近ごろは、どこのデパートにも高級品売場というのがある。特売場のけんそうから出てきた身には不気味なほど静かで、人影もまばら。目の保養にでもと粋と贅をこらした陳列品をみて歩くが、伏せてある価格が時に表を向いていたりすると、このぜいたくの豊かな静けさも、しょせん、われわれとは別の世界と思わざるを得ない。
十年ほど前、私が奈良で下宿をしていた家のあるじは、かなりの地位の人であったにもかかわらず、町でも一番古い三間きりの家に住みその生活は地味で、調度も衣服もきわめて質素だった。広くもない庭は畑に耕され、鶏小屋がたっていた。あるじの唯一のぜいたくは神仏像の蒐集だったがそれも大方は博物館に預けておき、自分はその時々に見たいものを出してきて楽しむ、といった風であった。
ある時、私は一対の古い木彫の神像をみせてもらったが、その半ば欠けた、素朴な彫りの顔には、何ともいえない豊かな静けさがあって、あるじのそれを愛する気持がわかるように思ったことがある。
私は、その家の屋根裏に住んでいた。天井も畳もない狭い部屋だったけれど、かしいだ窓からは、東大寺の屋根と三笠山の端の月が一望に見えて、これほどの贅はないと思った。ほんとうのぜいたくとは、どうやら心の問題であるらしい。
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