五歳の次男。この春、念願の鶏を飼い始めた。二羽のうち、一羽はネコにとられたが、一羽は無事成育して、八月の初めには早くも卵を産むようになった。毎日自分が世話をした鶏の、まだ暖かい、初めての卵を手にした次男の、喜びにはちきれそうな顔。得難いこの一瞬の喜びを、とうとう子どもは自分のものにしたのだ。だが、その卵をいつまでもしまって、なかなか出そうとしない。どうしたのかと聞くと、売るのだという。「売ってもうけるじゃん」と言うのである。
このようなことは次男に限らない。金銭には淡白なはずの長男も、自分で描いた絵本などを見せにくるたびに「これを出版したら、いくらぐらいになる?」と言う。こんな時、世の母親たちはどのように答えているのだろう。現代っ子だからと、簡単に割切っていいものだろうか。
私は、子どもが金銭に強くなるのを悪いとは思わない。ただ、お金より価値あるものの存在に、子どもが気づくように仕向けるのが、母親のつとめであると考える。数日後、田舎へ遊びにゆくことになった次男が、おばあちゃんにあげるのだと言って、産みたての卵を紙にくるんで小さな包みをこしらえているのを見た。これでいい、と私は思った。包みを開けて喜ぶおばあちゃんの笑顔が、子どもの心にまた何か一つを加えてくれるに違いない。
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