山  城  栂  尾  高  山  寺

山城栂尾高山寺

山城高山寺塔婆概要

 →平安期の塔婆>高山寺

〇「山城名勝誌」 :三重塔の存在が知られる。
 三重塔一基:毘盧遮那仏、文殊、普賢、観音、弥勒・・・

※三重塔は安貞元年(1227)上棟、寛喜年中(1229-)完工と云う。(「高山寺縁起」)
大工は末弘であるが、末弘は十三重塔の大工でもある。
 高山寺絵図:高山寺領膀示繪圖:(寛喜2年<1230>銘、重文、神護寺蔵)部分図:に三重塔が描かれる。
  (大門、金堂、三重塔、阿弥陀堂、羅漢堂、鐘楼、経蔵、鎮守社などが知られる。このうち、羅漢堂が賀茂禅堂院に由来する。
   また経蔵とあるのが、後に西岸に移建された建物で、明治22年さらに現在の場所に移建され、「石水院」として現存する。)

2015/03/05追加:
○「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
「高山寺縁起」では、寛喜2年(1230)神護寺と高山寺の要請によって太政官符が発せられ、錯綜した寺領が明示され、その四至に膀示が打たれる。この時、神護寺領・高山寺領膀示絵図が作成される。
鎌倉期の伽藍が分かる唯一の史料という。
 高山寺領膀示繪圖:全図。重文。中央は高山寺伽藍、その左手上方に見える伽藍は高雄・神護寺である。
 高山寺領膀示繪圖・部分図:三重塔は裳階付の塔婆であったのであろう。 上の高山寺絵図と同一のものである。

〇「高山寺縁起」:嘉禎2年(1236)禅堂院十三重塔造立
 十三重塔が造立されると伝える。
 禅堂院十三重塔という名称あるいは造立時期から、明恵上人「追善」のためとも思われる。(推測)
なお、高山寺絵図の成立は十三重塔造立の前のため、絵図には十三重塔の姿は描かれない。
2015/12/27追加:
〇「十三重木造塔婆の造立例」足立康(「足立康著作集 3 塔婆建築の研究」中央公論美術出版、1987) より
 「高山寺縁起」には次のようにある。
「当東南角有十三重宝塔一基、在龕
右宝塔者、上人滅後、覚厳法眼依敬重彼遺徳、為奉安置上人年来本尊霊像。嘉禎2年造立之、大工末弘、」
上記の上人とは明恵上人を示す。
「後壁正面図絵楼閣曼荼羅、同後面絵図覩率曼荼羅、四柱絵図神変十六羅漢像、四角八方奉懸安八大師御影像・・・」
 明らかに、木造十三重があったことが分かる。

参考:
木造十三重塔が現存するのは多武峯妙薬寺の一基のみであるが、文献上 あるいは遺構の残る木造十三重塔は以下が知られる。
 山城笠置寺南都興福寺四恩院鎌倉極楽寺・山城高山寺・山城光明峯寺大和長谷寺大和菩提山正暦寺備前八塔寺

山城高山寺中世初頭の略歴:
〇「高山寺石水院について」杉山信三、昭和32年(「日本建築學會研究報告 (41)」所収) より

「高山寺縁起」「高山寺明恵上人行状」「施無畏寺明恵上人行状記」などを読むと、明恵上人時代の高山寺の様子は以下と知れる。
元久元年(1204)明恵上人、槙尾・梅尾附近に住居
建保3年(1215)明恵上人、高山寺西峰に練若台を造営、後、石水院も造営
建保6年(1218)明恵上人、賀茂仏光山に退居
承久2年(1220)明恵上人、石水院に還住、承久の乱を避け、賀茂に行く、賀茂には住坊と禅堂院とがあった。
承久の乱後、賀茂禅堂を梅尾に移し、住坊を建立、後この住坊は石水院に併合する。
嘉禄元年(1225)賀茂の禅堂院は新築され羅漢堂と称する。
安貞2年(1228)洪水により、石水院は毀されるも、賀茂からの住坊は残り、この住坊は今の開山堂附近に移り、かって賀茂で呼んでいた禅堂院と称した。

