長 遠 院 日 遵 上 人

長遠院日遵

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  →下総中村檀林
  →下総玉造檀林(玉造蓮華寺)、玉造檀林祖
  →下総松崎檀林(松崎顯實寺)、松崎檀林5世
  →小湊誕生寺19世
  →江戸牛込市谷自證寺2世、日遵供養塔
  →祖山妙覚寺23世
  →玉造前野墓地:「カンメイロン様」墓碑、玉造談所開祖供養塔の2基あり。

長遠院日遵の略歴

2023/08/25作成:

日遵は中村・松崎檀林に学び、松崎5世を経る。つまり中村日賢に教えを受ける。
 従って、日遵にとって、この近辺は良く知った土地柄であり、百姓も知っている間柄であり、
 多古・玉造の代官も日遵によって受法したという。
 加えて、この地は酒井山城守の知行地であり、井上河内守正利・久世三四郎長宜を通じて便宜を得ることが期待できる地であった。
元和5〜6年(1619〜20)以降、松崎は少なくとも寂静院日賢、寿量院日遣、長遠院日遵が化主を勤め、さらに円通院日調が化主として活躍していた時である。 

小湊より京都頂妙寺に転住(寛永10年(1633)3月13日までは京頂妙寺に住す。)
 
寛永7年(1630)身池対論・寛永法難。
 誕生寺16世日領は流罪、17世日税は自害、18世日延は流罪となる。日遵はその後を継ぎ小湊19世となる。

日遵は江戸に於ける不受不施派の活動拠点を自性寺に求め、法華宗自證寺(自性寺)の二世として入寺する。
 さらに徳川家光の息女・千代姫の外護を受け、小湊誕生寺に70石の寺領を拝領する。

寛永7年(1630)末日、日遵は信濃飯田の日樹の謫居を慰問する。
 日樹より「京都にいつまでも居ず、早く関東に下り、不受の所化衆などの学問も退転なきように」と諭される。(寛永8年6月13日書状)
寛永10年(1633)春頃(夏?)、日遵は下関したものと思われる。
 まず日遵は松崎檀林の能下となり、ここを根拠に寛永13年ころ中村檀林を取り戻すべく画策する。
 しかし、これは不成功に終わる。(概要は日遵の備前蓮昌寺文碩・三甫宛書簡)
 ※この間の事情は、様々な人間関係・中村や松崎の檀林の消長なども絡み、諸史料の欠如なでで推測も混ざる。
  →詳細は「禁制不受不施派の研究」宮崎英修著p.40〜を参照。
寛永13年日遵は、六条門流と四条門流の学生が諍い対立し、計画に齟齬をきたし、日榮(玉造2世)などと四条門流学徒を引き連れ松崎を出る。おそらく日遵は混乱の責任をとって、玉造蓮華寺に引き移ることになったのであろう。(寛永14年閏3月25日に玉造に移る。)

寛永14年(1637)酒井山城守重澄の外護の下、下総玉造蓮華寺を再興し、玉造檀林を開設する。
 (開設に当たっては、井上河内守正利、久世三四郎、酒井山城守重澄等の外護を受けるという。)
  ※酒井山城守重澄:下総国生実藩(2万5000石・多古玉造など)藩主
  ※井上河内守正利:寺社奉行、遠江横須賀藩第2代藩主
  ※久世三四郎:久世長宣の長男・広宣か、あるいはその長男広当か、何れにしろ下総に領地を得た寄合?ではある。

日遵小湊に転ずる。

慶安4年(1651)日遵は小湊より市谷自證寺に転ずる。
 これは千代姫(大猷院殿息女、自證院殿女、尾張大納言光友正室)が家光から直々に自證寺を貰い、その寺を日遵に与えたものである。
 時に日遵60歳、12月28日住持を仰せつけられる。千代姫は当時15歳で、自ら登城し家光に談判したという。
 日遵は名実ともに不受派の長老・重鎮であり、受派身延からは不受派の張本と見なされ訴状を呈されていた状況下であった。

諌迷論の筆者で、村民はそれをもじって「カメロ様」と称した。隠し墓が現存し、墓までの坂をカンメイ坂という。

承応3年(1654)10月30日遷化、66歳(祖山妙覚寺23世)
 小湊誕生寺日遵供養塔:小湊誕生寺にあるという。
 日遵の石塔は、正面に「妙法当山第十九祖大僧都日遵聖人」右則に「承応三年甲午」左側に「十月三日卒」と刻す簡易なものである。

