表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
乗客ひとり


 Kさん。
  今日で三月も終りという日。思い立って田舎へ帰りました。
  松阪の駅から三時間に一本というバスに揺られて。いつか乗客は私ひとりになり、たんぼの中の停留場におりてふと気がつくと、あの神山(こやま)さん(山の名)の麓の桜が寒そうに、でももう咲いていましたよ、夕焼けの中でね。
  あの桜が咲くころは、今年もやっと春がきた、いかにも平凡ですけどやっぱりそんな気持です。よく「木の下に死人がつまっている」などというけれど、この田舎の桜には似あわない。木も土のくれも私たちも、どこかに一しょになって育ってきた、そんな感じがあるからでしょうか。ここで生まれた人達が皆ちりぢりになっていても。

 田舎の我家はもう長いあいだ留守。ときどき私が留守番にやってきます。二重になっている鍵をまわし、私と、それからいっしょに入ってくる小さな風のために、くぐり戸をあけてやります。誰もこなくなって久しい庭を、いつかた咲いているのか、蓮翹(れんぎょう)の眩しい黄色があたり一めんを満していました。
  八畳、八畳、六畳、八畳、四畳半。そしてがたぴしいう曲り廊下。納戸、戸を開け放つと、裏の藪でホーホケけキョと、鶯が鳴きました。いつまでたってもホーホケケキョと一音多く啼いてしまう鳥のことを、ずっとまえにだれかから聞いたという気がしました。(それとも夢の中でだったでしょうか)

 六畳の居間。私はここで仕事(?)をします。仕事といっても、本を読んだり、見知らぬ人から送られてくる詩集をひもといたり、御礼状をしたためたりします。
  ここに帰ってゆっくり詩集を楽しむこと、去年の夏覚えました。どこからも中途半端な距離の岡崎よりも、三時間に一本のバスしか通わない松阪の田舎の方が、よく耳がきこえるような気がするのです。(東京だったらあの地下鉄の中でのように、私などツンボになってしまうのでしょう)


  この頃の詩集は目で読むものが多くて、それはそれで面白いものですが、やはり私はこの人の内側の声をききたい、そう思うときがあります。そんな時、この空気の澄んでいる所へやってきます。すると耳がふしぎによく聞えます。よく知っている人はもちろん、お名前だけで顔をしらない人の声も、きこえる時があります。友達もとうにいなくなった田舎ですけど、昼はうぐいす、夜はいくたりかの人のかすかな声に囲まれて、淋しくはない、そう思ったりするのです。

  Kさん。
  私は相変わらず「エスキス」を書いています。貴方たちの言葉では「デッサン」とか、「素描」とか言うそうですが、要するに何を書いてもいいのだと思います。もっとも私のはもっといい加減の「出来つつあるもの」、けれど「まだ何でもないもの」だからまた「何でもあるもの」なんです。病気をしてから、詩というものが恐ろしくて、出来なくて、仕方なく「エスキス」からと思って始めました。それは大病をしたあとのはじめての「私」であり、はじめての「もの」であり、それはそれでちゃんとした存在理由をもっていました。このごろそれが何となく怖くなってきたのです。「はじめてのもの」なんてきっと一回、せいぜい十回位でいいんです。「はじめてのもの」をずっと書き続けるのは、なんてむずかしいのでしょうか。
  貴方はどのように考えていますか。「いいデッサンが出来た、と思った時はもう終りだ」いつかそんなことを言っていた事がありましたっけ。

 急な階段をのぼってゆくと、二階のくらい窓から草原が見え、ぼんやりした川が見えます。そのずっと向うに、うす墨をはいたような鉄橋。今、小さな灯をつけた汽車が音もなくわたっていきます。汽車が神山(こやま)さんの麓にかくれてしまうと、急にあたりが暗くなりました。
  もう、仕掛けておいたお米が炊けたころです。それよりも早く戸を締めなくてはなりません。
  Kさん。お元気で。ときどき、思い出して下さい。そのときはきっと、私はここにいますから。

(『詩学』79年7月号)