[391] 「娘って難しい。」
母
ソリューション データ: もの心がついたときには、母が病弱だった。だから母に甘えるということがよくわからなかった。 大人になって、母が言った言葉に対して、トゲのある言い方で返してしまい、後ですごく後悔するのだがそんなことがずっと続いていた。 私が母親になり、私の娘がおばあちゃんっ娘なので、その子が私と母の間のクッションのなってくれている。 母が死んだときに後悔しない関係でいたいと思う。
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[389] 面倒くさがりな自分
ソリューション データ: 小学校高学年のころから、塾の成績などがわかったりすると父親に様々な言葉で怒られて、そのころから自分の価値がわからなくなっていた。 死ぬ願望が強くなったりして何度か未遂をしたこともあった。けれどもある時母親に腕を切っているのを見つかってしまった。そのあと母に様々なことを言われた。正直うるさいとしか思わなかった。 けれどもこれ以上うるさく何かしら言われるのが面倒くさいと思った私はしばらくそのような自傷行為をしなくなった。 今となってはその面倒くさがりやな自分の性格を少しありがたく思った。 なぜならそのおかげで自分のまじめに向き合えるものに出会えたからである。
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[388] 父の決めた進路
ソリューション データ: 大学受験の時、私は自分の進路を迷っていた。その原因は父親であった。ちちはきびしく、子供は親のお金によって学べるのだから親の言う通りの進路に進めという持論を展開していた。しかしながら私は父の示した進路には行きたくなかった。かといって私には、父の納得する進路での目標がなかった。それに加えて父を説得できる成績もなかった。 言葉では表せない悩みの中に陥ってしまった私は身体的、精神的におかしな症状を発症してしまい、通院することになった。そしてその中さらに緊急手術をする病気にかかり入院してしまった。 しかしながら父はどんなことがあっても自分の言う進路に進ませようと時には暴力をふるってきた。機関のギリギリまで父からの様々な行動に耐えながら反論した結果、国立または父の許す偏差値以上の私立に受かればいいということで試験期間を迎えた。浪人しないよう自分の体力が許す限りさまざまな学部を受けた。そして無事難航かの合格を手に入れた。 父の期はある程度静まったらしい。
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[387] 介護について
私が小さかった頃
祖母
ソリューション データ: 私が小さかった頃、一時期祖父母 と一緒にくらしていたことがあります。なぜなら、祖母が病気で、体力が落ち、車いす生活で介護が必要だったからです。闘病生活は、本人だけ でなくかぞくである私たちも苦労するものです。病気のせいか、祖母はいつもイライラして いました。毎日、物事にいちいち文句をつけたり、朝から喧嘩をしていて、私もそんな生 活が嫌でした。 ある時、家を建て直す期に、祖父母と別居し、近くに引っ越すことになりました。祖 母は退院当初と比べれば元気になり、車いすも日常茶飯事であれば必要が無くなって いました。それ以来、祖母が私たちに向かって文句w言いつけることが激減しました。 祖母のイライラしている姿もあまりみなくなりました。週に1回ほど祖父母の家に遊びに 行くのですが、行く度に「待ってたよ」と喜んで迎えてくれます。こんな優しい祖母の笑顔 は同居していたころは滅多に見られませんでした。 介護は付きっ切りで面倒を見るのも一つの方法ですが、人それぞれで適切な距離が違ってくると思います。 親の面倒を見て、介護者がつらいと感じたとき、一度離れているのも手だと思います。できる範囲で行うことがお互い気持ちよく生活ができると思います。
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[386] 絶対的な存在を拠り所にして
思春期
母親
ソリューション データ: 母親は放任主義で、私は家に一人でいることが多かった。小さいころはそれをあまり苦にしたことはなかったが、まわりの「普通」とされている母親像をたくさんみたり聞いたりしたことによって、思春期あたりに不満が爆発した。そんなとき、父に話を聞いてもらった。精神的に救われたし、他人を変えるということはかなり困難だということも悟った。母に変化を期待しても裏切られることばかりだ。しかし相手はなんといっても私の母であるし、私はそんな母を嫌いになることはきっとない。なにより父という絶対的な存在が我が家に入るので、それをよりどころに生きていこうと思った。
キーワード: 母親 放任主義
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[385] 親との和解
学生時代
A君の母親
ソリューション データ: A君の家庭は、親が激しうな何かあるとすぐ暴言を吐かれたり、暴力を受けたりしていた。 A君は母から受けるストレスをゲームで発散させたが、ある日ゲームも取り上げられて しまった。吐け口がなくなったA君は親と大喧嘩をし、家出をした。 2カ月ほどネカフェや友達の家で過ごしたが、所持金が無くなってしまい、野宿した。 しかし道路で寝ているところを通報され、家に強制送還されることになった。 今までは親もA君もお互いにしっかりと話し合う事をしてこなかったが、警察 で6時間以上も面と向かって話し合い、和解することができた。 今、A君は家にちゃんと自分の場所が存在し、勉強をきちんとするならゲームを部屋に 持ち込んでもいいという条件のもと、勉強とバイトの両立に励みつつ頑張っている。
