1.概要

にっぽん丸の「新潟発着 利尻・奥尻クルーズ」に参加することが決まった後、どのような交通手段で新潟港まで行くかについて検討しました。その時、①商船三井から株主優待でいただいたフェリーの値引き券を使いたい、②石川県の輪島方面には行ったことがないので行ってみたい、③折角だから輪島以外の観光地にも行きたい、との理由から、マイカーで行くことにしました。6月5日の夜に別府港を発つ「サンフラワーくれない」で大阪南港に移動し、3日間観光しながら新潟港に行き、6月9日ににっぽん丸に乗船。6月12日に新潟港で下船してからは、観光しながら大阪まで出て、3日目の夜に大阪南港から「サンフラワーむらさき」に乗って別府港に帰着するコースを計画しました。8泊10日の行程です。

2.別府国際観光港から「サンフラワーくれない」に乗船して宿泊(1日目/6月5日)  

別府国際観光港から大阪南港までフェリー・サンフラワーの定期航路があります。今年(2023年)の春に新造船が就航しました。従来のフェリーと違って高級化しているとの話を聞いたので、乗ってみることにしました。乗船手続きは、17時までに済ませないといけません。そのため、遅くても16時半には別府港に着く必要があります。遅刻しないように自宅を早めに出て、16時前には到着しました。今日、乗船するのは、「サンフラワー・くれない」です。18時45分に出港して、翌朝の6時35分に大阪に着きます。約12時間の船旅となります。

大分県由布岳周辺の景色(緑が眩しい!)

「サンフラワー・くれない」の姿を見てホッとしました。

記念写真を撮りませんか?

客室は、クルーズ船によく似ていて、室内にトイレもシャワー室もあってとても快適な造りになっていました。 昔は、二等船室があって雑魚寝だったのですが、今は二等船室とかありません。フェリーで雑魚寝なんて、昔話になってしまいましたね。レストランもおしゃれでした。夕食も朝食もビュッフェで、品数が多くて美味しかったです。ツアー客が多いのには驚かされました。家族連れも多かったです。旅行(交通手段)の選択肢が増えたんだなぁと実感。機会があれば、また乗船したいですね。「サンフラワー・くれない」の船旅を動画にまとめたので、ご覧ください。

動画:「サンフラワー・くれない」に乗船

 

3.大阪南港、敦賀、永平寺、東横INN高岡駅 泊(2日目/6月6日)

朝の6時35分に大阪南港に着きました。先にトラックから下船して、乗用車は最後になります。それでも下船したのは6時50分頃。朝早く到着すると、午前中の活動時間がたっぷりとれるので、得した気分になりますね。今日は、富山県の高岡駅まで行きます。途中、福井県の敦賀(つるが)赤レンガ倉庫、同じく福井県の永平寺を観光します。先ずは、敦賀赤レンガ倉庫へ。

福井県敦賀市は、明治から昭和初期にかけて、ロシア経由でヨーロッパへと繋がる国際都市として繁栄しました。シベリア鉄道の発着地であるウラジオストクと敦賀を結ぶ鉄道連絡船が就航していたのです。当時の敦賀には西洋的な近代建築も数多く、シルクハットの紳士やドレス姿の淑女が歩く異国情緒に満ちあふれた街だったそうです。その象徴である『敦賀赤レンガ倉庫』は、外国人技師の設計によって1905年に石油貯蔵用の倉庫として建設され、2009年1月に国の登録有形文化財に登録されています。

明治から昭和初期の頃の敦賀の地図(地図をクリックすると拡大します)

赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫の前のベンチに、恐竜博士3代目が立っていました。何でこんな所に恐竜がいるのでしょうか? 恐らく福井県では多数の恐竜化石が見つかっていて、自他とも認める恐竜王国だからかな⁉ この恐竜博士3代目は、2022年3月に県内7か所に設置されたうちの一つとのこと。恐竜博士3代目と一緒に記念写真を撮るのも面白そうで”有り”かもね⁉

