不 受 不 施 日 蓮 講 門 宗 本 山 久 遠 山 本 覚 寺

本山久遠山本覚寺歴代

○「金川町史」 より転載、但し21世日奥までは「日樹聖人傳」花田一重、昭和36年 より転載
○2019/06/19:「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より追加・・・*印

開基 日蓮大聖人蓮長 弘安2年(1282)入寂
2世 大国阿闍梨日朗 池上2世、元応2年(1320)年76。
3世 肥後阿闍梨日像 四条妙顕寺開基、康応元年(1342)年74。
 → 日像菩薩略伝
4世 大覚大僧正妙実 四条妙顕寺2世、津島妙善寺開基、貞治3年(1364)年68。
 → 大覚大僧正と妙善寺あれこれ
 → 大覚大僧正略伝
5世 朗源 四条妙顕寺3世、京都妙覚寺3世、永和4年(1378)年53。
6世 亀華院日実 永和4年四条妙顯寺より分立、京都妙覚寺4世(実質の開山)
7世 明珠院日成 応永22年(1415)
8世 妙華院日遵 嘉吉2年(1441)
9世 大聖院日延 文安元年(1444)
10世 本性院日善 宝徳3年(1452)
11世 法心院日意 文明12年(1480)
12世 三光院日寮 文明17年(1485)
13世 真如院日住 文明18年(1486)年81。
14世 寿量院日亨 明応7年(1498)年75。
15世 本是院日護 天文元年(1532)年97。
16世 一陽院日実 天文4年(1536)
17世 円頓院日兆 天文5年(1537)
18世 法蔵院日顒 天文11年(1542)
19世 観照院日饒 永禄4年(1561)
20世 実成院日典 教典 藻原妙光寺13世、塚原根本寺6世、天正20年(1592)年55。
 → 實成院日典
21世 仏性院日奥 寛永7年(1630)年66。
 → 日奥上人略伝
 → 日蓮宗不受不施派
 → 不受不施派『大阪城対論』
 → 佛性院日奥聖人の隠れ墓を訪ねて
※21世日奥までは祖山妙覚寺の歴代と同一である。
22世 日習  
23世 安國院日講 講門派々祖、元禄11年(1698)3月配所にて寂する。齢73。
※略歴は下に掲載。
24世 圓應院日珠 *元禄8年(1695)8月日向佐土原に日講(当時70歳)を訪い、諌暁を以って強烈な弘教を図る決意を伝えるも、日講にその無謀無益を諭され、日講の弟子となる。日珠は大坂東高津村に庵(衆妙庵)を構える。後にこの衆妙庵は日講の伝統を伝え、講門派の本山となり、法灯を継いでいくことになる。
25世 日照  
26世 日鑑  
27世 日順  
28世 日鋭  
29世 日鏡  
30世 日達  
31世 日譲  
32世 恵秀院日寛 *天保9年(1838)7月天保法難で捕縛、入牢、牢死す。
33世 台山院日照 *天保9年(1838)7月天保法難で捕縛、入牢、牢死す。
34世 東事院日東 *天保9年(1838)7月天保法難で捕縛、入牢、牢死す。東事院は智玄院という資料もある。
35世 日正  
36世 恵蓮院日心 本華院日心の師、明治12年遷化。齢27。
2019/02/27追加:「御津町史」 より
嘉永6年(1853)津高郡金川村河津宇吉の次男として生まれた九造は學を好み、備中川上郡平川の長遠寺に入門するも、明治5年不受不施講門派に帰入し恵蓮院日心と称する。
続いて、明治6年津高郡白石村武南長十郎の次男孫吉が恵蓮院日心の弟子となり恵學日傳と称する。 ※この日傳が後の本華院日心である。
37世 實成院日充 2019/02/27追加:「御津町史」 より
日奥の宗風遺誠を守っていた一派の先例派に佐藤清憲がいて、明治9年恵蓮院日心を知り、その弟子となり實成院日充と称する。
明治12年恵院日心遷化、日充が跡を継ぐも、病弱であり、日傳に跡を譲る。
38世 本華院日心 明治15年日蓮宗不受不施講門派として公許・再興される。
2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
津高郡今保の出身で、8歳で恵蓮院日心の弟子となり、18歳の時師の日心が寂し、その跡を継いで、日心と改む。
明治9年不受不施派が公許されると布教に従うも、日心の属する鹿瀬の妙宣庵は金川妙覚寺と宗義を異にする。合流の模索もなされるも、合意に至らず、明治15年派名公称、独立布教を誓願、同年公許を得て、日蓮宗不受不施講門派と公称、本山を鹿瀬に創立、その住職兼管長となる。
明治40年寂、46歳。
日心は晩年大野村下正野田の経蔵庵に住み、この庵で示寂する。この庵は元禄年中の隠れ家の遺構と云われ、日心の死後大安寺に移し、法華正教会教会所と称し、戦後大安寺と改号する。
2019/02/27追加:「御津町史」 より
明治再興の中心であった恵蓮院日心は病をえて、明治12年1月遷化。跡を継ぐ日充は病弱であったため、日傳が変わって受け継ぎ本華院日心と改名して再興のことに当たる。
39世 本光院日柱 *昭和16年3月軍部の干渉で不受不施派と講門派が合併、本化正宗(本山津島妙善寺)が発足。次期本化正宗管長予定であった日柱は昭和18年遷化。
40世 本誓院日省
41世 本隆院日進  
     

2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
「御津郡誌」では
講門派は大坂東高津秀妙庵を本山とせしも、天保年中幕府の厳命により廃庵となる。
爾後、鹿瀬に妙宣庵を結び、その後を
継承する。即ち明治15年派名公称を得て、妙宣庵を教務所に充て、鷲峰教院と改称、明治21年本堂を建立、明治29年本覚寺と改号する。

