山城日蓮宗諸寺

摂 河 泉 の 日 蓮 宗 諸 寺

摂河泉の日蓮宗諸寺

摂津の諸寺

攝津能勢法華宗(日蓮宗)寺院
  以下は攝津能勢法華宗寺院にあり。
 地黄・無漏山真如寺:京都本満寺
 地黄・宝林山持経寺:京都本隆寺末(真門流)
 地黄・正行山清普寺:京都本満寺
 地黄・本林山恵照寺:京都本満寺
 野間西山・高嶽山今養寺:単立か
 野間大原・長栄山興徳寺:京都本満寺
 野間中・龍淵山圓珠寺:京都本満寺
 野間中・成就院:京都本満寺
 野間稲地・宝林山法華寺:京都本満寺
 野間出野・受持山善福寺:京都本満寺
 倉垣・永昌山妙法寺:京都本満寺
 倉垣・来成山本縁寺:
 倉垣・長渓山正林寺:京都本満寺
 倉垣・石用山涌泉寺:京都本満寺
 倉垣・七面山七寳寺(釈迦ケ嶽七面山):京都本満寺
 倉垣・普門山安穏寺:京都本満寺
 倉垣・清正公堂(妙林山本修院)
 上田尻・首題山妙唱寺:正行山清普寺(地黄)末:京都本満寺孫末
 下田尻・善養山長久寺:京都本満寺
 吉野・永昌山妙華寺:京都本満寺
 今西・廣榮山蓮華寺:京都本満寺
 長谷・法性山妙圓寺:京都本満寺
  以上は攝津能勢法華宗寺院にあり。

摂津上牧本澄寺

山号は法華山。京都本満寺末。
文明3年(1471)上牧の領主である烏丸大納言資任は当地にて日朗上人銘の石造宝塔を見出し、これを奇瑞とし、自らの猶子権大僧都日順を招き開山する。第2世には公卿烏丸家出身の日養が入る。
近世、高名であるのは祖師堂に祀る祖師像で、本像は日蓮の自作と伝え、世に「上牧の高祖」といわれる。
本像は、相模国鎌倉で刻まれ、弟子日澄が総州滝山妙階寺に移し、その後由良光寛が丹後に移した後、元亀元年(1570)当地の豪士富松兼重(後に牧兼重に改姓)が当寺に持ち帰り安置したと伝えられる。
江戸時代初期に東福門院(後水尾天皇の中宮)が祈願して以来「厄除けの高祖」として多数の信仰を集める。
往時は寺中11ヶ坊を擁する。
○「澱川両岸一覧」(淀川両岸一覧)暁晴翁 著述、松川半山 画図、出版年:文久年中(1861〜1863) より
本文には「本澄寺:当寺本堂に安置せる所は高祖四十二歳御自作の木像にて世に厄除の高祖と称し宗門の男女帰依して・・・」とある。
 澱川両岸一覧・本文
 澱川両岸一覧・絵図:本澄寺大屋根と土手には石灯篭と題目碑(推定)が描かれる。この石灯篭は現在仁王門前に移され現存するという。
2016/01/23撮影:
 新川沿の道標1     新川沿の道標2
 本澄寺仁王門1     本澄寺仁王門2:門前の石灯篭は「澱川両岸一覧」に描かれたもので、土手から移設されたものという。
 本澄寺南門
 本澄寺本堂・祖師堂1     本澄寺本堂・祖師堂2     本澄寺本堂1     本澄寺本堂2     本澄寺本堂3
 本澄寺祖師堂1     本澄寺祖師堂2
 本澄寺祖師堂3:祖師堂は拝殿と宝蔵に分かれそれを結合した構造である。      本澄寺祖師堂4:祖師堂の宝蔵部
 祖師堂前題目碑1     祖師堂前題目碑2
 題目石塔1     法華題目碑     題目石塔2
 石造宝塔:この宝塔の由来は未確認、あるいは烏丸大納言資任が当地にて見出した日朗上人銘の石造宝塔か?。
 本澄寺鐘楼     本澄寺手水舎
 本澄寺庫裡     推定・客殿/書院1     庭園・渡廊下     推定・客殿/書院2
 本澄寺歴代墓碑1:題目石塔が建てられる。      本澄寺歴代墓碑2:題目石塔下に廃墓碑が積まれる。
 本澄寺歴代墓碑3:題目石塔脇にはいくつかの歴代墓碑が並ぶ。
 本澄寺歴代墓碑4:この石碑の写真に写った面には、中央に「開基權大僧都日順聖人/永正八年(1511)・・・」とあり、両脇に本壽院日養聖人/本道院日忍聖人と刻み、その下に三世日諦聖人・・から十四世日遼聖人までの上人名が刻まれる。
 三好達治記念館
三好達治は本澄寺第41世であり、また本山本満寺貫首にも就任した三好龍紳の兄であるという関係で、当寺に記念館がある。
また三好達治の墓も当寺にある。

