常楽院日経上人

常楽院日経上人

永禄3年(1560)上総国二宮領南谷木一松(現千葉県茂原市)で生誕。
日経上人は若くして東国に折伏活動を続ける。
 天正元年(1573)常陸山崎にて浄土宗と法論。
 上総での大野法難。
 慶長2年(1597)上総横川(大網の東)宝立山方墳寺建立。
 上総中野本城寺建立、上総土気善勝寺の住職となる。
後、京都に上り、慶長4年(1599)妙満寺27世貫主となる。
  → 京都妙満寺
慶長12年(1607)5月尾張熱田に布教、浄土宗を論破、浄土宗は上訴に及ぶ。
 【慶長法難】
慶長13年11月上訴の結果、法華宗浄土宗の法論が江戸城にて企図される。
法華宗側は日経、浄土宗は廓山、判者は高野山頼慶、列座は徳川家康、秀忠、忠輝、蒲生氏郷、上杉景勝、伊達政宗、浅野長政ほか高家7人、本田正信、大久保忠隣、酒井忠世など八老中であった。
その他浄土宗から増上寺教応、新地恩寺幡随意、鐘岩、光明寺及杷、鴻巣勝願寺の4名、そのほかの僧真言2、天台3、禅5が列座する舞台装置であった。
 日経は漸く弟子5人に擁され(戸板に乗せられ)、半死半生の体で、午後から漸く登城する。
弟子たちは日経初労のため法論の儀は不可能の旨を言上するも、家康は「衆人の心を枉げるもの」として、強いて法論の開始を命ずる。
 判者は開始を宣言し、浄土宗側は法論をかけるも、日経は一言も発せず(否発することが能わず)、法論は修了され、「衆人の覧た所、浄土宗の法門勝利」 とした判決が宣言される。
 日経は当日午前に5〜60人の暴徒に襲われ仮死状態に陥いれられたのであった。
勿論この犯人の素性は判然とはしない。しかし、この「事件」の有無を別にしても、家康、幕府主脳、取り巻く御用学者、法華宗に反感を抱く諸宗派などの思惑を考えれば、「強義の横行は天下の大事を引き起こす」ことを恐れた権力側から始めから法華宗側の敗論と仕組まれていたことは容易に推察できるというものであろう。
慶長14年2月20日日経は洛中にて弟子5人とともに「刵劓刑」に処せられる。弟子一人はその場で落命する。【慶長法難】
 ※慶長法難の後日譚としての「身延日遠と養珠院お萬の方」の挿話は甲斐本遠寺を参照。
その日、日経らは信者の手により粟田口の寺に運ばれるも、翌日にはそこを追われ、丹波亀山本門寺、その奥地の知見谷の農家、小浜、福井、小松と転々とし、金沢で前田家重臣三 輪志摩守の帰依を得る。
三輪志摩守は彼らのため本門山本覚寺下に掲載)を建立するも、暫くのち、そこも追われ、食物も住居もなく、ついに富山から3里余りの神通川畔音川で果てたと伝える。
音川付近には「ニッキョウザカ」「ハナカケサカ」と俗称されるところがあると云う。
 (一説には金沢本門山本覚寺で元和6年遷化との過去帳があるとも云うが、これは後日信者が付け加えたものと推察される。)
※日經上人の終焉の地は越中国婦負郡外輪野村(現在の富山市婦中町外輪野)と言われる。
大正年中には同所で墓所が整備されるという。(大正8年日経堂が建立、翌9年墓碑と顕彰碑が建てられる。)

