表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
私と詩と


 八月のあの日、大人たちのかたくなに押しだまったような茶の間から急に飛び出した私はいきなり階段をかけ上りながら、二階にいる妹たちに向かって大声で叫んだのだった。
  「負けたんよ。みんな、死ぬんよ」
  けれど、どうして「みんな死ぬ」のか、何もわかっていなかった。あるいは、いつかの新聞にどこか玉砕の記事が出ていて、それが反射的に口に出たのかもしれない。けれど私自身、日本が負けることがとても信じられなかった。二階からも茶の間からも物音ひとつしない中で、ふいに私の声だけが異様に聞こえてきて、思わず口をつぐんでしまったのを覚えている。
  私の十三歳の夏のことである。
  日本がほんとうに負けたのだということも、けれどもどうやら死ななくてもよいのだということも、おぼろげにわかってきたのは、それからしばらくたってからのことだった。
  昼間は学校へいって畑仕事をした。松阪は空襲で焼けなかったので、焼け跡の始末は免れたが、それでも夏のむんむんする草の中に立っていると、なぜかそれはいつまでも血のにおいがした。けれど、夜になると家族がそろい、ほっと一息をつく。一日中、何事も起こらないことが本当にあるなんて! 私は、古びたノートを前にしながら、もう今なら何でも書けるんだと何度も思ってみたが、いつも何も書けずじまいだった。たまに書きかけても、それはやたらに(!)の多い短文ばかりで、文や詩というものには程遠かった気がする。
  私がようやく一人前の足どりをたどりはじめたのは、それからほぼ二年あとである。世の中は、貧しいながら、何もかも活気にあふれていた。町には洋画の看板が大きくかけられ、闇市が堂々と店を出して並んでいた。
  女学校は四年で閉鎖になり、あちことに教室を転々としたのち、私はいきなり高等学校の二年に入れられていた。建ったばかりの校舎は新しかったが、立派とはとてもいえなかった。粗けずりの木造で、窓はガラスの代わりに金網がはってあり、あけるたびに教室にひびいた。教室の数が学級よりも少なかったので、いつも二クラスは階段で勉強をしなければならなかった。
  けれど、この高等学校を決して忘れることは出来ないだろう。私たちが真剣に先生の講義に聴き入ったのは、そして自分というものを意識的に考え始めたのは、終戦後、ほとんどこれがはじめてだったからである。それに、私たちは十五歳だった。男女共学制がしかれ、私たちはマルクスだの河上肇だのと、生意気にも論じあいながら、木綿のほこりっぽいシャツに下に熟れはじめている木の実をかすかに意識していた。
  町はずれの本屋にはじめて本が出始めていた。昔のぞっき本や古い映画の本などにまじって、泉貨紙(くず紙を原料として作った紙)のにおいも懐かしいジイドの『狭き門』や、そこで萩原朔太郎の名をはじめて知った『近代詩解釈』などの本が出たのも、このころである。


  この少し前から私は、詩らしきものをノートに書きしるしていたような気がする。女学校のころ、親井修という人がいた。確か国語の先生で、放課後に現代詩の講義をしたり、生徒の文集を作ったりしていらした。私は、この先生に非常に啓発された。はじめて自分の作品が『詩表現』という雑誌にプリント刷りでのったとき(その時の感動を今でも覚えているが)題も内容もほとんど思い出せないままに、詩の中に「ガラスのように青い」という一行があったとぼんやりと記憶している。
  十七の時、私は大学に入った。専攻は現代文学、ゼミでは萩原朔太郎を、卒論では『近代詩の隠喩』を選んだ。卒業まぎわにかかった結核のため、就職をあきらめねばならなかった私は、親井先生の紹介で、当時松阪にいらした中野嘉一氏の『暦象』を知るようになった。私は、そこでイマジズムや新即物主義などの新しい現代詩をどんどん吸収しながら、やはり朔太郎あたりの韻律からどうしても抜け出せなかった。
  三十年に結婚して岡崎にすむようになった私は、小さな詩集を出した。小さな子供をかかえた二間のアパートの玄関に、急に二百部の詩集が届いて、紙のま新しいにおいに、とまどいながら、やはりうれしかった。「自分が忘れられてしまったのに/すべてが感じられるようなはりつめた/透きとおった輪の中で/ためらいもなく生きはじめる」と、不安ながら愛の賛歌を書いている。
  それからほぼ二十年が、月並みな言葉だけれど、夢のように過ぎていった。子供も成長し、夫も私も、いつかもう若いという年ではなくなっていた。健康な三人の子供たちと誠実な夫と、小さいながらも和やかな家庭にめぐまれて、その意味では私は幸福だった。けれど、三冊目の詩集を出したあとから、私の筆はだんだん進まなくなっていった。「何か、もっとかかなければならないことがある」一作つくるごとに私は思った。私のいちばんかかわりのある、あるいはあった人々について、事物について、こんどこそ書くべきではないか。
  去年出した『いまは誰もいません』は、前の詩集から八年もたっている。詩集の題にもあるように、ここではほとんど過去の人々がとりあげられ、思い出としてではなく、いまいるように語られているのである。詩をかきはじめてから約三十年、私はここではじめて過去をふりかえったのだ。と同時に私は、ほんとうの私の姿もこの中に見たように思った。それは、まだかすかな影を投げているだけだったが……。
  こうして書いてくると、戦後三十年といっても、ほとんど何もやってきていないという感じがする。終戦の年にノートを前にしていつも何も書けずに終わった私、あの自由を前にした不安が、今もなお私を前方にかりたてているのかもしれない。ただ、この机にのった四冊の詩集、軽いけれど、これだけはやはり私のものだ。そっとひざの上におくと、かすかに心が休まるような気がするのである。

(『中日新聞』50年8月13日)