1.概要

今年の4月に奈良に行った時に、バスの中から「平城宮跡歴史公園」入口にある『遣唐使船』と『朱雀門(すざくもん)』を見て、「立派な施設ができているみたいね。是非行きたい!」と魅せられてしまいました。また、昨年(2021年)11月に飛鳥Ⅱに乗船した時に、野生のウサギと毒ガス製造で有名な「大久野島」の存在を聞いて、強く魅かれました。更には、九州から四国に渡る最適な方法として、『国道九四フェリー』があることを知り、一度は乗船したいと思いました。こうした思いと、かねてから行きたかった観光地とを合算して、このたびの旅行を計画して実施しました。旅行期間は、2022年8月19日(金)から8月27日(土)までの8泊9日です。

2.大分県佐賀関港、愛媛県三崎港、大洲市、東横INN松山一番町 泊(1日目/8月19日)  

大分県の佐賀関を11時に出発する『国道九四フェリー』に乗船するために、マイカーで朝7時に家を出ました。約2時間半かかって佐賀関港に到着しました。スムースに移動できたため、1便早い10時発のフェリーに乗船することができました。愛媛県の三崎港に着くのは、11時10分とのこと。たったの70分で四国に上陸できることに改めて驚きました。このフェリーは人気があるようで、車も乗客も多かったです。

乗船

佐賀関港

船内の様子

出航して15分くらい経ってから四国方面を見ると、既に佐田岬が見えていました!

遠くに薄く見えているのが佐田岬です。

30分もすると、佐田岬灯台が見えてきました。

佐田岬灯台

地図で見ても実際に見ても、佐田岬灯台はとても近いのです。

地図

愛媛県の三崎港に定刻通り11時10分に着きました。70分なんて、アッと言う間でした。朝7時から夜の23時まで1時間おきにフェリーは出航しているし、車1台と大人二人で運賃は9,900円です。スピーディーだし、安いしで使い勝手の良い交通手段だと実感しました。おススメです。

三崎港に着きました~。

三崎港に着いてから、早速、大洲市(おおずし)に向かいました。途中、「佐田岬メロディーライン」を通った時、【みかんの花咲く丘】の曲が道路から流れてきて楽しかったです。また、佐田岬を通過する時に、佐田岬の両側が断崖絶壁になっていることを初めて知りました。幅が狭くて細長い半島で、中央部が山になっているのです。これには、驚きました。

約1時間かかって大洲市に到着。大津市は、城下町です。先ずは、『大洲城』に行き、その後『龍山荘(がりゅうさんそう)』と『おはなはん通り』に行きます。

大洲城

大洲城の歴史は、鎌倉時代末期に始まると言われています。その後、戦国時代を経て、何人もの大名を経て近世城郭が整備されています。天守は、平成14年(2002年) に復原工事が始まり、平成16年(2004年)に完成しています。なので、内側はピカピカで、展示もほとんどありませんでした。台所櫓(だいどころやぐら)などは、国指定重要文化財になっていました。

城の入口に、大洲城天守のミニチュアが飾ってありました。

入ってすぐの所にビデオがあって、それを見ると歴史的なことなどがよく分かりました。

ビデオ

天守は4層4階で、階段は急勾配。階段を上から見ると垂直に降りるように見えたので、降りる時は怖かったよー。

階段(斜め横から撮影)

階段(上から撮影)

天守の屋根に取り付けられているものと同じ瓦製の鯱(しゃちほこ)が展示されていました。鯱は、空想上の生き物で、水や雨と関係することから、火除けのまじないとして建物の最上部に取り付けられるのだそうです。甲冑が2体ありました。展示物がほとんどないので、ガラガラって印象を持ちました。

鯱(しゃちほこ)

甲冑

現在の大洲城天守は、新しくて綺麗なのは良いのですが、冷房装置はない上に風は全く通らないので、暑くて暑くてゆっくり見て回るような気分にはなれませんでしたね。所々に扇風機を置くなど工夫していただきたいです。

続いて、大洲市の見所の一つである『臥龍山荘(がりゅうさんそう)』に行きました。肱川(ひじかわ)流域随一の景勝地「臥龍淵」にある3千坪の山荘です。昔風の造りで、お茶会に向いている感じ。庭は手入れが行き届いていて、紅葉のシーズンに来たら綺麗だと思います。令和3年には庭園を含む一帯が国の名勝に指定されたそうです。

突き当りを右折した所に玄関口があります。

『臥龍山荘』

中の様子

手入れの行き届いた庭

庭の行き止まりには不老庵があり、肱川に面していて、室内から眺める景色はとても綺麗で風情がありました。

不老庵

不老庵の室内から見える肱川の景色

最後に、『おはなはん通り』に行きました。NHKの朝ドラの「おはなはん」は、まゆちゃんが小学校6年生の時に放送されたもの。

明治中期の愛媛県大洲市出身のお茶目で明るい主人公「はな」が、女手一つで子供達を育てながら、幾多の困難を乗り越えて成長していく姿を描いたテレビドラマです。「はな」を演じた樫山文枝さん、懐かしいですね~。彼女は、もう81歳になられるそうです。そうですよね、50年以上も前のことですから。白壁が並ぶ『おはなはん通り』は、東京ラブストーリーのロケ地にもなったそうです。

『おはなはん通り』

NHK朝ドラの「おはなはん」について

15時半に大洲市を出発して、東横INN松山一番町に移動しました。16時半に到着です。夕食は、近くの居酒屋『家紋』でいただきました。ここで食事をしたのは初めてです。女将さんが気の利く人で、お話が面白くて、お客さんを楽しませるのが上手。ここで50年間も営業してきたそうですが、その理由がよく分かりました。50年間も続くって、凄いことです‼

居酒屋『家紋』

刺身とポテトサラダ

アジの塩焼き

鯛のあら炊き

鯛のあら炊き汁

ゴーヤの天ぷら

そば米雑炊

四国カルスト天然水ぞっこん(お店のサービス)

今日の午前中は曇っていて、あまり暑くありませんでしたが、大洲城を観光する頃には陽が照りだして暑くなり、汗だくになってしまいました。そのため、ホテルに戻ってから、直ぐに洗濯に取りかかりました。東横INNは、全国チェーンのホテルで、何処に行っても必ずランドリー施設(洗濯機と乾燥機)があります。自分で洗濯ができるので、とっても便利です。最近オープンしたホテルだと、乾燥機がハイパワーのガス式になっているので、30分もすれば乾燥できます。東横INNに泊まることが多いのは、こうした理由も大いに関係しています。

3.渦の丘大鳴門橋記念館、うずしお科学館、姫路城、東横INN姫路新幹線北 泊(2日目/8月20日)

今日は、四国を横断し、淡路島を通って姫路まで行きます。その途中で、「渦の丘大鳴門橋記念館」「うずしお科学館 」に行き、その後、「幸せのパンケーキ淡路島テラス」で食事をして、「姫路城」に行ってから、東横INN姫路駅新幹線北口に泊まります。

朝食

ホテルを9時に出発し、「渦の丘大鳴門橋記念館」を目指しました。3時間かかって、ようやく到着。距離は約230㎞もありました。以前、ここに来たことがあり、その時は、休館日でした。なので、今回こそ寄りたいと思っていました。営業していたのでラッキー。淡路島は、玉ねぎで有名です。なので、あらゆる所に玉ねぎ(椅子、オブジェ、自動販売機など)がありました。面白いし、可愛いしで良かったです。本物の玉ねぎを販売しているコーナーもありましたが、5㎏で1,890円と高かったので、買いませんでした~。

