摂 河 泉 の 日 蓮 宗 諸 寺

摂河泉の日蓮宗諸寺

摂津の諸寺

攝津能勢法華宗(日蓮宗)寺院
  以下は攝津能勢法華宗寺院にあり。
 地黄・無漏山真如寺:京都本満寺
 地黄・宝林山持経寺:京都本隆寺末(真門流)
 地黄・正行山清普寺:京都本満寺
 地黄・本林山恵照寺:京都本満寺
 野間西山・高嶽山今養寺:単立か
 野間大原・長栄山興徳寺:京都本満寺
 野間中・龍淵山圓珠寺:京都本満寺
 野間中・成就院:京都本満寺
 野間稲地・宝林山法華寺:京都本満寺
 野間出野・受持山善福寺:京都本満寺
 倉垣・永昌山妙法寺:京都本満寺
 倉垣・来成山本縁寺:
 倉垣・長渓山正林寺:京都本満寺
 倉垣・石用山涌泉寺:京都本満寺
 倉垣・七面山七寳寺(釈迦ケ嶽七面山):京都本満寺
 倉垣・普門山安穏寺:京都本満寺
 倉垣・清正公堂(妙林山本修院)
 上田尻・首題山妙唱寺:正行山清普寺(地黄)末:京都本満寺孫末
 下田尻・善養山長久寺:京都本満寺
 吉野・永昌山妙華寺:京都本満寺
 今西・廣榮山蓮華寺:京都本満寺
 長谷・法性山妙圓寺:京都本満寺
  以上は攝津能勢法華宗寺院にあり。

摂津上牧本澄寺

山号は法華山。京都本満寺末。
文明3年(1471)上牧の領主である烏丸大納言資任は当地にて日朗上人銘の石造宝塔を見出し、これを奇瑞とし、自らの猶子権大僧都日順を招き開山する。第2世には公卿烏丸家出身の日養が入る。
近世、高名であるのは祖師堂に祀る祖師像で、本像は日蓮の自作と伝え、世に「上牧の高祖」といわれる。
本像は、相模国鎌倉で刻まれ、弟子日澄が総州滝山妙階寺に移し、その後由良光寛が丹後に移した後、元亀元年(1570)当地の豪士富松兼重(後に牧兼重に改姓)が当寺に持ち帰り安置したと伝えられる。
江戸時代初期に東福門院(後水尾天皇の中宮)が祈願して以来「厄除けの高祖」として多数の信仰を集める。
往時は寺中11ヶ坊を擁する。
○「澱川両岸一覧」(淀川両岸一覧)暁晴翁 著述、松川半山 画図、出版年:文久年中(1861〜1863) より
本文には「本澄寺:当寺本堂に安置せる所は高祖四十二歳御自作の木像にて世に厄除の高祖と称し宗門の男女帰依して・・・」とある。
 澱川両岸一覧・本文
 澱川両岸一覧・絵図:本澄寺大屋根と土手には石灯篭と題目碑(推定)が描かれる。この石灯篭は現在仁王門前に移され現存するという。
2017/10/11追加:
○本澄寺資料「本澄寺と朝倉・浅井について」
 ※標記資料より、牧兼重(金牧丹波守・富松兼重)について要約する。
 ※牧兼重は本澄寺安置の日蓮自作の日蓮上人坐像を若狭から護持して、安置した人物である。
 ※牧兼重室は勝光院殿日勇尼であり、日勇尼は洛中勝光寺<學養寺中>中興の開基檀越である。また日勇尼は朝倉義景の娘である。
◆牧兼重(金牧丹波守・富松兼重)事跡:
永禄5年(1562)松永秀久、京都の実権を掌握。
永禄8年(1565)松永秀久、将軍足利義輝を暗殺。
 この頃、上牧法華村の住人富松兼重(のち牧兼重に改名)が越前朝倉義景に出仕。
 富松兼重、朝倉家家臣団中の文芸に秀でた印牧(カナマキ)一族になぞらえ、出身地の上牧(カンマキ)と 近似音である「金牧(カナマキ)丹波守」と自称する。
元亀元年(1570)若狭武田氏、織田信長により、滅亡。
 富松兼重、織田信長に従い若狭に出陣し、小浜にて日蓮自作と伝える日蓮上人像を取得・守護し、本澄寺に安置する。
 本澄寺の日蓮上人像は安置主として橘姓の薬師寺・富松一門の兼重の名と元亀元年の年を伝える。
 また尊像の底板には「若狭妙行寺」とあるという。
天正元年(1573)朝倉義景、織田信長により、滅亡。
 朝倉氏滅亡により、金牧丹波守・兼重は牧兼重と改名し、細川藤孝(幽斎)に出仕する。
慶長4年(1598)牧兼重、細川氏家臣として、丹後峰山の城にて逝去。
寛永8年(1631)洛中勝光寺、即是院日完(竜嶽院/圓覺院日長弟子)が中興、開基檀越は勝光院殿日勇尼(金牧丹後守の室・朝倉吉景の孫)と伝える。
勝光寺が伝える『勝光寺開基檀越は<朝倉十六代吉景公孫女。金牧「丹後守」妻>』とは、以上のような牧兼重(金牧丹後守)と本澄寺および朝倉氏との因縁があったのである。
 ※本澄寺資料「本澄寺と朝倉・浅井について」は次のサイトに掲載される。
 サイト:如是縁 >本澄寺 >頂いた資料PDF
2016/01/23撮影:
 新川沿の道標1     新川沿の道標2
 本澄寺仁王門1     本澄寺仁王門2:門前の石灯篭は「澱川両岸一覧」に描かれたもので、土手から移設されたものという。
 本澄寺南門
 本澄寺本堂・祖師堂1     本澄寺本堂・祖師堂2     本澄寺本堂1     本澄寺本堂2     本澄寺本堂3
 本澄寺祖師堂1     本澄寺祖師堂2
 本澄寺祖師堂3:祖師堂は拝殿と宝蔵に分かれそれを結合した構造である。      本澄寺祖師堂4:祖師堂の宝蔵部
 祖師堂前題目碑1     祖師堂前題目碑2
 題目石塔1     法華題目碑     題目石塔2
 石造宝塔:この宝塔の由来は未確認、あるいは烏丸大納言資任が当地にて見出した日朗上人銘の石造宝塔か?。
 本澄寺鐘楼     本澄寺手水舎
 本澄寺庫裡     推定・客殿/書院1     庭園・渡廊下     推定・客殿/書院2
 本澄寺歴代墓碑1:題目石塔が建てられる。      本澄寺歴代墓碑2:題目石塔下に廃墓碑が積まれる。
 本澄寺歴代墓碑3:題目石塔脇にはいくつかの歴代墓碑が並ぶ。
 本澄寺歴代墓碑4:この石碑の写真に写った面には、中央に「開基權大僧都日順聖人/永正八年(1511)・・・」とあり、両脇に本壽院日養聖人/本道院日忍聖人と刻み、その下に三世日諦聖人・・から十四世日遼聖人までの上人名が刻まれる。
 三好達治記念館
三好達治は本澄寺第41世であり、また本山本満寺貫首にも就任した三好龍紳の兄であるという関係で、当寺に記念館がある。
また三好達治の墓も当寺にある。

寺中:
●本立院:現存
2016/10/11追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
文明年中(1469-87)創立、開山勧成院日證(大永7年/1527寂)
「大観」には大永7年の創立、開山青林院日受とある。
2016/01/23撮影:
 寺中本立院1     寺中本立院2     寺中本立院3

●真如院:現存するも、現在は無住・荒廃
2016/10/11追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
永正14年(1517)創立、開山永守院日護。筵師法縁。
火災・水害等で全ての記録を失い詳しい寺歴は不明、明和年中に本應房日恵が田地4反を寄進、境智院と号していたが、明治23年真如院と境智院を合併、真如院と改称。
2018/07/23追加:
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
永正14年(1517)創立、開山永守院日護。
明治20年頃火災に遭い焼失したため、荒廃していた境智院に合併したが、寺号は真如院を称する。
のち、境智院は東大阪市日下町に寺号移転する。過去帳などは焼失したので、現在の過去帳は旧境智院のものである。
昭和32年以来修理改築を重ね、現在に至る。
2016/01/23撮影:
 寺中真如院1     寺中真如院2     寺中真如院3

●境智院:明治初頭に無住となり荒廃、寺籍を河内日下に遷し、日下に現存
2016/10/11追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
境智院は元枚岡市にあり、永禄10年(1567)創立、教林院日義を開基とする。
明治25年上牧町1丁目より現在地に移転、昭和9年表門倒壊、開山日護の墓碑、17世紀の玄題塔がある。
 →日下境智院(河内の諸寺中)

●勧成院:明治27年河内東豊浦に移転・現存

●その他の寺中は名称を知り得る資料がなし。

●本澄寺末寺
御殿山欣求寺(枚方市小倉町)
妙広山境智院(東大阪市日下町)  →河内の日蓮宗諸寺中:元は本澄寺寺中、明治27年河内日下に移転。
梅龍山勧成院(東大阪市東豊浦町)  →河内の日蓮宗諸寺中:元は本澄寺寺中、明治初頭に無住・荒廃、
            明治41年河内東豊浦に寺籍にみ移転。移転に際し、山門・本堂庫裡は売却、境内地は開墾し本澄寺に寄進する。

