関 東 諸 国 の 日 蓮 宗 諸 寺

上野・下野・常陸・下総・上総・安房・武蔵・相模の日蓮宗諸寺

上野の諸寺

前橋永寿寺:品量山と号する。
永寿寺は松平大和守の位牌所であり、松平氏の移封に伴い、その都度移転を繰り返す。
 詳細は次の通りであるが、寛文7年松平直矩再度姫路に転封・越後村上経王寺が分立、姫路に永寿寺が建立される。
これ以降永寿寺は松平大和守の転封に合わせて8回程度移転する。
即ち、天和2年(1682)豊後日田→貞享3年(1686)出羽山形→元禄5年(1692)陸奥白河→寛保元年(1741)播磨姫路→寛延元年(1748)上野厩橋→明和4年(1767)武蔵川越→慶応3年(1866)あるいは明治4年厩橋→前橋に現存する。
永寿寺寺歴:
慶安2年(1649)松平直矩、播磨姫路より越後村上15万石に転封。
 ※直矩は村上教王寺(を直矩の父方の祖母・品量院と母・永寿院の位牌所とする。
 ※村上教王寺は村上に現存し、寺町大寺といわれる。
 貞和5年(1349)日住上人の創立、当初は角田にあり、永禄年中に猿沢に移転、慶長年中に村上に移転。
寛文7年(1667)松平直矩再び姫路15万石に転封となる。
 ※転封に伴い、経王寺は分かれ、一つは姫路に移り、寺号を永寿寺と称する。開祖は日教上人。
 ※永寿寺2世は智境院日演上人。
 ※智境院日演上人は京都本法寺17世日休上人弟子、京都東山檀林の19世化主、京都勝光寺5世、播磨市川蓮泉寺開山。
天和2年(1682)松平直矩、豊後日田7万石に国替。
貞享3年(1686)松平直矩、出羽山形10万石に転封。
元禄5年(1692)松平直矩、陸奥白河15万石へ移封。
 ※永寿寺は豊後日田、出羽山形、陸奥白河に移転と思われる。日田、山形での痕跡はWeb上の検索では発見できない。
元禄8年(1695)松平直矩逝去。その子基知、基知の養子義知と襲封。
寛保元年(1741)松平義知(明矩と後に改名)、姫路15万石に転封。
 ※永寿寺は白河から播磨姫路に移転。永寿寺は姫路五軒邸妙国寺の付近にあったという。 →姫路永寿寺跡<播磨の諸寺中>
 ※白川永寿寺は姫路に移転するも、跡地に残った僧が妙関寺を建立するという。  →白河妙閑寺<陸奥の諸寺中> 
寛延元年(1748)松平朝矩(明矩嫡子)上野厩橋15万石に転封。
明和4年(1767)松平朝矩、厩橋城は崩壊寸前の状態の為、武蔵川越に居城を移す。
 ※川越藩時代は、城下の旧堺町(現川越市六軒町2丁目)にあったという。
慶応3年(1866)松平直克、厩橋城が再築・竣工。
 ※永寿寺、川越から厩橋へ移転する。(明治4年現在地に移転?)


常陸の諸寺

羽賀堀ノ内誠諦寺
法華宗陣門流・越後本成寺末、政継山と号する。
境内に『政継山誠諦寺の由来と沿革』という碑?があると思われるも未見、「常陸国信太郡波賀郷に佐竹盛重氏の城あり、そのかたわらに戒定院の寺あり、天正年中(1573年〜1591年)に佐竹氏は、豊臣秀吉公によってわずかに小寺を残し、領国を没収し放逐させられ、又戒定院の住僧は寺を退去し寺堂も亦年を経て破滅せり。(後略)」とあるという。後略のため、戒定院などとの関係が不明であり、残念である。
 → 常陸下君山廃寺中の芳賀城跡>法華宗陣門流誠諦寺に写真あり。

大洗護国寺
戦後の三重塔あり。昭和4年創立、井上日召開基。
 → 大洗護国寺


下総の諸寺

下総岩部安興寺(旗上日充上人)

香取市岩部1306に現存する。
○「現地案内板」では次のように云う。(大意)
 山号を「東方光明山」、寺号を「安圀長興寺」と称する。「東光山」「安興寺」と通称する。
淵源は、大同2年(807)岩部城地に創建された「律宗・大円院」と伝える。
貞応元年(1222)千葉氏一族岩部五郎常基が岩部城築城にあたり、現在地に移設し、名称も「千葉山」「釈尊勧請寺」として創建する。
元徳2年(1330)大円阿闍梨日傳(平賀・本土寺第3世)によって日蓮宗に改宗され、名称も現在のものとなる。
第二世日義代、千葉家から寄進を受ける。
第三世日憲代、将軍足利義満との有縁の誼をもって奥方懐妊の際、二十石の朱印地を受く。
当時は「塔中37坊、末寺7ヶ寺を擁し、檀家岩部一円に及ぶ」という。
第二十世中興日秀代、徳川家光からも十一石五斗の朱印を受く。
寛文5年(1665)以降、不受不施義つき、二十余年間無住となり、衰微する。
また、次の説明文もある。(大意)
「栗源村大字岩部字西崎に在り域内450坪日蓮宗にして釋迦如来を本尊とす。
寺傳に曰く貞應元年之を開基して千葉山勸淨寺と稱し眞言宗たりしが、元徳二年三月之を再建し今の宗に改め僧日義開山たり。
日義は本土寺日傳の弟子なり、初め鎌倉妙本寺に在り之に師事し後ち本寺を開く。
千葉氏爲めに寺地を寄附す亞て日憲なるもの之を中興し足利義満亦寺地若干を寄す。
昔時は古記古寶等極めて多かりしが、大永中寺主なく寺藏を助澤村長榮寺に、藏し火災に罹りしを以て之を失ひしと天正中鳥居氏此地を領せしとき悉く寺領を没し慶安二年十一月徳川家光更に朱印地十一石五斗を給す。」
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
平賀本土寺末、東光山と号す、奠師法縁。開山は九老僧日傳。
貞應元年(1222)「釈尊勧請寺」を創立、元徳2年(1330)平賀3世日傳によって改宗。
宝暦年中、不受不施義により、19数年無住となる。
※理由不明であるが、歴代の記載がない。従って旗上日充の確認が採れない。

次に安興寺10世旗上日充上人についての事績を掲載する。
 但し、10世日充については、上述の現地説明板にも「日蓮宗寺院大鑑」にも現れないが、次の「多古町史」には現れる。
 なお、旗上日充の墓所は下総中村にあるが、中村檀林遠寿院日充とは全く別の僧侶でもある。
○「多古町史(昭和60年)」>地域史編>旧中村>南中>宗教/神社・寺院>旛上(はたあげ)聖人(日充)廟所 より
 旛上聖人廟の位置については、その位置を特定できないが、おおよその見当はつく。
 即ち
 県道多古・八日市場線で日本寺大門前を過ぎ、旧中村役場(※香取郡中村・現在の中郵便局の東か)の前を右折して南並木(※地名)の方面に150mほど南下、さらに右折する農道に沿って100m西方にあり、周囲は一面の畑である。孤立した状態の墓域は手入れが行き届いており、墓碑わきには大木が茂りる。
 墓石は礎石を含めて高さは1.2m、正面に、「旛上日充聖人 御廟所 慶長七壬寅(1602)正月十五日」、右面には「正東山本願比丘斈長日芳(日本寺49世) 南中村郷助力眞俗男女」、左面には「至元禄十四辛巳(1701)相当一百 依之七月十五日 欽建」と刻す。
  旗上日充聖人墓碑
 日充については資料が少なく、その多くを知ることはできない。
 村岡良弼は「北総詩史」の中で、日充について簡潔に次のように述べる。
   日充
僧日充、巌部人。仏教ニ深ク通ズ、安興寺ニ於いて経ヲ講ズ。聴者、市ヲ成ス。性、名利ヲ厭ヒ、尾張ニ遁匿ス。弟子来見ス、驚キ曰ク、我、師ヲ曹失ス、已、慕求ス。。奚、此為在ンヤ。日充笑ッテ答ズ。能登ニ去適ス、晩ニ師、郷里ス。衣、敞テモ易。垢、自ラ之ヲ澣ヒ。毎レ澣手ニ蟣虱ヲ収ム、楮嚢ニ之ヲ貯ス、衣、乾ケバ之ヲ放ツ。<事見二扶桑隠逸伝・仏祖統紀・野史・絵日本史諸書一>。
   榮枯場外蛻形は骨偏にさんつくり=彡、つまり「骨+彡」の漢字である。)
   樹下巌陰了素懐
   誤被史家伝角
   知師永却與心乖
安興寺は盛況を呈するも、日充は常にその憒閙(かいとう/みだれ・さわがしいこと)を嫌い、ひそかに逃れて尾張の一古寺に隠遁する。そこでは水を運び柴を拾い、暇をみては法華題目を唱えて万物の幸せを念じる生活に明け暮れる。
 その地にいること3年、たまたま弟子の一人が修行のため同寺を訪れ、日充を見て悲嘆し、何のためにここにおいでなのか」と問うも、日充は笑って返答せずという。
 後に、この地から能登(※能登滝谷妙成寺12世というから妙成寺であろうか)に移り、晩年になって故郷に帰る。
臨終の時、門人たちに「吾信力に依て無生忍を得たり。各自に努力せよ、切に棄暴することなかれ。汝若し信ぜずんは送葬の時を見よ、一つの旛(はた)天に昇らん、是を以て験(あかし)とせよ」と説くという。
 日充はその人となりは質素で、慈愛の心は万物に及び、衣服は古くなっても取り替えず、垢がつけば自分で洗って干し、その度ごとに虱を拾っては楮(こうぞ)で作った袋に入れておき、洗った衣服が乾けばまたそこに放したという。
即ち
 日充は香取郡栗源町岩部(現香取市岩部)に生まれ、岩部安興寺の10世となって講座を開き、受講する学徒は海のごとくであったという。
安興寺は、後に佐渡阿仏房14世・松崎談林講主でもあった寿量院日遣18世となるが、その後20年間無住となり体量院日台によって再興される。
しかし元禄4年(1691)の不受不施弾圧のため、改宗せざるを得なくなったようである。(現在も日蓮宗であるから、受派に転じたという意味であろう。)
 →寛文年中から元禄年中にかけての不受派の弾圧と身延の攻撃については「備前法華の系譜」>「寛文法難」以降の動向 などを参照。

下総佐倉昌柏寺

2019/09/19追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
華林山と号す、京都常徳寺末、奠師法縁。
開山は黎本院日題、開基は是勝院日慈、開基檀越は佐倉城主松平和泉守乗久。
日像が開基した京洛数ヶ寺の一寺という。
天正4年(1576)日題が下総矢作城主国分大膳亮を教化、その菩提寺として大崎村に再建、華林山妙眞寺と称する。
寛文年中に日慈が佐倉城主松平和泉守とその室昌柏院殿により、佐倉本町の現在地へ移転・再興し、現寺号に改める。
1世日慈は三浦大明寺18世へ転出。
 ※日慈は不受不施僧、寛文法難の頃、大明寺住職であったと思われるも、除歴という。
研究出版活動華林山文庫。(華林山文庫の創建時期あるいはどの代なのか等の言及はなく、不明)
 ※佐倉昌柏寺華林山文庫の蔵印の繪圖:六条本圀寺の資料に出てくる。
2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
寛文のころ、佐倉の昌相寺(昌柏寺が正)には華光院日航(備前金川妙国寺10世)がいた。
 ※華光院日航は備前金川妙国寺10世、後に相模衣笠大明寺17世(除歴)という。
 衣笠大明寺から除歴は日航・日慈などが不受不施僧の故であろう。
 なお、「不受不施派殉教の歴史」では「昌柏寺に日航がいた」とあるが、「日蓮宗寺院大鑑」に掲載の昌柏寺歴代住職中に、
 日航の名前はない。(一時身を寄せたか、除歴されたかであろう。)
2023/08/29追加:
慈善院日賢は2世、安立正国院日誉は3世(日誉は内野御塚にあり)
2023/10/07追加:
当山妙蓮寺のページ より
 昌柏寺八世は借当村妙蓮寺11世恵照院日能(佐渡の人で、享保二十年/1735 寂)である。
但し、「日蓮宗寺院大鑑」では恵照院日能は第7世、享保20年5月24日寂とある。

下総金原・金原新田--------------------

六万部塚(寂静院日賢経塚)

2023/10/24追加:
南玉造に接する位置にある。(塚のある北側の道が金原と玉造の境である。)
○「日樹聖人傳」原田智詮・花田一重、昭和36年(p.31) より
日賢は日樹の次席席として身池対論で正論を戦わす。享保17年(1732)12月円妙院日晋が日賢の六万部経経塚の表石を建てる。(「御書譬喩抜書」日教)
2023/11/20追加:
「匝瑳探訪 bP50」 より
 「六万部塚」は古墳という。金原新田は不受不施派の信仰拠点であり、金原新田庵跡もあり、現在10余基の墓石が名残を留める
江戸後期には僧侶の墓石を土中に隠し、明治になり不受不施派が再興された後、墓石を掘り出し、建て直したという。
六万部の紀要等もその時祀られたという。
2023/10/19撮影:
 金原六万部塚1     金原六万部塚2     六万部塚宝塔参道     六万部宝塔覆屋
 日蓮550遠忌宝塔・六万部宝塔
日賢六万部宝塔1

日賢六万部宝塔2:左図拡大図

日賢六万部宝塔正面
 :「妙経六万部 日賢(花押)」

日賢六万部宝塔左面
 :「圓明院日晋遺望立之」
 ※圓明院日晋:享保16年3月6日寂、金原新田六万部建立(「房総禁制宗門史」)

日賢六万部宝塔背面
 :「妙経二万部成就」

日賢六万部宝塔右面
 :「享保十七壬子二月廿四日」(1732年)

日蓮550遠忌宝塔
 :「南無妙法蓮華経 日蓮大聖人 ■■■■■■■■ 五百五十遠忌■■■」

下総飯高檀林(飯高寺)

 →下総飯高檀林(飯高寺)


下総香取郡多古町の日蓮宗--------------------

○「多古町史」/通史編/第三章 中世/第一節 中世前期――鎌倉時代初中期――  上巻95〜 より
◆日蓮宗初期の寺々(※下総多古町域)

 金沢称名寺のように、奈良仏教復興派の活動は、古代の貴族仏教の殻を破って東国の農村地方にまで進出しており、そこでは武士を初め一般民衆に戒を授けるまでに変貌を遂げる。
これは鎌倉時代の新仏教が、古代末期からの動乱の中で生命財産の保償もなく、世の無常を目のあたりにしてきた人々に強い精神的よりどころを与えようとした動きであったのに対応して現われた戒律の復興であった。この派の僧は民衆への授戒とともに、慈善救済事業も行っている。
 旧仏教への批判と反省の上に生まれた新仏教には、法然の始めた浄土宗、その専修念仏・他力本願の思想をさらに推し進めた親鸞の浄土真宗(一向宗)のほか、一遍の時宗、道元の曹洞宗、栄西の臨済宗などがある。
 また浄土信仰と並んで古くから伝統を持つ法華信仰では、平安時代末期以降、聖(ひじり)と呼ばれる人々が一般民衆の中へ入って教化に努めていたが、日蓮(1222〜82)はこの教説を発展させ、新たに日蓮宗を樹立する。
 安房国東条郷(小湊)に生まれた日蓮は幼少から清澄山に登って仏教を学ぶが、釈迦の教えがなぜさまざまの経典・教理・宗派に分かれるのかに疑問をいだく。
長じて鎌倉・比叡・高野などに遊学、研究するうち、一切経の中で『法華経』が最高の真理であることを確信するに至り、建長五年(1253)故郷に帰って『法華経』信仰中心の一派を創唱する。
 日蓮の説は、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば『法華経』の功徳によって救われるという簡明な信仰形式である。
彼は念仏を初めとする他宗派を激しく非難し、『立正安国論』を著わして幕府を批判したので、たび重なる迫害を受ける。
日蓮はそれにも屈せず布教を続け、晩年は甲斐国の身延山にこもって多くの著述を残す。
 日蓮の教えは関東から北陸方面の武士階級(地頭・御家人・名主など)の支持を受け、下総では富木常忍、曽谷教信、太田乗明などの武士が信徒の中核となって活動する。
中世の宗教活動にとって在地の政治権力とどのように結びつき外護を得るかが、その教団の消長を決める重大事であった。
一方、武士の側にとっても、その一族を惣領制の下に結合させる精神的なきずなとして宗教が必要であり、氏寺はそうした結合の中心であった。
日蓮宗は千葉氏の一族、ことに千田庄領主の千田胤貞一門とその被官の間に受け入れられ、その領域で信徒組織が形成されていった。
 富木常忍は葛飾郡八幡庄谷中郷の領主であり、千葉介頼胤の有力な被官であった。
彼は直接教えを受けた日蓮の死後、後に中山法華経寺となる法華寺を建立し、日常と名乗ってその住職となる。
後年彼は千田庄の中村に隠居して草庵を結ぶが、これは後の中村檀林(日本寺)のもととなる。(補注)
 〔補注〕中山法華経寺は天文十四年(1545)までは本妙寺・法華寺の二寺で一主制をとっており、天文以後は法華経寺と称する。
 八幡庄・千田庄・臼井庄(印旛郡)は鎌倉末期には千田胤貞の領地で、下総の日蓮宗はそれ以後この地域で盛んに信仰されるのであるが、千田庄ではすでに日蓮在世中にもその布教は行われていたようである。
多古町東松崎の顕実寺は寺伝によれば、文永年中(1264〜74)にそれまでの真言宗を日蓮宗に改めている。
寺僧円巍は日蓮の教化によって弟子となり、日巍と改めたとされ、それ以後、近傍の僧俗でその教えに帰依するものが増加したといわれる。
 このように既存の寺院を積極的な説法によって改宗させることから初期の日蓮宗の活動は始まる。
多古町南玉造の蓮華寺は、元は観音院という真言宗の道場であったが、弘安七年(1284)日蓮の直弟子日位(〜1218)の説法によって住僧実源が改宗して日実と名を改め、弘安十年に今の寺号に改称したと伝えられる。
日位は日蓮門下の18中老僧に数えられ、駿河の本覚寺を開創する。
 以上のような改宗は、その寺の住持だけを対象に説法するだけではなく、寺の旦那である領主層をも同時に教化した上で行われたことはいうまでもないが、日蓮がこの地で説法したことを示す文献は残らず。
 多古町南中の峯の妙興寺は、寺伝によれば正安二年(1300)日蓮の直弟子日弁(1239〜1311)が大嶋城(多古町島の塙台とも船越の丸山ともいわれる)内に堂を建て、当時は正円山を号したが、後にその実弟であり法弟でもある日忍が継ぎ、これを現在地に移し、正峯山と改めたといわれる。
大嶋城は千田胤貞(1288〜1336)が築いたものと伝えられるから、この寺は当然、胤貞を旦那としたものと考えられる。
妙興寺は、後に胤貞が俗別当であった中山法華経寺のいわゆる中山門流に属している。
 日弁は初め駿河国の真言宗滝泉寺の学頭の一人であったが、日蓮の教化により身延山で弟子入りし、後に常諦寺(駿河)・鷲巣(わしのす)鷲山寺(上総藻原)・妙興寺・遠照寺(甲斐)・願成寺(常陸)などを開く。
日蓮没後その直弟子たちは、六老僧を中心に各地に教線を拡大しいくが、日弁は六老僧の系統を脱し、日蓮の直系を任じて日弁門流を立て、その拠点としてこれらの寺を開いたのである。日弁の高弟には前記日忍と鷲山寺を継いだ日源とがある。
 日弁の弟子に和泉公(いずみのきみ)(和泉阿闍梨(あじゃり))日法という僧がいる。
千田庄原郷多古村にあった和泉公堂と呼ばれる堂の跡が、後に胤貞の子胤継から中山に寄進され、法華経寺三世日祐の弟子の日胤・日貞が継承しているのであるが、これには堂免田五反、畠一反、在家一宇が含まれる。
日法は日蓮に心酔していたらしく、中山法華経寺文書『日忍伝授状』によれば日蓮が入寂して池上で荼毘に付されたとき「悲嘆恋慕のあまり」その舎利を火中から盗み出して鷲巣に納めたという。舎利はその後、妙興寺に伝えられ、日忍のとき中山へ分骨伝授されている。

多古妙光寺の成立と一円法華 上巻134

 現在、多古町居射にある日蓮宗妙印山妙光寺は、『妙印山縁起』によれば常在院日朝が弘安年間(1278〜87)に開創し、二世日通のとき延文四年(1359)十一月二十七日に、中山法華経寺三世日祐を請うて供養説法を行っており、天正五年(1577)に多古城主牛尾胤仲が染井から現在地へ移して祈願所としたといわれる。
同縁起は、日本寺三十四世日言によって元禄十一年(1698)に書かれたものである。
 一方、明和四年(1767)に多古村の田中武右衛門(軌董)によって著された『多胡由来記』は、文禄二年(1593)の多古村の名寄帳にも、慶長七年(1602)の小縄帳にも居射妙光寺は載っていないので、慶長末か、元和年中に現在地に引き移したものらしいと推定している。
 同書はまた多古村ほか近郷の村々が日蓮宗に改宗した事情について次のように述べる。
 
「古しへは神社仏閣にいたる迄皆真言宗他門勧請也。然る故当村総社の別当むかしより幾久敷(いくひさしく)山伏寺にて有レ之、其後応永年中、正中山法花(華)経寺三祖日祐上人、当村(ママ)染井村原の坊へ相A−成御入@、一百日之間、法花弘通の説法有り。実に宗祖の再誕と申伝へる程の尊僧なれば、其時の領主帰依致し、近郷の男女ことごとくみな改宗せり。(中略)其節より別当南正院と相改め、寺役勤め候也。其後、新寺御法度並に坊号にて寺号無レ之ばたちがたき由御触相廻り候、俄かに天照山法性寺と寺号書改め候」
                 ※「@」「A」は「一点」「二点」の代用である。
 ここに応永年中(1394〜1428)とあるのは日祐の在世期間(1298〜1374)と重ならないが、同じように日祐の百日説法で全村改宗したと伝える『林村由来記』は、原の坊の説法を暦応元年(1338)としている。
 日祐に関しては、「千田胤貞と千葉介貞胤」の項で胤貞との関係を記すが、ここでその生涯を日潮の『本化(げ)別頭(ず)仏祖統記』(享保一五)によって見る。
 
「日祐、幼にして中山日高の室に投じて出家す。正和元年四月日高の遺命を受けて中山法華経寺に主たり。
千葉氏大に外護の力を尽す。一時州の香取郡に巡化す。郡は皆真言宗なり。露坐法を説くこと百日に及ぶ。
安久山円静寺主其教に帰服して寺を供し、弟子の礼を執る。後安房に遊ぶ。真言宗多聞寺主宗を改めて寺を供す。
鎌倉六浦に往く。妙法禅門師を請ひて真言寺を改めて上行寺を造る。後武蔵国久良岐郡杉田村に至り牛頭山妙法寺を造る。
後肥前に至る。千葉氏地を割て助く。松尾山護国光勝寺を創す。説法教化大に利益あり。天皇之を聞き勅願寺としたまふ。
師中山に還る。応安二年五月十五日寂す。寿八十」
  日祐の生没年については諸説があって定まらないが、『中山法華経寺誌』の歴代譜は永仁六年(1298)〜応安七年(1374)としている。
日祐上人像(『中山法華経寺誌』による)
 日祐が百日説法をした十四世紀中ごろは下総の日蓮宗展開の第二期というべき時期であった。日祐の『一期所修善根記録』(『多胡由来記』はこれを『善根記』と略称している)の一項「御堂本尊唱導勤仕事」には、日祐が生涯に勤仕した開堂供養と本尊供養の記録がある。
それらによれば、日祐は延文二年(1357)四月三日の下総多古日忍阿闍梨御堂供養、延文四年十一月二十七日の千田庄原郷御堂供養、応安二年(1396)の千田庄多古日忍遺跡堂供養などに唱導師を勤めたことが記されている。
二番目の原郷御堂を『多胡由来記』は妙光寺と推定しており、その点は初めに上げた『妙印山縁起』に一致している。
妙光寺に寺宝として伝わる日輝筆の『原法華堂供養記』は日祐の供養について記したものであるが、ここでは原郷御堂は原法華堂と呼ばれており、それが妙光寺の前身であることは間違いないであろう。
 ここに出てくる日忍は、峯妙興寺二世の下野阿闍梨日忍である。
日蓮宗宗務院発行の『日蓮宗事典』によれば、日忍は「日弁に下総の妙興寺を譲られたことにより中山の日祐のもとに赴き、著作と伝道活動を行なったといい、『天台深極抄』、『天台四教略抄』などの書写本が伝えられる。
また妙興寺には日蓮聖人の舎利が格護されていたらしく、日忍はこれを日祐に分骨したという。
なお、日忍の没年について『本化別頭仏祖統記』では応長元年(1311)四月十一日としているが、日祐に舎利を分与する旨を記した書状は暦応二年(1339)であり、また先の書写本の奥付は両本とも康永元年(1341)であり、さらに応安二年(1369)に千田庄多古日忍遺蹟堂供養が行われているから、日忍の没年は康永元年(1342)から応安二年(1396)の間に推定される」と記されている。
 千田胤貞が日祐に寄進した所領の内に、原郷阿弥陀堂職田地(七段および在家一宇)があるが、この阿弥陀堂というのは、この堂がかつて真言宗かまたは浄土系の村堂であったころの名ではないかと思われる。つまり胤貞が所領の内から堂職田地の得分を日祐に永代譲与することによって堂の経済を中山法華経寺がにぎり、日祐が長期間そこで説法することによって、この地域の一円法華が実現したことになる。
 この寄進は元徳三年(1331)で、この時は中村郷三谷(みや)堂・辻堂などの堂職田地もともに寄進されているが、この原郷御堂の開堂供養までに二八年もの時間があり、その初めごろに『林村由来記』によれば百日説法があったことになる。この間には鎌倉幕府の滅亡や千田庄動乱があり、時代は大きく揺れ動いていた。
 多古村では同じころ妙光寺のほか木戸谷の妙薬寺も日祐の説法によって真言宗から改宗している。
前掲の延文二年に開堂供養が営まれた日忍の御堂もやがて日蓮宗の寺院に成長していったものと考えられる。
大原内の法福寺(旧称正徳院)は、あるいはこの堂の後身ではないかとも想像されるのである。
 ところで、近世の初めに妙光寺が居射に移る前、多古村には妙薬寺・法福寺・実相寺(旧称実相坊)のほかに、泉林坊を始めとして実に一二を数える多数の坊があった。
   ※多古妙薬寺・法福寺・実相寺などについては「多古寺院跡」<◆多古中にあり>を参照。
先に引用した『多胡由来記』の中の山伏寺もその一つである。
日祐の百日説法で改宗して南正院と改め、後に法性寺となったというのであるが、実は文禄の名寄帳には南陽坊の名で載っている。
その後いったん南正院に改めた後、法性寺となったものであろうか。法性寺は後に妙光寺の末寺になっている。
他の坊は後に廃絶したらしい泉林坊を除き、いずれも寺号に改められているが、明治十二年の多古村の社寺明細帳に載るのは妙光寺・法福寺と妙薬寺の三寺にすぎず、他はすべて幕末か明治維新のころには廃寺となっている。
それらの宗旨は一部が日蓮宗とわかるほかは明らかでない。
しかし『多胡由来記』の書かれた当時にはことごとく日蓮宗に改宗していたことは間違いあるまい(それらの坊号および改称した寺号については本書下巻「社寺一覧」参照)。
なお、前項で述べた「多古村和泉公堂」や「原郷内谷内堂」なども、その後これらの寺坊になったのではなかろうか。

 ところで多古村近郷がことごとく日蓮宗に改宗した当時のこのあたりの領主がだれであったかは明らかでないが、永和二年(1376)に妙光寺に日蓮坐像を寄進した大旦那は、その胎内銘によれば円城寺図書左衛門尉源胤朝とその母平氏女であった。
また、延文二年卯月の日付のある妙光寺の日祐の曼荼羅本尊には「源胤朝授与之」と脇書きされている。
この人物は、先に「動乱後の千田庄と千田氏の系譜」で触れたように、千田胤貞の曽孫でその遺領を継いだ義胤の被官である。
おそらく千田氏の有力な被官として仕えるとともに、この地域を実質的に支配し、その経済的実力によって妙光寺の大旦那となったのではないかと想像される。
したがって、永和二年二月二十五日に中山法華経寺四世日尊を招いて日蓮坐像の開眼供養が修された際にも、胤朝はこの法会をとりしきったものと思われる。
 この時期に多古が村として成立していたことは、前項で触れた延文六年(1361)の日胤の譲状に「原郷内多古村」とあったことで明らかである。
そして日蓮坐像の胎内銘には「多古村妙光寺」と記されており、原堂は妙光寺と改めていたことになる。あるいは像の開眼供養を期に日尊によって寺号が与えられ、同時に中山の末寺となったとも考えられる。
 ところでこの円城寺氏は本姓を源と称している。千葉宗家の四家老の円城寺氏と全く別の家系とも思えないが、家老の円城寺氏は千葉氏の支族であるから当然平氏であり、胤朝の母も平氏女と記されている。
家老職は図書允(じょう)貞政に始まるが、この人は図書右衛門入道とも称し、建武元年(1334)当時、香取の代官をしていたことが千葉介貞胤の文書(香取文書纂)によって知られる。
この人が湛睿の書状に出てくる図書左衛門と同一人物ではないかということは先述した。
香取文書にはこのほかにも円城寺姓の人物は多く見られ、図書左衛門尉胤朝はこれらと何らかの関係があるものと考えられる。
多古城の北にゲンジ堀という名の残る中世の館跡がある。安易に結び付けることは慎まねばならぬが、この名はたとえば、平氏の多いこの地で胤朝が特に源氏であったことから付けられたというような仮説も立てられないことではない。
 後に千葉介胤直・胤宣父子が志摩・多古両城を落とされて自刃したとき、両者と運命を共にした円城寺氏一族があるが、胤直父子をこの地に落ちのびさせ再起を図ろうとしたのも、この地が上杉方である円城寺氏の勢力圏であったためではないかとも想像される。
 ただし胤朝は千田義胤の被官であり、また千葉宗家の家老である貞政の系譜には胤朝の名は見られない。
そこで一つ気になるのは、『千葉大系図』に見える多古胤氏の兄に当たる胤朝という人物である。
胤貞の孫にあたる千田弥次郎胤鎮の嫡子の位置にあり(『神代本系図』では胤鎮の兄胤継の子となっている)、五代先の子孫からはまた千田氏を称している(「動乱後の千田庄と千田氏の系譜」の系図参照)。
胤朝とその子孫四代目までが千田姓であったかどうかはわからない。
また円城寺を名乗れば系図はそのように記すはずであるから、この胤朝を円城寺胤朝に比定することは慎まねばならないが、千田庄との関係は父や子孫が千田を称していることから十分考えられる。
ただ系図では胤貞の四代後であり、日祐と同時代である可能性は薄いと見なければならない。
もっとも中世関係の系図では三代先が必ずしも曽孫と限らず、編者の自由な関係づけも見られるので、あまり系図上の関係や位置にこだわる必要はないのかもしれない。
 むしろ図書左衛門尉胤朝としては、東禅寺についての湛睿の書状に見える図書左衛門の方が一族としての可能性がありそうに思われる。
しかしこれについては、今のところ何の手がかりも得られないので、今後の課題として残しておく。
 さて、胤朝母子が永和二年(1376)二月に法華経寺四世日尊(1313〜99)を招いて日蓮坐像の開眼供養を行った、その前年の五月二十八日の日付のある日尊の本尊が妙光寺に所蔵されている。
これには「多古木广堂」の脇書きがある。これはおそらく多古村原堂の意であろうと中尾堯氏はその著『日蓮宗の成立と展開』(吉川弘文館)の中で推定されている。
そしてそれが本尊勧請の場所を表わすものと考えるならば、この時点では妙光寺はまだ原堂を称しており、また原堂は多古村の内にあったことになる。(原の地は染井原とも呼ばれ後に染井村に入るため、妙光寺は染井から移ったとも言い伝えられている)
 以上の点を律気に考えるならば、永和元年(1375)五月には多古村原堂であり、永和二年二月には多古村妙光寺となっていたということになり、原堂が妙光寺と名を改めるのは、その八カ月余の間ということになる。
つまり円城寺胤朝が大旦那であった時期に日祐の原堂供養が行われ、妙光寺と寺号を改めて、おそらく寺としての形も整備するに至ったのではないかということになろう。
ただし『妙光寺の栞』によれば、妙光寺と改称したのは、永和四年十一月二十七日、日祐によって開堂供養を営んだ時と伝わっている。
もっとも、『中山法華経寺誌』の歴代譜によれば、日祐の没年は応安七年(1374)七十七歳とあるから、これを信じるならば、日祐の開堂供養はそれよりさかのぼり、供養から改称までには若干の年月があったとも考えられよう。

 それより先、『妙印山縁起』によれば、妙光寺は弘安年間(1278〜88)常在院日朝を開基として、創建されたという。おそらくそれは原郷阿弥陀堂から日蓮宗の堂として開創されたことを称しているように思われる。
 『日蓮宗事典』によれば、常在院日朝は「俗名を斎藤兼綱といい、上総藻原郷に住し藻原遠江守を称したという。初め日蓮聖人の教化に浴しその信者であったが、のち出家したという。藻原妙光寺(藻原寺)をひらき、のち下総多古にうつって妙光寺を興し、また志摩妙興寺(注、誤植ママ)を創した。
その没年には異説があって定かでない。
上総妙光寺伝によれば弘安一〇年(1287)三月二二日、下総妙光寺伝によれば弘安六年(1283)五月二五日とあり、寂寿はいずれも不明、『本化別頭仏祖統記』は弘安六年五月二三日としているが、これも寂寿不明である」としている。
 誤植の部分は、「志摩(島)妙光寺の堂宇を建て、唐竹妙光寺を創立した」とするのが妥当のようである。
    島妙光寺(現在の正覚寺の前身)は永仁五年(一二九七)中山法華経寺二世日高によって真言宗より改宗、後に大嶋殿(千田胤継またはその継承者)が大旦那となって日朝が堂宇を建立したといわれ、また『唐竹妙光寺記』は貞治三年(1364)日朝によって創立されたと伝えている。
 『日蓮宗事典』の日朝の没年に対しては、多古妙光寺開基の年は適合するが、島・唐竹の妙光寺の場合は適合しない。
『唐竹妙光寺記』は応安六年(1373)五月二十五日没とし、弘と応の一字違いであるが、それが開創時期の差に及んでいるようである。
なお日朝開基の問題については、加瀬包男(かねお)著『多胡由来記研究』(昭和二八)にさまざまの材料を提示して考察がなされていることを付記しておきたい。
また、日朝を開基とする寺には、以上の妙光寺のほかに、染井の妙暹(せん)寺がある。
その開創は応安五年(1372)と伝えられている。
 さて多古村妙光寺が成立しても原郷阿弥陀堂職田地は妙光寺に引き継がれたわけではなく、その後も法華経寺が保有していたことは応永四年(1397)の鎌倉公方足利氏満と、応永二十七年(1420)の千葉兼胤の寺領安堵状に「原郷内所々堂免」と記されていることによって知られる。「所々」とあるように、さらに数を増やしていたのであろう。
そして末寺の妙光寺としては円城寺氏のような大旦那を新たに獲得しなければならなかったのである。というよりは円城寺氏のような大旦那ができたことで堂から寺に昇格したといえよう。
こうした領主・名主層の支持が当時の宗教施設には不可欠であり、そうした檀越の信仰は僧侶を介して村民に強く影響したのであった。篤信者は階層ごとに、また氏族ごとに講を結び、現世・来世の救済や安穏を祈ったのである。
 『多胡由来記』にある「近郷の男女ことごとくみな改宗せり」というような村ぐるみの信仰では、村堂の果たす役割はきわめて大きい。
それは単に信仰だけの場ではなく共同体のさまざまの活動の中心でもあったから、領主はその維持のために田地を寄進したのであろう。
信仰を同じくし、信仰を通して共同体を把握することは所領統治を円滑にしたはずである。
 千田胤貞の猶子である日祐は、胤貞の本拠である中村郷においては、南中村に元応元年(1319)日本寺の基礎を築いたほか、北中村北場の   浄妙寺(旧称、東耀寺)、同じく芝の徳成寺を真言宗から改宗させている。そのほか北中村久保の仏光寺、南和田の福現寺などは日祐を開山として創立されている。
それ以後これらの寺は中山法華経寺を本寺としてそれとの関係を深めていくことになる。
 千田胤貞とその後継者らが中山法華経寺や真間弘法寺などに寄進した堂職田地には、前述のように千田庄内では倉持阿弥陀堂、中峰虚空蔵堂、金原郷阿久山堂などがある。
これらの堂はみな原郷阿弥陀堂の場合と同じようにやがて法華堂に改められ、中には寺院に発展したものもあった。その他、原郷・中村郷の妙見座主職とその神田などもあった。(補注参照) 
〔補注〕
 延文六年(1361)の日祐譲状には、「譲与所領」の一つに「妙見座主職 御神田原・中村有レ之」とあり、千田胤貞の年月未詳書状にはその神田寄進のことが記されている。
また、千田胤清と推定される譲状(年月未詳)には「原郷多古村坊谷ノ神田一反、同郷三位内ノ田一反、合二反」が含まれている(以上、中山法華経寺文書)。
その他、文安二年(1445)の日戴置文には「中村三谷坊田二丁並多古二反田」の相続のことが記されている(市川市中山浄光院文書)。
 
 原郷妙見については、大原内の妙見堂(元、法福寺境内)から居射の妙光寺に遷座され、千葉県文化財に指定されている妙見像が、鎌倉後期の優作とされるところから、あるいはこれは胤貞によって奉祀されたものであり、日祐にその座主職と神田が寄進されたものに当たるのではないかという推定が成り立つのである。
 こうして千田庄の東部・南部一帯はそのほとんどの寺と村郷全体が改宗して、いわゆる一円法華を実現したのであった。しかしながら胤貞流千田氏が室町時代半ばから衰退したため、中山法華経寺とその門流はその影響を受け、その活動も停滞していった。
 千田氏が村堂の堂職田地や堂免を寄進した地域が千田庄東部・南部に限られるのは、その所領が庄全体に及んでいなかったためと考えられ、そのため北部・西部では真言宗から日蓮宗への改宗が行われず現在に至ったものと思われる。

◆板碑に見る中世の信仰

  ※本項については、当面の間省略する。

日蓮宗不受不施派の法難(※下総多古町域)  上巻335〜
  ※不受不施派概説
  ※寛文の法難(多古町域)
  ※天保法難・始末書(多古町域)  

 寛永十年(1633)幕府は海外渡航・貿易の制限とともにキリシタンを禁止する法令を出しすが、それ以後、信徒探索のために宗門改めを行い、また改宗して仏教に帰依した者からは請印を取った。
これが一般化して寺請制度となり、庶民は所属寺院を檀那寺とし、婚姻や旅行などの際には寺の発行する宗旨手形が必要となる。
そのため、寺院は庶民の思想監察をするとともに村の戸籍事務を扱う行政機関ともなってしまう。しかも寺院は慶長二年(1597)以降の「諸宗寺院法度」、寛文五年(1665)の「諸国寺院御掟」などによってきびしく統制され、一面では保護も受けたので、宗教本来の衆生の救済よりは政治的支配の末端の役割を担わされることになる。
 そのような宗教制度の中で起こったのが、日蓮宗不受不施派の法難である。
多古町域では江戸初中期には島・中佐野・東台・大原の各村がほとんど村ぐるみ同派の信者であり、水戸・林から南玉造・坂などの村々にも信者がいた。
 不受不施派が禁制の宗門とされたのは、寛文五年(1665)十月、すでに幕府から数度の弾圧を受けた後であった。
この派は日蓮直弟子の六老僧の一人、日朗の流れから派生したもので、宗祖日蓮の、世界の主は釈迦一人であり、時の為政者であっても釈迦の導きを受けるべき人間であるという思想を純粋に伝える手段として、他の宗旨を信じている者の供養を受けず、また他の宗旨の僧へは供養を施さないという教義を強固に守り続けた宗旨であり、その純粋性は既成宗派に対しても新風を吹きこんだのであった。
 世界の主は一人であり、故に他宗信者の供養は受けずという思想が、時の為政者にとって、反抗ともとれる形で現われたのが、文禄四年(1594)に秀吉が行った千僧供養への辞退であった。
 このとき、京都地方における不受不施布教の拠点であった妙覚寺の住職日奥は、教義に背くことはできないと参加を拒み、その上に、謗法とは法を誹(そし)るだけでなく、不信の供養を受けることは謗法に通じる、国主なればこそ布施を受けるべきではない、と「法華諌状」を秀吉へ提出して、丹波小泉に隠れ住む。
 日奥は、京都町衆・辻家の生まれであったことから後援者も多く、この行動によって本来の教義に目覚めた信者が、千僧供養に出仕した寺々を見捨てたため、京都妙顕寺日紹などが異端邪説として日奥を排撃し、秀吉に訴える。
こうして両派の論争が続き、やがて慶長四年(1599)、大坂城中において、日奥と日紹の対論となる。
「法華諫状」を受けた秀吉はそれを不問にしたが、同三年八月に死去し、代わって訴えを受けた家康は、民衆に与えた波紋の大きかったことから、日紹の説を正しいとし、日奥を邪説を唱える者として対馬へ流刑とする。
対馬の日奥が、「今年は髪毛も抜け、残りも白髪となり」と、苦しい流刑の日々のことを書き送った書状が、多古町水戸の高岡家に残されている。
 慶長十七年(1612)赦されて、京都に帰った日奥は、博多勝立寺日忠のはからいで日紹らとも和解がなり、元和九年(1623)には、京都所司代板倉勝重から不受不施公許の折紙を受けて、その抵抗は終結した。
 桃山期における不受不施派僧の受難は、多分に京都における日蓮宗の内紛によるもので、政府に協力して勢力の伸長を図る側と、教義の純粋さを守って教線を伸ばそうとする側の争いであった。
 したがって、政権が江戸に移ると、関東が波立ち始め、日奥の主義を奉じた池上本門寺の日樹や中山法華経寺の日賢らは、寛永三年(1626)、江戸増上寺で営まれた二代将軍徳川秀忠夫人の葬儀に、諸宗の誦経が行われた席に参加はしても将軍の布施は受けなかった。しかし、身延山久遠寺の日遠らは、日奥の主義に異議をとなえ、その証しとして、布施を受けたのであった。
 この日遠らを日樹が非難したことから、池上本門寺派と身延山久遠寺派が対立することになる。
そして、対立の深まりを憂えた身延山主日暹が裁決を幕府に訴えたことから、寛永七年(1630)二月、酒井雅楽頭屋敷において、いわゆる身池対論が行われる。
出席したのは、不受不施派から池上本門寺日樹、中山法華経寺日賢、平賀本土寺日弘、小湊誕生寺日領、碑文谷法華寺日進、中村檀林日充、受派からは久遠寺日乾・日遠・日暹、茂原日東、玉沢日尊、鶏冠井心了院の両派各々六名で、幕府側からは聴き役として天海僧正・崇伝国師らが出席する。
 この結果、日奥の主義を奉じた池上本門寺派は、またも敗れて邪道とされ、日樹は信州伊那に流され、日賢・日弘・日領・日充・日延らは追放される。
 これまでの対立は両派の中心寺院の主導権争いとしての色彩が強かったので、末寺や一般信者に規制が及ぶことはなかった。
度重なる弾圧によって記録は隠され、または消滅して詳しいことはわからないが、このとき池上側として呼び出された寺々の名をみても、多古町域の日蓮宗寺院はこのころすでに、中山法華経寺の末寺を中心にその大部分が不受不施派となっていたと思われる。
 「寛永法難」と後にいわれるこの事件で、房総の不受不施派寺院のほとんどは改宗を誓って赦されるが、一般の信者までが改宗したわけではなかった。
特に現在の多古町・栗源町・八日市場市地方における信者の信仰活動には大きな変化はなかったようである。