恐竜博士3代目

赤レンガ倉庫内に全長約27㍍、最大奥行き約7.5㍍の大きさを誇る「鉄道と港のジオラマ ノスタルジオラマ」がありました。明治後期から昭和初期にかけての敦賀のまちなみを鉄道と港のジオラマで再現し、敦賀の歴史を楽しく学ぶことができる国内最大級のジオラマ館だそうです。面白そうなので入ってみました。

ジオラマ館入口

D51形1号機をはじめとする蒸気機関車、及びディーゼル機関車などが、所狭しと走り抜けていました。かなり精巧に作られていて、動く様子を見ているだけで楽しくなりました。

ジオラマ

次に、「人道の港 敦賀ムゼウム」に行きました。第2次世界大戦の時に、ナチス・ドイツの迫害から逃れるユダヤ人を救うために尽力した杉原千畝氏の功績が展示されていました。昭和15年(1940年)~昭和16年(1941年)、ユダヤ難民はナチス・ドイツの迫害等から逃れるため、リトアニアのカウナス領事館に勤務していた杉原千畝領事が発給した「命のビザ」を携え、リトアニアからウラジオストクを経て、敦賀港に上陸したのです。苦難の旅路を経て敦賀に降り立った彼らは、敦賀の街は「天国(ヘブン)に見えた」と後に語っています。展示では、彼らが敦賀に上陸するまでの経緯や上陸当時の状況、日本から旅立つまでの出来事などが紹介されていました。また、「ウラジオストク-敦賀間のユダヤ難民輸送業務」等を担ったジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)の職員・大迫辰雄氏ついての紹介もありました。大迫辰雄氏の存在をここに来て初めて知った次第ですが、「命のビザ」も大事ですが、ユダヤ難民を船に乗せて敦賀まで運んだことも凄いことです。JTBも頑張ったんですね。素晴らしいチームプレーがあったことに感動しました‼

人道の港 敦賀ムゼウム

交流コーナーの展示

杉原千畝領事がビザを出すかどうか苦悩した「決断の部屋」

「人道の港 敦賀ムゼウム」を出ると、目の前に金ヶ崎緑地が広がっていました。この緑地は、敦賀市にある敦賀港開港100周年の一環として整備されたものです。天気の良い日に、ここでのんびりしたら、きっと癒されるだろうと思いました。

金ヶ崎緑地の愛・地球博(愛知万博)に出品されたモニュメント

お腹が空いてきたので、赤レンガ倉庫の近くにあるレストラン「グリーンハウス」でランチタイムを取りました。赤レンガ倉庫の周辺にはレストランがあまりないので、探すこともありませんでした。

グリーンハウス

店内では、アレンジメントフラワーの販売も行っていました。

日替わり定食(美味しかったです)

腹ごしらえが終わったら、次は永平寺です。永平寺まで1時間くらいかかりました。永平寺は、曹洞宗の仏教寺院で、總持寺(そうじじ)と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院です。寛元2年(1244年)に道元禅師によって開かれた坐禅修行の道場。道元禅師は、正治2年(1200年)京都に誕生しています。3歳で父を8歳で母を失い、世の無常を感じて13歳の春に出家され、中国の宗で修業を積まれています。

永平寺全景図(クリックすると拡大します。)

永平寺はとても広いので、あらかじめ参拝順路が定められていました。

参拝順路

通用門

手水舎

手水舎の先に、小舟に乗った観音様が見えました。この観音様は、一葉観音と言うそうです。この一葉観音には、中国に留学した道元禅師の船旅を守護したという言い伝えがあります。

一葉観音

最初に傘松閣(さんしょうかく)の部屋に入りました。すごい広さの大広間で、222畳敷だそうです。ここの天井画が素晴らしくて、144名の画家によって描かれた作品とのこと。一つ一つがとても美しくて、見惚れてしまいました。