摂津神内菩提寺

山号あるいは由緒などの情報皆無であり、まったく分からない。
 2016/02/16追加:KG氏情報:
  山号は「安穏山」。法縁は隆源会(莚師法縁)であるが本寺は不明。上牧本澄寺住職が代務住職をしている模様。
民家としか思えない本堂兼庫裡一宇があり、その向かって左側に小祠(名称不明)と歴代墓所がある。
表札には寺院名が書かれると思われるも、まったく表札は読めない状態であり、住職が常駐している気配はない。
近所の主婦の聞取りでは、「住職は東京に出稼ぎにいったままで、帰ってこない状態である。」という。
2016/01/23撮影:
 菩提寺本堂兼庫裡1     菩提寺本堂兼庫裡2:左端下の段差をあがれば、小祠(名称不明)と歴代墓碑がある。
 菩提寺小祠(名称不明):比較的新しいものと思われる。横の石碑(新しいもの)には「妙法 有無両縁十方法界霊」と刻む。小祠の左(小詞の陰になり写真には写らない)に歴代墓碑がある。
 菩提寺歴代墓碑:僅か5基の歴代墓碑と1基の俗人の墓碑合計6基が並ぶだけである。写真左下に僅かに写るのが俗人の墓碑である。
歴代墓碑の5基は右から次のように刻む。
 「開山眞乗院日雄聖人/中興恵道院日玄聖人」
 「菩提寺/二十三世/大應院日恵聖人」
 「妙法蓮華経 の他は判読できない。」(住職の墓碑と思われる。側面には多くの歴代が記載されているようにも見えるが判読不可)
 「當山/十七世/日歓上人」
 「當山/廿四世唯常院日昌大徳」
俗人の墓碑は俗名と「文化元年(1804)」の年紀を刻む。
以上から、開山は眞乗院日雄、中興は恵道院日玄と知れるが、開山と中興とを区別しているので、あるいは他宗を転宗させた寺歴があるのかも知れない。また少なくとも23世まで歴代は続き、俗人の墓碑の年紀が文化元年であるので、近世初頭からの由緒があるのかもしれない。但し堂宇や寺地が昭和後期あるいは平成初期の雰囲気しかないので、あるいは、すぐ西にある上牧山手妙浄寺のように、他所から移転してきたのかも知れない。そして移転にあたり、合計6基の墓碑は旧地から移設したのかも知れない。
2016/10/12追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
永禄5年(1562)創立、開山眞乗院日雄(慶長17年/1612寂)

摂津上牧山手妙浄寺

妙浄寺(みょうじょう) 高槻市上牧山手町1-28
霊岡山と号する。京都本満寺末。
享禄元年(1528)日進上人が淀川沿い井尻(現在地より南西に約1.5〜2kmの所・島上郡井尻村)に創建する。
明治22年と同29年に淀川の洪水があり、翌年明治30年に本堂を西法寺へ移した正覚寺跡の当地に移転する。
昭和61年現在の堂宇に造替する。
 ※西法寺とは高槻市梶原5-5-2にある西法寺であろうか。
 この西法寺は浄土真宗本願寺派・萬宣寺の末寺。本願寺14世寂如の直弟子貞順が、正保2年(1645)京都六条で寺を建立し、
 その後天明8年(1788)に現在地に移転するという。
2016/01/23撮影:
 「本堂を西法寺へ移した正覚寺跡」とは正確な意味が不明であるが、当地に正覚寺の題目碑が残り、多少の手掛がある。
・推定正覺寺残置石碑1
 推定正覚寺題目碑三基:この三基は纏めて設置され、三基とも元の正覚寺の題目碑であろう。
 中央題目碑1:正面「南無妙法蓮華経 法界」、側面「開基□□/大聖山正覺寺」とあり、開基の後の文字が判読できないが、山号は大聖山で日蓮宗であ り、下に掲げる側面の刻字「本法寺日近」から本寺は本法寺であったことが分かる。
 中央題目碑2:裏面「中興 以信院圓空日栄□」(日栄□は判読できないが、庫裡附近の法界碑に「以信院日恵聖人」とあり日恵である可能性が高い)、側面「當題目開山京前本法寺日近」とあり、一時衰微し中興され、側面の意は不明確ではあるが、この題目碑は本法寺日近によって建立されたということであろうか。
 向かって左題目碑     向かって右題目碑
・推定正覺寺残置石碑2
さらに庫裡附近に1基の題目碑とさらに1基の法界碑の合計2基の碑が残る。法界碑は内容から大聖山正覺寺のものであろう。
 題目碑・法界碑
 推定正覚寺題目碑:次のように3行に刻される。
「南無妙法蓮華経 法界」 の左右が判読不能(向かって右は不能、左は中興開山□□)
 正覚寺法界碑:次のように 9行に刻される。
右より
  領主武運長久
 自性院本是日實
  鶴樹院常榮日芳
 遠成院日近聖人
        法界
 以信院日恵聖人
  道樹院妙榮日昌
 本性院妙是日體
  民安全
とある。
但し、2段ある台石の文字は全く判読できない。
以上であるが、前出の「中央題目碑」と照らし合わせて、遠成院日近聖人(「當題目開山京前本法寺日近」)は開山上人、以信院日恵聖人(「中興 以信院圓空日栄□」以信院日恵?)は中興上人と思われる。
よって、大聖山正覺寺は本法寺遠成院日近上人によって開山され、以信院日恵上人によって中興されたと思われる。
因みに日近(にちごん)は法諱・幸長/空堂;字、遠成院、寛永15年/1638-享保8年/1723、京都日蓮僧、日休門/本法寺23/25世 とある。
 日休上人は本法寺17世。
・推定妙浄寺旧地から移転した石碑
本堂前にも3基の石碑がある。その内の1基には妙浄寺と刻むので、この3基は妙浄寺の故地から移設した碑であろう。
 妙浄寺題目碑類3基     妙浄寺碑     推定妙浄寺題目碑     推定妙浄寺墓碑
 妙浄寺本堂     妙浄寺庫裡

摂津梶原一乗寺

一乗寺の西に梶原永福寺(畑山神社)が位置する。昌林山と号する。京都本法寺末。
元は千観の創建になる金仙寺と称したが、元亀年中(1570-74)宇野・西村両氏が日親上人に帰依し一乗寺と改めると云う。
 ※日親上人最初の開創寺院と称される。
 ※千観とは千観内供とも思われるも、未確認。 → 千観内供とは山城与杼姫社を勧請する。
慶長年間伽藍を焼失。
慶安3年(1650)養珠院の寄進により、本堂・庫裏・開山堂などが再興され、その後も歴代紀州徳川家の保護を受けるという。
○寛政年中「山崎通分間延絵図」より 永福寺古図2:伽藍巍々とした様子が描かれる。現在より相当程度大規模な伽藍であったことが分かる。
末寺として次の1ヶ寺がある。
 昌験山報恩寺(加西市玉丘町)
2002/04/20撮影:
 摂津一乗寺:左は日親上人像
2016/01/23撮影:
現在の本堂は平成10年(1998)造替されたといい、その後開山堂や庫裡も造替され、山門も改修されるという。従って上記写真の堂宇は開山堂であるが、その姿は既にない。
 門前題目碑
 門前毘沙門天碑:毘沙門天、江戸正傳寺像同木・・・
正伝寺は中山末、松林山と号す。芝濱町四十七番地。
毘沙門堂:毘沙門天、傳教大師の作。
江戸名所図会に云、本尊は傳教大師の作にして、後、日親上人再び點眼供養するとぞ、往古は摂州梶折邑一乗寺といへる寺にありしかとも、僻地にして結縁の人少し(一乗寺は金仙寺といひし真言の密乗なりしを日親上人の弘教に帰して本化の宗に改む)依て寛文の頃、衆生化益の為、日栄上人ここに移し奉るとなり。日親堂(日親上人の像を安ず)。
 一乗寺山門:貞享元年(1684)建立、平成22年改修。      一乗寺山内     山内題目碑
 一乗寺本堂1     一乗寺本堂2     一乗寺本堂3
 一乗寺開山堂1     一乗寺開山堂2:銅像は日親上人像     一乗寺開山堂3
 一乗寺鐘楼     一乗寺番神堂:造からみて番神堂であろう。      一乗寺小祠:何を祀るのか不明
 一乗寺庫裡1     一乗寺庫裡2     一乗寺庫裡3

摂津梶原安穏寺

2016/10/12追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
 ※現在は、長岡京市天神2−15−51 に移転し、現存する。近年の移転と思われる。
善処山と号する、京都本法寺末、親師法縁
慶長7年(1602)創建、開基京都本法寺中興10世功徳院日通(慶長13年/1608寂)。
7世迄本法寺貫主の隠居寺であった。信者からの土地の寄進もあり、隆昌を極めるも、後衰微する。
戦後、市の教育用地として買収されるも、昭和51年本堂・庫裡を新築する。
 ※「日蓮宗大図鑑」では「小学校用地として利用されているところが買収されたので本堂・庫裡を改築することができた。」とある。
安穏寺山頂には本法寺32世、一乗寺13世、安穏寺6世日詮の造営と伝える石塔(宝暦8年作)がある。
2017/10/31追加:
「日蓮宗大図鑑」同刊行会編、昭和62年 より
 梶原安穏寺本堂:現在は現地を離れているので、旧本堂である。

