表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
ふるさとの味


 今ではもう、テレビに出たりマンがになったりしてすっかり有名になってしまったが、トーべヤンソンのムーミン一家がまだ紙面に出てまもない頃、私たちは、かの「おさびし山」や「川」が、故郷の地図にあまりに似ているのにびっくりしたものだった。
  海は少し遠いが、山も森も川も、そっくりなのである。
  私の家はちょうど川が分かれて一方のゆるい流れに入ってゆく支流にあり、そこからはムーミン一家のように川も森も山も一度にみることができるのだった。
  考えてみれば私たちの故郷の家は、田園の一ばん理想的な所にあったのだろう。
  その部落も今では自動車あり、サラリーマンありで、ずいぶん変わってしまった。ただ、あの変わらない山と川をじっとみていると、ここに生れ育った生活は、まだけっして死んではいないという気がしてくる。
  春になれば子供たちはつくしを摘みにゆく。裏の庭には蕗(ふき)のとうも芽を出しているかもしれない。夏はずいぶん少なくなったけれど、夕べの蛍がなつかしい。明け方の川舟にはアユがおどっているだろう。秋はきのこと柿と栗だ。テレビでマンガをみながら、子供たちはとってきた果物にかぶりつく。
  さて今、五月はわらび、ぜんまいである。小さい頃、かの「おさびし」山にわたしはわらびを摘みにいったものだった。若いのを選んで灰汁につけて、煮る。町の八百屋に出ている程そろっていないし、色もまちまちなのだが、とにかく新しい。なんといっても、半日かけずりまわってきた山の記憶が夕べの食欲をそそる。
  去年は郷里へかえって、久しぶりに山の方へ出かけてみた。少し遅かったのか、前にいった所にわらびはなかったが、ちょうどぜんまいが出はじめで、あちことに羊歯のあいだから芽を出していた。白い毛をかむって茎の先にちょっと出ている。わらびより太いが、たけが短く、輪の字型にしっかりと巻いているのがいかにも可愛い。これも灰汁でゆがいてそのあとを煮たり干しものにしたりするのである。


  たけのこはもう少し遅く出てくる。山のなかほどに名もしれない藪があって、私と従兄たちはそのころになるとそっとここへ登りにいったものだ。「そっと」ということを覚えているのだから、やはりこれはどこかさる人の竹薮だったのかもしれない。地面にようやく顔を出したのをみつけて、開墾ぐわで掘る。まわりからシャベルで掘り起こしてゆく。大きな三本をわらびで結わえてもちかえる頃は、もう草深い藪のなかに洩れる日が傾いて、足もとが急に肌寒く感じられたのを思いだす。
  もう少しあとになるが、やっぱりこのあたりに「さんきら」をよくとりにいった。「さんきら」はユリ科の多年生灌木。刺のあるだえん形の葉をもっていて、その葉がまんじゅうなどを包み易いために、野上がりの時期が近くなると子供らを使って山へとりにゆく。そうたくさんあるわけではないから、子供たちは一生けんめいになってとる。それが集まるといよいよ野上がり(田植えが終ること)だ。朝早くから小麦粉で練ってあんを入れ、この「さんきら」二枚の間に入れてはさむ。それをせいろで蒸すのである。
  蒸したての野上がりまんじゅうを手にとると、ほかほかのゆげが手のひらを包んで、「さんきら」の葉の匂いとが重なり、みるからにおいしそうだ。このまんじゅうがたのしみで、私たちは田植えの手伝いをしたものだった。きいてみると今でも野上がりの時期になると皆でやる家があるそうである。
  「危ないことをせんときやぁ」というお母さんの声を遠くうしろに、小さなシャベルや竹の籠をもった子供たちが、わが「おさびし」山を「森」を今もかけめぐっているかもしれない。

(『あじくりげ』73年6月号)