「渦の丘大鳴門橋記念館」

館内の様子

玉ねぎを販売しているコーナー

玉ねぎ柄の自動販売機

玉ねぎのオブジェはインスタ映えするので人気でした。

「渦の丘大鳴門橋記念館」の中に、「うずしお科学館」がありました。

「うずしお科学館」

「うずしお科学館」には、ウズネタリウムがあります。うずしおを実際に発生させる水理模型と、スクリーンに映し出した映像とを連動させて、うずしおの仕組みを視覚的に見せる装置です。分かり易くて面白かったです。

ウズネタリウム

うずしおが発生する主要因は、大鳴門橋を中心に、水位差が生じるためだそうです。満潮と干潮は6時間おきに交互に来ます。太平洋側が満潮になると、海水は瀬戸内海の西側から東側(淡路島方面)に流れ込みますが、淡路島近くに海水が流れ込むのに6時間かかるそうです。その時間になると、太平洋側は干潮になります。つまり、大鳴門橋の瀬戸内海側の潮位は高く、太平洋側の潮位は低くなります。その差が1.5㍍くらいあるそうで、狭い所を海水が一気に流れるので、うずしおが発生するとのことでした。鳴門海峡と同じような所として、イタリアの「メッシーナ海峡」とカナダの「セイモア海峡」があり、世界三大潮流と言われています。世界的規模の鳴門のうずしおを世界遺産に登録しようと、地元の人達は頑張っていました。

鳴門のうずしおを世界遺産に登録しよう‼

13時30分に「幸せのパンケーキ淡路島テラス」で食事をする予約を入れていたので、「うずしお科学館」を出てから、大急ぎで「幸せのパンケーキ淡路島テラス」に向かいました。「幸せのパンケーキ」は、全国にお店があります。福岡市にもありますが、淡路島は、地中海のイメージが溢れているので、お客さんにとっても人気があります。食事をするためにはネットで予約を取らないといけないのですが、2週間前の0時に予約可となるやいなや、10分も経たないうちに満室になってしまうほどの人気ぶりです。私も0時になると同時に頑張って予約を取りました。

「幸せのパンケーキ淡路島テラス」

部屋に通されて、早速、ベランダに出て景色を見回しました。当日は、曇りだったのでイマイチでしたが、晴れていたらきっと美しい景色が見えたのにと思いました。

部屋(個室)

ベランダ

ベランダから見た景色

ベランダから見た景色

ここには、インスタ映えする岬のブランコ、幸せの鐘、幸せの階段、幸せのリングなどがあります。幸せの階段と幸せのリングの所では、写真を撮ろうとお客さんがずらりと並んで、順番待ちをしていました。皆さん、この暑い時にによく頑張るね‼

岬のブランコ

幸せの鐘

左:幸せの階段、右:幸せのリング

お料理の方ですが、全体的にはまずまずでした。ちょっと残念だったのは、パンケーキが甘すぎて気分が悪くなる一歩手前だったこと。食事と言うより、デザートみたい。(デザートにしては量が多過ぎます。)

「幸せのパンケーキ淡路島テラス」で食べた食事

明日の天気予報を調べると、姫路市では朝から雨になっていました。そのため、急遽予定を変更して、食事後直ぐに姫路城に行くことにしました。今日、少し無理してでもその方が良さそうに思えました。

姫路城(世界遺産)

入場券売り場の横にボランティアガイドさんの控え室があり、受け付けていたので、案内&説明をお願いすることにしました。約2時間で2千円です。丁寧に説明してくださったお陰で、よく分かりました。自分達だけで見て回るより、よっぽど充実します。シルバー人材センターが行っているサービスですが、とても良い制度ですよね。18時に閉館なので、それまでの間、案内していただきました。

姫路城の入場口

姫路城は、シラサギが羽を広げたような優美な姿から、「白鷺城」の愛称で親しまれています。大天守は、慶長14年(1609年)に築造されています。400年以上の長い歴史を誇る姫路城ですが、戦国時代や第二次世界大戦時に戦火をあびることはなく、自然災害で被災することもなく、一度も大きな被害を受けたことがありません。当時の姿そのままの状態で、現在に至っています。2015年、約6年間に及んだ改修工事が終わり、改修当時は、「しろすぎ城」と揶揄されていましたが、7年目になる今では、漆喰に黒カビが生えて黒ずみだし、「しろさぎ城」のニックネームが蘇ってきているそうです。

黒カビが広がってきました。

ガイドさんには、姫路城の見どころを中心に説明していただきました。先ず、『菱の門』から。城内には10以上の門があり、この門は、その中で最も大きい門になるそうです。豊臣秀吉時代の様式を残していて、門を支える柱の部分に「菱」の紋があるため、『菱の門』と呼ばれているとのことでした。

『菱の門』

続いて、姫路城の石垣についてです。石垣は、二種類あります。一つは、江戸時代の池田輝政が築いた石垣です。石垣の角部分が算木積(さんぎづみ)で造られていて、美しい曲線を描いています。この方法だと角部分が一体化して強度が非常に高くなるそうです。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、石垣の加工技術と積み方が格段に進歩したとのことでした。写真の人がガイドさんです。

ガイドさんと江戸時代の石垣(算木積)

もう一つは、豊臣秀吉時代の石垣です。野面積(のずらづみ)と呼ばれる自然石を使った石垣で、材料となる石が足りなかったため、石臼、墓石、石灯籠なども使っており、古墳の石棺も使われていました。墓(古墳)荒らしまでやっていたなんて、まったく呆れてしまいます。

豊臣時代の石垣(野面積)

古墳を発掘して盗ってきた石棺

次に、『将軍坂』です。姫路城は、松平健さん主演の時代劇「暴れん坊将軍」の中で、江戸城として登場しています。写真の場所が、暴れん坊将軍の撮影でよく使われたことから、将軍坂と呼ばれるようになったそうです。その他、映画007のロケにも使われているとか。

『将軍坂』

『お菊井戸』です。夜中に、「お皿が1枚、2枚…」と数える声が聞こえる怪談・播州皿屋敷(ばんしゅうさらやしき)の『お菊井戸』(お菊が投げ込まれた井戸)がありました。ガイドさんの話では、姫路城の人気アップを狙って作られたのではないかとのことでした。

『お菊井戸』

次は、大天守内の『武具掛け』です。火縄銃や槍、袋に入った弾丸が掛けられていました。大天守は、武器倉庫でもあったそうです。

『武具掛け』

『六葉釘隠し』です。釘の頭部を隠すための装飾で、葉と葉の間にハート形の隙間がありました。カワイイね!

