2026年6月1日(月) 勘違いかな?
清瀬ゼミ生が都立高校合格率100%だった年(回数)は
すでに10回を余裕で超えています。←本当
あまり言わないだけです。
「え~!!ど、どうして今までそれをアピールしてこなかったんですか?」と問われること、たびたび。
私(激レアあまのじゃくさん)は
「言い過ぎない方が粋(いき)だと勘違いしているんです。今日は話題が出たので、お話ししました。達成しているところほど言わないものなんです」
なんて答えている。
3か月ぶりのブログ更新がこの話題からか、と思うほど同じ問いを受けたので。
2026年6月1日(月)中間テスト結果
5月の中間テストでは、ゼミ生の皆さん頑張りましたね。
中1生
➡ゼミ中1生の英語の平均点が97点でした。
中2生
➡前回(中1の3学期期末テスト)では、英語のゼミ生平均点
は 92点でしたが、今回はゼミ中2生の数学平均点94点でした。100点満点の人もいました。
中3生
➡5科目合計点で入学後自己最高点を取った人が複数いました。
勿論上記は「良かったところ」を少しだけピックアップしました。改善点は授業内でお話しします。そちらが大切。
次回の期末テストは9科目になります。的確な計画のもと、意欲的に実行していきましょう。
期末テスト後は7月初めから夏期講習となります。
清瀬ゼミの夏期講習は、夏休みからではないのです。
2026年6月1日(月) 魔法の?
中1生には、3月の小学校卒業式当日に卒業のお祝い品として「シャープペン」を贈りました。
長時間書いても疲れにくいシャープペン
=勉強がはかどる魔法のシャープペン
=勉強ができるようになる(かもしれない?)シャープペン
かも。
ところで16年前だったかな、やはりこの小学校卒業記念のシャープペンを渡した年があったのね。小6の終わりに。でも誰も授業中に使わないので「まあ好みのデザインとかもあるからねえ」と思っていた。
ところがその3年後、高校受験直前(1月)の中3授業で、一斉に見覚えのあるデザインのシャープペンが・・・
「これ受験のお守りね」と生徒のひとりからハイセンスな言葉が!みんな覚えてたんだね。
え?受験でその魔法は効いたのかって?
そりゃ、わざわざ書いたわけだからさ。
2026年6月1日(月)4つ葉のクローバー
4つ葉のクローバーを見つけた人には、幸運が訪れるといわれています。通常3つ葉のシロツメクサですが、10万分の1の確率で4つ葉が現れるらしい。特に夏至の夜に見つけると、幸運効果倍増ともいわれている。因みに今年の夏至の日は6月21日。
ところでシロツメクサは、人に踏まれ傷がつくと4つ葉になるという説もあります。人間に言い換えれば、挫折や失敗は向上の源になると考えられますかね。
謙虚な反省をもとに、努力によって幸運を引き寄せたいものですね。
2026年6月1日(月)きたきたのこのこの山里
今朝、目覚めてすぐに体重計に乗った。高校生の時と同じ数値が画面に示された。森高千里に報告しようかとは考えなかった。
奇跡的ではない。根拠ある結果なのだ。健康のための節制なのだ。
今日もスイーツなどの甘いものは摂取しないようにしよう。だがそんな誓いも束の間、目の前の卓上に座りこちらを見て微笑んでいるチョコレートさんに気付いた。むむむ。
小学校のタケノコ遠足の経験から「きのこの山」よりも「たけのこの里」に僅差で軍配をあげてきた私なのだが、目の前に座っているのは両者の良いとこ取りをした新商品「きたきたのこのこの山里」である。ネーミングが既に手強い。しかもクラッカーとクッキーを砕いて、ミルクチョコレートコーテイングときた。
難敵である。
しかしそれに惑わされるような私ではない。
ふふふ。ふ?
食べちゃった。全部。
2026年6月1日(月)サッカーW杯
国立競技場はサッカーの聖地だった。
私の言う国立競技場は、
17歳のマラドーナのフリーキックを直接ゴール裏で見た、
あの旧国立競技場である。
ペレの引退試合を直接メインスタンドで見た、
あの旧国立競技場である。
自らグランドを直接走った、
あの旧国立競技場である。
キムタクがビューティフル・ライフ1話の中で、ヤマハTW200で疾走する、その後ろに映り込んでいた、
あの旧国立競技場である。
さて、今月サッカーW杯が開幕する。楽しみな日が続きそうだ。
授業日にジャパンブルーのユニフォーム着てしまうかもしれない。
2026年6月1日(月)伝説・・なわけない
ゼミ生の皆さんには「清瀬ゼミ通信」でお伝えしましたが、
「清瀬ゼミ 伝説」や「清瀬ゼミ 最強」などのワードで検索すると、AIが回答してくるらしい件。らしいというのは、私はスマホは殆ど使わない故、1度も見たことはないし関係ない。
また、そのようなワードを自ら発したこともない。←ここ重要。
因みに先週水曜日から本日月曜日までの6日間、スマホの画面を開いた時間は・・・0分である。
ん?なにか?