寺中:本立院は現存、真如院は無住・荒廃、境智院は明治初頭に無住・荒廃、寺籍を河内日下に遷し現存、勧成院は明治27年河内東豊浦に移転・現存、その他の寺中は名称 を知り得る資料がなし。
 寺中本立院1     寺中本立院2     寺中本立院3     寺中真如院1     寺中真如院2     寺中真如院3
●本澄寺末寺
御殿山欣求寺(枚方市小倉町)
妙広山境智院(東大阪市日下町)  →河内の日蓮宗諸寺中:元は本澄寺寺中、明治27年河内日下に移転。
梅龍山勧成院(東大阪市東豊浦町)  →河内の日蓮宗諸寺中:元は本澄寺寺中、明治初頭に無住・荒廃、
            明治41年河内東豊浦に寺籍にみ移転。移転に際し、山門・本堂庫裡は売却、境内地は開墾し本澄寺に寄進する。

摂津神内菩提寺

山号あるいは由緒などの情報皆無であり、まったく分からない。
 2016/02/16追加:KG氏情報:
  山号は「安穏山」。法縁は隆源会(莚師法縁)であるが本寺は不明。上牧本澄寺住職が代務住職をしている模様。
民家としか思えない本堂兼庫裡一宇があり、その向かって左側に小祠(名称不明)と歴代墓所がある。
表札には寺院名が書かれると思われるも、まったく表札は読めない状態であり、住職が常駐している気配はない。
近所の主婦の聞取りでは、「住職は東京に出稼ぎにいったままで、帰ってこない状態である。」という。
2016/01/23撮影:
 菩提寺本堂兼庫裡1     菩提寺本堂兼庫裡2:左端下の段差をあがれば、小祠(名称不明)と歴代墓碑がある。
 菩提寺小祠(名称不明):比較的新しいものと思われる。横の石碑(新しいもの)には「妙法 有無両縁十方法界霊」と刻む。小祠の左(小詞の陰になり写真には写らない)に歴代墓碑がある。
 菩提寺歴代墓碑:僅か5基の歴代墓碑と1基の俗人の墓碑合計6基が並ぶだけである。写真左下に僅かに写るのが俗人の墓碑である。
歴代墓碑の5基は右から次のように刻む。
 「開山眞乗院日雄聖人/中興恵道院日玄聖人」
 「菩提寺/二十三世/大應院日恵聖人」
 「妙法蓮華経 の他は判読できない。」(住職の墓碑と思われる。側面には多くの歴代が記載されているようにも見えるが判読不可)
 「當山/十七世/日歓上人」
 「當山/廿四世唯常院日昌大徳」
俗人の墓碑は俗名と「文化元年(1804)」の年紀を刻む。
以上から、開山は眞乗院日雄、中興は恵道院日玄と知れるが、開山と中興とを区別しているので、あるいは他宗を転宗させた寺歴があるのかも知れない。また少なくとも23世まで歴代は続き、俗人の墓碑の年紀が文化元年であるので、近世初頭からの由緒があるのかもしれない。但し堂宇や寺地が昭和後期あるいは平成初期の雰囲気しかないので、あるいは、すぐ西にある上牧山手妙浄寺のように、他所から移転してきたのかも知れない。そして移転にあたり、合計6基の墓碑は旧地から移設したのかも知れない。