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[384] 家族のこと
ソリューション データ: 私の家族は父と母、姉と私の4人家族です。正直に言って、和y他紙は父と仲が悪いです。 現在、大学生になり一人暮らしをしていますが、3月までの自宅生活はとても居心地悪かったです。当時、姉は就職しており、一人暮らしをしていましたので、父と母、私の3人で生活していました。父と仲が悪くなってしまった原因の決定的なものは、見つかりません。でも、悪いのは自分であることは確かです。父との関係が一番よくなかったのは、高校三年生の時です。私は部活も引退し、受験勉強で家にいることが多くなりました。そのため、父と顔を合わせることも多くなりました。父が仕事から帰ってくると、自分の部屋に戻り、なるべく父と家の中で会わないようにしました。 食事も一人でとることが増えました。よく祖母の家に泊まり、家に帰らないことも増えました。母とは普通に話すことができましたが、母は私と父の関係を心配しており、私の父への態度をよく注意しました。私はそれが嫌で、次第に母との会話も減りました。その頃は、もう同じ家に住んでいるというだけで、一人暮らし同様の状態でした。 私もそのことを友人に話しました。その友人も、父親との関係がよくなくて、悩んでいました。お互い共感し、すっきりしましたが、二人で話した結果、「悪いのは私たちだよね」と、いう結論に至りました。私と友人は、高校を卒業して、家を出ることになる前に、父親との関係を改善することを約束しました。 そして今、一人暮らしをしていて思うことは自宅生活がどんなに楽だったかということと、家に帰ると家族がいるというありがたさです。今は、この生活にも慣れてきて、落ち着きましたが、一人暮らしを始めた当初は、大学生活にも不安が多く、周りに頼れる人もいなくて、本当につらく、寂しかったくらいです。 私は父と母がいなければ、生まれてきませんでしたし、こうやって大学に行くことも、一人暮らしすることもできませんでした。すべて家族がいるからこそ、今の自分があります。そのことを今はとてもありがたく思っています。そして父に対しての態度悔いています。 家族はどうやっても変えることができません。どんなに嫌でも親は親です。家族のことで悩んでいる人はたくさんいると思いますが、できることなら、家族を大切にしてほしいです。
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[383] 喧嘩は工夫次第
ソリューション データ: 六歳上の兄とは些細なことで喧嘩ばかりしていました。たとえば、私が観たい番組と兄が観たい番組のどちらを観るかでリモコンの取り合いが始まります。力では勝てない私は、何か物を投げつけ、それに怒った兄に蹴られるというように喧嘩が起こっていました。しかし、一日ごとに観たいテレビを観たり、録画をしたりと工夫をしたことにより、喧嘩は無くなりました。何事も工夫が必要だと思いました。
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[382] 虐待はすごくつらい
ソリューション データ: 私は幼稚園のころから母親から虐待されていました。 あざができるなど大きなケガをしたことはなかったけど蹴られたり突き飛ばされるなどの暴力を受けました。 また、それだけではなく言葉の方もひどくて「見てるだけでイライラする」「あんたなんかいなければよかった」と言われた時は、本当に死にそうでした。 弟が産まれるとそういうことも減ってきました。 だけど私の心には深く残っていて母親を恨むこともありました。 その状態のままでは嫌だと思い高校生のときに「どうして昔あんなことをしたの?」と勇気を出して聞いてみました。すると母は「慣れない子育てのストレスや父も子育てに参加しないし、周りに相談できる人がいなかった。ごめんなさい。」といいました。 今では、母の辛さがよく理解できるし、愛されていなかった訳ではないことが分かって本当に良かったです。 まだ、思い出すと苦しくなったり、自分の中で消化しきれてはいないけど、最近は、それがあったから今の私があると前向きに考えて頑張っています。 今では母と友達のように仲良しです。
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[381] 子供にばれた父親の浮気
小学高校学年
父親
ソリューション データ: 私が小学校高学年のときである。携帯電話を持っていなかった私は母と父の携帯電話を使って遊ぶのが楽しかった。そして父の受信メールを見てしまったのだ。女の人からのメールがずっと続いていた。内容を見たら小学生の私にも浮気だということが理解できた。 それを見てしまった日からなんだかもやもやして自分の中に食い留めておくことができず、母に打ち明けた。母は何も知らなかったのでショックを受け、実家に帰ってしまった。残された私も父との関係が気まずく、母に言ってしまったことを後悔し、自分が家庭を壊したと攻め続けた。 3日後、母が帰ってきて3人で食卓を囲み食事をしているときに、父から謝罪と縁は切ったという報告があり、なんとか家庭は元通りになった。その後父が母と私からの信頼を取り戻すには時間がかかったが、今では3人で旅行や買い物にいく仲良しな家族である。
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