私の詩には、なぜかよく夢が出てくる。作品の中に、夢と断って書いている時もあるし、書いていないが全体がそのまま夢であることもある。
夢は多分に個人的なものなので、なるべく書かないように心がけているのだけれど、日によって夢の方が現実よりもはるかに大きく日常を占めているときがあって、つい夢の方にひきずりこまれてしまうのだろう。そんな時は夢はもう夢ではなく、たしかに現実、現実以上なのだといえるかもしれない。
私は小さい時からよく夢を見た。いつも何かに追われていたり、汽車にのりおくれたりする夢が多かったが、しかしこれらは暗いふんいきだけに終わって、それほど形になって残らなかったような気がする。反対に私がはっきりと見たのは、家や階段、雲や木の葉の夢である。これらの夢はいつも目のさめるような色彩、ふしぎなしじまをともなってあらわれた。そして私はこの種の夢に興味と奇妙な愛着を感じていた。次の詩は、こうした夢の一部分からとったものである。
……けれど階段をおりて 回り角を曲り 陽のまばらにあたる廊下を小走りにゆくうちに いままで考えていた言葉たちの幻影はみるみるうすれてゆき 部屋の入口までくると わたしの掌の上にはどうしたことか一枚の木の葉がかすかにふるえながらのっているのだった/円形状の葉のまんなかから細長い蕊が5センチほど伸び その上に直径7ミリ位の玉がついている。玉には水いろの粉がうっすらのって(「詩法」の一部)
ここのあらわれた夢とも現実ともつかぬ一枚の木の葉。ここまでくると私は刻明にそれを追い、さらに夢の深奥にまで入ってゆくだけで十分なのだ。その時、一つの疑問、詩をよむ人にとってこれがそれほど重大なものなのかという問いが私の胸をかすめる。私はかすかに不安になる。これは何よりも大切なものなのだという客観的な証拠はどこにもないからである。ただ私がこの夢を確かに見、それに衝撃をうけ、作品にしようとした直観という能力を自分で信ずる外はない。
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私はこの詩に「詩法」という題をつけた。途方もなく大きなこの題と、私の微細な夢とが、遠いどこかでつり合い、つながるような気がふとしたからである。
ところで夢の機能をうんぬんするときに、だれしも考えるのがあの意味のちぐはぐな世界、奇妙な条理の世界のことではないかと思う。実につまらないことが夢の中では非常に重大に思えるし、逆にとても出来ないこと――たとえば空を自由に飛べることなど――が何の苦労もなくやってのけられる。この面白さ、ふしぎさを私はまだ詩にしたことはないが、萩原朔太郎はその散文詩集「宿命」の、「この手に限るよ」の中で、夢と現実との関連を興味深くかいている。
彼は夢の中で、紅茶に砂糖を入れるというばかばかしい手法で女の子をてなずけてしまう。これはすばらしい発見だと思われるのだ。彼は誇らしげに友だちを振りむき「この手に限るよ」と叫ぶのだが、同時にその声で目が覚める。その声が今でも現実の中に妙に残って自分の中に住んでいるあの「馬鹿者」(フール)の正体を考えるというのである。
私たちはこの詩を読んで思わず笑ってしまうが、それが決して暗い笑いでないこと、外に開かれた笑いであるこということはだれとも一致しよう。けれど夢そのものはまた「怖い」ということも本当だろう。夢は過去のことでありながら、自分の知らない自分をいきなりみせてくれるのだ。夢は未知だからこそたのしく、また怖い。夢の謎を解きながらついに解かず仕舞いになる怖いたのしさを、ひょっとしたら、私は自分の詩の上でも味わっているのかもしれない。
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