朝の七時を少し回ったころ――
台所でおべんとうを作っている私に茶の間の様子はほとんどわからないが、かけっ放しのテレビの音はよく聞こえてくる。忙しいあいだに聞くともなしに聞いていると、急に「オカザキ」というアナウンサーの声が耳に入った。岡崎は私の住んでいる地名なのだ。続いて「長野県の―リンゴの―希望者は―市役所へ」「おおい、リンゴの木が買えるらしいぞお」と、テレビのそばで食事をしている主人の声。あわてて手をふきながら茶の間へ入ってゆくと、ちょうど画面は次のニュースに移ったところだった。
たまたま市役所に別の用事があった電話をかけた私は、ついでに気にかかっていたけさのニュースのことを聞いてみた。「ああ、リンゴの木のことですね」その係りの人なのだろうか、女性の事務員は親切に答えてくれた。それは、長野県南佐久群臼田町から岡崎市役所へ送られた「臼田町でリンゴの収穫を」というアピールについてであった。栽培管理は産地で実施し、契約者には産地で収穫してもらう、という。契約本数は百本。希望者は一人一本、市の農務課に申し込むこと。品種は「ふじ」。契約金額は一本一万円等々……
臼田町とは一体どこなのだろう。飯田線に沿ったあたりだろうか。聞いたこともない町――。だが受話器を下に置くまえに、私の心は決まっていた。リンゴの木が育っているところと耳にしただけで、もうそこからさやさやと遠い風の吹いてくる気配がしたのであった。
その日は始業半時間まえに市役所に着いた。階段を上ってゆくとすでにたくさんの人たちがきていて、部屋の端で申し込むための番号札をもらっていた。私は四十四番だった。申込書に姓名、住所を書き、はんこを押し、あっけなく契約は成立した。「これでいいのかしら?」「そうらしいですよ」まことにあっけなかった。けれどそこに来ている人たちの顔は、気のせいか何か晴れ晴れしていた。赤ちゃんや子供連れもいる。おばあさんもいる。出勤前らしい青年もいる。皆あくせくとした現実をいっとき離れて、心にあいた緑の空間からどこか遠くの方をみつめているようだった。
家に帰ってから私は早速地図を開いて調べてみた。丹念に探して、ようやく見つけることができた。八ヶ岳のふもとを流れる千曲川のほとりである。平均標高千メートル。ここにリンゴの木を育てている町があるのだ。私は臼田町、と印刷された地図の文字に、ちょっとあいさつをしてみたくさえなった。収穫までの栽培管理には、金銭を受け取るとはいえ、除草や施肥はもとより口には言えぬ多くの苦労があろうと思ったのである。
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私たちはお金さえ出せば手軽に何でもできるし、何でも手に入ると思ってしまう。労働もお金で換算されるこの世の習いだから当たり前なのだ。けれども――たとえばこのリンゴは私が収穫したのだ、と簡単に言い切れるだろうか。収穫は私がした、というのが本当なのだ。
労苦の方はお金で払っておいて、楽しい収穫のときだけ仕事をする――こういう現代風な楽しみ方はほかにもたくさんあるように思う。それがいいとかわるいとかいうのではなく、ただ私たちは、自分はほとんどは何もしなかったのだということを、謙虚に知るべきだと思う。私たちは味わうリンゴ狩りの醍醐味は、手に汗して作った人の味わうそれとはもともと違うのだということも。知ることによって、働いた人たちに対する感謝の念も生まれる。数ヶ月前まではまったく知ることのなかった二つの町の交流も、また生まれてくるような気がするのである。
ここまできて、ふと同じ八ヶ岳ふもとの南に住んでいるIさんを思い出した。
原村に住んでもう十年くらいになるだろうか。最初は横浜の一会社員だった。思うところあって故郷を捨て、家族ごとこの山ろくに移り住んだ。今は小さなペンションの若主人である。
ペンションの仕事はかなりきつい。冬季は暖房の仕度や雪かきなどの時間の大半を費やさなければならないし、夏は夏でごった返す客たちをさばくだけでくたくたになる。
しかしどんなに仕事がつらくても、思ったより収入がのびなくても、Iさんは満足している。都会にいたころは彼もやはり「緑の空間からどこか遠くの方をみつめていた」人だったと思う。今は緑の中にたっぷり浸っている。彼は幸運だったと私たちに言うが、意志の力がなくてはとてもできなかったに違いない。
私たちはIさんのような力もないし、第一、都会を離れる勇気もない。しかし時々、人間というものは遠いところを見つめる。一日だけでいい、リンゴの木の下で存分汗をながしたい欲求にかられる。まだ見ぬ樹木に向かって「おーい」と野生児のように叫びたくなるものである。
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