その電話がかかってきたのは、西風の吹く日の、もう夕方に近かった。
この日ごろ、私は何となく気が晴れないでいた。机の上には何冊かの本といっしょに、二、三日放っておいた日記が置かれている。
日記を書きたくない日、という日はあるものである。言葉になる前のいろいろの物事が暗く煩雑に重なって、どれを考えても気がめいった。友達との些細ないさかいのこと、作品がうまくゆかなったこと、伏せっている家人のこと……。そのとき、何か遠いう忘れものを思い出したように、その電話はかかってきたのである。
「K先生でいらっしゃいますか」と、その向こうの声は問うた。若い女の、きれいな声であった。きれいな声の上に、思いもかけず、先生と呼ばれて、私の心はうろたえた。漠然とした警戒心が浮かび、何となく身構える姿勢でいると、きれいな声はどこか静かな余韻を残して響いてくる。
「私は先生の最後の授業をうけた者です。F…といいます。T女子高校で。もちろん、覚えていらっしゃらないと思いますけど……」
私はぼんやりと受話器ごしに遠い向こうをみた。T女子高校――それは今から十年ばかり前、私がほんの少し講師として勤めていた学校である。まわりにまだ林や畑があった広い校庭が、ぼうと瞼の中に浮かんだ。若い銀杏(いちょう)の木がさやさやと静かに音をたてていた。白いセーラー服が、きちんと整頓された校舎を出たり入ったりしている。そうそう、校門を入って右に曲がると、生徒たちの自転車置き場があったっけ……。
きれいな声は続ける。「国語が好きで、詩をみてもらったこともあったんです。教員室までいって……」。そんなこともあったかもしれない。私は十年前の、あのひんやりする二階の教室を思い浮かべた。Fさん、と思わず小声で叫ぶと、五十人のセーラー服が一斉にこちらを向いて、一人の少女の顔をいつも打ち消してしまうのだった。
ところで、彼女の話をかいつまんでいうとこうなのである。
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彼女は今までさる会社に勤めていたが、最近そこをためた。「私のような者にも縁があって」(という言い方を彼女はした)結婚することになったからである。決して遅くはないが、彼女の同級生と比べると、早いとは言えない。あまりに話が急だったので、彼女もずいぶん考えたのだろうが、母親の強い意向もあって、この九月にはめでたく挙式、ということになった。
ところが、その会場を予約しにゆく途中、彼女は偶然、私に電車の中で出会ったのだという。その時、私は原稿を見ていたというのである。あんまり夢中に見ていたので、つい声をかけそびれてしまったそうだ。私はきっと頭などくしゃくしゃのままで、締め切りの過ぎた自分の原稿をあわてて直していたのだろう。「わあ、恥ずかしい。いつだったのかしら」。私が思わずくすくす笑うと、遠い向こうの声も楽しげに笑った。二人ともつい昨日まで会っていたような、ふしぎな感覚に陥っていた。
「その時、急に私は思ったんです。もし承知していただけるなら、きっと結婚式にきていただこうと」
「まあ、私が。そんな所に出ていってもいいのかしら」
私は驚いて聞き返しながら、そのあいだにもう答えは決まっていた。そして、私のこのころの何とも知れないうっ屈が、いつのまにか少しずつ拭い去られていくのを感じていた……。
長い電話が切れたあと、私は自分の心の変化にとまどっていた。十年も会わなかった、それもほとんど容姿のわからない人に、なぜ私はあんなに打ちとけた話をしてしまったのだろう。おまけに結婚式という、重大なお祝い事への出席をこれも簡単に約束してしまうなんて。たぶん、自分の心が何か明るい話題を暗に欲しがっていたからかもしれぬ、それに――急に私は気づいた。あの「きれいな声」のせいだ。あの声の静かな、落ちついた、私の持っていないふん囲気のせいなのだ。
その夜、私は本棚を探してみた。「九月の花嫁」という詩が、どこかに確かにあるような気がしたからである。少し大人で、静かな、そしてやや古風な花嫁を詠んだ詩(うた)を。だが、どうやら思い違いであったらしく、私の本棚には見当たらなかった。
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