摂津梶原田中寺

癌や痔、喘息、神経痛などの封じ寺として名高いという。
開山、開基、創建の年代などその他の情報はなし。
福生山と号する。京都本満寺末。莚師法縁。
2016/10/12追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
天正4年(1576)創建、開基一如院日重(元和9年寂)。
梶村宗林(宗林院日榮)京都本満寺12世日重を欣慕し創立、日重を開基に迎える。
○寛政年中「山崎通分間延絵図」より 永福寺古図     永福寺古図2:梶原村永福寺西隣に田中寺が描かれる。
2016/01/23撮影:
 門前題目碑:法華守護番神とある。元禄8年(1695)年紀。      田中寺山門
 田中寺道標:今は本堂前にあるが「田中寺高祖道」と刻み、西国街道から入った場所に在る為、おそらくこの道標は西国街道脇にあったものと思われる。
 田中寺本堂:平成14年新築落慶      田中寺庫裡

摂津萩之庄成就寺

法久山と号する。京都本満寺末。
明暦3年(1657)了甫院日良上人によって開かれる。元禄12年(1700)丹波谷と呼ばれていたこの地へ移る。旧地は水難の多い地であった。
享保16年(1731)火災焼失したのちに再建される。
 ※しかし現在の堂宇は一見して戦後のもので、享保の火災後再建された堂宇は老朽化などで、建替えられたものと思われる。
西国街道に接した小丘に立地する。
2016/01/23撮影:
 西国街道脇題目碑     成就寺参道     成就寺本堂庫裡     境内題目碑:享和元年(1801)年紀
 成就寺歴代墓碑:近年整備された様子である。
 成就寺歴代墓標:開山は了甫院日良上人、以下30世迄の歴代が刻される。

摂津山手法照寺

冨松山と号する。京都妙覚寺末。
寺伝では江戸初期に日乗上人が草庵を結び、寛文5年(1665)上人に帰依した長田氏が檀越となり、創建される。
以降長田氏の菩提寺として栄える
長田氏は高槻藩永井家重臣という。
幕末には荒廃するも、その後再建されるという。
2016/01/23撮影:
 入口題目碑     法照寺本堂1     法照寺本堂2     法照寺妙見堂     法照寺庫裡
 法照寺月見堂:「法灯会」が行われる月見亭と推測する。      長田作右衛門慰信臣夫妻墓碑

摂津安満新町題目碑

 題目碑正面     題目碑右側面1     題目碑右側面2     題目碑左側面
向かって左側面は「一天四海 皆帰妙法 天下大平 国土安泰」、裏面は「天保六乙未年(1835)建之 常智山本行寺日静」とある。
常智山本行寺は下に掲載。

摂津古曽部乾性寺

元和5年(1619)乾性院日進上人の創建によるという。境内の梅は高槻藩3代藩主永井近江守直種の手植えという。
加賀山と号する。本山/法縁は調査できず。
2016/02/17KG氏情報:
本末関係:山城上植野公布山法華寺末 →鶏冠井の諸寺
2016/01/23撮影:
 乾性寺参道     山門外題目碑     乾性寺山門     山門内日蓮碑
 乾性寺本堂     乾性寺庫裡       乾性寺書院     乾性寺妙見堂

摂津高槻大手町本行寺

常智山と号す。京都本満寺末。
○二重塔がある。但し近年のものと思われ、またRC造でその装飾は猥雑を極め、感心できないものである。
昭和61年建立で「法華経守護の塔」と称する。
 →二重塔のページに追加をする。
○本行寺の由来(本行寺のサイトを要約)
高槻大蔵司村付近の丘陵に白鳳期の岡本寺という寺院があり、その寺跡に日蓮宗本照寺が建立され、三好元長、細川晴元の外護を受けて隆盛であった。しかし天文法華の乱に、焦土と化す。その後、三好長慶により毘沙門堂として再興されるも、高山右近によって焼払われ、住職は上の山の祖師像(本行寺に現存)をもって備前に逃れるという。
慶長元年(1596)本満寺一如院日重(身延山二十世)によって、高槻城下に寺院が復興され、常智山本行寺と号することとなる。
その後、第五世日東上人のとき、高槻城主永井直清の帰依があり、本堂などが再建される。その後も永井氏の祈願所となり、明治維新まで永井氏の庇護をうける。
2016/01/23撮影:
 本行寺二重塔1     本行寺二重塔2     本行寺二重塔3     本行寺二重塔4     本行寺二重塔5
 山門脇題目碑
 本行寺山門1     本行寺山門2:高槻城の高麗門を移建したものという。      山内日蓮碑     山内題目碑
 本行寺本堂1     本行寺本堂2     本行寺妙見堂     本行寺鐘楼     本行寺玄関:大黒天を祀る。
 本行寺中庭      本行寺庫裡

摂津幸松寺

山号は永昌山。六条本圀寺末。現在は大阪府高槻市本町15-15に移転して、在る。
延享4年(1747)了義院日達上人により開創。その創建の場所は現在の西寺町に接する川崎領の飛び地であった。
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○創建場所を古地図類で示すと次の通りである。
 攝州大阪画圖:江戸中期、大坂野村長兵衛版:2016/06/19追加
中央やや左上に幸松寺がある。東西にならぶのが北野領の西寺町で、蟠龍寺の北・夕顔寺の西にある。
 天保8年天保新改攝州大阪全圖:本図は下が北である。本図の中央に幸松寺がある。東西にならぶのが北野領の西寺町で、蟠龍寺の北・夕顔寺の西にある。(この区画のみ川崎領である。)北西には大ユウジがあり、大融寺の入り口に位置する。
 明治5年大阪市中地區甼名改正繪圖:本図は上が北である。本図の中央やや右に幸松寺がある。東西にならぶのが北野領の西寺町で、蟠龍寺の北・夕顔寺の西にある。北西には大融寺があり、大融寺の入り口に位置するのは上図と同様である。
 明治15年改正新版大坂明細全図:上図と同様であるが、夕顔寺の西に幸マン寺とあるのが幸松寺であろう。大融寺は大ユウジとある。
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明治31年11月1日に大阪市北区本庄浮田町に移転し、更に昭和39年4月に大阪市の都市計画により、高槻市に移転する。
附近には北野村(北野領)である西寺町の寺院が続くが、この幸松寺は北野村の西寺町の所属ではなく、川崎村(川崎領)の飛び地内にあったので、 川崎村幸松寺というべきものである。
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○移転場所を古地図で示すとつぎの通りである。
 大正3年大阪市内詳細図:図の中央が本庄浮田町で一ヶ寺の寺院の印(卍)がある。寺院の名称はないがこれが幸松寺と推定される。
現在この附近は大きく変貌しているが、現在この付近には寺院の存在は認められない。それはこの寺院が高槻に移転したからなのであろう。
なお図の下の鉄道は城東塼(現在の大阪環状線)で、図の右下の図外になるが、この鉄道と天神橋筋の交点の東が天満駅である。
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 なお幸松寺のサイトでは次のように云う。
元禄13年(1700)林久寺之宮淳子内親王の発願により、妙三比丘尼に依って身延庵として上新庄に建立。
 ※林久寺之宮とは不詳、あるいは林丘寺宮であるのかも知れない。
寛保元年(1741)公儀の許可を受け、了義院日逹上人を開山とし、幸松寺として寺号を公称する。
2016/10/12追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
元禄3年(1700)の創立、開基妙三尼、開山了義院日達、開基檀越林丘寺宮淳子内親王。
妙三尼が身延庵として西成郡新庄町に創立、寛保元年に大阪天満に移転、寺号公称し了義院日達を開山に迎える。
明治29年大阪北区浮田町に移転、昭和29年都市計画により現在地に移転。
2016/01/23撮影:
 幸松寺寺門     山内題目碑:明治42年建立とあるから、本庄浮田町に移転していた時の建立か。
 幸松寺本堂1     幸松寺本堂2     幸松寺本堂3     幸松寺庫裡

摂津豊中藤井寺

 →摂津藤井寺
東城山と号する。法華宗(本門流)、尼崎本興寺末と推定される。
享保11年(1726)曾根崎村に尼崎本興寺日軌上人を開基・開山として開創される。
昭和4年(1929)中川日伝上人、曾根崎より豊中福井村(現豊中市城山町)へ一山を移転中興する。
平成13年(2001)三重塔を建立する。

摂津茨木妙徳寺:茨木市片桐町14-26

2018/07/23追加:
真如山と号する。京都本満寺末。
文禄2年(1593)上牧村富松次郎兵衛尉元和及び中川清秀の妹・法名妙徳が大檀越となり建立する。開山は日應。
寛文9年(1671)本堂再建、元禄8年(1695)庫裡新築、明和4年(1767)本堂大修理なる。
山門は、茨木城廃城で不要となった裏門搦手門を妙徳寺建立の時移築したと伝える。
文政12年(1841)大修理、昭和28年山門を移転。その後数次の台風で崩壊状態となり、平成4年(1992)大改修が行われるも、平成7年(1995)神戸淡路大震災で崩壊する。そこで元の山門のあった場所に現在の山門が新築される。しかしこの門も平成30年の6月の大阪北部地震で倒壊する。
安永2年(1787)妙見堂建立、寛政3年(1791)妙見大菩薩を勧請。文化10年(1813)妙見堂大破につき再建。明治40年妙見堂大修理。昭和62年妙見堂を移転新築。
手水鉢:茨木城から移されると伝えるも、文政10年(1827)の造立銘がある。故に茨木城からの移転は偽であろう。
2018/07/23追加:
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
文禄2年(1593)摂津上牧村富松次郎兵衛尉元和が圓乗院日應を開基に創建する。
慶長9年(1604)茨木城主片桐主膳より境内地を寄進され、今日に至る。
昭和27年先住は規則を変更して単立寺院とするも、昭和55年には現住により日蓮宗に復帰する。
 ※従って、昭和56年の「日蓮宗寺院大鑑」には記載されない。
 倒壊前妙徳寺山門1     倒壊前妙徳寺山門2:Google     倒壊前妙徳寺山門3:Google
 倒壊した妙徳寺山門