2019/02/10追加:
○「岡山の宗教」岡山文庫51、長光徳和、昭和48年 より
 鹿瀬本覚寺本堂:講門派の本山本覚寺
なお、この本堂は
「昭和五十二年本堂のいたみがひどく改築に着手、五十五年二月竣工、四月に落慶開堂供養を挙行して現在に至る。」(本覚寺縁起」)とある。
この本堂は改築され、既に無い。
2023/09/04追加:
○「御津町史」 より
明治20年堂宇を建立、明治29年久遠山本覚寺の寺山号に改称、昭和52年本堂のいたみがひどく、改築に着手、昭和55年本堂竣工・落慶。
 旧・本覚寺



安國院日講

備前法華の系譜>日講の記事多数あり(日講でページ内検索)

○「金川町史」板津謙六、昭和32年(1957) より
日奥の門下であり、日習を習学の師とする。
山城の人、寛永3年(1626)の生まれ、10歳にして妙覚寺に入り出家し宗義を講究し、奥義を極め常に日奥の後を受けて不受不施を固守する。
寛文5年(1665)幕府は寺領の土地田圃は幕府の供養とし、受領手形を出すように命ずる。
日講は「守正護国章」一巻を呈上し、不受不施の訳を仔細に述べる。その中で寺領の土地田圃は国主の仁恩から出ているもので供養ではないと主張する。
しかし、幕府は日講の主張を取り上げず、身延日奠等の訴えを取り上げ、日講を取調べ、日向佐土原に配流する。
日講は配所に居ること30余年、元禄11年(1698)3月配所にて寂する。齢73。

2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
安國院日講
 日講は、寛永3年(1626)京都に生まれ、10歳にして、日奥の弟子日習に師事する。
日習の門に入り、間もなく日奥の筆跡を初めて見て、衷心深く天下諌暁の志を決するという。
また寛永の法難で流された日領・日充を陸奥相馬に訪うて、この思いを固くしたと自らの著書でいう。
 その後、下総野呂村妙興寺に迎えられ、野呂檀林の能化となる。
当時、下総には玉造村蓮華寺の玉造檀林には日浣がおり、平賀本土寺には日述があり、相提携して教線は大いに振るい、澤村眞浄寺、刈毛村実相寺(刈毛檀林19世慈善院日賢開創)、岩部村大乗寺(備前津島妙善寺末)や安興寺、島村妙光寺、小川村などもこの教線上にあった。
 ※苅毛檀林:総常葉檀林(仏性山実相寺)
また佐倉の昌相寺(昌柏寺が正)には華光院日航(備前金川妙国寺10世)がいた。
   →華光院日航
 寛文7年寛文の法難で本土寺日述(野呂妙興寺前住)、日堯・日了が配流され、寛文6年日講は「守正護国章」を幕府に提出する。これは宗法の正邪を論ずる幕府の政策批判であったから、5月29日日向佐土原島津飛騨守忠高にお預けの処分となる。6月25日江戸を立ち、7月20日佐土原に着く。
 さて、日講の学問は、日賢・日領・日遵などと同じく檀林の流れを汲みつつ、台学偏重の流域を脱して、純粋日蓮教学を以って行動するところにその原点があった。
即ち学問は「台学を子葉とし、日蓮宗を根底」としたといい、その勉学の態度は、諸寺諸山に求めて日蓮宗門の書籍といえば、自ら写し人にも写させ、その数は百巻を越えるという。
そして、その目的は「近代の学者は・・急に臨んで心地惑乱し、受不施等の妖怪甚だし事を嘆き、その弊を除き」日奥の厳制を重んずることに置くという。
 寛文6年(1666)41歳の時、佐土原に配流され、元禄11年(1698)3月10日73歳で寂する。実に33年の永きを佐土原に送る。
この間の日記は後人これを「鶴城叢書」あるいは「説黙日課」と題し今に伝える。
これによると、日講の配所の生活は幕府・江戸から遠く離れた地に領主島津氏の優遇を得て、恰も流人の生活ではなきような、平和そのものであったと知れる。
これを日経の晩年流浪して顧みる人もなく、居場所定まらなかったのに比すれば、まさに天地の相違である。
 日講は配流中、多くの著書を著すが、特に大作「録内啓蒙」36巻は日蓮選書注釈中の随一と呼ばれるべきものである。
さらには徳川の政道を非難した著作も多くみられる。
題目論としては題目利益の絶対性を説き、これは日賢や小西日領の台学風な成仏論など排除し、日蓮宗学意識の自覚が認められる。かくして日講は日奥とともに、日蓮意識の正系を継いだものというべきである。

○「伊那郷土文化10 日樹上人の研究」山田居麓、山村書院版、昭和16年 より
 講門派々祖日講は日奥の法弟なり。寛永3年山城に生まれ、7歳の時日奥寂後の法弟として日習に師事する。
長じて野呂檀林能化及び妙興寺に薫す。寛文6年寺領と供養の混誤を論じて官の忌避に触れ日向土佐原に探され、元禄11年謫所に寂す。

日講は現在の講門派の派祖となるが、その事績については
 →不受不施派の分裂と動向 及び 不受不施禁制後の動向 を参照。

久遠山本覚寺末寺

赤田山日相寺(大阪府和泉市寺田町)
松光山妙蓮寺(岡山県赤磐市斗有)
○妙講山霊源寺(岡山県岡山市北区伊福町) → 久米右衛門派中の岡山教会を参照(岡山教会が寺号公称したと推定)
  → 上伊福霊源寺<備前御野郡上伊福村中>
○冨城山大安寺(岡山県岡山市北区大安寺西町) → 備前御野郡大安寺村

2018/10/10作成:2023/09/04更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系