 折から寛永十四年(1637)に島原の乱が起こり、武士ではなく、戦の体験のない農民が、信仰の力に支えられて団結したときの抵抗の根強さを目のあたりにした幕府は、先に設置した寺社奉行によって、キリシタンとともに邪宗といわれる宗派の弾圧を始める。
また「諸宗寺院法度」を各寺院に示して、一宗の法式を守れ、新義を立てて奇怪の法を説くな、幕府から御朱印手形を頂け、と命ずる。
これに対して、この法度は宗義に反するとして、改定を求めて上訴したのが、不受不施派の平賀本土寺日述、奥津妙覚寺日堯、野呂檀林日講、玉造檀林日浣らであった。
 幕府は邪宗を唱える者として、寛文五年(1665)十二月これを処罰し流罪にする。
「寛文の惣滅」と呼ばれるこの事件から、キリシタンに対すると同様の弾圧が、一般信者にまで及んでくるようになる。
 弾圧の影には、宗門の争いも絡んでいた。
ある寺の住職が罪を受けて寺を追われると、反対派の身延系が幕府の支援を受けて住職を送り込み、そこで、いわゆる受派の宗域を拡大するという方式が採られていた。
しかし元禄のころになると信者の信念が固くなったためか、受派の僧が寺に入ると檀家が離れるようになり、経営に行きづまるようになる。
 受派からの申し入れもあって、元禄四年(1691)には、上総、下総一帯に弾圧が行われ、六九人の僧が伊豆七島へ流された。
この時、召捕りに先だって、全住民について個人ごとに邪宗の信者であるかどうかを寺々に調査提出させた寺請証文がある。
        寺請状之事
                                         普門院
                                           旦那衆 重右衛門 印
                                             (以下十一名略)
 一、右拾二人之者、代々真言宗にて、拙僧旦那に紛無く御座候、若(もし)何方より、今度被二仰付一候、非留・不受不施・吉利支丹宗門と申す者御座候はゞ、何方迠も拙僧罷り出、急度申分け可レ仕候、為二後日一寺請状依而如レ件。
                                         下総国香取郡大寺村本寺
                                                龍尾寺
                                          末寺松崎村 普門院 印
    元禄四年(1691)未ノ五月十二日
                                        内藤源助様御知行所
                                            名主 長兵衛殿
                                            組頭 重右衛門殿
                                            同  庄右衛門殿
 
 弾圧が一般信者にまで及んでくるようになると、不受不施派の信者は、表面から消えて地下に潜行した。
一般信者は改宗誓約書を名主を経て提出して受派の寺の檀家となり、布施も出し供養も受ける。
もっとも、不受不施派を称する寺は一掃されて一寺として存在しなかったから当然のことである。
受派や他宗の寺は諸仏事のほか、行政の末端機関となって、檀徒一家の出生・死亡の記録、就職に当たっての身分の証明、旅行をするときの身元の証明なども寺院の仕事と定められていた。
 それに対し不受不施派の信者は、各村ごとに庵を設けて、題目講と称して集まり、ひそかに巡回してくる不受不施派僧の法話を聞き、供養を受けた。
この僧たちを同派では法中(ほうじゅう)という。
法中は受派の寺で修業し、僧籍を取ると隠居して受派の寺を離れて組織に入り、たくみに弾圧の目を逃れ、各地の隠れ家や庵を移動しながら布教した。
 各村の題目講には法立(ほうりゅう)という統率者がいて、法中移動の案内から、食事など身の周り一切の世話をした。
布施は法立が受け取って、生活必需品を法中に渡す方法がとられた。
この仕組みは現在でも守られていて、僧侶は肉食妻帯をせず、布施などの現金は寺役員が管理し、三食まで現物給付である。
 内信(表面上、受派の寺の檀家になっている一般信者)―法立―法中の地下組織ができたころ、多古町域にどのくらいの庵があったかを断片的な資料からたどってみると、東台庵・坂村庵・船越庵・玉造庵・玉造東庵・島後口(うしろぐち)庵・島南庵、木戸庵(島)と、現在も不受不施信仰の続いている村々に多い。
 弾圧はさらに続いて、元禄十一年(1698)には安房国が検索され、寛政に入ると下総へ探索の手が延びて、多古藩領を中心として大弾圧が行われた。
これは史上「多古法難」と呼ばれているが、これについては『中佐野村日記』に記されているので地域史編中佐野の章に譲る。
次に起きたのが「天保法難」で、以下に『下総法難記』(別名『天保十一子年宗門一件御裁許並荒増(あらまし)始末書之記』)から引用する。同書は天保九年(1838)島村はじめ香取郡を中心に148名の者が召し捕られ、取調べを受けた事件の始末書である。
 
 宗門一件書記(かきしる)すあらましは、天保九年戊戌(つちのえいぬ)七月上旬、江戸表(おもて)小松屋文右衛門被(られ)A召捕@候風聞有レ之所、実事にて、同年八月廿八日多古村え御出役、関東御取締原戸一郎様御止宿にて、御尋に相成り、被A召捕@候者岩山村友右衛門、中佐野村宗之(ママ)、島村にて忠兵衛、勘之丞死去に付き伜(せがれ)貞治被r尋候得共(そうらえども)不r出。弟茂助多古村へ被A召捕@、又南隠居とて市郎左衛門被A召捕@、且又、藤右衛門・三郎左衛門、都合七人多古村にて御調之上、市郎左衛門・茂助両人者相とめ残り、五人者江戸表差出しに相成り、御掛寺社御奉行牧野備前守様え被A召出@、浅草溜(だめ)へ被r入、御吟味中、三郎左衛門者九月下旬に病死いたし、其後四人者出牢に相成り、藤右衛門者江戸宿伝通院前池田屋にて十一月上旬病死いたし、忠兵衛者翌年七月盆前帰村被A仰付@、又翌年子(ね)之三月下旬に内にて病死致し、右牧野備前守様御役替に相成り、松平伊賀守様え死去仮葬之趣相届候。無r程四月下旬に相成り、又々関東御取締中山誠一郎様多古村え御出役にて、近郷村々並所々村々、諸々寺院方まで御呼出し、銘々村々御糺(ただし)口書(くちがき)之趣之簾(かど)々入二書附一、左之通り差上候。
     〔注〕浅草溜は在牢中の重病人の収容施設。
     ※レ点はr、一点、二点は@、Aで代用する。(以下も同じ)
 一、村々口書之上げ証文。
 一、寺院方口書之上げ証文。
 一、当人共書上げ証文。
   右文面者略す。
     〔注〕上げ証文は、裁許に服すとき差し出す。請証文ともいう。口書は口上書。

 右之上ゲ証文之印形取揃え御帰府被レ成候。同年六月下旬に村々銘々寺院方まで松平伊賀守様より御差紙にて被A召呼@、江戸宿者外神田御成道(そとかんだおなりみち)、柳原岩井町、代地大里屋茂兵衛、馬喰町に弐三軒、小石川春日町大黒屋、右宿々に罷在り御呼出しを待ち候処、七月十日御呼出しにて、伊賀守様於A御白州@銘々寺院方一同口書被A御読聞@、其上御書印願被A仰付@、帰村致し候。同年十一月中旬に又々御差紙を以て被A召出@、右宿に止留にて、十二月十六日御呼出し裁許被A仰渡@候。
〔注〕差紙は奉行所からの呼出し状。名をさして召喚するためにいう。

     御糺に付き以A書附@申上げ候
 安藤次右衛門知行所、下総国香取郡島村日蓮宗妙栄寺申上げ候。拙子檀中村長右衛門と申す者、御法度之不受不施宗門え帰依いたし、燈明料として銭廿四文、三拾弐文宛、村内藤右衛門方へ差出し、右之段今般御糺に付き初而承知仕り驚き入り候。是迄右之者儀墓参り其外仕来(しきた)り之通り、相替りの義無A御座@候に付き何之心付けも無r之、乍r併(しかしながら)檀中に右躰(てい)之者有r之を不r存罷在り候段、御差当て請け候而は申立様も無A御座@、恐入り候。此上檀中精々穿鑿仕り、右躰之宗門え携り不r申候様可r仕候間、何卒(なにとぞ)格別之以A御慈悲@御勘弁之御取斗(はから)ひ、偏(ひとへ)に願上げ候。
 右御糺に付き申上げ候通り、少しも相違無A御座@候。
   天保十一子五月                               安藤次右衛門知行所
                                             下総国香取郡島村
  関東御取締御出役                                       妙栄寺
      中山誠一郎殿
 
  乍r恐御糺に付き以A書附@奉A申上@候
 安藤次右衛門知行所、下総国香取郡島村百姓三郎左衛門伜善蔵奉A申上@候。私祖父善蔵事蓮台義、不受不施宗門伝法受け相持ち候始末、御糺御座候所、右蓮台及A老衰@耳聞へ不r申、言舌相分り兼(かね)候に付き、是迄見聞仕り候趣、善蔵奉A申上@候。
 此段善蔵奉A申上@候、高弐石八斗所持仕り、親三郎左衛門義は去(さる)々戌年九月中御召捕に相成り、当時祖父蓮台、母、私兄弟とも家内七人暮し、農業渡世罷り在候。然(しか)る処、蓮台義当子(ね)九十弐歳に罷成り、今般御呼出し御見聞被A下置@候通り、殊之外老衰仕り、立居難A相成@、耳遠く言舌相分り不r申、御糺之簾(かど)々聢(しか)と相分り兼候間、是迄見聞仕り候趣奉A申上@候。私宗旨之旦那に相違無A御座@候。右蓮台と申す名者廿七ケ年已(い)前、同人妻病死致し、墓碑建て候節、広宣寺より一同法名附け貰(もら)ひ候儀歟(か)、右不受不施宗門え帰依いたし候義は、先年何年頃に候哉(や)、村内百姓久蔵と申す者有r之、此者より勧め帰依致し、同人等十七ケ年已前病死いたし、其後者村内百姓勘之丞・藤右衛門・私父三郎左衛門、三人にて重く信心仕り候。摂州東高津村法頭恵秀院日寛へ信心之者ども施物(せもつ)取集め遣(つかは)し候由にて、折々御当地福嶋町小松屋文右衛門方へ差遣し候義有r之候処、元より蓮台義無筆にて、殊に老年に付き、何事も右三人へ任せ置き候義に付き、同人名前を以て如何(いか)様之儀取斗(はから)ひ候哉(や)不A相分@ 偏(ひとへ)に難r有宗門と心得、兼々信心致し候儀は相違無A御座@候。伝法を受け候哉否(やいな)や、難A相分@候得共、余人之申し勧め候儀等曽而(かつて)見聞仕り候儀無A御座@候。乍r併、御制禁之宗門え帰依いたし候段、御吟味奉r受候而者(ては)可A申立@様も無A御座@ 奉A恐入@候。以来改宗為r致、勿論家内一同右宗門え携り申す間敷(まじく)候間、何卒(なにとぞ)格別之以A御慈悲@御憐愍(びん)之御取斗(はから)ひ、偏(ひとへ)に奉A願上@候。
 右御糺御座候所、蓮台老衰仕り分り兼候に付き、兼々見聞仕り候趣を以て、私名代にて此段奉A願上@候。
                                       安藤次右衛門知行所
   天保十一子年五月 日                              下総国香取郡嶋村
                                             祖父 善蔵事蓮台
                                             百姓 三郎左衛門
                                               伜 善蔵
                                             差添(さしそへ)人
                                              名主 又右衛門
                                              組頭 新右衛門
  関東御取締御出役
    中山誠一郎様
 
 言い渡された裁許の内容は、摂州(摂津国、大阪府)施王院日妙が遠島になるなどであった。
以下、その請証文から多古町関係の主なものだけを掲載する。
 
一、友右衛門外百四拾三人、不受不施宗門御制禁を乍r存相持ち候段不埒(ふらち)に候得共、御吟味之上回心いたし候儀に付き、証文被A仰付@候上、一同御構(かまひ)無A御座@候段被A仰渡@候。
 〔注〕この一四四人中多古町域の村民は九三人である。
一、岩山村外村々名主組頭共儀、銘々村内之もの共御制禁之不受不施宗門信仰いたし候を不r存罷在り候段、心得方不行届(ふゆきとどき)不埒に付き、名主者過料銭(ぜに)三貫文宛被A仰付@、組頭どもは急度(きっと)御叱り被r置候。
一、浄妙寺日運外四拾七人儀、檀家之者共祖父親已来密(ひそか)に不受不施宗門信仰致し候を不レ存罷在り候段、菩提寺に住職いたし宗旨請合(うけあひ)候詮無r之不埒に付き、一同逼塞(ひっそく)被A仰付@候。
一、福島町権兵衛店(だな)文右衛門儀、不受不施宗門者重き御制禁之段乍r弁(わきまへ)、年来右宗意相持ち候。其上、下総国嶋村勘之丞事善休任r申、摂州東高津村衆妙庵えの法用、其外諸文通等此もの名前を以て取遣(次カ)致し、剰(あまつさ)へ吟味に相成り候而も、他宗には難r改、受不施之日蓮宗に改派いたし度(たき)旨之申分難r立、右始末不届に付き、存命に候得者遠嶋被A仰付@候。
 右之始末可r被A仰付@処、銘々病死いたし、河州(河内国)北条村長光寺(光長寺カ)日慎、無宿清左衛門、下総国嶋村三郎左衛門・藤右衛門・忠兵衛者御吟味中病死いたし候間、其旨可r存段被A仰渡@候。(以下三条省略)
 右被A仰渡@之趣、一同承知奉r畏(おそれ)候。且(かつ)過料銭三日之内に当御奉行所え可A相納@旨被A仰渡@、是又承知奉r畏候。若(もし)相背(そむ)き候はゞ重科可A仰付@候。依而(よって)御請(うけ)証文差上げ申す処如r件。
(署名省略)
    天保十一年子十二月十六日
  寺社御奉行所
 
 多古町域でこの事件に関係して以上のような請証文を差し出したのは、東台村9名、中佐野村10名(内女性3名、百姓兼医師1名)、船越村7名、大原村3名、北中村15名(内女性2名)、南中村3名、本三倉村2名(女性)、林村3名、多古村9名(内女性1名)、島村32名(内死亡1名、百姓兼医師1名、女性2名)、合計93名。香取郡では沢村・助沢村・大堀村・篠本村・万力村・飯塚村・佐原村・荒北村・小川村・高萩村・福田村・吉田村・金原村・岩部村、上総国では武射郡境村・岩山村で合計47名、その他で4名であった。またこれらの村々の日蓮宗各寺も証文を出している。
     〔注〕請証文の署名のうち中佐野村の分が203ページに掲出してあるので参照されたい。
         ※本サイトでは→不受不施派に対する弾圧【中佐野)】に掲載する。

     差上申す御請書之事
一、今般私共儀不受不施宗門一件に付き被A召出@、御吟味之上被A仰渡@、相済み候に付、帰村被A仰付@難r有仕合せに奉r存候。然(しか)る上者、追而(おって)村方え御出役様被r成A御越@、当人共へは回心証文被A仰付@候砌(みぎり)、印形(いんぎょう)差上げ候様被A仰渡@奉r畏候。依而右被A仰渡@之趣相守り、印形差上げ候様可r仕候。依r之御請書差上げ申し候処如r件。
                                       安藤次右衛門知行所
   天保十一年子十二月十九日                          下総国香取郡嶋村
                                          当人惣代  平兵衛  印
                                           同    新右衛門 印
                                           組頭   重郎兵衛 印
  寺社御奉行所                                   同    弥丘衛  印
 
 さらに彼らの止宿先の江戸の旅籠屋も請書を提出している。
 
     差上申す御請書之事
一、今般不受不施宗門一件に付き、寺院方夫々(それぞれ)に被A召出@、御吟味之上逼塞被A仰付@、然る処帰村被A仰渡@候間、帰村之上銘々相慎み罷在り候様、私方止宿下総国香取郡多古村、日蓮宗浄妙寺日運外拾七人え可A申遣@段被A仰渡@奉r畏候。依r之御請書差上げ申す処如r件。
   天保十一年子十二月十九日                                大黒屋茂兵衛
  寺社御奉行所
 
 このようにそれぞれ請書を差し出すことによって当事者は帰村が許され、次のように一件は落着した。
 
 御寺院方逼塞(ひっそく)之科被A仰付@候而罷在り候処 明る壬丑(みずのえうし)正月中旬に不r残御差紙にて被A召出@、右科御免有r之、下旬には村々え帰村致し候事。
 且又、右証文被A仰付@候村々銘々、同年七月上旬に関東御取締小川半蔵様、長谷村玄庵館へ御止宿にて被A呼出@、銘々御証文之印形被r為(させ)r致、村々帰村仕り候而相済み候。
(『下総法難記』)

 不受不施派に対する「天保法難」の弾圧は、これで終わるのであるが、この取調べによって、地下組織の内容、連絡方法などのすべてが幕府に知られてしまった。
指導者を失った上に連絡網を断たれ、回心証文を出して改宗を誓った内信たちは再び地下組織を作ることはなかった。
 弾圧の跡をとどめる島の墓地
 旗本知行地であったため取締がきびしくなかったことと、島村のように探索者が入りにくい要害の自然条件があったこともあって当地の法燈は長く護られてきたということができよう。
 不受不施派研究家の加川治良氏は、『房総禁制宗門史』において、「天保法難」の発端は、幕府の探索によって発覚したものではなく、不受不施派の公許と、流罪にされた法中の赦免を願って、水戸徳川家斉昭公に駕籠訴したことにあるとされている。
また、同じく幕府に禁じられた宗教ではあるが、たとえばキリシタンのように、完全に地下に潜んで信仰していた宗教とは異なり、「天下諫暁」という使命感に基づいて公然と幕府に上書し続けたことが、たび重なる弾圧を受けた原因であるとも書かれている。
 なお、請書を出した寺の内、島村の日蓮宗七カ寺は「無住に付き兼帯」と付記されている。
七カ寺は受派の寺で、島村には多すぎる数であるが、これは受派が不受不施派の強い土地を改宗させるために設けた教線だったのであろう。
しかもこの時期にすべて無住であったという事実は、何を物語るものであろうか。
 「天保法難」で組織の壊滅した不受不施派は、積極的な回復運動を起こすことはできなかった。
宗法を継いだのは比叡山遊学中であった照光院日恵ただ一人であり、その回復運動は日恵の弟子、宣妙院日正と、三宅島からもどった日妙の明治二年の働きを待たなければならなかった。
 しかし、日正らの再興願や、各地の内信たちが出した復宗届に対しては日蓮宗勝劣・一致二派管長の反対があり、また、信仰の自由は政府が認めた宗派にのみ許されるものであるとして却下されたのであった。
 多古町域では明治7年に、日正の弟子義良が、南中村柴田長右衛門、島村戸村藤右衛門を復宗させたことから、復宗運動が始まり、明治8年には水戸村法眼寺住職を相手として、高岡半兵衛・青木与左衛門・平山治郎兵衛・平山四郎兵衛・平山善兵衛・小川久右衛門・関新左衛門らが宗論を行い、その結果復宗することになった。
 明治9年四月十日、宗門再興運動は結実し、日蓮宗不受不施派として派名再興が許され、白日の下を歩みだすと、岡山県御津町の龍華山妙覚寺を本山として、翌年四月二十一日に島村教会所が、同十四年十月二日には玉造教会所が設立され、以後現在に続いている。

◆(※下総中佐野)不受不施派に対する弾圧  下巻641〜
  ※寛政法難(下総中佐野)
  ※天保法難(下総中佐野)

 中佐野も隣接の東台とともに全戸不受不施派である。
したがって集落内に寺院らしき建物はなく、東台と共有の教会と呼ぶ建物を利用して、すべての仏教的行事が行われている。
この教会についての設置変遷については後に述べるが、全世帯が島・正覚寺の檀家になっている。
墓地も東台地内に共同で一カ所になっているが、明治9年に不受不施派が公許となるまでは、字向山に二カ所、字坂ノ上に一カ所あったという。
 ここに、宗旨が公許されてから字向山の二カ所を東台の字妙見前に移したというのは表向きのことで、受派の日蓮宗を装っていながら内実は不受不施派であったため、葬式に当たっては日蓮宗の僧侶を頼んで埋葬するものの、夜になってから遺骸を掘り出して秘かに東台墓地に改葬し、不受不施の隠れ僧侶によって別に回向したという。
 墓石の建っている墓地は仮りのものであり、印しのない東台妙見前の墓こそ祖先累代のほんとうの墓であるとしていたからこそ、明治になって公許されたときには何の抵抗もなく平穏裡に墓地の移転がなされたのであろう。

 さらに不受不施派に対して徳川幕府がいかにきびしい弾圧を加えたかを『年中行事』は詳しく記している。
このことについては説明に代えて日記を原文のまま掲げることにする。

中佐野村文書による寛政法難の一節

一、寛政六年十月(1794)朔日
 御公義様為御用 近村不受不施之僧共被召捕候 但シ御下リ被成候御役人様名前左之通り
    多古本宿名主清兵衛ニ御止宿
  大貫治左衛門様手代原善右衛門、同人手代宮下順蔵、関東郡代様附大嶋友三郎、御小人目附荒井源兵衛、御小人目附大橋善四郎、関東郡代附御普請役荒井平吉郎
 右十月朔日玉作村隠居大屋被召捕 其後隠居被召捕ニ而大家縄御免
 四日当村江御入来信敬被召捕候
 三日嶋村・林村御入来不残被召捕候
 九月晦日頃夜中沢村飯塚村江御入来
 十月十日囚籠九ツ但シ出家斗江戸御勘定奉行曲渕甲斐守様へ指出ス
 同十六日囚籠六ツ同御指出ニ成、内俗壱人玉作村与左衛門
一、十月十九日玉作村御差出シ大家与右衛門 武左衛門入牢被仰付、又右衛門手鎖、沢村同日大家甚五左衛門 武八両人入牢、同廿日嶋村長左衛門 伊右衛門入牢、組頭市郎兵衛手鎖、廿一日飯塚村源兵衛 甚右衛門手鎖、同廿六日嶋村又右衛門 庄左衛門 東台内蔵右衛門 玉造村伝兵衛右四人入牢被仰付候
 中佐野久兵衛・玉作半兵衛嶋村六兵衛三人者宿御預り被仰付候
一、十一月廿七日出家方御裁許相済
 出生玉作 霊鷲院 玉作より出ル
 〃 吉田 信能院 同村より出
 〃 佐倉 是好院 同村より出
 〃 玉作 見寿院 同村より出
 〃 江戸 友善院 西沢より出
 〃 上方 慈円院 本沢より出
 〃 嶋  本性院 飯塚より出
 〃 越後 長遠院 同村より出
 〃 中村 鷲本院 嶋村より出ル
 〃 江戸 鏡心院 同村より出ル
 〃 中佐野信敬院 佐野より出
 〃 嶋  恵賢院 東台より出
 〃 江戸 蓮性院 林村より出
 〃 ハンヤ心見院 同村より出
右拾四人衆 十一月廿七日迠拾人牢死いたし候 残四人御存命ニ而御裁許被仰渡遠島被仰付候
一、俗方五ケ村入牢人之内、林村名主勘兵衛、嶋村庄左衛門、玉造伝兵衛、与右衛門、沢村甚五左衛門、東台村内蔵右衛門、玉造村無宿与左衛門右七人出牢之上病死仕候
    (中略)
 
   差上申一札之事
一、下総国村々百性共地面ニ罷在候不受不施宗派相持候出家共 再応御吟味之上左之通り被仰付候
一、鏡心院日妙義 不請(ママ)不施御制禁並弁乍罷在相持霊鷲院戒弟ニ成リ 殊宗派御免有之候様御度願書差出シ 剰此度改宗可仕存寄無之申立候段 旁不届ニ付遠島被仰付候
一、見寿院守玄 本正院俊静儀 不受不施宗派者祖師日蓮之本意と心得候とも 御制禁之儀乍弁罷在銘々右宗派相持候出家ともよ里改受戒仕旨申立候始末 旁不届ニ付遠島被仰付候
一、恵賢義幼年より不受不施宗派相持候僧之弟子ニ成リ出家仕 是迠右宗派相持内信心仕罷在候得共 御吟味之上他宗ニ者いたし可(か)たく 日蓮宗之内ニ而改派可仕旨申立候段 右申候ハ難御取用 御制禁之儀不弁右宗派相持 他宗ニ者相成かたく旨申立候始末 旁不届ニ付遠島被仰付候
一、玉作村又右衛門地面ニ罷在候霊鷲院義 不受不施ハ祖師日蓮之本意と心得候とも 御制禁之儀弁乍罷在右宗派相持日 (英)戒弟ニ罷成リ 殊ニ日妙 友善ニも授戒いたし遺候段恐入里申候得共 今更改宗難仕旨申立候始末 旁不届ニ付存命ニ候ハヽ遠島可被仰付候処 病死仕候
一、西沢村武八地面ニ罷在候友善義 不受不施御制禁之義乍弁罷在右宗派相持霊鷲院戒弟成リ 殊右宗派御免有之様可仕存寄無之旨申立候段不届ニ付 存命ニ候ハヽ遠島可被仰付処 病死仕候
一、玉作伝兵衛地面ニ罷在候是好院 嶋村伊右衛門方ニ罷在候鷲本院義 不請不施宗派ハ祖師日蓮之本意与(と)心得候とも 御制禁之義弁乍罷在右宗派相持候出家より改受戒いたし 剰改宗可仕存寄無之旨申立候得共 旁不届ニ付存命候ハハ三人共遠島可被仰付処 病死仕候
一、本沢村甚五左衛門方ニ罷在候慈円院 飯塚村伝左衛門地面ニ罷在候潮音院 林村法林寺院居心見院 同村藤右衛門後家か袮地面ニ罷在候蓮性院 佐野村久兵衛方ニ罷在候信敬義 不受不施祖師日蓮之本意と心得候とも 御制禁之儀弁乍罷在右宗派相持 殊ニ改宗可仕存寄無之旨申立候段不届ニ付 存命ニ候ハヽ五人共遠島可被仰付処 病死仕候
右被仰渡候趣一同承知奉畏候 依之御請証文差上申候 如件
前書心見院日迅御仕置之儀 拙僧義も罷出奉畏候 依之奥書印形差上申候
                                          江戸谷中
                                           端林寺 印
   寛政六歳寅(1794)十一月廿七日
 
   天保十壱年(1840)五月廿八日
    八州御取締中山誠市郎様
多古村江御出役ニ付村々御呼出シ之儀ハ 不受不施宗門一条ニ付村中家別名前改メ 壱人別多古浜田屋善兵衛方江男女共役人差添請切ニ相勤メ御役所江御呼出し之上 御糺書銘々宗門之御地頭所役名迠差上候段 左ニ控置事也
 
乍恐御糺ニ付書付以奉申上候
堀金重郎知行所下総国香取郡中佐野村百姓新右衛門女房せ以 同小兵衛 太兵衛 与左衛門 伊兵衛 名主与惣兵衛 山角磯之助知行所同村百姓清左衛門女房げん 左内母 女房やす 石谷友之助知行所百姓九右衛門 同茂左衛門 名主政右衛門 内藤十郎兵衛知行所名主清兵衛 組頭幸左衛門 神尾山城守知行所百姓医師梅英 筒井紀伊守組与力給知百姓善兵衛 名主三木右衛門一同奉申上候
私共義御制禁之不受不施之伝法ヲ受相持候哉之旨御礼被遊候 此段新衛門女房せ以 清左衛門女房げん 権右衛門 太兵衛 伊兵衛 梅英 茂左衛門 左内母や寿義 代々日蓮宗ニ而寺者村内妙道寺旦那ニ相違無御座候 然所同国同郡嶋村三郎左衛門ト兼而存知ハ候者 年月不覚 同人申聞候者 摂州東高津村恵秀院日寛と申法花経之行者有之 此上人経力厚徳ニ預リ時々現世味(ママ)来共安業実ニ難有御忍徳候事ニ付 先祖菩提 先之 祝物として  候様可致旨相進メ且顧有之を一途ニ相心得 去ル酉年中迠者銭弐拾四文 三拾弐文ヅヽ右三郎左衛門江燈明せん(銭)として送る筈ニ候様頼遣し寄依仕居候得者 伝法を受次又ハ余人江相進メ候義ハ決而無御座候
 今般御吟味受候而者可申立様も無御座奉恐入候 御利害之趣承伏仕 以後急度相止メ決而携申間敷候 何卒御慈悲之御沙汰 偏ニ奉願上候
一、三木右衛門 小兵衛 清兵衛 幸左衛門 善兵衛 九右衛門 与惣兵衛 政右衛門義 前同宗同寺旦那ニ無御座 然所私共儀是迠宗門ニ携候儀無御座 親共存命中寄依いたし候義ニも御座可有哉 私共ニおいてハ私共毛度覚無御座候
一、蔵右衛門 や寿 長衛門 勘兵衛 太右衛門 庄右衛門 庄兵衛 茂右衛門 善左衛門 仁兵衛 惣兵衛 兵七 小右衛門 嘉兵衛 勘之丞 市左衛門 佐五兵衛 惣左衛門 平兵衛 吉(ママ) 勘左衛門 藤右衛門 喜兵衛 新右衛門 藤左衛門 半兵衛 右名前之もの村内ニ壱人も無御座候 右御糺ニ付相違之儀不申上候 因玆連印書付以奉申上候 以上
   子五月
                                     堀金十郎知行所
                                      下総国香取郡中佐野村
                                         百姓 新右衛門
                                            女房 せ以
                                            小兵衛
                                            太兵衛
                                            与左衛門
                                            伊兵衛
                                         名主 与惣兵衛
                                      山角磯之助知行所
                                        同国同郡同村
                                         百姓清左衛門女房
                                            げん
                                         同  佐内
                                         母  や寿
                                      石谷友之助知行所
                                        同国同郡同村
                                         百姓 九右衛門
                                         同  茂左衛門
                                         名主 政右衛門
                                      内藤重郎兵衛知行所
                                        同国同村
                                         名主 清兵衛
                                         組頭 幸左衛門
                                      神尾山城守知行所
                                        同国同村
                                         百姓医師 梅英
                                      筒井紀伊守与力給知
                                        同国同村
                                        名主 三木右衛門
                                         百姓 善兵衛
                                         同  権右衛門
    関東御取締出役
      中山誠一郎様
 
一、同天保十壱(1840)六月廿三日八ツ時
 御寺社奉行 松平伊賀守様ゟ村内拾人之もの江御呼出し差紙頂戴いたし 村中惣代而堀金十郎百姓太兵衛 石谷友之助百姓茂左衛門 右総代外差添名主政右衛門 与力給三木右衛門 同月廿七日出立ニ而同廿八日着いたし 同廿九日御奉行所様江着当いたし候 其後寺院ニ而村方惣代同七月九日差紙ニ而十日五ツ半時一同村々寺院迠罷出候儀 先達而多古村江御出役之砌り御調之通り被仰聞 右請書奉差上一先帰村被仰付 村々一同七月十二日十四日迠不残帰村候事
 
    多古御出役江村役人ゟ差出し候一札之下書控
  乍恐以書付奉申上候
                                    堀金十郎知行所中左野村
                                         百姓 与左衛門
                                            兵七
                                            儀兵衛
                                            新右衛門
                                            女房せ以
                                     石谷友之助知行所同村
                                         百姓 茂左衛門
                                     与力給知百姓 権右衛門
                                     山角磯之助知行所
                                         百姓 清左衛門
                                          女房  げん
                                            佐内
                                          母 やす
                                     神尾山城守知行所
                                         百姓医師 梅英
御禁制之不受不施宗門ニ帰依致し 燈明料として少々宛同国同郡嶋村三郎右衛門江相届候段 今般御糺ニ付始而承知仕奉驚入候
私共一同宗門改方不行届段御察当請候而者 一言申立様無御座候 奉恐入候 猶村内精々穿鑿仕以後携不申様可仕候間 何卒格別之御慈悲御勘弁之御取斗偏ニ奉願上候
右御糺ニ付相違之儀不申上候
     子五月
    関東御出役御取締出役
       中山誠一郎様
 
 以上が、不受不施派の僧侶と信徒に加えられた弾圧の事実を、そこに住む村びと自身が記した記録の一部である。
この弾圧からどのようにして逃れようかと策を凝らした苦心の様子が随所に見られ、朴訥な日記だけに、読む者の心に訴えるものがある。
 前段の寛政六年から始まる一連の弾圧を、宗門史は多古法難と規定している。
検索開始に当たって村々の名主に信者名を書き出させ、それを手掛かりにして弾圧が進められたといわれている。
後段の天保十一年からの弾圧は全国的規模で行われ、このときも幕府は、公許を検討する資料にすると称して信者・僧侶名を書いて差出させた。
それを信じて差出したためにその名簿を根拠として徹底的に弾圧が押し進められた。
この名簿を後年「油科帳」と呼んで忌み呪ったという。

下総常盤村>東松崎---------------------

     ●東松崎石造物等所在図

下総松崎檀林/顯實寺
   →下総松崎檀林(法王山顕実寺)

◇下総松崎松葉道しるべ
 ※松崎字松葉に道しるべがある。ここは松崎檀林(顕実寺)入口である。
「多古町史」 より:
 多古から山倉に向う県道と、柏熊からの町道が交わり、顕実寺参道入口にもなっていて、村のおよそ中心地といえるところ(字松葉1910番地付近)に、常磐村時代の道路元標が建てられているが、それと並ぶように石造の道しるべがある。次のように刻む。
「東 豊和古城旭町美ち、玉造秋山丑吉 石井幸太郎 秋山太市 佐藤太一 秋山春次郎 実川
 北 山倉八都小見川道、塙秋山多重 佐藤熊吉 平山安次郎 岩部畔蒜勝蔵、
 西 栗源久賀佐原み地、塙林新一 石井石五郎 林佐助 佐藤佐祐 林甚一 佐藤春吉、
 南 中村多古成田  、南玉造石井由次郎 太田熊太郎 富澤源蔵 宮本飯田久 方田平山吉蔵 平山金蔵 関西観光記念 大正十四季三月」
2023/10/19撮影:
 松崎道しるべ1     松崎道しるべ1


下総松崎勝栄山能満寺  「多古町史 上巻」898〜

 字戸の内1957番地にあり、塙の鎮守厳島社とは狭い水田をはさんで相対する。
由緒・縁起
 『寺院明細帳』(明治初期)では
    千葉県管下下総国香取郡東松崎村字戸ノ内
     千葉県下安房国長狭郡小湊村誕生寺
                    日蓮宗 能満寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 当寺開山日運聖人コトハ安房国長狭郡小湊村平民正木左近太夫舎兄、同国同郡同村誕生寺住職日境聖人ノ徒弟ニシテ日運ト云フ、天文五丙申年(1536)四月当地方ニ来テ旧故妙正庵ト云フ有レ之ニ付、天文五丙申年八月九日一箇寺創立スト、只古老ノ口碑ヲ記載スルノミ 以上
一、堂宇間数 本堂縦七間半横五間半、庫裡縦九間横五間     一、境内坪数 千三百五坪持主能満寺
一、境内仏堂 無之 建物鐘楼門縦二間横二間     一、境内庵室 無之
一、境外所有地 耕地段別壱町壱畝四歩           山林段別三反三畝廿八歩
                           (以下欠落)
 以上であるが、さらに由緒については『過去帳』の一部に、次のようにある。
 「天正三年(一五七五)十一月当山開基勝栄院日運聖人、房州加茂日運寺ト当寺両寺一寺也 運トハ房州正木大膳太夫也、正木左近太夫ノ舎兄也、御知行所松平左門殿領分加茂日運寺ヨリ引キテ山ヲ開キシ寺号也、両山一寺ノ証文廿二世本山日明師御本尊ニ有之、同廿四世映師ノ御証文別ニ有之、並ニ永聖ノ証文有之宝凾ニ収ム(両寺一寺ハ十代心常院日行聖人迄続ク十一世要善院日円聖人当能満寺中興サル)」
 上記の二資料では、その開創について「天文五年」と「天正三年」の両年が記されているが、古老の言い伝えと過去帳記載に約四十年の差がある。
 内陣には本尊多宝塔釈迦如来、多宝如来経義、四菩薩、四天王、前立に祖師像が置かれ、右袖に祖師座像・最上稲荷、左袖に厨子入子育鬼子母神・脇士十羅刹・三十番神・馬頭観世音・天神が納められる。
楼門(鐘楼門):
 下層部は六本の円柱で支えられ、上に二重扇垂木造の、脚部よりはるかに大きな鐘常が乗せられる。
天保九年(1838)九月二十六世日温の時代に建てられたもので、棟梁は村内の及川平兵衛であると伝えられ、同家の墓石に、次のように刻まれている。
「当山鐘楼門者 師龍牙院日温聖人之再建而 棟梁者父円珠院誠貞日敬也 依修復料嘉永四年三月金子拾両納之」
 この楼門は上層部に梵鐘を吊り下げることによって均衡を保つといわれ、太平洋戦争中に梵鐘が献納された後には、およそ同重量の石が吊されている。
その鐘銘は次のとおりであったという。
   奉造立椎鐘一器勝栄山能満精舎常住/奉慎唱満一切経之惣要一千部成就所
   奉自書写超八醍醐妙経十部成弁所 /右白福所修志者慈父常徳院妙正日行
   悲母清光院妙泉日相擬報恩謝徳者也/為妻女真如院晴月妙林日泉証右菩提
   先祖一門法界有無二縁平等抜苦而已/干時宝永第三丙戌龍集六月吉祥日
      施主下総国香取郡方田村住人 平山七郎右衛門命重 法名要性院妙正日光
        同国同郡北條之庄松崎村勝栄山能満寺 十四世放光院日瑞敬白 江戸神田住粉川丹後守作
◆寺内の石造物・石碑
 境内には幾つかの石造物ある。
山門わきの題目塔:
 「天正三年亥(1575)十一月九日」「天和四(1684)」「享保五(1720)」の年号が刻まれる。
入口石段の下題目塔:
 「南無妙法蓮華経奉唱玄号三万部成就 正徳五乙未(1715)十月日 勝栄山能満寺十四世日端十五世日運 下総松崎村題目講中 本妙院円瑞日充丹唇院妙顔各菩提写先棟代々諸霊魂不■院蓮心日浄 本照院妙瑞日耀■善院妙持 寛政四壬子(1792)■二月■訶吉日当山二十三世日境代日喜誌記 石坂願主川島邑那須善兵衛」と刻す。
2023/10/19撮影:
安房賀茂村日運寺と同山一寺で、賀茂村に日運寺を開いた勝栄院日運が後年隠居所として、松崎の地に建てたと伝える。延宝8年(1680)に日運寺から独立し、能満寺となるという。
 石階下題目碑:正面は「南無妙法蓮華経奉唱玄号三万部成就」その他は上に掲載。
 能満寺石階
 松崎城跡標識:城跡は能満寺を中心として、舌状台地全体に広がる。但し、周囲には大きな土塁や曲輪、虎口と思われる遺構が点在するも、現在は能満寺や人家が建ち構造は不明である。
 山門前宝塔2基:1基は題目石で、正面「南無妙法蓮華経 日喜(花押)/當山二十六嗣法」と刻むが、もう1基は全く判読できず不明。
能満寺山門:鐘楼門である。様式や記録から江戸末期の建立と推定される。またこの門の設計図「板絵」が現存するという。
 能満寺山門1     能満寺山門2     能満寺山門3     能満寺山門4     能満寺山門5
 能満寺境内      能満寺本堂      能満寺庫裡      能満寺稲荷明神
 日蓮500遠忌宝塔:日蓮500遠忌の正当は天明元年(1781)であるからその頃の建立であろう。
 大黒天石塔      歴代上人之墓
なお、「多古町史」で云う<山門わきの題目塔:「天正三年亥(1575)十一月九日」「天和四(1684)」「享保五(1720)」の年号が刻まれる。>とは不明である。

路傍の小祠・石宮など

  ※八幡社、諏訪明神、観音堂、馬頭観音、道標、庚申塔など多くのものがあるが、次の2点を取り上げる。

 ◎松崎牛頭天王祠 →下総の牛頭天王

 ◎松崎妙見社    →下総多古町の妙見社


松崎神社

往古からの社である。
中世から近世は北条氏・里見氏などの尊敬を受け、徳川家康からは30石の朱印の寄進を受ける。
旧号は「坂東稲荷本宮」と称するも、明治2年松崎神社と改号し、明治6年郷社となる。
 <詳細は省略>