宝聚山円妙寺(大阪市中央区中寺)

 →明治以降の三重塔445にあり。

大阪妙見閣寺

 →大阪妙見閣寺:平成18年宝塔が建立される。

摂津大鹿妙宣寺

大覚山と号する。(伊丹市大鹿4-36)
文和3年(1354)大覚大僧正が西国巡化の途中、当地に立ち寄る。この時、当地は大旱魃で雨乞いの最中であった。
そこで大覚大僧正が雨乞祈願をしたところ、すぐさま降雨となったと伝える。
そこで、大鹿村一村は法華宗に改宗し、妙宣寺は大覚大僧正を開祖とし成立と伝える。
享徳元年(1452)本能寺本興寺末寺となる。
宝永4年(1707)本堂など再興、現存四脚門は安永2年(1773)建立という。
明治42年本興寺末寺となる。
平成7年阪神淡路大震災被災、本堂の他、鐘楼、納骨堂、客殿などを復興する。
門前に大覚大僧正「竹塚」、附近に「経塚」が残存する。
2007/07/19撮影:
 大鹿妙宣寺全容  大鹿妙宣寺本堂  大鹿妙宣寺客殿
 大鹿妙宣寺本堂扁額:法華宗八品派の特色を出す
往時、大鹿村の人は多くは真言宗であったが、師(大覚大僧正)の勧化を聞いて皆改宗し、今は他宗の人は一人もいない。
ある時僧正は携えていた杖を地に挿していった。我が教える法が末世に盛んになれば、この竹は必ず生じるだろう、と。果たして紫竹の林になったという。


河内の諸寺

東豊浦勧成院:現東大阪東豊浦8-5、暗峠の沿道にあり。

摂津上牧本澄寺末。
永正2年(1505)本澄寺寺中として創立、明治27年現地に移転、その後衰退するが大正年間に再中興。
2018/07/23追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
梅龍山と号す、上牧本澄寺末、筵師法縁、住職は親師法縁。
永正2年(1505)の創立、開山勧成院日證、三島郡上牧村に創建。
明治27年中河内郡豊浦村廃寺善導庵の旧地である現在地に移転、大正年中に33世慈昇院日竜が中興。
2018/07/23追加:
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
永正2年(1505)摂津三島郡上牧法華山本澄寺山内に建立される。開基は勧成院日証で、明治27年旧善導庵(法華宗)跡の現在地に移築される。
明治末期からのち、無住であったが、大正期に33世慈昇院日龍が客殿などを整備し、復興する。昭和55年本堂・庫裡を改築する。

日下境智院:現東大阪市日下町6丁目1番5号

摂津上牧本澄寺末。
 ※サイト「境智院」を次のように要約する。
天文2年(1533):開山は日義上人、三宝諸尊を請じて本澄寺中に境智院を創立。
明治初頭:教勢振るわず、無住となり荒廃する。
明治26年〜34年:河内国日下村井上岩三郎、大阪市南区長堀橋1丁目豊田宇左衛門氏の両名が、岩三郎の伯母であり宇左衛門の亡母豊田ミヤの遺言に従い、菩提を弔うため日蓮宗寺院の建立を発願。岩三郎所有地である現在地に寺地を定める。
明治35年:宝塔建立、大坂谷町真宗大谷派慶徳寺本堂を購入・移建、日下東方正法寺庫裡を移建。
明治36年:山門・書院・納屋・玄関などが完成、修徳院日行入山。
明治37年:日蓮宗妙顕寺教会所と称する。
明治40年:当時、政府は新寺建立(新寺号新設)を認可しなかっため、本澄寺寺中境智院の寺号を遷移させ、1世日行上人を中興の祖(移転発起人)とし、大阪府知事に日下移転許可を申請。
明治41年:境智院の日下移転の大阪府知事認可を得る。
上牧の堂宇より三宝尊、祖師像、本化四菩薩像、四天王像、鬼子母神并七面天女厨子、妙見菩薩像、大黒天像(現在不明)等計10点を移転させ、妙廣山境智院と公称し再建。
上牧の境内地(157坪)の本堂兼庫裡(桁行5間半、梁行3間半)、 山門(桁行1間半、梁行1間)を売却の上、境内地を開墾して本寺本澄寺に寄付。
平成12年(2002)第9世純理院日秀が入寺、法燈を継承。
2018/07/23追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
妙広山と号す、上牧本澄寺末、松ヶ崎法縁。
天文2年(1533)の創立、開山日義。再興一世修徳院日行。
明治初年に至り無住の為に荒廃する。一方、河内日下村井上岩三郎・豊田宇左衛門が現在の地に本堂・庫裡・山門を建立するも、寺号新設は許されなかったので、上牧本澄寺々中境智院の寺号を移し、公称する。
明治38年修徳院日行が再建、41年に移転、日行一世として開堂入仏式を挙行。
隠れキリシタンの無縁墓碑数基あり。
2018/07/23追加:
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
天文2年(1533)開基の日義が摂津上牧に創建するも、明治初期に衰微する。
一方、河内日下村の井上岩三郎と豊田宇左衛門の二人は岩三郎伯母であり宇左衛門の母である豊田ミヤの菩提供養のため、日蓮宗寺院の建立を発願し、現在の地に本堂・山門・庫裡を建立する。そして明治38年境智院中興開山の修徳院日行を初代住住職として、開堂入仏式を行う。



堺の諸寺
堺は本来大和川が摂泉国境とされるまで、大小路が摂泉国境であった。厳密に大小路で摂泉を区分するのは煩雑なので、堺市街の寺院は摂泉を区分せず、堺の諸寺と一括する。

堺妙慶寺

2017/10/31追加:
〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
堺妙慶寺
栄照山と号す、四条妙顕寺末、筵師法縁。日像真筆の宝塔を有する。
文亀元年(1501)創立、開基龍華樹院日像、開山竜玄院日英。京都21本山の一つとして創建。当時は京都七道軌道にあった。天文5年(1536)天文法華の法難で堺(現在地)に移る。
 ※京都七道軌道とは不明。
 ※「日蓮宗大図鑑」:「大鑑」と同一の記述である。
〇「堺市史 第七巻」堺市役所編、昭和5年 より
 妙慶寺は榮照山と號し、【位置】新在家町東二丁字石塔側にあり、日蓮宗妙顯寺末、寺格平僧跡。【開基】文龜元年の交日英京キ妙顯寺より來つて創建し、(堺鑑中、社寺明細帳)【中興】天正年中、日唱法師中興した。(堺南北寺庵本末開基旨旨改帳、堺鑑中)【日像自書の石塔】庭前に日像上人自書と傳ふる石塔がある、故に世俗之を石塔寺と呼ぶ。此石塔は日像七國七所に造立したものの中の一基であるといふ。(堺鑑中)
 ※妙慶寺は文亀元年(1501)創立、開山は四条門流竜玄院日英。
「大鑑」では京都21本山の一つであり、天文の法難で堺の現在地に移るという。(堺に退避するも京都に再興できなかったということであろう。)
「市史」では文亀元年日英が堺に創建したというように捉えられる。(京都21本山や天文の法難などには言及がない。是らは史実でないとの立場なのであろうか。)

 →堺妙慶寺の項は山城勝光寺に転載する。


和泉の諸寺

旧堺妙国寺寺中箱作青龍院

2010/01/03追加:2009/12/13撮影
和泉箱作青龍院位置:国土地理院地図・箱作:1/25000 (「廣八幡宮」のページ中より)に青龍院がある。
 和泉箱作青龍院:いかにも西国の日蓮宗寺中を思わせる簡素な堂宇のみを構える。
 青龍院手水鉢:「明治三●年 六月●日」と刻す、明治38年かどうかは不明なるも、箱作に移転時に奉納されたものであろう。
 青龍院参道石階:麓から院まで花崗岩のおそらく100段を越える見事な石階(花崗岩の一枚石と思われる)・石敷(石階の途中)がある。
  この見事な石階は青龍院のために造作されたのかどうかは不明。
  (石階最下段に大正11年の年記を持つ何かの台石と思われるものが石階の縁石の石製欄干に接して残る。
  これが石階の造作年と関係あるとすれば、大正11年の造作となるが、石階の石質とは違い全く別のものかも知れない。)
  地元民はこの山もしくは青龍院を「妙見山」と云う。妙見山とは青龍院に妙見菩薩を祀る故に云うのか青龍院の移転前から妙見菩薩の
  信仰があった故なのかは不明、そもそも青龍院に妙見菩薩を祀るかどうかも不明。
  なお、青龍院は堺材木町(堺妙国寺)から移転と記録されるので、堺妙国寺寺中であったのは確かであろう。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治37年、青龍院移転、妙見山青龍院として大阪府阪南市箱作2869−3に現存する。
 