長遠院日遵に関する諸情報

ページ「近世日蓮宗関東檀林・京都檀林」>「下総玉造檀林(蓮華寺)」 より転載

寛永元年(1624)長遠院日遵(蓮華寺を)再興し、檀林を創建。
 ※寛永14年(1637)日遵開設とも云う。
  ※寛永7年(1630)「身池対論」の後、身延山に小西・中村の両檀林を接収され、檀林を失った不受派は
  新に玉造檀林を開設と云うから寛永14年の檀林開設が妥当とも思われる。
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
玉造檀林開基日遵(長遠院日遵):
 諌迷論の筆者で、村民はそれをもじって「カメロ様」と称した。隠し墓が現存し、墓までの坂をカンメイ坂という。
  ※長遠院日遵は小湊誕生寺19世、江戸牛込市谷自證寺2世
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より
 宗門の学問所である中村檀林でも、受不受の諍論が起り学生が離散し、身延支配下になる。
寛永14年(1637)池上日樹の弟子である小湊誕生寺17世長遠院日遵は井上河内守正利、久世三四郎、酒井山城守等の外護を受け、中村近くの玉造に蓮華寺を再興し、不受派学徒養成の玉造檀林を創設する。
久世氏は本郷丸山町の勝劣派(法華宗陣門流)本妙寺の有力檀越である。
 ※井上 正利:慶長11年(1606) - 延宝3年(1675)
 寛永5年(1628)遠江横須賀藩4万7500石を襲封。
 慶安2年(1649)奏者番に任ぜられ、常陸笠間藩50000石に転ずる。
 明暦4年(1658)寺社奉行に任ぜられ、寛文7年(1667)寺社奉行を辞職する。
長遠院日遵:寛永7年(1630)身池対論・寛永法難にて、不受不施派の誕生寺16世日領が流罪、17世日税は自害、18世日延が流罪となる。日遵はその後を継ぎ19世となる。
日遵は江戸に不受不施派の活動拠点を自性寺に求め、法華宗自證寺(自性寺)の二世として入寺する。
さらに徳川家光の息女・千代姫の外護を受け、小湊誕生寺に70石の寺領を拝領する。
日遵は池上本門寺・長遠院日樹の弟子であるが、身延久遠寺の支配下になった中村檀林を不受不施派に取り戻すことが出来ず、日樹の指示で玉造檀林を再興する。
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
長遠院日遵:
 小湊誕生寺19世・玉造檀林祖である日遵は日賢に教えを受ける。従って、台学的傾向の非難を免れないものがあった。
主著「諌迷論」10巻は、日蓮宗から天台宗の転宗して盛んに日蓮宗を悪罵した真迢(はじめ日迢)の「破邪記」を打破するために書かれる。
寛永7年3月には「不受決」を著す。巻尾には池上日樹・中山日賢・平賀日弘・小西日領・中村日充・碑文谷日進の加判がある。
日遵は寛永7年の法難(身池対論)のとき、たまたま小湊より京都頂妙寺に転住していたために、罪は蒙らなかったが、当時の不受派中その学識は日賢・日樹に次ぐべきものだったと思われる。
 ※寛永10年日遵は京都頂妙寺より小湊に下向
承応3年(1654)10月3日寂。
○「多古町史」/地域史編/旧常磐(ときわ)村/南玉造(みなみたまつくり)/宗教/神社・寺院 より
 『常磐村郷土誌』には、
 日蓮宗中本寺ナリ建治頃観音院ト号シ真言宗ノ道場ナリシト云フ、弘安7年(1284)日蓮ノ弟子日位総州布教ノ節当寺ニ来リ住僧実源ト会見数度、実源遂ニ改宗シテ日位ノ弟子トナリ日実ト改称ス即チ本山開基ナリ 弘安10年(1287)三月寺号ヲ蓮華寺ト称ス
 応仁二年(1468)本山本土寺九代日意東国布教ニ際シ当寺ニ来リ、檀林寺格ニ進ム、十六代日遵檀林(※玉造檀林)ヲ開ク、学徒四集シ檀運頗ル振ヘリ、廿代日浣ノ時宗派ニ就テ紛糾ヲ重ヌルコト数年、遂ニ廃檀シ寺運衰ヘ堂宇ノ頽廃甚シ、天和3年(1683)日清之ヲ再興ス、後安永9年(1780)正月堂宇悉灰燼ニ帰ス、天明元年(1781)日道本堂ヲ再建ス(中略)名刹タレトモ破檀ノ際旧記什宝悉散乱シテ集録スベカラズ(後略)
 とあるが、
右の日浣は禁制不受不施派教宣の罪により、寛文6年(1666)五月、肥後(熊本)人吉に流罪となり、10年の後配流地で没している。
そして、日浣の墓碑が当寺境内にあり、その五輪塔には「妙法蓮華経 明静院日浣 延宝4丙辰(1676)七月九日」と、没年が刻まれている。
 なお、玉造檀林としての歴代能化は次のとおりである。
  一世 長遠院日遵 開基
  二世 長真院日栄
  三世 東恩院日惣
  四世 揚善院日逗
  五世 明静院日浣 流罪。廃檀
 開基日遵は、身池対論のときは京都にいて、日奥を補けて同志の中心となり、関東と呼応して不受の宗義を宣揚していた。
 のち、信州伊那に流されていた池上本門寺日樹(長遠院)を訪れたとき、「いつまでも京都に居ないで、早く関東へ行って不受派の門弟衆に対する学問をすすめるように」と諭され、中村・松崎の檀林に学んだことによりこの地方の事情にも通じていることから、寛永10年(1633)夏に、弾圧追放された諸跡の回復と不受派学徒育成のため、松崎檀林の能化となって関東に下る。
 そして同10年(1637)三月に玉造蓮華寺に移り、領主酒井山城守のひそかな外護も得て玉造檀林を創設し、その開基となる。
 その後日遵は安房小湊の誕生寺に転じ、若い学僧達の強い支持もあって日栄(長真院)が檀林二世を継いだ。
この代に、中山法華経寺の諸末寺が不受不施を唱えて本寺に背し、さらには、法華経寺自体が不受派へ帰入するなど、法理をめぐって波乱があったが、正保3年(1646)七月、49歳で日栄は死去する。

