[407] 反抗的だった娘
娘
ソリューション データ: 上の娘は私とぶつかってばかりいました。 小学校一年生からすでに反抗期と言ってもいいくらいでした。 勉強のこと、友達のこと、進学のこと、一つ一つが反抗的で高校を卒業してからは二度も一人暮らしをして家を出ていましたが、 一昨年結婚し妊娠。娘の口からは「結婚してからお母さんの気持ちがよく分かるようになった。あの時はごめんね」と言われました。
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[405] 義母との認知症
義母
ソリューション データ: 義母が認知症になり、その初期の頃のこと。 私が義母のことを認知症でないかと夫に話しても否定するばかりで、そのうち私と夫との関係は悪くなり、けんかをしたり、口をきかない日々がありました。 しかし義母の認知症がすすみ夫も認めた時から、私に協力してくれるようになりました。
キーワード: 夫との関係
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[404] 兄不登校
中学1年生
兄(当時高校二年生)
ソリューション データ: 中学生の秋頃に4つ上の兄(当時高校2年生)が学校に行けなくなった。何となく、原因はクラスに仲のいい友人がいないからと後で知る。 両親・兄+担任で何度も話し合い、スクールカウンセラーにもあったりするも、さぼって家で寝ていたり学校に行かなかったりしていたが、結局本院の気持ち次第なんだろうと、両親もあまりきつく学校に行け等も言わず、私も兄に学校のことは聞かないようになっていた。 不登校のことは割と周囲にもオープンに話していたので、両親も気が楽であったようだし、知り合いのお母さんが気分転換にと映画や食事に誘ったりもしてくれて、恵まれた環境だったと思う。 こうしたことやクラス替えの配慮もあり、翌年から兄はまた高校に通えるようになり無事に卒業した
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[403] 家族の絆の話
高校時代
母親
ソリューション データ: 私は長女で妹と弟がいます。 たぶん物心ついた時から「お姉ちゃん」だから・・・という思いがあり 常に私がしっかりしなければ、親や先生に迷惑をかける様な事を してはいけないという強い思い込みがあり才まで様々な 選択をする際には自分がどうしたいかではなく、私がどうすれば周囲が喜ぶか、円満か、という副主でしか 選択できない様になっており、その事に何の疑問も 持っていなかった。 だけど、さすがに24歳にもなれば色んな違和感が生まれてきて、それでも自分の思考を変えることは出来ず、なのに自分が自分の人生を 歩んでいない様な虚無感にとらわれ、当時働いていた病院も 通っていた看護学校も全てが無意味に思え、自分がしたはずの選択なのに人の人生を歩かされいるような気持になり体調を崩して仕事を休んだりすることが出てきた。学校もや趣味勝ちになったり、思うように時宗が進まなかったりもしたが、休学したりする中で、何かと「現状」に戻ろうと無理にがんばってしまったりしていたが、それでも自分がすごくつらくてたまらない、という気持ちを伝えられなかったし、自分自身が頑張れないことが良くないことだと思い込んでいてなかなか外へ気持ちを表出することができなかった。私は親に対しては何の問題もなく仕事も学校も行っているそぶりをしていました。(今思えばバレバレなのだが)が、通学途中に電車から降りられなくなったりと行動に表れるようになり自分でもどうしていいかわからなくなっていた時に、当時の学校の担任が母親を学校に呼び出し三人で話すことになった。私としてはすごく屈辱的なことで、パニック状態になり、母親が「そんなにつらいなら辞めればいい」といった一言にかっとなって、「今までに一度だってそれでよかったことなんかない。いつもいつも他人の前ではいい顔をしてそんなことをいうけど、その通りにしたら後でいろいろと文句を言うのはお母さんじゃないの」と自分でも信じられないようなことを言った。本心だったと思う。ただそれを言ってしまってはいけないという思いが強く、ずっとその時まで自分の中にしまってきたのだと言う事に、その時初めて気づいた。今思えばなぜそんな一言が言えなかったのかと不思議に思うのだけど、私と母との間の悪循環が断ち切れた瞬間だった。その瞬間から、本当に不思議なのだけどその瞬間から、母親に対する思いが変わり、とてもいとおしい存在に変わった。
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[402] 夫婦でよく話し合うことの大切さ
社会人
義母
ソリューション データ: 私は看護師として働いていますが、私の主人のお母さんが、私が勤務している病院に入院してこられました。リハビリの目的で入ってこられたのですが入院10日目に事態は急変し、もともとの持病が悪化しあと2-3日の命ですと宣告されました。ですが一命を取りとめることができました。でも臀部には大きな褥創ができ、治るのに1年かかりました。義母は、この病院で7年間入院していました。その間私が、洗濯やらをしていたのです。主人は、最初の頃はよく面会に行っていたのですが、途中から足が遠のきました。ある時、私が先が見えない介護、といっても義母さん入院をしているのだから、殆ど洗濯ぐらいだけだったのですが、主人の前で泣いたことがありました。私が暴発してしまったのです。看護師として、失格だなあ〜と思ったのですが、どうにも自分が疲れてしまったので、「何とかして」ということを言ったのです。主人は、「息抜きは必要だよ」と言ってくれました。それからは、面会に何のわだかまりもなくすいすいといけるようになりました。何か問題が起こった時は、夫婦でよく話しあうことが重要だということがよくわかりました。こんなこと問題じゃないという、問題の有無に関わらず日頃から色々な事について、よく話し合う必要があるのだ、ということ。言葉で気持ちを伝えあうことが問題を解決するということがこの体験を通してよくわかりました。
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[400] 母親の性格に関する悩みを匿名掲示板に相談した結果
母親
ソリューション データ: 母親の性格に悩んでいる時に匿名掲示板で打ち明け、親の性格はその後も変わらないが多くの人のアドバイスに心が軽くなった経験がある。何が正しいのかも分からなくなっていたが自分は間違っていなかったという安心と発想の転換を得られたことが大きいと思う。 こうした悩みが世間では多いと知ったのも良かったと思う。
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[399] 自分の気持ちを強く持つ!”
