表紙/裏表紙
T
晴着 10
おむすびのこと 12
歩く 17
コーヒー挽きのこと 19
六つめの駅 23
ある記憶 27
シュークリームと私 30
行けなかった画廊 33
二匹と一人 36
つれづれの記 40
花火の思い出 44
絵の好きな少年 48
九月の花嫁 52
匂いをもつ幸福 56
むかで 60
九月のレタス 64
はぎとられた蔦 68
遠くのリンゴの木 71
おやつの思い出 75

U
時間のむだ使い 80
アカシヤ考 82
驚く心 84
贈る 86
卵と次男 88
ある風景 90
コーヒーの味 92
スポーツの楽しみ 94
朝の市 96
ぜいたく 98
小さな出来事 100
顔 102

V
中部の女――岡崎(上) 106
中部の女――岡崎(下) 110
水の行方――浄瑠璃姫譚 
  東海のロマン1 114

六本榎悲話 
  東海のロマン2 122

白糸奇譚(しらいとものがたり)
  東海のロマン3 130

W
ふるさとのお正月 140
雛祭りの思い出 144
ふるさとの味 147
六月のころ 151
私と詩と 155
詩と夢と 160
乗客ひとり 164
おふささんの「ごまどうふ」 168
菊やんの奥さん 172
抽斗のこと 176
言葉が話せない 180
私のふるさとの家 183

黒部節子 年譜 188
あとがき 190
晴着


まだ浅い春の日、私は一羽の小鳥をつかまえた。 くすんだ緑色のいきものは、思いがけなくうぐいすであった。
つぼめた手のひらの中で、小さいものはひくひくとふるえる。そのわずかな暖かみが、少しずつ手に伝わってくる。
顔みしりの娘さんに出会った。
鳥の好きな彼女は、だが野生のうぐいすはとても飼えないと教えてくれた。 「放してやって」ときれいな声でいって、そして「うぐいすってね、水平に飛ぶんです」。
庭に出て、伸ばした手の先をひらくと、鳥はわずかにためらったが、そのまま、すっと、全く水平に飛んで、 みるみる向うのしげみにかくれてしまった。
私はそのなき声を聞くことはできなかった。けれど、しげみのあたりで声がするとき、あのうぐいすではないかと、ふと思ったりした。


うぐいすは水平にとぶ。現代の、着飾ったうぐいすたちは垂直にとぶ。しげみの中からでなく、高いビルの上から。 鳥の美しいなき声の代りに、娘たちは美しい衣装をつける。「うぐいすの谷よりいづる声なくば」と昔の人はよんだけれど、 晴着をきた娘たちがいなかったら、新春のあのりんとしたはなやかさはないだろう。彼女らはどこへ飛んでゆくのだろう。 その優美なたもとを翼にして?
うぐいすは名鳥にこしたことはない。そのいのちはなき声なんだから。けれど実際に私たちを思いがけなく楽しませてくれるのは、 しげみにいるやぶうぐいすの方だ。
彼女らは、美しい晴着を持っていないかも知れない。でも衣の下に、何かはっと目のさめるようなもう一つの晴着を持っていて、 思いがけなく人に喜びをわけてくれる。


(『朝日新聞』66年1月3日)