ページ「関東諸国の日蓮宗諸寺」>「江戸牛込市谷自證寺」 より転載

(江戸牛込市谷自證寺)2世は日遵:小湊誕生寺第19世、不受不施派の檀林として玉造檀林を再興。
  不受不施派の活動拠点を自證寺(自性寺)に求め、入寺する。
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より
《千代姫》
 法号は霊仙院、徳川家光の息女(長女)、母は振局(自證院)
千代姫は日遵を外護し、小湊誕生寺に70石の寺領を扶持する。
 ※日遵は小湊誕生寺第19世(身池対論・寛永法難で、誕生寺16世日領は流罪、17世日税は自害、18世日延は流罪)、池上日樹の弟子、不受不施派の檀林として玉造檀林を再興する。また、不受不施派の活動拠点を自證寺(自性寺)に求め、法華宗自證寺(自性寺)の二世として入寺する。
不受不施派若松寺:
 先師供養塔は石造宝塔・日遵聖人石塔・日樹聖人五輪塔・日樹聖人報恩塔・日正聖人石塔・日行聖人五輪塔・開山日須/日遵/日庭石碑である。
 先師供養塔1     先師供養塔2     先師供養塔3
 長遠院日遵聖人石塔1
 長遠院日遵聖人石塔2:師範大僧都日遵聖人/引導結縁之諸聖霊/慈父理經院・・・:慈母正智院・・・と刻す。
 開山日須/日遵/日庭石碑:開山日須聖人、自證寺2世長遠院日遵聖人、自證寺2世長遠院日庭聖人

