丹 後・丹 波・但 馬 の 日 蓮 宗 諸 寺

丹後・丹波・但馬の日蓮宗諸寺

2012/11/07追加:
丹後における日蓮宗寺院概要・・・京都六条本圀寺及び四条妙顕寺などの末寺

○「丹後日蓮教団の考察:本圀寺門流の展開を中心に」高野聡顕(「日蓮教学研究所紀要 33」2006 所収) より
 丹後日蓮宗は宝徳年中(1449-51)京都学養寺開山(身延山9世日学)弟子実教院日養の宮津開教を始まりとする。
従って中世には身延門流の勢力下にあったが、近世になると元和年中に妙立寺が京都妙顕寺に本寺を変更するなど京都妙顕寺及び京都本圀寺の勢力が比肩するかの如く、拡大する。
丹後における日蓮宗寺院は現在32ヶ寺があるが、その概要は次に示す「丹後日蓮宗寺院一覧」の通りである。
近世では四条門流妙顕寺六条門流本圀寺の末寺が拮抗する。

丹後日蓮宗寺院一覧」:「丹後日蓮教団の考察 : 本圀寺門流の展開を中心に」より転載

  寺号 創立 所在 開山 寛永10年
(1633)
末寺帳
延享2年(1745)
末寺帳
天明6年(1786)
末寺帳
明治40年
日蓮宗寺院名簿
大正7年
日蓮宗大観
昭和56年
日蓮宗寺院大鑑
妙照寺 文安元年1444 宮津市金屋谷 実教院日養 身延山末 身延山末 身延山末 身延山末 身延山末 身延山末
◆以下、京都四条妙顕寺末
正音寺 嘉吉元年1441 宮津市小松 実教院日養 . . . 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
妙立寺 宝徳元年1449 宮津市中野 実数院日養 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
妙音寺 大水2年1522 久美浜町新庄 法光院日真 . 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
妙泉寺 氷禄6年1563 久美浜町芦原 善隆院日尊 . 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
妙谷寺 元亀2年1571 久美浜町新谷 意得院日成 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
妙法寺 元亀3年1572 舞鶴市西町 仏乗院日賢 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
妙久寺 天正2年1574 久美浜町永留 蓬生院日栄 . 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
妙円寺 天正13年1585 宮津市日置 本数院日応 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
10 大乗寺 慶長6年1601 伊根町亀島 本教院日応 . 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
11 妙典寺 元和3年1617 宮津市奥波見 本寿院日順 . 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
12 本妙寺 寛永2年1625 宮津市金屋谷 仏果院口賢 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
13 妙長寺 明暦2年1656 久美浜町平田 成就院日相 . 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
14 自性寺 寛文9年1669 宮津市里波見 自性院日達 . 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末 妙顕寺末
15 本告寺 明治37年1904 舞鶴市余部下 嶺内院日正 . . . . . 妙顕寺末
16 寿量院 宝暦12年1762 久美浜町栄町 寿量院日進 . . . 久美浜妙音寺末 久美浜妙音寺末 久美浜妙音寺末
◆以下、京都六条本圀寺末
17 実相寺 永禄元年1558 加悦町加悦 隆実院日祐 . . 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末
18 経典寺 永禄9年1566 大宮町上常吉 通山院日立 . . 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末
19 妙経寺 永禄9年1566 峰山町吉原 寿量院日顕 . . 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末
20 妙源寺 永禄11年1568 丹後町平 詮饒院日典 . . 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末
21 妙徳寺 天正2年1574 大宮町河辺 妙徳院日詮 . . 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末
22 円教寺 天正3年1575 宮津市日ヶ谷 教学印日乗 . . 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末
23 本昌寺 天正16年1588 峰山町新町 教仙院日随 . . 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末
24 経王寺 慶長7年1602 宮津市金屋谷 善行印日依 本圀寺末 . 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末 妙顕寺(本圀寺)末
25 常教寺 寛文元年1661 峰山町長岡 実教院日恵 . . 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末 本圀寺末
26 浄国寺 慶応15年1610 伊根町本庄 詮饒院日典 . . 宮津教王寺末 宮津教王寺末 宮津教王寺末 宮津教王寺末
27 妙雲院 寛永10年1633 大江町河守 陽行院日実 . . 宮津教王寺末 宮津教王寺末 宮津教王寺末 宮津教王寺末
28 妙国寺 明暦元年1655 伊根町六万部 見立院日安 . . 宮津教王寺末 宮津教王寺末 宮津教王寺末 本圀寺(宮津教王寺)末
29 妙見寺 弘化年中1844- 野田川町三河内 妙信院栄応日感 . . . . . 加悦実相寺末
◆京都内野立本寺末
30 本覚寺 天正4年1576 網野町網野 善行院日永 . 立本寺末 立本寺末 立本寺末 立本寺末 立本寺末
◆京都妙傳寺末
31 日宗寺 明治39 舞鶴市浜 遠明院日通 . . . . 妙伝寺末 妙伝寺末
32 妙法教
昭和50 舞鶴市野原 鷲霊院日顕 . . . . . .

2012/11/07追加:
丹後の諸寺・・・・・・・引用書名に「」印を付す場合は◆サイト:丹後の地名より転載したことを示す。
               寺院名称の前の「
赤の数字」は上に掲載の「丹後日蓮宗寺院一覧」の左端の番号を示す。

舞鶴の諸寺の特性
○「軍港開設と舞鶴の寺社の動向について」多岡佳祐(「舞鶴地域の文化遺産と活用 京都府立大学文化遺産叢書 第11集」東昇編、京都府立大学文学部歴史学科、2016 所収) より
 舞鶴は東西に同程度の規模の市街地を持つが、西舞鶴は西の愛宕山沿いには寺町が形成される近世以来の城下町であるのに対し、東舞鶴は近世以前は日本海に面する単なる地方の寒村に過ぎなかったが、近代以降は日本の近代化というか負の近代化として成立した軍事施設(舞鶴鎮守府)の街として急速に発展を遂げる。つまり歴史的には、東と西の舞鶴は全く違う顔を持つのである。
即ち、東舞鶴においては、明治34年4番目の鎮守府として舞鶴鎮守府が開かれ、これを契機に、東舞鶴(新舞鶴・中舞鶴)は急速に軍港都市として発展(爆発的人口増加)していくのである。
 では、軍港開設と舞鶴の寺社の動向はいかなる関わりがあったのであろうか。
 まづ、軍港開設以前の寺社の分布は如何なるものであったのか。
明治17年の「寺院明細帳」では
舞鶴町域(西舞鶴)には真言宗圓隆寺、曹洞宗桂林寺などの大寺を含む、
真言4ヶ寺、浄土4ヶ寺、真宗2ヶ寺、曹洞宗1ヶ寺、日蓮宗2ヶ寺(妙法寺・本行寺)
の13ヶ寺が存在していた。
一方浜村(東舞鶴)では、
僅かに得月庵(現得月寺・臨済宗)の1ヶ寺を数えるのみであった。(中舞鶴には寺院は存在しない。)
 ところが、軍港開設で新しい都市が誕生したことで、軍港開設以前の状況は大きく変化する。
新しい都市(東舞鶴・中舞鶴)には仏教・教派神道・キリスト教などの各派の教会所が多く設立され、さながら教会所創設のラッシュの様相を見せたのである。その様子は
大正12年の「神佛道教会所現存届 丹後ノ部」には
真宗(本派・大谷派・高田派・木辺派)、曹洞宗、浄土宗(西山禅林寺派)、真言宗(各派聯合・東寺派)、日蓮宗(本門法華宗・顕本法華宗・日蓮宗)のほか、神道(天理教・金光教・黒住教・大社教・最上稲荷教・御嶽教)も入り乱れ、40ヶ教会所の設立(一部は申請)が記載されている。
 その40ヶ教会所の東西舞鶴の内訳は次の通りである。
舞鶴町(西舞鶴)は5ヶ教会所、新舞鶴町(東舞鶴)は11ヶ教会所、中舞鶴町(東舞鶴)は13ヶ教会所、残余はその他の町村であった。つまり、教会所の開創は新しい都市に集中したのである。
 ここで、日蓮宗関係の教会所を抽出しておこう。
  大正11年 本門佛立講舞鶴教会所、舞鶴町、本門法華宗 →現在の本門佛立宗鶴集寺
  大正13年 新舞鶴説教所、新舞鶴町、顕本法華宗
  大正10年 立正教会所、中舞鶴町、日蓮宗 →現在の日蓮宗本告寺
  明治32年 日蓮宗教会所、中舞鶴町、日蓮宗 →四条通八島北入にあったか?
  大正10年 妙勝教会、中筋村(昭和11年舞鶴町に編入)、日蓮宗
  但し、次が漏れているので、追加する。
  明治39年 日宗会堂、新舞鶴町、日蓮宗 →現在の日蓮宗日宗寺
 では、現在の寺社分布はどのような状況なのか。
 (色々な紆余曲折を経て、旧の西舞鶴町、新舞鶴町、中舞鶴町の現存寺院は次のように変化する。)
旧の西舞鶴町
 明治17年の「寺院明細帳」の13ヶ寺は11ヶ寺となる。
 (日蓮系については、妙法寺・本行寺に加え本門佛立宗鶴集寺が増加している。)
旧の新舞鶴町
 明治17年の「寺院明細帳」では僅か「臨済宗得月庵」の1ヶ寺であったが、11ヶ寺が存在する。
 (日蓮系では日蓮宗日宗寺、顕本法華宗法光寺の2ヶ寺となる。)
旧の中舞鶴町
 明治17年の「寺院明細帳」では寺院の存在はなかったが、7ヶ寺が現存する。
 (日蓮系では日蓮宗本告寺が現存する。)
結果、日蓮系の軍港開設以降に開創された寺院の概要は以下の通りである。
本門佛立宗鶴集寺:
 大正11年本門佛立講舞鶴教会所、戦後に現寺号に改称か。
日蓮宗日宗寺:
 明治39年日宗会堂、大正5年元妙傳寺寺中・与謝郡岩滝村恵林院を移転合併、大正6年法鏡山日宗寺と改号
顕本法華宗法光寺:
 明治42年信行会、大正10年統一団新舞鶴支部、大正12年信行寺と改号、大正14年千葉県法光寺を移転し現寺号に改号。
日蓮宗本告寺:
 大正10年立正教会建設完了、昭和29年現寺号に改号。
          ----------------------------------------------------------