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「続・激レア伝説」と表現するブログ記事はある。
通信でお話した皆さんの先輩から「でも当たらずと雖も遠からず」と言われたので、返答しておいた。
それを言うなら『馬には乗ってみよ 人には添うてみよ』
AIに関してはかつて下記の記事も書きましたので再掲載。
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2026年6月1日(月)蒼の時 雲散霧消
大人になる事って難しい。私は子供の頃、大人になることを恐れていた。純粋で無垢な心が、雲散霧消してしまうのではないかと思っていたのだ。でも本当に大人になるには、逆に限りなく純粋で無垢な世界を確信した時なのかもしれない。今振り返ると、私にとってそれは「19歳のクリスマスラプソディーの日」だったのではないかと感じている。あの日私は、混乱と自尊心と不安と憧れと、すべてを懸けて東京の街を走った。
そしてあの日私は・・東京に呑み込まれてしまった。
それは「蒼の時」が終わりを告げた日でもある。
そんな書き出しで綴ったのは、遥か彼方のある日の深夜であったと記憶している。清瀬ゼミを始めるずっと前。
文章とは、後ほど触れた時には、たとえそれが稚拙なれど、形式や技術では測れない経験値に依る部分が多くを占めるものこそが、現実味を帯びているかと考える。その意味では、ひとつの物語や論文や表現を書き記すにはAIなどでは不可能ではないか。
今の大学生の7割が論文やレポート作成はAI頼みだとか。別にそれは自由だと思いますよ。分野によっては必要かもしれませんしね。批判的でもありません。
でも私は徒手空拳の表現を旨としていきたい。
正解や効率を求めたがる思考そのものがあたかも究極の目的であり、もはやなりわいとさえなりかねない。間違えたくないというエゴは、逆にその先の本質まで辿りつくための羅針盤を見誤る。
ブルースのグルーヴ感は音符では伝えられない。
へたうまギタリストのオープンG変則5弦チューニングミス即興演奏が、伝説となり記憶の底に生き続ける。
正しいか正しくないかではない。表現とは会話とは言葉とは文字とは・・そこに感情が漂っているか否かなのだよ。正解なんてそんなに安易かつ身近に潜んではいないのだよ。そもそも前提として本当にその情報は正しいのかな?経験から生み出され、空気中に浮かび上がってくる、偶然とも必然とも認識不可能な感情表現が、正解でなくたってよいではないか。そんなに慌てて正解のみ追い求めるなんて・・・
「そう、間違えるからこそ人間なのだ」
新しいものが優れているとは限らない。
むしろその逆の可能性を先回りして想像できる思考回路を共存させなくてもよいですかね。
優れているからこそ残っていく古いものだってある。
嗚呼、アインシュタインかく曰く
「無限なものは2つある。それは宇宙と人間の愚かさ」
2026年6月1日(月) 音楽室(再掲載)
わずかに開いた扉をすり抜け、音楽室の中に滑り込んだ。
ピアノの前には彼女が座っていた。おそらく私が後ろで聴いていることには気づいていないだろう。祈るように胸の前で両手を組み、やがて意を決したように弾き始めた。
あの日と同じ、ショパンのノクターン・・・。
その指先は鍵盤の上を繊細に行き来し、私は音の海に漂った。
最後に彼女の演奏を聴いたのは小学6年生の6月だった。
感情が危なげに踊っていた。でも唯一無二の素晴らしい表現だと思った。あの時、その音に対して私が放ったひと言は彼女を迷走させてしまったのかもしれない。そうでなかったことを祈りたい。
あの時以来、彼女はピアノを弾いていないはずだ。
3年ぶりに聴いた彼女のピアノは、憂いや哀しみを漂わせながらも、繊細で優しい彼女らしい音色だった。
曲が終わり、しばしの沈黙をおいて「どうだった?私の演奏」と彼女は小さくつぶやいた。
私が聴いていることには気付いていたのだ。
彼女は続けた。
「相変わらず音階を追っているだけのような気がする。それに・・・この鍵盤の音がずれてる。調律できてない。」
そう言うとポンと1音たたいた。
更に彼女は言った。
「絶対音感って初めはだれでも持っているらしい。でも生活していく中で不要な音は削除されていく。やがて絶対音感は消えていく。むしろ絶対音感が無い方が、選択能力に長けていると考えるのは間違いかしら?」
私は意を決して意見した。親友として。
「突き詰め過ぎない方が方向が見えることってあるような気がする。人はそれぞれに長所を持ってる。理屈じゃなくて直感が勝ることだってあるから。」
すると彼女は、私に背を向けたまま「ありがとう」と小さく囁き先ほどの鍵盤をポンと1音奏で首を傾げた。
揺れるカーテン越しに、窓の外から6月の木漏れ日が差し込み、音楽室の床には、その影が静かに揺れていた。
もし「論理重視型タイプ」の人と「感情重視型タイプ」の人がいるのだとしたら、どちらもそれぞれ尊重すべき長所があるといえますね。
そして両方を兼ね備えたバランス感覚を持つことができたならば、さらに人間性に深みをもたらしてくれることもあります。
勉強するということは、そういった自分自身への客観性をも引き出してくれる扉となのかもしれませんね。
2026年6月1日(月)タイムトラベル
31年前の6月に、清瀬ゼミバンドはコンサートを行った。日付は6月9日(ロックの日)だった。バンドの結成から解散までは半年間。お昼過ぎには教室で練習。時にはストリートライブ。そして6月9日にコンサート。あのころ何をやっていたんだろうとふと思い、昔々の清瀬ゼミ通信を読んでみた。すると時は流れても普遍的なものってあるんだなあと気付く。
こんな感じ。
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1990年4月9日 ソクラテスの弁明
さて前回お話しした「ソクラテスの弁明」の話題から、皆さんは何を考えましたか?
「知らないのに知っているように思う」ことよりも「知らないことは知らないと自覚すること」が大切という考え方は、成長していく上で必要なのかもしれませんね。
夜もすがら悩むよりも、自分自身の長所も短所も客観視できれば、考えも行動も前進できるかもしれません。
「自分の個性はここだ。だから今はこれを実行しよう」と進んでいきたいものですね。
他人に優しく、自分にも優しく、でも俯瞰して。