『六葉釘隠し』

大天守の最上階(6階)に祀られている『長壁神社(おさかべじんじゃ)』です。大天守は外から眺めると5階建てに見えますが、地上6階、地下1階の7階構成になっていました。

『長壁神社』

ガイドさんの説明では、姫路城が世界遺産に登録されたのは、 ①その美的完成度が我が国の木造建築の最高の位置にあり、世界的にも他に類のない優れたものであること、②17世紀初頭の城郭建築の最盛期の天守群を中心に、櫓、門、土塀等の建造物や石垣、堀などの土木建築物が良好に保存され、日本独自の城郭の構造(防御に工夫をこらしている)を最もよく示した城であること、これらが評価されたためとのことでした。ガイドさんの要領の良い案内と説明で、時間内に観光ができました。どうもありがとうございました。

本日の宿は、姫路城の近くにあります。なので、直ぐに東横INN姫路駅新幹線北口へ移動することができました。

東横INN姫路駅新幹線北口

夕食は、予定していた居酒屋さんが満席だったので、近くの『姫路食堂』で定食をいただくことにしました。

トンカツ

ホッケ焼き

ご飯と味噌汁

パンケーキがお腹に残っていたので、簡単な定食で満足しました。

4.藤ノ木古墳、橿原考古学博物館、キトラ古墳四神館、ホテルリガーレ春日野 泊(3日目/8月21日)

今日は、奈良県に行って、「藤ノ木古墳」「橿原(かしはら)考古学研究所附属博物館」「キトラ古墳」「キトラ古墳壁画体験館 四神(ししん)の館」に行きます。姫路から「藤ノ木古墳」のある斑鳩町(いかるがちょう)まで約2時間かかります。

朝食

ホテルを9時に出発。斑鳩町(いかるがちょう)まで一般道を通ることがなく、自動車専用道路の連続でした。大坂市内の高速道路でパーキングを探したら、高速道路の下(高架下)に休憩所(トイレと自販機とコンビニ)があることを知りました。このスタイルの休憩所は初めてです。上手な土地活用方法だと感心しました~。

高速道路の下(高架下)に休憩所

「藤ノ木古墳」に11時に到着しました。法隆寺の西側、住宅地のド真ん中にあります。直径48㍍の未盗掘の大型円墳で、 6世紀後半の築造と推定されています。中が見えるようにガラス窓が取り付けてあり、近寄ると中がライトアップされて、石室内の石棺が見えました。「藤ノ木古墳」の出土品(国宝級の副葬品)は、「橿原(かしはら)考古学研究所附属博物館」に展示されています。誰が埋葬されているかですが、NHKの先日の放送では、聖徳太子・厩戸王(うまやどのおう)の叔父と彼の友人かも❓との話でした。真実はまだ不明。

「藤ノ木古墳」(住宅地のド真ん中にありました。)

内部が見えるようになっていました。

奥に見えるのが石棺です。

続いて、「橿原(かしはら)考古学研究所付属博物館」に行きました。「藤ノ木古墳」の発掘調査は2回行われており、出土品の一部が展示されていました。

「橿原考古学研究所附属博物館」

「藤ノ木古墳」出土品展示コーナー

石棺内の様子ですが、横穴式石室内に朱塗りの家形石棺があり、棺内に二人の男性が葬られていたそうです。また、金属とガラスの玉を中心とする装身具と、飾り大刀、剣、鏡、冠、履(くつ)、大帯、金銅製品などが納められていたとのことでした。

展示コーナーのビデオでは、石棺内からどうやって出土品を取り出したかなど事細やかな説明があって、面白かったです。興味のある人にとっては、一見の価値ありです。

石棺内の様子

龍文飾り金具

鞍金具の後輪

履(くつ)

東大寺の大仏の造り方も展示されていました。大仏を造るための銅は、山口県の長登銅山だけではなく、宮城県の黄金山産金遺跡も含めて、全国から集められていることが分かりました。具体的な造り方も展示してありました。28年もかけて大仏を造ったなんて、凄いです‼

東大寺大仏

A:山口県長登銅山、B:宮城県黄金山産金遺跡

 

 

 

昼食は、「和食さと橿原北店」でいただきました。ボリュームたっぷりでお腹一杯。

「和食さと橿原北店」

天ぷら丼と野菜たっぷり味噌汁

お昼ご飯を食べてから、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」に行きました。「キトラ古墳」は、日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。国の特別史跡に指定された文化財です。石室の壁に美しい絵が描かれた大陸風の壁画古墳は、日本では高松塚古墳と「キトラ古墳」だけです。「キトラ古墳」は、7世紀末から8世紀初め頃の古墳とみられていますが、誰が葬られているのかなど、はっきりと分っていないことが、まだたくさんあるそうです。分っているのは、大柄な熟年男性で、身分の高い人ということくらい。

「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」

入口

館内には、「キトラ古墳」石室のレプリカがありました。レプリカには、四神(ししん)や獣頭人身十二支像が描かれていました。

四神などが描かれている「キトラ古墳」石室のレプリカ

各壁面ごとに描かれていた内容

壁画に描いてある四神(ししん)

朱雀

獣頭人身十二支像

四神は中国の神話の霊獣で、中国や韓国の時代劇によく出てきます。四神にちなんだ事物は多く、人生を四季に例えて、若年期を「青春」、壮年期を「朱夏(しゅか)」、熟年期を「白秋(はくしゅう)」、老年期を「玄冬(げんとう)」と表現しますし、相撲の土俵には東西南北を守る4色の房が取り付けられています。「現代の私達の生活に無縁ではない」ということを初めて知りました。

人生の四季

土俵の東西南北を守る4色の房

古墳の変遷ですが、西暦250年頃から古墳時代が始まり、7世紀末には終末期古墳時代と呼ばれ、「キトラ古墳」造営の頃には古墳時代は終りを告げています。巨大な前方後円墳から始まり、飛鳥時代に薄葬化が進み、巨大な前方後円墳に替わって円墳・方墳が作られるようになり、古墳自体の規模は小さくなっていきました。

仁徳天皇陵と「キトラ古墳」の大きさの比較

仁徳天皇陵と「キトラ古墳」の比較

縄文時代の終わりごろから飛鳥・奈良時代まで、日本列島には、多くの渡来人が移住してきたと推測されています。5世紀から7世紀の渡来人は、多様な技術や学問、思想、芸術などを伝え、日本列島の技術、文化の進化に大きな影響を与えています。「キトラ古墳」周辺地区にも、渡来人の集落があったそうです。こうしたことから、「キトラ古墳」の壁画は、渡来人の画師の技術で描かれたものではないかと推測されています。縄文人と弥生人の顔の特徴や体格が違うことは有名で、弥生時代以降、中国や韓国から多くの渡来人が日本にきていたとよく耳にしますので、納得のいく話しでした。

「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」の直ぐそばに、「キトラ古墳」があるので、見に行きました。実は、今日は、「キトラ古墳」の壁画公開の最終日でした。ネットで予約をしておけば、古墳内の実物を見ることができたのに・・・。今日、初めて知った次第で、気付くのが遅かった~。残念でした。

「キトラ古墳」は、小高い丘の上にある二段築成作りの円墳(上段直径9.4㍍高さ2.4 ㍍、下段直径13.8㍍高さ0.9㍍)です。近くまで行くことはできませんでしたが、小さな古墳だなぁと意外に思いました。

「キトラ古墳」

「キトラ古墳」の模型

今日は、2つの古墳と博物館などを見て回りました。今から1,300年以上昔の歴史に触れることができるので、古墳にはロマンを感じて楽しいです。でも、その時代に生まれたかったとは思いませんね。私達は、いわゆる ”身分の高い人” とは無縁の ”一介の百姓” だったに違いありません。食べる物にも苦労する貧しい生活をしていたと思います。

文化庁は、高松塚古墳と「キトラ古墳」の壁画の一部公開を定期的に行っています。機会があれば応募して、実物をこの目で見たいですね。

「キトラ古墳」を観光してから、ホテルリガーレ春日野へ行きました。現時点では、奈良県だけが全国割「いまなら。キャンペーン2022プラス」を実施しています。このたび、利用させていただきました。ありがとうございました。

ホテルリガーレ春日野

部屋

ユニットバス

チェックインしてから、夕食までの間に洗濯をしました。夏場は、汗をかくので、毎日洗濯しています。夕食は、レストランで18時からでした。

鶏のガランティーヌ

お造り二種盛り

大和橘香り鍋

栗豚のコルドンブルー風

丸茄子と栗麩の揚げ出し

真鯛の炊き込みご飯、赤出汁

彩りプティガトー

5.平城宮跡歴史公園薬師寺、唐招提寺、ホテルリガーレ春日野 泊(4日目/8月22日)