摂津上牧山手妙浄寺

妙浄寺(みょうじう) 高槻市上牧山手町1-28
霊岡山と号する。京都本満寺末。
享禄元年(1528)日進上人が淀川沿い井尻(現在地より南西に約1.5〜2kmの所)に創建する。
明治22年と同29年に淀川の洪水があり、翌年明治30年に本堂を西法寺へ移した正覚寺跡の当地に移転する。
昭和61年現在の堂宇に造替する。
2016/01/23撮影:
 「本堂を西法寺へ移した正覚寺跡」とは正確な意味が不明であるが、当地に正覚寺の題目碑が残り、多少の手掛がある。
・推定正覺寺残置石碑1
 推定正覚寺題目碑三基:この三基は纏めて設置され、三基とも元の正覚寺の題目碑であろう。
 中央題目碑1:正面「南無妙法蓮華経 法界」、側面「開基□□/大聖山正覺寺」とあり、開基の後の文字が判読できないが、山号は大聖山で日蓮宗であ り、下に掲げる側面の刻字「本法寺日近」から本寺は本法寺であったことが分かる。
 中央題目碑2:裏面「中興 以信院圓空日栄□」(日栄□は判読できないが、庫裡附近の法界碑に「以信院日恵聖人」とあり日恵である可能性が高い)、側面「當題目開山京前本法寺日近」とあり、一時衰微し中興され、側面の意は不明確ではあるが、この題目碑は本法寺日近によって建立されたということであろうか。
 向かって左題目碑     向かって右題目碑
・推定正覺寺残置石碑2
さらに庫裡附近に1基の題目碑とさらに1基の法界碑の合計2基の碑が残る。法界碑は内容から大聖山正覺寺のものであろう。
 題目碑・法界碑
 推定正覚寺題目碑:次のように3行に刻される。
「南無妙法蓮華経 法界」 の左右が判読不能(向かって右は不能、左は中興開山□□)
 正覚寺法界碑:次のように 9行に刻される。
右より
  領主武運長久
 自性院本是日實
  鶴樹院常榮日芳
 遠成院日近聖人
        法界
 以信院日恵聖人
  道樹院妙榮日昌
 本性院妙是日體
  民安全
とある。
但し、2段ある台石の文字は全く判読できない。
以上であるが、前出の「中央題目碑」と照らし合わせて、遠成院日近聖人(「當題目開山京前本法寺日近」)は開山上人、以信院日恵聖人(「中興 以信院圓空日栄□」以信院日恵?)は中興上人と思われる。
よって、大聖山正覺寺は本法寺遠成院日近上人によって開山され、以信院日恵上人によって中興されたと思われる。
因みに日近(にちごん)は法諱・幸長/空堂;字、遠成院、寛永15年/1638-享保8年/1723、京都日蓮僧、日休門/本法寺23/25世 とある。
 日休上人は本法寺17世。
・推定妙浄寺旧地から移転した石碑
本堂前にも3基の石碑がある。その内の1基には妙浄寺と刻むので、この3基は妙浄寺の故地から移設した碑であろう。
 妙浄寺題目碑類3基     妙浄寺碑     推定妙浄寺題目碑     推定妙浄寺墓碑
 妙浄寺本堂     妙浄寺庫裡

摂津梶原一乗寺

一乗寺の西に梶原永福寺(畑山神社)が位置する。昌林山と号する。京都本法寺末。
元は千観の創建になる金仙寺と称したが、元亀年中(1570-74)宇野・西村両氏が日親上人に帰依し一乗寺と改めると云う。
 ※日親上人最初の開創寺院と称される。
 ※千観とは千観内供とも思われるも、未確認。 → 千観内供とは山城与杼姫社を勧請する。
慶長年間伽藍を焼失。
慶安3年(1650)養珠院の寄進により、本堂・庫裏・開山堂などが再興され、その後も歴代紀州徳川家の保護を受けるという。
○寛政年中「山崎通分間延絵図」より 永福寺古図2:伽藍巍々とした様子が描かれる。現在より相当程度大規模な伽藍であったことが分かる。
末寺として次の1ヶ寺がある。
 昌験山報恩寺(加西市玉丘町)
2002/04/20撮影:
 摂津一乗寺:左は日親上人像
2016/01/23撮影:
現在の本堂は平成10年(1998)造替されたといい、その後開山堂や庫裡も造替され、山門も改修されるという。従って上記写真の堂宇は開山堂であるが、その姿は既にない。
 門前題目碑
 門前毘沙門天碑:毘沙門天、江戸正傳寺像同木・・・
正伝寺は中山末、松林山と号す。芝濱町四十七番地。
毘沙門堂:毘沙門天、傳教大師の作。
江戸名所図会に云、本尊は傳教大師の作にして、後、日親上人再び點眼供養するとぞ、往古は摂州梶折邑一乗寺といへる寺にありしかとも、僻地にして結縁の人少し(一乗寺は金仙寺といひし真言の密乗なりしを日親上人の弘教に帰して本化の宗に改む)依て寛文の頃、衆生化益の為、日栄上人ここに移し奉るとなり。日親堂(日親上人の像を安ず)。
 一乗寺山門:貞享元年(1684)建立、平成22年改修。      一乗寺山内     山内題目碑
 一乗寺本堂1     一乗寺本堂2     一乗寺本堂3
 一乗寺開山堂1     一乗寺開山堂2:銅像は日親上人像     一乗寺開山堂3
 一乗寺鐘楼     一乗寺番神堂:造からみて番神堂であろう。      一乗寺小祠:何を祀るのか不明
 一乗寺庫裡1     一乗寺庫裡2     一乗寺庫裡3

