表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
ある記憶


 女だから、五月といえば着物のセル。
  セルといえばあの西洋館のおばさんを、そしておばさんの焼いてくれたパイを、いつも思いだすのでした。
  いまから三十年も前のことです。
  おばさんがいつもセルを着ていた、なんてあるはずがないのですが、しかしそういわれてみると、彼女がセル以外のものを着ていたというのも、やはりありえないことでした。
  「さあ、さあ、三時、三時よ。」
  お菓子が焼けると、待っていた私と妹に、おばさんは歌うようにいいながら、黄色いパイをまな板の上に並べます。そして適当に冷えたパイを、ひとつずつ切ってわたしてくれるのです。
  ナイフで一切れ切るごとに、下を向いたおばさんの衿元から、あまいよどんだ匂いがかすかにしました。そう、セル。桃色とねずみ色の淡い格子のなかに、木綿のレエスの半衿が見えかくれして、私たちはいつも夢ごこちでこの長い一ときをすごしたものです。
  おばさんの家は私の家と一つ小路へだてた雲雀が丘の奥に立っていました。私たちが遊びにゆくと、松林の裏にその青いペンキの西洋館はひっそりして、いつも長いあいだ留守をしているような感じがしました。体が弱かったおばさんは、三日に一日は仄暗い部屋にねて、本を読んでいるようでした。窓はいつも締めてあり、ヒヤシンスの枯れて冷くなったのが枕もとに、幾日もそのままにしてあったりしました。


  けれど気分のいい時は起きて、南十字星の話をしたり、西洋人形が彫ってある銀の蓋をしたオルゴールをかけてくれたり、例のお菓子を焼いてくれたりしました。おばさんはハワイ生れだったのです。子供は、ありませんでした。
  お菓子を作るとき、おばさんはいつも英語で歌をうたいます。上手いのか下手なのか判らないでいるうちにその歌は終ってしまい、「もっと」というと「だめだめ」といいながら、また小声で歌い出すのでした。
  当時はもう戦争が始まっていて、小麦粉はどうにかありましたが、お砂糖もバターも切れていました。おばさんは砂糖のないパンを天板にいれて焼きました。クリームも果物もないのでごはんを入れて。
  おこげのごはんの入ったパイを、さびて赤くなった天火にいれ、枯枝を少しずつもやしながら、遠いハワイ生まれのおばさんは何を想っていたでしょうか。
  ところで、私はこのパイの味の記憶がないのです。あれほど私の幼年をいろどってくれたお菓子なのに。ただあの匂いだけが私の胸深くしみて、それがおばさんのセルの匂い、病気の匂い、すえた遅い春の匂いなどとまざりあって、渾然としているのです。
  あれから三十余年……。
  古い西洋館も、そこに住む人も、とうになくなってしまいましたが。

(『あじくりげ』75年5月号)