今日は、念願の「平城宮跡歴史公園」を観光し、午後から世界遺産に登録されている「薬師寺」と「唐招提寺」に行きます。「平城宮跡歴史公園」がどのような所か、ワクワクします。

朝食

「平城宮跡歴史公園」は、ホテルから近くて、15分ほどで提携の県営駐車場に到着しました。車を駐車し、歩いて「平城宮跡歴史公園」に向かいました。心弾ませながら『遣唐使船』と『朱雀門(すざくもん)』を見ました。

『遣唐使船』

『朱雀門』は、朱雀大路の北にあり、平城宮の正門として、外国の使節の出迎えなどに使われていました。国を代表する建物として、豪華さ、壮大さを誇っていいました。今ある『朱雀門』は、東西約25㍍、南北約10㍍、高さ約20㍍、18本の直径70㎝の柱、朱色に塗られた入母屋二層構造で、どっしりとしています。これは、長年の調査と研究により、復原されたもので、平成10年(1998年)に完成しています。

『朱雀門』

『朱雀門』を通り抜けて向こう側に行こうとしたら、あらまぁ⁉『朱雀門』の向こう側は、雑草ボウボウの広っぱでした~。その広さと言ったら半端ない。南北1㎞東西1.3㎞もある空き地。思わず「はぁ?なにこれ?」との言葉が口から出てしまいました。遠くにポツポツと建物らしきものは見えるけど、太陽はジリジリ照りつけて暑いのに、あそこまで歩かないといけないなんて冗談でしょう‼ 

空き地

この広さに呆然自失。

近くにいた作業員風の男性に訪ねると、徒歩以外の移動手段はないとの返事。愕然としましたが、気を取り直して『大極門(だいごくもん)』など観光できる施設を歩いて回ることにしました。

平城宮跡歴史公園 MAP(←クリック)

本日観光する施設

先ずは、『大極門(だいごくもん)』です。『大極門』は、第一次大極殿院の南側に位置する正門です。二重の屋根をもつ門で、間口22m、奥行9m、高さ20mです。平城宮の正面玄関にあたる『朱雀門』とそっくり。復原に当たっては、古代建築の伝統技能を継承する様々な分野の多数の工匠の技・経験・知識によって支えられたとの説明でした。【第一次大極殿院建造物復原整備工事】の一環として、2022年3月19日に落成しています。

『大極門』

『大極門』の東側では、『東楼(ひがしろう)』復原工事が行われていました。完成するまで5年はかかるそうです。

『東楼』復原工事のテント

足場が組まれていただけなので、建設工事は今から。

『第一次大極殿』に行こうとしたら、月曜日は文部科学省関係の施設は休みとのこと。国土交通省関係施設は月曜でもオープンしていると聞いたので、今日は、国土交通省関係の施設を見て、明日、文部科学省関係の施設を見ることにしました。なので、次は、『復原事業情報館』に行くことになりました。『復原事業情報館』は、【第一次大極殿院建造物復原整備工事】の取組みや目的について分かり易く紹介している施設でした。施設に入ったら右手に大型映像装置があって、当時の儀式などについて詳しく映像で紹介していました。左側の展示室では、古代技術について紹介していました。

『復原事業情報館』

壁一面の大型映像

第一次大極殿院の模型がありました。

古代技術の紹介(錺金具)

古代技術の紹介(組物)

続いて、『平城宮いざない館』に行きました。この施設は、奈良時代の平城宮を体感してもらい、併せて、平城宮跡の魅力をより深く理解してもらうためのものです。展示が分かり易かったので、楽しく過ごせました。

『平城宮いざない館』入口

館内に入った直ぐの所に大きなスクリーンがありました。この映像を見ると、平城京全体の姿が把握できました。

大型スクリーン

平城京は、今から1300年ほど前に現在の奈良市につくられた都で、平城京を中心とした74年間を奈良時代と呼んでいます。平城京のモデルとなったのは、当時もっとも文化の進んでいた唐(中国)の長安。平城京の中心には平城宮が置かれ、国の政治や儀式をとりおこなう大極殿(だいごくでん)・朝堂院、天皇の居所である内裏(だいり)、行政機関であるさまざまな役所、宴会をもよおす庭園などの施設がありました。黄色の部分が平城宮のエリアです。平城宮の入口には『朱雀門』があり、平城宮に入ることができたのは、皇族や貴族、役人や使用人など、ごく限られた人々だけだったそうです。

全体が平城京です。黄色の部分が平城宮です。

平城宮全体の復原模型(1/200)がありました。第一次大極殿院の想像図もあって、平城宮のイメージが掴めました。

平城宮全体の復原模型(1/200)

平城宮のイメージ図

『第一次大極殿』の復原に当たり、制作された構造模型(1/5)がありました。組物(寺院や宮殿の建築に用いられる柱上の木組み)の重厚さには圧倒されました~。

『第一次大極殿』構造模型(1/5)

古代衣装を着た人形です。きらびやかで美しいですね。ここで記念写真を撮る人が多いそうです。

古代衣装を着た人形

食に関する展示が面白かったです。平城宮の貴族の食材は、北海道と東北地方を除く各地から集められていたそうです。で、鹿や鴨などの肉、アワビやエビなどの海産物、蘇という貴重な乳製品も食べられていたとか。また、高級な漆器や金属器なども使われていたそうです。調味料としては、塩、酢、味噌、醤油の原形の「末醤(まっしょう)」や「醤(ひしお)」、カツオの液体出汁のような「堅魚煎汁(かつおのいろり)」がありました。御馳走ですね~! 我が家の食事よりずっと豪華‼ それに比べて庶民の食事は質素で、あまり精米していない米を炊いたご飯と、青菜などが入っている程度の汁物。味付けは塩が基本だったそうです。庶民は、粗食に耐えて朝から晩まで働いているのに、天皇や貴族達は、ご馳走を食べながら酒宴を行っていたようです。聞いただけでも腹立たしいね‼トイレ跡は、平常宮でも見つかっていますが、おしりふきに使った細長い木切れ『籌木(ちゅうぎ)』は、溝などからよく出土しているそうです。ウンチからは、寄生虫の卵が見つかっています。

貴族の食事(私達の今の食生活より豪華‼)

庶民の食事

”うんち” にまつわるお話し(写真をクリックすれば拡大します。)

「平城宮跡歴史公園」を出て、食事に行きました。イタリア料理のお店カプリチョーザで昼食をいただきました。

明太スパゲティ

サラダとスープ、アイスコーヒー

午前中の「平城宮跡歴史公園」で、汗をかき通したので疲れました。宇治金時とアイスクリームも食べてパワーアップ‼

宇治金時とアイスクリーム

昼食と休憩が終わってから、「薬師寺」に行きました。 「薬師寺」は、世界遺産に登録されています。東塔、東院堂、金堂、大講堂を見ました。「薬師寺」は、680年に天武天皇が皇后(持統天皇)の病気回復を願って建てられたもので、世界遺産に登録されています。710年の平城遷都に伴い、718年に現地に移されています。その後、火災などによりほとんどの堂塔が焼失。今では、東塔(国宝)のみが1300年前の奈良時代の建物として残っているだけです。東塔は、2009年から12年間の修理を終えて、2021年4月に一般公開されました。私達が訪れた日に、横付けされたトラックが居座っていたために、美しい写真が撮れませんでした。

