表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
歩く


 久しぶりに広小路を歩いた。いつもなら地下鉄や車で素通りしてしまう納屋橋のあたり。狭い運河の汚れた水面が、夕陽に赤い縞目になっているのを見るのは、ほんとうに何ヶ月ぶりだろう。錆びた橋の生暖かい手摺りを、子供のように掌で触ってゆきながら、ペーブメントの欠けた台石に躓きそうになりながら、長い間忘れていた歩く手ざわり(?)を思い出していた。私にとって歩くというのは、こういう手ざわり、足ざわりなのである、時間を気にしながら流れる車の間を縫って必死に進むのは、歩くのうちに入らないのである。ニューヨークの五番街が歩行者のために解放されたとき、靴を脱いで裸足で歩いたという人の気持が、とてもよく判るのだ。


  広小路を歩行者天国にしようという動きに対しては、種々もっともな異見があるけれども、休日のムンムンする歩道をぎっしり埋めて歩いてゆく人の波にもまれていると、例え週に一日でもいい、人々が狭い地下街から地上に蘇る日があるべきではないかとつくづく思う。私なら、あの厄介者扱いをされている路面電車を残そう。よくミュージカル映画などに出てくるような、動き始めた電車にでもひょいと飛び乗れる位のノロノロ運転にして、歩き疲れた人や老人子供たちを乗せる。ビルの下には、懐かしい屋台が復活するだろう。屋台はむさくるしいものとは限らないので、とりどりのしゃれたテントの廂を出した古本屋、花屋。ポスターを売る店、鉛筆の店。ハンケチの店。夏なら金魚屋、かき氷の店。街路樹の隣のテントをのぞいたら、誰かが絵の展覧会をやっていた、ということもあるかも知れない。こういう屋台や雑踏には、そして電車のガタンゴトンという音には、やはり妙な言い方だけれども、歩く手ざわりがあると思うのである。

(東海ゆうびん。70年8月15日)