ソリューション データ: 高校に進学する際、どこの高校に行くかで、私は進学したい学校と、親が言ってほしい学校が違い、毎日喧嘩していました。親が行ってほしい学校が所謂れっきとした進学校であり、きちんと勉強しろということでした。しかし、自分はほかの学校に進学したかったので、何とか親を説得しようとあれこれ考え、説得しようとしていました。ですが親もなかなかいいと言ってくれず、進路決定の間近まで決まりませんでした。それで、なぜ親は許してくれないのか親は本当のところ、何を望んでいるのか考えました。すると自分が今まで説得で主張していたこと以外に気になっていることがあるのだと気づき、そのことを親に尋ねました。その結果、親戚の方の助言もあり、私が行きたい学校に進学することを許してもらいました。
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[398] 認知症について
3年前
曾お祖母さん
ソリューション データ: 私の曾祖父は認知症です。3年ほど前からだんだんと物忘れが激しくなって、今ではもう、私が会いに行っ ても、誰だか分からない状態です。それまでは可愛がってもらっていたので最初はもちろん悲しくて、認知 症についてもよくわかっていなかったので、「忘れるなんてひどい」と思っていました。認知症の知識がつい てきてからは「忘れられて悲しい」ではあく祖母が忘れてしまった色んな事を話してあげることは 楽しいのだと思えるようになりました。小さい頃の話や、学校の話、住んでいる所の話、などいろんな ことを、きっと忘れてしまうけど話すことは結構楽しいです。悲しいとか、寂しいとか、マイナスな感情ばかりではなく、色んなことを前向きに考えていくと、自分も楽だし、相手もなんとなく感じ取るのではないかなと思います。
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[396] 弱いところを見せてみよう
ソリューション データ: 私には障害を持つ兄がいます。もちろん幼いころは障害がどういう事かよく理解していなかったので、深く考えたりもしませんでした。しかし小学生の高学年になると。一緒に買い物をしていると周りの人にジロジロ見られていることに強く違和感を持ち始めました。見られることを恥ずかしいと思ったり、友達にも家に遊びに来た時は兄のことを話すけれど、話したくないと思ってしまいました。中学生でもその状態が続きました。高校生になるとそういう気持ちはなくなりましたが、どうしても嫌悪感があったので高校3年生の時に母にすべて話しました。母は、そう思ってしまうのは仕方のないことだよ、あなたは悪くない、あなたはが信用している人にだけ話せばいいと言ってくれました。自分にとって大切な家族のことを一度でも恥ずかしいと思ってしまった事は、今でも最低だと思います。でも、母に本当の事を話すことで気持ちが楽になりました。兄のおかげで今の自分がいると思っているし、社会福祉という分野に勧めたのも兄と母の影響があったからだと思っています。自分の弱いところをすべて見せるのはいいことだとは思わないけれど、私はこの件で自分の弱いところを見せて、結果的に自分の気持ちが整理でき、解決することができました。
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[395] 家族との紲
ソリューション データ: 私も3歳の時に母を癌でなくしました。小さい頃の記憶はほんのわずかなので、物心が付いた時には母がいない生活が当たり前のようでした。でも、公園やショッピングセンターなどで母が娘が楽しそうにしているのを見ると、「お母さんほしい」と思うことが時々ありました。一般的にはいるはずの人がいない、という状況の人は誰もが感じることではないかと思います。 でも最近、そんな考えも吹っ切れた出来事がありました。ある日一緒に住む祖母から、亡くなった母の話をたくさん聞いたのです。父と母が出会った時の状況、母が父に抱いていた愛情、母と母方の祖母との複雑な関係、母が嫁いできたときの状況、母が病気にかかった時の父、等々、粟田氏がしらない話をたくさんしてくれました。そのときが母がすごく身近に感じて、知らなかった両親の気持ちや関係が分かって、すごくうれしかったし、母の子で良かったなと改めて感じました
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