傘松閣

天井画

参拝順路に従って、見て回りました。

山門から見た景色

朱雀門から仏殿を望む

法堂

永平寺では、個人参禅体験や団体研修も受けているためなのか参拝者がかなり多くて、意外に思いました。永平寺の帰りに、お土産に羽二重餅を買いました。お餅を売っているお店が偶然にも無人店舗だったので驚き‼ 商品を盗まれたりしないのでしょうか⁉ のどかで平和な地域なのでしょうね。私達が住んでいる福岡だったら、お金を払わずに品物を勝手に持って行く人が多いような気がしますけどね。

無人の羽二重餅販売店

冷蔵庫から欲しい分だけ取り出して、お賽銭箱のような箱にお金を投じます。

お餅を買ってから、東横INN高岡駅新幹線南口に向かいました。部屋は、ハートフルツインルームで、面積は24㎡もあって、ゆったりしています。料金は、スタンダードのツインルームと同額なので、いつも早めに予約を入れて確保します。

東横INN高岡駅新幹線南口

ハートフルツインルーム

浴室

トイレと洗面

4.石川県輪島市、禄剛崎灯台、珠洲(すず)市、東横INN高岡駅 泊(3日目/6月7日)

今日は、石川県の輪島朝市、輪島塗会館、能登半島の最先端にある珠洲市の禄剛崎灯台(ろっこうさきとうだい)に行く予定です。

朝食

ホテルを7時半に出発し、輪島朝市会場に到着したのは10時過ぎでした。約2時間半もかかりました。遠かったですね~。

輪島朝市通り

輪島朝市通り

お土産品店

お土産用の輪島塗の箸

魚の干物も売られていました。宅配便で自宅に送れるとのこと。

永井豪記念館がありました。永井豪は、石川県輪島市出身の漫画家で、代表作に『ハレンチ学園』『デビルマン』『マジンガーZ』などがあり、人気の漫画家です。漫画にはほとんど興味がないので、館内には入らずに前を素通りしただけ。

永井豪記念館

輪島市は、2015年に放送されたNHK連続テレビ小説「まれ」の舞台となっています。輪島朝市近くに「輪島ドラマ記念館」があって、「まれ」のロケセットなどが多数展示されていました。

輪島ドラマ記念館

「まれ」出演者が勢ぞろい。中央のパティシエが主人公の「まれ」で、女優の土屋太鳳(たお)さんです。

ロケで使用されたカウンターのセット

「まれ」を見てから、輪島塗会館に行きました。輪島塗の芸術作品がずらりと並べられていました。中には値札が付いていて販売している品もありました。素晴らしくて買いたくなるのですが、高過ぎて手も足も出ません。

輪島塗会館

続いて、能登半島の最先端にある禄剛崎灯台(ろっこうさきとうだい)に行ってみることにしました。天気が良かったので、海がキラキラ輝いて綺麗だったのですが、5月5日の地震の影響で、道が閉鎖されていたり工事中だったりして、スムーズに行くことができませんでした。灯台近くの「道の駅 のろし」に到着してから禄剛崎灯台(ろっこうさきとうだい)へ行く道を尋ねると、車は進入禁止になっているとのことだったので、行くのを諦めました。「道の駅 のろし」で食事をすることにしました。メニューは、蕎麦のみ。

「道の駅 のろし」

ここで提供している蕎麦は、奥能登珠洲の豊かな大地で育まれた在来の「丹生(にう)そば」です。実が小さくて甘みとコクがあり、収量が少ないために希少性の高い蕎麦だそうです。そばを注文したら、狼煙(のろし)名物の大浜大豆の豆腐が付いてきました。この豆腐に能登珠洲塩をふりかけて食べるのが良いそうです。初めて豆腐に塩をかけて食べましたが、醤油の方が好きやなぁ。

「丹生そば」の旗

丹生そばと大浜大豆豆腐

能登半島は、地震多発地帯です。特に珠洲市では、2023 年 5 月 5 日に震度6強の地震が発生していて、1,825棟が被害を受けています。1729年以降、大きな地震(マグニチュード6以上)は、2024年1月1日を含めて10回も発生していますし、珠洲地震の特別報道写真集まで発刊されています。この地域が地震多発地帯であることは周知の事実なのだから、もっと早く地震対策を講じておくべきだったのではないかと強く思いました。犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様方が一日も早く普通の生活を取り戻されますよう願ってやみません。輪島の朝市エリアが焼け野原になったことも非常に残念です。

