池上本門寺日樹上人五輪石塔・寿福院逆修十一重層塔・正応院逆修十一重層塔

日樹上人五輪塔(池上本門寺)

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より

日樹上人五輪塔/浩妙院供養塔:左図拡大図
明治中期、手彩色写真、池上本門寺蔵
戦前には清正公堂と鐘楼との間にあった。
戦後五輪塔は現地に残るも、浩妙院供養十一重塔は五重塔北側に遷される。
五輪塔には、今次大戦で大きく損傷し、現在は見ることができない、妙法蓮華経の文字と寛永(年は判読不能)の年紀が見て取れる。

浩妙院殿は前田利常女・徳川秀忠養女・森忠広室である。
※従って、前田利常生母寿福院は浩妙院の祖母に当たる。
寛永3年(1626)森忠広室「亀鶴」は徳川秀忠の養女となって森忠政の嫡子忠広に嫁す。しかし寛永7年(1630)僅か18歳にして逝去する。
なお、浩妙院墓所は能登滝谷妙成寺に祖母壽福院墓所近くに並んである。

大堂の西側端・霊宝殿の南に位置する。
寛文7年身延池上対論、同年日樹上人は信濃伊奈に配流される。上人は池上・比企谷両山より除歴。
その後,池上には身延日遠が入山し、 池上本門寺は身延に摂取される。
  (身延に摂取されるも、往時、五輪石塔を破棄するような蛮行は無かったものと推測される。)
しかし、五輪石塔は今次大戦で相当な損傷を受け、現姿となる。

五輪塔:総高約4mを測る。

五輪塔上3重:左図拡大図
上から3重目(火輪)斜面に日樹上人の花押が残されているという。

五輪塔2重:数百名の奉加者の名前が刻み込まれているとされる。

五輪塔初重:数百名の奉加者の名前が刻み込まれているとされる。

2007/10/23追加:
上から三段目の火輪斜面に「日樹(花押)」と刻まれると云う。
 日樹五輪塔三重目: 「日樹(花押)」の刻が斜面にあるのかどうか不明。

日樹聖人銘文層塔2基

「日樹聖人傳」より:
池上本門寺境内に2基の日樹聖人銘文層塔が残る。
 池上本門寺貫主中ご建立の石塔:「絵で知る 日樹聖人伝記」著者花田一重画 より転載:

壽福院逆修十一重層塔

元和8年(1622)建立、関東大震災にて倒壊・五層残存。
銘文正面:「斯十一層石塔起立、大願主加賀能登越中並領太守宰相卿御母逆修、法号曰寿福院殿日栄・・・」
右側:「開眼導首者西山第15世日樹誌」
左側:「元和第8壬戌暦・・・天保4年・・修復之」
2009/10/23追加:
元和8年前田利家側室(前田利常生母)寿福院自身の逆修供養のために建立。天保4年(1833)は修復銘。
 寿福院逆修十一重層塔     寿福院逆修十一重層塔初重1     寿福院逆修十一重層塔初重2

 寿福院は前田利家室・前田利常生母。 →壽福院滝谷妙成寺
 慶長8年(1603)能登滝谷妙成寺を菩提所と定める。
  身延山に利家菩提のために五重塔、奥の院祖師堂及び拝殿などを寄進。
  京都妙顕寺に本堂及び五重塔を建立。
 寛永8年(1631)逝去。61歳。池上本門寺で荼毘に付す。
  池上本門寺に壽福院逆修塔が残存する。・・・・上に掲載
 後、国元金沢経王寺にて再び葬儀が行われ、遺骨は能登滝谷妙成寺に納めらる。
  2010/10/12撮影:
   滝谷妙成寺壽福院殿墓11     滝谷妙成寺壽福院殿墓12

正応院逆修十一重層塔

寛永3年(1626)建立、関東大震災の際倒壊上部2層及び相輪を失う。
銘文正面:「斯十一層石塔、藤原氏加藤肥後太守清正嫡男加藤肥後守忠広御母公正広院祐真日倚・・・
 寛永第3丙寅暦・・・第15代日樹誌」
2009/10/23追加:
寛永3年加藤清正室(加藤忠広生母)正応院が、逆修供養のため建立。日樹上人開眼。
慶安三年(1650)銘は、正応院の命日と云う。(慶安3年6月17日は追刻)
安山岩製、総高4.65m、塔高4.32m。
なお、正応院祐真日倚大姉は慶安4年逝去とも云う。加藤忠広は寛永9年出羽庄内鶴岡へ配流となり、正応院も同国丸岡で逝去し鶴岡本住寺に埋葬される。現在も本住寺に墓碑が残る。
2011/02/19撮影:
 正応院逆修十一重層塔     正応院逆修十一重層塔初重1     正応院逆修十一重層塔初重2
2011/02/27追加:
◇正応院逆修十一重層塔には15代日樹とあり、池上復歴16世と云うこととに齟齬がある。
この齟齬については池上5世上行院日叡上人と身延との関係で発生したものと云う。
(詳細は後日調査予定)

 →日樹上人供養塔・備中法福寺・備中仏乗寺
 →池上本門寺


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