「和泉新在家の庵(無名)」/「和泉阿弥陀庵」

○「日蓮宗不受不施史料」立正閣、昭和4年 より
口絵:日奥上人真筆曼荼羅【写真あり】・・・※但し拙ページには転載はしていない。
 この曼荼羅は慶長6年辛亥3月6日對馬宮谷草庵にて認めたものである。備前鹿瀬本覺寺蔵。
口絵:日講上人御影【写真あり】  ・・・※但し拙ページには転載はしていない。
 この御影(画像)は天和2年壬戌3月に描かれたものである。備前鹿瀬本覺寺蔵。
 日講上人日記鶴城叢書天和2年壬戌3月の項に次の一節を見る。
  <以下省略>
口絵:大阪府泉北郡郷荘村大字寺門阿弥陀山日相上人の石碑(天保法難の項参照)
今は此地に日蓮宗不受不施講門派日相協会の設置あり、常に香華絶えず、日講上人日記鶴城叢書元禄七年甲戌六月朔日の項に次の一節を見る。
 <大意>(世雄慈圓の書状にて知る。?)京都日相5月11日遷化、鳥羽にて火葬、遺骨は泉州和気に納め、即刻牌を認め一部眞讀を創る。往事夢の如し感傷少なからず云々、後聞く、日相存日曽?得墓家舗を和気村に求め、自ら石經書きて其地に埋める。且一石程の田地を買い、没後墓所掃除の資糧に備え、此の因縁有り、故に今度また遺言を守り遺骨を彼所に送る云々(※一部、誤読の可能性があり)
 阿弥陀山日相上人の石碑
p84〜:
 元禄8年、関東より良選日珠(※圓應院、字良選)が日向へ下向、日講に謁する。
自ら公場へ諫状を上り謗國の與同罪を滅せんとの意を述べるも、日講は今更諫状を上げるとも無益なりとして、荘子を引きて「日出後の灼火」、「雨澤後の灌漑なり」と諭し、法燈組織を計るべき旨を誨(おし)へる。
仍て、日珠は遂に日講の附弟となり大坂に上りて東高津に庵室を構へ秀妙庵と稱す。(一説には京都日相の開基ともいふ)
この他各場に散在していた主たる庵室は
 河内國野崎  光長寺
 和泉國新在家 庵(無名)
 備前國鹿瀬  妙宣庵
 備前國斗有  松光庵
 備中國曳舟  一鶴庵、知足庵
 美作國川口  妙泉庵(これは初め先例派であったが後に清派(※講門派)に記入したものである)
他に関東にも存在していたが、記録が散逸し不明である。
p87:
 天保9年7月19日、大坂東高津の庵室は破却される。当時の庵主日寛を始め孰れも殉難する。
和泉國新在家付近即ち和気・井の口の如きは同年8月11日、大坂より捕吏が下り来て大いに騒擾を極めたという。
その時寺門村阿弥陀山に天和3年京都の日相が石經全部を収めた石塔があったが、その石塔を破壊し、骨を掘り出しそれを踏みにじったり、經石は7俵の俵に詰めて大津の海浜に投棄し、石塔の断片は畦道の橋材等に用いれれていることが後になって判明したが、明治27年信徒である大坂郵便局中川泰(備前赤磐郡瀬戸町出身)・梶木辰之助(講門派管長日心弟子、本成院日種、後に顯本法華宗に転ず)の両人は調査に着手、同地寺田の旧信徒・辻定治・辻仁三郎の援助を受け、破片を全部回収し、同年9月にそれを修理、旧地(泉北郡郷荘村大字寺門字阿弥陀山)に復建する。
現在その石塔を見ると、長尺6尺許の花崗岩で、縦は5ツに割られている。即ち表裏を二分し、その表部を三つ割にし、裏部を二つ割にしている。また碑面の題目・御名花押は一々鑿り潰している。
 ※本文中の「阿弥陀山中の日相石塔」は、日相がいわば逆修の意味も込めここに設置し、示寂の後遺骨もこの石塔中に収めれえたものと推測される。
 そして、日相石塔は天保法難で毀損され、石塔は5分割される。明治27年石塔断片は回収され、復建される。
 ※復建された日相石塔は、下に掲載する《「20日法事」というブログ記事》に依れば、日蓮宗和気妙泉寺と講門派寺田日相寺にあるというように解釈されるが、その通りなのかは現地未見であるので、判断できない。
石塔は復建(修復)されたということなので、2ヶ所に存在することは俄かには肯定することはできない。

《以上の記事を補完する諸情報》
●和泉郡郷荘村
 明治22年、和泉郡桑原村、一条院村、今在家村、坂本村、観音寺村、寺門村、今福村が合併して、和泉郡郷荘村が発足。大字今在家に村役場を設置。
 明治29年、大鳥郡・和泉郡が統合し泉北郡となる。
 昭和31年、和泉市発足に伴い、今在家は芦部町に改称する。
  ※寺門村には阿弥陀山があったという。(但し、阿弥陀山の所在地点は現在、未掌握)
  ※下に掲載の「和泉市史 第2巻」では「阿弥陀山」を「阿伽太山」と呼称している。
●泉北郡郷荘村 (27B0050003) | 歴史的行政区域データセットβ版地図 より
  泉北郡郷荘村地図:赤点線内が旧和泉郡郷荘村の領域である。
 ここには地名(大字)として、桑原、一条院、芦部(旧今在家)、坂本、観音寺、寺門、今福を見て取ることができる。(上述のように、昭和31年、和泉市発足に伴い、今在家は芦部町に改称する。)
 なお、旧郷荘村の南が寺田であり、講門派日相寺が建立され現存し、西が寺田であり、ここには大覺大僧正開基の妙泉寺が現存する。
●和泉郡寺田村
 明治22年、唐国村、寺田村、箕形村、内田村が合併、北松尾村となる。
  ※講門派日祖寺は大正期寺門に創建され、その後当地で公団住宅が建設されるに伴い、昭和52年に寺田に移転されたようである。
●和泉郡和気村
 明治22年、府中村、井ノ口村、肥子村、和気村、小田村が合併、国府村となる。
  ※大覺大僧正開基という妙泉寺は和気にある。
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○「日蓮宗不受不施派讀史年表」 より

◆元禄7年(1694)5月11日 の記事
 世雄院日相寂(77)智鑑、備前蓮昌寺12世、
  和泉阿弥陀庵開基、出寺後京都北野に没す。遺骨を和泉和気村に納む。備前御野郡野田村の産。

阿弥陀庵 【系譜17】
 開基:世雄院日相、元禄7.5.11、字智鑑
 ・・・
 2世:修善院日眼、享保元.8.13、字善休・理雄
 ・・・
 3世:修善院日詳、宝暦14.2.13
 ・・・
 4世:圓成院日實、明和4.4.29