「道の駅 のろし」で目にした新聞

能登半島の最先端まで行ったので、ホテルに戻ることにしました。行きは、能登半島の西側を通ったので、帰りは、別の道を通りました。1時間くらい走ったら、「道の駅 桜峠」に出ました。ここは、ブルーベリーのソフトクリームが有名な所です。トイレ休憩を取ってから、ブルーベリーソフトクリームをいただきました。

「道の駅 桜峠」

休憩所

16時半頃、無事に東横INN高岡駅新幹線南口に帰り着きました。

5.長岡市、東横INN新潟古町 泊(4日目/6月8日)

今日は、にっぽん丸に乗船するために新潟市まで行きます。その途中、長岡花火ミュージアムと河井継之助記念館に寄って観光します。

朝食

ホテルから長岡花火ミュージアムまで約2時間40分かかりました。早速、館内に入りました。

長岡花火ミュージアム

美しい花火の映像が流れていて、見ているだけで楽しい気分になれました。実際の花火は迫力があって素晴らしいだろうなと感じました。

館内の展示の様子

展示の中で目を引いたのは、打ち上げ花火に関するものです。打ち上げ花火の種類(割物、型物、千輪、ポカ物)と花火玉の作り方です。なるほどと思いました。

展示の様子

打ち上げ花火の種類(写真をクリックすると拡大します。)

割物の断面

花火玉の作り方が面白かったです。行程は、以下の通り。

1.薬品配合

2.星掛け

3.星の乾燥

4.玉込め

5.玉貼り

2階のドームシアターでは、昨年8月2日と3日に打ち上げられた長岡花火を鑑賞することができました。映像が少しぼやけていましたが、臨場感にあふれていました。 YouTubeで【長岡花火】で検索すると、素晴らしい光景を見ることができます。良かったら覗いてみてください。

長岡花火大会のポスター

長岡花火ミュージアムに隣接してフードコートがあったので、そこで昼食を取りました。台湾風のチャンポンです。お味はまぁまぁ。

お店 たねや

台湾風チャンポン

食事を済ませてから、河井継之助記念館に行きました。

河井継之助記念館

河井継之助は、剣術や学問に励み、1852年に25歳で江戸に出て佐久間象山(さくましょうざん)の下で蘭学や砲術を学びます。 長岡藩に戻り、39歳のときに郡奉行となると、庶民の暮らしが豊かになるよう財政立て直しなど藩政改革に努めましたが、幕末の新政府軍と長岡藩による北越戦争で命を落とします。長岡藩の河井継之助らの奮戦ぶりは司馬遼太郎の小説『峠』で描かれ、役所広司主演で映画化もされています。

河井継之助像

映画「峠」の紹介コーナー

動画:映画『峠 最後のサムライ』予告編

河井継之助記念館を出てから、新潟市内にある本日の宿(東横INN新潟古町)に向かいました。1時間程度で到着。

東横INN新潟古町

夕食に新潟郷土料理の『のっぺ』と新鮮な刺身が食べたかったので、近くの居酒屋「海老の髭」に行きました。

刺身

焼き物

サラダと『のっぺ』

6.新潟港からにっぽん丸に乗船(5日目/6月9日)

今日は、新潟港からにっぽん丸に乗船します。受付時間は、13時から14時の間です。朝食を食べてから、ホテルを9時過ぎにチェックアウトし、米どころ新潟で有名な亀田製菓のお菓子を直売所に買いに行きました。買ったお菓子はお土産用です。