厳島神社

この社は厳島社(はじめは能満寺境内にあり、別當は能満寺であった)、八王子社(川島八王子社<下総の牛頭天王中>)、天満社(字西岱にあった)の三社が合祀されたもので、それを記念して建てられた一の鳥居には「大正六年五月合祀紀念」とある。

下総常盤村>南玉造---------------------

      ●南玉造石造物等所在図
        (本図南に「金原庵はこの付近?」と文字入するが、庵は金原新田にあった思われ、2km程南方である。)
      ●   南玉造重ね図

南玉造

○多古町史/地域史編/旧常磐村/南玉造 より
◆村の起源 上巻1002
 南玉造をめぐる山野には、数十の古墳が未掘のまま残る。
なお、現在まで南玉造村では、地名に関係すると思われる(玉造の)工房跡と目されるものは発掘されていない。
 現在、栗山川上流に面した丘陵地帯には、玉造台地を中心として8個の古墳群が見られる。その中で注目すべき遺構がある古墳群・城址は次の様である。
・南玉造内野台古墳 京松(経松)
 未発掘のもの六カ所。古墳周辺に不受不施派法難僧の墓が多数ある。
   ※現地未踏査の為詳細は不明。京松(経松)には法難者の墓があるが、これとは別か。

南玉造小玉、妙見台、古小玉古墳
 現在の常磐幼稚園敷地からその南西台地にかけての妙見台に古代住居跡があり、土器の出土と貝殻層が見られる。
 後世「隠れ日蓮の里」といわれ、法難者の墓が多い
   ※現地未踏査の為詳細は不明。妙見台墓地あり。
2023/10/19撮影:
 ここに妙見台墓地がある。
上記の「法難者の墓が多い」との情報に基づき、妙見台の墓地を探索する。
確証はないが、妙見台の墓地で次の写真の一郭が法難者の墓碑を集めた区画であろうと思われる。
 小玉推定法難者墓碑群1     小玉推定法難者墓碑群2
多くの墓碑が並ぶも、判読できないものが多く、偶々判読できたものが次の6基である。
この中には「寂静院日賢」及び意外なかつ驚きの「身延46世妙乗院日唱墓碑」がある。

 小樹院日静聖人:日静については情報なし

 寂静院日賢・揚善院日逗・高善院日隆供養塔
日賢・日逗・日隆三師の供養塔と推測するが、その建立の経緯は不明。

 寂静院日賢・揚善院日逗・高善院日隆供養塔
 :左図拡大図

正面銘文は次のように刻む。

   寛永廿一甲申八月廿四日
  寂静院日賢聖人
           親教師      延宝六戊午(1678)
 南無妙法蓮華経     高善院日隆大徳
                      八月廿四日
    揚善院日逗聖人
     寛文十一辛亥四月■■

※日賢は寛永21年/1644 8月24日示寂

※日逗は寛文11年/1671 4月4日示寂、玉造檀林4世、峯妙興寺18世、「房総禁制宗門史」

※日隆については情報なし、日隆の肩書「親教師」とは不明。

 妙乗院日唱聖人
身延46世除霊の日唱の墓碑(供養塔)があるとは意外であり、驚きである。
※日唱は安永6年5月28日寂、身延46世(除歴後復暦)西谷争乱入牢死(「房総禁制宗門史」)
※日唱については「身延46世妙乗院日唱復暦事件」を参照。
生は下総飯高樋林の近く、幼少より飯高檀林にて学び、明和元年(1764)飯高檀林の128代の文句能化となる。
安永3年(1774)身延46世に晋山、安永5年西谷檀林(日遵)と身延山内権力闘争を引き起こす。
日唱は日遵を不受不施僧として寺社奉行に提訴、逆に西谷檀林側も日唱を提訴、それにより日唱及び西谷檀林は江戸に召喚され、吟味が行われる。
結果、日唱は吟味中に牢死するが、日唱は本意に反し不受不施邪流として断罪され、身延山からは除暦とされる。
一方の日遵は一山騒動・徒党の罪により三宅島へ遠島、その他の関係者もそれぞれに処罰されて事件は落着する。
経緯については、分らない部分も多いし、また日唱が不受不施僧であったとは思われないが、幕府の処断が不受不施邪流という理由であったこと、さらに付近の下総飯高(近く)出身であったことから、不受不施先師として墓碑(もしくは供養塔)がこの地方に建てられたものと思われる。
 日弘銘無縫塔:南無妙法蓮華経 日弘■■ と刻む。
但し、他の情報が分からないので、了心院日弘(慶安2年(1649)8月7日寂。平賀本土寺17世)かどうかは分からないが、了心院の可能性は高いと思われる。
 眞能院日辨墓碑:銘「妙法 眞能院日辨覺位 寛政六甲寅天 十一月十一■」
寛政6年示寂とすれば、この年は多古の寛政法難で多くの犠牲者を出した年である、日辨は不詳ではあるが、多古法難の法難者の可能性が非常に高いと思われる。
 恵正院日行墓碑:銘文「正面:南無妙法蓮華経 側面:妙法 恵正院日行大徳」
日行については情報なし、不明。

・南玉造前野原、坂並古墳
 南玉造と北中の境いで、台地一帯が古墳群である。詳しくは本町教育委員会による『坂並・白貝古墳群発掘調査報告』(昭和53年)にあるが、円墳が37基、前方後円墳が8基確認されている。前野原墓地には、寛政以降の法難僧俗の墓が埋め隠されていた。
   ※現地未踏査の為詳細は不明。前野原墓地あり。
・南玉造柏熊台古墳
 古墳群中の前方後円墳は原形をそのまま残した大古墳で、全長93m、円墳部の直径は44m、4世紀代のものであろうといわれている(未発掘)
   ※現地未踏査の為詳細は不明。
・玉造城址(南台、志代地)
 天正16(1588)年までの玉造城址といわれ、内堀・外堀の跡も残る。城主野平常義の墓があり、不受不施信徒の隠れ庵があった。
   ※下に掲載の得城寺跡(玉造城跡)でいう「≪得城寺書院は、その隠れ庵≫であった」という記述が相当する。
   ※下に掲載の龍華寺の項:得城寺隠れ庵には仏性院日奥筆曼荼羅が秘蔵されていたいう、龍華寺本尊はこの曼荼羅である。

玉造檀林/蓮華寺
  →玉造檀林/蓮華寺

下総常盤村>南玉造(玉宝山)龍華寺
  /玉造庵/本尊仏性院日奥筆曼荼羅
○「多古町史」/地域史編/旧常磐(ときわ)村/南玉造(みなみたまつくり)/宗教/神社・寺院 上巻1042〜より

 字谷(さく)1447番地にある。
本尊は、仏性院日奥筆の曼荼羅で、得城寺隠れ庵に秘蔵されていた不受檀林の書物とともに移されたものである。
  →得城寺隠れ庵は下に掲載の「得城寺址(玉造城址)」及び上に掲載の「◆村の起源>玉造城址」の項を参照。
 不受不施派の禁令が解かれた明治9年四月から、それまで潜んでいた法中信徒らが起ちあがり、中村檀林の並木の坊を譲りうけて明治12年に秋山五郎右衛門家の土地に建てたもので、備前国金川の龍華教会妙覚寺を本山とする玉造教会所がその前身である。
そして昭和27年に一山として独立し、玉宝山竜華寺と称した。
当初は同信20数戸であったが、現在は80戸を数えている。
2023/10/19撮影;
 玉造龍華寺入口     玉造龍華寺本堂     教妙院日耀・前六聖人碑
 前六聖人碑;前六聖人碑は写真のものと推測するが、確認を怠り、別に存在するかも知れない。
 教妙院日耀碑;日耀は不詳であるが、下に述べるように、玉造教会初代ということと思われる。明治21年建立。

◆竜華寺所管の墓碑・史蹟は広く点在する。
●教妙院日耀・前六聖人碑 など
境内には、沙門日量によって明治21年12月に建てられた初代教妙院日耀と六聖人(法難)の碑がある。
そして、同じく西側に秋山華ー詩碑、富澤義昌頌徳碑、富澤桂助(雪堂)碑が並び、東側には医学の黒須巳之吉翁碑などが建つ。
 六万部塚 ・・・・・下に掲載「◆南玉造路傍の小祠・石宮など」の道祖神の道路を挟んだ南側(金原)にある。
            (下の日賢聖人経塚と同じものである。)
 日賢聖人経塚 ・・・・・下に掲載「◆南玉造路傍の小祠・石宮など」の道祖神の道路を挟んだ南側(金原)にある。
               「南玉造石造物等所在図」中の「上人塚」が日賢の塚と思われる。
               (※所在は玉造との境界に接する香取郡金原にある。)
 上人塚(中村檀林講祖日円墓)   →中村檀林開講・開祖慧雲院日円にあり、匝瑳市飯高1699に所在。
 諫迷論(かめろ)様(玉造檀林始祖日遵墓) ・・・・・南玉造京松塚墓地中にあり。
                              →玉造前野墓地に移設されていると思われる。
 前野墓地 ・・・・・下に掲載「◆常盤村>南玉造前野墓地」にあり、寛政多古法難の五人の法難者の墓。
            →現在では「京松塚」や「内野御塚」から多くの墓碑・供養塔などが移設されえいると思われる。
 小玉御塚 ・・・・・不詳、但し南玉造妙見社附近が小玉であり、この付近の墓地にあるのかも知れない。
    など
 ※玉造龍華寺:GoogleMap より
 ※佛性院日奥上人:若干の日奥筆曼荼羅本尊の掲載あり。(龍華寺本尊の曼陀羅の掲載は無し)
 ※玉造龍華寺は祖山妙覚寺末である。
 ※玉造庵:
  下総香取郡多古・中村・玉造の一郭には玉作庵(玉造)・玉作東庵(玉造)などの7庵があったことが、昭和30年に判明する。
    →備前法華の系譜>地下に潜った不受不施派
 ※寛政多古法難
  下総の玉造・島・東台・飯塚・沢・中佐野・林・染井及びその周辺の村々は内信が多く、寛政6年(1794)摘発が行われる。
  この法難でこの地方の組織は打撃を受ける。特に法中は壊滅し、上記の庵も失われたものと思われる。
    →備前法華の系譜>寛政多古法難

なお、谷(さく)に道祖神がある。
 谷道祖神緯度経度:35.76550524936086, 140.50700536718804(龍華寺南100m付近にある。)
「町史」では
 字谷(さく)(南玉造1462番)にあるものは、旧玉造城址の得城寺寺領の畑地の一角で、玉造本村への入口であった。
この一円を今も「道陸神(どうろくじん)」と呼んでいる。
 足の病や疫病に御利益顕著と伝えられ、この石宮には「延享三丙寅天(1746)十二月、願主秋山氏為清」とある。供物の石塊は男根に似た異形の石が多い。
2023/10/19撮影;
 玉造谷(さく)道祖神

●玉造内野道祖神 <「町史」より>
 字内野1096番の1には二基ある。
柏熊への通筋で、古木の楠の木の根元にあり、大型のものは根に抱え込まれて刻字は読めず、もう一基は崩壊している。
●太子講碑 <「町史」より>
 字内野1109番地で、玉造から柏熊に通ずる道端にあり、小さな塚の上に、板碑三基、石塔二基がある。これは大工職、建具職などの諸職人の組合が祀ったもので、守護神は聖徳太子である。太子講と呼ばれ、聖徳太子の崇徳碑を建てている。
 そのうちの主な碑には次のように刻まれている。「聖徳太子千参百年祭記念 大正拾稔盛夏 雪堂書 工業組合員鎌形定吉 平山米吉 石井種吉 佐藤幸太郎 石井筆次郎 黒須林蔵 飛ケ谷元太郎 飛ケ谷留吉 宇井菊次 野平定 宇井眞次 佐藤栄吉」「南無妙法蓮華経 聖徳太子観音妙智力 能救世間 宝暦三癸酉(1753)二月二十二日 南玉造村大介 平六 治助」「聖徳皇太子 文政九丙戌(1826)三月二十二日」
 そして、文政九年(1826)三月建立のものの台石には次の名が記されている。「弥五衛門 惣吉 定八 与助 伸吉 惣助 新助 文蔵 三左衛門 忠吉 林平 貞蔵 嘉兵衛 兵助 林蔵 友七 常吉   蔵   助 民蔵 佐吉 忠治 喜八 佐五兵衛 安蔵 大助 吉蔵 与五右衛門 平蔵 高蔵」
2023/10/19撮影:
玉造内野鳥居と道祖神
 この鳥居と道祖眞は不釣り合いなので、この鳥居は太子講碑のものかも知れない。というのは、太子講碑は附近に見当たらず、あるいは鳥居背後にある塚の上にあるのかも知れない。(塚上は探索せず。)中央に写るのは道祖神である。
玉造内野道祖神:1基の道祖神があるが、上記の推測が正しければ、道祖神1基は少し移動しているかも知れない。
なお、この鳥居と道祖神の地点を北上すれば柏熊に至り、左に分岐し、すぐ左手に入った所が内野御塚(墓地)である。
 玉造内野道祖神1     玉造内野道祖神2

不受不施派の史蹟 上巻1043〜

 龍華寺の所管する不受不施の遺跡や弾圧に抗した人々の墓碑などについて記す。

◆玉造内野隠れ庵跡
 玉造一円に6カ所もあったといわれる。
  ※参考: →備前法華の系譜>地下に潜った不受不施派
1)内野隠し庵・・・※南玉造2168番地、【玉造庵か】
 字内野2168番の石井家屋敷内であるが、裏山の奥から壕を経て森の中の庵に通じ、その小径は外部から覗うことができなかったという。
 不受派の僧がひそかに隠れ住み、また往来して内信者とともに法燈を守り続けたこの庵は、同派公許の後も大正年間まで残されていたし、石井家の隠し仏壇も先々代まで使われていたという。
 この「隠し仏壇」は、不受派と受派の仏壇を背中合わせにしたもので、表仏壇は正面座敷に派手に飾ってあるが、不受派内信者は、その裏面にあって納戸に隠された自派の仏壇に小型の曼荼羅を掛け、表仏壇より先に供え物をして拝んでいたといわれ、死者の臨終経に当って使われた枕「開けずの箱」には、檀林僧の引導文など不受派の秘物が隠されていたという。
2023/10/19撮影:
 玉造内野隠庵跡1:石井家屋敷
 玉造内野隠庵跡2:石井家門、この門構は石井家がこの地の豪農・富農の階層であったことを示すものかも知れない。
 玉造内野隠庵跡3:石井家裏側     玉造内野隠庵跡4:隠庵に至る道であったかも知れない。
2)得城寺書院・・・※得城寺址に記載あり。
 当寺は表面上は受派で、村人に対する一般的な寺請もしていたが、書院に不受派の仏書や曼荼羅を隠し、不受派としての行法は夜になって行ったという。
3)坂中の裏山・・・※位置が特定できず。
 坂中の裏山で、名主五郎右衛門の裏山である。
4)小玉庵・・・※字小玉あるのであろうが、厳密に位置は特定できず。
 小玉庵で字小玉にある。庵の秘蔵していた箱に日蓮筆になる曼荼羅(宗宝)過去帳(玉造法難者の氏名記入あり)などが現存する。
5)金原庵・・・※位置が特定できず。【新田庵か】
 玉造墓地東南約一キロの山林中で、六万部塚、円明谷(えんめいざく)も近く、金原新田熊切家が守っていた。不受派法難者の過去帳が現存し、山中には不受僧の墓石が埋め残されているという。
 ※金原は現匝瑳市、旧八日市場市、南玉造に接し、その南方である。
6)富澤義昌宅跡・・・※全く位置が特定できず。
 周囲は山林で人家から難れている。母屋奥の間の書斎を使ったといわれる。
   →備前法華の系譜>寛政多古法難

◆玉造内野御塚(おつか)  上巻1044〜

  ※明静院日浣碑・慈善院日賢碑など

 字内野2178番地にある。・・・・位置が特定できないが、上記「内野隠し庵」の北方面に墓地(内野墓地)があり、ここであろうと思われる。
墓域中央には古墳状の高さ4mほどの塚があり、四基の石碑が建てられる。
1)明静院日浣碑
 玉造談林五世能化(蓮華寺廿世)明静院日浣の碑であるが、後記日誉の建立によるもので、「南無妙法蓮華経明静院日浣聖人 延宝4丙辰年(1678)七月九日 庚申天日饒敬改■逆立主 安立正国院日誉■■」と刻字される。
2)慈善院日賢(常葉檀林開祖)
 慈善院日賢は刈毛実相寺に常葉檀林を開き、佐倉昌柏寺の二世である。「南無妙法蓮華経 日賢聖人 慈善院 元禄10丁丑年(1697)八月十二日化」とある。
3)日蓮大士五百遠忌報恩塔
 この一基には「南無妙法蓮華経奉漸読妙経一千部 日蓮大士五百遠忌御報恩■題 一千部 蓮光院日能口題八百卅部、天明元辛丑歳(1791)十月十三日■■■(削られた跡あり)」とある。
4)安立正国院日誉碑
 日誉は玉造の鈴木家出身で、常葉檀林(刈毛・実相寺)9世、佐倉昌柏寺3世を歴任した学僧である。
碑文は次のように刻まれる。「南無妙法蓮華経 安立正国院日誉聖人位 開示悟入 伝之智見大 享保6年辛丑年(1721)十月二日化」
日誉は、生前に自分の先師同信諸聖の墓を建る。(70基とも90基ともいわれる)

◆玉造内野「本妙院殿」碑  上巻1045〜

 塚(上記の内野御塚であろう)の左手にある低い塚に三基の石塔が並び、その左端の石は「本妙院殿」碑である。
碑はに「妙法 本妙院殿 顕常日住大姉 延享元甲子(1744)四月二十九日逝去 施主 蓮性院宇幸是日解 芸州大守娘川鰭(かわばた)三位殿簾中 甲陽源姓跡部一族霊魂 道喜居氏妙教了教慧光」と刻す。
 「本妙院殿」とは、安芸国広島城主(42万石余)浅野安芸守綱長の六女で、公家の河鰭(かわばた)少将輝季へ嫁した人である。
このことについて広島市に照会するが、次のような回答を得る。
         記
 1、本妙院殿顕常日住大姉は、広島藩4代藩主松平(浅野)綱長の女充姫、初め種姫。元禄17年(1704)正月二十八日生。延享元年(1744)四月二十九日卒去。河鰭輝季の内室。(Wikipediaでは「水野忠幹正室、のち森長生正室、のち河鰭輝季室とある。)
 2、河鰭氏は、代々神楽をもって朝廷に仕えた公家の家柄で、本妙院殿が嫁したのは権中納言従二位河鰭輝季であり、宝暦5年(1755)六月五日に52歳で逝去とある。(公卿辞典)
 3、跡部一族(日誉に帰依していた旗本)との関係について、寛政重修諸家譜等の系図に不詳。
 4、日蓮宗不受不施派を保護した人物に、広島藩2代藩主浅野光晟侯の内室、自昌院がいる。
  また川鰭氏について広島市立図書館は、次のように記している。
  カワバタ氏。河鰭氏。公家。本姓藤原氏。権大納言滋野井実国の二男参議公清、一家を創して河鰭と称す。
 代々神楽を以て朝廷に仕え、明治に至り華族に列し子爵を授けられた。
○公清―実隆―公頼―実益―公村―季村―公邦―実村―公益―実治―季富―公虎―基秀―実陳―季縁―実詮―輝季(本妙院の夫)―頼季―季満―実祐―公陳―実清―実利―公述―実文―公篤―実英
 
 広島藩主浅野氏は不受不施派の外護者であるが、二代光晟夫人自昌院は、幕府の諸藩に対する不受派弾圧に抗し切れず、元禄4年(1631)天台宗に改宗している。ただ、それが表面だけのことであったか否かは、今にしては不明である。
 また、常葉檀林(実相寺)は旧得城寺とともに広島国前寺の末寺であり、日誉の学識と活躍ぶりからしても、浅野氏の強い外護があったことと思われ、自昌院の血脈を引く本性院(本妙院か)が日誉を尊崇して、高位の公家の内室でありながら不受派の内信を続けていたこともうなずけよう。
 この本妙院碑は、当地の不受派僧(あるいは日誉か)が広島の地を訪れたとき浅野家の恩義を受けたことから、その報恩の意を込めて、本妙院と日誉に帰依した旗本跡部氏の供養のため、日誉の二十三回忌に当って日解(蓮性院)。林の法林寺歴代。寛政多古法難により同6年(1794)十一月牢死)が建てたものであるといわれている。
 →蓮性院日解は林・法林寺を参照。
 ※蓮性院日解は林の法林寺歴代にその名がない、不受不施僧であった故と推定される。
 ※法林寺歴代である蓮性院日解は寛政6年(1794)寛政多古法難により十一月牢死する。
  「日蓮宗不受不施派読史年表」長光徳和・妻鹿淳子、開明書院、昭和53年 「年表」169に記載
 ※浅野家自昌院及びその血脈を引く本妙院との下総不受不施僧侶との繋がりを今に伝えるのは、「本妙院殿碑」であり、また下総玉造得城寺および下総常葉檀林(苅毛檀林)(実相寺)が広島國前寺末であるという本末関係なのであろう。
2023/10/19撮影:
 本妙院殿ほか墓碑     本妙院殿墓碑     本妙院殿墓碑・側面
 妙浄院墓碑:妙浄院貞正日全■/享保九甲辰(1794)と刻むも、妙浄院貞正日全とは不明。

◆常盤村>南玉造京松塚墓地 上巻1046〜
   長遠院日遵墓碑/生知院日述供養塔/日奥日樹日賢・日弘・日領・日充供養塔/他多数

 字京松台2073番地にあり、「経松塚」ともいう。
   ※京松塚墓地(京松台墓地)は今は南玉造共同墓地ともいうようである。
    GoogleMapの航空写真で南玉造共同墓地想定位置での墓地らしき映像を確認。
不受不施派僧の墓碑、供養塔が数多くあって小さな墳塚が幾つも起伏している。
 その中で「カンメイロン様」と呼ばれているのは、玉造檀林開基長遠院日遵の墓碑である。
 日遵は常に幕府の政策の誤りを諫め、俗権が宗法を支配することは許せないとして「諫迷論(かんめいろん)」を著す。
その碑文は「諫迷論主 日遵聖人三百五十遠忌記念碑 昭和十四年初終 南玉造信徒中」と刻す。
 これに対する石塔が一対あり、「于旹明和元年甲申(1764)八月吉日 施主道清」とある。
 次の塚には三基の石塔がある。
それぞれ
「妙法南無日蓮大菩薩 南無日朗菩薩 南無日像菩薩」
「妙法日述聖人 延宝九年辛酉(1681)九月朔日」 ※生知院日述である。
「随縁院受清日照〓:げたマーク(表示不能文字)の表示≫ 明和二乙酉(1768)正月二十六日 宝暦四年甲戌(1754)十月十三日 林村所生俗名氏大矢藤介正勝法号 随縁院受清日照逆修」
と刻す。
 また別の塚に四基あり、
「南無日奥聖人 日樹聖人 日賢聖人 日弘聖人 日領聖人 日充聖人」
「観明院日秀覚位 承応第二之天(1654)六月中旬八日」
「安立院法樹日久霊 妙立院日性逆修 寛文元(1661)年辛丑八月中旬五日」
「自性院日逞〓:げたマーク(表示不能文字)の表示≫ 寛文二壬寅六月朔日三十四歳 当談所 宇徒文育、玅(妙法)≪〓:げたマーク(表示不能文字)の表示≫法界利益無窮 源三位頼政三男判官顕綱末孫大河内氏信清長子 是真院殿道徹大居士 八幡太郎義家五男奥五郎義時末秋池氏義■之娘 真受院殿妙照大姉」
のように読み取れる。

◆常盤村>南玉造前野墓地 上巻1047〜

 字前野1611番の2が所在地である。
 多古を中心に、寛政6年(1794)の秋、不受派の大弾圧が行われる。   →寛政多古法難
この場所に次の五人の法難者の墓が発見されている。
 霊鷲院日享    寛政六年十一月二十五日 
 是好院日理大徳 同年同月二十六日 
 得円院法重日身 同年同月十四日 
 信行院常法日種 同年十二月七日 
 一相院法達    同年十一月十七日
  いずれも牢死とされているが、拷問、または断食死によるものといわれる。
 右のうち日享・日理は玉造の庵主で、日身・日種・一相院はそれぞれ与右衛門・与左衛門・伝兵衛を俗名とした玉造村農家の出身者である。
2023/10/19撮影:
 前野墓地は玉造龍華寺の管理という。(「町史」)

 上述のように、玉造前野墓地に上に記載の五人の法難者の墓が発見されているという。
しかし、今般は、探索も不十分で、上記の5人の墓碑は発見できす。
 推定法難者墓碑群その1-1     推定法難者墓碑群その1-2:いずれの墓碑も銘文の判読がしがたい。
本墓碑群では判読し得た次の2基について掲載する。
 寂照院日元墓碑:元禄四?■■■/妙法寂照院日元■位/四月十六日と刻す。
寂照院日元については「房総禁制宗門史(以下・房総)」「日蓮宗不受不施派読史年表(以下・年表)」に記載がなく、詳細は不明。
 元禄5年年紀墓碑:側面に元禄五壬申天/六月十五日と刻する。
正面の銘は未確認だが、寂年から調査すれば「理應院日淳」である可能性が高いと判明。
理應院日淳については、
 「房総」p.275では「元禄5年6月15日・理應院日淳断食死・玉造檀林・61才」、p.291「玉造妙長寺出寺玉造談林断食」とある。
 「年表」p.107では「元禄4年6月15日・理應院日淳玉作で断食入定する。61。元禄5年6月15日とも。」とある。

 推定法難者墓碑群その2:墓碑群その1の背後(南側)にも不受不施派遭難者の墓碑(推定)が集められている。
ここの墓碑も銘文が判読し難く、また探索も不十分で大半の墓碑の詳細は不明である。
 妙應院日宗墓碑:正面は「妙應院日宗聖人」、左側面は「安永九子年(1780)」と刻する。
 「房総」p.294では「妙應院日宗 5月13日寂」とのみ記載される
 恵敬院日逢墓碑:「恵敬院日逢」と刻む。
恵敬院日逢については
 「房総」p.295では「文政7年11月6日寂玉造村」とある。
 「年表」p.180では「文政7年11月6日没、下総玉作村の住」とある。

◎前野墓地・不受不施派先師の墓碑・供養塔類
 「多古町史」編纂の後、この前野墓地には、上述の「玉造京松台墓地」及び「内野御塚」などから多くの不受不施派先師の墓碑・供養塔類が、移されたと推定され、「不受不施派先師の墓碑・供養塔類」が林立する一画がある。
 前野墓地の一画
(移設が推定される墓碑・供養塔類は8、9基であり、京松台墓地及び内野御塚に存在するとされるもの内、移設の確認ができないものは5基程度ある。)
不受不施派先師墓碑群1:左図拡大図

不受不施派先師墓碑群2

不受不施派先師墓碑群3

不受不施派先師墓碑群4

不受不施派先師墓碑群5

不受不施派先師墓碑群6

墓碑・供養塔類:前列(南面)向かって左より
 半折倒壊墓碑、竜遠?院日泉、舟形墓碑(不確認)、駒形墓碑(不確認)、法行院日順、■龍院日鳳、談所開基祖日遵、日述聖人墓碑、日■聖人、實成院日饒、慈善院日賢、昌晃院日長

墓碑・供養塔類:中央列:向かって左より
 駒形墓碑(不確認)、本具院日正、成隆院日■、(唱題)都合一万部成就、安国院日講、日蓮日朗日像搭、宝暦12年石灯篭、日蓮五百遠忌搭、境智院日圓

墓碑・供養塔類:後列(北側)向かって左より
 延壽院日亮、日奥/樹賢弘領進充、元竜院日悟、石灯篭(不確認)、唱題都合五千部成就碑、日遵三百五十遠忌碑、石灯篭(不確認)、安立正国院日誉、明静院日浣、宝暦12年石灯篭
である。


▼前列(南面)向かって左より

日遵聖人(玉造談所)
日述聖人
日賢聖人

▼前列(南面)向かって左より
 半折倒壊墓碑
 竜遠?院日泉墓碑
  銘文:享保十六辛亥/竜遠?院日泉■/四月上■■日■ (情報なし)
 舟形墓碑(不確認):写真なし
 駒形墓碑(不確認):写真なし
 法行院日順墓碑
  銘文:宝暦九卯/示寂法行院日順覚位/七月四日 (情報なし)
 ■龍院日鳳墓碑:■は文字不明
   (情報なし)
 談所開基祖日遵:長遠院
  【京松台墓地より移設と推定】
  銘文:寛永■年十■■■六日■■/南無妙法蓮華経 談所開基祖日遵聖人[即是?/道■]/法華文句講?■就之日■
   (承応3年(1654)10月30日遷化)
 日述聖人墓碑:生知院
  【京松台墓地より移設と推定】
  銘文:延宝九辛酉(1691)/妙法 日述聖人/九月朔日
 日■聖人墓碑:安立正国院日誉の建立であろうが、中央の日号が読めず聖人の名は不明。
  銘文:安立正国院日誉聖人為?子所■/妙法 ■■清浄舎利■日■聖人/元文三戌牛年十一月■■日金■■
 實成院日饒墓碑
  銘文:宝暦十二壬丑年/妙法 實成院日饒/十月廿五日
  「年表」p.155:「宝暦12年11月24日實成院日饒没(11月26日とも)不見派の祖、下総林村住」
  「房総」p.282:「宝暦12年10月25日寂、不見派を開く、85歳」 同p.295:「宝暦12年11月24日寂不見派林村」
 慈善院日賢墓碑
  【内野御塚より移設と推定】
  銘文:慈善院/南無妙法蓮華経 日賢聖人
 昌晃院日長墓碑
  銘文:宝暦四甲戌天/妙法 昌晃院日長/壬二月十八日  (情報なし)

▼中央列:向かって左より

日講聖人
日圓聖人


▼中央列:向かって左より
 駒形墓碑(不確認)
 本具院日正墓碑
  銘文:寛延四辛未■/示宋?本具院日正大徳?/正月中■五日
  「房総」p.281:「寛延4年1月15日本具院日正寂、下総玉造村蓮華寺」
 成隆院日■墓碑
  銘文:文化八未十二月八日/妙法成隆院常善?日■/行年七十一才  (情報なし)
 (唱題)都合一万部成就:おそらく唱題一万部成就記念碑と思われる。
  銘文:(1行目判読不能)/■■院受清日昭?■/奉開會[讀誦■/唱■■]都合一万部成就/■■■■
 安国院日講墓碑
  銘文:我不愛身命但惜無上道/南無妙法蓮華経 安国院日講聖人/奉捧玄号五百五十部御報恩謝徳
  ※経緯は不明であるが、不受不施主流派(日指派)主体と思われる墓所に講門派(津寺派)関係の墓碑がある。
 日蓮日朗日像供養塔
  【京松台墓地より移設と推定】
 宝暦12年石灯篭
 日蓮五百遠忌碑
  【内野御塚より移設と推定】
  銘文:奉漸讀妙経 五百遠忌/南無妙法蓮華経 日蓮大士/一千部 御報恩
 境智院日圓墓碑
  銘文:宝暦二壬申/南無妙法蓮華経 境智院日圓(花押)/九月二十四日

▼後列(北側)向かって左より

日遵聖人(諌迷論主)
日浣聖人

▼後列(北側)向かって左より
 延壽院日亮墓碑
  銘文:宝暦■■■年/示寂延壽院■■日亮各位/十一月六日■■  (情報なし)
 日奥日樹日賢日弘日領日進日充先師碑
  【京松台墓地より移設と推定】
  銘文:南無日奥正聖人(日樹聖人/日賢聖人/日弘聖人/日領聖人/日進聖人/日充聖人)
 元竜院日悟墓碑
  銘文:寛延二己巳/南無妙法蓮華経日悟/十二月十三日
  「房総」p.280:「寛延2年(1749)12月13日 元竜院日悟寂 下総玉造村」 同p.290:「元竜院日悟、寛延2年12月13日寂、不見派」
 石灯篭(不確認)
 唱題都合五千部成就碑
  銘文:清題二千四百余部 禪定院日悦大徳/奉唱玄各? 都合五千部成就/開會二千六百部 忠證院日順大塔
  (日悦・日順の情報なし)
 日遵三百五十遠忌碑
  【京松台墓地より移設と推定】
  銘文:諌迷論主/日遵聖人三百五十遠忌記念碑/昭和十四年初冬南玉造信徒中
 石灯篭(不確認)
 安立正国院日誉墓碑
  【内野御塚より移設と推定】
  銘文:安立正国院/南無妙法蓮華経 日誉聖人位
  「房総」p.297、279:「享保6年10月3日寂、佐倉長柏寺3世、常葉檀林9世、玉造生まれ」
  「年表」p.131:「享保6年10月3日正国院日誉没(59)安立、下総刈毛檀林能化、下総玉造無村隠居」
 明静院日浣墓碑
  【内野御塚より移設と推定】・・・安立正国日誉の建立(側面に銘があると思われる)
  銘文:明静院/南無妙法蓮華経 日浣聖人
 宝暦12年石灯篭
  銘文:宝暦十二壬午年五月吉日(1762)

◆南玉造路傍の小祠・石宮など 上巻1048〜

∇六万部原道祖神:
  ※数基あるが次の1基を取り上げる。
  <下記とは別に、玉造龍華寺の項に谷(さく)道祖神を掲載する。>
 字花立四六三番の二に一基あり、ここは多古町と八日市場市境界の道路端である。
通称【六万部原】と称された中心部で、現在は畑地帯になっており、日蓮宗三談林(松崎・中村・飯高)の能化であった【日賢の六万部塚】(※所在は金原)<→下総金原六万部塚(寂静院日賢経塚)>に接している。旧街道の飯高・松崎・玉作・中村道の合流地点でもある。
 石宮で、異形の石の供物が十数個あり、その背面に次の刻字がある。「道祖神 享和元年酉(1801)九月吉日」
 この後部に石造の案内道標があり、それには「四国西国廻礼 天照皇太神参拝記念 此方飯高 匝瑳 八日市場道 此方松崎山倉両社香取 佐原道 此方多古 成田 芝山道 大正十三年九月建之 南玉造那須徳太郎 富澤幸太郎 石井松太郎 野平藤三郎」とある。現在周囲は畑地として開かれたが、かつては100Ha(1000平方km)余の森林帯であった。
 ※推定花立の道祖神:北方から撮影、写る「石宮」が道祖神であろうか、異形の石の供物とは不明。
 背後に小さい石碑らしきものが写るがこれが「案内道標」であろうか。
 この推測が正しければ、向かって左(東)の薮中に【日賢の六万部塚】があると思われる。
 「南玉造石造物等所在図」中の「上人塚」が日賢の塚と思われる。
 なお、この【日賢の六万部塚】・花立の道祖神の東南方の地名が金原(現匝瑳市・旧八日市場市)であり、
 隠し庵(金原庵)のあった場所であろうと思われる。
2023/10/19撮影:
 玉造六万部原     六万部原道祖神・道標     六万部原道祖神
 六万部原道標:刻銘については、上に掲載。

∇内野題目塔
 字内野1714番の1にある。現在は畑地の中であるが、古くは古墳の上にあり、村に悪疾が流行して多くの死者を出したとき、平癒祈願に建てられたと伝えられる。書の手習いをした子供などの天神講中がよく参拝したものであるという。
「宝永四丁亥(1707)二月之営 南無妙法蓮華経 唱題三千部成就 内野一結男女」と刻す。
  ※蓮華寺参道入口付近に1基の題目塔があるが、これであろうか?
∇前野題目塔:「南玉造石造物等所在図」に記載されるが、GoogleMapで探すも不明。
 字前野1670番の2で、街道に沿ったもと秋山五軒党組の火葬場跡という。「南無妙法蓮華経 元文五庚申歳(1740)十月下浣八日 舜郎院日成■■」と刻す。

 ※以上のみ記し、他の遺物は省略する。

◆南玉造妙見  上巻1027〜

 → 下総多古町の妙見社の項にあり。

◆南玉造石井稲荷大明神  上巻1030〜

 南玉造字宮田台1136番地で、宮田の水田を前にした丘の中段に祀られている。
 周囲は古い城址を偲ばせるような地形で、屋敷跡と思われる平地も残される。台上の畑には古墳らしい塚も現存する。
 この社は参道左側に住む石井家の先々代が、霊感を得て勧請したものであるといわれる。
そこに自然石様の板碑があり、次の刻字が見られる。
  (表)為悦衆生故   天下泰平
    南無妙法蓮華経春勧請石井稲荷大明神
    現無量神力   五穀成就
  (裏)明治二十一年九月匝瑳郡木積村平山金右衛門 年六十四歳奉勧請
拝殿右手に上屋付の馬頭観世音塔が四基あり、うち二基は明治三十九年と昭和三年のもので、他の二基は無刻である。
 稲荷明神勧請板碑      稲荷明神馬頭観音塔:背後に左記の板碑が写る。(※写真は何れもGoogleMapより転載)
2023/10/19撮影:
 すでに、社殿は退転している、おそらく題目・稲荷大明神の板碑は社伝跡に移設されたものと思われる。
また、稲荷大明神の信仰は基本的に農耕神としてのものであろうが、日蓮宗の隆盛な地域では、稲荷に限らず神仏が日蓮宗と結びつくと題目と結合される傾向が見られる。
さらに、この地方では(東国一般に)馬頭観音が祀られることが多いと思われる。西国の農耕は牛が主であるが、関東では農耕も馬が主であるということなのであろうか。
 玉造石井稲荷明神     石井稲荷社殿跡1     石井稲荷題目碑     石井稲荷題目碑銘文
 石井稲荷社殿跡2      石井稲荷石階        境内馬頭観音4基1     境内馬頭観音4基2

下総常盤村>南玉造得城寺址(玉造城址) 上巻1035

 字南台1349番の2。円教山と号す。広島國前寺末。
南方の地続きは南台、西方は堀跡から志代地に連り、東北側は水田に面している。深い空堀があり、要害、堀井などの地名が今も残り、東西それぞれの中腹に湧水池がある。詳しい文献はないが、応安の頃(1368〜71)には野平伊賀守常言、文明(1472〜86)の頃には野平伊賀守常清がここにいたといわれている。
 天正16年(1588)に野平伊賀守常義は僧籍に入って開城、古小玉的場の庵に入った。
この石御堂が得城院と号した得城寺の前身で、平賀本土寺九代であった妙光日意が、初めて庵を結んだところという。
 蓮華寺に遺る日意の曼荼羅には「玉造之内 的場之御堂本尊也 応仁2年戊子(1468)十月一日」と記されている。
その後日進のときに古小玉から玉作城址に移り、得城院から円教山得城寺と改めた。
 明治12年三月二十三日火災に遭い焼失したまま、25世真章院日憲を最後として長崎県上浦村(現長崎市上浦町)に寺籍が移り、過去帳および他の什物と檀家の一部は蓮華寺に移される。
 この檀家は不受不施の内信が多く、禁制時代に≪得城寺書院は、その隠れ庵≫としてひそかに内信活動を続けていた。
  →この≪隠れ庵≫には仏性院日奥筆の曼荼羅が秘蔵されていて、現在それは玉造龍華寺本尊となる。
 寺跡には歴代住職のほか多くの墓碑が残されており、城址を伝えようとする断碑が半壊のまま残り、その傍らに一基の板碑があって、次のように刻まれている。
 「南無妙法蓮華経 得城院日進上人
 北総香取郡常磐村南玉造故得城寺者 元和元年(1615)日進上人之開基而本山芸州広島国前寺之末寺矣 偶明治12年三月二十三日堂宇焼儘 弥来荏〓:げたマーク(表示不能文字)の表示≫逸再建之時機遂臻於移転寺 于長崎県西彼杵郡上浦村焉之是時明治四十二年八月也 乃檀家之面々為報恩謝得起塔者也 明治42年12月3日青巖秋山春謹書 建設者南玉造区石橋重次郎 伊藤伊之助 秋山政五郎 石橋留次郎 秋山菊松 石井政五郎 伊藤茂吉 山口長八 鈴木亀次郎」
 寺跡から空堀をへだてた東側の台地上に八幡宮が祀ってある。城主野平伊賀守の守護神であったと伝えられているが、現在は野平家の氏神となる。木造と石の小祀である。
 ※玉造の村の起源でいう「玉造城址>不受不施信徒の隠れ庵」とは「≪得城寺書院は、その隠れ庵≫としてひそかに内信活動を続けていた」という記述が相当すると思われる。
 ※「得城院日進上人」と刻する板碑は現存する。
    得城寺址墓石;中央の板碑が日進板碑である。(GoogleMap より転載)
 ※長崎上浦に寺籍を移した円教山得城寺は広島國前寺末であるが、その由縁は不明。國前寺中にあり。
●2023/10/19撮影:
得城寺跡は玉造城跡の南の一郭にあったと思われるが、堂宇跡などの遺蹟は見当たらない。
ただ、南の一郭には樹木の無い平坦地と墓石類が整理されて残る。この部分に得城寺があったと推測するばかりである。
 玉造得城寺跡1:向かって左が玉造城の主郭で、右に得城寺墓石類が写る。
 玉造得城寺跡2     得城寺墓石類1     得城寺墓石類2     得城寺墓石類3
 得城院日進供養塔     玉造得城寺跡板碑
 得城寺墓石類配置図
  得城寺墓石類は次のように配置される。(番号は写真上の表示する番号に対応)
  (1)半欠・解明できず。
  (2)南無妙法蓮華経 ■■遠完尼/寛文六癸丑(1666)/四月十二日
  (3)妙法 ■信院日慧/享保十八癸丑(1733)/二月十八日 ※■はム+又の漢字で読めない。
  (4)當寺十四世 遠照院日道大徳
  (5)妙法 妙仙尼/延宝八庚申(1680)■/二月■一日
  (6)浣領院久栄日富/縁久院■■日了
  (7)南無妙法蓮華経 妙現霊/元禄丙子(元禄9年(1996))
  (8)南無妙法蓮華経 得城院日進
  (9)板碑半欠
  (10)判読できず不明。
  (11)正面:南無妙法蓮華経 日■(花押)、側面に刻銘があるが写真がないので不明
  (12)写真なし
  (13)妙法 成珠院妙忍日想灵■/奉唱満題目七千部成■■/■■方■品自我偈三千四百返
                    (灵=霊、■の文字は分らないが屋か墓か?)
  (14)写真なしで不明
  (15)写真なしで不明
 下総玉造城跡1     下総玉造城跡2     下総玉造城跡3     下総玉造城跡4
 下総玉造城跡5     下総玉造城跡6
 玉造城跡八幡宮     玉造城跡道祖神