※結語:
立正閣の「日蓮宗不受不施史料」でいう「和泉國新在家 庵(無名)」とは「日蓮宗不受不施派讀史年表」でいう「阿弥陀庵」のことであるとほぼ断定して良いと推定される。それは両庵とも日相に関係し、字寺門には阿弥陀山という地名があるからである。
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大安寺Webサイト資料
○大安寺Webサイト>資料集 より
 ※大安寺Webサイトは「Wayback Machine」のアーカイブ(2024/10/22)を参照する。
◆智鑑院日相上人略伝
   ※「智鑑院日相」とは講門派での法号であろう。
    他の資料では「世雄院日相、字智鑑、元禄7.5.11 とするようである。
(以下は大意を記す)
 徳川幕府の不受不施派弾圧は、たびたび起こり、打ち続く法難のために不受不施派の組織は壊滅状態に陥っていた。
 当時、日相上人は岡山の蓮昌寺の管長として、備前・備中・美作地方の不受不施派を統率していた。
 上人は、岡山市野田の出生で、幼少の頃前代の本寿院日船上人を師として得度する。
 非常に聡明で、智鑑院と名付けられたという。
 当時の不受不施の僧侶や信者たちは、すべて流罪か追放されているのに、日相上人だけが今だに捕えられていなかった事は不思議なことであった。
 が、ある晩、信徒の役人が密かに上人を訪れ、
 「受不施僧から訴えがあり、今夜半に上人を捕えに踏み込むことになっている。
 是非とも、お寺を退出してお逃げ下さい」
との知らせがあり、その夜、京都を目指して旅立ったという。
 上人は蓮昌寺を退出後、京都の北野に身を構えて宗教活動を続ける。
 この間、上人は泉州方面に、大覚大僧正開基の妙泉寺を訪れ、六年間滞在する。
 その頃、同地方に疫病が流行し、民衆が苦しんでいるのを見て、阿伽陀山に法華経を書き写した経塚を築き、その上にお題目石塔を建立して祈願する。
 天和2年(1683)蓮昌寺を退出して17年が経っていた時であり、祈願の結果、疫病も退散すると伝える。
 それを機に、日相は京都に向い、その十年後の元禄七年五月十一日に、京都の北野で六十歳の生涯を閉じる。
 上人の遺骨は、泉州寺田の阿伽陀山の経塚の下に埋葬され、弟子たちによってお守りされる。
◆天保法難と泉州さま再興     →天保法難
 それから150年ほどして天保法難が起る。
 数々の法難によって壊滅的な打撃を受けた不受不施派であったが、僧俗の尽力で次第に持直し、その勢力も増大して来る。
 そこで、徳川幕府は一計を案じ、不受不施派の全滅を図る。
 つまり、「よく法難に耐えて辛抱した。 信徒が何処にどのくらい居るのか明細に報告すれば、宗門を認めてやろう」
 というものであった。
 その罠に嵌まり、組織の全貌が知られ、不受不施派は一網打尽に捕らえられることとなる。
 これを天保法難である。
 その頃、岸和田藩主が参勤交代のために阿伽陀山のふもとを通りかかり、「山上にそびえる石塔」を目にする。
 調査の結果、禁制の不受不施僧の石碑と判明し、破却が命ぜられる。
 時に天保九年(1838)の八月、夏祭りの日に大坂の与力30余人を呼び寄せ、寺田の庄屋を案内役に石工や真言宗の僧なども来て、山上のお題目石塔をとり壊そうする。
 しかし、山に登ると俄に空は暗くなり、雷雨が天を揺るがし、雨が地を流さんばかりに降てくる。
 十手を持って指揮する役人は、そのまま手が動かなくなり、石工は石の破片が目に入って潰れ、案内役の庄屋は狂乱し、真言坊主は顔が膨れあがり、皆おそれおののいて大地にひれ伏したと伝えられる。
 そのため、取り壊しは中止になるも、今度は、それを聞いた幕府が厳令をもって取り壊そうとする。
 役人、狂気のごとく叱咤し、縦横に石柱を割り、中央のお題目と日相の文字、側面の年号を削りとって、後世の人に拝ませぬように、徹底的に打ち砕く暴挙にでる。
 石塔の破片は山から下ろし、用水の橋や万人の土足にし、経石は俵につめて大津の浜に沈めたと云う。
 さらに、泉州妙泉寺安置の日相上人の木像を、荒縄でしばって引き回し、海に投じて日相死後の流罪を宣告し、幕府は対面を繕うことも行うという。
   <※閑話休題>
   2025/01/29日朝日新聞朝刊 より
     治安維持法をめぐる集会で民衆を検挙する国家権力
   <終>
 天保法難から約五○年後の明治27年、本蓮院日心上人らは、辻氏の案内で当地を調査する。
 阿伽陀山の南の用水路には、石橋が一本よけいに架けているが、その橋が昔から、「神様の石」と言われ、線香を立ててオカゲを受けている人が多いと聞き、もしやと思って検分すると、確実ではないが、日相上人の筆跡と当時の御難が偲ばれました。
 その後も次々と破片が発見され、阿伽陀山の山頂に奉安し、明治27年5月11日に開眼供養をしたのであ。
 その時には、近辺からはもとより、備前からも多くの参拝者があり、盛大に法要が営まれたのであった。
 不受派の金川妙覚寺が、日相を『法破り日相』と攻撃しても、日奥日講日相は、不受不施の直系であり、それを祀らなければ不受不施とはいえない。
 また、金川不受派初代の釈日正師も、もとを正せば我が講門派の小僧である。
 釈日正師は、天保法難の時に、現在の岡山市新保に隠れていましたが、親族に引かれて金川不受派に入った方である。
 そういう訳であるから、泉州の日相さま再興も、金川と競争になったという。
 大正8年1月28日には、前管長の横山日省によって寺門法華正教会が設立され、その後、阿伽陀山開発によって今現在の場所に移転し、昭和52年4月5日には、移転開堂供養が行われる。
 阿伽陀山山頂から、次第に東に下り、上人も三度の移転となる。
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 この原稿は、故本覚寺住職・佐藤日明のものである。 文中にある「天保法難」については別の説もある。
 大坂に、衆妙庵という当時の不受不施派最大の拠点があった。
 外見からは旅館のようでもあり、今で言う住職の隠居施設とも言われている。
 内信は一般大衆ばかりではなく、普通の法華宗(日蓮宗)の上人の中にも心の中では不受不施を信仰していた人もいたようである。
 秘密寺院となっていた衆妙庵を幕府側がかぎつけ、偽の不受不施僧を内偵して、根こそぎ信者を摘発した‥‥との説もあります。
○大安寺Webサイト>懐かしの写真集コーナー より
  ※大安寺Webサイトは「Wayback Machine」のアーカイブ(2024/10/22)を参照する。
◆大阪和泉市日相寺移転新築
 公団による住宅団地造成により移転:日相寺は大正年中に創建されるが、公団による住宅団地造成により、現在地に移転する。
   日相寺新築工事:詳しい年月日は不明。
 上記写真は、日相寺の新築工事の模様を撮影した貴重な写真で、少し色あせていますが、画像修正をせずにアップする。
 写真下(写真は転載せず)は、新築した日相寺の落成式の模様だと思われる。写真プリントの記録によると1977年とある。おそらく、同年4月11日に催されたのではないだろうか。
 中央が現管長でもある日進師で、向かって左手に故:本覚寺日明師、そして右手が霊源寺(旧、岡山教会)の故:日念師である。
○大安寺Webサイト>トピックス より
  ※大安寺Webサイトは「Wayback Machine」のアーカイブ(2024/10/22)を参照する。
◆智鑑院日相上人お題目石塔(日相寺)
大阪和泉市にある日相寺。そこには、日相上人のお題目石塔が祀られる
 日相寺安置日相題目石塔:※日相寺安置と思われる、少々画像が小さいのが残念である。
大正から昭和にかけて再興されたもので、画像で見ての通り、3つに割られている。
実は前後にも2つに割られていて、6つのパーツを合わせている。
画像では分かり難いが、中央の南無妙法蓮華経の文字が削り取られており、お題目が刻まれていたのが何とか分かる...という受難に遭った石塔である。
2013/4/11
○大安寺Webサイト>トピックス より
  ※大安寺Webサイトは「Wayback Machine」のアーカイブ(2024/10/22)を参照する。
◆お曼陀羅(日相上人?)
昭和15年頃から昭和61年にかけて記録された檀信徒帳の傷みが激しく、数年前から「写真撮影しておこう」と気に掛けていた。
それが、なかなか実行に移せず今年になってしまった。
撮影の仕方を工夫し、手ぶれと画面四隅のピンぼけを軽減できたと思う。
適当に写るというレベルでは駄目で、かすれて見難くなった戒名まで記録できていないと、後年に残す意味が薄れる。
結果、271枚撮る。
  日相題目本尊
 撮影終了間近、写真のようなお曼陀羅が頁の間から出てきてビックリする。
表装さえしていない。日相上人直筆か否かは分からないが、取り敢えず筆が走ったものであるのは確認をする。
(簡易な鑑定ですが木版のようである 10/18)
2011/9/30
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○「和泉市史 第2巻」和泉市史編纂委員会、和泉市、1968 より

