表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
匂いをもつ幸福


 二年前だったか、仲の良い友人二人といっしょに、豊橋のI先生の御宅へ伺ったことがあった。
  I先生は詩人である。
  大学のエラい教授でもあったが、私たちはしばしば先生が「教授」でいられるのを忘れた。「センセー」で、あった。
  専門のリンゲルナッツやケストナーの逸話を伺うのも興味深かったが、先生の可愛がってらした小鳥の話、それから野草の話をおききするのはもっと楽しかった。
  「いつでもいらっしゃい、いい庭を見せてあげるから」
  ある時そう言われて、私たちの心は躍った。――先生の御家にゆく――それは長いあいだの私たちの夢だったのである。
  はじめて伺う御宅は、あまり広くはないが品のいい和洋折衷で、中にはI先生御家族のいろいろな想い出がひそかにこぼれている、といった感じだった。
  前にたくさん飼ってらした鶯の飼籠が、いまはベランダの天井に近い棚にしまってあった。
  そして庭では、松やつつじ、樫などのあいだに、なんと一ぱい野草が育っていた。「いい庭っていってらしたの、これだったんですね」と、Mさんが叫んだ。
  「たんぽぽ、よめな、なのはな…」私たちはそれぐらいしか言えなかった。野草たちはもう春の日ざしを浴びて、名もなく、きらきらと光ってみえた。
  「ほうら みつば。みづな。せり。春菊。これはしってるでしょう、よもぎ。はこべも美味しいんだよ」
  「たんぽぽは黄色いのはだめ。白いのが柔らかくて、おいしいんですよ」
  いつのまにか奥さんも庭に出て、たのしそうにおっしゃった。
  お昼にはおすし。それから庭でとってきたばかりのたんぽぽのごまよごしを、おすしのお皿にちょっとのせて、いただいた。


  「こんなのはね、ちょっとでいいんだよ。ちょっとしか食べられないからね、にがくて。そのにがみをちょっぴり味わうのさ」
  春の陽のいろに、少しほろ苦いものがくぐって、すっとのどを通っていった。
  「ぜいたくですね」と若いNさんがいった。
  私は「こんな御庭をもってらっしゃるなんて、幸福だ」と考えていた。ふと、誰かが書いていた「周囲に空気をもつ幸福」ということばが浮んだ。そうだ、ここには空気があるのだ。野草がうらうらと伸びてゆく空気が。そして自分がしみじみと味わえる空気…。
  それから私たちは先生を混じえ、外に出た。豊橋公園へは、ほんの五分たらずである。桜はまだ少し早かったが、下からは若草が枯れたものの間からまぶしく伸びていた。
  「そうだ、つくし、あれはまだ見ないな」
  先生はそうひとりごちして、公園から見下ろす遠い向こうを眺められた。
  あれから、私はよもぎもたんぽぽも見ていない。
  当然のようにスーパーの地下の野菜売場で野菜を買う。
  アスパラガスでもクレソンでも何でもあるけれど何かが足りない。かれらは棚につまれて窒息しそうだ。暗い帰り途をせっせと急ぎながら、ふと「空気のもつ幸福」を忘れているのだ、と思う。
  「つけあわせをする」というのも、その皿に「空気をかよわせる」ことではないだろうか。肉や魚の重いものに、野菜や草の空気をそっと優しく通わせてやる――。私は空気を匂いという言葉に置きかえてみた。
  するとまたI先生のあのときの御言葉が、かすかな葉ずれに混ざって聞こえてくるのだった。
  「大したものはありませんがね。ただ匂いだけはふんだんにあることですよ」

(『あじくりげ』82年3月号)