「おやつって…」
私が言いかけていると、ちょうど台所に入って来た主人は、即座に、
「おやつってのは学校から帰るとすぐ貰えるもんだ。」
と、言った。
この何げない調子の言葉の中に、夫の少年の頃の生活や家庭への信頼感などが一挙ににじみ出ていて、私は少しの間黙っていた。
「学校から帰るとすぐ貰えるもの」、なんて素敵なコトバなのだろう。やはり「おやつ」は子供たちのものなのだ。学校が義務ならば、おやつは解放の時間だった。
算数の計算や漢字の書取りから解放されて、子供たちは二、三連れ立ちながら帰ってくる。遮るもののない、一面の田んぼの中の一本道である。始めは学校での話に夢中だが、村に入って横垣に囲まれた我が家が見えてくると、俄に急ぎ足になる。カバンの中のソロバンをかたかた言わせてかけこむとちょうど柱時計は三時。
「ただいま、おやつ。」
子供たちは息はずませて叫んだのだ。
私は女の子だったからいきなり「おやつ」とは言えない。部屋へ行ってカバンを置き、洋服を替えて台所へゆく。
「きょうは何があったんや。」お母さんは頭の手拭をとりながら、居間の階段の下までいって暗い大きな戸棚を開けてくれる。午後の日ざしが戸棚の中まで差し込んで、しまってある箱や壷などを一瞬あかあかと照し出す中を、お母さんが大きな銹びた鑵を両手であけ、古半紙に一人ぶんずつおやつを包んでくれたのを思い出す。
ところで、そのおやつはそんな種類のものだったろうか。私の家は田舎だったから、主に家でとれる餅米で作ったあられやかきもちであった。ほかには黒砂糖、氷砂糖、金米糖、それからさつま芋やそれを茹でて干した切り干し。又お祭りがあるとむしまんじゅうやあんころもちも作ったが、これはおやつというよりごちそうといった方がいいかも知れない。やはりあられやかきもちが一年中の保存間食だった。
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これは冬のいちばん寒い、大寒の頃を選んで作る。家では男しの清紀さんが餅つきを、その嫁の辻やんが手がえしをしたように覚えている。終り頃に、色粉やまぜものを入れ、それを大きなのし板に厚さ三センチ位に平たく伸ばし、むしろにのせて二、三日並べて置く。固まりかけた頃、今度は母や祖母、私たちが総動員で餅を切る。包丁や餅切り器で、あられは小さい拍子木に、かきもちはかるた程度の大きさに薄く切るのである。
これら切った餅をもう一度むしろにひろげ、部屋の中で乾かす。多い時は五、六段の棚にのせる。一ヶ月ばかり干して、しっかり乾いたものを切り溜めや鑵に入れて保存し、それを煎って食べるのである。
うっすらと塩味のきいた白いあられのほかに、海苔の入ったもの、ちその入ったもの、ごまを入れたもの、豆を混ぜたもの、赤い色粉を入れた砂糖味のものには、すった里芋は入っていて、煎ると大きくふくらむので、私たち女の子には人気あったようだ。
さて、その味はと言えば――すぐには答えられない。要するにあっさりした、何でもない味だったのだ。干した餅飯の味以外には、噛みしめた口に残るかすかな海苔の匂い、かすかな陽や野のひろがり――。けれど忘れられない。たとえ貧しくとも、子供時代の食べ物はいつまでも輝いているのである。
今日、久しぶりに街に出てみた。
十月とのなるとさすがに陽ざしは落着いて、ウインド・ショッピングを楽しませてくれる。秋のスェーターの出ているブティックがある。新刊本の並ぶ本店がある。小さな菓子屋には小学生が一グループたむろしていた。そうだ、そとそろおやつの時間だ。私の目は自然彼らの手に注がれた。
「ウィンナ・ソーセージ」、「チーズ」、「スナック菓子」、ビニールに入った「オレンジジュース」。あ、確かに「あられ」もあった。きれいに形が揃ったあられであったが。彼らは喚声をあげながらめいめいおやつの代金を支払うや、並木通りを一目散にかけ抜け、映画館の角あたりで急に見えなくなった。
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