朝食

亀田製菓直売所

その後、新潟市内の皮膚科の病院に行きました。理由は、まゆちゃんの足に水ぶくれが出来ていて、船旅が始まる前までには診察して貰いたかったから。これから船旅が始まります。旅が始まったら、病院にはなかなか行けません。今日が最後のチャンスなので、思い切って病院に行きました。水虫かな?と思っていたのですが、汗疱(かんぽう)と診断されました。心配することもないって感じでした。塗り薬を処方していただいたので、直ぐ塗って治療をスタートしました。その後、新潟港山の下埠頭に少し早めに行って、近くの駐車場に車を停め、受付を済ませて乗船しました。

続きは、「利尻・奥尻クルーズ・岩崎良美 新潟港発着」へ (⇐ クリックするとつながります。)

 

7.にっぽん丸を下船、東横INN新潟古町 泊(6日目/6月12日)  

サンドイッチを食べたこともあって、あまりお腹が空いていなかったので、コンビニでお握りなどを買って、ホテルに入りました。ホテルには、10分程度で到着。部屋は、6月8日と同じ部屋です。

東横INN新潟古町

クルーズの疲れもあって、お握りを食べたら眠たくなったので、早々と床に就きました。

8.福井県丸岡町、東横INN福井駅 泊(7日目/6月13日)

今日は、JR福井駅まで約400㎞移動します。途中で福井県の丸岡城(霞ケ城)を観光します。時間に余裕を持たせるために8時半にホテルを出ました。

朝食

丸岡城まで5時間半もかかるので、途中、越中境パーキングと尼御前パーキングで休憩をして安全第一で移動しました。

越中境パーキング

尼御前パーキング

丸岡城は、安土桃山時代に建造されたと推定されています。天守は重要文化財に指定されていて、石垣は当時のままの状態で現存しています。丸岡城は「霞ヶ城」とも呼ばれていて、その由来は、合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説があるからだそうです。

丸岡城天守入口(階段を上った所に天守があります。)

丸岡城天守と石垣

城内に「お静慰霊碑」がありました。築城の際に天守閣の石垣が何度も崩れるので、「お静」という女性が人柱になったそうです。片目の見えない未亡人のお静は、我が子を侍に取り立てて貰うことを柴田勝豊(しばたかつとよ:織田信長の家臣)と約束し、人柱になりました。その後、今までの石垣の崩落が嘘だったのように工事は順調に進み、天守閣は立派に完成しました。ところが、勝豊は他の土地に移ったため、お静の子は侍にしてもらえませんでした。お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月(4月)頃になると、堀は水があふれ出て洪水になるようになりました。人々は、"お静の涙雨"と呼び、小さな墓を建てて霊をなぐさめたそうです。命と引き換えに取り交わした約束を簡単に破るとは、柴田勝豊ってとんでもない侍やね‼

お静慰霊碑

丸岡城の模型

丸岡城の中の様子

1階から2階に移動する時の階段梯子。勾配が67度もあるので、上り下りが怖かった~。

3階の様子

天守の中を見てから、次に、丸岡歴史民俗資料館に行きました。丸岡城の城主は、柴田家の家臣・安井家清から豊臣家・徳川家の家臣へと移っています。そんな中、1612年(慶長17年)には江戸幕府より福井藩に附せられた本多成重が新しい城主となりました。私達は、玄関にて本多成重に出迎えられました。

丸岡歴史民俗資料館

城主・本多成重のお出迎え

丸岡歴史民俗資料館を後にして、JR福井駅そばにある東横INN福井駅に向かいました。チェックインを済ませてから、周辺を散策しました。直ぐに目に入ったのは、動く恐竜像。「こりゃあ、一体何じゃ?」と驚きましたよ。更に、JR福井駅舎の壁面には恐竜のイラストも描かれていたのです。スケールがデカイねぇと感心し、近くにあった看板を読むと、何とまぁ、福井県は恐竜王国なんですね。日本で発見された恐竜化石のうち、約8割が福井県で見つかっているそうです。なかには福井県で初めて発見された恐竜化石もあるとか。県都の玄関口で「恐竜王国福井」をPRしているって訳です。