東舞鶴顕本法華宗法光寺
○サイト「顕本山法光寺」、「舞鶴市民新聞記事」など より
顕本山と号する。京都妙満寺末。
開基儀俊院日英(大正13年遷化)、開山聖応院日生(本多日生)、第二世常信解院日晟、現住は第三世と思われる。
明治42年儀俊院日英(桑村儀俊)信行会を発足。(法華宗真門流に属する)。
 ※桑村儀俊は西舞鶴丹波町の生まれで、その家は西舞鶴本行寺(法華宗真門流、→下に掲載)の熱心な檀家あり、
 江戸時代から六代続く左官業を営むという。
 ※現在の庫裡が発足時の建物で農家の建物を移転したものという。
日英の次男桑村弥一は17歳で出家し、各地で修行し、ついに東京で本多日生に出会い、弟子となる。
 ※本多日生:
 幼くして得度、美作津山本蓮寺(→美作の諸寺中)で児玉日容のもと、日什教学を学ぶ。
 24歳にして妙満寺派の教学部長に就任するも、日生の宗制改革は保守派の反発をよび、ついには僧籍剥奪となる。
 しかし、日生は統一団を結成し、変わらぬ改革の運動を続ける。やがてこの運動は日生の復権につながり、
 妙満寺派は顕本法華宗を公称し、日生は39歳にして顕本法華宗の管長に就任する。
大正4年、本多日生弟子第二世常信解院日晟(桑村弥一)は、檀信徒全てを改宗させ、統一団新舞鶴支部を設立する。
大正12年名古屋常楽寺の建物の一部を移転し本堂を再建し顕本山信行寺と号す。
大正14年開山本多日生、顕本山法光寺として創立する。
○「軍港開設と舞鶴の寺社の動向について」多岡佳祐 より
明治41年西舞鶴本行寺檀家であった桑村儀俊、新舞鶴(現在の東舞鶴)にて信行会を設立。
その後、儀俊の子弥一が本多日生のもとで修行し、大正10年顕本法華宗に改宗。
大正12年名古屋常楽寺の建物を移し本堂を建立し、新たに顕本山信行寺と改号。
大正14年千葉県で名跡のみ残っていた寺院の名称を移し、法光寺となる。
 ※以上の根拠の一つに大正14年4月14日顕本法華宗管長大僧正本多日生の著した「法光慶讃文」(法光寺蔵)がある。
2017/12/23撮影:
 法光寺全容     法光寺本堂     法光寺庫裡     境内題目碑その1     境内題目日その2
 法光寺永代供養塔     開基儀俊院日英墓碑     第二世常信解院日晟墓碑

31.東舞鶴日宗寺
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、昭和56年 より
法鏡山と号する。京都妙傳寺末。
明治39年京都妙傳寺64世遠明院日通により日宗会堂が創立される。
大正5年中興開基遠鏡院日治が妙傳寺塔頭で与謝郡岩滝村に移転していた恵林院を日宗会堂に移転合併する。
 ※恵林院は慶長2年(1997)乗圓院日将が京都妙傳寺山内に建立という。
 ※大正5年当時新寺は認可されなかったという事情による。
大正6年日宗会堂は法鏡山日宗寺と改号する。
昭和27年橘保育園を開設、昭和29年幼稚園に変更。
○「日蓮宗大図鑑」昭和62年 より
昭和56年本堂と橘幼稚園併設のRC造3階建て建物を新築する。
昭和60年学校法人認可。
2017/12/23撮影:
 日宗寺全容:幼稚園保育園を併設する。
 日宗寺・幼稚園:3階が寺院本堂及び庫裡、2階・1階が幼稚園と思われる。
 日宗寺入口:ここから階段で3階に上がれば、本堂に至る。     日宗寺表示
 日宗寺本堂:相輪を架する屋根下が本堂である。     日宗寺本堂扁額
 日宗寺本堂内部1     日宗寺本堂内部2     日宗寺本堂内部3     日宗寺本堂内部4
 日宗寺本堂相輪1     日宗寺本堂相輪2     日宗寺本堂相輪3

15.中舞鶴本告寺
○本告寺サイト より
当山は大正7年嶺圓院日正が四条妙顕寺の立正教会所として創立。
昭和29年太光山本告寺と寺号を改め現在に至る。​
 開山嶺圓院日正:昭和2年12月17日
 二世本行院日優:昭和44年10月6日
 三世本興院日祐 院首 村尾 観要
 四世本竟院日仁 住職 村尾 顕慈
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、昭和56年 より
太光山と号す。四条妙顕寺末。奠師法縁。
四条妙顕寺54世河合日辰の教化により基礎を作り、明治37年開山嶺圓院日正が妙顕寺立正教会所として創立する。
開基は本行院日優。
昭和23年寺号公称したのち、法華宗真門流に転宗する。
しかし昭和43年2世本行院日優和田日良の時、日蓮宗へ復帰する。
○「軍港開設と舞鶴の寺社の動向について」多岡佳祐 より
各地を廻っていた舟木日圓が明治37年余部町に留まり、かつて龍門寺にあった八大竜王の軸を掲げたことを起源とし、やがて人が集まるようになる。
「開山 舟木日圓上人略縁起」(本告寺蔵)では次のように云う。
 日圓は萩の産にして代々毛利家家臣なり。幼年の頃比叡山にて法術を習い、やがて家督を継ぐ。しかし事件に連座し、放逐、諸国を行商、諸国行脚で修行を積み、この地にとどまり霊験により八大竜王を守護神として祀りたるは明治の初期なり。八大竜王霊験あらたかなる故を以って参詣人門前市をなす賑わいなり、堂宇を整備し「立正会」を設立す、京都四条妙顕寺貫主河合日辰と信交厚く、日辰も再三当山に御親教され当山の基礎を固むることとなる。
日圓昭和3年2月17日遷化し、後住として和田日良を派遣され開基上人となる。云々
○本告寺墓碑 より(2017/12/23撮影)
 本告寺歴代墓碑
 開山妙得尼墓碑: 昭和2年5月11日、初代日優建
 日圓墓碑:髭題目下に日圓と刻む、裏面に昭和4年12月17日建立とある。
 開基日優墓碑:昭和40年9月吉日/初代日優建とある。前面の花立には和田とある。日優とは和田日良であろう。
 本晃院日玄上人墓碑:全面の花立には村尾家とある。昭和53年6月11日遷化/村尾観誠
  ※開山嶺圓院日正、三世日祐、四世日仁の墓碑は未見、但し、本堂裏手に墓地があるようで、
  そこに墓地があるならばそこにある可能性はあり。
2017/12/23撮影:
 現在の公式見解は妙顯寺日辰-開山日正-開基日優-日祐-日仁の流れを寺歴とするも、「開山 舟木日圓上人略縁起」では開山日圓-妙顯寺日辰-和田日良(開基日優)--(日玄)の流れを陳べると思われる。
しかし、何れが正なのかは不明であるが、公式サイトでいう寺歴とは別に、どうやら、明治の初期・修行僧舟木日圓が当地に留まり、八大竜王を祀り、堂宇を整備したことが当寺の草創であろうと思われる。その日圓と妙顯寺日辰とは信交が篤く、日辰は当地をしばしば訪れ、教化に尽すという。
日圓の跡を継いだと思われるのが日正で、明治37年日正の時、立正教会所が創立される。
 (日圓は昭和3年の遷化であり、日正が日圓の跡を継いでいたという推測は誤りであるかもしれない。)
故に日正は開山といわれるが、一方墓碑にある「開山妙得尼」とは全くの不明である。
日圓もしくは日正を継いだのが、本行院日優(日辰の派遣した和田日良)で二世開基となる。
 本告寺入口     本告寺俯瞰     本告寺堂宇     本告寺本堂・書院1     本告寺本堂・書院2
 本告寺庫裡     本告寺庫裡離     本告寺八大竜王社     題目碑:永代供養墓:久遠廟

西舞鶴本門佛立宗鶴集寺
立正山と号する。
○「軍港開設と舞鶴の寺社の動向について」多岡佳祐(「舞鶴地域の文化遺産と活用 京都府立大学文化遺産叢書 第11集」東昇編、京都府立大学文学部歴史学科、2016 所収) より
大正11年本門法華宗、舞鶴町に本門佛立講舞鶴教会所を設立、戦後に現寺号に改称したものと思われる。
2017/12/23撮影:
 西舞鶴鶴集寺1     西舞鶴鶴集寺2

西舞鶴本行寺:法華宗(真門流)
妙光山と号す。京都西陣本隆寺末。
弘治2年(1556)の創建、開山は西陣本隆寺六世日雄、開基檀越は安久兵左衛門(安久右京之進/藤原時親)で、当初は安久氏領地である安久にあった。
慶長6年(1601)田辺城主京極高知により現地に移建、菩提寺となる。
▽《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
本寺京本隆寺妙光山本行寺
日蓮宗 開山日応上人 後奈良天院御宇弘治二年(1556後奈良天皇将軍足利義輝丹後守護一色八代義幸)開発
本尊釈迦 多宝 番神堂あり
▽《丹後国加佐郡旧語集》
日蓮宗 本行寺 妙光山
    京北野五辻恵光山本隆寺末 本隆寺開基日真上人
当時境内六百四拾壱坪 嶋崎替地トモ
人王百五代後奈良院御宇弘治二丙辰年
 開山 日雄上人     本尊 釈迦 多宝
 番神 一間四方  拝殿 一間半四方焼失
 大黒堂 新造
 客殿 八間半ニ五間焼失後七間ニ六間     庫裏 六間ニ四間     門  一間半ニ五尺焼失
当住職伝来書写
後奈良院御宇弘治二丙辰年百七拾九年に及ふ本山第四世日雄上人葦創也
初ハ安久村に有其後京極丹後守高知侯城主之時家臣前波九右衛門英檀たり毎に通ひ遠きを歎て高知侯に願ふて今の所に移す高知侯ヨリ寺領一石壱斗五升寄附三男兵太郎出家せしむ 若年にして卒去法名号ニ究章院殿清池蓮久大重子ト 修理太夫高三侯代亡弟究寛院殿の香花の為田園を増す都て弐石五斗弐升一合也 寛永十二乙亥年ト云々
2017/12/23撮影:
 本行寺寺号碑     本行寺山門     本行寺本堂1     本行寺本堂2     本行寺本堂扁額
 本行寺日蓮上人像     本行寺庫裡     本行寺大黒天堂:大黒殿     本行寺木の又地蔵


