村田圃の中にあり。今僅に小高く墳のごときもの存せり。この周の田の字を塔の田といふ。これにてその古跡なること明らかなり。昔は礎石ありしかども、田圃の普請に用ひし由聞こゆ。)
2007/02/10追加:(注)
葛木寺<葛城寺>の位置は確定していないが、飛鳥和田廃寺、大和尼寺廃寺(南)、御所朝妻廃寺の3ヶ所がその候補地とされる。
 ※葛木寺は聖徳太子建立の7ヶ寺の一という。
和田廃寺を葛木尼寺とする説の根拠は以下の通りで有力と思われる。
「続日本紀」光仁天皇即位前紀、「葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、於志止度、刀志止度、桜井爾」(童謡)が収録され、葛木寺が豊浦寺の西にあったと伝えられる。
「興福寺大和国雑役免坪付帳」(延久2年)には、和田廃寺の寺域が11世紀後半まで葛木寺の田であったと記す。
2008/02/27撮影:
 大和和田廃寺塔跡11   大和和田廃寺塔跡12   大和和田廃寺塔跡13   大和和田廃寺塔跡14   大和和田廃寺塔跡礎石
  土壇11・12の背景の山は畝傍山。礎石は土壇上面には3個露出、
  さらに礎石かどうかは不明であるが北側土壇立ち上り面に1個の礎石様の石がある。
2009/09/01追加;
「飛鳥の寺院 飛鳥の考古学図録3」明日香村教育委員会、平成19年 より
 大和和田廃寺発掘:西から撮影

大和田中廃寺

2002/04/29撮影:
○蘇我氏系田中氏の氏寺として建立されたとされる。現地にある法満寺附近が田中宮・田中廃寺の推定地とされるも、詳細あるいは遺構は不詳。
1990年(病院建設に伴う事前調査)からの数次の発掘調査で、伽藍中心は「弁天の森」付近とする説が有力と思われる。(病院の西南隅に、発掘成果を伝える碑があると云う。・・・未見)
  田中廃寺跡付近:病院改装現場
2008/01/08撮影:
○塔心礎とされる礎石が法満寺に残存する。但し大きさが小さいあるいは心礎とする明確な根拠が無いなどで心礎かどうかは不明とされる。
現状の大きさ(実測):大きさは80×50cm、形16cm×深さ7cmの円孔を穿つ。
 田中廃寺心礎1     田中廃寺心礎2     田中廃寺心礎3
○「飛鳥時代寺院址の研究」:
心礎は1/3を割られているが、径2尺3寸の円形柱座を造出し、中央には径6寸×2寸5分の孔を穿つ。但し心礎としては小さく、心礎と断定はできない見解を採る。
 伝田中廃寺心礎     伝田中廃寺心礎実測図

大和軽寺

「飛鳥池出土の寺名木簡について」伊藤敬太等、竹内亮(「南都仏教 79号」南都佛教研究会 2000 所収) より
軽寺跡とされる遺構には現在法輪寺本堂が1棟建つのみである。本堂下には25×20m高さ1.5mの土壇を残す。本堂北西にも長方形の土壇を残す。伽藍配置は不明。
かって法輪寺南に妙観寺があり、そこから多数の礎石が出土したから、妙観寺跡を塔跡、法輪寺本堂を金堂とする四天王寺式伽藍が想定される。(大脇潔説)あるいは現法輪寺西側隆起を塔跡とし法隆寺式伽藍配置も想定される。(石田茂作説)