JR福井駅西口駅前恐竜広場

動画:JR福井駅西口の恐竜たち

恐竜を楽しんでから、夕食を食べるお店を探しました。近くに居酒屋「味美家」があったので、そこに行くことにしました。

味美家

アオリイカの刺身

鯖へしこ

野菜炒め

おでん

塩サバ

そば

食事を済ませてから、ホテルに戻りました。

東横INN福井駅

部屋の様子

9.岐阜県関ケ原、滋賀県彦根市、東横INN南草津駅泊(8日目/6月14日)

今日は、岐阜県の関ケ原古戦場記念館と滋賀県の国宝彦根城を観光し、滋賀県南草津駅にある東横INN琵琶湖線南草津駅西口に行きます。距離は約170㎞。8時半にホテルを出発し、先ずは、関ケ原古戦場記念館に向かいました。

関ケ原古戦場記念館

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)とは、安土桃山時代の慶長5年(1600年)9月15日に、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた天下分け目の戦いのことです。豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将として石田三成・宇喜多秀家らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げています。この戦役の結果、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れました。このことは、徳川家を中心とする江戸幕府の成立に繋がっています。

関ケ原古戦場記念館には、来訪者が歴史の1ページを体中で感じて貰えるよう、シアターや体験コーナーなどが整備されています。受付を通過して最初の所に「グラウンド・ビジョン」がありました。巨大な床面スクリーンを通じて、全国を舞台とした東西陣営を俯瞰できるようになっていました。続いて、プレシアターを通ってシアターに入りました。シアターには、縦4.5㍍横13㍍の楕円型スクリーンがあり、風や振動・光・音の演出により関ケ原の戦いを臨場感たっぷりに味わうことができるようになっていました。まるで、どこかのパビリオンみたいやった。で、残念なことに写真撮影が禁じられていたので、写真はありません。

プレシアターでの映像(戦の様子を影絵で表現している)

1階には、上記以外に、2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』の展示コーナーもありました。松本潤が徳川家康を演じているのですね。一度も観たことがないので、キャストがどうなっているか全く分かりませ~ん。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』のキャスト

2階では、陣羽織を着て戦国武将になりきって写真撮影ができる「戦国体験コーナー」がありました。陣羽織を着て刀を持ってポーズを取っただけなのに、兜を被って闘っているような写真に出来上がっていました。笑えるね‼

戦国体験コーナー

エレベーターで5階に上がり、360°ガラス張りの展望室に行きました。

展望室

展望室から周辺を見回すと、東軍と西軍の位置がよく分かります。関ケ原古戦場記念館から最も近いのは、西軍の石田三成陣跡と島左近陣跡です。東軍は遠いので、今日はパスします。石田三成陣跡に昼ご飯を食べてから行くことにしました。

西軍の石田三成陣跡の方向を示すパネル

石田三成陣跡方面の景色

東軍の黒田長政・竹中重門陣跡の方向を示すパネル

黒田長政・竹中重門陣跡方面の景色

お腹が空いたので、館内にあるレストラン「伊吹庵」に行って昼食をとりました。

レストラン「伊吹庵」

まゆちゃんの好物「カレーうどん」

ようちゃんの好きな「にしんそば」

腹ごしらえを済ませて休憩を取ってから、記念館から歩いて石田三成陣跡に向かいました。田んぼの中を歩いて行くと石碑があって「関ケ原古戦場決戦地」と書いてありました。また、直ぐ近くに「関ケ原の戦い 決戦地」と書いた案内板がありました。陣地は山のやや高い所にあり、戦は平地で行われていたことが分かりました。下級武士が闘っている様子を上から大将が眺め、優勢か劣勢か見極めていたのでしょう。今から約420年前に、ここで多くの武士が命を落としたのかと思うと虚しさを感じるとともに、まゆちゃんは、「あの時代の男に生まれなくて良かったなぁ」などと思ってしまいました。

石碑

案内板

石田三成陣跡

島左近陣跡

古戦場を見終えたので、次は彦根城です。彦根城までは30分程度で着きました。

彦根城表門

彦根城は、 江戸時代初期の元和8年(1622年)、現在の彦根市金亀町にある彦根山に井伊家の拠点として築かれた平山城(標高50m)です。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊家14代の居城でした。3階3重の屋根で構成されている天守、及び、附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)は国宝となっています。

