常楽院日経上人

常楽院日経上人

永禄3年(1560)上総国二宮領南谷木一松(現千葉県茂原市)で生誕。
日経上人は若くして東国に折伏活動を続ける。
 天正元年(1573)常陸山崎にて浄土宗と法論。
 上総での大野法難。
2019/09/10補正:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
◇日経の折伏と内証題目講
 はじめ/慶長2年(1597)/上総横川(大網の東)に宝立山方墳寺を建て、次いで上総中野の本城寺、さらに上総土気の善勝寺の住持を勤め、後に京都に上り、慶長4年(1599)京都妙満寺27世となる。
   ※→ 京都妙満寺
   ※→ 越前高木信行寺:日経真筆曼荼羅本尊を有する。
《慶長法難》
 しきりに諸宗を折伏したが、慶長12年(1607)9月尾張熱田に布教し、浄土三部経は妄語であり、念仏宗は無間地獄に堕つなど23ヶ条の詰問状を送ったことから、浄土宗の上訴となり、慶長13年11月15日江戸城における浄土宗法華宗の法論となる。
 この法論の当事者は浄土宗廊山と法華宗日経で、判者は高野山頼慶が選ばれ、列座は家康・秀忠・忠輝・蒲生氏郷・上杉景勝・伊達正宗・浅野長政ほか高家7名(あるいは6名)、本多正信・大久保忠隣・酒井忠世など8老中であった。
この他浄土宗から、増上寺教應・新知恩寺幡随意・鏡岩・光明寺及把・巣鴨勝願寺不残が並び、そのほかの僧真言2、天台3、禅5が列座する舞台装置であった。
 当日は以上の面々が払暁より出仕の威儀を整えて待つも、日経は登城せず「馳使若櫛連綿」(使いが馳せ、櫛のごとく連綿と)という状態であった。
日経は、漸く、午後になり弟子5人に擁され、籠に乗って登城する。しかるに日経は城に入るや「俄然而平伏」して一言も発せない。同伴の弟子は日経所労のため対論の儀は不可能なる旨を言上するも、家康は忿然として「枉誑衆人心」(衆人の心を枉誑/枉げ・たかぶらせる)ものとして、宗論の実施を命ずる。
 判者の高野山頼慶が対論開始を促すも「常楽院如悶絶尚不言」(日経は悶絶の様子でなお言を発せず)。浄土宗廊山一人「採扇畳撲」(扇を採り、畳をたたく)して法論をかけるも、日経はついに一言も発しなかったという。
 これは実は、この日の午前多数の暴漢が日経のもとに乱入し、暴行を加え、ついに仮死の状態にしてしまったのである。従って、日経は宗論の場にでるも、一言も発することができなかったのであrが、家康は弟子たちの延期請願を許さず、強いて宗論終決を宣して「衆人所覧浄土宗法門勝利顕了也」(衆人の見るところ、浄土宗の法門の勝利は明らかなり)と判決をしたのである。
 この暴行が幕府の意図や指図なのか、浄土宗側の単独行動なのか、あるいは直接の背後関係を持たない暴漢の仕業なのかは明らかでない。しかしながら家康自身が、かような教義の横行がしばしば天下の大事を引き起こすことを懼れたことは、日奥の場合と同一のことと容易に推測ができるのである。
それは、(省略するが)林羅山などの言説をみても、不受不施的な教義に強い反感を持っていたのは明白であろう。
 要するに、家康、幕府主脳、取り巻く御用学者、法華宗に反感を抱く諸宗派などの思惑を考えれば、始めから法華宗側の敗論と仕組まれていたことは容易に推察できるというものであろう。
 こうして、慶長14年(609)2月20日京都において日経は弟子5人とともに「刵劓刑」に処せられることとなる。弟子一人はその場で落命する。
  ※慶長法難の後日譚としての「身延日遠と養珠院/お萬の方」の挿話は甲斐本遠寺を参照。