大和定林寺(立部寺)<史跡>

○2008/01/08撮影:
 聖徳太子建立46寺の一寺とされる。 その創建や寺史については全く分からない。
しかし、現在の定林寺の西、字奥の堂の春日社境内に塔跡の土壇や礎石などの建築遺構が残る。
昭和27年石田茂作らの発掘調査の結果、塔の心礎が確認され、さらに出土品から、飛鳥朝創建であると確認される。
昭和28年の発掘調査では、塔跡・廻廊跡の発掘が行われ、心礎は花崗岩で、地下六尺七寸(2m)にあり、大きさは九尺三寸(2.8m)×五尺八寸(1.8m)で径二尺七寸(82cm)、深さ三寸(9cm)の円形柱座を掘り込んだものと判明する。 しかし寺院跡はかなり削平され、全貌の確認は困難であったが、諸学説では法起寺式と云う伽藍配置が有力である。古代定林寺は鎌倉時代に焼亡したと推定される。
 塔  土 壇1     塔土壇・礎石      塔  礎 石
○2008/01/22追加:
定林寺の西の丘上の狭い地域に塔土壇(西側)と堂宇土壇(北側、元春日明神社殿跡、金堂跡か講堂跡か良く分からない)の2個の土壇を残す。塔土壇には数個の礎石を残す。
◆以下は昭和28年地下から心礎が発掘される前の論考である。
2013/11/23追加:
明治38年高橋健自の報告(「考古界雑誌」四ノ一)がある。・・・未見(「続明日香村史 上巻」2006年 より)
2009/03/08追加:
○「奈良県史蹟勝地調査会報告書 第3回」奈良県史蹟勝地調査会、1977(原本大正5年) より
委員は天沼俊一、寺址には元春日社の拝殿・社殿等在りしが、近年他に移し同時に跡地は全部開墾せられて畑地となれり。余は明治41年遺跡を踏査せる際、礎石4個を認めたるが、【高市郡史蹟概覧】によると、講堂址は土壇明らかにして礎石4個、金堂址は規模不明なるも礎石及び土壇の一部、塔址は礎2個及び土壇殆どを存せしと云う。礎石は今同所脇本元吉方庭内に4個を存す、外に心礎の残欠と認めらるる石の破片を蔵せり。
 定林寺塔心柱礎の一部・・・この復原図が正しいとすれば、その形状からこの石製品は心礎ではなく、石製露盤(残欠)であろう。
 大和定林寺堂礎石
○「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作、昭和3年/昭和19年刊:
高さ約4尺、一辺約24尺の方形土壇がある。発掘により5個の礎石が認められた。
側柱礎石は円形柱座を持ち、地覆座のあるものもある。基壇は二重基壇で上成基壇は凝灰岩を壇上積にした方11.0mの基壇で、下成基壇は板石を立て並べており方12.6m四方となる。塔一辺は約5.8m(塔間)である。
 立部寺塔跡実測図
中央礎石は掘り出されているが、その残片と思われる礎石が高市村脇本英雄氏の庭にある。
円形刳り込みの一部と見られるが、復元すると、一辺4尺5寸の方形切石で、四周に巾2寸高さ3分の縁を持ち、中央に径2尺8寸高さ3分の円形穴を持つものと推定される。
 推定立部寺心礎残欠実測図・・・ただし、 昭和28年に心礎は塔跡から発掘され、従ってこの残片は心礎ではない 。
  大きさ(一辺133cm、円穴径58cm)や形状から石製露盤(残欠)であろう。
