長い病がようやく癒えて、家でぶらぶらしていたころのこと。私は懐かしい人の電話を受けていた。三十年ほどほとんど行き来のなかった、私とは一つ違いのいとこからの電話である。
数年前から名古屋に来ていると聞いていたが、お互いに何かと忙しくそのままになっていた。彼女の二男は生まれつき脳性まひだったため、かなり苦労をしていると、これもどこからか聞いていて、そのこともかえって私をいとこの所に行きにくくしていたのかもしれない。
ところが、その二男が、なんと私のすぐそばの養護学級に通っているというのである。いとこもつい最近そのことを知ったらしく、私への見舞いかたがた、ぜひあいたいという。私はもちろん喜んで電話を切った。ただ、いちまつの不安はないでもなかった。二十年も遭わなかった私たちである。どのように自然にお互いの人生の違いを受けとめたらいいのだろうか。病後少し神経が過敏になっていた私には、そのことがいささか気がかりであった。
ところが初めて私の家を訪れたいとこの様子を見て、私はとまどった。不思議な話だけれど、彼女は娘時代とほとんど変わっていなかったのだ。目は相変わらず大きく、髪は長く三つ編みにしていて、若々しくみえるのはそのためだろうか。彼女はあいさつもそこそこに、早速お土産にもってきてくれた自家製のマーマレードの作り方を教えてくれたが、それが二十年ぶりの対面なのであった。ちっとも昔と変わっていない、私はまた思った。
もちろん彼女は自分の子供のことも話してくれた。子供は絵が好きだという。このごろは私もいっしょになって、競争をして描いている、とても楽しいと。彼女の話を聞いていると、なんでも満遍なくやれる型どおりの子供よりも、ただ一つ絵だけを懸命にかいている少年の方が、なぜか優れてみえてくるのだった。といって彼女は自分の子を殊さらに持ち上げて言ったのではない。彼女の淡々とした、他人のことを話すような物の言い方は昔と同じだった。ただ彼女は、子供は何ができないとは言わず、何ができるのだ、と話してくれたのである。
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しばらくしてその養護学校で卒業展があった。主人と二人で行ってみると、少年のかいた絵がかなりのスペースで机の上に並べられていた。
子供の絵もなかなか面白かったが、とりわけ心をひかれたのは、そのそばに母親であるいとこの感想文が、一つ一つに添えてあったことだ。ごく小さい時から最近のものまで、その絵にまつわるさまざまの日常が、ユーモラスな筆致で克明にかかれている。昔のままのきちょうめんな字体で、それでいて少しも押しつけがましくなく、彼女自身楽しんでいるようで――その間には障害児の親としてどんなにかつらい日があったろうに――私は目が熱くなった。親だから当たり前だということもできるかもしれない。それでもいとこのたくましく、前向きの見事な、ほとんど美しいといえる姿勢に、私は感動したのである。
私も身体障害者の一人である。もともと性格に楽天的なところがあって救われているのだけれど、それでもいうにいわれぬ悩みに、つい打ちひしがれてしまうことがある。そんな時私は何ができないではなく、何ができると思うことにしている。私の主治医は、右手が動かないと悲観している私を見て「左手があるじゃないですか」といった。「字だって練習してごらんなさい。いい加減の両手使いよりもずっといい字がかけるから」主治医は何の気なしに言ったのだろうが、私はその言葉にとても勇気づけられたのを覚えている。
先日、いとこの家族と、偶然信州路のドライブインで出会った。絵の好きな少年とは初めての出遭いであった。彼はまぶしそうに桜の木の下に立っていた。もう大きくなって職業についているらしかったが、優しそうな父や兄、そしてとりわけ若々しい母親に囲まれて、彼の笑顔は明るく、さわやかだった。
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