■和気村と日蓮宗不受不施派信仰
 和気村は一村をあげて不受不施派の信徒であった。
不受不施派を支えた信徒は京都・大坂・堺などの町人と備前・安房などの農民であった。<ママ、※備前・備中・下総・上総・安房などであろう>
堺の日蓮宗寺院と深い関係のある和気村も不受不施派の信徒としての道を歩んだのである。<※納得できかねる見解ではある>
 和気町に接する寺門の阿伽太山に日相の墓が建つ。
この日祖は備前御津郡大野村の産で、岡山城下蓮昌寺11世であり、智鑑院と号す。
 寛文6年藩主池田光政は領内の不受不施派寺院300余を取り壊し、不受不施派僧侶585人を追放したが、おそらくこの時日相も追放され流浪の不受不施僧侶となったものと思われる。
当時のことは春雄院日雅《貞享9年/1684寂、備前宗堂妙泉寺(備前磐梨郡宗堂村中)出寺、備前佐伯妙泉庵備前平井松壽庵の開基》の書簡で覗うことができる。
即ち
 (上略)日相へ御尋可有之由、只今ハ住所不定之様に聞及申候、乍去(さりながら)、大形は堺に御入候はん、つつらや助右衛門御尋被成候て、彼仁御頼御尤に候、日相を上方にては古閑と申候、(下略)
とある。
 禁制下、日相は「古閑」と称し大坂・堺で活動し、日指(導師)派・津寺(不導師)派の対立の時は津寺(講門)派の立場にたち、調停に勤めている。
この間、講門派の一人として和気妙泉寺住職になっている。
そして、阿伽太山に一字一石の石経を埋め、石塔を建立したという。
元禄7年(1694)5月妙泉寺にて寂し、遺言により阿伽太山に埋葬される。
 寺門阿伽太山      阿伽太山日相墓塔
  ※寺門阿伽太山については、おそらく団地開発で「消滅」したとも思われる。
   日相寺は寺門から寺田に移転し、おそらく開発で立ち退いたと推測され、
   かつGoogleMapで探すも付近には、山(丘)の様な用地は見当たらない
■和気の法難・井ノ口災難
     →天保法難
 天保9年(1938)、禁制下であっても和気村の不受不施派は難を逃れていたが、遂に幕府による手入れが行われる。
前年の天保8年、大坂町奉行所与力大塩平八郎は、治安維持の役職ながら、天保の飢饉による人民の困窮を見かねて、反乱を企図、密告により露呈し、決起は中途半端になり、半日で鎮圧される。しかしながら、この反乱は各方面に深刻な影響を与え、幕藩体制の行き詰まりを天下に露呈することなる。
 幕府は、天保9年7月上旬より、不受不施派僧俗に対しても大掛かりな弾圧を開始する。
7月中旬には摂津・河内に散在する不受不施派の摘発を行い、おそらく蓮華院日継(※未詳)・本行院日諫(※備中吉川法難)の大坂町奉行所での牢死はこの時の捕縛によるものだろう。
 8月11日、大坂町奉行所与力は和気村・井ノ口村に出張、不受不施僧俗を捕縛し、阿伽太山にあった日相の墓石と井ノ口村の某僧の墓石を破壊し、路傍に投げ捨てる。
和気村庄屋田所家では、この時不受不施関係の什宝や村の行政記録まで、ほとんど焼却したという。田所家当主は捕縛され、江戸送りとなり、途中で病死という。そして、この時以降和気村の不受不施信徒は受派に転宗したという。
 日相の墓石は畔道の石橋として使用されていたが、不受不施派公許の後、拾い集められ、修復され、今に伝えられる。
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日相上人に関する諸記録
○「蓮昌寺史」寺史編纂委員会、岡山蓮昌寺、八木大慈、平成14年 より
  日相上人については25世とする。
●蓮昌寺歴代              →備前蓮昌寺
 開基:龍華樹院日像
 2世:大覺大僧正妙實
 3世:朗源僧都、妙實附弟
 4世:龍華院日實、京都妙顯寺出寺、京都妙覺寺開基
 5世:明珠院日成、妙覺寺5世
 6世:妙華院日遵
 7世:大聖院日延、強義折伏と不受不施堅持の妙覺寺法則を確立
 ・・・
18世:實成院日典、妙覺寺18世、下総茂原妙光寺13世、佐渡塚原根本寺8世、日奥の師
19世:龍華院日紹、後妙顯寺に晋山、日奥が隠岐流罪から妙覺寺に帰山した時、日紹は京都諸山の総名代として、日奥に改悔
20世:教蔵院日生、下総飯高法輪寺開基、京都松ヶ崎檀林開基、京都立本寺9世
 ・・・
23世:本寿院日船
  御津郡建部町福渡の生まれというが確証はない。
  津島妙善寺九世蓮昌寺二十三世となり、さらに日奥の死後京都妙覚寺歴代となる。
  晩年は故郷に巡錫し福渡化城院に寂したという。八幡温泉の発見者。
  明暦3年(1657)四月十一日寂。66歳。   →本寿院日船上人
24世:圓悟院日精
  京都妙覺寺23世、津島妙善寺歴代、岡山藩から追放、京都に住し、後悲田派に改宗
25世:世雄院日相
  寛文6年不受の故を以て、津島日精とともに追放され、京都に住す
26世:日登、京都妙覺寺から入山、寂年は不詳
 ・・・
 ・・・
 以上の過去帳は51世日棹(寺中妙善院、本成院住職を経て、昭和20年入山、昭和28年寂)によって作成される。
これには以下の付記がある。
 「昭和20年空襲で蓮昌寺灰燼に帰し、歴代過去帳も焼失、以前の過去帳には11代以降29代まで記載無かりしを覚ゆ。
 ・・・昭和24年金川妙覚寺の記録に依って登載せり。
 即ち当山においても当時禁制の不受不施の儀あり公儀に遠慮除戴したものか。
 ・・・永代歴代不明のままなるを遺憾とし茲に敢えて登録するものなり。(51世通妙院日棹識)」
しかしながらこの(日棹の)過去帳には不自然な点が散見される。
例えば18世日典まで京都妙覚寺の歴代と全く同一であり、三山一主、両山一主の制が当初はあったとしても、3、4代ならいざ知らず18代も同一とは肯定けない。
また11代から29代までの記載が無いのを不受不施の禁制とするのも年代的に合致しないであろう。
 ※読史年表(「日蓮宗不受不施読史年表」)には日船は当山10世となっている。しかるに日棹作成歴代では23世とする。
系譜は
  日典(18世)───日生(20世)
            └─日奥
            └─日船(23世)───日相(25世) であり、
おそらく蓮昌寺歴代は日典─日生─日船─日相と継がれたものと推定される、
しかしながら、何れにしろ、現段階では蓮昌寺歴代は明らかにされていないというのが実情であろう。
(54世日泉追記)

○「京山物語」平成15年
 蓮昌寺日登は、妙覚寺から不受不施派僧侶の追放を命ずる書状が届くと、岡山藩に妙善寺日精・蓮昌寺先住日相・石井寺・妙興寺の追放を願い出、岡山藩は日精・日相などを追放処分とする。
○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より
 池田光政は不受不施派寺院の手形拒否を捉え、事前に幕府の寺社奉行に不受不施僧についての取り扱いについて内意を窺い、手形拒否僧侶の追放はしてよいとの内諾を得て、不受不施弾圧を開始する。
寛文6年12月に津島妙善寺日精、城下蓮昌寺先住日相、赤坂郡矢原石井寺、福岡妙興寺ら4名が追放処分を申し渡される。
翌寛文7年春までに追放された不受不施僧は585人の多きにのぼる。
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年
 天和2年岡山城下で法立宗順が内信の看經の導師をしたことから、春雄院日雅、讃岐流僧日堯が、内信・清者を列名にして授与した本尊が謗法となるか否かの問題となり、これをめぐって日指庵の覚隆院日通と津寺庵の覚照院日隆を中心とする二者の異義となって争う。
日堯・日了・関東の長遠寺日庭は日指庵の日通を支援し、日向流僧日講・京に潜伏の岡山蓮昌寺出寺の日相・佐渡阿仏房出寺の最勝院日養は津寺庵の日隆を支持する。(「日蓮宗教学全書 21巻」)
日相は岡山蓮昌寺の住僧であるが、寛文の禁圧で出寺し、京都方面に潜伏する。日講・日養とともに津寺を支持した。
○「日蓮宗不受不施派読史年表」を始めとする多くの著書 より
 日相は日指派(導師派)と津寺派(不導師派)が内信について対立したとき、日講などとともに津寺派として行動したことが知られる。

大覺大僧正供養塔と日相上人墓塔

○「wing3920のブログ(楽しいブログ)」>「20日法事」というブログ記事がある。
 記事と写真を転載する。
 >20日,毎年5月に行われる,法事,毎年の恒例行事です。
 >一つに,関西の日蓮宗の発展に寄与し,町内の妙泉寺の開祖でもある大覚大僧正(1297−1364)という人,
 >命日である5月13日前後に行われる行事です。
 >もう一つは、これも町内の妙泉寺第8代の住職日相聖人の威徳を忍ぶ法要でありましたが、
 現在は,我が宗派では,これは省略,しかし,家内ではこの日を「日相さん」と呼んでいます。
   妙泉寺石塔:下に記されるように大覺大僧正供養塔と日相上人墓塔が写る
 >真ん中の塔は大覚聖人没後400年に建てられた物ですので1764年頃の物です。
 >右側の石碑は日相聖人の墓です。
 >お題目が摩滅しているのは、日相聖人が日蓮宗不受布施派(※ママ)の僧侶で、
 後の天保9年(1839年頃)幕府すなわち岸和田藩にこのようにされて弾圧された名残です。
 >このお墓の片割れは,和泉市寺田町赤田山日相寺(日蓮宗受布施派講門派)にあり。一昨年私も見せて頂き感銘を受けました。
 >和泉市史にも出てくる、和気の法難に関する遺跡で、私の家にあります。
 >和気の法難に関してはいずれまたアップしますが、歴史学者には興味をお持ちの方が多いと聞きます。
 >日蓮宗不受布施派は,豊臣時代に分派し、全国の日蓮宗の本流でありながら徳川時代を通じて、
 >(以下、略)
次に上記記事を要約する。
・「毎年の恒例行事」とは、大覺大僧正開祖と伝える和気妙泉寺の法事であろう、それは大覺大僧正の命日に行われる。
・もう一つの法要があり、これは「妙泉寺第8代の住職日相聖人の威徳を忍ぶ法要」であったが、現在、わが宗派(日蓮宗)では行っていない。
しかし、我が家(家内)では「日相さん」と呼んでいる。
  ※以上から推測するに、この家は不受不施講門派から日蓮宗に転宗したとも思われるもどうであろうか。
・和気妙泉寺には「大覺大僧正400回忌報恩塔」がある。
・また妙泉寺には「日相聖人墓塔」がある。「墓塔の題目」の摩滅は天保9年(1839)岸和田藩によるものである。
天保9年とはいわゆる「天保法難」(地元では「和気の法難」というらしい)のことである。
この墓塔の「片割れ」が「和泉市寺田町赤田山日相寺(日蓮宗受布施派講門派)」にある。
・「和泉市史にも出てくる、和気の法難に関する遺跡で、私の家にあります。」というのは文の意味が良く分からない。
最後に
上記記事で最大の疑問は次の点である。
 確かに写真には「大覚大僧正400回忌報恩塔」の隣に、天保の法難によって題目が潰された「日相上人墓塔」という石塔が写る。
しかし、上記に掲載した諸資料では「日相上人石塔」は日相寺にあるものと推定され、さらに○大安寺Webサイト>トピックス中の「◆智鑑院日相上人お題目石塔(日相寺)」の写真では、確かに日相寺の堂宇内に安置されている様は写っている。
「日相上人墓塔」(「日相上人石塔」)が1基しかないならば、ここに写る「日相上人墓塔」とはどういう由緒であるのであろうか。
それとも、「このお墓の片割れは,和泉市寺田町赤田山日相寺(日蓮宗受布施派講門派)にあり」という表現をみれば、日相寺とは別の「日相上人墓塔」があるのであろうか。
 

