去年の秋、ある人から珍しいものをもらった。差し渡し十五センチもある、大きな巻貝の殻である。色は白く、中心部に茶色のしま目のついた貝で、内側はすべすべと美しく真珠色に輝いている。何気なく殻の中に指を入れて触っていると、不思議なことに気づいた。巻いてゆくらせん状の内部は、何故か中途で閉じられているのだ。目を凝らすとたしかにもう一つ、奥に部屋があるのである。
早速、百科事典を出して調べてみた。やがてこの貝の名が”おうむ貝”であること、五億年も前に生息していた貝で、現在もわずかに生き残っていること等が明らかになったのだが、それより思いがけなかったのは、さきほど「もう一つの部屋」と呼んだ閉じられた部分は、実に「三十程もの部屋」であるということだった。この貝は自分の奥に、大小三十の室房を持っていたのである。
三十の部屋をしっかり奥の方に抱き込んで泳いでいた世界最古の貝。そして今は陸に打ち上げられ、砂に埋もれていく殻――。このはるかなイメージははからずも私の持っている遠いふるさとのそれにだぶった。
私のふるさとは、三重県の櫛田川のほとりにある。今は堤防が改修されて往年の川すじはしのばれないが、昔は美しい川が家のすぐそばまで流れてきていた。奥の手洗いの窓からは川端の桜が見え、やぶ林が見え、流れる川の音は一日中聞こえた。
古い田舎の家では、さすがに「三十程もの部屋」はないとしても、仏間や奥座敷などから小さい髪結い部屋まで十二、三の部屋あって、その中で祖父、祖母、父母、叔母たち、子どもたちなどの大家族がいっしょに暮らしていたのである。
祖父のことは私のごく小さい時に亡くなったためか、よくは知らない。祖母はいつも奥座敷の隣の二畳の間で帳簿をつけていた。でなければ、仏間か台所にいた。叔父の書斎は母屋の前に建てられた新座敷の、たしか二階にあったように思う。一番小さい叔母は女学校の制服を着たまま、ミシン部屋で体操服を縫っていたのを覚えている。私の記憶では、家族たちにはそれぞれふさわしい部屋があったのである。個室はあったわけではないが、それぞれが自分の持ち分をていねいに受け持っていたのだ。彼らがいなくなっても、しばらくはその部屋にゆくと声が聞こえ、衣ずれの音がして、においともつかぬにおいがふっとただよっていた。
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九年前に出した詩集『いまは誰もいません』の中の「川の家」で、私はこの家の遠い記憶を私なりに再現してみたつもりだった。そこには、たしかに一つの郷愁のようなものがあった。だが、今私が書こうとしているふるさとの家は、それとはかなり違ってきていると思う。過ぎ去っていった年月が、すでのもう大過去になってしまったからだろうか。残されたたくさんの部屋は寒々として、見知らぬ風ばかり吹き抜けてゆく。
薄暗い階段の下で。戸棚を探しています。ようやく探しあてて。中の闇をかきまわしていると。戸棚の奥に。もう一つ。戸棚があるのです。小指を手かけに入れ。そっと開けます。濃密な闇が指のまわりに。辷りこんでゆきます。すると。また奥の奥にもう一つ。小さな戸棚があるようなんです。
自作「眩しい闇」より
寝間にはうす暗い黒い戸棚や、階段たんすなどというものがあった。引き出しには下着やひもを入れたり、戸棚にはあられや、かきもち、黒砂糖などを入れる。そこを開けるのは女たちの特権だったが、今はその上を壁が塗り込めてしまって見ることも出来ない。私たちはただ見えない戸棚の奥からとり出した「無の僅かな匂い」(同・自作より)をかすかにかぐだけなのだ。
一体、「ふるさとの家」とは何なのだろう。大家族が住んでいた家は、すでに絶えてしまった。家族は小人数になり、その息子たちも今は外へ出てしまって帰らぬという家も多い。
お正月にあると、私は子どもを連れて田舎へ帰る。老父母はまだ健在だし、子どもたちも懐かしがるが、それでも三日を過ごすと彼らは暇を持て余してくる。ふるさとは、ここで幼年を過ごすことのなかった彼らにとって、ひきつける何ものもないからだ。彼らのふるさと――それはもう田舎にはなく、ごみごみした4DKにある。こぢんまりした都会の家にある。ふるさとの概念も少しずつ変わってゆく。恐らく二つか三つの部屋が、彼らの幼いころを織り出して残してくれるだろう。きっと、それでよいのだ、と私は近ごろ思うようになった。
ただ私は考えている。私だけは帰ってゆかねばならないと。年とった父母のこともあるが、むしろ私自身のために、この「ふるさとの家」を最後にしっかり見届けたいと思う。がらぁんとした大きな古い家。その部屋や廊下にじっと立ち止まっていると、遠くなった川の音がまた聞こえてくるかもしれないのである。
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