金澤泉野寺町本覺寺
本門山と号する。顯本法華宗、京妙満寺末。
慶長18年(1613)日經上人、加賀金澤へ赴くも、そこも幕府の知るところとなり、
元和元年(1615)に越中国婦負郡外輪野村(現在の富山市婦中町外輪野の三瀬)に庵室を設けて布教を続ける。
元和6年11月外輪野村で寂する。
 (同所では、大正8年日経堂が建立、翌9年墓碑と顕彰碑が建てられる。)
○現地案内板(駒札) より
慶長19年(1614)三輪志摩守長好(前田家家老、7260石)前田利常より現在地の1140坪を拝領し、当寺を建立、京都妙満寺貫首日経上人を開山として創建される。
三輪氏は利常に願い、寺内に豪華な御骨堂を造営し、利長の分骨と位牌を納める。よって利長の室である玉泉院(織田信長四女)はしばしば当寺に参詣するという。
また、本長寺と輪番で、加賀藩内顯本法華宗触頭を勤める。
文政10年(1827)自火により一宇残らず焼失、その後再建されるも、明治4年六斗の大火で類焼する。
○「金沢古蹟志」森田平次、昭和8〜9年 より
本門山本覺寺
法華宗也。文化三年の由来書に去ふ。當寺開山本法院日照、慶長十九年建立。檀頭三輪志摩相願、寺屋敷千百四十歩拝領。開山日照元和二年参内、綸旨頂戴、今寺寶に有之。 且三輪志摩、微妙公に被相願、瑞龍公御遺骨之内拝領仕、今以寺中御骨堂御位牌安置仕。玉泉院君・春香院君御在世之内、毎度御参詣被為在候由、舊記に記載有之。とあり。于今利長卿の位牌等を安置せり。
按ずるに、昔は此の本覺寺と泉寺町の本長寺とは、所謂不受不施派たりしといふ。改作所舊記に、寛文九年四月十五日向後不受不施日蓮宗寺院、寺請に取申間敷旨、於江戸殿中被仰渡。依之男女下々迄、不受不施之宗門替可申由被仰出。不受不施之寺院僧中は曾而御構無之、檀方之輩自今以後右之宗旨に罷成儀停止被仰付侯へば、おのづから彼寺院断絶候旨、北條安房守殿被申聞云々。と見え、附札に、金澤本長寺・本覚寺、跡々より不受不施に而候條、参詣致させ申問敷、右之末寺等同断とありて、此の時不受不施派を停止せられたり。
○「加能郷土辞彙」日置謙、北国新聞社、1973 より
本覺寺
金澤六斗林にあって、日蓮宗に属し、本門山と号する。
慶長19年本法院日照を開山とし、三輪志摩長好の立てた所といい、元和2年日照が上洛して頂戴した綸旨を存する。
一説に、當寺は長好が妙満寺日経の為に建立したともいふ。
然らば日経が幕府の罪を獲て潜伏中であったから、表面にその名を現さなかったものであるかも知れぬ。
○「全国寺院名鑑 中部篇」全日本仏教会寺院名鑑刊行会、1970 より
寺宝:日経の墓(元和6年建立)
慶長15年世にいう慶長大法難で、惨刑にあい、京を追われた日経上人らは北陸に潜行する。
慶長19年日経は加賀藩家老三輪志摩守良好の庇護を受け、当寺を創建する。
2017/05/13撮影:
上記のように、文化3年の由来書では三輪志摩が檀越となり本法院日照上人の開山という。
しかし、現在では三輪志摩が檀越となり常楽院日經上人が開山というのが定説となったようである。
「加能郷土辞彙」のいうように幕府を憚り、日経の開山を晦まし、日照の開山としたのであろうと推定される。
 本覺寺山門     本覺寺日經上人廟所碑     本覺寺本堂・庫裡
 本覺寺日經上人廟1     本覺寺日經上人廟2     本覺寺日經上人廟3     本覺寺日經上人廟4
  ※廟塔が六重とは違和感があるが、なぜ六重なのかは不明、初重の身と台石のみが当初の遺物と思われる。
  但し、刻銘は判然とせず、全体の文意は不明である。
 日経上人慶長法難四百年報恩事業碑

内証題目講:
日経の処置の後も、幕府は日経一派を「お上を恐れぬ不逞なやから」として、弾圧を継続するが、その幕府の詮索に対抗し、上総・下総の檀那中には、日経の訓誠を守るため、それぞれの菩提寺を離れ、あるいは菩提寺に属したまま密かに内信を続けたものが 連綿と存続した。これを「内証題目講」と云う。内証題目講は所謂「七里法華」といわれた地域に存在する。
 ※七里法華:土気18万石酒井定隆が領民を強制的に日蓮宗に改宗させたことに由来する。
内証題目講はしばしば幕府権力の摘発をうけるも、明治維新までその命脈を保つことになる。
日経の門流:
日玄上人:六条川原での「刵劓刑」を受け、落命する。享年38歳と伝える。
日寿上人:六条川原での「刵劓刑」を受けた後、京都高辻久遠寺を開く。
 ※この久遠寺は下に掲載の参考:日什門流の諸寺中の久遠寺かとも思われるも、 開山上人の名称が違うなどがあり、不明。
日顕上人:六条川原での「刵劓刑」を受けた後、若狭小浜本行寺を開く。
日秀上人:六条川原での「刵劓刑」を受けたあと、京都五條に上行寺、大坂生玉前堂閣寺を開く。
 →京都五條上行寺は下に掲載の参考:日什門流の諸寺を参照
日尭上人:六条川原での「刵劓刑」を受けたのち、堺要行寺を開山する。
以上の弟子のほか
下総野田本覚寺日浄上人、上総東横川方墳寺日尚上人、本漸院日逞上人、田照院日清上人などが知られる。
日経上人の流れを汲む多くの上人はその後の弾圧で処刑あるいは遠島などに処せられる。
(弾圧の例示としては、寛永4年横川方墳寺破壊、寛永12年下総野田本覚寺破却などが知られる。)
 ※鎌倉辻町本興寺に於いても日経門流弾圧を眩ますため、寺基の移転が企てられる。
   →鎌倉日蓮諸寺中の鎌倉辻町本興寺の項を参照。
◆参考文献:
「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年


