今はむかし、三河の国のとある郡(こおり)に郡司の某(なにがし)という男がいた。
役職がら遅くまで家に帰らぬことが多かったがその日は所用もあって、日のあるうちに役所を出た。用をすまし、供の者も返して急ぐともなく馬を進めてゆくうち、どこをどう通ったのか、以前かよったことのある女の家のあるあたりに出てしまった。
ちょうど五月も末の頃で、あちこちの草薮にはれんぎょうの小さな黄色がちらほらとみえる。その間を曲がってゆく田舎道も、道端の松の風情も、まるで昨日見たもののように変わっていない。ここからかすかな水の音がしてくるのは、近くの小川で下婢が菜でも洗っているのだろうか――
男はふと、思いがけず忘れていたものに出遭ったような懐かしさに、別れた女はどうしていることかと馬を下りて、見覚えのある藪かげにはいっていった。
男が女の家に通うようになったのは四年ほど前のことであった。
女はこの地の者ではなく、身寄りも財産もなかったが、心ばえのやさしいおとなしげな性質だったから、夫婦仲もまめやかだった。だが二人のあいだに子どもがなかった。
授からなかったわけではない。ただ生れ落ちてまもなく、まだへその緒も乾かぬうちに冷たくなってしまうということがあって、その不幸せが二度も続いたのである。
そういうことは世間にもよくある話なのだが、この女がそれを自分のせいとばかり思いつめてしまっていたらしく、もの思いにじっと塞ぎ込んで忌み篭っている日が多くなった。
三年めの春になって、偶然とは思えない出来事が起こった。
この頃の誰もがやっていたように、この男も自分の妻に養蚕をさせていたが、その女の飼っている蚕が突然、どういうわけか次々死んでしまったのである。
昨日までまるまる太って元気に桑の葉を食べていたのが、急に餌をとらなくなり、黄色くやせ衰えて、次の日にはぼろぼろと綿くずのように死んでしまう。
「何の因果でこんなことになるのだろう。何もかも、まるで失(な)くしてしまうために育ててきたようなものですね」
女はなくなった子のことなどいろいろ思いあわせてか、この上もなく嘆き悲しんで、二晩も三晩も寝ずに泣き明かしていることがあった。
くるたびに慰めたり励ましたりしていた夫も、そんな日が続くと妻を不憫とは思うものの何となくうっとうしくて、つい足も遠のくことになってしまう。
男にはもう一人妻がいたが、そんなことでやがてはそちらの方に足繁く通うようになり、この家に寄りつかなくなって、いつか半年の月日が流れていた。
近づいてゆくと、藪かげの女の家は小さく見えた。男が覚えていたよりももっと小さく、もっとみすぼらしく見えた。
男は哀れさが胸につきあげてきて、それでもいささか後ろめたくもあり、そっと垣根越しに内をのぞいてみると、みるかげもなく荒れ果てた庭にはぺんぺん草が生い茂り、その隅に何やら白いものがうずくまっている。目をこらしてみると、それは以前彼女が可愛がっていた白犬のようであった。眠っているのか死んでいるのか、西日の眩しくさす中で身動きもしない。
そのうち、同じように白いかさばったものが、薄暗い家のなかで鈍く光っているのに気がついた。そしてやはり同じように白い、動かない人の顔が、その後ろの闇に浮かんでいた。
「八重どの、八重どの」
男は声を出して女の名を呼びながら、門へ回るまも惜しく壊れた垣根をふみこえてはいってゆくと女はまるで夢でも見ているかのように茫然と、板敷きの上に坐りこんでいる。
その前に積まれているのは、今まで見たこともないような、雪のようにまっ白なおびただしい絹の糸であった。
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「いったいこれはどうしたこと」
驚いていぶかる夫に、かつての妻は落ちてくる髪をかきあげもせず、とぎれとぎれに語りだした。
「この秋よりこの方、ついぞおいでにならなくなってからというもの、家におりました召使たちも一人減り二人減りして、気がついたときはわたくし一人になっておりました。
訪ねる所も、おとずれる人もない淋しい侘住まい頼りにするものといえばあの年とった白犬と、それから、お信じになりますまいが一匹の蚕でこざいました。
今年の春にかえした蚕も、同じように次々と死んでしまいました中で、たった一匹だけ生き残ったのがあったのでございます。たった一匹など、何の役にも立ちはしませぬ。けれども妾に残されたのはこればかりと思うといとおしくて、捨てる気になれず飼っておりますうちに、大そうよく育って、普通のものの二倍にも大きうなりました。
ところが今朝がたのこと、それが桑の葉を食べているのをぼんやりみておりますと、何を思ったかいきなり白犬が走り寄ってきて、あっというまに蚕を呑みこんでしまったのでございます。おどろいて犬を引き寄せましたが、間に合いませんでした。
口惜しい腹立たしいといっても、無心な犬が蚕を呑んだといって打ち殺すわけにもゆきませぬ。何事もなかったかのようにおとなしく坐っているのをみると、吾子どころか蚕の一匹さえ飼うことのできない身とは、いったい前世にどんな罪を犯したのであろうとつくづく悲しく、嘆いておりましたところ、急に犬が一つ大きなくさめをして、まるで蚕のするように糸を吐きはじめました。
驚いたことに唐天竺(じく)でしかみられぬという透きとおるほど真白な糸、それが次から次へとどんどん出てまいります。急いで枠に巻きとりましたが、巻いても巻いてもいつまでも糸は尽きることなく、家にある二、三百の糸枠はむろんのこと、ある限りの竹の竿、桶、筒箱などに四、五千両ほど巻きつけてもまだ足らず、あとはすべもしらず茫然としておりますうちに、とうとう命が尽きたのか、あれあのようにはかなくなってしまいました。
あの蚕は、まるで子どもの身代わりのように存じておりましたが、それを思うにつけても不思議なめぐりあわせ。神仏のおぼしめしとしか言いようがございませぬ。
そう語り終えるか終えないかに、気がゆるんだのかふっと倒れそうになるのを、男は思わず手を出して女の体を支えた。何か月ぶりかに抱いたその肩はまるで人違いかと思うほど細く小さく、小きざみにふるえている。男はこの不思議な話に驚き怪しみながら、みるともなく見回すと、部屋はがらんとして、かつてあったいくつかの調度も敷物、几帳の類もなく、冷たい板敷きの上にはたくさんの糸枠の山を覆うように、白絹の糸がもつれては積み積んではもつれして、今はしんと光り鎮まっているばかりだった。
「そなたのいう通り、確かにこれは神仏の御加護じゃ。それにしても何とも奇体なことをまのあたり見るものじゃのう」
いいながら、けれども男には、このおびただしい色糸は、あるいは妻のはかりしれない嘆き、悲しみが、犬の口を借りて吐きだされたのかもしれぬ、ふっとそういう気がしていた。
そんな女の深い悲しみに、なぜ今まで気がつかなかったのか、沈み入るような白糸の光りは、心なしか男の不実を責めているようにも思えた。
二人は固くなった犬の死骸を家の裏手に運ぶと夕闇の迫る畑の桑の木の根元に埋めた。
丁重に弔ったあとで、女は桑の一枝を折ってまだ柔らかな土の上にさしてやり、男がそれに水を注いだ。
その後、この桑の木にはいつのまにかたくさんの蚕が居つくようになり、その繭からもみごとな糸がとれたという。
今は昔、平安も末期の、さる草深い片田舎にあった話である。
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