女だから、五月といえば着物のセル。
セルといえばあの西洋館のおばさんを、そしておばさんの焼いてくれたパイを、いつも思いだすのでした。
いまから三十年も前のことです。
おばさんがいつもセルを着ていた、なんてあるはずがないのですが、しかしそういわれてみると、彼女がセル以外のものを着ていたというのも、やはりありえないことでした。
「さあ、さあ、三時、三時よ。」
お菓子が焼けると、待っていた私と妹に、おばさんは歌うようにいいながら、黄色いパイをまな板の上に並べます。そして適当に冷えたパイを、ひとつずつ切ってわたしてくれるのです。
ナイフで一切れ切るごとに、下を向いたおばさんの衿元から、あまいよどんだ匂いがかすかにしました。そう、セル。桃色とねずみ色の淡い格子のなかに、木綿のレエスの半衿が見えかくれして、私たちはいつも夢ごこちでこの長い一ときをすごしたものです。
おばさんの家は私の家と一つ小路へだてた雲雀が丘の奥に立っていました。私たちが遊びにゆくと、松林の裏にその青いペンキの西洋館はひっそりして、いつも長いあいだ留守をしているような感じがしました。体が弱かったおばさんは、三日に一日は仄暗い部屋にねて、本を読んでいるようでした。窓はいつも締めてあり、ヒヤシンスの枯れて冷くなったのが枕もとに、幾日もそのままにしてあったりしました。
|
けれど気分のいい時は起きて、南十字星の話をしたり、西洋人形が彫ってある銀の蓋をしたオルゴールをかけてくれたり、例のお菓子を焼いてくれたりしました。おばさんはハワイ生れだったのです。子供は、ありませんでした。
お菓子を作るとき、おばさんはいつも英語で歌をうたいます。上手いのか下手なのか判らないでいるうちにその歌は終ってしまい、「もっと」というと「だめだめ」といいながら、また小声で歌い出すのでした。
当時はもう戦争が始まっていて、小麦粉はどうにかありましたが、お砂糖もバターも切れていました。おばさんは砂糖のないパンを天板にいれて焼きました。クリームも果物もないのでごはんを入れて。
おこげのごはんの入ったパイを、さびて赤くなった天火にいれ、枯枝を少しずつもやしながら、遠いハワイ生まれのおばさんは何を想っていたでしょうか。
ところで、私はこのパイの味の記憶がないのです。あれほど私の幼年をいろどってくれたお菓子なのに。ただあの匂いだけが私の胸深くしみて、それがおばさんのセルの匂い、病気の匂い、すえた遅い春の匂いなどとまざりあって、渾然としているのです。
あれから三十余年……。
古い西洋館も、そこに住む人も、とうになくなってしまいましたが。
|