和泉寺田日相寺:日蓮宗不受不施講門派

 所在:和泉市寺田町1-8-2、赤田山と号する。
日相寺は塀に囲まれるが、入口の横の塀には次の「日相寺縁起」が掲示される。(GoogleMAp)
○日相寺入口掲示の「日相寺縁起」 より(大意)
 (不受不施講門派に属する。江戸期には禁制とされ、信者は内信を続ける。)
岡山蓮昌寺の貫主日相師は大阪の堺の逃れ、偶然通りかかったこの地で疫病に苦しむ人たちを救う。
日相師お題目石塔も迫害を受けしも、大正期にこれを修復し寺院を立てたのが本寺の由来である。
 ※岡山城下蓮昌寺日相は備前池田氏の弾圧により、堺に逃れ、この地に錫をとどめ、弘教したと知れる。
 ※日相はこの地に題目宝塔を建立するも、天保法難で、宝塔も五つに割られ、題目・御名花押は一々鑿り潰される。
  このことは、上記「日蓮宗不受不施史料」や「智鑑院日相上人略伝」・「天保法難と泉州さま再興」に詳述される。
 ※日相寺は大正期の日相宝塔の修復を機に、寺門の阿弥陀山付近に創建されたと推定される。
 ※上述の「大阪和泉市日相寺移転新築」によれば、昭和52年(1977)公団による住宅団地造成により、現在地に移転したようである。
○GoogleMap より
 寺田日相寺外観:基本的に昭和52年建立の「ものと思われる。
 

和泉和気妙泉寺

 和泉市和気町1-5-25にあり。大覚山と号す。開基:大覚大僧正、京都妙覚寺末。
僧正が四天王寺に詣でた時、和気村に中谷源左衛門尉なるものがいて、僧正に目見えて法を受ける。
僧正は和気村に行き百余日滞在し、中谷の母妙泉尼の宅地に精舎を営み大覚山妙泉寺と号し、日蓮上人が自ら造った像一躯を安置す。世に和気の高祖と称するのがこれである。
 2025/01/30追加:上の「日蓮上人が自ら造った像一躯を安置す。世に和気の高祖と称するのがこれである。」の一文の文意
 が不明確であるが、典拠を亡失し、この一文の真偽が分からない。
 日蓮自刻の像というのも想定し難く、あるいは下に掲載している備前香雲寺に安置の大覺大僧正手刻の祖師像を
 指している可能性が高いとも思われる。もしそうだとすれば、この一文は「大覚大僧正が自ら造った高祖像」ということになる。
なお、日船上人も当寺の住職を勤めたとの一文があるので、それは本寿院日船上人を参照。
2016/08/15追加
○「大覚大僧正」下村宏之、大正6年 より
室町末期と推定される日蓮上人坐像を蔵する。
元享元年(1321)大覚大僧正刻する祖師像があり、これは備前香雲寺に現存する木造がこれである。
2025/01/30追加:
○「大覚大僧正」下村宏之、大正6年
 元亨元年、後醍醐天皇、法華宗日像に洛中弘教の綸旨を賜う。
大覚大僧正、これを記念して宗祖の尊像を刻み、他年、和泉国和気妙泉寺開基本尊とす。
元政上人、和気妙泉寺に詣で、崇拝したのがこの本尊である。
然るに故ありて、妙泉寺を脱して(明治15、6年頃)行方を失う。
その後、明治24、5の頃転々と「して播磨加古川付近より現れて、目下、岡山県赤磐郡葛城村国ヶ原香雲寺の霊寶となり、本尊とす。
 大覚大僧正手刻日蓮上人座像
2025/01/30追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 大覺山と号す、京都妙覺寺末、筵師法縁。大覚大僧正、歴應4年(1341)開山。
(大覺大僧正に帰依した)中谷源左衛門(※全く情報なし)の帰依により、母妙泉尼の宅地を寄進し一宇を建立(したのが始まりという)。
  ※開山は「龍華年表」など多くの資料が歴應2年(1339)という。
深草の元政は当山に参詣、一木三体の祖像を拝し、三つの誓願を立つという。
長禄2年(1458)銘、施主は堺の紙屋与三右衛門尉施主の宝篋印塔・三好實休(永禄5年/1562討死)の供養五輪塔がある。
 ※紙屋与三右衛門尉施主の宝篋印塔・三好實休の供養五輪塔については「妙泉寺石造多宝塔」に詳しいので参照を請う。
 なお、「日蓮宗寺院大鑑」に示す歴代には
 日船(本壽院日船、明暦四戊戌(1658)四月十二日寂
 日相(世雄院日相、元禄7年/1694/5月11日寂)
の名はない。
 しかしながら、当寺に住した上人として、不受不施派の日船上人と同じく日相上人のことを語る資料がある。
○「日樹上人傅」花田一重著では「備前日蓮宗沿革史」を引き、次のようにいう。
 「日船は、京都妙覺寺に受派日乾の入寺を聞くや、大衆を引き連れ妙覺寺を出寺する。」
「その後日船は京を去って蓮昌寺に帰ったが、同寺も受派に傾いたので失望し、寛文禁止以降和泉国法泉寺に住し、次いで美作に帰り福渡の妙福寺に退隠し、明暦4年(1658)四月十ニ示寂した。」
  ※和泉国法泉寺とは和泉和気妙泉寺であろう、
  但し「備前日蓮宗沿革史」は未見で、原著が「和泉国法泉寺」となっているのかどうかは未確認。
即ち、備前蓮昌寺・京都妙覚寺住僧であった日船は美作に帰還する前には和気妙泉寺に住したという。
さらに、
○「和泉市史 第2巻」では
> 禁制下、日相は「古閑」と称し大坂・堺で活動し、日指(導師)派・津寺(不導師)派の対立の時は津寺(講門)派の立場にたち、調停に勤めている。
>この間、講門派の一人として和気妙泉寺住職になっている。
>そして、阿伽太山に一字一石の石経を埋め、石塔を建立したという。
とある。
 なお、「和泉市史 第2巻」は上に掲載の「和泉新在家の庵(無名)」/「和泉阿弥陀庵」中のあり。
2009/12/13撮影:
 北(西)門前題目碑     北(西)門前碑:大覚山とある。      和気妙泉寺本堂     妙泉寺本堂扁額
 妙泉寺石製多宝塔1:室町後期享禄二年(1529)、砂岩製、総高248cm、塔高 183cm
 妙泉寺石製多宝塔2:正面中央に釈迦・多宝如来を刻む、背面に「願主接州堺紙屋」「享禄二稔己丑八月時正日」「与三右衛門尉」と刻銘す。
 妙泉寺五輪塔:室町後期永禄五年(1562)銘、高さ220cm、空・風・火・水・地輪の各輪正面に一字ずつ、妙・法・蓮・華・経を刻む、経の字の下に「永禄五年三月五日」「實休居士」「行年卅七討死」と刻銘す。
 南無日蓮大菩薩碑:正面は日蓮名号、左面は南無日像菩薩、右面は當山開基大覚大僧正とある。
背面には年紀:元禄7年(1694)その他がある。
 竜口御難五百五十紀報恩謝徳:文政3年(1820)の年紀がある
 常夜灯(一対):今は本堂前にあるが、かっては街道脇にあったものと推測される。年紀は不明なるも岸和田講中の建立。
 

和泉市場妙光寺

泉佐野市市場西にあり、本覚山と号す。延文3年(1358)大覚大僧正の開基。
大覚大僧正授与のご本尊を「傘の内曼荼羅」と称する。
 ※傘の内曼荼羅:軸装、大覚が京都桂川で雨乞をした時に使用した曼荼羅と伝える。傘のなかに安置し祈願したと云う故事によって「傘の内」と称する。
近世に日近上人・日遙上人らが再興、岸和田藩岡部氏から寺領の寄進を受る。
現在、表門・本堂・庫裡・書院・番神堂・経蔵などがある。
2009/12/13撮影:
 市場妙光寺題目碑     市場妙光寺表門     市場妙光寺本堂・庫裏
 市場妙光寺番神堂1     市場妙光寺番神堂2     市場妙光寺番神堂3     市場妙光寺番神堂4
三十番神堂は寛文3年(1663)の建立。一間社春日造・屋根檜皮葺。近年解体修理なる。
2017/03/08追加:
○「紀州地方における日蓮教団の展開」植田観龍(「日蓮教学研究所紀要 32」87-94, 2005-03-10 所収) より
妙光寺始祖は大覚、二祖は朗源、三祖は日祐、四祖は日延であり、日延は現在地に妙光寺を再興と伝えられる。
なお、日延は紀伊多田妙台寺の中興である。  


2016/01/31作成:2025/01/30更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系