◆以下は昭和28年地下から心礎が発掘された後の論考である。
2013/10/26追加:
○「橘寺・定林寺の発掘」石田茂作(「近畿日本叢書 第3冊 飛鳥」近畿日本鉄道、1964 より
昭和28年発掘調査の成果を加味したものである。
 定林寺址調査実測図:「昭和3年調査と28年調査を1図に収む」とある 。
○「定林寺の調査」(「飛鳥・藤原宮発掘調査概報 8」、1978 所収) より
 定林寺伽藍実測図
○「日本の木造塔跡」昭和57年(1982):
昭和28年の発掘調査で、地下2mで心礎が発掘される。大きさは2.8×1.7mで、径82×深さ9cmの円穴がある。側柱礎は5個残存、いずれも柱座を造り出す。
基壇下層は板石を並べた石積で一辺12.7m、上層は壇上積基壇で一辺11.2mの二重基壇であった。高さは合わせて97cm、塔一辺は5.7mと推定。講堂跡は判明するも金堂跡は不明と云う。
○「大和の古代寺院跡をめぐる」網干善教、学生社、2006 より
高橋健自の「古刹の遺址−定林寺」(考古界 第4篇3号」考古学会、明治37年/1904 所収)では、伽藍配置は法隆寺式と想定する。
上述の昭和3年石田茂作の「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作、昭和19年刊では、金堂跡は不明ながら講堂跡・塔跡からみて、法隆寺式伽藍配とする。塔跡には5個の礎石が遺存し、塔1間6尺3寸(1.9m)塔一辺は19尺(5.9m)あるとする。
昭和28年石田茂作は、上述のように、地下塔心礎を発掘する。
昭和52年一部の発掘調査が行われ、奈良国立文化財研究所の 「定林寺の調査」(「飛鳥・藤原宮発掘調査概報 8」、1978 所収)では、従来講堂跡とされた土壇は総体として乱雑に土が盛られたもので、版築などは認められず、上面には礎石抜取痕跡があり、一部乱石積基壇はみられるものの、到底飛鳥創建当時のものとは思われず、鎌倉期以降の土壇であろうとの見解が示される。
○2017/03/09撮影:
上掲「立部寺塔跡実測図」(石田茂作)を文字入れして、再度掲載。
※発掘されたという心礎は埋め戻され見ることはできない。図にある心礎抜取痕附近の石材破片4個及び側柱礎3と4との間の石材破片2個は現在地表には見えない。(既に紛失か?)
 定林寺塔土壇2:北東から撮影、土壇上向かって左の礎石は側柱礎5、右の礎石は側柱礎1      定林寺塔土壇3:東より撮影
 定林寺塔礎石1:手前は側柱礎1、奥は側柱礎2      定林寺塔礎石2:手前から、側柱礎2、3、4
 定林寺塔側柱礎1     定林寺塔側柱礎2     定林寺塔側柱礎3     定林寺塔側柱礎4     定林寺塔側柱礎5
 定林寺心礎抜取痕
 定林寺講堂跡1
 定林寺講堂跡2:石階と土壇上の基礎(いずれもRC造)は近代の春日明神のものであろう。春日明神は東50mの地に移転。
 定林寺本堂     定林寺庫裡
石造露盤
定林寺には石造露盤の残欠が遺される。
一片は脇本氏邸にもう一片は定林寺庫裏沓脱石に転用されているようである。
  → 大和定林寺露盤

