日曜日の朝、陽のあたる縁先に机を持ち出して、雑誌を拾い読みしていると、急に部屋のすみで奇妙な音がした。
家にいるシャム猫が二匹、急に今までねむっていた椅子の上から起き出して、外に向かって非常に高い、さえずるような声を出しているのである。
見るとガラス越しに、太ったムクドリが一羽、群れをはずれてのか芝生の上をトコトコ歩いている。ときどき立止まっては、不安そうにあたりを見まわして。そのうちに彼らの異常な声に気がついたのだろうか、ムクドリはぴぴっと灰色の羽を震わせて飛び上がると、あっというまにいなくなってしまった。
猫は二匹とも、また椅子の上にねそべっている。どちらかがそのそらいろの透き通った眼をあけてこちらを見たが、またすぐに閉じた。今起こったことなど、もうさっぱり知らん顔で。
この猫たちは、牝同士の親子である。体はいくらか子の方が大きいが、その姿といい、顔つきといい、外の人が見ればわからない程似ている。最初の一匹は私の友だちが生後一ヶ月くらいたったのをつれてきた。ちょうど病気上がりだった私が、生き物を飼うのがなんとなく面倒くさくて躊躇しているのを、
「飼ってごらんよ。ひと月もたったら猫なしではおれないから」
とか何とか、勝手なことをいって置いていったのだが、いつなまにかそれから四年になる。
「猫なしでおられない」かどうかはわからないけれど、二匹のほかにこの面倒くさがりのおばさんが一人、昼間の気ままなときをそれぞれが好き勝手なことをして、結構楽しくやっている。
二匹はすこぶる仲がいい。むろんけんかをするときもあるがほんのいっときで、庭で遊んだ後はたいていいっしょに絡まってねている。時には長椅子の上にねそべっている私の足もいっしょに絡まっていることもあって、そんなときなるべく動かないようにそっとしているのはやっぱり友情なのだろうか。
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ところで、四年も飼っていると、いくらぼんやりの私でも二匹の性質、というより親猫と子猫のそれの違いがわかってくるようだ。
たとえば食事の時間がくると親は鼻をすりよせてしきりに寄ってくるが先にはたべない。まず、子猫を探しにゆくのである。子猫がやってきてたべる間、じっと待っている。少し離れて、なぜか横を向いて。子猫が満足して離れるとようやく側へいってたべ出す。好きなお菜がほとんどなくなっている時もあるが、別に催促するわけでもない。らだその時は私の方をじっと見る。その目つきはなんといえばよいのか、哀れみをこうというのでもなく、ただ私の方を上目遣いにじっ、と見るのである。
この親の初めの方の動作はむろん本能によるものだろう。しかし後の動作についてはよくわからない。案外、覚めた心で、私たちの胸の内をおし計っているのかもしれない。それともそれぞれの性格の違いによるものか。一体に親猫の方がおっとりしているようだ。人に抱かれるとき決して爪を立てたりしないし、戸を開けるにしても、子猫が勢いよくガラッとやるのに対し、親は遠慮して最小の寸法をあけるだけなのである
と、ここまで考えてきたら、また猫があの奇妙な声を出しはじめた。いるいる。今度はムクドリが二羽、太ったのと少し細いめのが。芝生の上で何かつついている。やがて親猫の方も例の声で合唱し出した。「鳥、鳥!」といっているのだろうか。私も側へいって、出来るだけ猫のまねをして高い声を出してみせた。
すると二匹は一斉に声をあげるのを止めて、こちらを見つめた。「おばさん、何言ってるの」とでもいうように。
急に二匹から疎外しれてしまった私。彼らの透き通った青い眼は、やはり動物の世界のもののようである。
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