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2023年5月3日(水)     ひこうき雲      

晴天続きの澄んだ空に、一筋の「ひこうき雲」が走っていました。真っすぐに長く続くその先が、建物に隠れて見えません。潔く真っ白で、真っすぐに伸びたその先に何があるのかを知りたくて、見晴らしのよい場所に移動しました。

すると、一直線に伸びたその傍らにもう一本のひこうき雲が、並走しています。もう一本を応援しながら、そして陰で見守りながら清々しいほどに伸びています。

元の場所からは陰に隠れて、存在さえも気づかなかったのです。でも立ち位置を変えただけで、予想外の新鮮な発見ができるものですよね。

しばらく眺めているうちに夕暮れが迫ってきました。
2本のレールの向こうには1番星がキラキラ輝いていました。






2023年5月3日(水)   渋滞        


G.W.中には、各地で道路の渋滞が起こります。ここ数日で、渋滞を経験した人もいますよね。何キロも渋滞する最初のきっかけは何だろう?先頭はどうなっているのだろう?と思ったことはありませんか。

きっとブレーキをかけて、ノロノロしている車がいるだろうと思いきや、意外とそうでもないようです。多くのケースでは「緩やかな上り坂」で自然に減速したところで、渋滞の先頭が始まります。ですから、無意識のうちに、その先頭となっているのですね。

何事も「上り坂」に差し掛かると、上昇していく手ごたえにまどわされて「減速」していることに気づきにくいものです。

新年度授業が始まって2か月が経ちました。自分は上昇していると、確かな手ごたえを感じている人へ。G.W.明けからの勉強は減速していないか、セルフチェックしながら授業参加して下さいね。





2023年5月3日(水)   リズミカル          


勉強している時に「おっ!のってきた!」「調子が出てきた!」と感じる時ってありますよね。その感覚は、思い込みではなく、おそらくは正しいものです。

脳は、外部から情報が入ってくると、その働きに「リズム」が生まれる構造を持っているというのです。つまり脳の機能が活発に働いていると「リズムに乗ってきた!」と感じるのでしょうね。ダラダラと勉強に取り組んでも、なかなかはかどらないのは、脳のリズムやテンポを活用できていないからなのかもしれません。

自分に合った勉強のテンポをつかんで、能率良く学習していきたいものですね。






2023年5月1日(月)     面談しました    

3月には中2生の個別面談を実施しましたが、4月には中3生全員と個別面談しました。各自学習方法や意欲について質問がありました。まだまだ遠慮がちな人もいまして、まあ良いとこでもあるかなと。

中1生は入学後最初の定期テスト対策実施中です。清瀬ゼミ式の対策方法や技術を把握しながら進めていきましょう。







2023年5月1日(月)   千代紙  

ある日の授業での出来事です。

(1日目)授業後Aさんが質問してきました。
「授業中、集中して勉強できた証(あかし)ってありますか?」こう答えました。
「授業後、皆さんが帰った後、机の位置や教室が綺麗で整然としている、そんな時は集中して、穏やかな気持ちで勉強できた証です」


(2日目)授業後、Aさんが質問してきました。
「教室を整然としてから帰りたいのですが、消しゴムの消しカスが机の上に残ってしまい気になります」
こう答えました。
「それは頑張って勉強した足跡なので、大丈夫です。ぬかるんだ道ほど、はっきりとした足跡が残ります。真剣に難問にも取り組んだ足跡が、消しゴムの消しカスです」
するとAさんは、机の端に綺麗に消しカスを集めてから帰っていきました。


(3日目)授業後、Aさんが勉強していた机の上に、なにやら小さなものが置かれています。見てみると、質素な千代紙で折られた2cm四方の「籠(かご)」です。中には消しゴムの消しカス。そして千代紙の端には小さく「足跡」の2文字が。

繊細な心遣いは、小さな気遣いから生まれるものですね。








2023年5月1日(月)  蒼の時  雲散霧消 

大人になる事って難しい。私は子供の頃、大人になることを恐れていた。純粋で無垢な心が、雲散霧消してしまうのではないかと思っていたのだ。でも本当に大人になるには、逆に限りなく純粋で無垢な世界を確信した時なのかもしれない。今振り返ると、私にとってそれは「19歳のクリスマスラプソディーの日」だったのではないかと感じている。あの日私は、混乱と自尊心と不安と憧れと、すべてを懸けて東京の街を走った。
そしてあの日私は・・東京に呑み込まれてしまった。
それは「蒼の時」が終わりを告げた日でもある。



そんな書き出しで綴ったのは、遥か彼方のある日の深夜であったと記憶している。

文章とは、後ほど触れた時には、たとえそれが稚拙なれど、形式や技術では測れない経験値に依る部分が多くを占めるものこそが、現実味を帯びているかと考える。その意味では、ひとつの物語や論文や表現を書き記すには、Chatなんちゃらなどでは不可能ではないか。


正解を求めたがる思考そのものがあたかも究極の目的であり、もはやなりわいとさえなりかねない。間違えたくないというエゴは、逆にその先の本質まで辿りつくための羅針盤を見誤る。


ブルースのグルーヴ感は音符では伝えられない。
へたうまギタリストのオープンG変則5弦チューニングミス即興演奏が、伝説となり記憶の底に生き続ける


正しいか正しくないかではない。表現とは会話とは言葉とは文字とは・・そこに感情が漂っているか否かなのだよ。正解なんてそんなに安易かつ身近に潜んではいないのだよ。そもそも前提として本当にその情報は正しいのかや?経験から生み出され、空気中に浮かび上がってくる、偶然とも必然とも認識不可能な感情表現が、正解でなくたってよいではないか。そんなに慌てて正解のみ追い求めるなんて・・。

そう、間違えるからこそ人間なのだ。

新しいものが優れているとは限らない。
むしろその逆の可能性を先回りして想像できる思考回路を共存させなくてもよいですかね。
優れているからこそ残っていく古いものだってある。



嗚呼、アインシュタインかく曰く
「無限なものは2つある。それは宇宙と人間の愚かさ」