下総常盤村>南玉造(常慶山)妙頂寺 上巻1037

 字志代地1336番地にある。南玉造城址の北側にあり、通称”要害の坂”から参道が続く。
 明治の寺院台帳の記録によると、 
   千葉県管下下総国香取郡常磐村南玉造字志代地
                               中山法華経寺末 日蓮宗 妙頂寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 真言宗ノ僧之日慶代之応安年中(1368〜74)本寺法華経寺三代目先師日祐弘通ノ節 教ニ依テ宗旨及ビ寺号改称
     創立、慶応3卯(1867)三月八日自火ニテ本堂庫裡焼失、明治元戊辰年再興
一、本堂間数 間口五間 奥行三間   一、境内坪数 四百七十九坪   一、檀徒人員 百十八人(以下略)
 火災のため、史実を知る文書はないが、過去帳の一節に「当山開基嘉慶元年(1387)五月浄心院日慶上人」とあり、本堂の「ざる鐘」には「鏑木山正賢寺」の刻名が見られる。
 境内入口の右側にある石塔には「南無妙法蓮華経 文化12亥乙年(1815)霜月祥日 常慶山妙頂寺」と刻まれる。
同じく左手に「常磐実農会」の記念碑が建っている。この実農会は大原幽学の性学思想を実践した集まりで、広沼の篤農家志波兵左衛門の指導を受け技術指導のみならず、品評会、協同販売と協同購入など、明治から昭和初頭に至るまで活動した。記念碑の建立は昭和八年である。
 参道入口の左の板碑は、地元志代地御備社講が神酒を供えて祀る「大古久天(大黒天)」である。「具一切功徳 慈眼視衆生 南無妙法蓮華経 大古久天神 福聚海無量是故応頂禮 海蓮目大 嘉永五壬子(一八五二)五月甲子講中 造立之」
 この講中の神事は笛太鼓の囃子で賑やかな行事であったという。
2023/10/19撮影
 板碑(大古久天):大古久天は大黒天、妙頂寺入口にある。上に由緒掲載。
 玉造妙頂寺参道     玉造妙頂寺題目碑     妙頂寺本堂・庫裡

下総常盤村>南玉造(妙法山)柏熊正岳寺  上巻1038

 字柏熊3765番地にある。
柏熊集落の台地中腹に位置し、かつて服部新田といわれた当集落の生みの親ともいうべき多古藩家老・服部与五左衛門と深いかかわりのある寺である。
 明治の『寺院台帳記録』によると、 
   千葉県管下下総国香取郡常磐村南玉造字柏熊
               本寺 中山法華経寺末 日蓮宗 正岳寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 本寺ハ元同国同郡大堀村賢徳寺九世住職日淳、寛永元年(1624)八月十三日同村ヘ一宇草創 4世住職日道代元禄13年(1700)二月十八日右寺ヲ当村ヘ移転
一、本堂間数 間口七間 奥行五間    一、境内坪数 六百三十五坪    一、檀徒人員 百四十人
 このように記され、
さらに由緒については天保年中に差出した『正岳寺由緒』によると、次のようである。
     乍恐御尋ニ附奉申上候
一、御領分南玉造村柏熊新田正岳寺由緒
 今般御尋ニ付過去帳棟札之写ヲ以申上候
 当寺建立之意趣者御領主松平豊前守様以御肝煎 同領内大堀村ニ有之法性山正岳寺今南玉造村之内柏熊新田寺院依無之
 引寺被御仰付中山正中山法花経寺直末ニ相成候
 元禄十三年辰正月九日日遺ト申僧入院仕候 雖然此所山野ニテ有之故 御領主以捨御威光御領国之諸人足立合
 時之御奉行有井氏同月廿一日より当地江御出、多古御代官星野平左衛門殿御家老服部与五左衛門殿より被申附御出其節田畑山林当村之鎮守大六天之林 当寺之支配ニ被相定候
一、御領主様より御寄附田地壱町三畝余但シ三人扶持名目ニテ拝領仕候地所ニ御座候
一、両尊打鋪幡一流  服部与五左衛門殿   一、打鳴一口     有井定兵衛殿   一、三具足      星野平左衛門殿
一、鬼子母神高祖大士 大堀村より持参
 此時永代不朽為資助金三両以積利分伽藍致相続様 服部氏より御寄附有之候事難有仕合ニ御座候 右御家老高橋勘作殿御佐勤之節御尋ニ付申上候
   天保5午(1834)五月申上候
                                       旦方総代組頭
     差上申一札之事
一、正岳寺無住ニ付当分之内諸什物者散在無之様 猶又火元大切ニ寺内惣躰念入取締リ可仕候段被仰渡奉畏候 依之御受
   一札如件
   天保12丑年(1841)正月日                    旦方総代 金兵衛
                                          善兵衛
  御触頭御役僧中
 
 現在の建物は後年に改築されたもので、山門だけが往時の面影を伝える。
 境内の右側に題目塔が二基あり。
それぞれ「南無妙法蓮華経 到清院凉池信士 文化3丙寅年(1806)五月廿一日、嘉永2己酉年(1849)七月十二日当山廿三世日就代法性山」「南無妙法蓮華経 当山21世 亮星日遂 法性山」と刻す。
 右手にある題目塔は日蓮五百遠忌のもので、安永8年(1779)の建立である。そして刻字は、「在己亥宗門発軫日百拝立之 施主檀越現安後善 正岳寺不軽院日宏(花押) 金壱両惣檀中 金百疋女講中 同利右衛門同平兵衛 銀一斤金右衛門 金百疋金左衛門同    銅  市右衛門 金百疋弥 衛門 同吉兵衛 同惣左衛門 同七右衛門」となる。
 この題目塔と並んで、当寺の大檀越でもある服部与五左衛門の供養塔があり、「普政院古信日慧居士 享保6辛丑歳(1721)七月十日卒 下ノ総州南玉造村新田開発之本願主当寺中興大檀越服部与五左衛門之墓 為本村役人柏熊新田中右服部氏報恩 寛政4歳在壬子(1792)十月令造立之者也 法性山正岳寺十五世珠妙院日義(花押)男女講中」とある。これと並ぶもう一基の題目塔は、文化10年(1813)に十八世日顕のときに建てられたものである。
 奥の墓地中央には、当山の歴代を記した碑があり、「当院開山日淳大徳 慶長2丁酉(1597)五月七日 二祖正行院日念覚位 正徳5乙未(1715)七月五日 中興了岸院日遺覚位 正徳2壬辰(1712)十一月廿四日 施主 当寺三世日昌 弟子 享保9甲辰天(1724)霜月二十四日」と刻す。
2023/10/19撮影:
柏熊正岳寺
 山門横題目石:上にある通り、銘文は「南無妙法蓮華経 到清院凉池信士 文化3丙寅年(1806)五月廿一日、嘉永2己酉年(1849)七月十二日当山廿三世日就代法性山」
 柏熊正岳寺山門1     柏熊正岳寺山門2     柏熊正岳寺山門3
 柏熊正岳寺境内1     柏熊正岳寺境内2     柏熊正岳寺本堂
 柏熊正岳寺題目石:正面銘:「南無妙法蓮華経 池上大坊48世日善(花押)」(養壽院日善は平成7(1995).2.27寂)近年のものである。
 題目石・供養塔3基     日蓮五百遠忌報恩塔:安永8年(1779)の建立
 服部与五左衛門供養塔:正面銘:「普政院古信日慧居士」、服部については上に解説あり。
 唱題一千部成就寶塔:正面銘:「南無妙法蓮華経 唱題一千部 成就之寶塔」であり、文化10年(1813)に十八世日顕の建立であろう。
 正岳寺歴代墓碑     正岳寺歴代墓誌     正岳寺歴代旧墓碑1     正岳寺歴代旧墓碑2
 正岳寺宗吾霊廟     正岳寺宗吾霊廟供養塔
 宗吾は惣五郎という義民であり、下総国印旛郡公津村(佐倉藩領)の農民(富農)との記録が確認され、実在とされる。
佐倉藩の苛政に対し、将軍家光(あるいは家継)に直訴、惣五郎夫妻は磔刑となり、男子4人も死罪とあると伝承される。(直訴の確実な史料はないという。)
死後、宝暦2年(1752)惣五郎親子の百回忌の年であるとして「涼風道閑居士」の法号を諡され、寛政3年(1791)には堀田正順により徳満院の院号が贈られる。

下総常盤村>川島・方田・坂---------------------

川島村     ●川島石造物等所在図

川島山妙蔵寺  「多古町史 上巻」826〜
 字下353番地にある。かつては南玉造・松崎街道に沿っていたが道路が変更され、現在は県道多古・山田線の北側となった。日蓮宗である。
 当寺は、明治以前は神仏混交のため、星宮大神<下総多古町の妙見社中>の別当として運営され、明治初頭には小学校や常磐村役場、隣接各村の登記役場となった時期もある。
 明治の『寺院台帳』によると、
  千葉県管下 下総国香取郡常磐村川島 字シタ
                          (松崎檀林)顕実寺末 日蓮宗 妙蔵寺
一、本尊 十界曼荼羅
一、由緒、開山ハ日乗ト云フ、寛正四年癸亥(1463)十一月六日ヲ以テ寂ス、年暦四百廿二年ナリ、由緒無之ニ付創立年月等不詳因ッテ村内古老ノ口碑ニ由レバ、当寺ノ山号ヲ川島山ト曰フ村名ト同称ス。故ニ古跡トスル乎、只開山ノ死去年月ノミ明也。
一、本堂間数 間口七間半 奥行四間半     一、鐘楼堂 方一間半     一、境内坪数 百七拾九坪
一、檀徒戸員 十壹戸(以下略)
 という。
 参道入口にある題目塔(高さ85cm)には、「南無妙法蓮華経 高祖五百五十遠忌 報恩謝徳 文政十二己丑年(1829)十月摩 吉日 当山廿一世日周(花押)」と刻まれ、院内墓地には当寺八世以降の墓石がある。
 鐘楼に吊られた梵鐘は、太平洋戦争の際に供出したが、それには次のような刻字があった。「天下泰平 国家安穏 下総国香取郡川島村妙見尊天 寛政十一己未年(1799)三月吉日 願主那須東暁 統春 森定七 小島幸助 鈴木専蔵 鋳工東都神田住粉川市正 藤原国信作 施主江戸講中」
2023/10/19撮影:
 川島妙蔵寺入口題目石     川島妙蔵寺本堂     川島妙蔵寺本堂内部     川島妙蔵寺庫裡
 妙蔵寺歴代墓碑


川島妙法山蓮成寺址  「多古町史 上巻」827〜

 字谷213番地にある。
旧小学校跡地から宮本に至る旧通学路の左側に墓地があり、その北側の、現在山林になっている平地が蓮成寺址であるという。
 飯高城主平山氏が退隠して入寺したといわれるが、年号、歴代など不明な点が多い。
ここに参考として『香取郡誌』からその記述を転載する。
 蓮成寺址。常磐村川島字谷に在り今耕圃たり 寺伝に曰ふ 本寺は僧日門なるもの之を開基し 永禄中蓮華坊日性之を中興す 日性旧と平山氏持常(刑部)と曰ふ 故あり僧となり本寺に退隠せりと 明治卅五年九月大風の為め寺堂壊倒せるを以て 之を本寺顕実寺に合す。(顕実寺への合併認可は、大正三年一月二十六日である)
 平山時常、同常時墓。同村川島字谷旧蓮成寺域内に在りと 時常三河守と称す(一に持常に作る)飯高城主なり 香取古文書に飯高五郎及び北條荘役所地頭飯高彦次郎等あり 蓋し時常の祖ならむか 時常永禄九年十二月廿三日を以て卒す 子常時刑部少輔と称し天正十六年十二月十五日を以て卒す 伝へ曰ふ 時常は千葉氏の裔にして 祖先以来本村を領し 天正の末年に至り農に帰し 子孫尚存す。
 この寺址に隣接して墓地があり、十二世日恵、二十四世日昌の墓碑と、次のように刻まれた高さ60cmほどの題目塔が建つ。正面に「南無妙法蓮華経 宗祖日蓮大士 五百遠忌報恩」左右に「奉唱誦有題三千部 久遠偈三千巻」「安永大十辛丑天(1781)十月十三日 願主当邑講中 廿四世日昌代」
 ※GoogkeMapで見ると、跡地に行く道は不明確で、おそらく山林に還りつつある可能性あり。南西の馬頭観音は確認できる、常盤小学校記念碑は道を挟んだ東側に移転してある。そこからの進入路が曖昧になっている。
2023/10/19撮影
 下総川島馬頭観音:南から蓮成寺址に至る辻に馬頭観音が祀られる。ここから蓮成寺址へはすぐである。
川島蓮成寺址
 蓮成寺址歴代墓碑:向かって右から、25世日大・背後に不詳墓碑・日登・背後に自然石墓標・21世日演・24世日昌・12世日恵・不詳墓碑・石灯篭等残欠である。
 25世自千院日大墓碑:當寺廿五世自千院日大聖人/文化七庚午(1810)歳/■月初五日
 宣示院日登墓碑:宣示院日登聖人/弘化乙巳二(1845)年/■■十五(?)日。なお背後右の墓石は未調査、背後左に自然石があるが墓碑と思われる。
 廿四世済(?)龍院日昌墓碑:廿四世済(?)龍院日昌■/寂年は判読できず
 21世智研院日演墓碑:當寺廿一世智研院日演大徳/明和七庚寅(1770)年/九月二十一日
 十二世浄心院日恵墓碑:十二世浄心院日恵大徳/元文二丁巳(1737)年/二月十五日造立
 ■成院日■墓碑:妙法 ■成院日■/貞享二年か?/八月十■■
 石灯篭等残欠
 日蓮500遠忌報恩塔1     日蓮500遠忌報恩塔2:正面銘文は上に記載、下に掲載の谷墓地横題目塔である。

谷墓地横題目塔
石造物等所在図に「題目塔」が記載されるが、言及なし(不明)。
2023/11/20追加:この「題目塔」は蓮成寺址にある「日蓮500遠忌報恩塔」を指す。

方田村     ●方田石造物等所在図

方田延命山法光寺  「多古町史 上巻」984〜

 字台117番にあり、村落のほぼ中心地である。
日蓮宗で、中興の観貞日誠尼の師である日栄尼は瑞龍寺の流れをくみ、現住職もまた尼僧である。
 明治十二年の『寺院明細帳』では
  千葉県管下下総国香取郡方田村
                   同郡東松崎村(松崎檀林)顕実寺末  日蓮宗 法光寺
一、本尊 十界曼荼羅
一、由緒 当寺開祖ヲ日乗ト曰フ、隣村川島妙蔵寺ト其祖ヲ同フス、然ト雖モ村内別ニ寺跡有ヲ見ザレハ則チ村民移住ノ後チ造立セシ者ナラン乎、抑モ往古真言宗ノ寺跡ナリシカ四百五十年前日蓮宗ニ改宗シ日乗ヲ以テ当時ノ開山トナス、由緒無之ニ付村内古老ノ言口ヲ以テ略記致シ候
一、本堂 縦六間 横四間三尺     一、庫裏 縦五間 横三間三尺     一、境内坪数 四百四拾三坪 民有地第二種
一、境内仏堂 壱宇     釈迦堂 縦一間 横一間
一、本尊釈迦仏
 由緒 該堂ハ村内ノ中心ニ位置シ維新前八百万神ヲ勧請セシカ、其後チ御趣意ヲ以テ諸神ヲ浄地村社内ニ遷座シ奉リ、村民尚空堂ヲ毀ツ事ヲ不敢セ、乃チ釈迦ノ一躯ヲ安置シ今ニ釈迦堂ト唱ヒ、方今修繕ヲエ保存仕候   建物  無之
一、境内庵室  無之
一、境外所有地   耕地反別七反弐畝廿七歩 方田村ノ内地価金弐百六拾円五拾四銭六厘   山林反別  無之   宅地反別  無之
一、住職 法光寺住職加藤貞庁     一、檀徒人員 百七十八人     一、県庁迄距離 拾三里十六町
 以上
    右之通取調候処相違無之候也       明治十二年十一月廿四日
 
 内陣には三宝諸尊・鬼子母神大善神・日朗菩薩・釈迦牟尼仏・釈迦湼槃像・妙見像の諸尊が安置され、寺宝として「病即消滅不老不死」と書かれた日蓮上人真筆。村雲御所様真筆。錦幔幕。「南無妙法蓮華経南無三十番神衛護 諸仏救世者於大神通 為悦衆生故現無量神力 文化十四丁丑年(1817)二月朔日」と記された三十番神曼荼羅がある。鰐口は直径が30cmほどで、「文久二戌(1862)安久山木下源兵衛」の文字が見られる。
 過去帳には寛正四年(1463)以来の歴代住職名が記されているほか、文化九年(1812)の火災後、本堂・庫裏の再建に努力した檀家一同の様子が、克明に記録されている。
寺内の石塔・石碑
 山門左手に三十番神の小堂がある。
法華経を守護する三十の神々を祀るものであるが、堂内には厨子に入った一尊が安置されている。
 堂の前に二基の板碑があり、「南無妙見大菩薩 智婆神龍姫霊 明治二十九年丙申五月十五日建之 功宇井忠兵衛」「二十三夜大月天王奉誦久遠偈四万巻成就 奉誦久遠偈十万巻成就 甚左衛門 和吉 与兵衛 忠兵衛 天保九年戊戌(一八三八)四月造旃 明治二十六年癸巳五月再建之 佐兵衛 清左衛門 平左衛門」、そして台石に「宇井久兵衛 伊藤佐吉 石橋貞治郎 平山三左衛門 宇井宗三郎 越川作二郎 平山清蔵 平山治平衛■■■■ 石橋清左衛門■■■■ 石橋儀右衛門 宇井国太郎 平山金蔵 平山市太郎 越川重兵衛 石橋清三郎」とそれぞれ刻まれる。
 山門前左手には文政十二年(1829)造立の題目塔があり、その左側にある宝篋印塔は寛文七年(1667)のものである。
 山門をくぐった右手には、明治十九年に建てられた薬師如来の碑がある。
 これらに並んで歴代住職の墓石があるが、一きわ大きい石塔に「大正九年三月二十二日没 瑞法院殿日栄大法尼宗祖百五十年御遠忌記念トシテ恩師之碑延命山第四十一嗣法子観貞日誠建之 維時昭和五年十月忌辰会之砌 日誠越川重兵衛長女也『ありがたや仏の道に法燈の光さやけく永く輝け』(日誠辞世)」と刻まれている。これは当山四十一世渋谷観貞尼が師の供養のために建てたものである。
 観貞尼は、明治二十年に村内の越川重兵衛家に生まれて「つぢ」と名付けられ、のち北中渋谷櫂太郎に嫁いだが、日露戦争に出征した夫が戦死したことから、その菩提を弔うために髪を落して、日蓮宗の門跡寺で京都市村雲の地にあった(現在は滋賀県近江八幡市)瑞龍寺に入り、法主伏見宮貞愛親王の王女日栄尼のもとで修業を重ね、ついには生地の法光寺住職となった人である。
墓地:
 墓地は法光寺から約500mほど離れた字アラク229番地の一にある。川島に向う道筋で、ここから宮本・山倉へ通ずる近道が分かれる。
 この辺は近隣に名高い難所で、今でこそ畑の中の明るい霊園であるが、古くは山林に囲まれ昼なお暗い墓地であった。
 つる草が頭上を覆うほの暗い道を通り抜けると、田の中間を流れる川に架けられた一本の丸木橋のところに出る。たまたま夜道になった人達が、木の間陰れに見え隠れする新墓の白張提燈を化物と見違え、恐れ急ぐあまりに、度々川に落ちたという。
 こうした話がいくつかの怪談となって、幅約1mの木橋に架け替えられた大正時代まで続いたということである。
 立ち並ぶ石塔には、元禄時代(1688〜)からのものも多く見られ、もと焼き場の一隅にある同寺開山日乗聖人の供養塔には、「南無妙法蓮華経日蓮大士 奉唱首題一千余部 延命山開基日乗聖人 寛正四年未(1463)十一月六日 天明元辛丑(1781)十月十三日建立 惣施主那須儀左衛門 越川重兵衛 当村講中」と刻まれる。
 またここには、方田の集落にとって忘れることのできない、文化九年(1812)正月二十八日の大火災によって死んだ二人の幼女の墓があり、「妙法妙空嬰女」「妙法妙岸嬰女」とそれぞれに刻まれる。
 その大火災について、語り継がれる古老の談話を採録すると、「村の中央あたりから出た火は、折からの寒風に煽られ、冬の乾ききった建物に次々と燃えひろがり、村の人達がかけつけた時は、とても手に負えない火勢になっていた。猛威をふるう火の中に肉身を呼ぶ声、救いを求める声、それはまさに地獄絵そのものである。
 その時逃げまどう多くの人達の混乱の中で、たまたま出会った二人の少女があった。家が隣り同士で、ふだんから遊び仲間であった二人は、互いに手をとりあって村のお寺の庭に逃げ込んだが、ここにもたちまち火の手が迫って来たので、火の粉を除けて本堂の縁の下に身を隠した。しかしその炎は二人を抱いたままの伽藍に燃えうつり、ついに本堂も崩れ落ちてしまった。
 地獄のようなひと夜が明け、寺の焼跡から二人の無残な焼死体が探し出された。身元も見分けられないありさまであったが、二人の母親達は、焼けただれた遺骸にわずかに残った着物の縞が、自分で織って子供に着せた縞柄であると見分け、涙ながらに引取っていった」ということである。

方田路傍の小祠・石宮など  「多古町史 上巻」988〜

 題目塔
 字宮台465番地の2の古墳の上に二基建っていて、村落の人達は「経塚」と呼ぶ。
 法光寺は、かつて真言宗であった時代があり、また不受不施派に属したときもあって、この塚の周辺に同派の石塔場があったといわれている。いずれかの宗派の経文を納めて塚を築いたことから経塚と呼ぶのであろう。
 明治の時代は村所有地であったが、のち払い下げられて、現在は私有地になる。
 石碑には題目と「十三日講中 方田村願主宇井氏越川氏平山氏 宝暦八戊寅歳(1758)霜月十三日 願主石橋氏伊藤氏」と刻まれ、もう一基には題目と「南無本師久遠釈迦 南無本化上行日蓮 明治九年丙子已来在処々戦死霊魂 明治十一年十二月日久遠偈三万五千巻成就願主平山   平山所左衛門 平山治兵衛 宇井庄兵衛 越川市郎兵衛 平山源助 平山三左衛門」とある。
 (※以下省略)


坂村      ●坂石造物等所在図

坂宝成山妙高寺  「多古町史 上巻」948〜

 字谷373番地の一にある日蓮宗の寺院で、檀家は27軒余である。
明治12年の『社寺明細帳』では、
   下総国香取郡坂村字サク
                  同郡東松崎村(松崎檀林)顕実寺末 日蓮宗 妙高寺
一、本尊 十界曼荼羅
一、由緒 当寺往昔真言宗ノ寺跡ナリシカ 文明八年(1476)ノ頃日蓮宗ニ改宗シ 日頼ヲ以テ当時ノ開祖トス 文明十三年辛丑(1481)五月五日ヲ以テ寂ス 天保十年(1839)ノ頃ニ至リ 該寺火災ニ罹リ故ニ古書什器等焼失シ由緒ト称スベキモノナシ 依テ本寺ノ記録ヲ抜萃シ記スルノミ 創立年月等不詳
一、本堂 間口六間 奥行四間半
一、境内仏堂 壱宇  建物  方二間
 子安堂 本尊 吉祥天女 由緒 天女ハ世上ニ所謂鬼子母十羅刹女ナリ孫子成育ノ守護ヲナス事神ノ如クト称シ殊更ニ女人ノ帰依スル所ナリ 是ヲ以テ古来ヨリ子安堂ト唱ヒ造立在リ今ニ至ル迄保存致シ居リ候
一、境内庵室 無之
一、境外所有地 反別壱反九畝拾四歩坂村土仏  山林反別 無之 宅地反別 無之
一、住職 右寺無住ニ付兼務同郡東松崎村顕実寺住職中川順要     一、檀徒人員九拾二人
一、県庁迄距離拾三里十四町四十間五尺
                                             以上
            右之通取調候処相違無之候也   明治十二年十一月廿四日
 とあるが、当村最古の寺院との口伝もある。
 また、『常磐村郷土誌』は「往古ハ真言宗ナリシト云フ、現存鰐口ニ梵字アリ、僧日頼ノ開基ニシテ山王権現ノ別当職タリ、九世日饒四仏釈迦尊ヲ安置ス、運慶ノ作ナリトイフ」このように記している。
 九世日饒のとき、一時は不受不施派にも属したが、度重なる弾圧に堪えきれず転向した。
明治に至るまで鎮守日枝大神の別当であったことは、上記のとおりである。
なお、寺宝として安置されていたといわれている運慶作の釈迦尊は、現在は見当らない。
 本堂内にある笊鐘に「下総国香取郡東坂村宝成山妙高寺廿四世嗣法詮秀代 願主惣檀方中現安後善 文化六己巳稔(1809)十二月吉辰」とあり、境内入口の右側にある題目碑には「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子 五百遠忌為報恩謝徳 二十二世日教 安永九庚子歳(1780)二月日 惣村講中先祖菩提施主石橋氏」と刻まれている。
 また、同所にある板碑の一枚に、文和三年(1354)の年号が見られることは前記(※省略)のとおりであるが、これによっても、当寺由緒の一端がうかがい知れるといえよう。


坂妙解山妙行寺  「多古町史 上巻」950〜

 字小中内六六〇番地の一にある。日蓮宗の寺院で、檀家は二七軒余である。
同じく、『社寺明細帳』には、
    下総国香取郡坂村字小中内
               同郡東松崎村(松崎檀林)顕実寺末 日蓮宗 妙行寺
一、本尊 十界曼荼羅
一、由緒 当寺開山ヲ中道日秀ト曰フ文明十六年甲辰(一四八四)ヲ以テ寂ス其ノ後若干ノ星霜ヲ経歴シテ嘉永五年(一八五二)ニ至リ火災ニ罹リ堂宇焼失シ故ニ由緒無之 依テ本寺ノ記録ヲ尋ヌルニ 天文中(1532〜54)筆者日精ノ棟札並ニ元和九年(1623)ト棟札アリト記載アルノミ
一、本堂 間口三間三尺 奥行五間三尺     一、境内坪数 五百六拾四坪
一、境内仏堂 壱宇    釈迦堂 間口弐間 奥行弐間三尺    本尊 釈迦仏
  由緒 抑モ此ノ堂ハ開寺以来ノ造立有之者ナラン乎 当時ノ老輩ト雖モ縁由ヲ知ル者ナシ 只釈迦堂ト唱フルノミ 代々ノ住僧檀徒ノ余力ヲ請ヒ修繕ヲ加ヘ正ニ保存スト雖モ 近年ニ至リ村内ノ宗旨二脈ニ分離シ 遂ニ廃頽ノ萌芽ヲ生シ之カ破毀ニ趣ク事ヲ如何センヤ 然リト雖モ当寺ノ住職タル者該堂保護ノ任ヲ逞フセスンハアルヘカラス 扨此ノ堂ハ当寺火災ノ際ニ当リテ其難ヲ免ルナク由緒無之ニ付当時ノ現形ニ従テ略記致シ候
一、境内庵室無之 
一、境外所有地  耕地反別 壱反壱畝弐歩 坂村ノ内   山林反別 無之   宅地反別 無之
一、檀徒人員 八十六人    一、県庁迄距離拾三里拾四町四拾間五尺 以上
 と記され、『常磐村郷土誌』には
「文明十六年(1484)八月ノ創建ニシテ、僧日秀開基ス、往古真言宗ナリ」と記録されている。

 由緒の文中にもあるように、火災のため諸記録は失われ、その詳細を知ることはできないが、鈴木四郎兵衛家に伝えられる日譲の曼荼羅に「天保十年(1839)本堂再興」と記される。
 本堂内には明和八年(1771)年号の徳川家将軍初代から三代までの位牌があり、境内の石燈籠には「奉献燈籠一基 報恩謝徳兼本如院日超菩提 高祖大菩薩為五百遠忌 功徳主鷲本院日悟起立 維時天明元辛丑(一七八一)九月」と刻まれ、題目碑には「日蓮大菩薩高宗五百遠忌宝塔也 施主妙解山檀中併郷中 安永十辛丑歳(1781)十月十三日廿世」とある。
 この妙行寺では、かつて宗教行事の一つとして、子供たちによる次のような習わしがあったという。それは、毎年旧暦四月八日の灌仏会に行われたもので、村内の五歳から十三歳くらいまでの童児が、親方と呼ぶ年長の男子を指揮者にして、前日の七日に次のような囃子言葉を叫びながら各家々を回り、米や豆の喜捨を受ける。
  おしゃかの米取米かんじん、あづきかんじん、ぜにかんじん、アトからチョッポがみそかんじん。
 集めた米や小豆や金銭を寺に持ち帰ると、母親達が赤飯や甘茶を作り、別に家々から持ち寄った手料理も合わせて、母子が一しょに住職の法話を聞きながら一夜を過ごすのである。
 明けて当日は、多勢の参詣人には昨日集めた豆で作った煎豆が売り出され、子供達は、釈迦像を乗せた輿を紙細工で飾り付ける作業をして昼食がすむと、住職を先頭に輿をかついで行列を組み、寺から砂子橋へと進む。ここで輿の周囲を飾った紙細工に火が付けられ、炎に包まれた輿が激しくもまれると、火の付いた紙飾りは次々と振い落とされていく。そして最後に、炎によって浄められた釈迦像がその尊像を現わし、やがてこの像が寺に帰ってこの行事は終わる。
 ここで、当集落の仏教についてふり返ってみると、少数の新しい教義のものを除いて、そのほとんどが日蓮宗である。
宗祖日蓮が弘安五年(1282)池上本門寺に入寂の後、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人の高弟が身延山に久遠寺を建て、天文の法難その他の苦難を乗り越えて広く布教された日蓮宗は、その間、本迹一致派、本迹勝劣派に分かれ、後に宗派内の分立もあったが、明治九年に本迹一致派は日蓮宗と総称することになり、総本山を身延山久遠寺とし、四大本山を池上本門寺・京都妙顕寺・本圀寺・中山法華経寺と定めた。
 このことから、妙行寺は本迹一致派から出た日高の教えを奉ずる中山法華経寺の門流であり、妙高寺は、同じ本迹一致派から出た日輪の教義を信奉する池上本門寺の分脈といえる。
 また、他に22軒ほどの不受不施派がある。これも日蓮を始祖とする日蓮宗の一派であることはいうまでもなく、多古周辺には多くの信者があり、妙行・妙高の両寺もこれに同調した時代もあったが、厳しい弾圧を受けて転向したという。
 現在当集落にこの派の寺院はなく、22軒の檀徒たちは、南玉造(玉宝山)龍華寺をその菩提寺としている。

坂の墓地 「多古町史 上巻」953〜

 墓地は、字平台499、同501番地、字ガケラントウ468番地の2、同469番地の2、寺院境内の計五カ所にある。
 古い年号の刻まれた墓石が多く、他の集落では元禄(1988〜)以前の墓石は珍しいといわれるが、ここには元和九年(1623)、寛永四年(1627)など、多数見られる。
ガケラントウ墓地
 樹木の密生する斜面中腹にあって、まだらに木もれ日が落葉に当っているさまは、秘められた聖地の感をいっそう深くする。
ここに建つ一基の板碑に、不受不施派に深いつながりのある六人の僧名が併記されているが、その一人一人についての概要は次のとおりである。
 円明院日照大徳 他の記録には「日正」と。同一人であれば、南玉造に不受不施派の庵を開いた人。享保四年十一月五日寂。
 了高院日真大徳 林の法相寺十五世。天明元年十月二十四日寂。南玉造に墓あり。
 玆本院日貞大徳 東台隠居と呼ばれ、同村の庵に住み寛保三年二月五日寂。
 高真院日舒大徳 島に住む。延享二年二月二十七日寂。
 鷲本院日悟大徳 中村の産で島南庵に住む。寛政六年十一月十三日牢死。
 真鷲院日妙覚位 出生・住居ともに不明。『寛政法難記録』に「十一月十五日日妙牢死」とあり、同一人か。
◇平台墓地:
 ガケラントウ墓地とは対象的に、丘陵先端に位置した明るいところで、字蔵王からこの地へ移したものといわれている。
 大小の古墳状の塚が無数にあって、不受不施派が弾圧されたとき、同派の墓石を埋めて塚状に盛り土したものであるともいわれ、また、近年になって塚を築いたものもある。その塚の一つに自然形の石柱が建てられていて、「千人塚 昭和二十二年十月 鈴木幸四郎建之」と刻まれている。
 これらの塚の上には、石塔が建てられているが、そのうちの元禄十六年(1703)の題目碑はほぼ完全な形で残り、「奉唱満題目一千部成弁 元禄十六癸未十月十三日 自法界合識 同行十余人 下総国坂村 及川儀右衛門 細野庄二郎 越川長兵衛 鈴木志兵衛 高山長五郎 斉藤喜兵衛 及川半七 富山与八郎 白鳥半兵衛 高澤甚之亟 鈴木甚五郎 高山三十郎 山崎孫八郎 山崎宗貞 佐原静詠」と刻まれてあり、断片のものに「題目首題一万部 元文三年(1738)」「元文五庚申天(1740)」などと読み取れるものがあった。
 この墓地の西側にある道路が東松崎との境界となっているが、道沿いにある塚は、寛文の頃、内山村との境界争いに勝訴した坂村に対して、怖れをなした東松崎の村人達が、一夜にして塚を築いたものであるという。
 なお、同地近辺の畑から土器片が出土することもあるということである。

下総中村>北中------------------

       ●北中石造物等所在図
       ● 中村北中重ね図

○「多古町史」>地域史編>旧中村>北中 より
◆村のすがた  下巻145〜

 現在の多古町は、栗山川および沿岸の水田によって東西に二分されている。
その東側台地の半分に近い面積を占めているのが旧北中村で、村内はさらに六つの集落に分かれる。
久保(くぼ)・北場(きたば)・神行(かんぎょう)・谷津(やづ)・宮(みや)・坂並(さかなみ)である。
 このうち、北部の南玉造に接した集落が坂並であるが、ここはその成立が特異で、昭和29年の町村合併までは集落内が中村と常磐村に分かれ、それも普通考えられるように、主要道路・河川などによって区分されたものではなく、櫛の歯状に一、二戸ごとに所属の村を異にしていた。
 これは、貞享3年(1686)にはじめて集落となったとき、個々の家がそれぞれ出身地の親村へ帰属したことから、このようになったといわれるが、今でも北中と南玉造にほぼ半数ずつが所属している。ちなみに、新戸籍が編制される直前(明治4年)に、北中村に属していたのは、桐谷氏二軒、宮内・関口・五十嵐・鈴木氏がそれぞれ一軒ずつであった。

中村>北中壺岡城址/常顕寺址  下巻176〜

○「多古町史」>地域史編>旧中村>北中 より
◆壺岡城址
 北中・宮字常用553番地で集落の東方突端にあり、一段と高台になる。
三方を水田に囲まれ眺望に恵まれた場所で、両側の台地に面した部分は薬研堀状の道路によって隔絶されており、北側の山林内は斜面が二段の崖地となっていて、一見して要害の地であると知れる。
  壺岡城址(航空写真あり)
 ここは、武蔵守日野宰相宗頼を祖とする七代後裔の直季は多摩郡平山館に居て平山を姓としたが、それよりさらに五代を経た季信が、相模・武蔵とともに下総中村を所領して居城としたところである。
平山季信は中山3世日祐に師事して日擁と称し、北場浄妙寺を建てたことで知られる。
 その後和泉守季助のとき北条氏に従って小田原に戦ったが、長男光義は山中城に討死し、北条氏の滅亡とともに二男季邦らを伴って中村に帰り、後、弓矢の道を捨てたという。
◆常顕寺址
 城主平山季助たちが戦いに加わって不在の間、壺岡の留守を守っていたのが大木仁兵衛玄蕃といい、廃城の後僧侶となって草庵を建て、戦役に散った人々の菩薩を弔ったといわれる。
その草庵が後の常用山常顕寺である。
この常顕寺についての記録はほとんど見当たらず、五人組改帳などにその名が見られる程度であるが、廃寺跡の一隅に歴代住職の次のような供養碑が残存する。
  開山 正乗院日顕
  二世 妙用院日宣
  三世 妙音院日宝
  四世 □□院日迢
  五世 蓮行院日栄
  六世 進□院日請
  八世 本竜院日等大徳  享保二年(1717)四月十五日
  九世 通本院日道大徳  寛延二年(1749)
 そして一基の板碑があり、そこには「三千部 元文五(1740) 奉唱 目 常用山 南無妙法蓮華経 十三日講中 常顕寺男女 当時九世通本院」と記す。
 現在は、城跡のほとんどは大木家が所有し、歴代住職の位牌も同家に祀られる。
城主末裔の平山家と大木家とは前記のような関係があることから、平山氏五軒の当主たちは新年の早朝に大木家へ集まって先祖の霊を礼拝し、然る後に年始の諸行事をとり行うのを例としていたが、このことは、近年までなされていたということである。
 最後に、『香取郡誌』の旧蹟誌の項に書かれていることをここに転載して参考に供す。
 「同村大字北中字宮に一砦址あり。今畠地と為る。呼で壺岡城と曰ふ。平山季助の属城たりしが、小田原役後季助其二子と共に軍に従ひ、家臣之を留守し、役後遂に廃址と為る。」
2023/10/18撮影:
 小高い岡が壺岡城址といい、南側民家に入る通路から八幡社に登る道がある。八幡社西に常顕寺住職墓碑がある。
 常顕寺址墓碑群:向かって右から日蓮供養塔、開山から六世供養塔、八世墓碑、九世墓碑、常聞日法霊・眞行院妙常墓碑、信徒墓碑が2基、文要院日専大徳墓碑が並ぶ。
 常顕寺住職墓碑;向かって右から日蓮供養塔、開山から六世供養塔、八世墓碑、九世墓碑。
 日蓮大菩薩供養塔:年紀など未確認
 開山から六世供養塔     開山〜六世供養塔銘文:中央は「開山 正乗院日顕、二世 妙用院日宣、三世 妙音院日宝、四世 □□院日迢、五世 蓮行院日栄、六世 進□院日請 ■■」と刻み、左に「師範圓■■日尚(?)■」、右に「■■本性院日演逆修」とある。
 八世本竜院日等大徳墓碑享保二年(1717)四月十五日
 九世通本院日道大徳墓碑:寛延二年(1749)
 常聞日法霊・眞行院妙常墓碑:信徒墓、「コ」の中央の左右に「一」を入れ、灬(れっか・れんがは火の異書体)は「灵」と解される。灵の読みは「レイ」であり、本字は「靈」略字は「霊」と思われる。
 文要院日専大徳墓碑:「元■元子年(?)/9月9日」と刻するが、近世の年号で最初が元である年号は元和、元禄、元文、元治であるが、その元年が子年に該当する年号は小生が見た限りではない。従って、年号は不明とするしかない。
上記の現存する住持の墓碑の内、7世が欠けているので、7世かとも思われるが、寂年号が不明であるので、日専が7世とは断定できない。
 また、上記の「常顕寺址墓碑群」の向かって左に4基の供養塔が並ぶ。
その中に「本性院日演大徳墓碑」が建つ。他の3基は信徒の墓碑である。
 本性院日演大徳墓碑:妙典二千部本性院日演大徳/享保十乙(1725)正月八日 とある。日演は上に掲載の「開山から六世供養塔」に「■■本性院日演逆修」とも刻まれている。
「開山から六世供養塔」が日演の逆修塔とすれば、7世が日演である可能性も高いが、8世日道が享保二年(1717)の寂で、日演の寂年が享保十乙(1725)とすれば、7世より8世が早く寂したtいうことになり、7世が隠居して8世に住職を譲ったということでなければ、辻褄が合わない。従って、日演が7世と断定もできない。
◆常顕寺址に接する八幡社
 宮八幡社鳥居・鞘堂     宮八幡社本殿1     宮八幡社本殿2