東塔(国宝)

東院堂(国宝)は、1285年に再建され、鎌倉時代の建築様式を残しており、日本最古の禅堂です。

東院堂(国宝)

金堂は、昭和51年(1976年)に再建されています。宮大工の名工・西岡常一棟梁による昭和の大建築だそうです。

金堂

大講堂は、平成15年(2003年)に再建されています。伝統工法による復原建築としては史上最大だそうです。

大講堂

「薬師寺」では、仏像の写真撮影が禁止されていたため、仏像の写真はありません。

続いて、「唐招提寺」に行きました。「唐招提寺」も世界遺産に登録されています。金堂、講堂、開山堂、鑑真和上御廟を見ました。「唐招提寺」は、鑑真和上が建てたお寺です。彼は、688年に唐の揚州に生まれ、洛陽・長安で修行を積み、唐でも有名な高僧となりました。当時の日本にはまだ高僧がいなかったので、朝廷は中国の高僧を招聘したいと思っていました。折しも、西暦742年に、鑑真和上は、遣唐使の熱心な願いに応えて日本に行くことを決意しました。しかしながら、当時の航海は極めて難しく、12年間に5回の渡航を試みたものの全て失敗し、盲目の身となってしまいました。それでも、鑑真和上の意志は堅く、753年、6回目にして遂に来朝を果たしました。以後、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を「唐招提寺」で過ごし、天皇を始めとする多くの人々に「戒律」、つまり、「悟りを開くための正しい修行生活の規則」を説き、日本の仏教の発展に尽力しています。

金堂(国宝)は、奈良時代の建物です。金堂の中には、巨大な三尊(廬舎那仏座像、薬師如来立像、千手観音立像)が並んでいるのですが、写真を撮ることはできませんでした。

金堂(国宝)

講堂(国宝)は、朝廷より平城宮東朝集殿を賜り、移築したものです。現在残っている唯一の平城宮の建築物です。

講堂(国宝)

開山堂には、鑑真和上の御身代わり像が安置されています。御身代わり像は、年に数日しか見ることができない国宝の鑑真和上坐像に代わって、毎日参拝していただくことを目的に製作された像です。鑑真和上坐像とお顔が似てました。

開山堂

鑑真和上御廟

敷地内に北原白秋の歌碑がありました。「水楢の 柔き嫩葉(わかば)は み眼にして 花よりもなほや 白う匂はむ」・・・水楢(ブナ科の落葉広葉高木)の柔らかい若葉は(芭蕉の句にあるように)眼にすると、花よりもいっそう白く色づいているようだ・・・北原白秋も晩年に視力をほぼ失ったそうです。

敷地内に北原白秋の歌碑

「唐招提寺」を観光してから、ホテルに戻りました。今日の午前中は、暑かったですね~。暑さのために疲れました。

夕食は、18時からでした。

オードブルパリエ

お造り

ポーク鍋

栗豚クリーム煮のパイ包み焼き

揚げ物

茶わん蒸し

ちりめん山椒ご飯、赤出汁

苺のムース クープ仕立て

6.平城宮跡歴史公園、奈良町、東横INNJR和歌山駅東口 泊(5日目/8月23日)

本日は、昨日休館だった「平城宮跡歴史公園」内の施設(『遺構展示館』『第二次大極殿』『第一次大極殿』『東院庭園』『平城宮跡資料館』)に行きます。その後、奈良町を散策します。

本日観光する施設

7時半に朝食をいただき、9時にホテルを出発して、『遺構展示館』に行きました。

朝食

今日も晴天です。猛烈な暑さになりそうです。『遺構展示館』の場所が分かり難くて、手間取りました。『遺構展示館』では、発掘調査によって見つかった奈良時代の役所の建物跡(遺構)を発見当時の状態で保存・展示していました。また、出土した井戸や木桶などの貴重な遺物や、調査研究によって復原した建物の模型なども展示していました。

『遺構展示館』入口

奈良時代の建物の柱穴(露出展示)

内裏の井戸(直径1.7㍍の杉の木をくり抜いて使用していたそうです。)

復原模型(内裏正殿)

続いて、『第二次大極殿』に行きました。ここは、明治時代の終りに、平城宮跡を発見するきっかけとなった場所です。基壇が復原され、礎石が置かれていました。 平城京は、710年に奈良市につくられましたが、740年に恭仁京(くにきょう)に都を移しています。で、再び、745年に元の場所に戻って来ました。しかしながら、最初と二回目では、大極殿などがあった場所が違っています。最初の『第一次大極殿』は西側で、二回目の『第二次大極殿』は東側でした。現在、復原工事が終わっているのは、西側の『第一次大極殿』だけです。

『第二次大極殿』

『第二次大極殿』

次に、『第一次大極殿』に行きました。これは、間口44㍍、奥行20㍍、屋根の高さ27㍍で、平城宮の中で最大かつ最重要な建物です。即位の儀式や元日の朝賀には、天皇の玉座である【高御座(たかみぐら)】が置かれました。復原に際しては、発掘調査のデータや現在残っている奈良時代の建物などを参考に多くの専門家が研究し、平成13年(2001年)から9年の歳月をかけ、〘平城遷都1300年〙の平成22年(2010年)に完成したそうです。

『第一次大極殿』

鴟尾(しび):屋根の一番上の両端にのせる(高さ2㍍)

大棟中央飾り:屋根の一番上の中央につける(高さ2㍍)

東西南北の小壁には、四神と十二支が描かれていました。

青龍(東)

白虎(西)

朱雀(南)

玄武(北)

天皇の玉座である【高御座(たかみぐら)】が、『第一次大極殿』の中央部に据えられていました。で、平城宮の中で最も高い場所にあり、天皇が平城宮全体を見下ろせるようになっていました。

【高御座(たかみぐら)】

【高御座(たかみぐら)】から眺めた平城宮

ボランティアガイドさんが説明してくれた中で印象に残っていることは、「『第一次大極殿』があったことは、発掘調査で判明していますが、柱の位置や大きさなどが判ったに過ぎず、上物がどのようなものだったかについては、発掘調査では判りません。なので、上物部分については、国内外で残存している同時期の文化財や歴史書などから推測して創っています。」と言うこと。復原事業に従事された方達は、想像力を大いに発揮して取り組まれたことでしょう。やり甲斐のあるお仕事だと思いました。

続いて、『東院庭園』に行きました。『東院庭園』は、平城京での宴会や儀式を催した庭園で、奈良時代に作庭されています。昭和47年(1967年)に発掘され、平成5年(1993年)から5年の年月をかけて復原整備され、平成10年(2003年)に一般公開されています。日本庭園のルーツともいわれ、国の特別名勝に指定されています。

『東院庭園』

中央の建物は、宴会場です。

「平城宮跡歴史公園」内の最後の見学先は、『平城宮跡資料館』です。『平城宮跡資料館』では、奈良文化財研究所の長年の発掘調査で出土した多数の木簡、貨幣、瓦、土器など貴重な出土品や平城宮の建物の模型、発掘の歴史などが展示されていました。

『平城宮跡資料館』

出土したものの中で興味を引いたのは、平城宮内の役所の道具【仕事机、文房具(墨・筆・硯・木簡を削る小刀)】です。1300年前と現代とを比べて、基本的な文房具同じですよね。違いは、パソコンや電卓かな?