7.長久山妙法寺:舞鶴市西町、四条妙顕寺末。
▽《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 本寺京妙顕寺長久山妙法寺は日蓮宗 権大僧都日賢上人 正親町オオギマチ院元亀年中(1570-1573正親町天皇将軍足利義昭丹後守護一色義道)開基 本尊釈迦 番神堂(一日二十四時間中ときをお守りする神さま) 鐘楼堂 二王門あり
▽《丹後国加佐郡旧語集》
 日蓮宗 長久山 妙法寺  京小川ノ北具足山妙顕寺末
妙顕寺開基日像上人於洛陽日蓮宗最初之寺也
後醍醐天皇の勅願所   当時境内千三百坪
人王百六代正親町院御宇元亀三壬申年開山権大僧都日賢上人
本尊 釈迦 多宝
番神堂 五尺ニ三尺、拝殿 一間半四方 此内ニ宮殿有之、客殿 七間ニ六間、方丈 四間四方、庫裏 七間ニ五間半 弐階座敷佳景也、鐘楼 一間半四方、門 三間ニ一間半
 縁記無之当往日達上人伝来之旧書ヲ見聞一書述作有其文ヲ写ス
抑長久山妙法寺ハ宗祖日蓮大士の門流にして花洛妙顕寺の末流也 其草創を尋るに昔慶長年中開山権大僧都仏乗院日賢上人此地に遊歴し庵室を営厚く妙経を敬持し広法要を宣す 時の大守細川兵部大輔藤孝卿或時野遊に出給ひ近習の諸士六七人同装束ニ而召連られ庵室に入来し絵ふ
折節日賢ハロに経を誦し堂前の塵芥を掃除す大主日賢ともしろしめさす問て日住持ハ在寺なりや日賢答て則我なりと大主曰伝聞和僧花(此所不見)化の持者として衆生を訓導すと善哉々々
且独り歌を能すと其実ならば忽に一詠を間んと宣ふ 日賢少も不辞
  世の中は風呂や柄杓にさも似り
            入時斗我物にして
大守曰歌の意味尤面白し然と云へ共住所の体を見るに軒にハ松柏打覆ひ枝を払体も見へす歌の心と甚異なりと難し給ふ 日賢曰此松柏は国守の樹にして枝は扨置木の葉も難取と大守大感悦し給ひ是実の仏子成とて突給ふ所の杖を上此谷西ノ方尾崎より南西の嶺迄東北の尾崎を一谷不残永々是を寄附せん武運長久子孫繁栄の祈祷し給ふと云々 
日賢大守とは聊は不知して嘲嘆して曰貴客の免許更に難受用と大守曰我ハ則兵部大輔なりと宣ふ 日賢驚平伏尊敬す爾来大守信敬他に異也 則今の山林境内是也
依之大守ハ替りましますといへ共任先例御代々御免許の霊場也 
其後寛永年中当山三世妙雲院日実上人住職に当て檀頭上野与惣左衛門入道三清三宝に帰依し為子孫栄世当来作仏堂宇建立の大願を発しき 
然といへども存生に其願満足せす寛永二十一及末期子 後号与惣左衛門 を枕元に招きて我日頃の大願なれハ雖死後長久山の地を開き堂宇等必可造立と云々
仍両息輩ハ父の守遺命正保四丁亥年終に本堂客殿庫裡番神鐘楼惣門二王等迄悉成就す
是則当山建立開基也 今逸見与一左衛門先祖也 夫ヨリ以来享保十八癸丑年迄九拾四年法灯日々耀き信檀月々倍増す成後五百年の時到記那
 上件者当山古記小紙等散在して難見分即文筆
雖不学唯為後代集一紙書写するのミ乞願ハ後世博文達筆の賢師以此辺更ニ改メ写絵へと云々
  享保第十八癸丑暦六月吉辰
       当山 第拾四嗣 法明院 日逢判
    講中
       時ノ檀頭 逸見与一左衛門
             一村 忠兵衛
▽《加佐郡誌》
 日蓮宗に属する京都妙顕寺の末派であって、慶長年中に権大僧都仏乗院日賢上人が此地に遊歴して庵を結び妙経を称したが、時の大守細川幽斎の知る所となって当山を建立せしめたものである。狂歌に巧であった為め、初めて大守が訪ふた時、世の中は風呂や柄杓にさも似たり 入る時ばかり我ものにして と即吟して太く大守を感悦せしめたと云はれている。境内には桜樹が多くて陽春の頃は観るもの足を絶たず非常に賑ふのである。
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、昭和56年 より
寺宝:多くの本尊を有するも、日奥本尊を有する。
奠師法縁。開山(権大僧都日賢)は後に宮津本妙寺を創立。
2010/04/06撮影:
 妙法寺入口題目碑     妙法寺仁王門横題目碑      舞鶴妙法寺仁王門     舞鶴妙法寺本堂
 妙法寺番神堂
2017/12/23撮影:
 妙法寺入口題目碑2     妙法寺仁王門2    妙法寺仁王門横題目碑2:向かって左題目碑の年紀は宝暦2年(1752)
 参道石階途中題目碑     無縁墓塔題目碑その1     無縁墓塔題目碑その2:享保21年(1736)の年紀
 日蓮上人立像     妙法寺本堂2     妙法寺本堂3     妙法寺庫裡
 妙法寺鐘楼:向かって右は無縁墓塔その2     妙法寺番神堂2
 不明堂宇1:正面入口:側面から入れるので、入口は使われず荒れ放題である。
 不明堂宇2:正面:妙見とか鬼子母神とかとも思われるが不明。
 不明堂宇3:庫裡裏側・墓地への入口に建ち、特殊な堂の構造である。
 妙法寺歴代墓碑

26.日蓮宗浄国寺:伊根町本庄、六条本圀寺末。
▽『与謝郡誌』
平野山浄国寺
 本庄村字本庄上、本尊同上、慶長十年四月日典上人開基創建境外仏堂殿村に正徳三年創立薬師堂、畑谷上地に貞享四年創立の七面堂あり。祖師堂もあり。
▽『伊根町誌』
平野山浄国寺(日蓮宗) 本庄上 檀家二二戸(元三三戸)
本尊 一塔両尊四士(首題宝塔法華二仏)
開山 詮饒院日典上人
由緒 建長三年(一二五一)執権北条時頼の時代に、叡山楞厳坊仁義法印が北条氏の保護を受け、地元の?野(くの)・村井・植田などの帰依により本庄上平野の山腹に一宇を建立し、平野山楞厳寺と号され天台宗の寺院としてあった。仁譲はすぐれた学僧であったので、北条氏の崇敬をうけ寺禄を賜はり、国家鎮護のため、北方の守護神とされる毘沙門天像が寄贈され、昆沙門堂が建立されて、薬師仏不動明王を本尊とする楞厳寺と毘沙門堂を合せて一寺とし多聞山浄国寺と称された。多間山と号されたのは毘沙門天が仏法を守護する四天王としては多間天と称されたことによる。この寺院はやがて真言宗の僧が居住して、真言宗の寺院としてあったと推定され、天正五年(一五七七)日蓮宗善行院日依上人によって宗論の末改宗し、慶長七年(一六○二)五月、宮津の地に現在の日蓮宗本城山(元本庄山)経王寺として移転された。
 慶長十年(一六○五)四月日蓮宗詮饒院日典上人が、楞厳寺の跡に寺院を建立し、平野山浄国寺と称し開山とされる。この開山日典上人は宇川妙源寺の開山でもあり、慶長十五年(一六一〇)五月二十八日八八歳で入寂した。
 現在の寺院は慶応三年(一八六七)二十世幽遠院日到上人により、平野の地より移転し建立された。日到上人はその後宮津経王寺の住職となったが、老後ふたたび二二世として当寺の住職となり、明治九年(一八七六)六月二十日遷化した。当山中興の祖とされる。
 現在無住であるが日ヶ谷円教寺中山孝慶師が兼務する。
境外仏堂
 薬師堂−殿村に正徳三年(一七一三)九月八日七世清智院日浄建立。文政七年(一八二四)一九世智静院日珠再建。
  現在毘沙門堂と呼び「コモリ堂」となっている。眼病の平癒が祈願される。
 祖師堂−畑谷にあり、貞享二年(一六八五)二月二十八日、五世即成院日通が創立し、日蓮大菩薩を肥る。
  七面堂には七面天女・妙見大姉・清正公を肥る。
 三十番神−享保十八年(一七三三)正月、五世即成院日通創立
  文化十三年(一八一六)四月八日、一九世智静院日珠再建、祭日四月十五日縁日毎月八日
毘沙門堂の出入問題
 文久二年(一八六二)毘沙門堂の管理権について、浄国寺と護聖寺の間に大きな訴訟事件があった。
 当時の住職は宮津経王寺から入寺した日到であり、この論争は長くつづき、明治二年(一八六九)十二月、久美浜県の時に判決があり結着をみている。…
・日蓮宗妙国寺
天和二年(一六八二)の丹後国寺社帳に名がみえる。同帳によれば、六万部村に曹洞宗泊隣寺の所在が記されるが、現在はない。
▽『与謝郡誌』
見海山妙国寺
 朝妻村字六万部、本尊同上、もとカンタベラにありて卒庄宇良神社別当来迎寺末なりしも明暦元年改宗日安上人住す。安永五年十二月二十日大雪のおめに壌倒し翌六年今の地に移す。
『伊根町誌』
見海山妙国寺(日蓮宗) 六万部 檀家四○戸
本尊 首題宝塔法華二仏(一塔両尊合掌印)  開山 見立院日安上人  開基 上山五良兵衛
由緒 元真言宗来迎寺の末寺として「カンタベラ」にあった。明暦元年(一六五五)上山五良兵衛が法華経に帰依し、堂宇を建立し、同年二月十日、日安上人を請じて開山とし日蓮宗に改宗した。
 安永五年(一七七六)十二月二十日大雪のため堂宇が倒壊したので、翌年六月二十二日現在地に移築した。境内二四三坪・桁八間・梁五間と記録される。その後たびたび火災にあい、明治三十九年(一九○六)には全焼し、翌年民家の古材を使用し再建した。
 この寺院は背後に城山の山岳を背い、眼下に泊海岸の岩にくだける波涛を見て、景観がすこぷるよく見海山と号され、風光明美な環境に位置している。境内には宝暦七年(一七五七)五月建立の「南無妙法蓮華経」の法塔と、明和三年(一七六六)造立の「題目一万部供養塔」があり、願主は上山五郎兵衛と五郎右衛門である。…

10.日蓮宗妙典山大乗寺:伊根町亀島、四条妙顕寺末。
▽《与謝郡誌》
妙典山大乗寺
 伊根村字高梨、本尊同上、慶長六年九月妙圓寺開山日応上人開基創立安永四年焼失日秀再興明治十四年四月寺格昇上檀徒九十八戸。
▽『伊根町誌』
妙典山大乗寺(日蓮宗) 亀島小字高梨 檀家一○三戸
本尊 一塔西尊四士「祖像」読経像
 南無妙法蓮華経宝塔・釈迦牟尼仏・多宝如来・上行菩薩・無辺行菩薩・浄行苦薩・安立行菩薩
開山 本教院日応上人
由緒 元真言宗の寺院であったが、日応上人が若狭国より巡錫し、当地方に法陣をしいて説法をなし、住持某阿闍梨を論破し、法華宗に転宗せしめたと伝えている。日応上人は宮津市日置顕立山妙円寺を開き、慶長6年(1601)九月、当寺院の開山とされるが、実質的には二世本寺院日順上人(宮津市妙典寺開山)により日蓮宗寺院として確立する。
その後安永4年(1775)三月一日夜お経会のあと火災がおこり、本堂、庫裏その他諸仏像、諸道具すべて焼失した。
現在の本堂は安永4年(1775)五月再建が図られ、その折の勧化帳が昭和56年(1981)ふすまの裏張りより発見された。…