北中村妙見社  下巻194〜

  →下総多古町の妙見社

遠寿院日充聖人墓所(中村>北中   →日充聖人

○「多古町史」>地域史編>旧中村>北中 より
◆遠寿院日充聖人墓所   →日充上人
 字白山186番の4にある。
南中(※おそらく中郵便局の分岐)から県道多古・山田線を北進して神行集落の入口に至ると、その県道をへだてた位置に相対している。谷津地内である。
 推定日充上人墓所:※GoogleMapで位置を推定し、画像を切り取ったものである。
  ※推定地の緯度・経度:35.748309680289445,140.49466304400343 付近。
  ※画質が悪く、墓碑の銘や高札状の板などの文字が読み取れないので、あくまで推定である。
  但し、下記に示すように、墓石の前に「高札状の板」があること、「木造建物の中に安置」されていること、
  手前の墓碑銘が「鈴木家」と判断できることなどから、日充墓所と判断したものである。
  であるから、「推定」とさせて頂く。
◆遠寿院日充/中村檀林8世
 日充の系譜については、武蔵国宰相で下総に所領を有し、宮の壺岡城主であった平山氏族の系譜によると、小田原落城とともに壺岡へ帰り、後に家康の招聘も断わって帰農した季邦の弟に八郎右衛門尉義高がおり、その二子が浄妙寺九世の日舜と弟の日充である。
  ※「日蓮宗寺院大鑑」では浄妙寺9世は日舜(院号は空白)、寛永元年(1624)7月29日、12世は日充とある。
  但し、日充の院号、寂年は空白のままである。日充は日舜の実弟。
このことを証して同家旧過去帳に「日充聖人 慶安三庚寅(1650)六月十九日 六十七歳化 正東山八世 法性山十二世 六聖一 岩城左遷一宇建立」とある。
 日充は遠寿院と号し、前記のように北場浄妙寺の十二世を経て、檀林となった日本寺の八世能化となったが、寛永七年(1630)の身池対論に不受不施側の代表として、池上本門寺の長遠院日樹(もと中村檀林六世)とともに、身延山久遠寺の日暹らに対論した結果、法理ではなく権現様(家康)の先規によって不受不施は非なるものと裁定され、中村檀林能化から除歴となり、奥州岩城へ流罪の処分を受ける。
 そして、奥州へ流された日充は、同藩主内藤帯刀忠興のもとにお預けの身となる。
  →中村檀林、備前法華の系譜>身池対論・寛永法難日樹上人傳
◆内藤忠興と土方雄久
 これより先、加賀国野々市で一万石を領していた土方河内守雄久(かつひさ)は、慶長九年(1604)に家康から多古およびその付近の地で五千石の加増を受けて支配に及んでいたが、その子勝重が元和八年(1622)に再び五千石を加増されたとき、多古の五千石を幕府に返上して、新しい領地一万石を岩城においてその所領とした。そして藩庁を野々市から窪田(いわき市)に移し、窪田藩二万石(野々市一万石、窪田一万石)を興した。この雄久は内藤忠興の妹婿である。
 「忠興は、窪田に寺屋敷(伊賀屋敷とも)を与えて居住させた」(『日蓮宗学全書』・第21巻)とあるから、忠興は預かった日充の身を、多古の地に関係が深くまた義弟にも当たるところから土方雄重に託したものではなかろうか。そして日充は、他の流刑僧とは異なる相応の庇護を受けたように思われる。
  →岩城平窪田の寺地庵室(日充の庵)
◆日充上人墓碑
 前述のように、慶安三年六月十九日、流罪地において六十七歳の生涯を終わり、その遺体を運んで埋葬したのがこの地であるという。
 墓地に入ると、その墓碑前に 
     聖跡
  [遠寿院 前六聖人]日充聖人之墓
  中村谷津鈴木家産中村檀能化
  配所奥州岩城平窪田
  慶安三年寅六月十九日 六十七歳寂
        日蓮宗不受不施派
             立正護法会建之
 と墨書された高札状の板がある。
墓碑の塔石は高さ約2mほどで、木造建物の中に安置されている。
正面に「妙法蓮華経 日充聖人」、右側面と左側面にはそれぞれ「慶安三庚寅六月十九日」、「中村北南眞俗起旃(せん)」と刻まれている。
 この碑は、当時禁制宗門であった不受不施の人たちは、それを証するような墓を建てることができなかったため、明治になってその禁が解かれた後に、信奉者たちの手によって建立されたものであろう。
 現在この墓地は同集落の鈴木家が管理しているが、前記墨書文のように同家を生家とする説もあり、寛永十四年丁丑(1637)九月二十九日に日充が直筆で書いた曼荼羅と衣類の一部、遺体を運んで来た棺の木片で作られた位牌があるとのことである。
福島県いわき市平字鶴ケ井の鈴木重郎氏にも遺物が残されているという。
◆平山五軒党墓地中の日充上人墓碑
 なお、日充の墓石がもう一基あることを付記する。
その場所は日本寺大門脇の通称平山五軒党墓地といわれているところで、高さは1mほどあり、西に面して建てられている。
 正面に「南無妙法蓮華経 日充(花押)」と刻字されているのみで、檀林能化で全国にその名を知られた傑僧のものとしては質素である。しかし気品の溢れた墓石である。
 これは、日充が生前に自分で建てたものであるといわれている。あるいは流罪地でその生涯を終わることを予測してのことであるかもしれない。
 ※「平山五軒党墓地」の位置は概ね見当がつくが、本墓地中の「日充上人墓碑」は全く情報が無く、不明である。
 ※「平山五軒党」は下に掲載。
2023/10/18撮影:
 この墓碑は上記の「多古町史」にあるように、勿論真墓ではなく、不受不施派が公許となった明治になって建てられた供養塔であろう。
何れにしろ、故郷中村に建立されたことはその堅いかつ永い信仰心のなせる善業であろうと感ずる。
中村日充上人墓所
中村日充上人墓所1

中村日充上人墓所2:左図拡大図

日充上人墓碑1

日充上人墓碑2

日充上人墓碑3
 「妙法蓮華経 日充聖人」と刻す。

廟所内宝篋印塔:相輪の形態が特異であるが、宝篋印塔であろう、但し、誰の墓碑なのかは、日充墓碑に隣に建つが銘文が判読できず不明。
廟所外墓碑2基:廟所に並んで建つが、誰の墓碑なのかは、銘文が判読できず不明。
日充上人墓所案内板:日充聖人之墓
 号、遠寿院 中村檀林能下、下総中村平山藤右衛門ノ子、寛永7年身池対論、上意違背ト称シ岩城ノ平、内藤帯刀預リトナリ窪田邸ニ学徒ヲ養成ス。慶安三年六月十九日岩城配所ニ寂ス。時ニ六十七歳

北中村六所大神/別当仙静院  下巻180〜

 北中字中内原四番地にあり、県道多古・山田線に沿ったところで、千葉交通バス停「六所」で下車すると、眼前に花崗岩造りの大鳥居(昭和10年一月建立)があり、そこから本殿に至る石参道の両わきには、樹齢数百年を数える巨杉が聳え立っている。その境内の広さは三千平方mにも及ぼうとしている。
祭神は伊弉諾命・伊弉冊命・天照皇大神・素盞嗚命・月読命・蛭子命の六神で、本殿右側に末社宇賀神社・摂社雄健神社が別に建てられている。
なお八幡大神は、明治43年に字白幡から合祀したもので、祭神は誉田別命である。
  <神社の由緒は省略する。>
この別当仙静院は、神仏混淆の慣習によって神社境内にあり、浄妙寺(※下に掲載)の末寺であった。
そのことを証するのは次の文書である。
  手形之事
一、当仙静院 之義者従去年為 貴寺之末流上 別而自今以後 親切ニ随従仕万諸可受御指図事
一、若非義之謀計抔加等して本寺 違背之様成事於在しは 何時成 退院可蒙仰候仍而一札如件
   元禄14辛巳年(1701)二月廿四日
                                       六所
                                       仙静院 印
    浄妙寺様
 神仏分離令は明治元年四月に布達されたが、同寺については、次のように記録される。
   明治元年元別当仙静院寺籍帳
                    下総国香取郡北中村  同国同郡同村浄妙寺末
                                  法華日蓮宗 仙静院
一、五畝拾歩   無縁境内除地
   六処尊天院内勧請    但シ破界六天王也
 右之通相違無御座候 以上
   明治元年辰十月日
                               下総国香取郡北中村
                                  名主 市右衛門  名主 理左衛門
    御県知事   御役所
2023/10/19撮影:
別當仙静院や佛教的な痕跡は題目板碑を除き(これは近代のものであろう)、外見的にはまったく痕跡は見られない。
 北中村六所大神板碑1
 北中村六所大神板碑2:この地方独特のもので、記紀の神々も題目の基に勧請される。
 北中村六所大神拝殿1     北中村六所大神拝殿2     北中村六所大神本殿1     北中村六所大神本殿2
 北中村六所大神社務所     北中村六所大神手水舎

中村>北中北場浄妙寺

○Wikipedia より
 山号は法性山、本尊は釈迦如来。旧本山は、大本山法華経寺。親師法縁。
天平宝字年間(757–765)に鑑真によって開創され、東耀寺と称し律宗であったと伝わる。
その後の治承・寿永の乱の後、当寺のある千田荘は千葉氏の拠点所領となり、永仁年間(1293–1298)了整が住持の時に当寺は真言宗となるという。
貞和2年(1346)中山法華経寺日祐によってに日蓮宗に改宗、現号の浄妙寺と改められ中山門流となる。
天正5年(1577)多古城主牛尾胤沖の制礼があり、天正19年(1591)徳川家康、朱印地12石を寄進。
末寺:
 中道山妙観寺(千葉県香取郡多古町北中) →直下に掲載
 ※仙静院(廃寺):六所大神別當で明治の神仏分離で廃寺(上の六所大神の項に記載)
○「日蓮宗寺院大鑑」
中山法華経寺末、法性山と号す、親師法縁。
天平宝宇年中(747-765)の開創。東耀寺と号し、律宗を奉じる。
開基は浄行院日祐。貞和年中、中山3世日祐律宗より改宗、東耀寺を改号。
応永20年大風で倒壊、法性台より現在地へ移転。
歴代に「 12世 日充」(院号の記載なし)とある。
○「多古町史」/ 域史編/旧中村/北中(きたなか)/宗教/神社・寺院 より
◆法性山浄妙寺
由緒・縁起
 『中村寺院明細帳』によると、
    千葉県管下下総国香取郡中村北中字北場
                                法華宗
                                 日蓮宗 浄妙寺
 一、本尊   釈迦牟尼仏
 一、由緒   天平宝字年中(七五七〜七六四)唐ノ鑑真創立ニシテ、其先寺号ヲ東耀寺ト称シ、律宗後チ密徒トナリ聖武天皇ノ御勅願寺ト云。貞和二年(一三四六)有故日蓮宗ニ改宗、寺号ヲ浄妙寺ト改ム。天正十八年旧幕府徳川家ヨリ、地中不入朱印地拾弐石八斗賜ル(明治四年上地トナル)。右往古ノ由緒ヲ以テ寛保ノ度、宝鑑寺ノ宮様ヨリ法性山ノ御染筆額面賜ル。
 一、堂宇間数 間口九間 奥行六間三尺     一、庫裡間数 間口五間三尺 奥行拾間
 一、境内坪数 千百拾八坪     一、檀徒人員 弐百三拾五人
大正八年七月三十一日仝所妙浄寺合併セラル  とある。
      仝所妙浄寺は「本ページ>北中宮妙浄寺跡」に記載あり。

 永仁年中(1292-98)に当寺主法印了整は東漸寺主宥整と共に、これまでの律宗から真言宗へと改め、
貞和2年(1346)当時中山法華経寺三世であった日祐が安久山村(八日市場市飯高)不動松堂において説法活動をしていたとき、了整は法論を挑んだが、日祐の非凡さに敬服し、帰伏して日蓮宗に改宗した。そして師弟の義を結び名を日整と改め、寺号を浄妙寺としたのである。
 往時は、現在地北方の高台「法性台」に建てられていたが、大風のため倒壊したので六世日行のとき応永二十年(1413)九月に現在の場所へ移転して、本堂を再建し、次の七世日肇によって塔中浄性院が建てられた。
 その後、多胡城主となった牛尾能登守胤仲は、自らの祈願所として天正五年(1577)に制札・黒印を寄せているが、それは前記日祐が当地方一円の支配者千田胤貞の子であり、胤仲もまたその子孫であることなどによるものであろう。

徳川家康朱印状などの文書が残存する。(※文書は省略)

享保17年(1732)第21世日厳は永代聖跡を申請する。
 日厳は、中村檀林92世・松ケ崎檀林66世・京北常徳寺14世・和歌山感応寺15世などを歴任し、宝暦8年(1758)十二月一日に六十三歳で示寂、過去帳には「字観朗号定雲(ママ)院 後称日堅 当山永聖祖 正東山化主 紀州感応寺歴祖」と記す。
 ※紫竹常徳寺14世は「定慧院日堅 宝暦8年12月1日寂」と記す。
 ※紀伊感應寺15世は「定慧院日堅 宝暦8年12月1日寂」と記す。

◇浄妙寺域の石塔・小宮  下巻220〜
 域内入口付近の道路わきに題目塔がある。
「南無妙法蓮華経 [法性山浄妙寺]」とあり、両側面には
 「宗祖第七百遠忌報恩奉行塔」
 「一天四海皆歸妙法 昭和五十五年十二月吉日 法性山第四十七世本堯院日仁 総代 加賀原正男 総代大木藤之助  同  土屋秋治郎 同 佐久間 政 同  佐藤 貞一  同 三枝 武司」と刻する。現住職の第四十七世本堯院日仁の筆になる。
 仁王門両側に二基の題目塔がある。
その右側には、「南無妙法蓮華経 権門改宗霊場 法性山浄妙寺第二十五嗣法 妙解院日透(花押) 明和第7歳次庚寅(1770)仲春良日」とあり、裏面には
「為高祖大菩薩五百遠忌御報恩謝徳 従明和寅年十二年之間預所修善業 勧奨唱題一萬部自唱三千一百萬遍 読誦妙経一千部十種供養法要執行 天明元年辛丑十月中浣三日 表唱満玄號一千部成就為大恩報謝 以此功徳先祖累代之衆霊佛道増進 池田氏苗裔前備中州剌吏長興主君 本覚院殿光徳道雲大居士報恩謝徳
                                当山嗣法二十五世日透(花押)
                                功徳在南中村町平山宇右衛門敬白」 と刻す。
 この支援者である平山宇右衛門とは、前記系図にある秀暁(藤右衛門・藤重郎)の三男宣輝のことである。分家して宇右衛門家の祖となったが、平山家の系譜を書き、安永六年(1777)には同一族の過去帳に筆をとっている。寛政八年(1796)に81歳で没す。
 左側のものには、「南無妙法蓮華経 宗祖六百遠忌当三十九世日行 不変院法真日如居士(文蔵・重綱) 随縁院妙理日応大姉(重綱妻わさ) 明治十一年戊寅三月本願主 平山五郎兵衛檀方中」。
 手洗石には、「奉納 江戸堺町二文字屋妙順 四目屋妙信 明和七庚寅(1770)正月吉祥日 二十五世妙解院日透」とある。
 仁王門を入った右側の奥には歴代住職の墓石が並び、大檀越平山氏の墓地がある。
刻字の判読できるもので古いものには「寛永11甲戌(1634)四月二十三日平山伊兵衛 父光伝位與三十三年也」とあるが、父季邦(法名法蓮院殿光伝日潤)の三十三回忌に当たって嫡子伊兵衛(季家)が建立したものであろう。
 板碑は八基ほどが点在する、いずれも中世・南北朝から室町末期のもので、下総式題目板碑といわれる。
 板碑一 「南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼佛 永和二[丙辰](1367) 月日」
 板碑二
  「大持国天王       大廣目天王
                 経仁
               日乗■■
     上行无辺行〓(菩薩) 日■■■
               日応■■
    南無多宝如来
              公私先■■
   南無妙法蓮華経(蓮座)    ■■
     南無釈迦如来      ■■
              ■■妙■
              日■弥二
     浄行安立行〓(菩薩)
              妙蓮経■
              妙■妙通
     応永十二年(一四〇五)十月十日
   大 門天王      大増長天王」
  この板碑は『下総国旧事考』(清宮秀堅著)巻十一(金石・芸文・風土記残編)にとりあげられているものである。
 
 板碑三
  「         右為悲母妙■比丘尼
     南無多宝如来 十三年忌也仍四息
   南無妙法蓮華経  七世法界平等利益
     南無尺迦牟尼佛   父蓮妙而已
            永享十一年(一四三九)十一月日
                     孝子敬白」
 
 このほかに、延徳二年(1490)、明応七年(1498)、天文元年(1532)、天正元年(1573)のものと、摩耗のため判読不能の一基がある。
 当寺が台風によって倒壊し、応永二十年(1416)に現在地に再建されたことは既述のとおりであるが、法性台にある寺跡には応永三十年(1423)の年号を刻んだ曼荼羅碑が建てられていて、往時を偲ぶよすがとしている。なおこの石塔も『下総国旧事考』六・巻十一に記載されているものである。
 本堂内陣は荘厳そのもので、本尊十界勧請曼荼羅尊像が奉祀され、右側の別棟には土中出現といわれる毘沙門天(多聞天)の他、各尊像が安置される。
 郷里の先碩村岡良弼が自著『北総詩史』の中で当寺に寄せた一文があり、ここに再掲して浄妙寺の項を終りたい。
 法性台
法性山浄妙寺、貞和中改二密宗一爲二法華道場一。寺北三町有三地名二法性台一。是其墟也。
墟有二巨碑一刻二曼陀羅一。款日、応永十三年十月。蓋擬二日蓮百二十五年追福一者。
寺記曰、唐僧鑑真創二本寺及吉岡慈恩寺、土橋東漸寺一。東漸寺鐘識亦同。然、鑑真東征伝、元享釈書不レ戴二其事一。故姑舎レ之。
  蕭寺南遷秋幾回
  豊碑一片委二蒿莱一
  依然苔二蝕古文字一
  標得当年法性台

◆浄妙寺と平山一族
 さきに、牛尾胤仲が当寺を祈願所としたことを述べたが、それ以前の有力な支援者に壺岡城(※上に掲載)主平山氏のいたことを記さねばならない。
 武蔵宰相日奉宗頼の後裔が、平山姓を名乗って宮の壺岡城にいたが、十三代後の季信について平山家系図は、「左衛門尉 日擁入道 中村壺岡城ニ居テ 北条氏ニ属ス小田原ニ居 食邑十六貫二百二十八文 相州入西郡 武州多摩郡平山村 下総中村」、「西郡 日原 平山三箇所ニ 下総中村郷松山近辺 壺ノ岡二箇所」と記し、また同家過去帳に「平山季重七代 左衛門尉季信公 北中村法性山浄妙寺開基祐師之門 法性山草創之君 応安5年(1372)七月十日没 日擁上人」
 とあり、浄妙寺過去帳には「当山草創大旦那 応安五年七月十日 日擁聖人 平山左衛門尉 祐師弟子」と書かれてあることなどを見ると、日祐の説法に帰伏した日整が改宗して、寺号を浄妙寺と改めたころに、この季信が大旦那としてその創建を援助したものと思われる。いうまでもなく現在地に移る以前の、法性台の地においてである。
慧雲院日円>  →日圓上人
慶長3年(1598)飯高檀林講首の日道が身延山に転じ、その後任として日円(慧雲院)が推されたのであるが、日円はその任ではないとしてその身を引き、ひそかに浄妙寺に入る。しかし日円を慕う衆徒たちは当寺に集まり、次第にその数も多くなったので、翌年日本寺に移って講を開いた。これが中村檀林のはじまりという。
 日円は当寺の歴代ではないが、その教理は代々受け継がれていったという。
 季信からさらに十一代を経た壺岡最後の城主季邦のとき、帰農して郷士となるが、季邦の弟八郎右衛門尉義高の二子がそれぞれ同寺九世・同十二世の日舜・日充兄弟であり、自らの嫡子季家は同寺の荒廃した様子を見て深く恥じ、その財を投じて復興に努め、今まで絶えていたものを興し、廃れていたものを続けるようにしたという。
 九世は日舜である。日舜は後に山口防府本因寺の開山となるが、不受不施僧であった。
 十二世日充である。
 平山氏は、季邦の嫡男季家が後を継ぎ、里正(庄屋)を勤めて同寺の復興に力を注いぐ。
その子供たちが長じてそれぞれ「五軒党」を称するようになるが、五男は出家して了遠院日寛といい、当寺の十四世となった。
そして過去帳に「平山季家五男法性山十四世住 塔中浄性院初祖 号了遠院 延宝六年(1678)十一月六日 五十二歳化」とあるように、塔中の初祖となる。
 日寛の弟(季家の八男)が了寂院日然で、同じく過去帳に「平山伊兵衛季家八男 沢蓮寿山真浄寺十四世 貞享三年(1686)八月二十三日 五十一歳化」とあるが、真浄寺は平賀本土寺末寺で、不受不施法中として当地方における中心的な寺院であった。
2023/10/18撮影:
 北場浄妙寺の歴代;(遠寿院)日充上人は浄妙寺歴代という。
「日蓮宗寺院大鑑」では浄妙寺9世は日舜(院号は空白)、寛永元年(1624)7月29日、12世は日充とある。但し、日充の院号、寂年は空白のままである。日充は日舜の実弟。
 北中村浄妙寺入口     浄妙寺題目石:上記の昭和55年の題目塔と思われる。
 浄妙寺推定弁財天:「石造物等所在図」北中では浄妙寺山内に弁財天とある。
  「多古町史 下巻」p.237には浄妙寺境内の南側高台に・・・ある。木造の小宮で「表辨天」と呼んでいる。
  水際に祀られる訳ではなく、通常の辨天とは趣を異にする。因縁 については知る人がいない。
  とあり、この辨天のことと思われる。
 山門前右題目石1:銘文は上掲載     山門前右題目石2:宗祖六百遠忌当三十九世日行
 山門前左題目石:銘文は上掲載
 浄妙寺山内     浄妙寺山門1     浄妙寺山門2     浄妙寺山門扁額
 浄妙寺仁王像1     浄妙寺仁王像2
 浄妙寺本堂1     浄妙寺本堂2     浄妙寺庫裡
 浄妙寺萬霊供養塔:多くの板碑が立て掛けられる。上で云う「板碑は八基ほどが点在する」ものが集められたのであろうか。
 浄妙寺板碑群1     浄妙寺板碑群2
 浄妙寺新歴代墓碑     浄妙寺歴代墓碑1
 開祖・二祖・三祖石碑:開祖日祐・二祖(北阿闍梨)日整:三祖(少将阿闍梨)日圓
 浄妙寺歴代墓碑2     浄妙寺歴代墓碑3     浄妙寺歴代墓碑4


北中坂並蓮行山本福寺  下巻224〜

 字大鯉1391番地の1にある。大鯉新田と呼ばれた坂並集落におけるただ一つの寺である。長谷山本土寺の末寺。
『中村寺院明細帳』には次のように記す。
      千葉県管下々総国香取郡中村北中字大鯉坂並
                                   本土寺末
                                     日蓮宗 本福寺
  一、本尊   釈迦牟尼仏       一、由緒   不詳
  一、堂宇間数 間口五間 奥行三間三尺 明治四十一年四月二十二日焼失
  一、建物   間口三間 奥行弐間     同前
  一、境内坪数 五百廿坪         一、檀徒人員 百五拾人
 現在当寺は無住。
入口にある大小二基の題目塔には、昭和2年と同9年に桐谷嘉右衛門によって建てられた旨が刻まれる。
 本堂西側の墓地入口にある一基の石碑は、柏熊・坂並新田開拓の祖といわれる多古藩家老服部与五左衛門の墓碑で、それには「普政院古信日慧霊位 享保六辛丑歳(1721)七月十日卒 服部与五左衛門尉普政墓 当村中」と刻まれる。
 墓地の奥に歴代住職の墓碑があり、その中の一基に当寺の由緒・村の歴史の一端を記したものがある。
それによると、坂並の始まりは貞享3年(1686)からである。宝永2年(1705)に何処からか寺を引き移すことになって、翌宝永3年に建物が造られる。六老僧の一人・日朗の開基になり「平賀の本土寺」と呼ばれる長谷山本土寺の末寺として、同寺22世の円妙院日詮を当寺に迎えて開基とした。
このことを記念して享保8年(1723)に碑を建立したという。刻文は次のとおりである。
  「宝永三丙戌(1706)七月二十一日
   再興本願 鈴木七兵衛  林院日堯
   元禄五壬申(1692)十一月三日
   霊一会南無日蓮大〓(菩薩) 長谷山二十二世日詮
    南無妙法蓮華経
     未敢 日朗 上人一干ケ寺成就中興本是院日進
   平賀本土末寺下総坂並新田蓮行山本福寺授与」
 左側面に「当村開発 貞享丙刁(寅)(1686)九月七日究ル」
 右側面に「享保八癸卯十一月十三日建立 宝永二乙酉(1705)九月四日 引寺決る」
坂並新田の開発と共に入植した人たちの菩提寺として建立されたものとみるべきであろう。
 なお、昭和五十六年発刊の『日蓮宗寺院大鑑』では、当寺の沿革として「大観には、文明五(1473)年中の創立。開山本土寺九世妙高院日意とある」とある。
2023/10/18撮影:
 坂並本福寺入口題目石:大小2基ある。     入口題目石(小)
 坂並本福寺本堂1     坂並本福寺本堂2

中村>北中谷津妙観寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 多古北場浄妙寺(上に掲載)末、中道山と号す、香取郡多古町谷津
大観には萬治元年(1658)創立、開山実相院日義とある。
  ※以上のみで他の情報はなし。
○「多湖町史」下巻226〜2
中道山妙観寺:
 字谷津1125番の2にある。この集落はその字名が示すように、東西にまたがる台地の中を旧街道が南北に走り、その両わきに民家があるが、その東側台地へと通ずる坂道を登ったところに当寺がある。浄妙寺末。浄妙寺は「本ページ>北中」中に掲載。
『中村寺院明細帳』には
     千葉県管下々総国香取郡中村北中字谷
                                   浄妙寺末 日蓮宗 妙観寺
  一、本尊   釈迦牟尼仏      一、由緒   不詳
  一、堂宇間数 間口九間 奥行七間  一、境内坪数 三百弐拾坪        一、檀徒人員 百五拾弐人
とあり、由緒は不詳となっているが、当寺に残る過去帳には「当山開基実相院日義聖人 安元戊子年八月 七十九歳」(注、この年号・干支に疑問あり。「安元」とすると1175〜1177年であり、「戊子」を採ると1168年か1228年、またはこれに60年を加えたいずれかの年になる)。
「当寺ハ万治2年(1659)ノ創立ナリ、時ニ檀中ハ三戸アリシノミ」と草創を明記してあり、『日蓮宗寺院大鑑』に「大観には万治元年(1658)二月八日の創立。開山実相院日義とある」とあることと、おおむね一致する。
 また、同過去帳冒頭にある「関東法華寺学校歴代集」と題する項には各檀林の能化の名が記され、一般的には隠されている不受不施派の聖人名まで明らかにしている。
その檀林名は、飯高村妙雲山法輪寺(飯高檀林)、上総国小西妙高山正法寺(小西檀林)、下総国中村正東山日本寺(中村檀林)、同国松崎法喜山妙講寺(松崎檀林)、同国玉造妙法山蓮華寺(玉造檀林)、同国野呂長崇山妙興寺(野呂檀林)などである。
 さらに欄外には、宝永2年(1705)二月十九日夜西谷で火災があり、檀林・妙福寺・仏光寺・東福寺および同隠居所・東西小路農家など70余軒が焼失したときの模様や原因などとともに、天明七年(1787)に檀林が再度の火災に遭った事も記されている。
◇寺域の石塔物・小宮  下巻228〜
 本堂内陣右手には、鬼子母神の厨子があり、現在も集落内の主婦たちから崇敬される。
 石塔物として、門前に題目塔があり、「南無妙法蓮華経 妙観寺 文化14年丁丑(1817)七月 発起主妙相尼惣檀中」と刻む。
 本堂右手に小堂があり、石像と角塔が納められる。
石像には、「南無釈迦佛三萬餘部成就 諸願具足心大歓喜 天明二壬刁(一七八二)四月吉日 本成院営之」とある。
角塔には、次に示すように多くの聖人名が刻まれるも、その大部分が削り取られている。これは後年に不受不施信仰が禁制となり、その証拠を秘匿する意図からなされたものであろう。

       ◎ 妙観寺題目角塔
 
  「南無多宝佛[無辺行𦬠 上行𦬠] 日朗菩薩
  南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩
  南無釈迦[浄行𦬠 安立行𦬠] 日像菩薩
  日■聖人 日■聖人 日■大徳
                 開眼沙門
  [■■聖人 日■聖人 日■聖人 ■■聖人 日■聖人 日■聖人] 日順(花押)
  六老僧 日親聖人 ■■聖人 日領聖人
  九老僧 日■聖人 ■■聖人 日弘聖人
  中老僧      ■■聖人 日進聖人
 
  恭磨方石聊擬宝塔以我 乃至法界平等利益
  高祖宝向五百遠忌鴻恩 ■円了院妙信日受
  之不可忘世両旁勒列祖者 願主本成院善久日昌
  貴其振緒之勲躋祔太廟也 清〓院了信日利
     明和七庚寅(1770)二月吉祥日
 なお、右の聖人名の欠字については、わずかに次のように判読できるものがある。
すなわち日述・日講・日浣・日泰・日誉・日饒・日照などで、いずれも宗門における傑僧である。
 また当寺には、獅子舞具一式、雌獅子・雄獅子の頭、お囃道具数組があり、今でも毎年七月の土用干しと称する消防器具の手入れ日に、消防団員たちが獅子舞装束を着け、お囃しの曲と共に集落内の各戸を回り、邪鬼を払う行事が行われている。そのいわれ・起源については知る人がない。
2023/10/18撮影:
日蓮上人正系先師題目角塔
正系先師題目角塔覆屋:左図拡大図

正系先師題目角塔正面
 南無多宝佛[無辺行𦬠 上行𦬠] 日朗菩薩
 南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩
 南無釈迦 [浄行𦬠 安立行𦬠] 日像菩薩
  と刻む。

正系先師題目角塔右面1
 上段は六老僧/九老僧/中老僧
 下段は日親聖人/日■聖人 と刻む。
  削られている日■聖人は日奥聖人と読める。

 正系先師題目角塔右面2:上段は■■聖人/■■聖人/■■聖人、下段は日領聖人/日弘聖人/日進聖人 と刻む。
  上段の日号は削られているが、日樹、日賢、日充と判読可能である。
 全体では
  六老僧      ■■聖人(日樹) 日領聖人
      日親聖人
  九老僧      ■■聖人(日賢) 日弘聖人
      日■聖人(日奥)
  中老僧      ■■聖人(日充) 日進聖人  と刻する。
 正系先師題目角塔左面1:最上段部分
 写真が悪く判読できないが、おそらく向かって左から日述・日講・日浣ではないだろうか。
 正系先師題目角塔左面2:上から2段目部分
 削られている日号は、向かって左から日泰・日誉・日照ではないだろうか。
 正系先師題目角塔左面3:上から3段目と最下段部分
 上から3段目の削られている日号は、判読できない。
 最下段は、上記の町史にあるように、開眼沙門/日順(花押) であろう。
 全体では
  日■聖人(日浣?) 日■聖人(日照?) 日■大徳
  ■■聖人(日講?) 日■聖人(日誉?) 日■聖人  開眼沙門/日順(花押)
  ■■聖人(日述?) 日■聖人(日泰?) 日■聖人                と刻銘する。
 背面は未確認ながら、上記の町史にあるように、
  恭磨方石聊擬宝塔以我 乃至法界平等利益
  高祖宝向五百遠忌鴻恩 ■円了院妙信日受
  之不可忘世両旁勒列祖者 願主本成院善久日昌
  貴其振緒之勲躋祔太廟也 清〓(※)院了信日利
                 ※の漢字は「イ+|+有」である。
         明和七庚寅(1770)二月吉祥日 であろう。
明和7年(1770)、日蓮上人五百遠忌鴻恩の為、宝塔に擬した方石に、忘れてならない列祖を刻み太廟となる・・という大意であろう。
願主は本成院日昌、円了院日受、清ユウ院日利である。
明和7年(1770)と云えば、不受不施派の弾圧が本格化した寛文年中から凡そ100年の後であり、不受不施派が完全に禁制下の頃である。よくぞ諸先師の名を刻んだ石塔が建立されたものと思うし、その名が後世に削り取られたというども、現代に伝えられるとは感慨深いものがある。
 谷津妙観寺入口     妙観寺入口題目石     谷津妙観寺本堂:平成5年改築
 妙観寺歴代墓碑1:向かって左から、24世三明院日通大徳、安(?)興日悦聖人、遷化龍妙院日守聖人の墓碑
 妙観寺歴代墓碑2:向かって左から、泰應(?)院■■大徳、29世慧通院日■大徳・(判読不能の1名)、(判読不能の2名)、38世喜洋院日穐聖人、中央は奉唱題目六千部(戌弁)、■院日瑞/寛文十二年・・・、14世■■院日■/宝暦2年・・・、9世圓應院日聴/宝永5年・・・、(判読できず)、龍興院日耀聖人 である。

◆谷津の道祖神(二) 
「多古町史 下巻」p.235〜6 に次のようにある。
 石塔の一基には「奉参詣三千ケ寺 享保元丙申(1716)十月二十八日 下総国北中村 自休院日理」とある。
この石塔の北側に石宮が3基、小祠が5基ほどある。この地区の木内氏一族が祭祀しているという。
なお、木内氏の遠祖には山伏(修験)にまつわる人がいたという。
ここから西すぐに「白山の住吉社」がある。<住吉社は「多古町史 下巻」p.194を参照>
 住吉社緯度経度:35.74733126377235, 140.49521013187447、石塔緯度経度:35.74710405118565, 140.49558765278027
2023/10/18追加:
 奉参詣三千ケ寺石塔     白山住吉明神
 奉参詣三千ケ寺石塔付近:GoogleMapより、写真中央が「石塔」、附近に道祖神・住吉社がある。

北中の寺院跡  下巻230〜
 次に、今は廃寺となった寺院跡を訪ね、ありし日のすがたを見てみよう。まず北中の東端・宮の集落へ入ってみる。

◆北中宮妙浄寺跡(宮の集落に在)
 春日神社に隣接する、石碑があり「元妙浄寺 南無妙法蓮華経 為本山浄妙寺合併記念 檀家建立 大正八年七月三十日」と刻す。
『中村寺院明細帳』は、次のように記している。
浄妙寺末。→北中浄妙寺には「大正八年七月三十一日仝所妙浄寺合併セラル」(『中村寺院明細帳』) とある。
 
     千葉県管下々総国香取郡北中村字宮
                             浄妙寺末
                               日蓮宗 妙浄寺
  一、本尊   釈迦牟尼仏       一、由緒   不詳
  一、堂宇間数 間口八間 奥行四間   一、境内坪数 三百五拾壱坪      一、檀徒人員 三拾五人
 
 開山について、本寺である浄妙寺の過去帳には「三世少将阿闍梨日円 至徳3年(1386)四月九日 号常楽院 当所宮妙浄寺開山也」と記す。
応永21年(1414)を初めとする次の五基の板碑がある。
 応永21年(1414)、永享4年(1432)、永享12年(1440)、文安3年(1446)、長禄4年(1430)
  いずれも室町初・中期のものである。
 また、妙浄寺についての古文書が一通浄妙寺に保存されているが、不受不施の吟味と寺名について参考となるので、次に載せる。
   以書附委細ニ申上候
一、御法度之不受不施毎々吟味仕、別而去年中檀中一統吟味を遂、急度相改候所、村内隠レ居所之人並ニ信仰之者無御座候。旦那寺へ取置候箇條書相守候。
  且又、石塔・塔婆等別所ニ相立候者、又は名主役人表宗旨証、又人別除之候者等一切無御座候。
  曼陀羅之義は前より有来、何之弁別もなく所持仕居候者も御座候故相改、紛敷分ハ拙寺江取上、焼払申候。
  檀中一統連印取置候。
  右之通りニ相違無御座候。以上
     寅十月廿三日                            宮
                                         妙成寺(ママ) 印
2023/10/18撮影:
 宮妙浄寺跡碑1     宮妙浄寺跡碑2     宮妙浄寺跡碑3:銘文は上にあり     宮春日明神

◆北中村宮常顕寺跡
宮には顕実寺(東松崎旧松崎檀林)の末寺として常用山妙顕寺(常顕寺が正)があったが、「壺岡城址」の項(上に掲載)に記載がある。

◆北中窪(久保)高野山妙福寺跡

 字久保3020番地にある。
久保集落の中心地で道路の十字に交わる所に集会所があり、それと道路をはさんだ左右の場所である。現在は墓地となる。
 当寺は、日本寺の末寺であったが、南中字坊谷(または中城とも)にあった東福寺が、火事に遭ったのち現在地の西谷に移り、再興するに当たって当時無住であった妙福寺の建物を使用し、同時に寺籍も合併されたことによって廃寺となったようである。日本寺末。
  『中村寺院明細帳』 
     千葉県管下々総国香取郡中村北中字久保
                                  日本寺末
                                    日蓮宗 妙福寺
  一、本尊   釈迦牟尼仏       一、由緒   不詳
  一、堂宇間数 間口五間三尺 奥行三間三尺
         本堂 庫裡
  一、境内坪数 八拾弐坪        一、檀徒人員 三拾壱人
      但書、明治四十五年六月廿九日同村南中東福寺ヲ合併東福寺ト改称ス(※留意すべし)
 現在では、題目塔と板碑が一基ずつ残るのみ。
その題目塔台石に「妙福寺南無妙法蓮華経 享保20乙卯年(1735)三月四日 善了院日相大徳 天保11子年(1840)十一月良辰 中興現寿院日照 惣檀中造立」とある。
板碑は「応永34年(1427)」の文字が読み取れるのみである。
 なお、当寺は不受不施内信寺として知られ、元禄11年(1698)十一月十日に三宅島で死亡した大泉院日須は、「下総北中村妙福寺出寺、多古生レ」で、不受不施信仰・布教の科により三宅島へ流罪となり、その地で没す(『房総禁制宗門史』)。
 ※大泉院日須:
  ○「不受不施殉教の歴史」では
   三宅島不受配流僧
    大泉院日須(日順) 元禄9年11月8日(元禄11年11月10日)寂、
    元禄法難(元禄4年7月5日配流)下総北中村妙福寺出寺僧、多古の生、谷の人。 とある。
  ○「日蓮宗不受不施派読史年表」116ページ では
   元禄11年(1698)十一月十日、三宅島大泉院日順、栄誉、下総北中村妙福寺出寺、下総多古村生、三宅島流僧 とある。
 これより以前、元禄元年(1688)に日本寺33世日演の記した文書の一節に「久保妙福寺 並木城山ヨリ久保へ引也。法理故本末之義中絶ス。元禄四年復根本成、末寺手形等有」とあり、法理上異論があった妙福寺は、日本寺との縁が中絶し、元禄4年に再び旧状に復したとある。
2023/10/18撮影:
 窪妙福寺跡:現在は墓地となるが、入口左右に幾つかの廃寺のものと思われる石塔類が残る。
 窪妙福寺跡俯瞰     窪妙福寺石塔類1     窪妙福寺石塔類2:3基ほど残存と思われる。
 妙福寺寺号題目石1
 妙福寺寺号題目石2:台石に妙福寺と刻む。左右前後は未確認ながら、町史で云う「妙福寺南無妙法蓮華経 享保20乙卯年(1735)三月四日 善了院日相大徳 天保11子年(1840)十一月良辰 中興現寿院日照 惣檀中造立」であると思われる。
 日蓮供養塔1:左背面は未確認
 日蓮供養塔2:背面は「天明元年■■十月十三日/■■日昭代」、右側面は写真が悪く、判読できず。
 勇慎(?)院日運碑:日運聖人とあるから、妙福寺歴代日運の墓碑であろうか。背面など未確認。


◆北中窪(久保)妙勧寺跡

2023/10/18撮影:
 窪妙福寺の東には妙勧寺という寺院があったものと推定される。
「多古町史」は妙勧寺や越之城などについて一切触れないが、次の資料から妙勧寺の存在が浮かびあがる。
但し、「多古町史 下巻」p.44では、「千田庄における(千葉氏・千田氏)胤貞の居館は窪(多古町北中字久保)にあったと日本寺の古記は伝えている。」とある。
 さらに、「日蓮宗妙榮山佛光寺縁起」(パンフレット)に「記載の略図」によれば
地名が「窪」とあり、佛光寺の西が久保集会所、北が妙福寺跡地・妙勧寺跡地、北西に越之城(千葉胤貞居館跡)とある。おそらく妙勧寺や千葉氏居館に関する何等かの資料や口碑があったものと推測される。
また、この地に残る(下に掲載)唯常院日豊聖人碑の左面には「越之城南今宿駅/妙勧寺歴代」の刻銘があり、越之城及び妙勧寺が存在したことが知れる。
越之城についても、多古町史は何も語らないが、佛光寺北西に「久保城跡」があり、GoogleMapには複数の写真が掲載されている。
越之城とはこの久保城と推定される。
 GoogleMapに掲載された写真の一枚「久保城と千葉胤貞について」(説明板)によれば、胤貞の記述は概ね「多古町史」の記述に沿う。
胤貞は千田荘に多くの日蓮宗寺院を建立したといいい、その千葉氏が庇護した寺院群にこの久保(窪)の佛光寺・妙福寺・妙勧寺があったものと推定される。
上記 刻銘の「越之城南今宿駅」とは越之城の「南」の「今」(新しい)「宿駅」と解され、妙勧寺のあった場所は窪(久保)の中心地であり、越之城下であり、今の新しい宿駅として機能していたたものと解釈される。
1023/10/18撮影:
 窪妙勧寺跡石塔類:推定
 日豊日悦聖人碑     日豊日悦聖人碑左面1
 日豊日悦聖人碑左面2:日豊聖人碑左面は「越之城南今宿駅/妙勧寺歴代」と刻む。
 唯常院日豊聖人碑:文化六己巳(1809)・・・/唯常院日豊聖人/正月・・・・・・と刻す。右面・背面は未確認。
 法喜院日悦聖人碑:中興法喜院日悦聖人、右面・背面は未確認。
 銘文不明石塔:蔦が絡み、写真も悪く判読出来ず、「南無妙法蓮華経 高根日達(?)・・・・」と刻する。
 探了院日差理聖人碑:おそらく妙勧寺歴代と思われるも確証はない。

