表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
九月の花嫁


 その電話がかかってきたのは、西風の吹く日の、もう夕方に近かった。
  この日ごろ、私は何となく気が晴れないでいた。机の上には何冊かの本といっしょに、二、三日放っておいた日記が置かれている。
  日記を書きたくない日、という日はあるものである。言葉になる前のいろいろの物事が暗く煩雑に重なって、どれを考えても気がめいった。友達との些細ないさかいのこと、作品がうまくゆかなったこと、伏せっている家人のこと……。そのとき、何か遠いう忘れものを思い出したように、その電話はかかってきたのである。
  「K先生でいらっしゃいますか」と、その向こうの声は問うた。若い女の、きれいな声であった。きれいな声の上に、思いもかけず、先生と呼ばれて、私の心はうろたえた。漠然とした警戒心が浮かび、何となく身構える姿勢でいると、きれいな声はどこか静かな余韻を残して響いてくる。
  「私は先生の最後の授業をうけた者です。F…といいます。T女子高校で。もちろん、覚えていらっしゃらないと思いますけど……」
  私はぼんやりと受話器ごしに遠い向こうをみた。T女子高校――それは今から十年ばかり前、私がほんの少し講師として勤めていた学校である。まわりにまだ林や畑があった広い校庭が、ぼうと瞼の中に浮かんだ。若い銀杏(いちょう)の木がさやさやと静かに音をたてていた。白いセーラー服が、きちんと整頓された校舎を出たり入ったりしている。そうそう、校門を入って右に曲がると、生徒たちの自転車置き場があったっけ……。
  きれいな声は続ける。「国語が好きで、詩をみてもらったこともあったんです。教員室までいって……」。そんなこともあったかもしれない。私は十年前の、あのひんやりする二階の教室を思い浮かべた。Fさん、と思わず小声で叫ぶと、五十人のセーラー服が一斉にこちらを向いて、一人の少女の顔をいつも打ち消してしまうのだった。
  ところで、彼女の話をかいつまんでいうとこうなのである。


  彼女は今までさる会社に勤めていたが、最近そこをためた。「私のような者にも縁があって」(という言い方を彼女はした)結婚することになったからである。決して遅くはないが、彼女の同級生と比べると、早いとは言えない。あまりに話が急だったので、彼女もずいぶん考えたのだろうが、母親の強い意向もあって、この九月にはめでたく挙式、ということになった。
  ところが、その会場を予約しにゆく途中、彼女は偶然、私に電車の中で出会ったのだという。その時、私は原稿を見ていたというのである。あんまり夢中に見ていたので、つい声をかけそびれてしまったそうだ。私はきっと頭などくしゃくしゃのままで、締め切りの過ぎた自分の原稿をあわてて直していたのだろう。「わあ、恥ずかしい。いつだったのかしら」。私が思わずくすくす笑うと、遠い向こうの声も楽しげに笑った。二人ともつい昨日まで会っていたような、ふしぎな感覚に陥っていた。
  「その時、急に私は思ったんです。もし承知していただけるなら、きっと結婚式にきていただこうと」
  「まあ、私が。そんな所に出ていってもいいのかしら」
  私は驚いて聞き返しながら、そのあいだにもう答えは決まっていた。そして、私のこのころの何とも知れないうっ屈が、いつのまにか少しずつ拭い去られていくのを感じていた……。
  長い電話が切れたあと、私は自分の心の変化にとまどっていた。十年も会わなかった、それもほとんど容姿のわからない人に、なぜ私はあんなに打ちとけた話をしてしまったのだろう。おまけに結婚式という、重大なお祝い事への出席をこれも簡単に約束してしまうなんて。たぶん、自分の心が何か明るい話題を暗に欲しがっていたからかもしれぬ、それに――急に私は気づいた。あの「きれいな声」のせいだ。あの声の静かな、落ちついた、私の持っていないふん囲気のせいなのだ。
  その夜、私は本棚を探してみた。「九月の花嫁」という詩が、どこかに確かにあるような気がしたからである。少し大人で、静かな、そしてやや古風な花嫁を詠んだ詩(うた)を。だが、どうやら思い違いであったらしく、私の本棚には見当たらなかった。

(『中日新聞』81年9月10日)