22.日蓮宗日渓山円教寺:宮津市日ヶ谷
▽《与謝郡誌》
日溪山圓教寺
 日ヶ谷村字圓山、本尊同上、開山日乗上人もと密宗にて叡嶽乗養坊の僧にて當村に来り威光寺に住す。偶ま京洛五條橋上にて本国寺日助上人と法論し負けて法華宗に改め威光寺に帰る能はずして墓堂に小庵を結び托鉢を業として遂に圓教寺を栗尾に建つ。享保三年祝融に罹り堂坂に移転再興せしも境地動揺するの故を以て天保十年今の圓山に移転改築せり。

11.日蓮宗大乗山妙典寺:宮津市奥波見、四条妙顕寺末。
▽《与謝郡誌》
大乗山妙典寺
 養老村字奥波見、本尊同上、元和元年三月品川久助創建に係り日置妙圓寺二世日順上人開山、境外新宮に妙見堂、梅ヶ枝に鬼子母神、針谷に七面堂あり。

14.日蓮宗見崎山自性寺:宮津市里波見、四条妙顕寺末。
▽《与謝郡誌》
見崎山自性寺
 養老村字里波見、本尊同上、寛文九年七月品川重右衛門建立妙圓寺三世日達上人を開山とす。

1.妙照寺:宮津市金屋谷、四条妙顕寺末。
▽《丹哥府志》
【功徳山妙照寺】(日蓮宗、開山日養、大頂寺の次)。付録(番神堂、七面堂、祖師堂、千仏堂)。
▽《与謝郡誌》
功徳山妙照寺
 宮津町字金屋谷にあり。本尊法華宝塔釈迦多宝両佛前立二菩薩二明王四隅四天王、文安元年府中城主一色義嗣創立開山実教院日養上人、永正四年兵火に罹り五年現地に移る。宮津城下各宗を通じての古刹なり。寺宝は開祖一遍首題、祐慶作二尺五寸七面天座像、日朗作一尺入寸宗祖坐像その他三四点あり。
▽《丹後宮津志》
功徳山妙照寺
 宮津町字金屋谷にあり、本尊法華宝塔釈迦多宝十形像、寺傳文安甲子九月日養上人開基永正四年の兵火に罹り翌近年再興せしといふ。城主阿部封馬守日蓮宗に帰依し重臣内藤景貞また當寺に葬る。…

12.本妙寺:宮津市金屋谷、四条妙顕寺末。
▽《丹哥府志》
 【長久山本妙寺】(日蓮宗、開山権大僧都日賢、金屋谷)京極高広の室は池田輝政の女なり、万治二己亥年六月四日卒す、法名を寿光院殿昌栄日慈大姉といふ。今境内に其石碑あり。 付録(番神堂、大黒堂)
▽《与謝郡誌》
長久山本妙寺
 宮津町字金屋谷にあり。本尊法華題目宝塔釈迦多宝二仏、脇侍文殊、普賢両菩薩、不動、愛染両明王、四隅四天王開基は京極丹後守高広の北堂寿光院なり。寿光院は池田輝政の女にて夙に此の宗に帰依し寛永二年四月養父二代将軍台徳院秀忠菩提の爲めに當山を起し田辺妙法寺住持大僧都佛乗院日賢上人を請じて開山とし其資湛応院日遥上人住持す。京極家改易の後も累代の城主参拝帰依し嘉永年中日要上人本堂を再建す。寺宝三菩薩あり。境内妙見堂賽者多し。
▽《丹後宮津志》
長久山本妙寺
 本妙寺 宮津町字金屋谷にあり、本尊妙号宝塔釈迦多宝二仏、四天形、寛永二年國主高広の室寿光院殿の帰依により創立せしものにして寺領三十石を附せしといふ京極家断絶後寺領減ぜしと雖も猶城主菩提寺同額を保持せり。…

24.経王寺:宮津市金屋谷、六条本圀寺末。
▽《丹哥府志》
 【本城山経王寺】(日蓮宗、開山権大僧都日祐、本妙寺の次)。了知院殿妙尭日清尊祇は京極高広の女なり、慶安四年辛卯年正月十九日卒す、今境内に其石碑あり。 付録(番神堂、鬼子母神)。
▽《与謝郡誌》
本城山経王寺
 宮津町字金屋谷にあり。本尊首題宝塔法華二仏、慶長七年五月京極高広開剏大僧都日依上人開山、もと本庄村真言宗楞厳寺を宗論の末改宗せしものなるが、時の藩主京極高広今の地に移し、其女了智院妙尭日清の香華所となす。現今の末寺本庄の浄国寺は當山前身楞厳寺の末寺多聞寺なりと。猶ほ加佐郡河守町妙雲寺は了智院の寄附によりて開基され浅妻の妙国寺は宗論によりて改宗せしものといふ。寺宝として藩主寄附の金屍風一双、茶器、楚鐘、本荘公威得の秘仏摩利支天、十五世日慶上人本山二十六世日達大僧都より授かりし紺紙金泥法華軽等を蔵す。弘化元年泰寿日親上人再建本堂天井雲龍の絵は時の書家屏山氏の筆に成り美事なりと。
▽《丹後宮津志》
本城山経王寺
 経王寺 前項本妙寺の南に隣る、本尊宝塔釈迦多宝、関山日依上人慶長二年与謝郡本庄村眞言宗楞厳寺より分れ改宗して日蓮宗となりしといひ山號爾来本庄山と云ひしも藩主代りて本庄家の来るに及び藩主に憚りて本城山と改称せしといふ。…
 なお境内の5メートル余の石柱「無縁供養塔」は天保飢饉の供養塔で、「荒歳死亡無縁群霊 天保八年竜集丁酉冬十月 宮津宗門中」と刻している。
○もとは伊根町本庄にあった真言宗楞厳寺であったが、慶長7年(1602)日依により改宗、宮津藩主京極氏の帰依を受け、宮津金屋谷に移転し、本城山経王寺と改号する。末寺には本庄浄国寺(改宗前の旧地)、河守妙雲寺、伊根妙国寺を有する。

3.日蓮宗栄昌山妙立寺:宮津市中野、四条妙顕寺末。
国重文□(髟の下に休)漆厨子、
妙立寺は、この地にあった真言宗与内(よない)寺が身延山より下った日養上人によって日蓮宗となったものと伝える。日養は寛正元年(1460)ごろ但馬で没したという。
 境内の案内板
栄高山 妙立寺縁起
 當山の創立の最初は延暦元年の頃泰澄法印弘法の為に當国に下降し大同三年(八〇八年)弘法大師が唐より帰国し天橋の道場を法華堂と称し(天橋山萬福寺)建立された。
宝徳元年(1449)四月八日実教院日養上人が甲州身延山より當地に布教され改宗して栄昌山妙隆寺と号し丹後における日蓮宗最初の道場となった。後寛永十年の項本山替えあり身延山久遠寺から京都の妙顕寺の末寺となり寺名も「隆」を改め橋立の「立」を取り妙立寺と称するようになった。
現在の本堂は天保二年(一八三一年)の建立である。
寺宝:
御祖師像(木造) 中正院日護上人作(準宗宝)
山陰最大鬼子母神像 如水作(1847年造立)
見萬福寺の木造?漆厨子:旧国宝国指定重要文化財
南北朝時代永徳三阜(1383)以前の作丹後の当時の歴史を知るうえで重要な墨書あり厨子自体も工芸的・美術的にもその頃の粋を尽くしたものとして有名

2.日蓮宗妙法山正音寺:宮津市小松、四条妙顕寺末。
▽《与謝郡誌》
妙法山正音寺
 府中村字小松、本尊同上、長禄丁卯二月日養上人開基創立永正四年成相識阿弥陀峯陣の兵焚に罹り爾来殆んご廃滅せしも小松家の帰依により慶長五年再興。

27.日蓮宗妙雲寺:大江町河守、六条本圀寺末。
▽『大江町誌』
妙雲寺
 寺伝 寛永十年二月 宮津城主丹後守京極高広の息女了智院殿の発願により建立、陽行院日実上人を開基とす。
 沿革 大正七年河守下町の大火により類焼し、妙見堂(寛文三年建築)と鐘楼(寛保三年建築)を残し本堂庫裡等全焼。直ちに民家を購入移築して庫裡とし、昭和十五年本堂を再建。同五十二年書院、同五十五年山門を新築して面目を一新した。
 寺宝 本尊一塔両尊四士。寛文三年京都大本山本圀寺第十世日静上人開眼の銘あり。
四菩薩(正徳四年作) 四天王(享保二年作) 七面大明神(宝暦十二年作) 妙見大士(安政二年作)いずれも木造である。

21.日蓮宗本圀寺末宝林山妙徳寺:大宮町河辺、六条本圀寺末。
▽『大宮町誌』
宝林山妙徳寺 日蓮宗(身延久遠寺)  河辺小字三郎右衛門
 本尊 久遠の釈迦牟尼仏
 庵寺妙徳庵と称して創始されたと伝えられているが年代等不詳である。
 天正二年(一五七四)二月日詮上人が日蓮宗妙徳寺として開基する。一二世日巡師が福知山常照寺より来住、八五俵の田地を寄進するなど教権の確立と教化に努めたので、当山の中興の祖と称される。
 二二世日孝師の天保一四年(一八四三)より本堂の再建に着手し、二四世日真師の文久二作(一八六二)一一月二八日に落成、本山本圀寺四○世日妙上人より曼荼羅を授与された。
 昭和二年三月七日の丹後地震で本堂・庫裡が倒壊したので、翌三年同村滝野徳右衛門の浄財を基にし、現本堂・庫裡を再建した。現住職の同四九年に位牌堂の新築と本堂の大改修をする。
 後陽成天皇の筆と伝えられる「妙法蓮華経」の書がある。
 現住職 上田要祥
 〔境内仏堂〕
 番神堂
 日蓮宗守護神の三十番神の外、堂内に加藤清正・鬼子母神・妙見大士・七面天女・大黒天を祭る。
 昭和八年三月再建され、清正公祭として、七月二四日(現在は七月二○日過ぎの日曜日)の夜祭はにぎやかである。