国宝 彦根城天守

天守の中に入りました。天井部分の梁(はり)が素晴らしいです。さすがですね~。

天守の中の様子

階段は急勾配で上るのは良いのですが、下りる時はすごく怖い。だからか、階段に金属製の手すりが付いていました。

階段に取り付けられている金属製の手すり

最上階の様子

天守最上階からの景色(琵琶湖が見えます)

天守に続いて、重要文化財の「太鼓門(たいこもん)と続櫓(つづきやぐら)」です。太鼓門と名付けられたのは、天守がある本丸表口をかためる櫓門に城内合図の太鼓を置いたことに由来しています。また、建物の背面が解放された上に、高欄付きの廊下で、大変稀な構造の櫓になっています。解体修理に伴う部材調査の結果、「太鼓門と続櫓」は、どこかの城門を移築して造っていることが判明したそうです。

太鼓門(たいこもん)と続櫓(つづきやぐら)

「天秤櫓(てんびんやぐら)」です。これも重要文化財です。大手門と表門からの両坂道を登りつめたところにあります。目の前の廊下橋は、「戦時には落とす」と伝わっています。表門山道、大手門山道を上がってきた敵兵が天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入できないことから、廊下橋は、戦時の重要な拠点となっていました。建物土台の石垣は、向かって右側が築城当時の打込みハギ積み、左側が江戸時代後期の改修による落とし積みとなっているそうです。

天秤櫓(てんびんやぐら)と廊下橋

次に、名勝 玄宮園(げんきゅうえん)を観に行きました。玄宮園は、江戸時代には「槻之御庭(けやきのおにわ)」と呼ばれていました。隣接する楽々園(らくらくえん)は槻御殿(けやきごてん)と呼ばれ、延宝5年(1677年)、4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝えられています。天守から玄宮園に移動する時に、黒門橋を渡りました。内堀が綺麗で、静寂に包まれた清々しい空間でした。

黒門橋から眺めた内堀の様子

玄宮園は、江戸時代前期に作庭された大規模な池泉回遊式庭園です。中央に掘られた池泉には大小4つの中島が築かれ、さまざまな形式の橋が架けられていて美しい景色が創り出されていました。手前の池、中ほどの鳳翔台(茶席)、遠方上部の天守が、バランスのとれた絵葉書的景色となっていました。ここは、紅葉を始めとする四季折々の美しい光景を見せてくれるそうです。

玄宮園

続いて、楽々園。楽々園は、下屋敷(別邸)であると同時に「隠居所」としても使用され、13代直弼は、隠居していた11代直中の子としてこの槻御殿(けやきごてん)で産声をあげています。現在の槻御殿は「玄関」「御書院」「地震の間」「楽々の間」などの建物で構成されていますが、11代当主直中の退隠時には現在の10倍近い規模の建物だったそうです。

楽々園

槻御殿

彦根城を観た後、本日の宿「東横INN南草津駅」に行きました。直ぐ近くに西友南草津店があったので、そこで買い物をしました。

東横INN南草津駅

西友 南草津店

10.宇治市、豊中市、大阪南港からサンフラワーむらさきに乗船して宿泊(9日目/6月15日)

今日は、京都府宇治市にある世界遺産・平等院鳳凰堂に行きます。そして、大阪南港を19時5分に出発するサンフラワーむらさきに乗船して別府に帰ります。大阪南港では、旅友のT夫人にお会いすることになっています。

朝食

朝9時にホテルを出発したので、10時前に平等院の駐車場に到着しました。車を停めて、南門から平等院に入りました。

平等院南門

前回、京都旅行をした時に行けなかったので、今回こそは行きたいと思っていました。実現出来て嬉しい限り。平等院の最大の魅力は鳳凰堂ですが、創建から千年以上も経っているため、境内には見どころがたくさんあります。先ずは、そちらから紹介します。