◆北中窪(久保)妙栄山佛光寺跡

 ※現在仏光寺は平成18年(2006)頃、堂宇一宇が再建され、境内が整備され、再興されている。

 字久保3013番の地で、前記妙福寺跡とは東西に走る道路を距てて相対している。一段と高台で現在は墓地となる。
南中妙光寺末。→妙光寺は中村>南中にあり。
『中村寺院明細帳』
    千葉県管下下総国香取郡中村北中字久保
                                  妙光寺末
                                    日蓮宗 佛光寺
  一、本尊   釈迦牟尼仏       一、由緒   不詳
  一、堂宇間数 間口五間 奥行四間   一、境内坪数 百八拾坪     一、檀徒人員 三拾八人
『日蓮宗寺院大鑑』では「大観には貞治年中(1362〜67)の創立。開山中山法華経寺三世浄行院日祐とある」とし、日祐が千葉胤貞の庇護を受け、当地方を説法して多くの寺院を改宗させたころを、その創めとするようである。
それは、同寺跡にある卵塔によっても証される。すなわち卵塔には「開祖 南無日祐聖人 応安7年丙寅(1374)五月十九日」と刻される。
○GoogleMap より
GoogleMapで確認すると、佛光寺跡は整備され、新しい一宇(現代建築と思われる)が建立され、「日蓮宗妙栄山佛光寺」の新しい寺号碑や「妙栄山佛光寺縁起」石碑も建てられ、古い題目石も残るようである。
よって、写真を掲載する。
 再興北中佛光寺1:入口    再興北中佛光寺2:堂宇     再興北中佛光寺3:西入口
 再興北中佛光寺4:「日祐聖人と妙栄山佛光寺縁起」石碑
2023/10/18撮影:
○「日蓮宗妙榮山佛光寺縁起」(パンフレット) より
 日祐上人真筆曼荼羅
 日祐聖人と妙榮山佛光寺縁起・本文:下の「日祐聖人と妙榮山佛光寺縁起・石碑」に記すものである。
2023/10/18撮影:
 佛光寺入口
 入口題目石:表面は題目、両側面は「蓮城院日崇大徳」「法界萬霊抜苦輿楽」とある、後面は未確認で年紀などは不明。
 日祐聖人と妙榮山佛光寺縁起・石碑     再興佛光寺堂宇
 佛光寺歴代廟所:6基の墓石と1基の板碑がある。
 開祖日祐聖人碑:上記の「日祐聖人と妙榮山佛光寺縁起・本文」では日祐は応安7年(1374)寂し、ここ佛光寺に葬られるという。
 存如院日沾碑:左側面には「北総中村唐竹産天保十年/己亥正月十三日卒世壽七十四」と記すように読める、右側面・背面は未確認。
 何世かは不明であるが江戸後期の住持であったと思われる。
 27世本解院日得墓碑:大正14年建立     32世勇良院日喜・24世聚世院日陽墓碑
 佛光寺板碑:1基あるが、まったく判読できず。「日祐聖人と妙榮山佛光寺縁起・本文」には「猶現霊」という銘文がありといい、その意味の解説がある。
2023/11/02追加:
 蛇足:
「日蓮宗妙榮山佛光寺縁起」(パンフレット)では、連絡先として「〒229-0105 相模原市相模湖町若柳5-15」が記載され、佛光寺事務所とあり、住職名が記載される。
 ※しかし、住所「〒229-0105 相模原市相模湖町若柳5-15」は「〒252-0175 模原市緑区若柳5」として検索されるので、現在は左記に住所表示が変更されているのであろう。GoogleMapなどでは、ここには、「日蓮宗妙華結社」が存在する。
 ※GoogleMapで写真を見ると、住坊らしき一宇とその隣に「さがみ湖ホール佛光寺」の看板を掲げた建築(葬儀ホールか)があり、一応宗教施設ではある様子である。
 ※妙華結社:「日蓮宗寺院大鑑」には記載がなく、実態が不明である。
 しかし、「日蓮宗ポータルサイト」や「日蓮宗神奈川県第一部宗務所」の管内寺院一覧には「妙華結社」は「〒252-0244 相模原市中央区田名6105−3」と紹介される。
 この住所を検索すると、基本的には寺院風の構えではなく、住宅のように見える。ただ、邸内と思われる一画に赤鳥居と祠が見え、あるいはここが妙華結社であるかあるいは結社であったのかも知れない。
 ※さがみ湖ホール佛光寺:葬儀場として多くの広告や紹介がなされているので、葬儀場としての実体はあると思われる。
 その中には「佛光寺とは:佛光寺は日祐聖人が隠居寺として、余生を過ごされたお寺です。」との紹介もあるので、下総中村窪佛光寺が寺号を遷すとか、窪佛光寺が妙華結社に取り込まれた・・・などの推測ができようが、いずれにせよ、Web情報だけでは実態は不明である。

路傍の小祠・石宮など  下巻234〜

道祖神(石室)が多く祀られる。
久保・北場・神行・坂並・谷津(2ヶ所)・宮(2ヶ所)などにある。
北場には山王・弁天(2ヶ所)・妙見・三十番神の五社がある。
 ※その他は割愛
 なお、白山から北へ南玉造へ抜ける多古山田線の途中に「牛頭天王」(「石造物等所在図」)にあるが、まったく不明、位置も不詳。

下総中村>南中------------------

    ●南中石造物等所在図
    ● 中村南中重ね図

中村平山五軒党
 ※平山一族と不受不施僧(日然・日充・日順・恵正・是相)
  日然(了寂院・西沢庵法中、沢真浄寺14世、貞享三年(1686)八月二十三日寂)
  日充(遠寿院)
  日順(理明院・北中妙福寺11世、飯塚法中)
  恵正(享保六年(1721)八丈島流罪・元文三年(1738)御蔵島へ島替、寛保元年辛酉(1741)正月二日寂)
  是相(享保六年(1721)八丈島流罪・元文三年(1738)御蔵島へ島替、宝暦五乙亥(1755)五月二十三日(又五日)寂)
   恵正・是相は禁制中の出来事である故、法名は削られ、法名は不明である。
  その他、知られざる不受不施僧が多くいたと推測されている。

○「多古町史」/地域史編/旧中村/南中(みなみなか)>村の支配者 より
◆平山五軒党
 日本寺境内と墓地の間にある旧街道を北に進むと、台坂下り口の東側に北面して道祖神が祀られている。
その社前を東へ入ったところが墓地になっていて、その中央に質素ながら風格のある墓石が建てられている。これが最後の壺岡城(※北中の項に掲載)主で、後の五軒党の祖といわれる平山六郎右衛門尉季邦の墓石である。
  ※墓石の写真掲載:不鮮明に付き不転載。
  ※この平山六郎右衛門尉季邦の墓碑の場所が特定できない、北中浄妙寺に平山家墓所があるが、その関係も不明。
 「法蓮院殿光伝日潤 蓮池院殿妙院日浄 平山六郎右衛門尉廟 慶長七壬寅(1602)四月二十三日」このように刻まれる。「蓮池院」は季邦の夫人(玉造城主野平伊賀守の二女で、夫に先立ち文禄四年(1595)一月十二日没)のことである。

 季邦の長男季家は、父とともに本田上野介を通じて家康より招かれたが、「仏道修行を専らとする」ということでそれに応えず、飯高宗祐の娘を妻とし、里正(名主)となり慶安三年(1650)七月十日、六十九歳で没した。法名蓮光院日崇。
 この季家に九人の子供があり、その内の四人が分家し、本家を含めて五軒となった。これが「平山五軒党」の初めである。
即ち
長男季光、二男有盈(ありみつ)、三男友則、四男有純、七男吉重が「平山五軒党」を成す。
一家を成さなかった
五男は出家して(※北中)浄妙寺十四世了遠院日寛大徳となり、延宝六年(1678)十一月六日に五十二歳で没した。
六男満貞(庄九郎)は鏑木平山氏忠兵衛満仲の養子となり、唐竹妙光寺(※下に掲載)の妙見堂を建立。寛文十二年(1672)六月十七日に四十二歳で没。
八男は出家して沢(栗源町・現在は香取市沢)蓮寿山真浄寺十四世(また十二世、十五世とも)了寂院日然大徳となる。
 真浄寺は平賀本土寺の末寺で不受不施派内信寺である。
貞享三年(1686)八月二十三日に五十一歳で没しているが、不受派僧として弾圧を受けた記録は見られない。
◆平山氏と不受不施派(八丈島流人/恵正・是相)
 ここで八男日然のことに関連して、平山氏と不受不施派とのことについて触れておく。
まず不受不施僧であることがはっきりしている者として、西沢庵法中であったこの日然があり、季助の子八郎右衛門尉(義高)を父とする遠寿院日充は流罪になっている。
有盈の孫有明(恵正)・市兵衛(是相)兄弟については後述するが、友則系では孫の清兵衛(理明院日順)があり、後年多古侯に仕えた藤右衛門季孝は、円輝院日琳((※北中)妙福寺十一世・飯塚法中・玉造村)について「予カ開師ナリ」としている。
過去帳の中にも不受不施僧の名が多数記されており、当時の状況からして、書き止めることはしないにせよ、相当数の信奉者がいたことは容易に考えられることである。
 ここに一通の古文書がある。
   八丈島流人
一、松平大蔵少輔様御領分 下総国香取郡南中村 百姓半兵衛惣領 恵正
一、同御領分同国同郡同村 百姓半兵衛三男 是相
 右両僧は、島流人善右衛門を不受不施ニ相勧御科ニ仍、当三(御)蔵島へ島替為仰付、当七月四日渡、三宅島に江戸便船ニ而相送リ申候。島替証文ト引替請取之当島ニ差置申候。御受為申上如斯御座候 以上
   元文四年(1739)九月十四日
    斉藤吾六郎様御役所 御蔵島
     稲瀬助左衛門様                          神主 蔵人
     度合幸助様                            後見 平左衛門
     高木金五郎様                           名主 甚右衛門
                               (御蔵島村役場古文書写、栗山惣吉氏)
 これは恵正・是相の両僧が享保六年(1721)十一月に八丈島へ流され、流罪の身ながら流人の善右衛門に不受不施を勧めた科(とが)によって、元文三年(1738)八月に、御蔵島へ島替えになったときの記録である。八丈島に十七年、御蔵島へ移されてからそれぞれ三年と十七年の後に死亡、墓碑は同島に現存している。
  ※手持ち資料(「不受不施派殉教の歴史」では八丈島流僧、御蔵島流僧中に恵正・是相の両僧の名を発見しえない。
 この恵正・是相両僧は五軒党の一つ有盈系から出た不受不施僧である。
有盈の子有恒は半丘衛(後に丸右衛門)といい、その長男有明が恵正、七男市兵衛が是相なのである。
系譜および過去帳によると恵正は、幼名三之助で後に吉兵衛といい、三十九歳のとき僧となっている。
「恵正法師 平山有恒長子吉兵衛有明事 寛保元年辛酉(1741)正月二日 六十二歳没」。
是相は幼名亀之助、後に市兵衛(市平)となり、二十八歳のとき出家して中村檀林に学んでいる。
過去帳には「是相法師 平山半兵衛有恒七男市兵衛 二十八歳自法師ト也 宝暦五乙亥(1755)五月二十三日(又五日)六十一歳没」とある。
出家とほぼ同時に八丈島へ流されたことになる。
 不受不施派に関係した証拠のすべてを破棄、隠匿した時代のものとして残された貴重な史料であるが、平山家に伝わる過去帳の中でこの恵正・是相についてはそれぞれ名前の一字を削り、恵相・是正とその名が書き替えられてあることを付記しておく。

中村>南中・中村檀林(日本寺)

 →下総中村檀林(日本寺)


下総日円上人墳

 →中村檀林開講・開祖慧雲院日円中にあり。

中村>南中正峰山妙興寺(峯の妙興寺) 下巻76〜

 ※妙興寺では次の不受不施僧が知られる。
  17正日運(松崎妙顕寺学室七世・小湊誕生寺十九世)
  20世日述(野呂・松崎談林化主、平賀十九世、祖山妙覚寺廿四世)
  21世日逗(玉造蓮華寺四世)
  39世日精(檀林百二十二世)


 南中字横宿344番の2に所在。住民は「峯(みね)の寺」と呼ぶ。
正峰山と号する。近世には「関東の触頭」であった。(※関東とはどこまでの範囲であったのかは不明)
◇由緒・縁起
 元禄8年(1695)水戸光圀宛文書(控)では
  ※に28世日是が水戸光圀の要請で提出した文書である。
   正峰山妙興寺由緒〓礫(〓の漢字は不明)
 北総香取郡中邨鴻巣台嶺妙興寺者、日蓮菩薩之門人、大阿闍梨越後坊日弁上人開基之道場也。師姓藤原幼名寅丸、父中納言信成卿母官女宮内郷(ママ)。幼而薙染登叡嶽、学成後為峻之富士郡下方瀧泉寺之別当、住越後房因称越後阿闍梨焉。嘗日蓮菩薩延嶽退蔵之後、一日師往討論宗義法幢忽折、終成蓮師之門徒。于玆下方令平左近将監入道行智、鷲巣記曰、瀧泉寺■頂平左近入道行智 別当越後房■行常■■■法務伊予坊ト有リト云云。■■■■■行智悪之訴鎌倉追。弁師師之旦越内記者、助師到南総鷲巣建一宇為一乗道場、長国山鷲山寺是也。師初同富士山日興立迹門旡得道邪義、後■洛之妙顕寺日像上人改皈本迹一致之正義誓状妙顕寺宝庫中今尚存然後来北総大嶋城創一寺、曰正円山妙興寺。嘗初日蓮菩薩弘安二年四月所授与弁師大曼荼羅、安国論草稿、蓮師遺骨、座像釈尊一躯伝曰仏工運慶作、蓮祖肖像弁師作、護持之為寺鎮伝在于今。尓今四百年于玆也。元是一個之本寺而与鷲巣両寺一寺曰。然所以今属正中山流派者、従来正中山者当国旧寺而、此境末派寺院頗許多也。故惣妙興寺掌其指揮由之数通于中山。時移物換法尓而如末寺終録中山末寺之名簿、雖然以同蓮祖門弟故中山無座次亦無諸役■如中山日瑞僧正証蹟。往昔国中兵乱、近来宗義之乱、就荒廃霊宝資貨過半散失、旧記亦亡矣。是故能未詳其来歴集散布諸記聊録其梗概而巳
   元禄八年乙亥(1695)六月
 応于 常陽水戸中納言源光圀卿之需集録云
                                     正峰山廿八世日是記
                                          勝光院日耀証之
  一、高三拾石      従往古除地     一、境内        凡三千坪
  一、塔中         一軒         一、末寺        九ケ寺
  一、支配下       廿七ケ寺      霊宝資財之部   (以下後記)
 また、
『中村寺院明細帳』では次のようにあり、由緒についてはその内容が同じである。
   千葉県管下々総国香取郡中村南中字横宿
                                 法華経寺
                                 日蓮宗   妙興寺
一、本尊   釈迦牟尼仏
一、由緒   正安2年(1300)日蓮上人ノ門弟日弁開基ナリ。日弁ハ藤原ノ信成卿ノ孫ナリ。元天台宗ノ僧ニシテ、富士郡下方ノ瀧泉寺ノ別当タリシ時、日蓮上人ハ宗旨建立ノ際ニテ、数々宗義ヲ討論シ終ニ日蓮上人ニ帰伏セリ。依之下方ノ令主・平ノ左近将監入道行智怒リテ、日弁ヲ公場ニ訴ヘ擯逐ス。奥ニ檀徒内記ト云フ者アリ、日弁ヲ助ケテ上総国鷲ノ巣ニ至リ、一宇ヲ建立セシ即チ長国山鷲山寺是ナリ。然シテ後、下総国大嶋城ニ到リ一寺ヲ創立シ、正円山妙興寺ト名ク。其後日弁ノ直弟日忍ナルモノヲ同国中村ニ移シ、山号ヲ改メテ正峯山妙興寺ト名ク。尓来六百年ニ垂ントス。故ニ弘安2年(1279)四月日蓮ヨリ日弁ニ授ケラレタル大曼荼羅、安国並ニ日蓮上人ノ直筆ナリ等今ニ当寺ニ存在セリ
 一、堂宇間数 間口七間 奥行七間     一、庫裏間数 間口六間 奥行拾間
 一、客殿間数 間口九間 奥行七間     一、鐘楼堂  間口弐間 奥行弐間
 一、惣門   間口三間 奥行弐間     一、山門   間口六間 奥行四間
 一、経堂   間口二間三尺 奥行二間三尺
 一、境内坪数 三千百四坪 官有地第四種
 一、境内仏堂 壱宇 妙見堂、本尊 妙見大菩薩、由緒 宝暦年(1751〜63)ノ創立 建物 間口六尺 奥行六尺
 一、境外所有地 (別記)          一、檀徒人員  五百人
                                             (以下略)
 由緒縁起についての重要な付記・証文などはいずれもその写が保存されており、参考としてその一部を次に収録する。
一、日蓮肖像について
 一、祖像口伝
 弁師御孝心深クシテ自ラ彫二−刻シテ祖像一請ヒ二直御点眼ヲ一給フ時ニ宗祖点眼シ給イ契約シテノ玉(タマ)ハク、殿ノ孝心予感スル事深シ、故ニ望ニ任セ点眼シテ日蓮カ魂魄ヲ込ル所也。弥々弘法ノ志ヲ励シ廣宣流布ヲ祈リ玉ヘト。祝シテ御持参ノ末廣ヲ賜ハリ、何地何国ノ末ナリトモ此ノ像ヲ安置シテヲワサハ、日蓮カ魂魄此像ニ止リ、法華ノ行者ヲ守護シテ二世ノ所願ヲ成セシムヘシ 云云
                                             日明記
二、日蓮御真骨について
   奉伝授大聖人御舎利事
     令知見法華経中仏〓(菩薩)給不存偽候
 右御舎利者、於武州池上荼毘之庭和泉公日法[号円性御房日弁之弟子]、悲歎恋慕之余竊於火中盗取之奉入当山[上総国鷲栖法華道場]畢凡正真之婆羅門、竊納仏舎利於爪中山弘法沙門忍得尊師御骨於火中爰自故、先師日弁以来二代相伝之間安置年久而崇敬日新、雖然任所願成就之旨所令分奉御舎利内三粒、下総国中山法花堂也。且為後輩之疑且為致崇重之誠載誓状之語録之者如件
   暦応二年太歳己卯(一三三九)十一月廿六日
                                        大法師日忍 在判
 依当山安堵立願奉御舎梨之内三粒 中山別当御房之時曰記為後日留之。日忍在判
三、立正安国論草稿について
   廿幅物之奥書
 右当本者、御高祖此論御撰作之時ノ御案文ニテマシマシ候由申シ伝ヘ候。然間、御高祖三十七八九之時ノ御筆タルヘク候歟。末ノ半紙紛失不申定テ其時ノ年号、御判等御座アルヘク候ニ、紛失申シ候。無其曲候。御高祖ヨリ弁師ヘ御付属ニ候。弁師ヨリ忍師ヘ御付属ニテ、忍師ヨリ当寺代々相伝申、只今日等頂戴申処也
   弘治三年巳1557)七月三日
                                        行法院日等(七世)
四、由緒についての付記・異説
 イ 譲曰、鷲山寺ノ縁起ニハ、滝泉寺塔中四ケノ法務ノ中両人身延ニ行テ討論シ昼夜終屈伏シテ入道行智ヲ改宗セシメントス。
  行智怒テ四人ヲ責、両人ハ忽ニ真言ニ皈ス、二人ハ不レ伏、所レ謂日秀、日弁ナリ。
  日秀行智ノ怒ヲ恐テ本宗ニ皈ス、弁師不穏終ニ出行スト云云
 ロ 日忍下総ニ居住之事
  御本云、此申状ハ駿河国富士下方滝泉寺ハ日弁重代ノ所領也。
  法花経ノ故ニ被没収、之時給ル此御案文合メ十紙ニテ畢ス、此内半紙アリ、但シ奥ノ三紙ハ別筆ト見ヘタリ、
  然ルニ入筆裏書ハ御自筆(日蓮の)也
    于時暦応四年辛巳(一三四一)十二月廿日
     於下総国千田ノ庄大嶋ノ城、為末代記之                日忍 在判
 ハ 大嶋ノ城ト者、船越篠本ノ間ニテ小嶋ト云処アリ、今ハ船越ノ内也。此処ニ円山ト云山アリ、
  当山大嶋ノ城ニ在ル時ハ正円山ト云ヒ、今ノ峰ニ移リテ正峰山ト改ルト云フ旧記ノ言ヲ以テ考レハ、
  初ノ正円山モ処ノ名ヲ以テ山号トスル歟。
  若尓ハ忍師暦応年中最初開闢ノ処ハ恐ハ此今ノ小嶋円山ノ内ナルヘシ。
  元ト大嶋ナレトモ後ニ訛テ小嶋ト唱ル歟。後日尋問ヘハ大嶋トハ今嶋村ノ事ナリト云ヘリ。若尓ハヤハリ今嶋ナルヘキ歟
    明云、前段ニハ其後峰ヘ移ル其峰ヲ今ハ田胡城ト云■云。若尓ハ峰ト云ハ元ノ田胡ノ城ノ地名ニシテ、
    峰ノ妙興寺ト唱ヘシ故今■地ニ来テモ峯ト云巨峰山ト云カ、但シ正ク今ノ地ヲ峯ト云カ。不審
◇足跡と変遷
 さて、草創期の当寺は正和2年(1313)に現在の地に建てられ、以来670年に及ぶ歴史を歩む。
その中で特に記すべき事柄を、歴代譜の順に従い、述べる。
 開基日弁は、日蓮に帰依し天台宗を改宗し、日蓮宗の布教に努めた故に、下方の地頭・平左近将監に追われる。
これは当時の鎌倉幕府(将軍時宗)が日蓮宗の真奥をまだ深く理解できず、他宗派僧侶の圧迫もあったことから、邪宗として弾圧政策をとったことを背景としている。このとき、日弁の追放とともに多くの改宗者を処罰したが、それに関する一連の事件を「熱原法難」と呼ぶ。
 十一世日護(※省略)
 十五世日雅、中山法華経寺との間に本寺末寺をめぐっての争論があったが、当寺の由来を立証することにより客末となり、諸役一切免除となる。中山住持日演の訴状によると、寛永19年(1642)四月のことである。
 十七世日運(松崎妙顕寺学室七世・小湊誕生寺十九世)は不受不施信奉者でもあった。この代に本堂を建立。
 廿世日述(野呂・松崎談林化主、平賀十九世、祖山妙覚寺廿四世)、二十一世日逗(玉造蓮華寺四世)も、ともに不受不施僧である。
日述は中村檀林玄能も勤めているが、寛文5年(1665)十二月に、伊予宇和島へ流罪となる。
この年は、幕府が不受不施を禁制宗門と定め、峯と両寺一寺といわれた上総鷲山寺当住、隠居も出羽新城に流罪となるなど、当地方は「寛文の惣滅」といわれた法難の嵐が吹き荒れる。
 当寺における不受不施僧は、裏面に隠れたものは知るよしもないが、三門を建立して明和9年(1772)に没した三十九世日精が同派信奉者であったところからみても、相当長期間にわたってその脈流が続いていたものと思われる。次の一通の古文書がこれらの事情を如実に物語る。
 
   不受不施違乱之時之誓状
一、紙壊文字欠損文言聢ト知レ申サズ 所詮ハ不受不施ノ法理永不可改変之起請文也末ニ時寛文元年辛丑(1661)八月吉辰 当山一結之衆檀 敬白
 列名 通正院 円哲 円行坊 神崎正成院 南恵運坊 八刀照元坊 飯高可〓坊(※〓の文字は不明) 久野潮音寺 俗衆ハ 寺中 松山 鴻巣 借当 大堀 宮 吉田 山崎 神崎 木積 飯倉 笹本 台 林 多胡 小高 片子 本染井 佐野 嶋 玉作 飯高 沢布馬 野手 保田等也
 
 度重なる厳しい弾圧に遭い、そのすべてを秘匿し、碑面の名前まで削り取って埋没した時代に、よくぞこの文書を保管し得たと、驚嘆するものである。
 二十五世日宥代に本堂・諸尊が整えられ、二十七世日如のとき貞享二年(一六八五)に鐘堂と梵鐘、元禄十年(一六九七)に客殿を完成した。
この梵鐘は第二次大戦中供出されたが、次の銘が刻まれていたという。
 (※鐘銘は漢文に付き、省略)
 二十八世日是のときには、浅草妙音寺で出開帳をする。
 三十世日元以降、歴代と中村檀林化主の交流が頻繁に続く。(※具体例は省略)
 三十九世日精(檀林百二十二世)は、不受不施僧であり、三門建立の事蹟を残す(上述)が、歴代の石塔と並んだその供養碑には、次のように刻まれる。
 
 三門建立 二天造像 諸檀衆霊 宝暦十庚辰才(1760)三月日
 当山第卅九世日精 顕妙寺歴代先師衆霊 顕妙寺衆権衆霊 清凉院梅香院如雪実相院登地院行善院以信日修 平山氏先祖代々 本妙院道融日性日仙聖人妙岸
   明和九壬辰年(17772)十月二十三日
                                       世話人 下町 重兵衛
                               当山卅九 正東山化主 了遠院日精聖人
 (※以下の歴代は省略)

◇建造物 本堂内陣
 内陣には次の尊像が祀られる。
主なものは御本尊・壱塔両尊・四士弐士四王・宗祖尊像は十四躯、正安2年(1300)開眼の祖師説法像、日弁作の日蓮菩薩像、宗祖自ら点眼の日法作日蓮像、日蓮御真骨入厨子・鬼子母神・弁財天・妙見大士・天満天神・日弁・日親・幡上日充・大古久天などである。
 ここで、既述のものと重複する点もあるが、当寺古文書『由緒霊宝歴代志』から「霊宝資財之部」の一部を転記してみる。
  (※省略する)

 総門:石段を登りつめたところにある。
 右手の題目碑:「南無妙法蓮華経 日賢 正峯山 施財信男女現安後善 再興發願主東谷若者中 文化13歳在丙子(1816)正月穀旦四十五世日稽代」とある。
 山門:重層、10.8×7.2m。二階部分の正面に、多古藩主松平氏の家紋である梅鉢紋が付される。当寺は松平家の菩提寺として、十代勝権以後の墓碑が建てられる。
 山門左手墓地:その奥に「開山日弁聖人 応長元辛亥年(1311)六月二十六日」とある碑をはじめ、歴代住職の墓碑が整然と並ぶ。
この歴代碑に相対して一群の碑石がある。その中で最古の石碑には次のように刻する。「開山権大僧都日英聖人 応永30癸夘歳(2423)八月十日示寂 安永癸 巳(1773)三百五十遠忌之砌建焉 義察日勇」。
 日英聖人とは、南中字郷部(ごうぶ)にあった通勝院真浄寺の開山で、日勇は後の住職である。
この真浄寺は妙興寺塔頭(塔中)で、妙興寺は、末寺・支配寺院36カ寺に関する執務を行い、檀家に対する一般的な事務に塔頭である真浄寺が当たっていたが、明治17年に廃寺となり、妙興寺に合併される。
 鐘楼堂:再三修築の記録はあるが、貞享2年(1685)建立当時の姿を今に伝える。梵鐘の銘は前述のとおりである。
 本堂・庫裡:白壁に囲まれる。本堂裏が宝蔵庫である。
 天満宮:総門をくぐった南側にある。瓦葺雨覆いの中に石宮があり、「維時嘉永五歳在壬子(1852)閏二月廿五日 建立之」と。社前の石造手洗いには「奉納 筆子中 慶応元歳乙丑(1865)九月」とある。また社屋の中に永享6年(1434)の題目板碑、他に種子板碑がある。この他梅鉢紋入りの献燈の一部もあり、本尊像は本堂内陣に安置される。この社も、真浄寺にあったのを移したものである。
 妙見堂:天満宮と並ぶ。亜鉛葺朱塗りの小堂で、やはり尊像は内陣に安置される。
妙見尊はいうまでもなく千葉氏の守護神である。ここで千葉氏と当寺のかかわりを証する一通の古文書を書きとどめておきたい。
この妙見堂は、かつては境内東方の林中にあり東谷住民の守り神となっていたのを、明治21年に移したものである。
 (※文書は省略)
◇題目塔
 天満宮に並んで二基の題目塔が建つ。
その一つの板碑様のものには次のように刻まれる。「南無妙法蓮華経 明和5戊子(1768)二月十三日講中 奉開眼玄題五千部成就 高祖五百遠忌法味唱満玄代一万部 天明元丑年(1781)十月十三日 四十三世日選」とあり、裏面には開山日弁から四十二世日義までの歴代名が連記される。
 もう一つの、高さ約3m余のものには、 
「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 ■■日精 ■■台石 祈禱先祖代々霊位 近江屋与平次同娘おゑい 祈禱先祖代々桑原氏牧野近江屋佐平治 又聞院妙成日提 浅井式部 持法院殿妙信日長 松栄院殿妙寿日宗栗嶌氏円信院宗忠日深 唯信院妙忠日宗 深谷和重郎祈 春山浄意 深心院妙忍日受 妹尾喜四郎祈禱 飯浪熊太郎祈禱 岸氏祈禱 加め屋勘四郎 さぬきや善兵衛 志  屋権太郎 渡辺氏祈禱 神尾瑞泉院■■ 先祖代々 本法院住円日性施主本浄院永住院妙性日悟 諏訪村重助 先祖代々 相磯氏祈禱 先祖代々 施主 本願人 武州豊島郡江戸下谷池之端尾■屋半助同妻 善修院了心日性 善性院妙念日■ 心了院恵観 恵了院妙光円智院宗寿 当村林氏祈禱 先祖代々 一性院宗修日得 春光院妙融日性 平六」
 と刻まれる。
◇松平(久松)家墓所
 題目塔の奥に、一段高く垣に囲まれた墓碑群がある。これが当寺とゆかりの深い多古藩主松平(久松)家十代勝権(のり)、十二代勝慈(なり)、十三代勝親(ちか)およびその家族の墓所である。
 (※以下略)
◇さつ女墓
 (※この項は省略)
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
中山法華経寺末、末寺8。
本寺として塔頭1、末寺13、支配下寺院27を有した。
末寺:
 借当山妙蓮寺:妙興寺第四世日法によって改宗。(峰)妙興寺の末頭であり、また妙興寺鑰役(かぎやく)であった。

22023/10/18撮影:
 山門左手に墓地があり、その奥に「開山日弁聖人」碑、歴代住職の墓碑が整然と並ぶ。また相対して一群の碑石がある・・とのことであるが、未見に終わる。
 中村妙興寺参道石階     妙興寺総門前題目石:上に銘文掲載、文化13歳年紀。     中村妙興寺総門
 山門は三間三戸の八脚楼門、平面規模は7.89×4.88m。入母屋造、トタン葺。文政年中の建立と推定される。
 中村妙興寺山門1     中村妙興寺山門2     中村妙興寺山門3     中村妙興寺山門4
 中村妙興寺山門5     中村妙興寺山門6     妙興寺山門二天像1    妙興寺山門二天像2
 中村妙興寺山内     妙興寺本堂・庫裏
 妙興寺本堂門     妙興寺本堂1     妙興寺本堂2
 妙興寺庫裡門     妙興寺庫裡1     妙興寺庫裡2     妙興寺菅原堂:天満宮
 妙興寺妙見堂1     妙興寺妙見堂2     妙興寺妙見堂扁額
 妙興寺鐘楼1     妙興寺鐘楼2:明和6年の建立と記録される。
 妙興寺題目石群:向かって右から「明和五戊子題目石」「題目石・日蓮大菩薩」「新作題目石」「南無日親聖人」碑である。
 明和五戊子題目石:銘は上に掲載     題目石・日蓮大菩薩     新作題目石:年紀由緒など未確認
 南無日親聖人碑:長享二戊申年(1488)と側面に刻む。
 久松(松平)家墓所:由緒は上に掲載

中村南中竹林山妙光寺(唐竹)  下巻97〜

南中字唐竹163番地に所在。
◇由緒・縁起
 寺記では、 
貞治三年(1364)五月創立ニシテ、大僧都日朝上人ノ開基ナリ。同僧ハ同郡嶋村妙光寺多古村妙光寺及ヒ当寺三ケ寺ノ開祖ニシテ、応安六年(1373)五月廿五日八十歳ニシテ入滅セリ。<中山法華経寺末>
 と、いう。
 日朝は、上総茂原城主斉藤遠江守兼綱が、のちに出家して常在院日朝と改めた(『多古・妙光寺沿革』『日蓮宗寺院大鑑』の妙印山妙光寺と常在山藻原寺の項。『香取郡誌』)とも、斉藤兼綱の子である(日本寺三十四世取要院日言記の『妙印山縁起』)ともいわれ、その没年についても弘安六年(1283)五月二十五日(『妙印山縁起』『日蓮宗寺院大鑑』の妙印山妙光寺の項)、応安五年(1372)五月二十五日(『同大鑑』妙印山妙暹寺の項)、応安六年(1373)五月二十五日(『同大鑑』竹林山妙光寺の項。『竹林山妙光寺記』)と、三説がある。
 茂原藻原寺(もと妙光寺、明治2年に藻原寺と改称)記によると、建長六年(1254)に領主斉藤遠江守が城内の草庵に宗祖日蓮を迎え、一族をあげて帰依したのがその創まりで、建治二年(1276)十一月十二日に法堂を建てる。
のちに兼綱は得度して日朝となり、藻原寺(旧妙光寺)を子に託し、弟兼継とともに染井原(※香取郡染井村か)に法堂を造営して、祖師尊像(肉鬚祖師)を安置、千田庄一帯の中心道場になったという。
 この地方に来たいきさつの詳細は不明であるが、宗旨弘宣に熱心で、下総に来たのもそれを目的とし、右の三妙光寺を創建したものであろう。
 この地は、その字名(※唐竹)が物語るように周囲一帯は竹林であり、多古藩ではここの竹をもって(※建築)用材としたようである。
  (※以下略)
◇境内の建造物・板碑
 現在の山門は黒塗冠木門であるが、もとの山門は、ここから坂の小径を下ると左側に十数段の石段があり、それを登りつめたところにある薬医門がそれである、
 この山門下に題目塔があり。
「南無妙法蓮華経 銘曰善根苟種仏果然成金剛之体不圯弗傾 文政四年辛巳(1821)正月 廿五世匡弁日宝 北族願喜捨当山檀越信男女等 妙光寺」と刻す。
 境内は402坪で、正面の本堂は十二世日静(境智院・寛保二年(1742)没)のときに建てられたというが、近年改修される。
 本堂左手の墓地入口に一段と小高い丘があり、そこに妙見堂がある。
寺伝によると寛永九年(1632)に住職日大が勧請したものであるという。この地には千葉氏に属していた大堀城の那須氏が、天正の落城と同時に隠退して土着帰農したとの口伝があり、千葉一族の守り神である妙見尊とともに唐竹に逃れ、後に一宇を建ててこれを祀ったものであろう。
 本堂西側は墓地である。この奥正面に鏑木平山家の始祖図書の墓が左右二基の笠塔婆とともに建つ。
 図書は満(光)政・光高ともいわれ、前記壺岡城主季邦の弟である。
 その中心の連碑には「妙法蓮華経 慈常尊院日慶位 慶安四辛卯十二月十九日 妙法蓮華経 悲常明院妙尊尼 寛永三丙寅(1626)六月十五日」と、図書夫婦が刻まれ、
 右の笠塔婆には「妙法蓮華経 正敬院殿慶賛日貞位 承応第三甲午(一六五四)三月二十六日 正信院妙讃日解寿位」。
 同じく左には「妙法蓮華経 眞善院日性㚑位 承応第二癸巳(一六五三)四月上院八日 顕性院日徳寿位 平山勘兵衛光貞」とある。
 この鏑木平山氏が同寺に何かと寄進をした当時の古文書がある。
   (※中略)
常照院湛応〓堂日静居士 延享元甲子(1744)七月二十日没
            平山久甫 七十一歳(満篤。忠兵衛、図書・久甫等ノ称アリ。家ヲ弟満清ニ譲リ、後西院上皇ニ仕ヘ奉リ功績多シ、銚子市荒野ニ海上山妙福寺ヲ創立、田二町八反八畝十六歩ヲ寄進ス『鏑木平山氏系譜』)
   (※中略)
 ところで、唐竹の妙光寺といえば板碑で知られ、その年代の古さや数の多いことでは町内有数である。
◇妙光寺板碑
 当寺の板碑は大体1m前後のものである。
 600年を超える歳月を経ているため、既に摩耗のため読み取れない部分も多いが、例えば門前にある一基には、中世この地に君臨した千葉氏の一族胤貞以下の名が刻まれており、他に例を見ない貴重な文化財といえる。
 いまここに、失われ、忘れられつつある文化財の行く末を案じながら、その全部を収録しておくこととする。
   (※11基について銘の記載があるが、銘の記載は大量であり省略する、必要な場合は「多古町史」の参照を願う。
    ほぼ「南無妙法蓮華経」の題目を中心とする題目板碑のようである。)
◆末寺:
北中妙栄山佛光寺跡 →下総中村>北中
2023/10/30追加:
○「多古町史」 より
 竹林山妙光寺山門・石階
この写真によれば、確かに、山門前が十段の石階であり、山門下に題目碑がある。山門奥には本堂らしき建物が写る。
しかし、現状は山門前は石階ではなく、この「写真」や「多古町史」の「現在の山門は、県道に面して聳える五〇〇年は超えると思われる杉の枝下にある黒塗冠木門であるが、もとの山門は、ここから坂の小径を下ると左側に十数段の石段があり、それを登りつめたところにある薬医門がそれである」という記述とは異なっている。
 ※再度、調査を要する。
2023/11/01追加:
○「日蓮宗妙榮山佛光寺縁起」(パンフレット) より
 このパンフ中に載せられる簡略な案内図によれば、多古笹本線が中村小学校から唐竹妙光寺方向へ北上するが、その中村小の東が坊谷である。この道路の東側で、坊谷から唐竹妙光寺に至る間に「日常聖人隠居寺」、この北に「東福寺跡地」との表示がある。すぐ北は唐竹妙光寺である。
おそらく現在は何の遺物も残らないと思われるが、上記2つの寺院があったことが想定されている。
以上、備忘として追加する。
2023/10/18撮影:
 唐竹妙光寺には14基の下総型板碑が存在するという。これは応安4年(1371)〜永享10年(1438)に造立されたもので、この間の歴史を雄弁に語るものであるという。
 唐竹妙光寺冠木門      冠木門横題目石:これは新しいものか?、要調査。
 唐竹妙光寺山門     山門前題目石:これが「多古町史」に記載の山門下の題目塔であろうか?、要調査。
 唐竹妙光寺本堂     唐竹妙光寺庫裡               
 唐竹妙光寺妙見堂1      唐竹妙光寺妙見堂2
 日蓮大菩薩題目碑その1:本題目碑の調査を要する。
 日蓮大菩薩題目碑その2:その1と相似しているが別である、本題目碑も調査を要する。
 日朝墓碑・歴代譜
 日朝上人墓碑:應安六癸丑/■■大僧都日朝聖人/五月廿五日(五月廿五日は一部推定)     唐竹妙光寺歴代譜
 唐竹妙光寺歴代墓碑
 鏑木平山家始祖図書一族墓     図書一族解説銘
 上記の記述では「鏑木平山家の始祖図書の墓が左右二基の笠塔婆とともに建つ。
 図書は満(光)政・光高ともいわれ、前記壺岡城主季邦の弟である。
 その中心の連碑には「妙法蓮華経 慈常尊院日慶位 慶安四辛卯十二月十九日 妙法蓮華経 悲常明院妙尊尼 寛永三丙寅(1626)六月十五日」と、図書夫婦が刻まれ、
 右の笠塔婆には「妙法蓮華経 正敬院殿慶賛日貞位 承応第三甲午(一六五四)三月二十六日 正信院妙讃日解寿位」。
 同じく左には「妙法蓮華経 眞善院日性㚑位 承応第二癸巳(一六五三)四月上院八日 顕性院日徳寿位 平山勘兵衛光貞」とある。」
 唐竹妙光寺板碑:ここには13基が置かれる。
 板碑その01     板碑その02     板碑その03     板碑その04:応永十五年五月十九日の年紀
 板碑その05     板碑その06     板碑その07     板碑その08      板碑その09
 板碑その10     板碑その11     板碑その12     板碑その13

