表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
コーヒー挽きのこと


 コーヒーといえば、ずいぶん昔、こんな映画を見たことがあった。
  それは西部劇で、数人のカウボーイたちが大勢の牛を追いながら何日も旅をつづけている。
  日が暮れると男たちは家畜をねぐらに追い入れ、曠野にテントを張って火をたく。
  パチパチといぶる炎の上で湯がわき、コーヒーがこされ、火を囲んだ男たちはそれをめいめいの大きなブリキのコップに注いで、黙々と飲むのである。
  今のことばでいえばカッコイイとでもいうのか、とにかくそんなコーヒーの飲み方がひどくうれしくなってしまった。
  プリキ缶のコーヒーなんぞ、きっと煮出し豆の苦いだけのシャブシャブしたものとは思うけれど、そこにはシャンデリアの下で名曲とやらを聞きながらのコーヒーにはそうしても味わえない、ほんものの苦さがあるような気がしたのである。

 コーヒーにはどこかしら孤独で、原始的なふんい気がある。
  太陽とか森とか、荒れ野、草いきれ、汗――そんなものの混ざりあった手ざわりを、あの乾いた小さな豆はもっている。
  その豆をゆっくり時間をかけて挽くとき、カリカリという音のなかから、人間がとうに忘れてしまっているそんな遠い風景がみえてくる。香ばしい匂いが部屋中に溢れて、シュンシュンとたぎる湯の音に混ざる。何を考えるでもなく、何を忘れるでもないひとりきりの時間――。
  いっとき仕事から、日常から解放され、快い疲れと放心をたのしみながら、そのわずかなあいだは、私も、火のそばで暖まりながら黙々とコーヒーをすすっていたあの映画の主人公になれるのである。

 だからどんなに忙しくても、店の電気挽き機で、ジャーッと挽いてもらってくる気にはなれない。私には、豆挽きはコーヒーのたのしみの半分なのだ。それでどうしても、コーヒー挽きの機械に、ぜいたくを言うことになる。


  はじめの頃、わたしは市販の、金属とプラスティックで出来たコップ様のを使っていた。けれどもそのいかにもシャれてみたようなデザインも気にくわなかったし、全体の造りがチャチで、どこにおいても不安定で挽きづらく、手でにぎりこんで使うにしても落着かなかった。ものの本によく載っているような、古めかしい木製の箱に、銅の臼がついているものが欲しかった。今はデパートでもいろいろ好ましいものが売られているが、当時はなかなかみつからなかったのである。
  それで、ちょうど主人が木彫をやっているのを幸い、ありあわせの板で引き出しのついたしっかりした四角な箱を作って貰い、それに市販の、丈夫そうなブリキの臼の丸い上部をはずしてとりつけた。
  ところでその板は、偶々かなり上質の欅(けやき)だったので、それをざっと拭きうるしにして出来上がったコーヒー挽きは、ちょっとどこにも売っていないような、風変わりだが堂々としたいい味のものになった。

 何よりいいのは、しっかりと床や机に安定すること、それから挽き応えがあるというのか、臼を廻すときいかにも挽いているという感じがするということである。
  機能的にも工合いがいいのだろうが、欅の肌の、荒く流れてしかも落ちついた木目の感じからもくるのだろう。何よりも手づくりという感じがぴったりなのである。
  我家ではこの手のコーヒー挽きを、四台ほど造った。気に入って、どうしても欲しいという人があったからだ。はじめからコーヒーの好きな人もいたが、そうではなくて、この挽き機に先に惚れて、それを使うようになってからコーヒーが好きになったという人もいた。
  だからコーヒー好きといっても産地や銘柄がどうの、あの店はどうのといううるさ連ではない。ただ静かに燃える火の側で、カリカリという豆の音を楽しむ人たちである。


(『あじくりげ』72年5月号)