ページ「備前法華の系譜」 より転載

◇小湊の離反
 身池対論の後、身延はこれを勝利とし、寺領供養を以って公儀裁可の法理であるとし、国主除外の不受不施を以って諸山・諸門流の同意を得ようとし、小西中村の両檀林を手中に収め、これにより支配下の飯高檀林を加えて自派の檀林を三檀林となす。
本寺は池上・京都妙覚寺に加え中山・小湊の本寺を進退(しだい/しんだい:思いどうりにする)し、余勢をかって碑文谷・平賀を収めようとするもこれは頓挫する。しかし、身延は関東においても屈指の大本寺を手中に収めたのである。
 しかし、間もなく、小湊は離反する。
対論の頃、小湊は日領の後を継いだ日税が退き、可観院日延が住していた。しかし対決の時、日延はその場に出席はせず、これは病中であったとも対決の煩わしさに拘わりたくなかったからとも云う。しかし、いよいよ採決の申し渡しのとき、日延はともに罰せられるように請うたのである。
この申出のことは、日樹の書状や小湊日雲の訴状にも触れられ、確かなことである。さらに身延の追放記録や身池対論記にも追放として記録されているので、追放も確かであろう。
とこらが、小湊では追放ではなく、隠居という。
 その日延であるが、自ら進んで追放されたが、それに先立ち後住を議し、衆議をもって日遵を後住とする。
「追放」され、日延は5月初めに小湊を出、伊勢の一柳監物の知行所に赴くという。
しかしその後日延は伊勢から博多に赴き、寛永8年黒田忠之の帰依を得て、香正寺を創す。日延は自由に国内を歩いていたのである。
 この点から見ると、日延の追放は追放された他の諸師とは違い、追放とは名ばかりで、小湊の云うように隠居したのであろうか。日雲は自信をもって、その訴状で隠居としている。
 ともあれ、日延は寛永7年5月の初め小湊を出、伊勢に赴くも、後住である日遵は、下関を目指すが、寛永10年(1633)3月13日まで京都頂妙寺に住していた。
日延追放後、小湊は支柱を失い、小湊長老・妙蓮寺や宿老成就院は身延の強圧的態度で動転し、身延帰伏の誓状を出したものであろう。
 日遵は、対論の裁定では京都に住していた理由で同じく追放を免れた日奥弟子住善院(日定)とともに京都の同志を率いていたが、関東の多くの重鎮を失ったあと嘱望されて、関東に赴くこととなる。
 寛永8年日遵は信州伊那に日樹を慰問しているが、日遵書状には、日樹から早く下関し子弟の教育にかかるように指示されたことが述べられている。
日遵は寛永8年にも下関する意向を示すが、下関は寛永10年にずれ込んだのである。
しかしともかく、日遵の下関により、身延は得ていたあるいは得たと思っていた小湊を失うこととなる。
さらに、得たと思っていたものが実は得ていなかったのに各本寺の末寺である。
 関東における法華宗一般つまりは各本寺の末寺一般は国主除外の不受不施を正統とはみなしていなかったのである。
日樹をはじめとする諸師が身を捨てて守った態度にこそ真の宗制が守られていると見るから、日樹等が身延派を以って受不施派と蔑称した名称をその通り名とし、自派をして不受不施派と誇るようになったのである。中山にしても池上にしても末寺は離れ、小西・中村を退檀した不受不施の学徒はじめ不受の諸師は身延の詐謀を暴き、しかも続々と新寺を建立し、弘教に力を尽くし、不受派の勢力は目覚ましいものがあった。
 身延は自身の力では如何ともしがたく、ついに幕府の権力を借りて不受派を押えようとの策謀に頼ることになる。

◇両派の現況
 (前略)この頃不受派が力を注いだのは教育であった。
身延訴状によれば、この頃の不受派は松崎談所、野呂談所、山田談所の三談所であった。 松崎は少なくとも元和5,6年を中心として以降寂静院日賢、寿量院日遣、長遠院日遵が化主を勤め、この頃は円通院日調が化主として活躍していた時である。(後略)

《不受不施の法義》
 (前略) 宗門の学問所である中村檀林でも、受不受の諍論が起り学生が離散し、身延支配下になる。
寛永14年(1637)池上日樹の弟子である小湊誕生寺17世長遠院日遵は井上河内守正利、久世三四郎、酒井山城守等の外護を受け、中村近くの玉造に蓮華寺を再興し、不受派学徒養成の玉造檀林を創設する。
    (後略)

ページ「長遠院日樹上人伝」>「8)謫居の日樹に遺る消息」 より

 (前略)日樹遷化後、その遺弟を激励し、消息を伝えるものに生前の盟友頂妙寺日遵の書簡がある。
 (その全文の掲載があるが、これは割愛する。)
ただ、この書簡は宛名の部分が失われていて、宛名が不明である。書簡中に「御両人様ともに」とあり、例えば、師の十三回忌建塔の行圓院日利及び日樹の画像を描きし日契などの日樹直弟子などに宛てたものであろうか。また書簡中の「一味院」とは日契の院号ではないだろうか。
 日樹逝去に伴い、謫所では密葬であったが、遺骨埋葬などの措置をして日利は謫所の庵に留まり、日契などは大乗院とともに善後策を講じるべく備前に同行し、後には日樹の遺志であった下総同信の結束を行う為、日達(大乗院)・日遵は下総方面に下向したものと推定する。
 次に、日尊は日樹の七七忌(四十九日)の法要を自ら勤行する。その日尊の安国院(日)宛の消息が残る。
  (消息は省略)
日尊は身池対論の論場には出なかったが、日樹示寂後は京都に於ける不受派の中心人物だったと思われる。
日尊は長遠院と号し、洛の頂妙寺、小湊誕生寺、江戸自證寺などに瑞世し、晩年下総玉作檀林を興し、承応3年(1654)11月11日示寂し「諌迷論」の遺著がある。(後略)

「禁制不受不施派の研究」P.44、64、69 など参照のこと。


2023/08/25作成:2023/09/13更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系