 この刑の執行の前後に幕府は、日蓮宗諸寺に対して、日経の折伏に用いた「念仏堕獄」について経文の中にその証拠を出すように命じた。
これに対して、幕府の強行な姿勢に怖れた諸寺は「念仏堕獄」は経文にないこと、およびこれは祖師の日蓮が任意に立てた法門であると答弁し、いずれも日経とは何の関係もないと逃避した。
 関東諸山では、答弁書は4月11日に出され、池上日紹、中山日述、真間飯高日感、藻原日僚、平賀日悟、碑文谷日揚 此六個不受不施也 の連署であった。
 京都諸山は3月6日答弁する。連署には、妙顕寺日行、寂光寺日海、本隆寺日饒、要法寺日性、本法寺日固、立本寺日弘、本能寺日恩、本圀寺日桓、本満寺日乾、本禅寺日邵、妙僧寺日恵、妙蓮寺日源、妙満寺代日喜、頂妙寺代日栄、妙覚寺日就 此十五寺倶受不施也 とある。
  ※但し、妙僧寺とは不明
身延の日遠も同日付けで、同文の一札を差し出す。
 (日乾は慶長7年日重の跡を継ぎ身延の貫主となるも、翌年本満寺に退き、慶長14年再び身延に上がるという経歴である。)
所詮、当時の宗門にとって、宗学の訂正も生きるためには時に止む無き渡世の習でもあったのである。
 かくして、日経は邪僧とされ、世から拒絶される。
太閤秀吉の姉は法号瑞龍院法名日敬であるが、日経(きょう)と日敬(きょう)が同音であるため改名を余儀亡くされ、将軍側近にある女性は日蓮宗徒が多かったが、日経の事件以来、多くが浄土宗に改宗したと伝える。
 日経は孤立する。頼みとする関東の不受不施派寺院ですら上記のとおりであった。
しかし、ただ一人、対馬にある日奧のみ、日経の味方であった。
 家康は先の日蓮宗諸寺に対する「念仏堕獄」の経証の答弁を日奥にも求めたのである
これに対する日奥の答書が「三箇条尊答」(「万代亀鏡録」所収)である。
 ここでは、まず日奥は「念仏堕獄」を経文に求め、それは法華経にあると明確に論じ、日蓮聖人法門は専らそれを経文に求め、何ら私儀に非ずと所信を述べたのである。
しかし、この返書は土地遠隔のため、日経の処刑の遂げられたのちに届き、それは無に帰する。

 「刵劓刑」に処せられた日経とその弟子5人(1名は落命)は信者によって粟田口の寺に運ばれ傷の手当を受ける。しかし信者たちもあまりの惨刑にただおろおろと泣き喚くばかりであったという。
しかし、翌朝そこも追われ、丹波亀山の本門寺を経て、その奥地の知見谷の農家に隠れ、さらに小浜・福井・小松を転々として金澤に来て、前田家重臣三浦志摩守の帰依を得て、本門山本覚寺を彼らの為に建て、僅かに小康の生活を送る。
  ※本門山本覚寺は下に掲載。
それもしばしの間であって、そこも追われ岩山をよじり、食物もなく、さながら餓鬼道の墜ちたような有様で、追われ追われて、ついに富山から三里余を隔てた神通川畔音川で果てたと伝える。
神通川畔音川のあたりに「ニッキョウザカ」「ハナカケザカ」と俗称されるTころがあるというのも日経の死所を伝える伝説からきた名であろう。
 ※日經上人の終焉の地は越中国婦負郡外輪野村(現在の富山市婦中町外輪野)と言われる。
 大正年中には同所で墓所が整備されるという。(大正8年日経堂が建立、翌9年墓碑と顕彰碑が建てられる。)
一説には金澤本覚寺で元和6年(1620)11月22日遷化という過去帳もあるというも、おそらくは行方の分からぬ逃避行の師のために本覚寺で後でつくったものであろう。
 日経は享年70歳という。それは慶長13年の処刑の日から数えて12年である。
---「不受不施派殉教の歴史」 終---