出土した道具

平城宮の貴族の生活ぶりが分る展示もありました。カラフルな衣装を着て、贅沢な食事をしていたようです。

貴族の服装

宴会の食事

このたび、「平城宮跡歴史公園」に行ってみて分かったこと・・・平城京が784年に長岡京に遷都して以降、土地は田畑になってしまいました。近年になってから本格的な発掘調査や保存活動が行われ、現在、「奈良時代を今に感じる空間を創出すること」を目標に復原工事が行われています。既に復原されたのは、『朱雀門』と『第一次大極殿』と『大極門』と『東院庭園』の4施設のみです。(因みに、復原に当たっては、文化庁選定保存技術保持者を始め、宮大工など日本の伝統技術をお持ちの方達が活躍したそうです。)この調子だと、完成まで更に20年くらいかかりそうな感じ。佐賀県の吉野ケ里歴史公園も完全に出来上がるまで相当の年月を要しました。完成したら、さぞかし素晴らしい平城宮を観ることができるのでしょうね。是非観に行きたいと思いますが、夢に終わるような気がします。20年後の年齢を考えたら、体がついていけそうにありません・・・。

『平城宮跡資料館』を見てから、昼食を食べに「ザめしや 平城京店」に行きました。暑くて汗だくになったので、涼しい所でゆっくり休憩を取りながら食事をしました。

茄子のみそ炒め定食

腹ごしらえが終わったら、「ならまち散策」です。奈良町は、狭い街路に、江戸時代以降の町屋が数多く建ち並ぶ人気のエリアです。実際に歩いてみて、懐かしさを感じるとともに、心がほっこり和むような町でした。『奈良町からくりおもちゃ館』では、からくりおもちゃを手に取って遊び、楽しませていただきました。

町並み

町並み

『奈良町資料館』

とげぬき観音さん

『なら町にぎわいの家』

『なら町にぎわいの家』の ”かまど体験コーナー”

『奈良町からくりおもちゃ館』

大人も子供と一緒になって遊んでいました。

からくりおもちゃ

からくりおもちゃ

からくりおもちゃ

奈良町で遊んでから、和歌山市にある東横INNJR和歌山駅東口に向かいました。明日から和歌山方面を観光します。今日の夕食は、焼肉です。

東横INNJR和歌山駅東口

炭火焼肉なのはな

焼肉大好き

7.和歌山県白浜町、雑賀崎、紀州東照宮、東横INNJR和歌山駅東口 泊(6日目/8月24日)  

今日は、和歌山県白浜町に行きます。「白浜に行くなら、魚が泳ぎ回る豊かな自然を観よう」との言葉に釣られて、「白浜海底観光船」に乗ります。その後、隣接する「京都大学白浜水族館」に寄り、海鮮せんべい南紀が経営している「健康バイキング和わ」で昼食を食べて、イタリアのアマルフィ海岸のようだと注目を集めている「雑賀崎(さいかざき)」と、「紀州東照宮」に行きます。

朝食

「白浜海底観光船」の乗り場まで約1時間半かかるので、早めにホテルを出発しました。到着してから、きっぷを購入し、11時15分の観光船に乗船することになりました。夏休みだからか、次々と子ども連れの家族がやって来ます。

「白浜海底観光船」の受付

きっぷ売り場

出発時間まで海を眺めて待っていると、観光船が戻ってきました。今乗っている人達が降りたら、私達が乗船する番です。

お客さんが降りて来ました。

観光船に乗ってから船内を見ると、船底にガラス板が貼ってあり、ガラス越しに海底が観察できる構造になっていました。

観光船内の様子

ちょっと沖に出ただけで、体長が50㌢はありそうな魚がたくさん泳いでいました。こんなに大きな魚がいるなんて、とても豊かな海なんだなぁと感心。で、小さな青い魚は、スズメダイだそうです。博多名物の「あぶってかも」もスズメダイ。仲間なので、塩漬けにして焼いたら、きっと美味しいでしょうね!

ガラス越しに見える魚

観光船乗り場の近くに、中央部に穴の開いた円月島(えんげつとう)が浮かんでいました。この島は、白浜のシンボル的存在だそうです。国の名勝に指定されていて、中央部の穴から見える夕陽が素晴らしいと聞きました。この島を見てから観光船は浜に引き返しました。乗船時間は30分間と短かったです。

円月島(えんげつとう)

南紀白浜と言えば、戦後の新婚旅行のメッカだった記憶があります。確かに海は綺麗で、景色も良いのですが、沖縄県の島々に比べるとイマイチ。沖縄県が返還された昭和47年(1972年)までは、沖縄県に行くにはパスポートが必要でした。そんなこともあって、当時の新婚さん達は、南紀白浜でハネムーンを楽しんでいたのでしょうね。

続いて、直ぐ近くの「京都大学白浜水族館」に行きました。京都大学の「フィールド科学教育研究センター 瀬戸臨海実験所」に併設されていて、日本では数少ない大学附属水族館です。常時展示されている約500種は、全て白浜周辺の魚だそうです。大きな水族館ではありませんが、見応えのある水族館でした。

「京都大学白浜水族館」

水族館に入ると、目の前に大型回遊魚の水槽がドーンと陣取っていました。

大型回遊魚の水槽

大型回遊魚の水槽

大型回遊魚の他に、すごく綺麗な色のイソギンチャク(オオカワリギンチャク)とか、変わった魚が色々展示してありました。なので、どの水槽も楽しく観ることができました。

オオカワリギンチャク

ウツボ(鰻の仲間です。)

イシガキフグ

カサゴ(若い花魁‼)

カサゴ(ばあちゃんの花魁‼)

サザナミヤッコ

「京都大学白浜水族館」を出てから、車で15分の所にあるレストラン「健康バイキング和わ」に食事に行きました。ビュッフェだったので、野菜をたくさん食べることができました。美味しかったです。

レストラン

レストランから見える景色が良かった‼

野菜たっぷり‼

このレストランは、海鮮せんべい南紀が経営していました。隣の部屋では、海鮮せんべいの販売コーナーがあり、窓ガラス越しにイカ焼きの工場見学もできるようになっていました。味見をしたら海鮮せんべいが結構美味しかったので、お土産に購入しちゃいました。

イカ焼きの作業を見ることができました。

海鮮せんべいの販売コーナー

次は、和歌山市内の「雑賀崎(さいかざき)」です。雑賀崎に到着した時には曇がかかっていて、地中海のような ”光溢れる” とは状況が違ったため、アマルフィらしく撮れませんでした。良く晴れた日の朝にでも撮影したら、アマルフィらしく撮れると思います。

雑賀崎(さいかざき)は、日本のアマルフィ???

本日最後の観光先は、「紀州東照宮」です。「紀州東照宮」は、朱塗の楼門をはじめ、拝殿、本殿などの7棟が国の重要文化財に指定されている江戸時代初期の代表的な神社です。創建されたのは、元和7年(1621年)。徳川家康の第10子・頼宣が父の家康を祀るために建立しました。ご祭神として、徳川家康公と徳川頼宣公が祀られています。「関西の日光」とも呼ばれ、本殿は彫刻や壁画などがあり絢爛豪華。左甚五郎作(江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人)と伝わる彫刻がありました。

「紀州東照宮」

境内案内図

本殿につながる階段

本殿

葵の御紋が輝いていましたよー!