18.日蓮宗大乗山経典寺:大宮町上常吉、六条本圀寺末。
▽『大宮町誌』
大乗山経典寺 日蓮宗(身延久遠寺) 上常吉小字本地
 本尊 久遠の釈迦牟尼仏
 当寺の「経典寺略縁起」によると、佐渡の日立上人は弟子日観を召連れて諸国を巡錫し、永禄七年(一五六四)三月に当地にとどまって法華経を弘通、同九年(一五六六)に名賀連尼(ながれお)の麓に当院を建立し、当山の開祖とする。
 城主進藤(近藤)山城守は深く帰依していたといわれ、二代日観師の天正のころより細川藤孝の丹後一色氏討滅の戦乱によって、城主進藤氏も滅亡し(慶畏五年(一六○○))、村民困窮して在宅かなわず、日観師も当山を退いて宮津経王寺日依上人のもとに一時身を寄せていたが、帰村してみると寺の大半は焼失し、村もまた、焼失して離散していた。日観師は復興に努め当山村中鎮護のため七面大明神を祭り、むかしの繁栄をとりもどしたという。この時経王寺末となった。
 宝暦二年(一七五二)九月に経王寺末を離脱して京都本圀寺末となった。宝永六年(一七○九)・文化九年(一八一二)三月一五日・明治二五年(一八九二)三月の三回、焚鐘を鋳造して寺門の興隆をはかった。
 明治三九年(一九○六)九月六日、火災により本堂・庫裡を失ったが、同年十一月には庫裡を再建、同四五年一○月本堂を再建した。一二世日応師の文政九年(一八二六)二月一日に再建の山門は火災を免れた。
 昭和二年三月七日丹後地震に本堂・庫裡共に倒壊し、同六年に再建し現在にいたる。
 現住職 貫名英功
 貝谷の不勤尊は当寺の別院であり、七月二八日が祭である。貝谷の不動堂の奥にあった鬼子母神は当寺の堂内に安置され、祭日は四月一八日である。なお、車谷白滝不動尊の祭は九月一日である。
 境内堂として、番神堂・七面堂があったが、いまは三十番神・七面大明神を堂内に安置している。なお小字上司「山霊大善神」の碑の前で、九月九日に当寺により山の神を祀る。
▽『中郡誌槁』
(丹哥府志)下常吉村大乗山経典寺(日蓮宗上常吉村の誤)
(略縁起(宝暦二年当寺日賢著))開祖迪山院日立佐渡の人永禄七年此所に来り領主進藤備前守の若宮の病気平癒を祈りて効顕あり其帰依によりて名賀連ナガレ尾の峯に当寺を建立す時に永禄九年なり其後日立の弟子了玄日観継ぎ一時細川家の丹後征服の乱に会て退転したるも更に興復したるなりと云又本覚山正法寺と申しける寺あり(此寺地車谷の奥にあり正法寺田堂屋敷とて今は田畑の名とするなり…)正法寺実恵法印は即座に真言を捨て尊者(経典寺開祖日立をいふ)の御弟子と成り福寿坊寺音と名け立師に随身給仕し給ける(此僧後に与謝郡温江村に一寺を建立し福寿寺と号し是に閑居す此寺則今当寺の末寺なり…)大河内滝ケ谷の不動尊は正法寺への奥の院なり今当山の別院となる也
亦外に岳林坊得円法印と申ける修験者あり…又岳林坊は執権謗実の心解けやらず立師(経典寺開祖)の折を悪み十五檀の法を修し呪咀七日にして檀上に飢死せられけるとぞ申伝へける(此法印の墓所当山境内にあり亦広谷口にもあり何れも山伏墓と云実所未詳…)又車谷白滝の不動は得円法印荒行の旧跡なり今当山の別院と成るなり
○創建:
佐渡の通山院日立が弟子了玄院日観(経典寺2世)を伴い、常吉の地を遊化した折、領主新堂備前守直盈の帰依を受け、城内に創建されると云う。

17.日蓮宗功徳山実相寺:加悦町加悦、六条本圀寺末。
▽『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 一 加悦庄 百六十三町八段二百四十八歩  実相院殿
▽《与謝郡誌》
功徳山実相寺
 加悦町字加悦にあり本尊同上、永禄三年正月創立に係り開山は隆実院日?上人なり。爾後守玄院日長上人より大光山末となり永く聖跡に列す。寺寶佐渡百幅の一たる宗祖の本尊を蔵す。境外仏堂明石の倉ヶ崎及び瀧の大和田に妙見堂あり。
▽『加悦町誌』
功徳山実相寺  加悦小字中市
 竹野郡宇川の城主井上石見守正利が落城後この地へ来て、その三男隆実院日祐上人が永禄三年(1560)正月六日、加悦奥法光寺に当山の基を開き、のちこれを現在地に移し、功徳庵と称したが、その後実相寺と改めたという。正利は一色氏の重臣、小倉豊前守の家臣で、元亀元年(1570)十月六日没したという。また尾上の城主であった新井氏代々の菩提寺でもある。
 日蓮宗で、元京都本圀寺の末寺であり、本尊は妙法蓮華経宝塔、多宝如来、釈迦牟尼仏の三尊。寺宝としては、日蓮上人筆一軸、加藤清正が使っていたといわれる軍配と軍扇、兜の中に入れる軍鈴、有吉将監の水盤(何れも銘が入っている)がある。境内に妙見堂、金色堂、恵比須祠がある。本堂は一七六四年(宝暦十四年)に再建し、寛政4年(1732)に改修したものである。
境外仏堂として、後野に不染庵、イナナキに祖師堂(通称七面堂)、加悦奥の清水谷に鬼子母天女堂、丸山に妙見堂、中屋に七面庵、駒田に鬼子母神堂、滝の大田和と中岡に妙見堂、金屋の桜内に妙見堂と鬼子母神堂、筆谷に毘沙門堂、明石に妙元庵、三河内に妙見庵、下山田に妙伝庵、四辻に妙見堂などがある。
(註)金色堂…今から一三〇余年前、実相寺一八世の宣示院日要上人の弟子英智院日宣上人が、全国津々浦々を巡錫され、常陸の国へ回られた時、養蚕織機の祖神である金色大明神が祭られていることを知り、上人の生国丹後もまた、養蚕と織物を生業としているところから実相寺へ勧請されたものである。
檀家は約四〇〇戸
勅賜大教正獅音院日健上人
 北風日健は寛政3年(1791)加悦奥、北風吉左ヱ門の二男として生まれ、幼名盛衛門、七才にして加悦実相寺の仏門に入り、熊野郡妙音寺にて得度、長じて光運と号す。その後、江戸四谷宗延寺、飯高檀林に学び福知山常照寺の法嗣となり、興津妙覚寺の住職を経て明治四年十月、日蓮宗総本山身延山久遠寺第七十二世法主となる。明治五年三月上人号の宣旨を賜わり、同年六月御前法話し、大教正号(大僧正)獅音院号を賜わる。明治七年四月西谷本種坊に隠退閑居、同年同所において寂す。八十四才
○開創:
永禄元年(1558)竹野宇川平の城主井上石見守正利の三男日祐の開創と伝える。 

30.日蓮宗網野本覚寺
▽「丹後国竹野郡誌」
 (同寺調文書)寶聚山本覺寺と稱す天正元年頃の創建といへとも詳ならす開山は善性院日永大和尚にして、開基は河田金右衛門なり、
元眞言宗の一草庵にして發願者河田金右衛門但馬國豊岡立正寺より善性院日永大和尚を屈請して聞法受戒改めて寳聚山本覚寺と称す爾來三百四十歳住職の変代すること廿五代檀家二百三十餘戸信徒一千五百餘名なり
 (宇川上山寺年代目録)
安永四年鐘鋳
 (河田家調)開基河田金右葡門は天正年中和泉國堺より當地に移り天正九年逝去以来一族繁榮し第十代の孫に武藏國池上本門寺に座せし日因大和尚を出す現代森藏氏は十二代なり
▽「網野町誌」
宝聚山本覚寺 日蓮宗 網野
本尊 一塔両尊四士 −法華経宝塔釈迦牟尼仏多宝如来−
  (中略)
本覚寺は出石本高寺九世日真の弟子善性院日永上人の開山である。和泉国堺の河田金石衛門は安土法難ののち迫害を遁れ祖像(仏心院日?の開眼の銘あり)と氏神の住吉明神を捧持して郷村に隠れ、その後当山(真言宗の小庵)に入り、二か年にして寂した(天正9年9月18日)。翌10年6月、織田信長が京都・本能寺において明智光秀に討たれ、ようやく仏法は法難に終わりを告げた。天正15年(1587)、豊臣秀吉は信長の日蓮宗に対する非礼を詫び、宗旨弘教の公許を出したので、故・金右衛門の妻は日永上人を請じて開山としたのである。上人の在山は一六年間で、その後上人は但馬豊岡の立正寺の開山となった。したがって当寺には日永師の墓碑はない。
当山は、はじめ本妙寺と称していたが、寛文2年(1662)六代一樹院日通の時に本覚寺と改めた。
なお本山である京都・立本寺審師の許可本尊と、現住(当時)の芳師の本尊の送り状が現存し、送り状には次のように記載されている。
開山の日永上人は在山十六年にして豊岡へ移り立正寺の開山となる(寛永十五戊寅年十二月十日寂)
 河田家調−武蔵国池上本門寺の日因上人は金右衛門十代の孫である。
「芋川・上山寺年代目録」−安永四年鐘鋳
旧『網野町史草稿』−当寺境内には元和元年(1615)、元禄4年(1694)の逆修塔がある。
昭和2年の奥丹後震災が同寺に与えた被害は、(旧)網野町が作成した調査表に次のように記載されている。
 山門、本堂、庫裡、位牌堂、座敷三棟 其ノ他建物五棟 全壊
本覚寺は昭和五、六年頃に再建され、(後略)

丹波の諸寺

丹波知見正法寺(知見本像寺/顕本法華宗本妙寺)
京都府南丹市美山町知見小字家ノ上25
知見山と号する。四条妙顕寺末。
もと聖宝創立の天台宗寺院。永仁元年(1293)住僧の多宝院日大良仁が日像上人と法論のすえ、一山を挙げて改宗し、山寺号を長栄山本像寺と改める。昭和35年顕本法華宗本妙寺の檀徒を吸収した際、現在の山寺号に改称する。
2016/10/11追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
もと天台宗にして聖寶<延喜9年(909)寂>の創立である。住僧多宝院日大良仁の時、開山日像と法論の末、永仁元年改宗すると伝える。
長栄山本像寺と号するも、昭和35年顕本法華宗本妙寺の檀徒を吸収した際、現在の山寺号に改称する。

丹波知井心蓮寺
京都府南丹市美山町小字横坂14
2016/10/11追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
具足山と号する。四条妙顕寺末、生師法縁。
永仁2年(1294)日像が北国弘通の砌、若狭から八ヶ峯を越え、当地の知井を訪れた際に創立。 

丹波綾部妙泉寺:綾部市里町清水4
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、昭和56年 より
六条本圀寺末。
「大観」には寛永8年(1631)泉住院日雲の開山という。
○現地説明板 より
山 号 清水山
創建年 寛正5年(1464)3月
開 基 泉住院日雲上人(日蓮聖人の孫弟子九老僧日範上人の直弟子)
沿 革 創建年および開基は上記のとおり。
文化8年(1811)火災に遭い、すべてを消失した。再建にあたり、河川の氾濫による水害を回避するため、境内の裏山を造成し、そこを新たな境内地として現在の堂宇を建立する。
○「吉見村誌」(Webページ「綾部市里町」から転載)
清水山 妙泉寺
日蓮宗木圀寺末に属し、大字里小字清水に在って寛永八年僧日雲が創建する。その後堂字は破損し一時頽廃していたが文化七年再建されたもので、釈迦牟尼仏多宝如来を本尊として安置す。
○「吉見村誌その2」(Webページ「綾部市里町」から転載)
妙泉寺
九老僧大善阿闍梨日範上人の直弟子、泉往院日雲上人が、寛正5年3月(1464)特に禅宗の盛んな当地何鹿郡に、始めて法華弘道の根本道場として建立した。爾来約520年、その間、文化7年(廿一世泰応院日感上人代)火災により全く灰燼となる。更に、度重なる、八田川等の氾濫により水害を被る地形故、後禍を慮い、文化8年6月、境内の裏山を造成して、現今の当寺を建立した。現綾部市では、法華経弘通の道場として最古の歴史を持つ寺である。
2018/01/07撮影:
 参道入口題目碑:日蓮650遠忌、平成19年遠忌宝塔を移転改修という、側面に大正5年の年紀
 妙泉寺参道碑     妙泉寺入口題目碑:六基の古い題目碑が置かれる。
 妙泉寺入口題目碑2:六基の内の向かって左の三基である。題目は不明瞭であり、一部は欠けているが、題目を刻むと推定。
 妙泉寺山容1     妙泉寺山容2     寺号碑・石階・本堂
 日蓮上人立像     境内題目碑1:日蓮上人500遠忌     境内題目碑2:日蓮上人700遠忌
 妙泉寺本堂     妙泉寺本堂扁額     妙泉寺玄関・庫裡     妙泉寺庫裡別棟
 開基日雲墓碑     歴代墓碑及び歴代墓碑群     歴代上人墓誌