金澤泉野寺町本覺寺
本門山と号する。顯本法華宗、京妙満寺末。
慶長18年(1613)日經上人、加賀金澤へ赴くも、そこも幕府の知るところとなり、
元和元年(1615)に越中国婦負郡外輪野村(現在の富山市婦中町外輪野の三瀬)に庵室を設けて布教を続ける。
元和6年11月外輪野村で寂する。
 (同所では、大正8年日経堂が建立、翌9年墓碑と顕彰碑が建てられる。)
○現地案内板(駒札) より
慶長19年(1614)三輪志摩守長好(前田家家老、7260石)前田利常より現在地の1140坪を拝領し、当寺を建立、京都妙満寺貫首日経上人を開山として創建される。
三輪氏は利常に願い、寺内に豪華な御骨堂を造営し、利長の分骨と位牌を納める。よって利長の室である玉泉院(織田信長四女)はしばしば当寺に参詣するという。
また、本長寺と輪番で、加賀藩内顯本法華宗触頭を勤める。
文政10年(1827)自火により一宇残らず焼失、その後再建されるも、明治4年六斗の大火で類焼する。
○「金沢古蹟志」森田平次、昭和8〜9年 より
本門山本覺寺
法華宗也。文化三年の由来書に去ふ。當寺開山本法院日照、慶長十九年建立。檀頭三輪志摩相願、寺屋敷千百四十歩拝領。開山日照元和二年参内、綸旨頂戴、今寺寶に有之。 且三輪志摩、微妙公に被相願、瑞龍公御遺骨之内拝領仕、今以寺中御骨堂御位牌安置仕。玉泉院君・春香院君御在世之内、毎度御参詣被為在候由、舊記に記載有之。とあり。于今利長卿の位牌等を安置せり。
按ずるに、昔は此の本覺寺と泉寺町の本長寺とは、所謂不受不施派たりしといふ。改作所舊記に、寛文九年四月十五日向後不受不施日蓮宗寺院、寺請に取申間敷旨、於江戸殿中被仰渡。依之男女下々迄、不受不施之宗門替可申由被仰出。不受不施之寺院僧中は曾而御構無之、檀方之輩自今以後右之宗旨に罷成儀停止被仰付侯へば、おのづから彼寺院断絶候旨、北條安房守殿被申聞云々。と見え、附札に、金澤本長寺・本覚寺、跡々より不受不施に而候條、参詣致させ申問敷、右之末寺等同断とありて、此の時不受不施派を停止せられたり。
○「加能郷土辞彙」日置謙、北国新聞社、1973 より
本覺寺
金澤六斗林にあって、日蓮宗に属し、本門山と号する。
慶長19年本法院日照を開山とし、三輪志摩長好の立てた所といい、元和2年日照が上洛して頂戴した綸旨を存する。
一説に、當寺は長好が妙満寺日経の為に建立したともいふ。
然らば日経が幕府の罪を獲て潜伏中であったから、表面にその名を現さなかったものであるかも知れぬ。
○「全国寺院名鑑 中部篇」全日本仏教会寺院名鑑刊行会、1970 より
寺宝:日経の墓(元和6年建立)
慶長15年世にいう慶長大法難で、惨刑にあい、京を追われた日経上人らは北陸に潜行する。
慶長19年日経は加賀藩家老三輪志摩守良好の庇護を受け、当寺を創建する。
2017/05/13撮影:
上記のように、文化3年の由来書では三輪志摩が檀越となり本法院日照上人の開山という。
しかし、現在では三輪志摩が檀越となり常楽院日經上人が開山というのが定説となったようである。
「加能郷土辞彙」のいうように幕府を憚り、日経の開山を晦まし、日照の開山としたのであろうと推定される。
 本覺寺山門     本覺寺日經上人廟所碑     本覺寺本堂・庫裡
 本覺寺日經上人廟1     本覺寺日經上人廟2     本覺寺日經上人廟3     本覺寺日經上人廟4
  ※廟塔が六重とは違和感があるが、なぜ六重なのかは不明、初重の身と台石のみが当初の遺物と思われる。
  但し、刻銘は判然とせず、全体の文意は不明である。
 日経上人慶長法難四百年報恩事業碑