大和檜隈寺(檜前寺)

2002/04/29撮影:
○倭漢氏の氏寺とされ、創建は飛鳥期に遡るとされる。
「・・山陵志云、聖徳太子伝記曰、檜隈寺者欽明天皇宗廟也、今檜隈村道昭寺、蓋其遺構矣、・・」
・発掘調査の結果、南門の北に塔、東に金堂、西に講堂の伽藍配置を採るとされた。
塔土壇および礎石が残り、土壇の中心に地下式心礎がある。(発掘調査で発掘)
 ※現在、この心礎は埋戻され見ることは出来ない。代わりに複製心礎が塔跡すぐ南に置かれる。
また、土壇中央には平安期の十三重塔(一部欠・重文)が建立され現存する。
 大和檜隈寺塔跡1     大和檜隈寺塔跡2     大和檜隈寺塔跡3     大和檜隈寺塔跡4
 大和檜隈寺塔跡5     大和檜隈寺塔跡6     大和檜隈寺塔跡7
○「日本の木造塔跡」:心礎は地下80cmの所にあり、径1.8mの大きさで、中央に径100cm、深さ16cmの柱穴があり、さらに中央に径12cm、深さ9cmの舎利孔を持つ。舎利孔の周りに環状溝があり、そこから1本の放射状溝が出、柱孔の径に沿う環状溝と合わされ、心礎を刳りぬいて、外部に達している。(巨勢寺心礎と同一の形状)
側柱礎は自然石で11個残存、四天柱礎は全部残る。塔一辺7.6m、基壇一辺12m余。
 2011/05/29追加:
  大和檜隈寺心礎32
○塔跡には土壇と四天柱礎全部と側柱礎11個(自然石)とが残る。塔の一辺は7.7m、基壇の一辺は約12mとされる。本来の寺名は道興寺と称したと思われる。
2007/02/07追加;
○「大和の古塔」
「山城清水寺縁起」(同族の坂上田村麻呂建立)では「道興寺 字口寺云々。右大和国高市郡檜前郷」とある。
 檜隈寺塔址実測図
2007/07/01追加:
○「飛鳥発掘物語」
昭和45年、十三重石塔の修理で発掘調査を実施、柱穴部分に高さ約20cmの四耳壷(しじこ)を発見、中に青白磁合子があり、さらにその中に卵形のガラス容器が入っていた。四耳壷は中世のもので、おそらく舎利容器を再埋蔵した時のもので、ガラス容器が本来の舎利容器であろう。
なお心礎の廻りには柱穴の肩から35cmのところで円形に瓦を積んでいた。要するに径170cmの穴のように瓦は積まれていた。地下式心礎から地上式へと変遷する過渡期の様相とも推測される。
2008/01/08撮影:
講堂(7間×4間)跡は土壇と礎石を残す。講堂基壇は瓦積基壇(昭和56年発掘調査)
※南門跡は土壇を残す、金堂跡土壇はほぼ全壊と思われる。
 大和檜隈寺心礎1    同      2    同      3    同      4
   同      5    同      6    同      7:心礎は複製
   同    塔基壇    同    塔礎石    同  十三重石塔
   同   講堂跡1    同   講堂跡2    同 講堂跡基壇
2008/02/28:
○「橿原考古学研究所」にて以下を確認
『塔土壇の南に露出して置かれている心礎は「複製品」であり、心礎は土壇中央部にあり、埋め戻されている。』
2009/03/08追加:
○「奈良県史蹟勝地調査会報告書 第3回」奈良県史蹟勝地調査会、1977(原本大正5年) より
委員は天沼俊一、塔跡は礎石13個を存す、四天柱礎は大部土中に埋まる、心柱礎は見ることを得ず、西側礎石の門のそれに代えたるをもって除く。堂の礎石は5個を存す。塔の南方に門の址あり。礎石抜取穴がある。余が数年前この位置にて見たる礎は、今社務所前の築山の装飾材に転用のほか、神社境内各所に都合3個ある。この礎石は中央に円形の凸面あり。(塔及び堂の礎石は自然石)
書誌の述べる処を総合すると、古代この地には檜前寺が建立され、また於美阿志神社の僧舎(神宮寺)が道興寺と号す、但し道興寺が檜隈寺の後身かどうかは不明、道興寺は明治30年前後に廃寺と云う、また於美阿志神社の位置も以前とは相違する。
 廃檜隈寺址実測図1:社務所前、庚申祠横、拝殿後中央、塔跡の◎が門礎のある位置であろう。
 廃檜隈寺址実測図2     廃檜隈寺塔址実測図
2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
心礎は2.0×1.67m、径95cm深さ17cmの柱穴があり、中央に径42cm深さ31cmの枘孔を穿ち、さらに径11cm深さ9cmの舎利孔をあける。舎利孔上段は薄い蓋受孔がある。(※法量の記載がなく法量は不明)
2011/05/29追加:
○「佛教考古學論攷」 より
 大和檜隈寺心礎31
○2017/03/09撮影:奈文研/飛鳥資料館
 桧隈寺出土瓦

大和久米寺塔跡

 大和久米寺多宝塔・塔跡
 


飛鳥以外の大和の塔跡
 


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