左甚五郎の「鷹が雉子を捕らえている彫刻」

本日の観光が終わったので、ホテルに戻りました。夕食は、歩いて5分の所にある居酒屋「めはりや」です。紀州・熊野地方に伝わる伝統郷土料理「めはりずし」が売りとのことだったので行ってみたのですが、高菜漬けの葉っぱで握り飯を巻いものでした。そんなのは、福岡ではいつも作って食べています。海苔の代わりに高菜漬けの葉っぱを使うだけのこと。珍しいものではありません。美味しいですが、出された「めはりずし」を見て、ガッカリしました~。

 

「めはりずし」

8.和歌山県友ケ島、東横INN大阪伊丹空港 泊(7日目/8月25日)

今日は、「友ヶ島」に行きます。この島は、和歌山市加太と淡路島のちょうど中間に位置する無人島です。 友ヶ島の『第三砲台跡』は、スタジオジブリが手がけた人気映画『天空の城ラピュタ』の世界観を感じることができるとのことで、人気があって、多くの人が訪れています。また、豊かな自然も魅力で、キャンプや釣りなどのアウトドアを楽しむ人も多い島です。

朝食

友ヶ島行船乗場(加太港)から船が10時に出るので、少し早めの8時40分にホテルを出発しました。で、コンビニでおにぎりを2個購入。理由は、「友ヶ島内には食事ができるお店がないので、食べ物と飲み物は持参すべし」とガイドブックに書いてあったため。9時半には船乗場に到着し、乗船券売り場で乗船券を買いました。大人一人往復で2,200円です。かなり高いですね。どうも清掃などの環境整備費も含まれているような様子。

乗船券売り場

友ヶ島汽船(友ヶ島⇔加太) 

船内の様子(古くて小さな船でした。)

野奈浦桟橋に到着~! 乗船時間は、およそ25分。下船してきた人達の顔ぶれを見ると、20代から30代の若者ばかりで、年寄りは私ら夫婦だけ。年寄りには人気のない島なのかな?とちょっと不安を感じました。まぁそれはそれとして、13時30分発の船に乗って加太港に戻りたいので、「友ヶ島」での観光時間は、2時間半を目安に行動しなくちゃ。

野奈浦桟橋

大砲(8インチ砲)の弾丸が出迎えてくれました。

「友ヶ島」のパンフレットを入手しました。「友ヶ島」は島の名前ではなく、地ノ島・虎島・神島・沖ノ島の総称です。私達が訪れたのは、正確に言うと「沖ノ島」になります。明治時代に、海から外国艦隊の侵入してくるのを防ぐ(大阪を守る)ため、沖ノ島には6ヶ所の砲台が造られたそうです。そのため第二次世界大戦が終わるまで一般人の立ち入りは禁止されていて、地図上から消されていたとのことでした。(結局のところ、砲台として使われることは一度もなかったそうですが。)

「友ヶ島」の散策マップ(クリックすれば、パンフレットに移行します。)

最も行きたいと思っていた『第三砲台跡』に最初に行くことにしました。道しるべに従ってスタート!

石ゴロゴロの山道(連続アップ&時々ダウンのトレッキングコース)

上り坂を20分くらい汗びっしょりになりながら歩き続けて、ようやく『第三砲台跡』に到着しました。他の砲台跡に比べ、最も『天空の城ラピュタ』の雰囲気が出ているのが、この『第三砲台跡』です。保存状態がいいので、ラピュタの建物に似ているのが分かると思います。これらの施設は、弾薬や揚弾装置を置くための倉庫として使用されていたものであり、地下に設けられていました。

最も『天空の城ラピュタ』の雰囲気が出ている空間

空洞部分から中に入って行くと通路になっていて、左右に倉庫のような部屋がたくさん並んでいました。地下施設内は真っ暗闇で、懐中電灯がないと歩けません。観光客がたくさんいたので怖くはありませんでしたが、自分達だけだと気持ちが悪くて、中に入って行くだけの勇気はないですね~。

通路

懐中電灯の光も届かない暗闇でした。

地下を出て地上に上がると砲座跡がありました。

砲座跡

また、地上には、駐とん兵が生活した宿舎跡と発電所跡がありました。

左:宿舎跡、右:発電所跡

続いて、『タカノス山の展望台』に行きました。

『タカノス山の展望台』

休憩所

「友ヶ島」で最も高い『タカノス山の展望台』から見える景色です。海の向こうに見えているのは淡路島です。はっきり見えたので、かなり近いように感じました。

『タカノス山の展望台』から見える淡路島

「友ヶ島」の位置ですが、地図に示すように、東は紀伊半島、西は淡路島に挟まれています。関西国際空港にも近く、北側は大阪方面になります。因みに、紫色のラインは、友ヶ島汽船の航路です。

「友ヶ島」の位置図

『タカノス山の展望台』から下って行くと、『友ヶ島灯台』に着きました。明治5年(1872年)にできた洋風建築の灯台で、現在も稼働しているとのこと。

『友ヶ島灯台』

『友ヶ島灯台』の近くに子午線広場があって、そこに『子午線塔モニュメント』がありました。「友ヶ島」には、東経135°の日本標準時子午線が通っています。日本標準時子午線が通る場所としては、兵庫県明石市が有名ですが、ここは、日本標準時子午線が通る日本最南端の地になっています。

『子午線塔モニュメント』

『子午線塔モニュメント』から少し下った所に、『第一砲台跡』がありました。写真は、弾薬庫跡のようです。老朽化しているため、立ち入り禁止になっていて、砲座のあった場所を探し出すことはできませんでした。

『第一砲台跡』

続いて、『第二砲台跡』に行きました。『第二砲台跡』は低地に位置しているため敵の攻撃を受けやすく、爆撃を避けるために厚さ2㍍もあるコンクリート壁で覆われていたそうです。現在は波風などで浸食されており、壁が崩れ落ち、いつ崩壊するかわからない危険な状態なので、立入禁止になっていました。廃墟そのものです。

『第二砲台跡』

『第二砲台跡』

最後の『第五砲台跡』に行きました。他の砲台跡と比べて規模はさほど大きくなく、ラピュタの雰囲気が少しありました。立ち入り禁止にはなってなかったので、中に入ってみましたが、急に壊れたりしたら嫌なので、そそくさと撤退。

『第五砲台跡』

『第五砲台跡』

『第四砲台跡』を除いて全部見て回ったので、野奈浦桟橋がある広場へ戻りました。海岸沿いの道が封鎖されていたため、遠回りをさせられました。下ってきた山道をまた登り、そして下って。湿度も気温も高い真夏日だったので汗ドロになりました~。2時間半の時間で1万4千歩のトレッキングは、正直きつかったですよー。休憩を兼ねて、桟橋近くのお店で、かき氷を食べて生き返り‼

かき氷食べたら、生き返りました~。

13時30分発の加太港行きの船に乗って戻ったのはいいのですが、ようちゃんは、お漏らしをしたのかと思うくらいズボンまでグッショリ‼(汗と言いながら、本当に漏らしたのかもしれませんが。)駐車場に戻ってから、そのまま運転席に座る訳にもいかず、ようちゃんは、車の陰に隠れてコソコソとパンツまでお着替えになられましたよ(笑)まゆちゃんは、シートの上にビニールを敷き、その上に座ってやり過ごしました~。お腹がググっと減ったので、近くのファミリーレストランでお昼ご飯をいただきました。

ランチ

休憩をしっかり取ってから、宿の東横INN大阪伊丹空港に直行しました。チェックイン後に、早速、洗濯をしました。疲れたので、夕食は、近くのお店で簡単に済ませました。

9.広島県大久野島、東横INN広島平和大通 泊(8日目/8月26日)

今日は、周囲約4kmの小さな島で、毒ガス製造で有名な広島県の大久野島に行きます。ここも「友ヶ島」と同様に【地図から消された島】です。現在は国立公園に指定され、約500~600羽ものウサギが棲息することで知られています。

