まだ浅い春の日、私は一羽の小鳥をつかまえた。
くすんだ緑色のいきものは、思いがけなくうぐいすであった。
つぼめた手のひらの中で、小さいものはひくひくとふるえる。そのわずかな暖かみが、少しずつ手に伝わってくる。
顔みしりの娘さんに出会った。
鳥の好きな彼女は、だが野生のうぐいすはとても飼えないと教えてくれた。 「放してやって」ときれいな声でいって、そして「うぐいすってね、水平に飛ぶんです」。
庭に出て、伸ばした手の先をひらくと、鳥はわずかにためらったが、そのまま、すっと、全く水平に飛んで、 みるみる向うのしげみにかくれてしまった。
私はそのなき声を聞くことはできなかった。けれど、しげみのあたりで声がするとき、あのうぐいすではないかと、ふと思ったりした。
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うぐいすは水平にとぶ。現代の、着飾ったうぐいすたちは垂直にとぶ。しげみの中からでなく、高いビルの上から。 鳥の美しいなき声の代りに、娘たちは美しい衣装をつける。「うぐいすの谷よりいづる声なくば」と昔の人はよんだけれど、 晴着をきた娘たちがいなかったら、新春のあのりんとしたはなやかさはないだろう。彼女らはどこへ飛んでゆくのだろう。 その優美なたもとを翼にして?
うぐいすは名鳥にこしたことはない。そのいのちはなき声なんだから。けれど実際に私たちを思いがけなく楽しませてくれるのは、 しげみにいるやぶうぐいすの方だ。
彼女らは、美しい晴着を持っていないかも知れない。でも衣の下に、何かはっと目のさめるようなもう一つの晴着を持っていて、 思いがけなく人に喜びをわけてくれる。
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