丹波綾部了圓寺:綾部市西町2−50
顕本法華宗妙満寺末。
「丹波志」(Webページ「綾部市西町」より転載)
本光山と号す。顕本法華宗。円学院日真聖人開基、高一石除也
○「綾部町誌」
顕本法華宗妙満寺派、本光山と号す。
記録によれば綾部の紅屋柏原九郎兵衛、弟上杉の治良兵衛の両人が大島(中筋地区)にあった法華寺が廃寺の如くなっていたのを藩主隆李に請ひ、承応2年(1653)9月綾部に移し、深く帰依していた船井郡大乗寺の日覚院日真上人を中興開山として建立したものである。寛文12年藩主より屋敷内に於で高一石の寄進を受けた。その後文化2年の綾部の大火に全焼し、旧記を悉く焼失した。現在の建物は文化10年頃再建されたものである。
 ※開基・中興は「円学院日真」であるのか「日覚院日真」であるのかは、上記の資料を転載しているため、定かではない。
2018/01/07撮影:
 了圓寺門前題目碑     了圓寺山門     了圓寺山内     日蓮上人立像
 了圓寺本堂1     了圓寺本堂2     了圓寺本堂扁額     了圓寺玄関     了圓寺庫裡
 了圓寺百壽庵     了圓寺鐘楼      了圓寺土蔵
 境内題目碑群:向かって右から手前に題目碑その1(正面:髭題目、基壇に三界■霊)、題目碑その2(正面:髭題目)、題目碑その3(正面:髭題目/日蓮大聖人)、題目碑その4(正面:髭題目、日真上人)、題目碑その5(正面:髭題目/三界、側面に慶応二丙寅年<1866>)、題目碑その6(詳細不明)の六基が並ぶ。

丹波綾部清現寺:綾部市神宮寺町東谷9
本門佛立宗、その他の情報皆無。
2018/01/07撮影:
 清現寺入口:階段を上がれば、正面が本堂、本堂背後に庫裡、右に八角堂を配する。
 清現寺本堂     清現寺八角堂:堂の名称不明、正面に「同帰常寂」の扁額を掲げる。
 八角堂内部     境内題目碑

丹波綾部妙法寺:綾部市神宮寺町蟹田21−1
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、昭和56年 より
立正山と号する。
昭和23年創立。開山妙法院日道。
○「綾部町誌」
妙法寺(神宮寺):
立正山と号す。昭和3年3月日蓮宗妙見教会所として発足、昭和23年11月現在の地に移転し、妙法寺を称する。
2018/01/07撮影:
 妙法寺入口     妙法寺本堂1     妙法寺本堂2
 妙法寺本堂・庫裡     妙法寺庫裡1     妙法寺庫裡2     日蓮上人像
 境内題目碑:昭和36年年紀
 歴代上人之碑:正善院日醒法師(岸本正善、昭和14年寂)を一世とする。
常行院日道(昭和57年寂)を二世、上記では妙法院日道を開山という。院号が相違するが日道とは開山上人であろう。
一乗院日信(昭和60年寂)寺基確立の祖とする。善行寺四十世加歴。
要光院日玄、善行寺四十一世。善行寺とは福知山善行寺であろう。

丹波福知山常照寺:福知山市菱屋町68
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、昭和56年 より
宝珠山と号す。六条本圀寺末。寺は奠師法縁、住職は親師法縁。
元は真言宗宝珠山金胎寺と号し荒河山の地にあり。
延慶3年(1310)九老僧大善院日範が山陰弘教の時、金胎寺々主慈圓と法論の末、悔悟得道させ改宗して宝珠山常照寺と号する。
開山は日範、開基檀越は小室平左衛門尉重信。
享保5年(1720)城主より城下に現寺地を賜り移転再興する。
宝暦8年(1758)堂宇を焼失、文政4年(1821)現本堂を再建。
昭和48年日蓮宗宗門史跡に指定。
○「天田郡志資料」(「菱屋」のページ中) より
宝珠山 常照寺
開山 日範(日朗弟子) 和久市 小室平左ヱ門(現源太郎氏の祖)
中興 日教上人
創建 暦応三年(南朝は興国元年)<1340>四月、  再建、慶安三(1650)年四月、文政四年(1821)三月再建。
当山日蓮大菩薩の嫡孫九老僧大善阿闍梨日範上人の草創にて山陰道八ヶ国法華宗最初の道場たり。開山日範上人は元真言の高僧なりしが一日日朗上人に謁して論議し遂に改宗す、斯くて弘法のため当地に来る、和久川の辺にて憩ふ、時に高らかに題目を唱ふる声を聞き近くに嬉戯せる童子に尋ぬるに、童子は此所に小室平左ヱ門尉重信といふ人ありて常に師の唱へらるゝ如く題目を唱ふと、日範上人直ちに其童子に誘はれて重信の宅に到る、小室氏、師の法華宗にして租師、日蓮上人なるを聞き忽ち合掌再拝して曰く吾亦日蓮大上人の教化を蒙り日夜怠りなく信仰し題目修業をなせり、吾は故ありて此所に来り住めり、願くは節暫く留って里人に説法したきへと請へるに男女雲集せり、此時和久の庄に宝珠山蓮華院金胎寺といふ真言宗の寺ありき、上人一宿を乞ひ寺主照圓と問答論議せしに、高祖の嫡孫なるを知り愕然として遂に開悟得道して寺を授け受法改宗して宝珠山常照寺と號す。
(以下略)
2018/01/07撮影:
 常照寺門前     常照寺門前題目碑     常照寺山門     常照寺鐘楼     常照寺日蓮上人立像
 常照寺本堂1     常照寺本堂2     常照寺本堂3     常照寺本堂4
 常照寺妙見大菩薩1     常照寺妙見大菩薩2     常照寺妙見大菩薩3
 常照寺玄関・庫裡・客殿1    常照寺玄関・庫裡・客殿2    常照寺玄関・庫裡・客殿3    常照寺玄関・庫裡・客殿4
 常照寺客殿別棟

参考:大本開祖・出口なお生誕地
 ※日蓮宗とは直接の関係はない。
 ※常照寺から無貪寺に至る途中に本生誕地はある。
天保7年(1837)大本開祖出口なおは大工の桐村五郎三郎の長女として現在の福知山市上紺屋で生誕する。綾部の出口家の養女になる19歳までここで過ごしたという。
 生誕地は、約450平方mあり、大本が土地と建物を取得する。大正期に別の人物に建て替えられた建物は、老朽化のため取り壊すも、出口開祖の産湯に使われた井戸は唯一保存するという。井戸は今も水が出るといい、大本は井戸を「宝物」とし、屋根や顕彰碑、案内板などの設置を検討しているという。
 大本は国家神道(天皇教)の一派(同じ穴の貉)ではあるが、天皇教教義と対立し、邪義とされ、大正10年に第1次弾圧(不敬罪と新聞紙法違反)、昭和10年に第2次弾圧(不敬罪、治安維持法違反)が行われ、過酷な拷問、徹底した施設の破壊、人間性の否定がなされる。そのため、開教の地の綾部や亀岡の神殿も勿論破壊され、開祖にちなむ遺物は少ないという。
 大本では「仰々しい建物を建てるのではなく、開祖の素朴な人柄がしのばれる形で整備したい。井戸を永久保存していき、生誕地を知っていただければ」という。
2018/01/07撮影:
 出口なお生家跡:中央左に写るのが「出口なお」生家の井戸で、この井戸のみ保存される予定という。

丹波福知山無貪寺:福知山市内記56−1
本門佛立宗、佛立山と号する。
その他の情報は皆無。
2018/01/07撮影:
 無貪寺入口:本門法華宗/本門佛立講とある。
明治31年八品派は本門法華宗と改称する。
昭和16年本門法華宗(八品派)と本妙法華宗(真門流)と法華宗(陣門流)が合同し、法華宗と公称する。
昭和21年本門佛立講、法華宗から離脱、本門佛立宗を公称する。
以上から、入口門柱の刻銘より、門柱(寺院も)は明治31年から昭和21年の間に建立されたものと推定される。
 無貪寺本堂・庫裡     無貪寺本堂1     無貪寺本堂2     無貪寺庫裡     無貪寺納骨堂:推定
 無貪寺墓碑:境内地が閉鎖の為、近寄れず、未確認。おそらく開山上人などの墓碑であろう。

