久しぶりで出て来てくれた父に、インスタント・コーヒーをいれていたら、「やあ、うちと同じ味か」といわれてしまった。父はもちろんじょうだんの調子だし、私も笑ってすませたが、考えてみれば、これはなかなかしんらつな言葉である。
一日に数軒の家を訪問して、どの家ででも同じ味のコーヒーをもてなされ、うんざりしてしまった人の話もきいた。もっとも、インスタント、ということ自体には、便利と思いこそすれどうこういうつもりはない。
問題はこの、どこでも同じということにあろう。こと食物に限らず、今日では、特別な場合を除いて、人人の生活はたがいにかなり似通ってきている。
同じように手狭だが文化的なにおいのする住い。同じような電化器具。本だなにはどこも同じベストセラーが並び、テレビは同じ番組を流している。そこで同じようなはやりの着物をきて、同じような味のコーヒーを飲む。違うのは、そこに住む人の中身だけだといいたいが、実はその中身すら、いつのまにか隣人と似たような発想、似たような考えで詰まっているのだ。同じような言葉で政治を論じ、社会を論じ、芸術を語る。こっけいを通りこして何かぞっとさせる光景ではないか。
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