二年前だったか、仲の良い友人二人といっしょに、豊橋のI先生の御宅へ伺ったことがあった。
I先生は詩人である。
大学のエラい教授でもあったが、私たちはしばしば先生が「教授」でいられるのを忘れた。「センセー」で、あった。
専門のリンゲルナッツやケストナーの逸話を伺うのも興味深かったが、先生の可愛がってらした小鳥の話、それから野草の話をおききするのはもっと楽しかった。
「いつでもいらっしゃい、いい庭を見せてあげるから」
ある時そう言われて、私たちの心は躍った。――先生の御家にゆく――それは長いあいだの私たちの夢だったのである。
はじめて伺う御宅は、あまり広くはないが品のいい和洋折衷で、中にはI先生御家族のいろいろな想い出がひそかにこぼれている、といった感じだった。
前にたくさん飼ってらした鶯の飼籠が、いまはベランダの天井に近い棚にしまってあった。
そして庭では、松やつつじ、樫などのあいだに、なんと一ぱい野草が育っていた。「いい庭っていってらしたの、これだったんですね」と、Mさんが叫んだ。
「たんぽぽ、よめな、なのはな…」私たちはそれぐらいしか言えなかった。野草たちはもう春の日ざしを浴びて、名もなく、きらきらと光ってみえた。
「ほうら みつば。みづな。せり。春菊。これはしってるでしょう、よもぎ。はこべも美味しいんだよ」
「たんぽぽは黄色いのはだめ。白いのが柔らかくて、おいしいんですよ」
いつのまにか奥さんも庭に出て、たのしそうにおっしゃった。
お昼にはおすし。それから庭でとってきたばかりのたんぽぽのごまよごしを、おすしのお皿にちょっとのせて、いただいた。
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「こんなのはね、ちょっとでいいんだよ。ちょっとしか食べられないからね、にがくて。そのにがみをちょっぴり味わうのさ」
春の陽のいろに、少しほろ苦いものがくぐって、すっとのどを通っていった。
「ぜいたくですね」と若いNさんがいった。
私は「こんな御庭をもってらっしゃるなんて、幸福だ」と考えていた。ふと、誰かが書いていた「周囲に空気をもつ幸福」ということばが浮んだ。そうだ、ここには空気があるのだ。野草がうらうらと伸びてゆく空気が。そして自分がしみじみと味わえる空気…。
それから私たちは先生を混じえ、外に出た。豊橋公園へは、ほんの五分たらずである。桜はまだ少し早かったが、下からは若草が枯れたものの間からまぶしく伸びていた。
「そうだ、つくし、あれはまだ見ないな」
先生はそうひとりごちして、公園から見下ろす遠い向こうを眺められた。
あれから、私はよもぎもたんぽぽも見ていない。
当然のようにスーパーの地下の野菜売場で野菜を買う。
アスパラガスでもクレソンでも何でもあるけれど何かが足りない。かれらは棚につまれて窒息しそうだ。暗い帰り途をせっせと急ぎながら、ふと「空気のもつ幸福」を忘れているのだ、と思う。
「つけあわせをする」というのも、その皿に「空気をかよわせる」ことではないだろうか。肉や魚の重いものに、野菜や草の空気をそっと優しく通わせてやる――。私は空気を匂いという言葉に置きかえてみた。
するとまたI先生のあのときの御言葉が、かすかな葉ずれに混ざって聞こえてくるのだった。
「大したものはありませんがね。ただ匂いだけはふんだんにあることですよ」
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