vol 197:阿弥陀如来





瞼を伏せて瞑想に入る。

我々は寝るということはない世界の住人。

腹も減らねば、死ぬことすらない。

いいえ・・・死は我々の世界にも存在するが、

それは大罪を犯した者のみ。

袈裟を着た私の前に赤子がいる。

穏やかに眠っている。

そして笑い、泣き、顔を顰めて怒り、

様々な表情を見せる。

これが人として生きている証であり、純粋な仕草なのだ。

赤子が大声をあげて泣き出した。

私は何故、泣くのかと原因を探るが、

私の周りにたくさんの人影が現れた。

(阿弥陀様!なぜ、抱いてあげないのですか!。)

(酷い!ただ見てるだけなんて!。)

影は全員が全員、私に非難の声をあげる。

私は抱きたくても動けないのだ。

「抱いてやろうにも、動く事が出来ない。
誰か、その赤子を見てやってはくれぬか。」

(阿弥陀様ともあろうお方が赤子を見捨てるなど・・・。)

私は悲しく思う。

何故、私の言葉を信じてはくれないのかと。

力を入れて手を赤子に伸ばそうとするが、

いっこうに動いてはくれない。

そこに現れた一人の影が赤子を抱き上げた。

他の影達は歓声を上げて、

(おぉ!あなたこそ、我らの神!。)

その影に膝まづいた。

影に抱かれた赤子は私を見て、とても悲しそうな顔をする。

ゆっくり瞼を持ち上げ、この意味について考えた。

人と言うのは、見たそのものを受け入れる。

見えない理由は受け入れがたい存在なのだ。

今までの私の行動を見て来た者ですら、

たった一つ出来なかった事で判断し、

信じてきた想いが揺らいでしまう。

それを私は悲しむべきなのであろうか。

そこに怒りを覚えるべきなのであろうか。

悟りを開き、悟りを終えた期間が長いと、

自分に置き換えられた時の感情も、無に等しい。

しかし、悲しみという感情は忘れられないもの。

なぜならば、そんな無の感情になれる私ですら、

日々、悲しみを抱えているからだ。

怒りは打ち消す事が出来ても、

悲しみは打ち消す事が出来ないからだ。

この話しをカンにしてみた。

カンは言う。

「究極やな。」

そう言って笑うカンに、お前ならどうした?と問うてみた。

カンは言う。

「俺やったら、体は動かんわけやし、
なんで泣いてるんかもわからんけど、
どないした~?
って声かけてみるなぁ。
ほら、もしかしたら、その声だけでも、
赤ちゃんは安心して泣きやむかもしれんやん?。」

そう。

理由が解らずとも、出来ることの数はいくつかあったはず。

声が出せたということは、

声をかけることは出来たということなのだ。





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