朝食

伊丹空港そばのホテルから、広島県の忠海(ただのうみ)港まで約4時間かかります。朝9時にホテルを出発したので、到着したのは13時でした。

広島県の忠海(ただのうみ)港

到着してから直ぐに、「大久野島」行きのチケットを購入しました。大人一人往復で720円。フェリーの出発まで1時間くらいあったので、お昼ご飯を食べることにしました。予定していたお店が閉まっていたため、待合所で食べることに決定。

忠海(ただのうみ)港待合所

メニューは、肉蕎麦のみ

「大久野島」は、しまなみ海道の西側にあります。「大久野島」の南側にある大三島は愛媛県なので、四国からも簡単に遊びに来ることができます。

地図(クリックすれば拡大します。)

14時5分発の 「大久野島」行きフェリーに乗船しました。乗船時間は15分で、あっという間に着きました。1950年に瀬戸内海国立公園に指定された「大久野島」には、唯一の宿泊施設として『休暇村大久野島』があります。家族連れの宿泊客が、多いようです。

「大久野島」行きフェリー

到着してから、フェリー乗り場の近い所から『休暇村大久野島』まで、徒歩で順番に見て回りました。先ずは、『発電場跡』です。

『発電場跡』

発電場の説明

次に、『ポンプ室跡』に行きました。つる性植物が生い茂って、元の形が分からないほどになっていました。この近くで、ウサギに餌をやっているカップルがいました。お嬢さんは、「ウサギの好物は乾燥パパイヤと聞いたので、わざわざ買ってきたのよ。力が入ってんだから~。」と楽しそうに話してくれました。

『ポンプ室跡』

野生のウサギに餌をやっているカップル

次に、芸予要塞時代の石で作られた固定の桟橋です。毒ガス工場時代は、当初は人間の上陸に利用されていましたが、その後は資材等を陸揚げするために使われたそうです。

芸予要塞時代の桟橋

次は、『幹部用防空壕』です。ここに着くまでの間にキャンプ場があって、そこではウサギに餌をやっている人が何人もいました。中には、キャベツを与えている人もいて、「皆さん、餌にこだわるなんて随分熱心やね~」と驚きました。

餌をあげているお嬢さん

キャベツを食べているウサギ

餌をばら撒いているので、たくさん寄ってきてます!

キャンプ場(あちこちでウサギの姿が見えました。)

『幹部用防空壕』に到着。従業員用の退避豪は残っていないのですが、『幹部用防空壕』は残っていました。『幹部用防空壕』は、上に土を盛り、石垣をついて作られています。入り口が2つあり、左右どちらからでも逃げ込むことができるようになっています。防空壕の中は、高さ約2㍍、幅約2㍍、長さ約5㍍で半地下式かまぼこ形で、コンクリート製だったそうです。一方、従業員用の退避壕は、地面に1㍍くらいの穴を掘り、上に草木をかぶせた簡単なもので、通称「たこつぼ」と言われていたそうです。幹部がいかに他の従業員と比べて優遇されていたかが分かります。

『幹部用防空壕』(中の様子を見ることはできませんでした。)

続いて、『陶磁器製毒ガス製造器具展示場』です。毒ガスは、化学薬品を反応させて、複雑な科学操作を経て製造していきます。したがって、製造設備の主要な部分は、薬品に反応せず、熱に強い陶磁器が用いられていたそうです。戦後、それらの設備は、ほとんど焼却、あるいは処分されましたが、展示されているこれらの陶磁器製の器具はその当時の一部で、毒ガス製造による悲惨な歴史を後世に伝えるため、永久に保存されるものと聞きました。

『陶磁器製毒ガス製造器具展示場』

陶磁器製毒ガス製造器具

『毒ガス資料館』です。かつて「大久野島」では、大量の毒ガス兵器を製造していました。当時の施設が今でも島内に残っていますが、終戦後にGHQの指導の下で、毒ガスは全部処分してしまったとのこと。「大久野島」で毒ガスを製造した時、製造過程で多くの犠牲者を出すに至った事の悲惨さを訴えるとともに恒久平和を願う目的で、1988年に資料館を建設したとのこと。資料館の中の展示物を見て、あまりの悲惨さに目を背けたくなるほどでした。学徒動員をしてまでも製造していたと聞いて、ギョッとしました。毒ガスを作るなんて恐ろしいことは、二度とあってはならぬとつくづく思いました。ロシアとウクライナの戦争も、ロシア敗戦となって、一刻も早く終えて欲しいです。

『毒ガス資料館』

『毒ガス資料館』の近くに『毒ガス研究所跡』がありました。ここでは、研究だけではなく、毒ガス製品の管理や検査、更には、薬品庫や機密書類の保管庫としても使われていたそうです。

『毒ガス研究所跡』

『休暇村大久野島』の近くに『三軒家毒ガス貯蔵庫跡』がありました。かまぼこ型の大きな空洞があるだけでしたが、以前は、猛毒で肌がただれる、びらん性毒ガス「イペリット」が貯蔵されていたそうです。10㌧入る大きなタンクがそれぞれの部屋の台座の上に置かれていて、管を使って工場から直接タンク内に毒液が送り込まれていたとのこと。イペリットやルイサイト等の液体毒ガスによる腐食を防ぐために、タンクの内部には鉛が張り付けられていたとの説明でした。

『三軒家毒ガス貯蔵庫跡』

「大久野島」は、1929年~1945年(昭和4年~20年)まで、第二次世界大戦で使用するための毒ガスを製造する重大な国家機密の島だったため、地図から消されていました。このたび、毒ガス製造に関する施設を目の当たりにして、特に『毒ガス資料館』を見て、あまりの生々しさと悲惨さで気持ちが凹みました。気を取り直すために、『休暇村大久野島』内の喫茶店に入って、ウサギのウンチ付きソフトクリームを食べて休憩しました。食べながら周囲を見渡すと、親子で和やかに過ごしている人達がたくさんいます。子ども達の楽しそうな笑い声も聞こえてきて、毒ガスは、今や過去の遺物になっていることをひしひしと感じました。平和だってことは、幸せなことです。

『休暇村大久野島』

休暇村の横は広々とした運動公園

休暇村の目の前は、瀬戸内海です。島々が見えて綺麗な景色でした。

ウサギのウンチ付きソフトクリーム

休暇村からフェリー乗り場まで無料送迎バスがあるので、帰りはバスに乗せていただきました。そして、愛媛県大三島の盛港から来たフェリー「第三おおみしま」に乗って、忠海港に戻りました。

第三おおみしま

ただいまー、忠海港。

「大久野島」では、毒ガス関係の施設はきちんと保存されており、それ以外の場所についても綺麗に整備されていて、今や、海水浴や魚釣り、キャンプ、サイクリング、テニスもできるレジャーに適した島になっていました。

忠海港から東横INN広島平和大通に移動する途中で、イオンに寄って夕食を購入しました。部屋で涼みながら、ゆっくり食べるのも良いものです。

東横INN広島平和大通

10.福岡へ帰宅(9日目/8月27日)

朝食をいただいてから、自宅に直帰しました。

朝食

佐賀関から四国に渡って始まった8泊9日の旅行は、以上で終わりです。マイカー旅行は、気軽な上に好きなように行動できるので、楽ちんです。このたびは、希望していた観光地すべてに行けたので満足しています。しいて難点をあげるなら、超暑かったことくらいですね。春や秋の行楽シーズンが最適だとは思いますが、既に予定が入っていたりするので、仕方がありません。暑い時でも寒い時でも季節を選ばずに旅行ができるように、日頃から身体を鍛えておくことが一番の解決策かな⁉

 

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