摂津梶原田中寺

癌や痔、喘息、神経痛などの封じ寺として名高いという。
開山、開基、創建の年代などその他の情報はなし。
福生山と号する。京都本満寺末。
○寛政年中「山崎通分間延絵図」より 永福寺古図     永福寺古図2:梶原村永福寺西隣に田中寺が描かれる。
2016/01/23撮影:
 門前題目碑:法華守護番神とある。元禄8年(1695)年紀。      田中寺山門
 田中寺道標:今は本堂前にあるが「田中寺高祖道」と刻み、田中寺ややや西国街道から入った場所に在る為、おそらくこの道標は西国街道脇にあったものと思われる。
 田中寺本堂:平成14年新築落慶      田中寺庫裡

摂津萩之庄成就寺

法久山と号する。京都本満寺末。
明暦3年(1657)了甫院日良上人によって開かれる。元禄12年(1700)丹波谷と呼ばれていたこの地へ移る。
享保16年(1731)火災焼失したのちに再建される。
 ※しかし現在の堂宇は一見して戦後のもので、享保の火災後再建された堂宇は老朽化などで、建替えられたものと思われる。
西国街道に接した小丘に立地する。
2016/01/23撮影:
 西国街道脇題目碑     成就寺参道     成就寺本堂庫裡     境内題目碑:享和元年(1801)年紀
 成就寺歴代墓碑:近年整備された様子である。
 成就寺歴代墓標:開山は了甫院日良上人、以下30世迄の歴代が刻される。

摂津山手法照寺

冨松山と号する。京都妙覚寺末。
寺伝では江戸初期に日乗上人が草庵を結び、寛文5年(1665)上人に帰依した長田氏が檀越となり、創建される。
以降長田氏の菩提寺として栄える
長田氏は高槻藩永井家重臣という。
幕末には荒廃するも、その後再建されるという。
2016/01/23撮影:
 入口題目碑     法照寺本堂1     法照寺本堂2     法照寺妙見堂     法照寺庫裡
 法照寺月見堂:「法灯会」が行われる月見亭と推測する。      長田作右衛門慰信臣夫妻墓碑

摂津安満新町題目碑

 題目碑正面     題目碑右側面1     題目碑右側面2     題目碑左側面
向かって左側面は「一天四海 皆帰妙法 天下大平 国土安泰」、裏面は「天保六乙未年(1835)建之 常智山本行寺日静」とある。
常智山本行寺は下に掲載。

摂津古曽部乾性寺

元和5年(1619)日進上人の創建によるという。境内の梅は高槻藩3代藩主永井近江守直種の手植えという。
加賀山と号する。本山/法縁は調査できず。
2016/02/17KG氏情報:
本末関係:山城上植野公布山法華寺末 →鶏冠井の諸寺
2016/01/23撮影:
 乾性寺参道     山門外題目碑     乾性寺山門     山門内日蓮碑
 乾性寺本堂     乾性寺庫裡       乾性寺書院     乾性寺妙見堂