文明2年(1470)もしくは天文16年(1547)羅漢堂(賀茂の禅堂の後身)も焼失と思われる。
※当初の明恵上人住坊である石水院は明らかに退転し、現在には伝えられていない。

では、現在「石水院」とされる鎌倉期の建物は一体何か?
 以前より高山寺には五所堂と呼ばれる建物があり、それが石水院と呼ばれ、この建物は明治22年に今の場所に移建されるまで金堂の向かって右の高所にあった。(これを石水院と呼ぶため、石水院の遺構と目されるも、明恵上人の住坊は、前述のように、今に残ってはいない。)
論証は複雑なので、結論だけ云えば、この五所堂は東経蔵の遺構という結論になる。

嘉禄元年(1225)東経蔵、本は羅漢堂の東辺りに建立、羅漢堂建立の折、石水院西岸に移建(この堂が現存の「石水院」となる。)
安貞元年(1227)三重塔上棟<寛喜年中造畢>(「高山寺縁起」)
寛喜元年(1229)阿弥陀堂移立、西経蔵造営、宝殿(鎮守)西山に移転、大門造営
寛喜2年(1230)「高山寺絵図」成立
貞永元年(1232)明恵上人寂
嘉禎2年(1236)禅堂院十三重塔造立(「高山寺縁起」)
嘉禎3年(1237)堂塔千躰釈迦像開眼供養(「高山寺縁起」)

2019/09/26撮影:
 「栂尾山高山寺」ルーフレットには、中世の「高山寺繪圖」を見ると、金堂の左方に塔と鐘楼と鎮守社が、右方には阿弥陀堂と羅漢堂と経蔵が並んでいた状況が描かれる。いまにそれらの跡が残り、石水院の跡も残る とある。
いまにそれらの跡が残るという主体に左方の塔跡が含まれるのかどうかは、文脈上、明確でない。あるいは塔跡も残っているのかも知れない。
 しかし、残念ながら、高山寺は昨夏の台風で甚大な被害を受け、今も、復旧工事中であり、石水院の除く境内は一切立ち入りができない措置が講じられている。従って、塔跡が残っているとしても、その確認は、後日を俟たなければならない。
 石水院(国宝・鎌倉期)は中興開山妙恵上人寺代の唯一の遺構であり、明治22年現在地へ移建される。
しかし、この堂の創建時は経蔵と呼ばれ、それが後に住坊に改造されたものであろう。さらに、西部にはかっての春日明神・住吉明神の拝殿が連結され、今の形になったのであろう。つまり、今の石水院は春日明神・住吉明神の旧拝殿と住坊との合体した建物となっている。
おそらく正面は西側(旧拝所)であろう。つまり、その西面には一間の向拝が付設され、住坊である南正面は五間、東側面は四間となる。
堂は入母屋造、妻入り、屋根は杮葺き。蟇股、舟肘木、庇の縋破風などは鎌倉期の典型を示す。
 高山寺石水院1     高山寺石水院2
 石水院旧拝所1     石水院旧拝所2     石水院旧拝所蟇股1     石水院旧拝所蟇股2     石水院旧拝所蟇股3
 石水院旧拝所蟇股4     石水院旧拝所蟇股5     石水院旧拝所蟇股6
 石水院旧拝所斜格子建具1     石水院旧拝所斜格子建具1斜格子建具2
 石水院旧拝所舟肘木1     石水院旧拝所舟肘木2     石水院旧住坊南面     石水院旧住坊庭園
 石水院旧住坊高山寺扁額     石水院旧住坊軸部
 高山寺鳥獣戯画(複製)1     高山寺鳥獣戯画(複製)2     高山寺鳥獣戯画(複製)3
 高山寺鳥獣戯画(複製)4     高山寺鳥獣戯画(複製)5


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