表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
九月のレタス


 「高原のレタスは何故柔かいのでしょう」
  テレビのクイズ番組で、アナウンサーが解答者たちに尋ねた。正解者がいたかどうかはちょっと覚えていない。答えは、
  「高原の霧がレタスを柔かく包むから」
で、あった。
  高原のレタス、と聞いただけで爽涼の大気がすぐそばに感じされ、何となく心が騒いだ。だが30分の番組はすぐすすんでしまう。そのまますっかり忘れていたが、夏もすぎて九月の声を聞いた頃である。主人が急に、「週末に八ヶ岳あたりにでもいってみようか――」と言い出したのだ。あのあたりの高原といえば、蓼科か、中央高原であった。
  その朝は早く自動車で出発した。中央高原道路を東北に進み、8キロもある恵那山トンネルを通って、北上する。
  駒ケ岳を左に見て朝食、そして伊那へ。そこから高速を離れて、高遠への道に入る。
  桜の高速もシーズンを過ぎると平凡だ。有名な高遠まんじゅうの店も横に見て、そのまま来るまで素通りしてゆく。それからは緑に染まった杖突街道の長い登り坂だ。
  杖突峠にさしかかったところで、急に風が来たように感じた。澄みきった、まさしく秋の風である、樹々の葉に日の光がまぶしく揺れている。土曜日というのにあたりに人の影もないのは、もう休暇の季節が終りを告げたからであろうか。
  峠を下りてから東に、茅野市へと向かった。このあたりから八ヶ岳の姿が大きく顕われはじめた。なだらかだが八つの峯を網羅しての威容はさすがにすばらしい。曲るごとに変容するその姿に、私たちは思わず声をあげた。
  やがて原村(はらむら)に入る。白樺、から松、ぶな、などの落葉樹の森の間から、こぎれいなペンション村が見えてくる。
  道ばたにはいくつかの山ぶどうがやや黒ずんでぶら下がっていた。そのそばで、白っぽい小さな花がつる状の葉の間にからまっているのが見える。「あれがホップ。ビールを作るときに入れる苦みだ。もっともあれは野性のだけれどね」と運転しながら主人が教えてくれた。


  と、急に目の前で大きな羽ばたきがした。車をあわてて止め、見ると、目の覚めるような紅い頭と緑の羽根、雉であった。あ、もう一羽、めすもいる。私たちが声をあげても、一向に驚くようすもない。ゆうゆうと連れだって森のしげみの中に姿を隠した。あとはただ名もしれぬ鳥の声が遠くの空でするばかりである。
  森の道を出ると、急に牧草地が開けた。
  一面、ひろびろとした牧場である。れんが色のサイロの下では、生れたばかりらしい子牛も入れて、五、六頭の牛がのんびりと草を食みつづけていた。
  さて、どれだけ走ったろうか。
  ふと見ると、森の一角を切倒した明るい所に、小さなレストランがぽつんと建っている。白いペンキ塗りの、だれも来ない小さな料理店。わずかに黄ばみはじめた庭先の小ならの木々。まるで宮沢賢治の童話そっくりだ。昼食をまだとっていないのに気がついた私たちは、早速そこに車を止めることにした。
  中に入って、流れてくるバロックを聞き流しながら、私たちはビーフカレーを注文したのだが――しばらくしてウェイターの運んできた大盆の上を見て、私はあっと思った。カレー、ライス、そして大きなガラスのサラダ鉢に、レタスが盛られていた。すっかり忘れていた、あの高原のレタスが。レタスはこんもりと、柔かそうに、大きな渦をまいたままただそれだけが盛られていたのである。
  からしのぴりっときいたドレッシングも、添えてあった。
  いわばただのサラダだったけれど、私たちには大自然の息吹きがそっと置いていってくれた、ぜいたくな一皿のような気がしていた。

 いまでも時々思い出す。陽に輝いた八ヶ岳を、から松の林を吹く乾いた風を。そして白いレストランでは、いつも薄緑のレタスが出る……。

(『あじくりげ』83年9月号)