中村南中巨栄山徳成寺  下巻113〜

 南中字芝1711番地に所在。<中山法華経寺末>
◇由緒・縁起
 現在は日蓮宗であるが、もとは真言宗、日祐がこの地を布教のとき、北場浄妙寺と同時代の貞和二年(1346)に改宗したともいわれるが、口伝によると、千田庄領主千葉胤貞は居城を飯土井台に構え、その鎮守神である高田の妙見社の別当常心坊を城内に建てて祈願所とした(また、妙見社西側の寺山に祈願所を建てて別当寺としたとも)が、これが後の徳成寺であるという。
 →中村高田妙見社<下総多古町の妙見社>参照:妙見社別當が後に徳成寺となるという。
 →「日常・日祐・千葉胤貞・芝徳成寺・日胤・高祐山東福寺・日貞」の項を参照
そして、改宗と、徳成寺になったいきさつを『日本寺古文書』は次のように述べる。
  一、今函中古記を検べ考ふるに、当寺(日本寺)は正中・嘉暦(1324〜29)の頃、中山三世浄行院日祐聖人弘道の艸庵なり。
  曰(いは)く師或時錫を総の安久山に飛ばす。道窪(久保)村を過ぐ。千葉氏胤貞千田庄を領す。人千田殿(又窪殿)と呼ぶ。
  則ち此処に城廓を築く。偶々祐師を見て将に仏門に入る。師の講説を扣くに、示すに妙法の至理を以てす。
  千葉氏玆に於て始めて祐師に帰し、氏寺飯出(ママ)井真言寺を法華精舎と改む、今芝徳成寺是なり。
  且つ二子を投じて薙髪せしむ。師号するに胤貞の二字を以て、其先を日胤と曰ふ、後を日貞と曰ふ。(以下略)
 また、徳成寺由緒には、
  当寺ハ応安元年(1368)四月中山法華経寺第三世日祐上人ノ開基ナリ。
  元真言宗ニテ南中村飯土井城主千葉大隅守胤貞ノ祈願所ナリ。
  同年日祐上人宗旨ヲ弘メント欲シ当地ニ来リ、適々飯土井ノ辺ニテ胤貞ニ遇ヒ旨致ヲ説教スレハ、
  頓ニ帰伏シ二子ヲ日祐ニ投シ出家セシメ、兄ヲ日胤トイヒ弟ヲ日貞トイフ。
  依之時ノ住職了海法印モ帰伏シ寺ヲ日祐ニ譲リ、改宗シテ了海日了ト名ヲ改メ日祐ノ徒弟トナルニ依リテ日祐ノ開基トス。
  又日貞ハ師ノ後ヲ続キ宗弘勲功大ナルヲ以テ日蓮ノ真筆首題一幅ヲ授ケラレ、今当寺ニ伝来セリ。
とあり、その年代については異論があるようであるが、開基・改宗は日祐によってなされたとする点については、近隣他寺院の場合と同じである。
◇境内の建造物・石碑
 境内の坪数は525坪といわれ、堂宇の一つに妙見社が祀られる。
千葉氏一族の氏神であることはつとに知られているが、大檀越千葉胤貞がその武運を祈念したものであろう。棟には同氏族の家紋である九耀星が付される。
 妙見社前・山門右手に拝殿造りの七面堂がある。本尊は七面天女で、身延山久遠寺の鎮守として日蓮の高弟日朗が七面山に祀って以来、同宗の守護神とされている。堂前の鰐口は天明七年(1787)に村人が寄進したもので、幟も保存されている。
 妙見の左側にある小祠は、火災盗難除けの神で知られる古峯神社の分社で、氏子は毎年三名の代参人によって古峯本社(栃木県)のお札を受けるならわしになっているという。
 山門前の石塔には、次のように刻まれている。
 「南無日蓮大菩薩 五百遠忌巨榮山二十六世湛解院日勝代造立 後五百歳中 廣宣流布 惣檀中 安永七戉戌歳(一七七八)霜月 本願人 宗言 東谷六兵衛  甚右衛門 仝人妻  谷嘉右衛門 西谷武右衛門 東谷伊助 宮藤兵衛 町喜八 芝伝治郎 町    利兵衛 仝四郎兵衛 奥甚左衛門 東谷七兵衛 芝徳兵衛」 
 これは、日蓮の没後五〇〇年になろうとするとき、その回向のために建てた題目碑である。
 本堂内陣には本尊の釈迦牟尼仏をはじめ、一塔両尊四菩薩七体・日蓮聖人像・鬼子母神像・妙正天女像・清正公像などが安置され、日蓮聖尊定大曼荼羅がある。
 境内には歴代住職ほかの墓地があり、承応(1652〜54)、万治(1658〜60)年代の石塔が多く見られる中で、次の三基の板碑(いずれも室町期のもの)は次のように刻まれる。
  板碑一
            右妙■■第三年也
       南無多宝如来
  (天蓋)南無妙法蓮華経 (蓮座)
       ■■■■■来
           応永九年(1402)七 (月)■日
 板碑二
     南無上行無辺行菩薩 右志者為悲母
    南無多宝如来     法真比丘尼十三
   南無妙法蓮華経     年成仏得
    南無尺迦牟尼佛    道乃至法界
     南無浄行安立行菩薩  平等利益而已
                応永十四天(1407)八月日
                孝子〓(〓は等)敬白
 板碑三
     長禄五年辛巳(1461)七月十九日 妙■■法
    大持国天王(不動種子)  大廣目天王
        南无日蓮大■   妙佛
     南无上行无辺行菩薩  ■■   妙円
    南无多宝如来 鬼子母神 日栄 妙 
   南無妙法蓮華経 日■ (花押) 日■ ■■
    南无■迦牟尼佛 十羅刹女 日■ 妙■
     南无浄行■■      日円 祐■
    大毘沙門天王(愛染種子)大増長天王 日■ 妙善
                 日■ 妙■
                 ■■ 妙祐 
 この板碑の年号「長禄」は4年の十二月二十一日までで、「長禄5年」とは改元した「寛正2年」のことである。金石文や古文書には、改元後も以前の年号を使う例はよく見られる。
 なおこの板碑は、もと東谷東福寺にあったものであるという。
2023/10/18撮影:
 板碑については注意力散漫で見落をしている。
 徳成寺山門前題目石:銘文は上に掲載、安永7年日蓮五百遠忌。
 徳成寺山門     徳成寺本堂・庫裏     徳成寺本堂     徳成寺新庫裡     徳成寺霊寶殿
 徳成寺七面大明神      七面大明神本殿     徳成寺古峯社
 徳成寺歴代墓所:歴代の古墓4基(行明院日善、境徳院日壽、境合院日俊、35世泰嶺院日寛)の墓碑があるも、歴代譜がなく何世かは不明。

中村南中常高祐山東福寺  下巻117〜

 南中字西谷1850番の2に所在。<多古日本寺末>
◆由緒・縁起
 日蓮宗で、檀家は55軒ほどである。
由緒縁起については、火災による古文書類の焼失のため、その詳細は不明である。
日本寺33世日演による『談林年貢帳』に断片的に記録されているが、当寺の歴史は常に日本寺と表裏一体であり、内容的にも重複するところが多い。
  ※合わせて、中村日本寺(中村檀林)を参照すべし。
 千田庄領主千葉胤貞が正中・嘉暦のころ(1324〜29)、中山法華経寺三世日祐に帰依して猶子とし、さらに他の二子(これも猶子とも)を日胤・日貞と自分の名を分け与えて日祐の弟子とする。
そして西谷に寺を建てて日祐を開基、日胤を住持として「高祐山東福寺」と名づけ、これをもって創始とするという。
  ※ →日常・日祐・千葉胤貞・芝徳成寺・日胤・高祐山東福寺・日貞
 天正15年(1587)に日祐の子孫・中山10代の日俒は京都頂妙寺貫主日bとの軋轢により、半ば強迫的に隠居を求められ、その子日典を伴って東福寺に移ることになる。
  ※中山10代の日俒 →中山法華経寺・中山日俒・日b
  ※堺妙国寺・京頂妙寺日bについては →堺妙國寺日b略歴  →京頂妙寺 を参照
  ※中山輪番については →中村檀林>◆中山法華経寺・中山日俒・日b の項を参照
このとき中山の什宝釈尊像などもともに移ったので、後に日典は霊宝紛失のゆえをもって追放されることになるのであるが、東福寺に移ってから丸山を北条氏政より譲られ、新しく寺を開いてそれを「正東山日本寺」と名づけ、旧寺となった東福寺の塔中覚応坊を房谷(ぼうさく)(現在の幼稚園舎付近)に移し、「常」の字を冠して「常高祐山東福寺」とした。また、この日典のとき日本寺は「瑞光寺」と改めている。
 この後、飯高檀林講主問題から身を引いた<日円>は、求めに応えて瑞光寺を再び日本寺に改め、中村檀林として開講するのである。
  ※日圓 →中村檀林開講・開祖慧雲院日円
日円は五年の後に再び飯高檀林四世講主となるが、後を継いだ弟子日因は「後年旧宇を坊谷に移して東福寺と名づけ以て末院となす。其跡に大講堂を営し、額して正東山日本寺と曰ふ。
正保元年甲申の歳(1644)に至りて第八祖通心境師今の地に移し、井を掘り門を開き、鐘楼並妙見祠等を創建して、以て一大伽藍となす。寂乎たる山上、頓に輪奐たり」(慧雲円上伝)、という次第であった。
 当初は柳下平右衛門宅付近にあったが、右のような変遷を経て現在のところに定められたようであ。
境内に建つ開山碑・由来碑の文は次のようである。
開山碑
 「当寺開基中山三祖浄行院日祐聖人 当山中興開基日俒聖人慶長三戊戌年(1596)五月二十九日 下之総州中村教林  延宝七年己未(1679)六月四日 新談義一結之衆徒謹誌之」
由来碑
 「常高祐山東福寺元坊谷ニ在リ、明治四十五年一月十八日火災。堂宇焼失、本山ノ命ニ依リ同末妙福寺(北中字久保三〇二〇番地・現状墓地)ト併合、旧檀林大頭寮跡敷地壱反参畝廿四歩ヲ本山ヨリ下与セラレ、大正六年五月十五日西谷ニ転ジ東福寺ト号ス。今玆宗祖六百五十遠忌記念ノ為メ此地ニ奉遷者也。昭和六年春彼岸会中日、妙福寺東福寺併合始祖、本修院智行日忍」
  次に、『中村寺院明細帳』より東福寺・妙福寺の部分を転載する。
   千葉県管下々総国香取郡南中村字坊谷
  明治四十五年六月廿九日同村北中妙福寺へ合併
                                       日本寺末
                                        日蓮宗  東福寺
  一、本尊   釈迦牟尼仏     一、由緒   貞治元年(一三六二)創立 日祐上人開基
  一、堂宇間数 間口六間三尺 奥行五間  四十五年一月十八日焼失ノ旨届立
  一、境内坪数 弐百弐拾四坪 官有地第四種       一、檀徒人員 百三拾壱人
      (以下略)
 
  千葉県管下々総国香取郡中村〓(南)中字久保 [大正六年九月十三日 移■許可■■■第■■号
  明治四十五年六月廿九日 同村南中東福寺ヲ本寺ヘ合併財産譲与寺号ヲ東福寺ト改称ノ件許可
                                       日本寺末
                                        日蓮宗  〓(東)福寺(〓は妙を/で消去、東と追加)
  一、本尊   釈迦牟尼仏
  一、由緒   不詳 [明治四十五年六月廿九日 同村南中東福寺ヲ合併東福寺ト改称ス]
  一、堂宇間数 間口五間三尺 奥行三間三尺
      大正六年九月十三日改築許可 本堂 弐拾弐坪五合  庫裡 拾七坪七合五勺
      大正八年四月廿八日 本堂・庫裡改築工事竣工届
  一、境内坪数 八拾弐坪 官有地第四種
                    宅地壱反参畝弐拾四歩
                    (右の一行についての関係文が、細字で朱書きされているが文字不明)
  一、檀徒人員 三拾壱人
     (以下略)
境内の建造物・石碑
 本堂内陣には、一塔両尊四士・合掌印祖師像・説法像が安置され、右側の鬼子母神などがある。
 境内には歴代住職の墓石とともに、年号や刻名人物のことについて貴重な板碑があり、次にそれを記して後学に資す。
 門前の題目塔
  「南無妙法蓮華経 東福寺 祖于祐聖 円師乃墓 衆木環丘 〓古叢規 休矣拮据 新于客碑 充章万也 沾彼弗遺西谷檀越壬女等現安後善 文政三年庚辰(1820)三月 当山三十二世即禎日栖」
 板碑一
          右志者為 悲母  敬白
       南無多宝如来
  (天蓋)南無妙法蓮華経  (蓮座)
       南無釈迦牟尼佛
          貞治二年关卯(一三六三)十月 日
 板碑二(断碑)
        右為■■■
     南無多宝如来
   南無妙法蓮華経
     南無釈迦牟尼仏
        貞治■■■
 板碑三
   大持国天王  大廣目天王
         右為慈父妙目十三年既来
         来〓■霊也仍増進佛果也(〓は「方+|」の文字)
        南无无辺行菩薩 南無■代先師〓(等)(〓は「ホ」の文字)
       南無上行菩薩  南無法主大聖人
      南無多宝如来   鬼子母神 施主
  (天蓋)南無妙法蓮華経 (蓮座)
      南無釈迦牟尼仏  十羅刹女
       南无浄行菩薩 南無代々先師上人〓(等)(〓は「ホ」の文字)
        南无安立行菩薩 平胤貞已来
                御先祖等敬白
              嘉吉二年(1442)卯月十五日
   大毘沙門天王 大増長天王
 板碑四
        右為慈父妙覚并悲母妙■尼
     南無上行无辺行菩薩 三十三廻也乃至法界衆生
    南無多宝如来
           鬼子母神
   南無妙法蓮華経
           十羅刹女
    南無尺迦牟尼佛
     南無浄行安立行菩薩 平等利益也
      文安二年乙丑(1455)時正月三日
 板碑五
                寛正五年甲申(1464)九月廿七日
   大持国天王(不動明王種子) 大廣目天王
         南無無辺行菩薩 大目天王 南無法主大聖人 大梵天王
       南無上行菩薩 南無舎利弗 天照大神
      南無多宝如来 南無文殊師利菩薩 鬼子母神
  (天蓋)南無妙法蓮華経 日院(花押)
      南無釈迦牟尼佛 南無普賢菩薩 十羅刹女
       南無浄行菩薩 南無■迦■■ 釈提桓目天王 八幡大菩薩
        南無安立行菩薩 大月天王 南無■■上人
   大毘沙門天王(愛染明王種子) 大増長天王
  そして、最下列に次の刻字が見られる。
            ■■妙経
            ■■■■
            妙浄■■
            妙行妙高
           右為先孝妙■ (蓮台)
           三十三廻忌也
            高■逆修
            妙阿妙祐
            経■妙■
            経 逆修
            ■蓬逆修
            同■■■
2023/10/18撮影:
上に記載の「由来碑」は未見、所在を確認せず。
 東福寺入口題目石:銘文は上に掲載、文政三年年紀。     中村東福寺入口石柱
 中村東福寺本堂・庫裏     中村東福寺鎮守か
 東福寺山内題目石:子安鬼子母神/南無妙法蓮華経/高祐山/東福寺 と刻す。
 歴代墓碑・板碑類:中央は日蓮大菩薩石碑(年紀など不詳)、その向かって左は開基日祐石碑、板碑類もいくつか写る、背後の建物は住職の住居である。
 開基日祐石碑:上に掲載の「開山碑」である、當寺開基中山三祖洋行院日祐聖人と刻す。背後は板碑類。
 石造六角宝塔:歴代墓碑とも思われるも、確証はない。
 東福寺板碑その1:ほぼ刻銘が読めず。     東福寺板碑その2:判読し難いが、上に記載の「板碑一」であろう。
 東福寺板碑その3:殆ど刻銘が読めず。     東福寺板碑その4:2基の板碑が写るも、ほぼ刻銘が読めず。

南中村新田墓地
 日本寺下にある広大な墓地であり、多数の板碑・石塔類が散在する。
2023/10/19撮影:
 多数の板碑・石塔類の一例を取り上げる。
 南中新田墓地石塔類:全て詳細は不詳(調査不十分)
 南中新田墓地宝篋印塔     南中新田墓地板碑     南中新田墓地題目石

中村南中高田妙見社  「多古町史 下巻」38〜

 → 下総多古町の妙見社の項にあり。

中村南中宿牛頭天王(宿八坂神社) 「多古町史 下巻」44〜

 → 下総の牛頭天王の項にあり。

南中・新田の道祖神
 日本寺入口前から、北に曲がる旧街道を入ると、左に杉林に覆われた日本寺境内が続き、右は椎の古木が林立する墓地となる。
 この道は・・・旧街道で、その証左ともいうべき石碑が道路の墓地側に並ぶ。
その一つに「台坂 台坂ヨリ六所神社前ニ至ル延長四七〇間 大正 年三月 工費一八〇〇円 道路改修寄附者渋谷   大正八年三月 中村建之」とある。
 これから十二、三歩離れたところに牛馬の守護神として知られる馬頭観世音塔(高さ38cm)があり、これには「馬頭観世音 昭和三年三月 馬持中」とある。
 同所に石造道標があって、「南無妙法蓮華経 西さくら たこ ゑど 南まつ山 八日市場 九十九り てうし道 北いいだか まつさき やまくら(山倉)みち 天保六未(一八三五)十一月吉日 南中村願主佐左衛門内まち」と刻まれており、参詣に訪れる旅人たちの便に供したものであろう。
 壺岡城主平山季邦墓地への入口で台坂東側のところに、玉垣に囲まれ、木造鳥居の建つ北向きの道祖神がある。この社は特にその御利益が大で、手足を病む人は社前に積まれている小石を借りて、その痛むところをさすると、たちまち快癒するという。そして、治った人は小石の数を倍にして奉納する習わしである。
 現在も十月十七日の秋祭りには、新米で作った甘酒を竹の小筒に入れて供える。平素の供物・清掃なども、他には見られないほど行き届いてみえる。ここの所在は字新田一八〇二番である。
2023/10/18撮影:
 南中・新田の道祖神1
 南中・新田の道祖神2:はっきり「道祖神」と写っているものは3基、「道」、「祖神」と写り、道祖神と判別できるものは6基ほどある。その他数多くの「駒形」や「位牌形」の石造物が集積しているがこれらも道祖神と思われる。
「多古町史」で云う「治った人(※ご利益うを授かった人)は小石の数を倍にして奉納する習わし」で道祖神を奉納したものであろうか。
 なお、台坂云々の石碑、馬頭観世音塔、もう一つの石造道標は未確認である。

中村>南中・旗上日充上人墓所

旗上日充上人は上述の岩部安興寺10世である。
 ※旗上日充の墓所は下総中村にあるが、中村檀林遠寿院日充とは全く別の僧侶である。

下総南和田・南借当・南並木 --------------------

南和田

南和田和田山福現寺  「多古町史 下巻」272〜

 字台101番地で、県道多古・笹本線の南側にあって、千葉交通バス停「宮坂上」がその入り口ともなる。
境内の東端から集落の住居・水田のすべてが見渡せる眺望である。
由緒・縁起
 この寺は、南和田内にありながら村内の檀家は二戸のみである。しかしまた、境内および隣接する墓地に建つ墓石は村全戸にわたる。
『中村寺院明細帳』は次のように記す。
     千葉県管下下総国香取郡南和田村字和田
                                法華経寺末  日蓮宗 福現寺
  一、本尊    釈迦牟尼仏     一、由緒    不詳
  一、堂宇間数  間口七間半 奥行三間半      一、境内坪数  三百四十坪
  一、境外所有地 略(七筆)      一、檀徒人員  四十九人    以上
 
 また、明治19年四月七日、村惣代並木三之丞・立会人大倉常吉の署名がある『下総国香取郡南和田村沿革歴史』には「福現寺ハ北方字台ニアリ日蓮宗也。和田山ト号ス。下総国東葛飾郡中山村法華経寺末寺也。創立年月日貞治二年(1363)八月」とあり、さらに、元禄元年(1688)霜月八日に日本寺三十三世日演(唯本院通雅)が記した『談林年貢帳』の末尾には「和田村福賢寺(ママ)、当談林之末寺也」とある。言い伝えでは貞治二年に日本寺三祖日祐(浄行院)の開基によるものであるともいわれている。
小宮・石造物
 境内にある奉納物はいずれも功緻性の高いものである。
題目塔:
入口右手にあり「和田山福現寺 玄長院日常 玄了院日義 妙了院日体宝暦六年(1756)七月日 信解院道有」と刻す。
常夜塔:
三段礎石の大きなもので、「常夜燈 文久二壬戌年(1862)四月 和田山福現寺恵伝代 金三百疋本願主借当縫十郎(他多数の名前と金額)」とあり、「明治24年基礎再修飾」の字が見られる。
大型石造手洗:
 本堂前にあり、上屋付きで。これには、表に「水灑 嘉永六癸丑歳(1853)仲夏良辰 和田山福現寺留守居専伝代 世話人谷津仁左衛門 坂並金左衛門 三谷(みや)藤右衛門 同彦左衛門 同重良兵衛 当村三之丞 願主舟越邑喜作 南中邑由蔵」。裏面には近郷村々の名前が50人ほどと、それぞれの金額。そして最後に「宮和田若者中 一金二百疋」と刻字される。
石燈籠:
 手洗の左手にあり小型であるが、「御宝前 嘉永六癸丑年(1853)九月吉日恵伝代 施主玉造邑野平佐右衛門 当邑並木三之丞」とある。
本堂内陣:
正面内陣には、祖師像を中心にして諸尊が安置されるが、左側に一段と荘厳な家型厨子があり、そこには薬師如来が祀られ、左に前記の子安観世音菩薩、右に薬師如来の眷属十二神将がある。
当寺の如来は特に眼病に対してその霊験が著しく、近郷近在から多くの信者が集まったといわれる。
 前記の石燈籠・大手洗いなどのほとんどが嘉永年間(1848〜53)のもので、内陣前の長押に懸る扁額や、それに並ぶ絵馬も、同時代のものから明治にかけてのものが多い。これらのものを見ても、その当時いかに信心者が多数参詣したかが想像できる。
 次の文書は、これらのことを明らかに物語っているものといえよう。
    引請一札之事
一、我等組合半次郎後家さき、 巳六十一歳ニ相成候。今般眼病相煩、御当院薬師様心願ニ付、日数三七日之間籠居信心仕度義御座候。何卒願之通り偏ニ御世話被r成r下度奉A願上@候。然ル上者、籠中当人身分上何様之出来候とも早速引取、少々茂(も)御迷惑相掛申間敷候。為r念差上申引請書一札 依而如r件
   安政四巳(1857)五月
                                   八日市場出羽宿 組合惣代 半平 印
    薬師寺                             後家忰    御別当様     当地他行 半次郎
   引請一札之事
一、我等組合半次郎後家さき、六十一歳相成候。今般眼病相煩、御当院薬師様三七日之内心願相掛籠居候処、御利益有r之日増全快御座候ニ付、尚又籠居信心致度、但願即引請書差上候間、且又御世話被r成r下置奉A願上@候。勿論尤母身分ニ付如何様之義出来候とも早速引取、御貴院ニ少々茂御迷惑相掛申間敷候。為A後日@引請書一札 依而如件
   安政四巳五月二十六日
                                 八日市場出羽宿  
    薬師寺                             組合惣代 半平 印       後家忰     当地他行 半次郎
      御別当様                          

 信心参籠のため眼病がよくなり、再度籠りたいのでよろしくお願いするというわけで、当時の風習の一端がうかがえる。
 当寺への参詣は病気平癒を祈願するだけでなく、一般的な観光旅行としてのものもあったのであろうか、今の広島県双三郡三良坂町の人が同寺を訪れた折、あるいは忘れたのかもしれない次のような通行手形が残されていた。
   手形一札之事
一、芸州領備後国三谿郡三良坂村畳屋菊太郎、此者儀宗旨代々法花宗門ニ而、拙僧旦那ニ紛無御座候。然ル処今般心願ニ付、甲州身延山併ニ諸国参詣ニ罷出し、何卒以A御慈恵ヲ@一遍之御首願御授与可r被r下候。行暮r仕候ハヽ、一夜之御籠之程偏ニ奉A願上@候。若又病死等仕節者、其所之以A御沙(作)法ヲ@御取置可r被r下候。尤幸便御座候ハヽ後日ニ御知らせ可r被r下候。為後日依而一札如件
   安政四巳年八月日
                                     同国同郡
                                       善光寺
    諸国詣所 御寺院
       御役僧衆中
    諸国所々
       御役人衆中
                                                 (※A・@は二点・一点、rは返り点の代用)
 過去のこと、他人のことながら通行手形を置いて行った畳屋菊太郎は、帰国するまでどんなにか困ったことであろう。
 なお、今まで記述した福現寺境内・本堂などの模様は、昭和56年末までのことである。本堂は翌年、建て替え工事のため解体し、既に新築落慶される。
 同寺を中心として行われる行事の一つに題目講があるが、宮集落と合同で盆と春秋の彼岸の三回、主として老人たちがここに集まり、先祖の冥福を祈って題目を唱える。
 このほか、毎月一回行われているものに、鬼子母神講・十三日講があるが、これは婦人たちを主としたもので、当番がその設営に当たり、読経後にはご馳走が用意される。
 なお、当集落の子安講については前述のとおり(※省略)である。
2023/10/18撮影:
大型石造手洗及び石灯篭は実見せず。(存在せず?)
 和田福現寺入口      入口題目碑:上に銘文あり、宝暦六年(1756)年紀、手前に道祖神が置かれる。
 入口常夜燈:上の銘文あり、文久二壬戌年(1862)年紀
 題目石2基:1基は元文五庚申(1740)十月の年紀、「安 元文五庚申十月 和田山/南無妙法蓮華教■■/馬 當寺■■■■ 福現寺」と彫る。 もう1基は日蓮大菩薩・題目碑である。年紀など詳細は未調査・不明。
 和田福現寺堂舎
 僧侶墓碑2基:師範得道院日要(貞享3年<1686>/正月25日寂)、一如信解院郎是日諦(享保8年<1723>/7月1日寂)。福現寺住持と思われるも歴代が不明で確認できない。
 福現寺9世日清墓碑:当山9世孝善院日清(寛保元辛酉歳<1741>/5月■■6日寂)と記す。

南借当

南借当高皇産霊社(※妙見社)
  →下総多古町の妙見社

借当山妙蓮寺 「多古町史 下巻」292〜

 南借当字辺田471番地で、集落のほぼ中央に位置する。
由緒・縁起
 『中村寺院明細帳』では、
     千葉県管下下総国香取郡中村南借当字辺田
                 (峰)妙興寺末  日蓮宗 妙蓮寺
  一、本尊   釈迦牟尼仏
  一、由緒   明■二年正月南中村妙興寺第四世日法上人ノ教化ニテ真言宗改宗ス 開基ハ日順上人ナリ
  一、堂宇間数 間口五間 奥行四間     一、庫裡間数 間口三間三尺 奥行六間     一、境内坪数 五百四坪
  一、檀徒人員 九拾壱人
とある。
この妙興寺四世日法上人とは、中納言阿闍梨を称し、峯・妙興寺から茂原の鷲巣へ転住となり、宝徳三年(1451)八月十三日に没した人である。
『日蓮宗寺院大鑑』には当寺の沿革について「大観には延徳元年(1489)年中の創立。開山日順とある」と記し、開山は同じく日順となっている。
 次に、当寺所蔵の『借当山妙蓮寺略縁起』を書き下し文に書き改めて載せる。
 そもそも当山の初めは真言修験の霊場にして山伏の棟梁也。山伏を左京坊法印と申すは、三部灌頂の奥儀を極め、或は水を踏む事陸地の如く、火に入る事石の如く、自在の徳行無量也。
ここに人皇九十九代後光厳天皇の御宇延文四年(1359)、高祖の御再来中山ノ三代浄行院日祐上人、関東御弘通の始め、先ず当山の近郷近来に来らせ給いて御説法御修行の折(お)り節(ふ)し、子安地蔵尊縁日にして近里遠村の貴賤高下の参詣の群集を成しければ、日祐上人、人々に事の≠問い給う。(以下余白)
  このことによって、当初は真言宗であったことと、延文四年(1359)に中山三世日祐が当地方を布教に歩いたとき、その説法を受けたことなどが知られる。
 また、古過去帳の奥書に 
妙運(ママ)寺ト云ハ当寺ノ事也 北中村ニ淀ト云野有繁昌スル事無限 然ルニ日順玅運寺ヲ建立ス 年号未タ見当ラズ 大聖様ノ書附ハ 明応二歳(1493)四月八日左京日順ト有リ 本願八良右衛門ト有云々
従其零落「此間字失]寺内九万堂ト云原ヘ移シ奉ル 其時並木次良右衛門道院野午ヨリ[此間字失]牢人有テ無二ノ大信者ニテ 四十六度ノ逆修ヲ被成 毎度墓ヲツキ棺ヲ張リ作善被成候間 峯ハ村之惣寺ナレハ 御堂本願成テ建立シ則寺内之妙蓮寺ヲハ奉移
子孫並木一統何レ当寺之檀那ニ付 内寺ニ建立被成候 当所道院[此間七字損失]開山ニ被成、兄弟衆ヲ檀那トシ従其繁昌云々
         ▲従応永三十四丁未廿一歳至長享二戊申年
[洛陽 本法寺]開山久遠成院日親大聖人
         ▲八十二歳凡六十二年不惜身命
右者当寺安置之日親上人御位牌之写也 学遍日忍筆
維時正徳三癸巳霜月十四日江戸ヨリ到着 小菅ヨリ房州隠士日相授参十五日当山江奉納置者也 佐渡之産沙門恵照日能(当山五世)代
発願主並木久太郎 三支源之丞 施主当村信心檀越四五人
 
正峯山第二祖日忍聖人
全百代後円䖝院御宇大聖人ヨリ九十八年過テ遷化ス 永和五己未(1379)六月遷化 日弁(峯妙興寺開基)ヨリ六十八年目也暦応年中(1338〜41)ノ比大聖人御真筆ノ比丘日弁ニ授与之大慢荼(ママ)羅ヲ御持参ニテ 於Aテ下総国千田之庄大嶋城@ニ此寺ヲ建立ス 其後峯ニ移ル 大嶋ト云 可尋子
右古過去帳ニ記之有也
 借当山妙蓮寺檀方扣
 檀頭並木次良右衛門 仁兵衛 源太左衛門 七之助 太兵衛 重右衛門 七郎右衛門 次兵衛 五左衛門 市郎兵衛 ■■衛門 (抹消) 与平治 市三郎 縫右衛門 五兵衛 重兵衛 宇兵衛 多七 又兵衛 半兵衛 藤兵衛 重助 他檀芝長兵衛 半右衛門 町伊兵衛 五兵衛 高田五郎右衛門 喜兵衛 ■■小左衛門 七郎右衛門 和田三之丞 久右衛門 西谷幸助
 このように記されているが、過去帳の年代が不明の上その傷みもはげしく、加えて欠字等が多いため、内容の把握が困難である。
 当寺の由緒を尋ねる上で、確とした文書によるものとしては次の一軸がある。
  本寺・峯妙興寺四十二世の日義が安永七年(1778)に書いた証書である。
   それには
 借当山妙蓮寺者 往昔北中村淀ニ有之処之真言宗大日堂也  淀之坊と云
当山第四祖日法聖人之依教化致改宗 左京阿闍梨日順と云寺を妙蓮寺と改 延徳二庚戌年間郷之内光御堂ニ移 其後明応二癸丑年南中村熊野堂へ移す
享禄元戊子年今之借当へ移 号借当山妙蓮寺
当山末頭宝蔵之鑰(かぎ)役往古之記録吟味之上無相違者也
若末寺 論有之時者 此書を以可致証拠 仍而日弁授与之本尊相添 授与之者也
   安永七戊戌年二月日
                                 正峰山四十二世日義 (花押)
                                   借当山妙蓮寺十世了啓日英
 このように、当寺の顚末を明記し、鑰役(錠前の鍵を預かる役)であることも間違いなしとしている。
なお、この鑰役であることは峯妙興寺文書に次のように記されている。
  一、借当妙蓮寺ハ末頭ニ而 当山之御霊宝鑰役預り也
   当山出仕之節 当■之次座ニ居■■候 末寺ハ年切可為上座事
  一、妙蓮寺末頭鑰役候事 当山七代目権大僧都等師(日等)之直筆彼ノ寺ニ在之也
 これらのことから当寺の概要を知ることを得たが、建造物についての新・改築や補修、その他歴代が行ったであろう諸事業については、棟札その他の文書類がわずかしかなく、詳細はわからない。ただ、過去帳後尾に記されている歴代氏名の欄に、数文字で略記されているくらいである。
それらをまとめて次に述べてみる。
 まず九世日這は日忍直筆の妙見尊像(康永二年(1343)五月作)一軸を求めている。これは「妙見大菩薩 元禄十二年己卯(1699)正月十八日 願主本化沙門信解院日這求之」の棟札によってわかる。
 そして、この後に書いたものであろうが、尊像画の裏面に
此表御本尊[巾弐寸壱分長三寸五分] 峯第二世日忍尊師之御真筆事無有疑悔 借当山妙蓮寺常住之霊宝也 是歳有檀信為父常信母妙安霊増進菩提新修飾表軸 従康永二年至元禄辛巳三百五十九年也 依妙蓮寺九世信解日這望染毫而已
   元禄十四年辛巳(1701)霜月日
                                     日是 (花押)
                                       施主中村町 芝田伊兵衛
と妙興寺二十八世日是(学心院)が裏書きを寄せている。
 ついで
十三世玄心院日信の欄には「半鐘主」と記されているが、この代(没年からみて明和のころ(1764〜72)と思われる)に梵鐘鋳造の事業を成したものであろう。
十七世の了啓日英のときは、宗祖五百遠忌に当たっての供養塔を建立したようである。
本堂に向かって左手に、竹垣に囲まれ、東方に面した1.3mの石碑で「南無日蓮大菩薩奉唱首題一萬部成就 安永九庚子(1480)十月十三日 願主 檀方中 題目構中」裏面に「五百遠忌之〓塔 借当山十七世了啓日英」のように刻まれている。
十八世禀教院日継(後に日享)となるが、そこには「台所家根替 客殿修覆」と書かれている。
以後文政年間(1818〜30)になっての二十四世誠心院日剛の欄にも、同じく「台所家根■修覆■■ 」と、補修のことを記している。
二十五世超学日寛は、入口右側にある約1.3mの題目塔を建立したが、それには「南無妙法蓮華経 奉唱題目一千部[当村鴻巣]総檀中 天保二年辛卯(1831)二月 当寺廿五世 超学日寛 (花押)」の刻字が見られる。
十七世晴光院日見のときから、檀徒柴田長太夫が、一代の間は毎年金二〇〇匹ずつを寄進することになった。その書は次のとおりである。
  柴田長太夫一代之間年々歳末金弐百匹奉納当寺 右一ニハ為先祖代々六親眷属七世父母諸霊菩提
  一ニハ為現在災障消除信根生長福寿増進祈禱 毎月奉読誦妙法蓮華経全部後代不可有怠慢者也
     嘉永五子年(1852)四月
                                     当廿七世晴光院日見 謹記
 この柴田長太夫家は、現在の多古町において五十嵐家と共に残るただ二軒の割元名主(数カ村を一括して支配。名主と代官・領主との中間にあって年貢・諸役の割当てなどを行い、身分は士分に準じた)を勤めている。
 そして明治となり、
三十世光順院日受のときに「客殿台所新規■■」。
三十四世文明院日運(大正七年に山崎の金蓮寺四十二世となり、本堂・庫裡等を再建して中興となった)は「杉苗ヲ境内ニ植ユ」とある。この後を先住慈雲院日秀が承けて五〇年近く住持し、現在は長谷川存雄師が当山三十六世である。
 以上は、歴代住職のうちで記録に残された内容を記したものであるが、例えば三十一世日俊代における「諸尊衣替」のことに関する文字は、その前後が不明であったりして判読が甚だ困難であった。
 また、中村檀林日本寺の役僧であった住職は、当寺から同檀林へ移ったのも含めて次の九人を数え、その交流の深さを物語っている。
  十一世日能  中村玄講  十七世日英  同右    十八世日継  同右    二十四世日剛 中村三側
  二十六世日融 中村満講  二十七世日見 中村中席  二十八世日運 同右    二十九世日量 中村二側
  三十世日受  中村文勺
 この中で、十一世日能(恵照院)のことから、当時禁制宗門であった不受不施派についてふれてみたい。
 それぞれ日本寺・峯妙興寺の項に記してあるように、両寺とも不受不施派寺院として重要な位置を占めていたと同じく、佐倉の昌柏寺もまた激しい弾圧を受けた寺としてその名を知られているが、その昌柏寺八世がすなわちこの日能である。佐渡の人で、享保二十年(1735)に没していることしかわからないが、墓碑の刻名まで削り取って不受不施派であることを隠した当時としては、当然であろう。
  ※「日蓮宗寺院大鑑」では恵照院日能は第7世、享保20年5月24日寂とある。
 本山である峯妙興寺文書「誓状」には「所詮ハ不受不施ノ法理永不可改変之起請文也」とあり、その中に借当の村名が書かれていることを見ても、当寺および当村が不受不施派の法理を受け容れていたものといえよう。日本寺―妙興寺―妙蓮寺の法脈はそれがすべての時期と人物ではないにせよ、表に現われることなく受け継がれていったものと思われる。
 時代は下って天保九年(1838)のいわゆる「天保法難」のとき、改信証文を提出して「お構いなし」とされた内信者は、南借当に隣接する村としては大堀村三人、北中村一五人、南中村三人、吉田村11人であったが、このような状態の中で南借当はそれらの影響をどう受けていたものであろうか。無風であったとは思われないし、史料もなく、または不受不施派関係のものは隠滅し、さらには改竄したと思われる点も見られることから、当寺縁起と共にいっそう今後の研究に待つ。
◇蓮華寺小宮・石造物
境内の西方には急斜面が迫っているが、その中腹に「お破黒大明神」と「妙勝大善神」が祀られる。文政九年(一八二六)ごろに建立されたものといわれ、(※中略)昭和五十七年暮れに再建される。
寺宝:
日蓮真筆といわれる弘安二年(1279)九月二十一日授与の曼荼羅があり、身延山四十世円通院日輪による宝暦三年(1753)の裏書きがある。
水戸城南隠士本住院日永の曼荼羅もあり、これは宝暦四年(1754)のものである。
前記日忍筆の妙見大菩薩像一幅に加えて、稲荷大明神像・妙見尊像がそれぞれ一幅ずつ保存される。
石造物類:
安政・天保の前記供養塔・碑。歴代住職の墓石などのほか、次のようなものがある。
 板碑(一) 高さ76cm、横幅57cmのもので、年号等は読み取れない。
 板碑(二) 年号としてわずかに「 六巳四月八日」が読める。
 手洗石 この石造手洗いには「天明六年(1786)四月吉日」の文字が刻まれる。
2023/10/18撮影:
 妙蓮寺入口・題目石:題目石の側面の文字が判読でないが、上記では「南無妙法蓮華経 奉唱題目一千部[当村鴻巣]総檀中 天保二年辛卯(1831)二月 当寺廿五世 超学日寛 (花押)」とある。
 借当妙蓮寺本堂     借当妙蓮寺庫裡     お破黒大明神・妙勝大善神1     お破黒大明神・妙勝大善神2
 妙蓮寺石塔類     妙蓮寺板碑3基:上記の通り。     妙蓮寺宝篋印塔:詳細は不詳。
 妙蓮寺日蓮搭:上記に「本堂に向かって左手に、竹垣に囲まれ、東方に面した1.3mの石碑で「南無日蓮大菩薩奉唱首題一萬部成就 安永九庚子(1480)十月十三日 願主 檀方中 題目構中」裏面に「五百遠忌之〓塔 借当山十七世了啓日英」のように刻まれている。」とあるのがこれであろうと思われる。

南並木

春日神社 由緒・縁起
   (※省略)

並木常照山光明寺  「多古町史 下巻」328〜

 春日神社の西方、道路を距てた高台にあり所在地は字上口330番地である。
『中村寺院明細帳』では、
    千葉県管下々総国香取郡中村南並木上口
                               法華経寺末 日蓮宗 光明寺
 一、本尊 釈迦牟尼仏
 一、由緒 当寺ハ元密宗ニシテ権大僧日忠ノ開基ニシテ其後漸ク衰頽 慶安元年(一六四八)日崇請願シテ再建シ光明寺ト称ス
 一、本堂間数 間口七間 奥行五間半      一、庫裡間数 間口六間半 奥行四間半
 一、境内坪数 三百七拾六坪  二百七拾壱坪 民有地     百五坪    官有地
 一、檀徒人員 二百四拾八人
とあり、
『日蓮宗寺院大鑑』はその沿革を「慶安元年(1648)の創立。開山日崇。開基日忠。(大観には開山日忠、開基日崇とある)」と記す。
草創の時代を明記する資料・縁起などは右の外に見当たらない。
 本殿内陣の右には日蓮聖人木像、左内陣には大黒天が祭祀され、左へ入る別室には厨子に入った鬼子母神・妙見像・天神像が安置される。
寺域の小宮・石碑
 本殿外には次のようなものが見られる。
半鐘
 高さ64cm、直径37cmのもので「施入面々二世安楽 檀方中諸願満足 所志諸霊菩提 安永六丁酉年(1777)正月吉辰再鋳南無妙法蓮華経 十六世日明代 下総香取郡並木村常照山光明寺 常什」の刻文がある。すなわち、十六世日明のときに再鋳したものである。
打ち鳴らし(通称ざるがね)
 「嘉永五壬子(1852)十一月八日求之龍亀山佛乗院(八日市場市松山か)什物 寄進松山春海旦那中 現住賢阿代」の記があり、直径が31cmのものである。
七面堂
 同寺境内の右方に、七面天女を本尊とする。木造亜鉛葺きで間口・奥行とも3.6mの建物である。
内部に石塔があり、「七面大明神 天明元辛丑年(1781)十一月 灰吹屋市右衛門」と書く。そして損傷のある棟札には、「寛政元己酉閏(1789)六月吉辰造立 名主飯田七郎衛門 大工飯田清右衛門」このように読める。また本尊の納められた厨子には、その内側裏面に墨書があり、「奉勧請七面大明神 天保第八(1837)龍舎強圉作噩余日」。
さらに、内部にある棟札の裏面に
 当七面堂ハ宝永元年(1704)ニ造立シ寛政元年(1789)再興ス 造立ヨリ再興迠八十一年 再興ヨリ本年迠百四十一年経過セリ 造立ヨリ二百二十二年ノ古尊堂ナレバ 屋根内外殿ノ大破少ナカラズ 依テ檀中評議ヲ為シ 此ニ協議一決大修繕完成セリ
益々祈信力増進寺檀和合
     昭和四年四月
         光明寺卅三世寿昌日晃代
                                  総檀方中 時区長  飯田七郎
                                       仝世話人 飯田善郎 仝玄次郎 仝秋太郎
                                       大工   飯田義造
妙正様(妙照大善神)
 同じく境内・本堂前に疱瘡の神といわれる妙照大善神が祀られる。明和三年(1766)の創立で、当地に疱瘡が流行したことから建てられたという。
木造亜鉛葺きで間口一間、奥行七尺の建物である。
 「千早ふる 卯月八日は吉日よ かみさけ虫の 成敗ぞする」の和歌が掲額される。
石段の上下にそれぞれ一基ずつの石柱
 上部のものには「南無妙法蓮華経 日成(花押) 後五百歳遠沾妙道文化十二亥歳(1815)十一月如意日 常照山廿二世分修院 願主当村惣若者中 世話人前林庄左衛門 飯田甚三郎 飯田勝蔵」。台石に「光明寺」とある。
 石段下にあるものには、正面に「光明寺」とあるほか、次のように刻まれる。
  竣工 昭和四十四年七月  (※以下略)
歴代住職墓石
 最古のものには「慶安三年(1650)八月廿二日」の紀年がある。これは中興の祖といわれる日宗(崇)のものであろう。
なお同寺に保管の什宝・文書として、日親・日祐両聖人の親筆といわれる曼荼羅が一幅ずつと、釈迦如来の臨終を描いた掛軸一幅がある。
 中村新田の人達は、かつては千田の寺の檀徒であったが、移住入植当時は島正覚寺(旧妙光寺)の檀家となっていたようである。
現在は当光明寺に属しているが、この移檀は明治三十年ごろと思われる。このことによって宗教的諸行事は南並木と共にとり行われるようになった。