摂津高槻大手町本行寺

常智山と号す。京都本満寺末。
○二重塔がある。但し近年のものとおもわれ、またRC造でその装飾は猥雑を極め、感心できないものである。
昭和61年建立で「法華経守護の塔」と称する。
 →二重塔のページに追加をする。
○本行寺の由来(本行寺のサイトを要約)
高槻大蔵司村付近の丘陵に白鳳期の岡本寺という寺院があり、その寺跡に日蓮宗本照寺が建立され、三好元長、細川晴元の外護を受けて隆盛であった。しかし天文法華の乱に、焦土と化す。その後、三好長慶により毘沙門堂として再興されるも、高山右近によって焼払われ、住職は上の山の祖師像(本行寺に現存)をもって備前に逃れるという。
慶長元年(1596)本満寺一如院日重(身延山二十世)によって、高槻城下に寺院が復興され、常智山本行寺と号することとなる。
その後、第五世日東上人のとき、高槻城主永井直清の帰依があり、本堂などが再建される。その後も永井氏の祈願所となり、明治維新まで永井氏の庇護をうける。
2016/01/23撮影:
 本行寺二重塔1     本行寺二重塔2     本行寺二重塔3     本行寺二重塔4     本行寺二重塔5
 山門脇題目碑
 本行寺山門1     本行寺山門2:高槻城の高麗門を移建したものという。      山内日蓮碑     山内題目碑
 本行寺本堂1     本行寺本堂2     本行寺妙見堂     本行寺鐘楼     本行寺玄関:大黒天を祀る。
 本行寺中庭      本行寺庫裡

摂津幸松寺

山号は永昌山。六条本圀寺末。現在は大阪府高槻市本町15-15に移転して、在る。
延享4年(1747)了義院日達上人により開創。その創建の場所は現在の西寺町に接する川崎領の飛び地であった。
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○創建場所を古地図類で示すと次の通りである。
 攝州大阪画圖:江戸中期、大坂野村長兵衛版:2016/06/19追加
中央やや左上に幸松寺がある。東西にならぶのが北野領の西寺町で、蟠龍寺の北・夕顔寺の西にある。
 天保8年天保新改攝州大阪全圖:本図は下が北である。本図の中央に幸松寺がある。東西にならぶのが北野領の西寺町で、蟠龍寺の北・夕顔寺の西にある。(この区画のみ川崎領である。)北西には大ユウジがあり、大融寺の入り口に位置する。
 明治5年大阪市中地區甼名改正繪圖:本図は上が北である。本図の中央やや右に幸松寺がある。東西にならぶのが北野領の西寺町で、蟠龍寺の北・夕顔寺の西にある。北西には大融寺があり、大融寺の入り口に位置するのは上図と同様である。
 明治15年改正新版大坂明細全図:上図と同様であるが、夕顔寺の西に幸マン寺とあるのが幸松寺であろう。大融寺は大ユウジとある。
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明治31年11月1日に大阪市北区本庄浮田町に移転し、更に昭和39年4月に大阪市の都市計画により、高槻市に移転する。
附近には北野村(北野領)である西寺町の寺院が続くが、この幸松寺は北野村の西寺町の所属ではなく、川崎村(川崎領)の飛び地内にあったので、 川崎村幸松寺というべきものである。
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○移転場所を古地図で示すとつぎの通りである。
 大正3年大阪市内詳細図:図の中央が本庄浮田町で一ヶ寺の寺院の印(卍)がある。寺院の名称はないがこれが幸松寺と推定される。
現在この附近は大きく変貌しているが、現在この付近には寺院の存在は認められない。それはこの寺院が高槻に移転したからなのであろう。
なお図の下の鉄道は城東塼(現在の大阪環状線)で、図の右下の図外になるが、この鉄道と天神橋筋の交点の東が天満駅である。
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 なお幸松寺のサイトでは次のように云う。
元禄13年(1700)林久寺之宮淳子内親王の発願により、妙三比丘尼に依って身延庵として上新庄に建立。
 ※林久寺之宮とは不詳、あるいは林丘寺宮であるのかも知れない。
寛保元年(1741)公儀の許可を受け、了義院日逹上人を開山とし、幸松寺として寺号を公称する。
2016/01/23撮影:
 幸松寺寺門     山内題目碑:明治42年建立とあるから、本庄浮田町に移転していた時の建立か。
 幸松寺本堂1     幸松寺本堂2     幸松寺本堂3     幸松寺庫裡

摂津豊中藤井寺

 →摂津藤井寺
東城山と号する。法華宗(本門流)、尼崎本興寺末と推定される。
享保11年(1726)曾根崎村に尼崎本興寺日軌上人を開基・開山として開創される。
昭和4年(1929)中川日伝上人、曾根崎より豊中福井村(現豊中市城山町)へ一山を移転中興する。
平成13年(2001)三重塔を建立する。