丹波福知山善行寺
京都府福知山市天田北岡155
妙遠山と号する。内野立本寺末、生師(親師)法縁。
2016/10/11追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
もと真言宗寺院。建武2年(1335)時の住僧大円坊が日像上人と法論の末、改宗して寺号を現在の山寺号に改め、日像を開山にあおぎ、みずからは大乗院日円と改名し、2世となる。
 ※日像との法論は建武2年であるから、日像は妙顕寺住居の頃であり、法論は京都で行われたものであろう。
天正中期(1382頃)京都立本寺19世報恩院日遥、自ら当寺11世となり、寺地を広小路の地に移し、再興する。
延宝5年大火で類焼、この時西寺町に寺地を遷し、復興する。
しかし、度々の水害で、明治43年旧材をもって、現在地に移転再建する。
○「天田郡志資料」(「天田」のページ中 より)
妙遠山 善行寺 (京都立本寺末)、開山日像、中興日遥
創建は貞和三年(1347)道場となす。此時曾我井庄、堀小字、湯の口に在り、後承応年中(1652-55)福知山広小路に移り後、市中類焼を恐れて寺町に又水害を避くる爲め、明治十三年六月曾我井村字天田に移転す。即ち今の地なり。
 当山はもと真言宗なりしが、住持大円坊、建武二(1335)年秋、日像、当地通行に際し大に論議問答し大円坊終に屈服す。此時より改宗す、依て宗組日蓮上人真筆の一幅を賜ひ名をも大乗院日円と改む。依て円像菩薩を開山とし日円を以て第二祖中興となす。
 爾後、寺連退転、偶々洛陽立本寺日遥上人、山陰道行化に際し此を見て大いに歎き宗徒をして興復を図らしめ承応年中移転せるなり。日遥上人は立木寺十九世なるが此時より当寺に隠栖せらる。これ当山第十一世なり、其高徳を仰ぎて中興の祖とす。(中略)
 当寺第十七世完通院日通上人、寺域の町家に接近して類火の憂あるを以て寺町に移さる。蓋し該寺地は藩士平田八郎氏の宅地なりしと云、されども平田氏は快く之を容れ永代寄進せらる、依て平田家は当寺の大檀那なり。(中略)
 第三十五世要修院日弁上人、遂に地を曾我弁村字天田に選び明治四十三年六月、改築成り移転す。(後略)
2018/01/07撮影:
 善行寺遠景      善行寺山門     山門前題目碑:天保2年(1831)銘     山門前寺号碑
 本堂下/石階     本堂下題目碑:享保14年(1729)銘 
 善行寺本堂1     善行寺本堂2     善行寺本堂扁額
 境内題目碑1:表面に髭題目と日像菩薩と刻む。     境内題目碑2     境内日像菩薩碑
 善行寺玄関・庫裡1     善行寺玄関・庫裡2      善行寺玄関
 善行寺清正公堂     善行寺番神堂か     善行寺鐘楼
 善行寺歴代墓碑     開山日像/二祖日圓他     善行寺歴代上人碑1     善行寺歴代上人碑2:部分
 善行寺北入口     北入口題目碑:側面に開基日像と刻む     墓地より福知山城を望む

丹波河原林妙圓寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 及び ○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
六条本圀寺末、大観には開山妙園院日覚とある。亀岡市河原林町河原尻に所在。
 ※両著とも以上の情報のみ。
○サイト:亀岡市河原林自治会(「かわらばやし」)>河原林 のページより
岸泉山、日蓮宗本国寺末。
天正元年(1573)造立
境内に妙見菩薩をまつる妙見堂が建てられており、村人からは「妙見さん」と親しまれていた。
 ※山号は岸泉山、天正元年創立と判明
2022/12/11撮影:
 妙圓寺山門:岸泉山の山号を掲げる。
 妙圓寺門前題目石:題目の左右に南無・・・と刻むも、判読できず。
 妙圓寺境内:現在は無住と思われ、やや境内は荒れるも、定期的には維持管理はされている模様。
 妙圓寺本堂     妙圓寺妙見堂1     妙圓寺妙見堂2     妙圓寺妙見堂3
 妙圓寺神馬舎:なぜ妙見堂前に神馬?舎があるのか不明、勿論馬は模型である。
 妙圓寺小祠1     妙圓寺小祠2     妙圓寺西門     妙圓寺一字一石法華塔     妙圓寺墓碑

丹波亀山法華寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
六条本圀寺末、長榮山と号する。
大観には寛正5年(1464)の創立、開山圓珠院日玉、開基恵秀とある。
○現地説明板 より
寛正5年(1464)圓珠院日玉を開山とし、小早川秀秋の庇護をうけて、荒塚(現在地)に創建される。
本堂は宝永6年(1709)の建立、妙見堂安置の妙見大菩薩は身延日堅の作と伝える。
2019/11/03撮影:
 亀山法華寺山門     亀山法華寺門前     法華寺門前題目石     妙見堂常夜燈・石柱
 亀山法華寺本堂1     亀山法華寺本堂2     亀山法華寺客殿庫裏
 亀山法華寺妙見堂1     亀山法華寺妙見堂2     亀山法華寺妙見堂3     法華寺鬼子母神堂
 法華寺三十番神堂か     宝篋印塔(日蓮大士)     法華寺歴代墓碑1      法華寺歴代墓碑2

丹波亀山本門寺
○現地「説明板」 より
正和年中(1312-17)下総鷲巣鷲山寺日辨の弟子日壽により鷲山寺の表本山として京都二条柳馬場に創建される。
 ※表本山とは初見であるが、京洛の本山というような意味であろうか。
 それはそれとして、正和年中とは日像入洛以前のことであり、随分と初期に鷲山寺は京都に拠点を作った
 ということであろうか。俄かには信じ難いことと思われる。
その後、応仁の乱で焼失、明応2年(1493)7世日園の時、丹波桑田郡奥条村に移転再興する。
慶長5年(1600)亀山城主前田玄以により城下の現在地に移される。
明治36年鷲山寺を離れ、京都本能寺末となる。
鷲妙見大菩薩は現在本堂に祀られる。
 ※鷲妙見大菩薩は文永2年(1265)日蓮上人が上総鷲巣の小早川内記邸に滞在中感得したと伝える。
明和8年(1771)武蔵浅草長國寺に鷲山寺鷲妙見大菩薩が勧請される。それまでは長國寺へは鷲山寺からの出開帳であったという。この出開帳の開帳日に市が立ち、これが現在まで続く「浅草酉の市」である。
そして、本門寺鷲妙見大菩薩は浅草長國寺から勧請されたものという。
2019/11/03撮影:
法華宗本門流に属する。
 亀山本門寺山門     本門寺門前題目石     亀山本門寺本堂     亀山本門寺庫裡
 本門寺日蓮立像     高祖日蓮・門祖日辨石塔     門祖日辨石塔:当山開基     門祖日隆報恩塔
 日蓮700遠忌報恩塔     本門寺小祠:鷲妙見大菩薩を祀るにのかも知れないが、堂名称は不明。

丹波寺桑田寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
長久山と号す、六条本圀寺末、寺は筵師、住職は達師法縁。
もとは空海の創建という真言宗の寺院(東寺派)であり、現在地の裏山に堂宇があった。
應永12年(1405)六条本圀寺5世建立院日傳が当地(足利尊氏の属領であった)巡化の折、桑田寺における法論の末、一山改宗する。
應仁の乱、天文法華の乱で荒廃する。日傳は應永16年寂。
天文10年(1541)当地豪族山田信濃守が現在地を寄進、再興する。その子日長が入寺し、三位公日長と称し、7世となる。
明治38年全山焼失。
 ※現在無住、本町法華寺が代務住職を務めるという。
○現地案内板 より
輿能宮の神宮寺との説もあるが、弘法大師空海の巡錫により真言宗に改められるという。往時は三国山福良寺(判読誤りの可能性あり)と称していた。
應永7年(1400)六条本圀寺建立院日傳が足利義満の帰依を受けて足利氏縁の丹波の布教で当寺を訪れ、住僧との法論をなし、法華宗に改宗する。
天文5年天文法華の乱で当寺も其の類を蒙る。
その後この地の豪族山田信濃守により三国山から現在地に移して再興される。
2019/11/03撮影:
桑田郡寺村に所在する。
 桑田寺山門     桑田寺門前題目石
 桑田寺本堂・庫裡     桑田寺本堂     桑田寺本堂扁額     桑田寺玄関庫裡
 日蓮大菩薩碑:700遠忌
 桑田寺題目石:中世在銘の題目板碑が多く伝えられるというので、下の写るのはそれらに該当するのかも知れない。
 桑田寺妙見堂     桑田寺妙見堂扁額     桑田寺歴代墓碑

丹波小泉好堅寺
小泉山と号する。開基は佛性院(安國院)日奥。(好堅寺歴代では大黒院日奥とする。)
山城鶏冠井石塔寺末という。
日奥の院号を大黒院とするのは、所蔵するという大黒日奥が日奥を大黒に偽装したといわれるように、幕府を憚り、敢えて院号を大黒院として一種の偽装をしたのではないだろうか。(大黒日奥は下に掲載)
信徒(婦人)からの聞取り:
 好堅寺は7年前住職が遷化(平成24年遷化)、以降無住、本町法華寺住職が代務住職を務める。
 曽我部町寺の桑田寺も現在無住、本町法華寺住職が代務住職を務める。
 現在小泉の日蓮宗宗徒は7軒にすぎない。
 身延には時々お参りに子供を連れていく。それは日蓮宗信仰を引き継いで欲しいからだ。

○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年
好堅寺の掲載なし。掲載のない理由は不明。
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年
下の写真掲載があるが、詳細情報はなし。
 丹波小泉好堅寺:現在の本堂とは違い、少なくとも昭和62年以前は本堂・庫裡兼用の堂宇であったと思われる。
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
丹波小泉は丹波と摂津の国境付近の山中にあり、丹波に属する。日奥が鶏冠井も追われ、山を越えた丹波小泉に隠れることとなる。当時ここは京都所司代であった板倉伊賀守勝重の領地であった。勝重は日奥に好意を示した大名であった。・・・ことによると、小泉隠棲は板倉勝重の計らいだったかも知れぬと思う。
 丹波小泉好堅寺:手前堂宇は番神堂、左端は山門、その奥の建物は不明。
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大蔵出版、1976 より
 好堅寺番神堂:日奥が隠棲す、右に八重桜がある。
○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年
 日奥の碑と庵室(小泉好堅寺)
小泉の庵には慶長5年(1600)5月まで約5年のあいだ潜居していた。小泉は亀山城下から西南山間の地である。
2019/11/03撮影:
 丹波小泉好堅寺     好堅寺山門
 門前題目石:題目石下段には小泉□(小泉山?)と刻む。小さい題目石4基は墓碑と思われる。
 好堅寺本堂1     好堅寺本堂2
 好堅寺本堂3:本堂は昭和62年以降に造替されたものと思われる。規模は旧規を踏襲し、庫裡兼用と思われる。
 好堅寺鐘楼
妙見堂(番神堂)、上記の写真のように昭和40、50年代は茅葺の堂であったが、それ以降簡素な堂に造替されたようである。
推測するに、日奥が江戸初頭に小泉に隠棲した時、このことろに庵を結んだのであろう。そしてこの庵が好堅寺に発展したのであろう。
昭和40、50年代は番神堂と呼ばれていたようであるが、現在堂本尊として妙見大菩薩を祀る。但し、堂側面には三十番神画像を祀り、番神堂としての役割もあると思われる。なお、番神画像には「肥前島原長久山護国寺安置」とある。
     <肥前島原長久山護国寺は肥前の日蓮宗諸寺中>
 好堅寺妙見堂(番神堂)1     好堅寺妙見堂(番神堂)2     妙見堂内部
 妙見堂妙見大菩薩:いわゆる能勢型妙見像である。     妙見堂三十番神画像
日奥上人供養塔、年紀など不明、傍らに「唱薩行院日正分骨之處」と刻する石柱があるが、日正とは不明。
 日奥聖人供養塔1     日奥聖人供養塔2     日奥聖人供養塔3
 好堅寺歴代墓所:中央の無縫塔が歴代廟、向かって右は29世龍泉院日清墓碑(平成24年遷化)
 好堅寺歴代:開山日奥の号が大黒院とある。佛性院、安國院が通常の号であるが、大黒院とは初見である。
 好堅寺歴代墓碑
※日奥の院号大黒院について
大黒日奥(日奥を大黒に偽装した像)が3体現存する。
一つは祖山妙覚寺、二つは小泉好堅寺、三つは下総香取郡栗源町の石橋家に秘蔵される。
小泉好堅寺の大黒日奥は未見であるが、好堅寺でいう日奥の院号大黒院はこの大黒日奥に由来するのかも知れない。
  →石橋家所蔵大黒日奥
    →石橋家(矢田部28人衆の後裔か)については「備前法華の系譜」に記載、
      「備前法華の系譜」のページを検索語=大黒日奥で検索ください。
  →祖山妙覚寺大黒日奥:「岡山の宗教」岡山文庫51、昭和48年 より