内証題目講:
2019/09/10補正:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
 日経の処置の後も、幕府は日経一派を「お上を恐れぬ不逞なやから」として、弾圧を継続するが、その幕府の詮索に対抗し、上総・下総の檀那中には、日経の訓誠を守るため、それぞれの菩提寺を離れ、あるいは菩提寺に属したまま密かに内信を続けたものが 連綿と存続した。これを「内証題目講」と云う。内証題目講は所謂「七里法華」といわれた地域に存在する。
 ※七里法華:土気18万石酒井定隆が領民を強制的に日蓮宗に改宗させたことに由来する。
内証題目講はしばしば幕府権力の摘発をうけるも、明治維新までその命脈を保つことになる。
彼らは寺院の信仰が純粋でないと忌避して、秘密の在家集団を作り、信仰を続ける。
今日この講社は上総土気・本納、下総など細々とした流れを残すも、実態は単なる在家集団、しかも細々とした集団になっている場合が多い。

日経の門流:
2019/09/10補正:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
 日玄上人:六条川原での「刵劓刑」を受け、落命する。享年38歳と伝える。
 日寿上人:六条川原での「刵劓刑」を受くる、京都高辻久遠寺を開く。
  ※この久遠寺は下に掲載の参考:日什門流の諸寺中の久遠寺かとも思われるも、
  開山上人の名称が違うなどがあり、不明。
 日顕上人:六条川原での「刵劓刑」を受くる、若狭小浜本行寺を開く。
 日秀上人:六条川原での「刵劓刑」を受くる、京都五條に上行寺、大坂生玉前堂閣寺を開く。
  → 京都五條上行寺は下に掲載の参考:日什門流の諸寺を参照
  → 越前高木信行寺:日秀真筆曼荼羅本尊を有する。
 日尭上人:六条川原での「刵劓刑」を受くる、堺要行寺を開山する。
以上の弟子のほか
下総野田本覚寺を継いだ如閑日浄、上総東横川方墳寺を継いだ日尚、本漸院日逞、田照院日清などが知られる。
なお門流は家康の日経上人たちの処置を深く憤り、それに対して幕府もこれを憎み、不受不施類似の「常楽院新派」「日経新派」などと称し、弾圧・迫害し、苛烈な処刑も以って臨む。
次のような法難がある。
 寛永4年(1627)上総の玉雲、来聴と信者4人が処刑される。
 寛永12年(1635)蓮照院如閑日浄
  日経弟子如閑日浄は下総野田に教線を張り本門山本覚寺を建立、その僅か1年にも満たない寛永12年8月7日
  代官三浦監物に襲われ如閑日浄・本行坊日徳・真盛院宗月日盛・信者長左衛門・市右衛門とその女房の6人
  (9人ともいう)が捕縛され、江戸送りとなる。9月5日彼らは野田村十文字原で磔刑に処される。
  本覚寺は焼かれるという。寺山という字があり、そこが本覚寺跡という。
 萬治3年(1660)日尚、日逞ら流罪となる。
   正統院日尚は日経の弟子日壽の門で、今津妙法寺25世となるが、寛永4年東横川の方墳寺が破却された後、
  近くの南横川に方墳山芳墳寺を建て、布教の拠点とする。幕府は日尚を捕らえ、三宅島流罪とする。
  在島15年延宝2年(1674)寂する。三宅島にその墓碑が残る。 →備前法華の系譜>流刑地中の三宅島
   日尚の同志である東漸院日逞は下総濱野本行寺10世として入寺し、懸命な布教をするが、
  幕府に捕らえられ、伊豆大島に流される。大島元町には「ドウテイボウ」と呼ぶ所があり、そこに日逞の描いた
  曼荼羅碑があり「天和第3年彼岸中」の文字がある。(現在この碑は日蓮宗快中寺/海中寺の境内に移されている。)
       →備前法華の系譜>流刑地中の伊豆大島参照
   元文4年(1739)9月27日行信、三宅島に流罪となる。
  行信は上総長国村を中心に20の法座を持って内証題目講を指導していた。
  この遠島は内証題目講に大打撃を与えるといわれる。同講の史的消長は多分に日什門流の勢力抗争によるところが
  多かったいう。※勢力抗争の具体的内容は不明。
※鎌倉辻町本興寺に於いても日経門流弾圧を眩ますため、寺基の移転が企てられる。
   →鎌倉日蓮諸寺中の鎌倉辻町本興寺の項を参照。