宝聚山円妙寺(大阪市中央区中寺)

 →明治以降の三重塔445にあり。

摂津大鹿妙宣寺

大覚山と号する。(伊丹市大鹿4-36)
文和3年(1354)大覚大僧正が西国巡化の途中、当地に立ち寄る。この時、当地は大旱魃で雨乞いの最中であった。
そこで大覚大僧正が雨乞祈願をしたところ、すぐさま降雨となったと伝える。
そこで、大鹿村一村は法華宗に改宗し、妙宣寺は大覚大僧正を開祖とし成立と伝える。
享徳元年(1452)本能寺本興寺末寺となる。
宝永4年(1707)本堂など再興、現存四脚門は安永2年(1773)建立という。
明治42年本興寺末寺となる。
平成7年阪神淡路大震災被災、本堂の他、鐘楼、納骨堂、客殿などを復興する。
門前に大覚大僧正「竹塚」、附近に「経塚」が残存する。
2007/07/19撮影:
 大鹿妙宣寺全容  大鹿妙宣寺本堂  大鹿妙宣寺客殿
 大鹿妙宣寺本堂扁額:法華宗八品派の特色を出す
当村の人は多くは真言宗であったが、師の勧化を聞いて皆改宗し、今は他宗の人は一人もいない。
ある時僧正は携えていた杖を地に挿していった。我が教える法が末世に盛んになれば、この竹は必ず生じるだろう、と。果たして紫竹の林になったという。


河内の諸寺

東豊浦勧成院:現東大阪東豊浦、暗峠の沿道にあり。

摂津上牧本澄寺末。
永正2年(1505)本澄寺寺中として創立、明治27年現地に移転、その後衰退するが大正年間に再中興。

日下境智院:現東大阪市日下町6丁目1番5号

摂津上牧本澄寺末。
 ※サイト「境智院」を次のように要約する。
天文2年(1533):開山は日義上人、三宝諸尊を請じて本澄寺中に境智院を創立。
明治初頭:教勢振るわず、無住となり荒廃する。
明治26年〜34年:河内国日下村井上岩三郎、大阪市南区長堀橋1丁目豊田宇左衛門氏の両名が、岩三郎の伯母であり宇左衛門の亡母豊田ミヤの遺言に従い、菩提を弔うため日蓮宗寺院の建立を発願。岩三郎所有地である現在地に寺地を定める。
明治35年:宝塔建立、大坂谷町真宗大谷派慶徳寺本堂を購入・移建、日下東方正法寺庫裡を移建。
明治36年:山門・書院・納屋・玄関などが完成、修徳院日行入山。
明治37年:日蓮宗妙顕寺教会所と称する。
明治40年:当時、政府は新寺建立(新寺号新設)を認可しなかっため、本澄寺寺中境智院の寺号を遷移させ、1世日行上人を中興の祖(移転発起人)とし、大阪府知事に日下移転許可を申請。
明治41年:境智院の日下移転の大阪府知事認可を得る。
上牧の堂宇より三宝尊、祖師像、本化四菩薩像、四天王像、鬼子母神并七面天女厨子、妙見菩薩像、大黒天像(現在不明)等計10点を移転させ、妙廣山境智院と公称し再建。
上牧の境内地(157坪)の本堂兼庫裡(桁行5間半、梁行3間半)、 山門(桁行1間半、梁行1間)を売却の上、境内地を開墾して本寺本澄寺に寄付。
平成12年(2002)第9世純理院日秀が入寺、法燈を継承。


