表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
むかで


 冷蔵庫を閉めようとして、床の上に、正確にはずっと左の床の上に、なにか黒い液体がこぼれているのに気がついた。台所の中でも一ばん暗い奥の隅なので、冷蔵庫の中の明るさに慣れた眼には何があるのかはっきりとわからない。目をしばしばさせていると、黒い液体は、なんと動いている。それもかなりの速度で動いている。むかでだ!
  冷蔵庫をあわてて閉め、目を大きくして、なおのこと薄暗くなった床の上を見る。まさに息をつめて、見る。長さ二十センチ位、太さはふといマカロニを三本あわせた位の、超大型である。つやつやした青黒い背中に、まっ赤な無数の足。体の下からほんの少し覗いているのは淡黄色の腹部らしい。私は今まで、これほど大きなのは見たことがなかった。
  しかも驚いたことに、むかでは体の前部四センチ位を床からはなして、ちょうど赤ちゃんが這い這いするときのように、顔を上げまっすぐにやってくるのだ。私はこのように「立っている」むかでを見るのもはじめてだった。
  私の家では、むかでの棲家とおぼしきところがあった。西側に面した八畳の間の床下である。
  西日を防ぐためにと植えた蔦が、今は屋根をすっぽりおおっている。屋根から伝わって壁へ、窓へ、そして床の下へ這っている。
  むかでがこの床下を巣窟にしていた確かな証拠はないのである。けれど家の中で一ばん出てくるのが多かったのは、この八畳だった。
  薄暗い部屋の壁で、天井の隅で、黒い背をひそかに光らせながら、彼はじっと音もたてずに待っている。否、待っているのではなく、ただ、いる。いるだけだが、人間たちはいたとみるやすぐ大声をあげ、必死になって栽ちばさみや火箸を振りまわして殺す。むかではどんなに大きくてもかならず殺されるのだ。そして、このような惨劇があるのは、大ていこの八畳だったのである。
  でもここは八畳ではない。しかもこのむかでは動き、なぜか急いでいるのだ。急いでいるときのいきもの(’’’’)の姿は真剣だ。ふと、ずっと昔、テレビでとあるシーンを見たことを思い出した。
  筋もタイトルも忘れてしまったが、それはたしか終りのシーンで、そうだ、ある男の子の顔が脳裏に浮かぶ。彼は非常に急いでいる。画面ではあえぐ声はし、顔は見る見る大きくなり、汗ばんだ手が顔の前にかぶさるように差出される。アップ! そのまま、終った。


  あれは何のシーンだったのか。
  しかし、あのシーンは、この急いでいるむかでそっくりである。
  足を四、五本宙に突き出してのめりこむようにしているところは、見ようによってはあの男の子が顔と手で何かを訴えているのと少しも違わないのだ。
  でもいったい理由は何なのだろう。食物が欲しいのか。あるいは水を死ぬほど飲みたいのかも知れぬ。それとも……私ははっとして息を呑んだ。ひょっとしたら、このむかでは産気づいたのではないだろうか。夏の暑さは一日じゅう篭っているような台所である。きっと涼しいお産の場所を、ちまなこになって探しているのだ。行く場所は、あの八畳の床下である。
  私はもうこの答を疑わなかった。むかでが台所を横断して右端の方へ――つまり西側の方へ歩いてゆくのも、そのせいだと思った。どうしてこの答をすぐ思いつかなかったのだろう。私には急にむかでは人間のように見えた。雄々しくもあり、また痛ましくもあった。「急いでいる」のも何故かあわれを感じさせる。
  そのときである。急に庭に面している台所の戸が大きく開いた。
  お向かいの大塚さんが立っていた。彼女は中腰になってかがみこんでいる私の異様な姿にちょっと驚いたふうだったが、すぐ下にうごめいているむかでを見つけた。
「なんて大きなむかで!」
  大塚さんは言った。
「何をしているの。そら包丁でいいから、包丁!」
  彼女はどたどたと台所に上りこむと流しの下から包丁をとりだして、急いでいるむかでを「こらっ」と声をあげて叩いた。狂ったように逃げまどうのを、二度も、三度も、四度も叩いた。そしてずたずたになった体を包丁にのせると、庭のたたきの上に投げ出したのである。
  むかでは緑色をした汁を腹から出して、炎天の下でぴくぴくといつまでも転っていたが、夕方になっていってみると、もうさすがに動かなくなっていた。

(『文芸岡崎』83年2月15日発行)