平等院には2つの塔頭(大寺に所属する小寺)があり、浄土宗の「浄土院」と天台宗系の「最勝院」の二つの塔頭が平等院を共同で管理しています。

「浄土院」ですが、浄土宗の栄久(えいく)上人が、明応年間(15世紀後半)に平等院修復のために開創した寺と伝えられています。

浄土院

「最勝院」は、1654年に京都東洞院六角勝仙院(住心院)の僧が平等院に移った際、その住庵を最勝院と呼んだのが由来だそうです。

最勝院

不動堂は、災難除けの不動明王を本尊とし、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる役小角(えんのおづぬ)の像が並んで祀られている最勝院の本堂です。

不動堂

観音堂は、平等院が創建された当時に本堂があった場所に、鎌倉時代前期に建てられました。道場的な役割を果たしていたらしく、内部空間は簡素な造りとなっています。

観音堂

扇の芝は、表門付近にあります。治承4年(1180年)、以仁王(もちひとおう)を擁して平家追討の兵を挙げた源頼政が、宇治橋で平家の軍勢を迎え撃った末に自刃したと伝わっている場所です。

扇の芝

最後に鳳凰堂です。鳳凰堂は、10円硬貨に描かれており、とても有名。永承7年(1052年)に関白・藤原頼通がこの世に極楽浄土を再現するために開創したものです。池の中島に建てられていて、鳳凰堂を正面から見た姿が翼を広げた鳥のように見えること、屋根上に1対の鳳凰が据えられていることから、「鳳凰堂」と呼ばれるようになったそうです。鳳凰堂の堂内には、平安時代最高の仏師によって制作された阿弥陀如来坐像が安置されています。更には、11世紀の仏像群として唯一伝来する雲中供養菩薩像52躯もそのままの姿で残っています。雲中供養菩薩像は、雲に乗って様々な楽器を奏でて舞っています。極楽浄土で阿弥陀如来の徳をたたえ、極楽世界の楽しさを謡っているとのことです。 鳳凰堂内を拝観するために、別途拝観料を払って予約を入れました。堂内の写真撮影は禁止されていたため、動画内の阿弥陀如来坐像と雲中供養菩薩像の写真はパンフレットからのものです。

動画:平等院鳳凰堂

ゆっくり平等院内を見て回り、その後、昼食に行きました。適当なお店を探した結果、直ぐ近くにあるサイゼリアにしました。

サイゼリア

ハンバーグ定食

食事を終えてから、大阪南港に移動しました。早めに行って、にっぽん丸のモーリシャス・プレシャスクルーズで知り合った友達のT夫人と久しぶりに会い、旅の思い出話などで楽しいひと時を過ごしました。わざわざ大阪南港までお越しいただき、とても嬉しかったし愉快でした。貴重なお時間をいただき、どうもありがとうございました。

旅友のT夫人

暑かったので、宇治金時に舌鼓

乗船の時間になったので、T夫人と別れて、サンフラワーむらさきに乗船しました。「むらさき」と「くれない」は、双子の船です。部屋も同じだし、レストランなどのパブリック空間もまったく同じ。2隻が別府と大阪南港を交互に行ったり来たりしています。

サンフラワーと陸橋

今から乗り込みます。

係員の誘導に従って進みました。

レストランで食べたビュッフェの夕食

夕食を食べ終わったら、間もなく明石海峡大橋の下を潜るとのアナウンスがあったので、甲板に出て景色を楽しむことにしました。

神戸方面の景色がネオンキラキラで美しかったです。

動画:明石海峡大橋

海は凪いでいたので、ぐっすり眠ることができました。

11.別府国際観光港に到着(10日目/6月16日)

下船が早いので、朝5時に起床して、レストランで朝食をいただきました。レストランは6時には閉まるので、ゆっくり食べる間はありません。好きな物を選んで、サッサっと食べました。

朝食

6時55分に別府国際観光港に無事到着。大分自動車道や九州自動車道を通って、自宅に帰りました。

大分自動車道

 

このページの一番上に戻る