参考:日経上人関係(日什門流)の諸寺

 上行寺;元中本寺と称する。慶長16年境智院日秀上人開基、織田信好(信長11男)その資を寄せる。
維新後衰微する。境内420坪。世俗劓寺と呼ぶ。慶長14年常楽院日経上人が慶長の法難で劓刑に処され、その派僧日秀、織田氏に依り、本寺を建つと云う。(「京都坊目誌」)
 ※「日蓮宗新聞」1996/06/01日付には以下の記事がある。
△日経上人銘の胎内文書
アルゼンチンに流出していた貴重な祖師像が、このほど池上本門寺学芸員の山田泰弘氏と安藤昌就氏の調査で発見され、日本に戻ってきた。
 御尊像は右手に笏、左手に経巻を持つ説法祖師像。像高70cm、ほぼ等身大の堂々とした坐像である。残念ながら御頭が江戸後期の後補作であるものの、尊容、彫技、材質、御袈裟に見られる丁寧な文様等、いずれも古様で桃山時代の作風を示している。
 また、胎内納入品の開眼供養願文および法華経八巻も伝わっており、この祖師像が慶長19年(1614)、慶長法難(同14年)で有名な常楽院日経上人が京都東山上行寺の祖師像として造立、開眼供養され、弟子で日経上人と共に慶長法難で受難された境智院日秀上人に与えられた御尊像であることが確認できた。
 上行寺は日什上人開山・京都妙満寺のもと中本寺。慶長16年に境智院日秀上人が京都東山の五条橋近くに創建したが、大正3年に下京区にあった久遠寺と合併し妙祐久遠寺と改称、現在は右京区嵯峨に移転している。
 慶長法難で幕府によって追われた師弟が、わずか五年後に京都でかくも堂々たる尊像を造立し得たことには驚きを感ずる。
 この御尊像を所有していたアルゼンチンの某氏代理人を通じて日本へ持参、発見に至った。同国への流出期間、経緯等は残念ながら不明である。なお御尊像は什門系財団の紹介により所縁の寺院数ヵ寺に呼びかけられ、三月一日東京都品川区の本光寺へ引き取られ、遷座される。
 →品川本光寺には日経上人造立の京都五條上行寺の祖師像写真を掲載する。
2013/08/22追加:
第2祖は日應上人と思われるも、確証がとれず。
日應上人は寛文5年(1665)幕府の命である手形提出を拒み、日向郷之原に配流となる。→谷中感応寺中を参照。
2017/06/10追加:
上行寺末寺として次がある。
加賀金沢泉野寺町安立寺【退転】 → →金澤寺町の諸寺

「雍州府史」黒川道祐、貞享3年(1686) より
 久遠寺:
鳥辺野の南に在り。嘗つて日蓮宗妙満寺の一代、日曉上人、新に一派の法を立て、制法に背くに依りて、之を劓り之を放つ。
爾の後、之を免さる。再びこの寺を興して、焉(これ)に住す。大仏辺、常行寺、二条本正寺等、一派たり。
 ※鳥辺野南の久遠寺は今所在が掌握できず、廃寺か?
  (上行寺は大正3年に下京区にあった久遠寺と合併し妙祐久遠寺と改称、現在は右京区嵯峨に移転している。)
 ※上で云う常行寺は上の項で云う「上行寺」か。


2013/01/30作成:2017/06/07更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系