但馬の諸寺

但馬豊岡立正寺
豊岡市中央町9−20
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長遠山と号す、京都内野立本寺末、生師法縁。
天正4年(1576)の創立、開山善性院日永(寛永15年/1638寂)。大観には元和5年(1619)創立とある。
寺の移転は出石町本高寺よりと丹後久美浜町よりの2説があるが不明である。(本高寺縁起には元和5年立正坊を移転建立とある。)
開山日永は丹後網野本覚寺開山<丹後の日蓮宗諸寺中>でもある。
2018/06/02撮影:
 豊岡立正寺全景     豊岡立正寺入口題目碑:昭和6年日蓮上人650遠忌。
 日蓮上人立像     豊岡立正寺本堂     豊岡立正寺本堂扁額     豊岡立正寺玄関・庫裡
 豊岡立正寺立正会館     豊岡立正寺妙見堂1     豊岡立正寺妙見堂2     豊岡立正寺鐘楼
 立正寺題目碑1:明治12年銘     立正寺題目碑2:元禄4年(1691)銘、10世瑞玉院日現本尊
 立正寺題目碑3:向かって左から日蓮上人700遠忌、日蓮上人開宗700年、日像上人650遠忌各々報恩
 立正寺歴代墓所     立正寺歴代墓誌     立正寺日永墓碑:開山善性院日永、寛永15年(1638)寂。
 立正寺3・4・5世墓碑:3世日周(寛永19年寂)、4世日順(寛文元年寂)、5世日近(寛文9年寂)
 立正寺6世墓碑:6世一乗院日陽(寛文11年寂)

但馬九日市妙経寺
兵庫県豊岡市九日市下町292
法華宗(真門流)。万代山と号する。開祖は日真大和尚。京都西陣本隆寺末。
妙経寺の前身は山名氏の菩提寺である妙境寺という。
 ※これ以上の詳細はWeb上に情報がなく、不明である。
 ※住職談:当寺は山名持豊(宗全)の菩提寺であった。開基は大覚大僧正と伝える。往時は七堂伽藍を備え、五重塔もあったと伝える。なお、現在は法華宗真門流(京都西陣本隆寺)に属する。また、当寺の南に日真大和尚誕生井と伝えるところが残る。
 ※私見:開基が大覚大僧正ということについては、図書「第650遠忌記念 大覚大僧正」で確認の限り、大覚が但馬方面に巡錫・弘教した形跡は認められない。但し、同じ九日市の上町にある勝妙寺は大覚開山(勧請開基)というから、但馬方面にも大覚の巡錫があった可能性は否定できない。また当時、大覚は妙顕寺の寺主上人として、妙顕寺の経営及び地方弘通に尋常ならぬ活動を展開していた様子であり、但馬方面とも末寺などを通じて何らかの関係を持っていて、要請により開山に関与したことがあったことも否定はできない。
 ※私見:当寺の前身は禅宗あるいは密教寺院であったが、日蓮宗僧侶によって日蓮宗に改宗、その時大覚の開山とされたことも考えられるであろう。そして当地は日真の誕生地という由縁より、その後真門流とされたことは自然の流れであったかも知れない。
○中世妙境寺など
 寺院のある附近一帯(九日市上町から中町一帯)は但馬・九日市城跡(別名:九日の在所)という。
九日市城は山名氏初期の居館で、いずれにしろ但馬守護であった山名氏の拠点であったという。
 ※現に、当寺の附近は「妙経寺跡:中世寺院の伝承あり」として、豊岡市史跡地図に載る。
この辺りは字「御屋敷」で、その一角に中山権大納言親通と山名時義女玉露夫人との間に生まれた日真大和尚の誕生井戸が残る。
 ※日真大和尚:
  文安元年(1444)生誕、父は権大納言中山親通、母は守護大名山名時義女玉露夫人と伝える。
  宝徳元年(1449)妙境寺日全のもとで得度。
  長享2年(1489)四条大宮に本隆寺を開山、法華宗真門流を開く。
  享禄元年(1528)入寂。
また、妙教寺には山名氏のものと思われる28基の「中世石造供養塔群」が残る。内13基に年紀が確認でき、その年紀はおよそ山名宗全の生涯期<応永11年(1404)〜文明5年(1473)>に一致するという。
2018/06/02撮影:
 豊岡妙経寺山門     豊岡妙経寺境内     妙教寺日蓮上人立像
 豊岡妙経寺本堂     豊岡妙経寺庫裡     豊岡妙経寺鐘楼
題目印塔:塔身四面に題目(南無妙法蓮華経)を刻した宝篋印塔である。高さ160cm、南北朝末期のものと推定される。この時期日蓮宗系に宝篋印塔が取り入れられたことを示す貴重な例(3例中の一)という。山名氏の菩提寺であったかっての妙境寺(現・妙経寺)の遺物であろう。
 妙経寺題目印塔1     妙経寺題目印塔2     日真大和尚碑     墓地題目碑
 中世石造供養塔群1     中世石造供養塔群2     中世石造供養塔群3     中世石造供養塔群4
 妙教寺開基上人墓碑:正面に妙境寺開基/応永14年(1407)/5月13日と刻む。開基上人名は未確認、応永14年は寂年か。
  妙境寺の刻があり、妙境寺は応永年中もしくはその少し前に開基されたのであろうと推定される。
日真大和尚誕生井:山名氏邸宅の一画で現在は妙教寺の飛地境内である。
 日真上人誕生井石碑     誕生井題目碑     誕生井顕彰石碑     日真上人誕生井

但馬九日市勝妙寺
豊岡市九日市上町192
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
法養山と号す、四条妙顕寺末、奠師法縁。
應永年中(1394-1428)の創立、開山大覚大僧正妙實。開基勧持院日宣。応永年中、範覚法印が日宣と法論の末真言宗(天台宗ともいう)より改宗。円妙・法性の二院も日宣の教化に浴して勝妙寺の末寺となる。大観には永正元年(1504)創立とある。
宝永年中(1704-11)の祝融の災いで堂宇は烏有に帰し、勝妙寺谷にあった円妙・法性の二院を合併し、円妙院跡に建立。
正徳2年(1712)火災焼失。
享保19年(1734)境内狭小のため、現在地に移転。
2018/06/02撮影:
 勝妙寺門前寺号碑     勝妙寺門前題目碑     勝妙寺山門     勝妙寺山門山号額
 境内題目碑1その1
 境内題目碑1その2:側面に「奉轉地再建・・・法界萬霊/寶永・・/7月」と刻む。(最下段に寶の字が写る)
 これは宝永年中に烏有に帰し、再建したということを示す記念碑であろう。
 勝妙寺歴代墓地1     勝妙寺歴代墓地2:多くの題目碑及び歴代住職墓碑が並ぶ。
 勝妙寺歴代墓誌:大覚大僧正は勧請開基の称号を付し、開基は勧持院日宣と刻する。
 勝妙寺境内1     勝妙寺境内2     勝妙寺境内3     勝妙寺本堂1     勝妙寺本堂2
 勝妙寺玄関      勝妙寺庫裡1     勝妙寺庫裡2     勝妙寺鐘楼
 勝妙寺土蔵      勝妙寺庫裡離れ     勝妙寺納屋
 勝妙寺堂名不明1     勝妙寺堂名不明2:南の高台に名称不明の堂宇がある。
 勝妙寺鎮守稲荷堂:同じ高台に鎮守堂がある。
 鎮守は慶応3年(1867)勧請した経力・通力稲荷大明神であり、鞘堂は平成10年再建の札が掲げられる。
 称名寺銘宝篋印塔     境内題目碑2:天明9年(1789)年紀/日蓮上人500遠忌     境内題目碑3:年紀不明

但馬鶴岡妙光寺(妙見宮)
豊岡市日高町鶴岡80
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
四明山と号す、京都立本寺末、生師法縁。
享保9年(1724)創立、開山一音院日耀。河本太郎右衛門重利の所有地に堂宇を建立、江原立光寺(次項にあり)9世日耀が隠居して四明庵と号す。
天明4年(1784)寺号を公称、江原立光寺(下の項にあり)末となる。後、京都立本寺末となる。
大正初期に再建。
妙見堂は天明2年(1722)建立、嘉永7年(1854)再建。
妙見大菩薩塔・妙見堂鳥居は大正12年建立。
一字一石経塔は文化10年建立。
2018/06/02撮影:
 妙光寺鳥居:山門はなく、鳥居が建つ。
 妙光寺入口題目碑その1:一字一石經塔/文化1■年年紀     妙光寺入口題目碑その2:細目不明
 妙光寺日蓮上人立像     妙光寺本堂1     妙光寺本堂2     寺号碑及び庫裡
 妙光寺妙見宮1     妙光寺妙見宮2     妙光寺鐘楼

但馬江原立光寺
豊岡市日高町江原28
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
栄昌山と号する、京都立本寺末、清正公と通称する。生師法縁。
慶長4年(1599)創立、開山法性院日忍、開基本行院日進。開基檀越垣谷光成、河本重行。
(大観には元和4年(1618)創立という。)
宵田城主垣谷光成が出石本高寺10世日忍を招いて創立、次いで郷士河本重行が2世開基日進の代に寺域を整備。
延享3年(1746)本堂建立、明和3年(1766)鐘楼門建立。
○Web情報
天保12年(1841)に立光寺住職が肥後熊本本妙寺から清正公の木像を譲り受けこれを祀るという。
当寺では清正公祭が行われていて、現在も続く、明治中期に、これが日高夏祭など合体し、現在の日高夏祭となるという。それ故清正公祭は現在の日高夏祭の原点と云える。
2018/06/02撮影:
 立光寺寺号碑     立光寺門前     立光寺鐘楼門     立光寺本堂     立光寺庫裡     立光寺庫裡離れ
 堂名不明堂宇:番神堂あるいは妙見堂であろうか。     立光寺七面堂     立光寺七面堂宮殿
 題目碑その1:法界萬霊塔/元禄4年(1691)年紀
 題目碑その2:法界萬霊塔/判読できないが元禄11年(1698)年紀と思われる。     題目碑その3
 題目碑その4:未確認であるが、安永10年(1781)日蓮上人500遠忌報恩首題塔があるというので、それであろう。
 立光寺歴代墓所1     立光寺歴代墓所1
 開基日忍他墓碑:開基法性院日忍、二世日■(月編に~)、三世日映、四世日儀、五世日任と刻む。


2012/11/07作成:2019/12/12更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系