和泉の諸寺

旧堺妙国寺寺中箱作青龍院

2010/01/03追加:2009/12/13撮影
和泉箱作青龍院位置:国土地理院地図・箱作:1/25000 (「廣八幡宮」のページ中より)に青龍院がある。
 和泉箱作青龍院:いかにも西国の日蓮宗寺中を思わせる簡素な堂宇のみを構える。
 青龍院手水鉢:「明治三●年 六月●日」と刻す、明治38年かどうかは不明なるも、箱作に移転時に奉納されたものであろう。
 青龍院参道石階:麓から院まで花崗岩のおそらく100段を越える見事な石階(花崗岩の一枚石と思われる)・石敷(石階の途中)がある。
  この見事な石階は青龍院のために造作されたのかどうかは不明。
  (石階最下段に大正11年の年記を持つ何かの台石と思われるものが石階の縁石の石製欄干に接して残る。
  これが石階の造作年と関係あるとすれば、大正11年の造作となるが、石階の石質とは違い全く別のものかも知れない。)
  地元民はこの山もしくは青龍院を「妙見山」と云う。妙見山とは青龍院に妙見菩薩を祀る故に云うのか青龍院の移転前から妙見菩薩の
  信仰があった故なのかは不明、そもそも青龍院に妙見菩薩を祀るかどうかも不明。
  なお、青龍院は堺材木町(堺妙国寺)から移転と記録されるので、堺妙国寺寺中であったのは確かであろう。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治37年、青龍院移転、妙見山青龍院として大阪府阪南市箱作2869−3に現存する。

和泉和気妙泉寺

和泉市和気町にあり。大覚山と号す。開基:大覚大僧正、京都妙覚寺末。
僧正が四天王寺に詣でた時、和気村に中谷源左衛門尉なるものがいて、僧正に目見えて法を受ける。
僧正は和気村に行き百余日滞在し、中谷の母妙泉尼の宅地に精舎を営み大覚山妙泉寺と号し、日蓮上人が自ら造った像一躯を安置す。世に和気の高祖と称するのがこれである。
 本寿院日船上人を参照
2016/08/15追加
○「大覚大僧正」より
室町末期と推定される大覚大僧正坐像を蔵する。
元享元年(1321)大覚大僧正刻する祖師像があり、これは備前香雲寺に現存する木造がこれである。
2009/12/13撮影:
 北(西)門前題目碑     北(西)門前碑:大覚山とある。      和気妙泉寺本堂     妙泉寺本堂扁額
 妙泉寺石製多宝塔1:室町後期享禄二年(1529)、砂岩製、総高248cm、塔高 183cm
 妙泉寺石製多宝塔2:正面中央に釈迦・多宝如来を刻む、背面に「願主接州堺紙屋」「享禄二稔己丑八月時正日」「与三右衛門尉」と刻銘す。
 妙泉寺五輪塔:室町後期永禄五年(1562)銘、高さ220cm、空・風・火・水・地輪の各輪正面に一字ずつ、妙・法・蓮・華・経を刻む、経の字の下に「永禄五年三月五日」「實休居士」「行年卅七討死」と刻銘す。
 南無日蓮大菩薩碑:正面は日蓮名号、左面は南無日像菩薩、右面は當山開基大覚大僧正とある。
背面には年紀:元禄7年(1694)その他がある。
 竜口御難五百五十紀報恩謝徳:文政3年(1820)の年紀がある
 常夜灯(一対):今は本堂前にあるが、かっては街道脇にあったものと推測される。年紀は不明なるも岸和田講中の建立。

和泉市場妙光寺

泉佐野市市場西にあり、本覚山と号す。延文3年(1358)大覚大僧正の開基。
大覚大僧正授与のご本尊を「傘の内曼荼羅」と称する。
 ※傘の内曼荼羅:軸装、大覚が京都桂川で雨乞をした時に使用した曼荼羅と伝える。傘のなかに安置し祈願したと云う故事によって「傘の内」と称する。
近世に日近上人・日遙上人らが再興、岸和田藩岡部氏から寺領の寄進を受る。
現在、表門・本堂・庫裡・書院・番神堂・経蔵などがある。
2009/12/13撮影:
 市場妙光寺題目碑     市場妙光寺表門     市場妙光寺本堂・庫裏
 市場妙光寺番神堂1     市場妙光寺番神堂2     市場妙光寺番神堂3     市場妙光寺番神堂4
三十番神堂は寛文3年(1663)の建立。一間社春日造・屋根檜皮葺。近年解体修理なる。
2017/03/08追加:
○「紀州地方における日蓮教団の展開」植田観龍(「日蓮教学研究所紀要 32」87-94, 2005-03-10 所収) より
妙光寺始祖は大覚、二祖は朗源、三祖は日祐、四祖は日延であり、日延は現在地に妙光寺を再興と伝えられる。
なお、日延は紀伊多田妙台寺の中興である。
 


2016/01/31作成:2017/03/08更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系