ふるさとの正月の思い出といえば、どこにもある光景だがまず大晦日の餅つきからはじまる。
台所のくらがりに燃えている薪の、パチパチい言う音。二つの大釜の上でシュッシュッとゆげをたてているせいろ。蒸し上がった三升の餅米を臼の上にあけると、もうもうと白いゆげが台所の土間に立ちこめて、向う側にいり人の顔もみえない。
餅をつく二人の老人、仲でもチョマさんと呼ばれる人の手返しは逸品で、この人と杵のセーキさんとの意気の合った餅つきをわたしたちはふところ手しながら遠巻きに、あきもせず眺めたものである。
チョマさんの皺だらけの手が杵の下りてくるほんの一瞬すばやく動くだけで、まるで女の肌でも扱うように柔らかなしぐさなのを、ふしぎな事のように見ていたものだった。
つき上がった餅は、セーキさんの連れあいのツジやんが、粉をふったその大きなごつい手にのせて、「熱つッ」といいながらのし板の上に運んでくる。その塊りを、もう名も忘れてしまったが、二三の出入りの女たちがちぎっては、掌でくるくる廻しながら、大きいのや小さいのやいくつかのお鏡さんを作る。私たち子供はその少しを分けて貰う。そして不浄の入口に置く、きんかんをのせたいちばん小さな鏡にして貰うのである。
上の台所に上ってくると、煮豆や昆布の匂いの中で、祖母や母、叔母たちが重箱をふいたり小鉢を出したり急がしそうである。座敷へ上ると、ここでは父をはじめ、男の兄弟たちが、火鉢を囲みながら世間話をしている。
子供たちはじゃまだからみかんをくれたり、お菓子を包んでくれたりして、「大人しく」と言う。つまらなくて、仕様ことなしに奥座敷の方へゆくと、寒そうな部屋の、きれいに畳替えした上に、女の人たちの晴れ着が、たとうのままのや衣桁にかかったのや、しんと並んでいて、思わず息をのむようだった。
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正月になってその晴れ着を女たちがつけるのは、おとそも祝ったあとの十時頃である。大騒ぎして着つけ、叔母や姉妹と村の宮さんへ詣り、半紙をねじったお賽銭をあげ、おみくじを抽き、それから親戚へ年始にいって、たいていそのまま夜遅くまで遊んでしまう。
同じ村にある祖母の実家は、「酒屋」と呼ばれていたが、そこでは同い年の子供たちが多かったためか、羽根つきや双六をよくした。夜には大人も混じって福引があり、私はその頃にはハイカラな、セルロイドの筆箱を当てて羨ましがられたりした。もっと大きくなってからは、花札や百人一首のかるた会に入れて貰ったように思う。その頃は終戦直後だったから、着るものも無くて、私の着物は絹ふとんの地の梅の模様の、妹のは母の長じゅばんだった鹿の子しぼりの振り袖だったが、私たちが若かったということだけでなしに、華やかで美しかったお正月は、その頃がいちばんだったような気がする。
祖母はむろん、手返しの名人だったチョマさんも、(彼はまた注連縄作りの名人でもあった)セーキさんもツジやんも、いつかこの世の人ではなくなった。
帰ってくる兄弟たちもいないくれの十三日の大がかりな煤はらいも、餅米のゆげでいっぱいになる台所の土間もなくなり、女も男もみそかの手間は適当に早く切りあげて、待ちかねてテレビの前に坐る。
テレビの歌合戦の歓声で、いつか鳴りだした村の貞松寺の除夜の鐘も聞こえない。夜中枕元にひびいていた裏の櫛田川の川音も、ダムができてからはひっそりと黙ってしまった。川原を吹く風の音だって、もう誰も聞かない。
正月に故郷に帰ってくるただ一人の家族になってしまった私は、そんなことなど思いながら何かも変わってしまった、と思ったり、急にそんなことはない何も変わってはいないのだ、と思い返したりする。
じっと耳をすます暗い門松のむこうで、フイッ、フイッと千鳥のなく声が寒そうに遠ざかってゆくと、きこえるはずもない川の音が、榛の木のさわぐ影にまじって不意にきこえてきたりするのである。
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