参考:日経上人関係(日什門流)の諸寺

洛東上行寺
元中本寺と称する。慶長16年境智院日秀上人開基、織田信好(信長11男)その資を寄せる。
維新後衰微する。境内420坪。世俗劓寺と呼ぶ。慶長14年常楽院日経上人が慶長の法難で劓刑に処され、その派僧日秀、織田氏に依り、本寺を建つと云う。(「京都坊目誌」)
 ※「日蓮宗新聞」1996/06/01日付には以下の記事がある。
△日経上人銘の胎内文書
アルゼンチンに流出していた貴重な祖師像が、このほど池上本門寺学芸員の山田泰弘氏と安藤昌就氏の調査で発見され、日本に戻ってきた。
 御尊像は右手に笏、左手に経巻を持つ説法祖師像。像高70cm、ほぼ等身大の堂々とした坐像である。残念ながら御頭が江戸後期の後補作であるものの、尊容、彫技、材質、御袈裟に見られる丁寧な文様等、いずれも古様で桃山時代の作風を示している。
 また、胎内納入品の開眼供養願文および法華経八巻も伝わっており、この祖師像が慶長19年(1614)、慶長法難(同14年)で有名な常楽院日経上人が京都東山上行寺の祖師像として造立、開眼供養され、弟子で日経上人と共に慶長法難で受難された境智院日秀上人に与えられた御尊像であることが確認できた。
 上行寺は日什上人開山・京都妙満寺のもと中本寺。慶長16年に境智院日秀上人が京都東山の五条橋近くに創建したが、大正3年に下京区にあった久遠寺と合併し妙祐久遠寺と改称、現在は右京区嵯峨に移転している。
 慶長法難で幕府によって追われた師弟が、わずか五年後に京都でかくも堂々たる尊像を造立し得たことには驚きを感ずる。
 この御尊像を所有していたアルゼンチンの某氏代理人を通じて日本へ持参、発見に至った。同国への流出期間、経緯等は残念ながら不明である。なお御尊像は什門系財団の紹介により所縁の寺院数ヵ寺に呼びかけられ、三月一日東京都品川区の本光寺へ引き取られ、遷座される。
 →品川本光寺のページには日経上人造立の京都五條上行寺の祖師像写真・日経真筆願文などを掲載する。
2013/08/22追加:
第2祖は日應上人と思われるも、確証がとれず。
日應上人は寛文5年(1665)幕府の命である手形提出を拒み、日向郷之原に配流となる。→谷中感応寺中を参照。
2017/06/10追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
◇当寺は日経の本寺としての寺格を有し、次の末寺を有す。
上行寺末寺として次がある。
加賀金沢泉野寺町安立寺【退転】 →金澤寺町の諸寺
2017/11/29追加:
●「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
上行寺は日経の本寺としての寺格を有し、次の末寺を有す。

牛込久成寺
富山安立寺
○金澤泉野寺町安立寺【退転】 →金澤寺町の諸寺
越前高木信行寺 →常楽院日経・境地院日秀・上行寺日體等の曼荼羅本尊を有する。
小浜本行寺
名古屋霊山寺
伊勢實成寺
○山城木津妙楽寺 →木津妙楽寺
奈良本照寺 ※奈良西在家町本照寺(廃寺か)が知られるも、この本照寺は本能寺・本興寺両末である。
         従って、西在家町本照寺は該当しないであろう。故に上行寺末本照寺とは不詳である。
丹波本妙寺
大坂生玉前堂閣寺
堺法王寺

「雍州府史」黒川道祐、貞享3年(1686) より
 久遠寺:
鳥辺野の南に在り。嘗つて日蓮宗妙満寺の一代、日曉上人、新に一派の法を立て、制法に背くに依りて、之を劓り之を放つ。
爾の後、之を免さる。再びこの寺を興して、焉(これ)に住す。大仏辺、常行寺、二条本正寺等、一派たり。
 ※鳥辺野南の久遠寺は今所在が掌握できず、廃寺か?
  (上行寺は大正3年に下京区にあった久遠寺と合併し妙祐久遠寺と改称、現在は右京区嵯峨に移転している。
    妙祐久遠寺は嵯峨・大原野の諸寺中)
 ※上で云う常行寺は上の項で云う「上行寺」か。


2013/01/30作成:2017/12/26更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系