並木村の文書

 私たちの祖先の、といっても中世における幾多の戦乱から遠のき、天正の混乱期をはさんで徳川氏の治世になってからのことであるにせよ、現在それらを語る史料はほとんど残されていない。
 直訴状 幕府の政策のままに「生かさず殺さず」、苛酷な年貢取立てによって農民の一家離散もあったろうし、強訴の手段に出た例も聞く。
ここに私たちの近在において一人の旗本知行所役人のため、他に類のない苦しみを受けた11カ村の農民たちが、非道な罰を受けながら公儀へ訴えた文書がある。
 原文は乱筆の上欠落が多く、意味不明のところがあって、判読することが極めて困難であったが、できるだけ平易な文になおして次に載せることとした。
なお「永井監物」とは、小田原・関ケ原から大坂の陣に戦功をたて、寛永二年(1625)に相模国鎌倉・高座、下総国葛飾・印旛・相馬、上総国山辺など六郡のうちに2530石余を知行すべき御朱印を受け、翌同三年従五位下に叙されて監物と称し、同五年に上総国武射、下総国匝瑳両郡のうちに1000石の加増を受け、すべて3530石余を知行して承応三年(1654)八十三歳で死去した「弥右衛門・白元(あきもと)」を祖とし、後にも上・下総地方に所領を有するが、曽孫の白弘(あきひろ)(伝九郎・監物)のとき元禄十四年(1701)に下総国印旛郡の采地を割いて、同国香取郡に始めて知行すべき土地を移されている。これが中村新田から提出された前記訴状にかかわる人物と思われる。
 次の文の「監物」は年代的にみて白弘の孫白衆(あきもち)のことであろうが、宝暦三年(1753)父尚方の遺封を継ぐ。
人物的にその価値を問われるようなことが再三あり、出仕・拝謁停止も数回に及んでいる(『寛政重修諸家譜』)。
 文は、「永井監物様御知行所 上総下総十一ケ村百姓共申上候」の書き出しに始まっている。
 
私共の御地頭様には、どなたの世話で召抱えられたのでしょうか、近国田舎の小百姓である者が近年神道を伝受し「安藤織江」と名のって神職まがいの風情をし、殊にいさかい事を好み大山師であります。この者、どういうわけで武士になったのか、この夏に御地頭所様安藤清左衛門と改名し、賄役人に召抱えられました。
 そして、九月下旬より「御知行所見分」ということで、臼井清介という浪人体の者と足軽も連れ、諸道具を携えて廻村して来られたのですが、殊の外権威の高い人で、村々に着いてから、
「我等はこの度、初めて知行所より廻って来た。村々は穫れ高に相応の祝儀・金子を差出すべし。そのようになしたる者は、諸役御用について格別の配慮をするものである」
などの不法なことを申され、どの村々でも名主共まで密かに仰せ渡されたので、村々では答えて、私どもは今まで御地頭様御役人中に贈り物・金銭など差し出したことはない旨を申し述べ、金銭その他何物も音物(賄物)として一向に差し出さなかったところ、大いに立腹し村々にてあばれ、無理なことを申されるのです。即ち
「このたび、初めての我々に対して無作法な仕方であるので、今まで「検見」を行わずに当年の豊凶に関係なく数年の平均を以て年貢を納めていた「定免」の村々であろうとも、今年よりは増租とし、なおその上一村ずつ検地も厳しく改め、定免年季作をしているところは毎年検地をして段々高免を掛け、村々の百姓を取り潰す」
 このような難言のうえ、百姓共を叱りたぶらかし、新たに駕籠を二挺あつらえ、両人とも六枚方(ろくまいかた)(「六枚肩」のこと。前棒・後棒の他、交代の人数も加えて六人でかつがせること)として足軽を馬に乗せたりなどの他、「定免」の村々に増税を掛けたり、検地の道具をもって実際に検地をした村もあります。
 或は、以前より名主の給米として下されていたものも減らし、また右に差し上げた御用金を二十年賦にせよとの言いつけですが、これには金主たちも合点せず、公けの場所に訴え出るかの様子でした。そうしたのでは殿様の御名前も出ることになり、一そう困っている村々百姓たちは難渋致します。
 当年は、遠くの人は知らないだろうが、多年に亘る干魃であり、その上八月十七日夜の大風雨のため百姓住家が軒並みに被害を受けて大破損、また畑の出来も悪く、凶年です。何処の御地頭様方も相応の御用捨引(不作のとき、年貢を差し引いて納めさせる)を下されたところに、右に申し上げるように、安藤清左衛門が悪心をもって困ったことばかり言っては百姓を掠めて居り、村々の百姓は成り立って行けません。ここにやむを得ず相談し、老若共に挙ってお願いを申し上げる次第です。もっとも、一村毎に別の書状に申し上げることと、少も相違はありません。
 御親類中様方にも是非お聞き下さって、この書ならびに村々からの書状を御吟味の上、安藤清左衛門の支配から除かれ、百姓が続けて行かれるように仰せつけ下されば、大勢の百姓、どんなにか有難き幸せに存じます。
 なおまた、委細の儀はお尋ねの節、百姓一々口上にて申し上げます。以上
   宝暦十一巳の九月日(1761)
                                   御知行所十一ケ村
    永井采女様
 
 「泣く子と地頭には勝てぬ」ではないが、役職の権力をもって百姓を威圧し、しかも私利私欲に走る地方機関の下級武士に泣かされた農民の姿がここにあった。
そして、乱れ始めた幕府の統治力を理解することもできる。
この安藤清左衛門の所業に苦しめられた農民の訴えはなお続き、最後には、「知行所がどんな騒動になっても、つまりは彼の悪心から出たことですから――」とさえいっている。
 前九月の訴状と重複するところを避け、農民の悲痛な声をもう一通の古文書によって聞いてみたい。
 
 (清左衛門は)八月中、名主どもを呼び寄せて以来、権力をかさに理不尽をし、その上いろいろの証文を書いては無理に押印をさせ、知行所見分として九、十月廻村のとき、村方で面積不足のところには「百姓損」と言い、竿先(検地の)など少しでも出歩になれば新たに年貢を申しつけ、また定免の村々に増租を掛けるのに、清左衛門は筆先だけで割附けを出してしまい、或は検見坪刈りをしても法外・悲道の年貢をかけ、又は従前よりの崩折(引)・砂押(引)・永荒(引)ならびに堰代の年貢差し引きのことや名主の給米など、いずれも子細があって先代より下し置かれたものも無理に取り上げ、それらについて少しでも申し開きがましいことをすれば、手錠などをかけて来ます。
 右のことなどについても証文を作り、権力的に印形を押し取り立てられた次第です。納得が行かないまゝ致し方なく印形を差し出したのです。
 しかし、村々の惣百姓は得心ならず、お願いを申し上げることになりました。委細は書状の通り少しも相違はありません。願の筋は私共も同じことであります。何分にもお情けをもって百姓願書の通り御吟味の上、清左衛門の非道な申し付けを取り止め、其の上清左衛門について、他の支配を加えるようにして下されば、村々大勢の百姓、こぞって有難く存じます。
 このような次第ですが、御地頭様のことについても恐縮ながら御大切に存じて居ります。右のことで知行所が騒動となっても、つまりは清左衛門が悪心をもって法外な働きをしたからにほかなりません。
 これらについて御親類様方まで御苦労を相掛け、なおまた村々は至って困窮であり、わけても今年は凶年で難儀をしているにもかかわらず、江戸詰の費用もかゝり、何とも難儀至極であります。
 恐れ入りますがこの旨を御容赦の上、幾重もの御憐愍をもって、村々百姓が相続けて行かれますようにお願い申し上げます。
 私共はこの百姓願いのことについて、先月二十一日より清左衛門内縁の宿へのお預けを仰せつけられ、これも難儀致して居ります。これについてもお慈悲を下さり、お預けとなる事は致し方ないと存じますが、私共が先達てお願いした江戸宿に居られますように、よろしくお願い申し上げます。
 なお委細については、お尋ねの節口頭で申し上げることと致します。
   宝暦十一巳(年)十一月日
                                       上総下総十一ケ村
                                          名主
                                          組頭
    永井伊織様
 
 常軌を逸した知行所役人の所業に加え、相次ぐ凶作で農民たちは疲労していた。しかしなお名主たちはお預けの身となりながら、ひたすらお願いの儀に及んだのである。
 残念ながら、このことについてどのような結果になったかは不明である。しかし、このようなことが現実に私たちの周囲で起こり、祖先たちは筆舌に尽くせぬほどの忍従を強いられて来たことが、まるで昨日のことのように浮かび出されて来るのである。
農民の生活
 これまで、知行所役人の非道さとそれに対する農民の姿をとり上げたが、次に別の文書からその様子を見てみよう。
 年貢上納に差詰まった農民が子女を奉公に差出し、その身代金(給金)をもって金納した例も数多く見られる。「奉公に差出した以上、御家風通りに勤め、もし年季中に不都合があった場合その一切のことは身元引請人に於いて処理し、病気も三日を除いて長煩いとなったときは引き取ること」などを内容とした証文によって厳しくその身柄を拘束された。その給金としては一カ年で二両から三両前後が多く、仮に「一石一両」という米価で換算してみても、現在では一〇万円前後の金額である。たとえ衣・食・住の最低保障はされていようとも、その労働条件からみていかに低賃金であるかがわかる。
 次に風俗的な面から生活の一端を見ることにする。
 
   持参金田畑一札之事
一、今般貴殿肝煎を以、清兵衛殿息女とせ我等女房に貰受候ニ附、金子廿両田畑五反歩別紙反別帳面被二相添一、慥ニ預り置候処明白なり。万一不縁之儀ニ而親元ニ帰節は、右添来金子田畑反別帳とも、貴殿ニ相返し可申候。為二後日一持参金一札親類証文連印を以差出し可レ申処如件
   天保八酉年吉祥日                           親類 清兵衛  惣代 清吉  証人 清治郎
   媒人 長兵衛殿
 
 これは、婚礼に当たり持参金として二〇両と五反歩の田畑を預かったが、万一不縁となったときにはお返しするという証文である。
 次のは、養女としての縁組が成立したときの証文である。
 
   為取替申養子女一札之事
一、我等娘里よ事、仲人郡内殿肝煎を以て、其許養女ニ進せ申所相違無御座候。為二樽代と一金子四拾両遣し筈。此訳金子拾両は婚礼の切相渡し可レ申、又金子拾両は子ども致二出生一産立之砌り相渡し可レ申、残金廿両は初之節句ニ相渡し可レ申候。
右金子を入、養女ニ進せ候上は、此方よ里違乱妨申儀は少も無御座候。千(ママ)一里よ儀御家風背き候儀、亦は我侭等仕御気ニ入不申儀有レ之候ハヽ、何とも御勝手次第ニ御執斗(とりはからい)可レ被レ成候。為二後日一取替一札仍而如件
   年号月日                               実父 茂左衛門  証人 伝左衛門  媒人 郡内
    養父 藤右衛門殿
 
 ここでは、婚礼のときに一〇両、子供出産のときに一〇両、その子供の初節句に残金二〇両を、分割して渡すようになっているが、このようなことが慣習としてあったようである。

桧木・次浦・大門・御所台  --------------------

十余三(とよみ)
 ※割愛

本三倉(もとみくら)

西徳寺
692〜694/1069ページ
 字通台二七二番地にある。阿遮羅山福寿院西徳寺と称し、新義真言宗室生寺派さくみくら)
   (※以下省略)

谷三倉無量寺
721〜721/1069ページ
 行屋字門戸六七六番地にあり、寿命山法積院無量寺と称する羽黒山系の修行場
(※以下省略)

出沼(いでぬま)

熊野山東光寺 新義真言宗
   (※以下省略)

桧木(ひのき)

桧木星宮大神
桧木星宮大神
  <何れも下総多古町の妙見社中>

妙見山見徳寺
644〜646/1069ページ
 字下ノ馬場にあり、本尊に大日如来で、妙見山と号している。新義真言宗豊山派に属し牧野村(もと香西村、現佐原市)観福寺の末寺である。
   (※以下省略)

次浦

 かつて次浦村と称したこの集落は、現多古町役場から東北東へ約六キロ。東は栗山川を境に坂並、西は大門・出沼、南は西古内、北は小三倉の各集落に接する丘陵地帯に、100戸あまりの世帯に470余人の人口を有し、当町においては屈指の大集落に属する。
昭和29年の町村合併前は、旧久賀村の中心地として、久賀村の主要な公的機関のほとんどはこの集落に置かれた。

堂山墓地(字谷1835)にある「永仁三年(1295)十月十四日」、また「元応二年(1320)」と刻まれた二枚の板碑がある。

次浦宝光山永台寺
 字東一五八五番地にあり、一反三畝あまりの境内は老杉に囲まれ、徳川期に造られた本堂の大屋根が静かなたたずまいを見せている。「宝光山泉光院永台寺」と称し、新義真言宗智山派に属する
   (※以下省略)

次浦妙見社<下総多古町の妙見社中>

大門

大門稲荷山成就院
611〜611/1069ページ
 大門字中根435番にあり、稲荷山成就院と称し、虫生(現光町)広済寺の末寺である。真言宗智山派
   (※以下省略)

大門法華堂 「多古町史 下巻」615〜
 字間見穴385の道路から石段を登ったところにあり、真浄寺(栗源町沢)を菩提寺とする日蓮宗信徒の墓地中に建てられている。
25平方mほどの堂屋で、同宗派に属する村人達の宗教的行事が、ここで行われる。

高津原(たかつはら)

高津原熊野山千手院観音寺 真言宗新義派
   (※以下省略)

西古内

西古内石尊大権現
438〜439/1069ページ
 「石尊大権現、大天狗、小天狗、慶応二丙寅(1866)三月吉祥日 西古内邑講中」とある。
 本社は神奈川県大山町にあり、祭神は大山祇命である。上代の巨石信仰の遺跡ともいわれ、雨乞いの神として名高い。今は阿夫利神社という。

西古内愛宕山地蔵院・・・・真言宗智山派
   (※以下省略)

御所台

御所台天御中主命神社<下総多古町の妙見社中>

御所台法華堂 「多古町史 下巻」466〜

 字道祖神177番地にあり、明治十四年久賀村戸長役場の『神社寺院明細帳』に、「一、本尊多宝如来、一、由緒未詳、多古妙光寺受持、一、境内坪数四八坪、一、信徒二十人」と記されている日蓮宗の御堂で、佐原県道沿いに石塔群に囲まれている。
 内陣には厨子が六つほど並んでいるが、中心的なものは祖師日蓮上人像で、その扉に「奥州仙台住人本願立妙唱尼元治元甲子歳(一八六四)八月吉辰日」と墨書されている。
 当集落の総戸数38戸のうち20戸が日蓮宗であるが、この扉に記されている妙唱尼とは、当時この堂に奉仕していた尼僧のことでもあろうか。
 ついで、多宝如来と思われる厨子が三つあって、一つの扉には「元治元甲子(1864)宝前向再興八月日台作構中」と記されている。
 子供を抱いた尊像、鬼子母神像もある。正しくは訶利帝母といい、子安講の本地仏である。
 あとの一尊は武人像で、厨子の扉には「北総香取郡久賀村之内御所台高萩新左衛門六十九齢心願ニ付 明治十九年歳仲秋清正公大仁儀御形自作奉納 同歳陽月廿三日講中御堂ニ移ス者也 塗工人多古邑飯田久吉 開眼主日勝[花押]多古妙光寺四十一世」と書かれている。
 清正公の本社は熊本市新堀町に鎮座する加藤神社で、諸病平癒に霊験著しく、信者は全国に多い。

寺作(てらさく)

寺作土橋山東禅寺 新義真言宗室生寺派
   (※以下省略)

井戸山

井戸山大師堂 「多古町史 下巻」541〜
 過去には数カ寺の寺院があったようであるが、現在は一寺もなく、そのほとんどは寺作東禅寺の檀家で、宗教的な諸行事は大師堂で行われている。

下総多古 --------------------

     ●多古石造物等所在図

多古の沿革と支配者  下巻353〜
  (前略)
 中世(1183〜1573)には千葉氏の所領となる。
南北朝期(1336〜92)千葉胤貞の後裔胤氏は多古付近を領して多古氏を名乗り、三子胤満が後をつぎ、胤春以下千田氏を称して子孫数世に伝えた(松蘿館本千葉系図)。
室町末期には、千葉氏の支流牛尾胤仲が多古領主となり四隣を領した(『多古由来記』)。
 天正18年(1590)八月から慶長5年(1600)十一月まで保科正光。同9年(1604)から元和8年(1622)にかけては土方雄久(おひさ)・雄重(かつしげ)父子。
この後、慶長15年(1610)春から佐倉藩主となっていた土井利勝が、寛永10年(1633)に古河へ移るまで所領とする(『寛政重修諸家譜』)。
一時幕府直轄領となったが寛永12年(1635)松平勝義の領地となり、明治に至るまで治世する。
  (後略)

多古妙光寺(妙印山妙光寺)  下巻373〜

 由緒・縁起     →中村妙光寺、→嶋村妙光寺
 字居射2550番地にある。日蓮宗で釈迦多宝四菩薩を本尊とする。
『香取郡誌』に、「寺伝に弘安中(1278〜87)常在院日朝の創建とある。
日朝は本姓藤原氏兼綱と称し、上総国藻原の人で、後に日蓮に帰依しその弟子となる。
  →染井妙印山妙暹寺を参照     ※日朝は茂原藻原寺の開山である。
祖師堂の日蓮座像は日朝の時彫刻したもので、一木三体の祖像と称し、日蓮はその像に自らの鬚髯を付して、「鬚の祖師」と名づく。
初め染井村小原にあったが後に今の地に移す。
  →大原・東台・中佐野・東佐野・染井>染井・宗教/神社・寺院を参照
元禄四年(1691)正月徳川光圀が本寺に詣り祈祷を命ぜられ、宝暦四年(1754)三月葵章を付すことを許された」とある。
 染井から多古に移った年代は明らかでないが、『多古由来記』には「文禄・天正の名寄帳にも慶長七年(1602)の小縄帳にも坊号寺十六カ寺、妙薬寺とも十七カ寺で、妙光寺は載っていないので、慶長の末年か元和中(1615〜23)に引き移ったとみえる。
古書に「寛永四年(1627)江戸谷中法恩寺の古堂を移し、今の堂は享保十四年(1729)六月の建立」とある。
 明治の『社寺明細帳』には 
     千葉県管下下総国香取郡多古町字居射
                               法華経寺末<中山法華経寺末>
                                  日蓮宗 妙光寺
  一、本尊   妙法五字釈迦多宝四菩薩    一、由緒   不詳     一、堂宇間数 間口九間 奥行六間三尺
  一、境内坪数 千九拾弐坪  官有地第四種
  一、境内仏堂 弐宇 祖師堂 本尊:日蓮上人 由緒:不詳 建物:間口七間三尺 奥行七間
            摩利支天堂 本尊:摩利支天 由緒:不詳 建物:間口四間 奥行三間
  一、住職   甲斐本耀     一、檀徒人員 千七拾四人  以上
 とある。
 元禄十一年(1698)日本寺三十四世取要院日言によって書かれた『妙印山縁起』が同寺にある、次はその抜粋である。
     妙印山縁起
 下総国多胡村妙印山妙光寺者 常在院日朝聖人之所開闢也 父名茂原遠江守兼綱相伝蓮祖遊学之外護也 焉(ここに)日朝総角(小児)聞道壮年大成 更運弘法之志建立当寺 仏閣僧院輪奐耀美 本尊脇士鋳以金銅 竟以弘安六年癸未五月廿五日安然化矣 寺院艸(草)創者当蓮祖之在世的也(あきらか)日朝之名中老之列雖未見之 以時推之則是亦直弟也 第二世日通屈請正中山之三世日祐聖人 転大法輪経営供養之規式実延文四年十一月廿七日也 是則当国初転法輪之霊地也 (中略)此寺始在元染井 天正五年有号牛尾能登守胤仲法謚日仲 領玆処時以此寺為祈願所 以路程較阻往復有難移置斯地 寺前之城山則彼古城之遺縦也 祖堂所掛鰐鐘亦能〓(けずり)之天正五年所寄付而〓刻未冺今猶存焉(後略)
   元禄十一龍舎戊寅歳五月日
                                    正東山日本黌寺
                                         取要院日言記
 本縁起書は、享保二年(1717)に妙光寺二十四世智雲院日信が書写したものである。
寺域の小堂・建造物・寺宝
 ・当寺祖師堂安置日蓮座像
 妙光寺の日蓮座像は俗に「ひげの祖師」と呼ばれ、等身大で寄木、玉眼、裸形。その容姿には剛快な東国武士の面影を偲ばせるものがある。現在は衣を着せて、春秋の衣替えが奉仕される。室町期の作。(昭和四十四年五月日蓮聖人展記録)
 檀家所蔵の祖師像木版掛軸には「抑吾山之祖師尊像者 身延 池上一本(ママ)三体 中老日法聖人御作之形像 元祖大𦬠御髭被移自御開眼之霊像御影也 多古村染井妙印山妙光寺廿五世日観」とある。
 像の法量は、坐高二尺七寸、膝張二尺三寸七分、肩幅一尺五寸二分、肘張一尺九寸八分、坐奥一尺五寸二分、頭長一尺三分、面幅五寸五分、頭奥七寸五分で、材料は良質の桧材で長二尺七寸、幅一尺三分、厚さ九寸三分の物を前後に割って主部とし、両上肢をはき付け、組んだ下肢は長二尺三寸七分、幅七寸七分、厚さ四寸八分を寄せている。坐と胴の三角形の欠部も補い上肢も肘で寄せている。頭部はさらに顔面を耳前で割り寄せている。是は玉眼の為である。腹部も下腹の張り出しの部分は寄せている。主部の前後の割りは頭部では割筋は平均しているが、腰部に来て左から右へと傾きそれで斜面をなしている。此主部の前後の内刳りに一杯の墨書がある(大川逞一氏の報告『房総の郷土史』)。
 胎内銘(墨書)は省略するが、像は永和二年(1376)二月二十五日、大檀那平氏女図書の母と円城寺図書左衛門尉源胤朝の造立とある。
 円城寺氏は千葉氏の一族であり、胤朝は多古を領した胤氏の子に当たるようである(中山法華経寺文書、応安五年(1372)源胤朝安堵奉書案)。千葉氏は元来平氏であり胤朝が源を名乗った理由は不詳である。
 ・鰐口(町文)
多古城主牛尾能登守胤仲の寄進、「奉寄進小原多胡妙印山妙光寺大旦那牛尾右近大夫胤仲敬白 天正五年丁丑夘月六日 当寺九代住僧沙門法薗院日親」の刻銘がある。青銅、径五三センチで、胤仲が娘の病快癒祈願のため銅の燈籠とともに寄進したといわれる(『多古由来記』)が、燈籠は不明である。
 ・数基の下総式題目板碑
 摩滅、破損するが、その一基は応安五年(1372)十一月の建立である。
 ・大常夜燈
 山門入口右に嘉永二年(1849)正月建立。願主高野前新右衛門・加茂村平左衛門・水戸村治右衛門の刻名がある。台石に224名の納金額および氏名が刻まれる。
 ・大題目塔
 左側には宝暦九年(1759)建立。塔には「一木三躰祖師大菩薩安置」とあり、「本願主浅野与市 稲垣三左衛門 稲垣藤兵衛 佐藤助右衛門 川口与兵衛 身延講中」と刻す。
 ・その他の石塔類
 境内奥に延宝四年(1676)三月、道俗男女が建立した宝篋印塔
 安永七年(1778)十月建立の五百遠忌
 明治十四年十月建立の六百遠忌題目塔がある。
 また石段上に平山勘兵衛寄進の常夜燈一対嘉永五年(1852)、手洗い寛政二年(1790)、同水屋嘉永七年(1854)、浄行菩薩石像があり、宝庫前に摩利支天、太子碑がある。
 ・鐘楼
 かつて境内西側の中段にあった。梵鐘には「宝暦十三癸未年(1763)仲秋 二十九世智境院日照鋳工江戸神田住小幡内匠藤原勝行作 本願人船越五左衛門発起願主惣檀中」と刻す、今次大戦にて供出。現在の鐘楼および梵鐘は昭和54年の建立鋳造。
 ・所有する曼荼羅本尊がある。
  日祐 延文 二年(1357)卯月、日尊 永和 元年(1375)五月、日〓 応永十六年(1409)八月(※〓の文字は不明)
  日親 文明十六年(1484)正月、日俒 元亀 三年(1572)八月、日俒 天正 五年(1577)五月
  日俒 天正 九年(1581)九月、日b 文禄 三年(1594)十一月、日通 慶長 六年(1601)九月
 (後略)
2023/10/19撮影:
 妙光寺妙見菩薩:「町史」グラビアから転載、昭和34年大原内の妙見堂から遷される。像高は約73cm。鎌倉後期の作と推定され、千葉氏縁の像である可能性が高い。
 多古妙光寺大常夜燈:嘉永二年(1849)建立     多古妙光寺大題目石:宝暦九年(1759)建立
 妙光寺山門1     妙光寺山門2     妙光寺参道     妙光寺妙見大菩薩石
 妙光寺本堂1     妙光寺本堂2     妙光寺祖師堂     妙光寺庫裡     妙光寺鐘楼     妙光寺宝蔵か
 妙光寺題目宝塔
 妙光寺歴代・多古廃寺歴代墓碑     妙光寺歴代石
 妙光寺歴代・多古廃寺歴代墓誌その1
 高野前妙薬寺、高野前法性寺、高野前東福寺、高野前正法寺、新町正(昌)圓寺、堀尾本蓮寺、本町実相寺、高根真弘寺歴代と刻む。
 妙光寺歴代・多古廃寺歴代墓誌その2
 大原内法福寺、大原内妙像寺、居射本成寺、居射圓能寺、広沼浄妙寺、広沼妙益寺、広沼法浄寺歴代と刻む。
 以上の廃寺は全て下の<多古寺跡>に記載あり。
 妙光寺宝篋印塔:延宝四年(1676)のものか(未確認)

多古寺院跡  下巻378〜

 江戸時代には、村内に寺院が十七カ寺あった(慶長7年小縄帳)というが、現在は妙光寺のみが法灯を守り、他寺は廃される。
廃寺になった寺院は次の通りである。
 多古大原内法福寺
大原内にあった。
池の上一帯が古昌山法福寺域であったが、明治31年染井小田辺・塚崎を通過する県道の敷設によって境内が分断される。
同寺の境内は521坪、日蓮宗中山法華経寺の末寺で開基は不詳。もと正徳院と称し、桜宮の辺にあったといわれ、一説に天正元年(1573)大原内に移したとある。
寺堂ははじめ南側の山根にあったが日陰なので天保(1830〜40)のころ北側に移す。当時日向きもよくなり寺構えもよかったといわれる。
 大正に至り41世津田寿良のとき(※多古)居射妙光寺と合併したが、昭和3年に廃寺となった。「マデイド」の墓地に歴代墓碑がある。
また新町消防庫の半鐘は享和元年(1801)の鋳造で、法福寺の名が刻まれる。
 境内南高台に妙見堂があり、毎年六月十五日に祭礼が行われたが、昭和35年廃堂となり、妙見像は妙光寺に移される。
 『社寺明細帳』では
  千葉県管下下総国香取郡多古町多古字大原内
                                法華経寺末
                                   日蓮宗 法福寺
                                       昭和三年廃寺
一、本尊   釈迦仏     一、由緒   不詳[明治四十一年七月十三日許可ヲ得テ仝所字高野前ニアリシ妙薬寺(※直下にあり)ヲ本寺ニ合併ス]
一、堂宇間数 間口五間三尺 奥行五間     一、境内坪数 五百弐拾壱坪     一、住職   津田壽良
一、檀徒人員 (記載なし)
 大正10年七月廿九日付願済仝寺ヲ大分県大野郡三重町エ移転並ニ境内仏堂妙見堂ヲ仝所妙光寺境内エ移転ノ上頭書ノ土地妙光寺エ寄付ス 大正十一年一月廿八日千葉県知事折原巳一郎許可書一々記載ス
 ※なお、下に掲載の長栄山正圓寺は法福寺の下寺という。
 多古木戸谷(高野前)妙薬寺(※位置特定できず)
立印山妙薬寺は木戸谷の池の上にあった。
同寺は多古最古の寺院で、伝説によれば大同年間(806〜9)弘法大師の開基で、その地を「新高野」と称し、前の地を「高野前」と名付けたという。
妙薬寺はもと真言宗で薬師如来を安置したが、室町時代のはじめ日祐の布教により日蓮宗に改宗したと伝えられる。
同寺過去帳に「以前は辺田前なり、中頃うしろ畑の所なり、今の寺中は山崎仁右衛門の屋敷なり」また「この寺、中頃も自火にて焼たり、年号は寛文五巳年(1665)二月十五日なり、近年は寛延二巳年(1749)四月十八日夜自火にて残らず焼、過去帳までも焼たり」と『安永記録』にある。
宝暦年中(1751〜63)寺堂を建立する。
天保年中には公儀に願済の上、十カ年にわたって春秋とも芝居が立った(安政記録)とのことだが、明治に至って寺運が衰え、同26年多古高等小学校、同40年多古農学校の仮校舎となる。
大正初年ついに廃寺となり大原内法福寺に合併、法福寺もまた妙光寺に合する。
大正8年本堂を売却して田町に移築され、建物の一部を伍友館(劇場)とした。
旧地は多古台開発によって消滅した。
 多古高根真弘寺(※位置特定できず、但し高根は判明)
 高根にあって、高峯山と称する。
『文禄名寄』に正乗坊とある。また中頃蓮大坊ともいい、『真弘寺過去帳』に「開山日要聖人天文二十三寅年(1554)二月二十八日遷化」とある(安永記録)。
同寺は中山法宣寺の末寺で、妙薬寺の預り寺であった(島・享保記録)。
高根消防庫の半鐘はもと真弘寺のもので、文化三歳次丙寅(1806)冬十月の鋳造になり「時の世話人佐藤重兵衛 同庄兵衛 稲垣藤兵衛 宇賀村治郎兵衛 鈴木元右衛門 本願主五十嵐佐五兵衛 本町半兵衛母 施入唱行院法寿信士 秋原智泉信士 妙諦信女 鋳物師下総国 村万喜良藤原信義」の銘がある。
 多古本町実相寺
高根山と称して本町にあった。
「古書には実相坊とあり、牛頭天王の祭祀を主る」とある(安永記録)。
かつての同寺の裏山の辺りに宝暦六年(1756)建立の稲荷石宮、安永四年(1775)の三夜供養碑がある。
また同寺僧の墓碑が本込墓地にある。
 多古堀尾本蓮寺
堀の尻にあった。「古書には蓮華坊とあり、今蓮華山と号す」(安永記録)とあり、島妙光寺の末寺であった。
同寺の題目碑が、いま高根の仕置場墓地にある。
同寺は貞治二年(1363)島・日通の弟子日実の開基である。この寺は中絶したが元亀二年(1571)蓮成坊によって再興される(島・享保記録)。
 多古新町正圓寺
 新町山際にあり、長栄山と称した。「古書には学乗坊と有り」とある(安永記録)。また昌円寺と書かれたものもある。古昌山法福寺の下寺であった。
 多古大原内妙像寺
 大原内にあった。「古書には大蔵坊と有り、この寺染井塚崎より越したりと云う。この寺文化の末頃自火にて焼失、類焼なし」とある(安永・安政記録)。
 多古木戸谷(高野前)正法寺
 木戸谷にあった。「古書には慶陽坊とあり」とある(安永記録)。
 多古木戸谷(高野前)東福寺
 山号は妙詮山で、木戸谷にあった。「古書には南円坊と有。この東福寺は古人の話しに芝の徳成寺は前東谷東福寺なり。其寺号を持参なりと云へり。客殿共に此方へ引きたり、其跡へ今の徳成寺建立なり、本は高田の寺を引たり」とある(安永記録)。
 多古木戸谷(高野前)法性寺
 木戸谷にあった。「古書に南陽坊とあり、妙光寺の末寺也。大宮大神の別当を勤む」とある(安永記録)。天照山と称した。
 なお、当寺が別當であった大宮大伸は次のとおりである。
  ◇多古大宮大神;
  「町史」では<字高野前にあり、祭神はアマテラス、由緒は不詳、別當は木戸谷にあった天照山法性寺であった。>とある。
  「現地案内板」では<大同2年伊勢からアマテラスを勧請し、鎮守としたことが発生と云う。
  「其の後新寺御法度に寺号無きは立ち難く由御触れ相成り俄かに天照山法性寺と書き改める。
  創建は中世以前と思われる。」(※やや意味不明)とある。
  明治初年神仏分離により、祭神アマテラスは寺院より分離し、通称は天照山社名大宮大神となる。>と説く。
  2023/10/19撮影:
  この地方では大神はダイシンと発する。
  以前は天照山法性寺と称したようであるが、現在は国家神道然として気持ち悪い。
   大宮大神鳥居      大宮大神境内     大宮大神本殿

 多古射本成寺
 八幡山と称して居射にあった。「古書には本陽坊とあり」とある(安永記録)。
 多古射円能寺
 居射にあった。「古書には円陽坊とあり」とある(安永記録)。
 多古広沼浄妙寺
 広沼にあった。「古書には本乗坊と見えたり、この寺は水戸村の海老谷より引きたりと云えり」とある(安永記録)。
康永元年(1342)八月、島・日朝の弟子日妙の開基である(島・享保記録)。
 多古広沼妙益寺
 広沼にあった。「古書には蓮乗坊と云ふ、この坊号と見へたり。昔うしろの志学畑と云ふなり。何れの頃よりか妙薬寺へ引寺にいたし候」とある(安永・安政記録)。
 多古広沼山法浄寺
 広沼にあり広沼山を称した。「古書には一乗坊と有り、中頃絶たり。其後惣左衛門取立、法浄寺と云う」とある(安永記録)。安政のころ廃寺になった。
 多古広沼妙昌寺
 島享保七年の記録に寺名が出てくるが、その跡は不明である。

多古・路傍の小祠・小宮・板碑など  下巻382〜

多古大原内妙見
多古お西妙見
多古古城妙見
多古高根妙見
 以上は下総多古町の妙見社中に掲載

弁財天の小祠は
 多古大原内弁天宮
 多古居射弁天宮
 多古切通弁天 とあるが、記事は省略。

鬼子母神:多古にはいくつかある。
 多古高根鬼子母神:親社権現の境内にある。明治22年町内女人中によって祀られた。
 多古本町鬼子母神:八坂神社境内にある。
  女おびしゃの当番申し送りの御影掛軸に「享保十三年(1728)本町女人中」とあり、御影は常法筆とある。
 多古高野前鬼子母神;大宮大神東裏にある。
  石宮は延享元年(1744)五月吉日の建立である。同神の女おびしゃは大原内・新町・堀の尻・仲町の女人たちによって行われる。
 多古切通鬼子母神:天神社の境内にある。
 多古広沼鬼子母神:字多古台2284ノ1番地で、通称古城台にある。
  棟札に「文政五年(1822)正月大吉日下総州香取郡多胡村大矢氏」とある。
     ↓写真は直下に掲載。
   (※女おびしゃ:千葉県立博物館のサイトには次のような解説がある。
    下総の農家−香取郡多古町多古の事例
    香取郡多古町周辺ではオビシャを男女別々に行っており、女オビシャは子孫繁栄を願って女性だけで行われる。
    御神体である鬼子母神の掛け軸や供物を飾り、飲食と共にめでたい歌を歌って当番の引継を行う。)
2023/10/19撮影:
◇多古広沼鬼子母神
 広沼で「多古お西妙見」の場所を探索中に、この地区の区長である大矢氏(上記鬼子母神棟札にある大矢氏の一族と思われる)と出会い、妙見と合わせて案内を頂く。
広沼お西妙見・鬼子母神は大矢氏の氏神で、大矢氏が今も祭祀するという。
広沼の鬼子母神・七面山・お西妙見・道祖神の位置については「多古広沼案内図」に示す。
 広沼鬼子母神1:向かって左に3基の石祠が写るが、広沼七面山である。
 広沼鬼子母神2     広沼鬼子母神3     多古城枡形虎口:鬼子母神背後は多古城跡で枡形虎口が残る。
2023/10/19撮影:
◇広沼七面山
「多古町史 下巻」では
 広沼七面山 字多古台2284ノ1番地(※広沼鬼子母神と同一の番地である)にあり、通称古城といわれるところである。
明治二十七年九月建立の石宮があって、近くには天保五年(1834)の三十番神石宮、昭和四年の古峰神社の石宮がある。
 広沼七面山:向かって左から、古峰神社・三十番神・明治27年石宮である。
 古峰神社石宮     三十番神・明治27年石宮

道祖神:多古にはいくつかある。
 (※道祖神・馬頭観音・石宮・題目板碑・観音・七面大明神など多くあるが、記事は省略)
 ※上記の中の広沼七面社については、↑直上の広沼鬼子母神の項に掲載。
 ※その中の広沼道祖神は通りがかりで目にしたので、収録する。
2023/10/19撮影:
◇広沼道祖神
 字広沼2375ノ1番地の旧道から県道への出口のところにある。
安永九年(1780)の石宮が雨屋の中にある。昭和五十一年に社屋を改修した。
 なお、同区には本尊と称する木箱に納められた石宮があるが、これは四国から背負ってきたものといわれている。
 そして、同所にはかつて三本の大松があり、これにまつわる次のような多古藩主の槍の伝説がある。
 このうちの一本の松は、人の通行には支障がなかったが、道にかぶさるように幹が曲っていた。あるとき多古の殿様がそこを通ることになったが、行列の先頭を行く槍の穂先がこの松に触れるおそれがあるので、村人たちはこれを伐ることにした。
 翌朝、道具を持って集まったところ、路上に曲っていた松が一夜のうちに伸びて、槍がつかえないようになっていた。これはひとえに道祖神の神威によるものであるとして、ますますその信仰を深め、この話が村から村へと伝わって有名になった、ということである。
 また二基の板碑があるが、これは近くの浄妙寺(集会所)跡にあったもので、すでに摩滅している。下総式の種子と題目板碑である。
2023/10/19撮影:
 広沼道祖神
 広沼道祖神雨屋;安永9年の石屋がこの中に安置されているのであろうか。なお、木箱に納められた石宮とは不明。
 板碑2基・石碑:板碑は「町史」に記載のものであろう、石碑の性格は銘が判読できずまた形状も良く分からなく不明、板碑も全く判読できず。
 「また二基の板碑があるが、これは近くの浄妙寺(集会所)跡にあったもの」という、集会所というのは不明であるが、直ぐ近くに「広沼営農センタ」があり、おそらくここが集会所で浄妙寺跡と推定するが、確証はない。
広沼には□浄妙寺□妙益寺□広沼山法浄寺があったという。(上に掲載の多古寺院跡の項を参照願う。)

飯倉台板碑(小谷墓地・広沼墓地にあると思われるも確証なし)
 字小谷2021番地の広沼墓地にある下総板碑で、高88・幅49cm。永徳三年(1384)二月八日の建立である。
 天蓋・題目・蓮座があり、両側に「多宝如来 釈迦如来 上行無遍行〓(※𦬠であろう) 浄行安立行〓(※𦬠であろう) 孝子敬白 右志者為母妙性十三廻也」の銘文がある。
  ※ここには下掲の日樹・日奥・日述の遠忌碑がある。
高根宝篋印塔(高根附近であろうが、位置不明)
 字高根2797番地で、高根の仕置場墓地にある。向かって右に約4m、左に約2mの二基の宝篋印塔があり、
 大は承応二年(1653)四月、奉唱題目十万部成就を記念して建立された。「為開眼建之以蔵逆修」の刻字が読める。
 小は、「奉唱題目五千部■■ 延宝二歳(1674)卯月 下総国多胡村本町 本願人■■ 円能寺■■ 実相寺■■」の刻字が判読できるが摩滅が甚だしい。

本込題目碑(本込墓地附近か)
 字本込3008番地で本込火葬場入口にある。明和五年(1768)の建立である。
日蓮五百遠忌碑(位置不詳)
 すすき谷火葬場にある。安永九年(1780)の建立である。
大原内唱修供養碑(大原内附近であるのだろうが、までいど墓地とは不明)
 までいど墓地にある。文化十一年(1814)と正徳五年(1715)建立の二基があり、題目唱修供養碑である。
飯倉台遠忌碑【日樹・日奥・日述】(小谷墓地・広沼墓地にあると思われるも確証なし)
 字小谷2021番地の墓地内にある。宝暦二年(1752)の建立で、日樹・日奥の百五十遠忌、日述百遠忌碑である。
 ※ここには上掲の飯倉第板碑もある。
 ※日樹・日奥150遠忌・日述100遠忌であれば安永9年(1781)前後が妥当と思われる。

多古・親社大神(権現様)・・・真弘寺跡  下巻368〜
 字高根2787番地旧真弘寺跡にある。
古多古城主牛尾能登守胤仲の霊を祀り、慶長十九年(1614)の建立と伝えられる。
『多古由来記』に「……其後能登守亡魂を城山より鬼門に当りし高根真弘寺に法花勧請、親社大権現に祭り奉り、今もって二月八日奉謝祭礼これあり、御神体を拝するに束帯は黒の装束也となり。それより以来村中尊敬せり」とある。
現在の祭礼は毎年一月七日、九月八日の両日行われている。社宝の刀は胤仲が生前使用したものといわれ、晩年寄寓したと伝えられる島の郡司勘右衛門が寄進した。鰐口および「奉納」の銭額は、城山から出土した銅銭で鋳造したものである。
 入口の「多胡古城主平朝臣牛尾能登守胤仲公霊地」の門碑、五〇段の石段、唐獅子、手洗などいずれも高根町内氏子中の寄進である。境内に安政年度の石宮がある。
 供養碑は胤仲卒255年に当たる慶応二年丙寅(1866)三月八日、町内八日講中によって建立される。
本願人は七左衛門・四郎右衛門・庫右衛門・重左衛門・嘉左衛門・忠兵衛・惣右衛門・兵左衛門・徳右衛門・利右衛門であった。
 碑の表に「南無妙法蓮華経 親社大権現誦念自我偈十萬巻成就 八日講中」。裏面に「當寺高檀多胡古城主牛尾能登守平朝臣胤仲侯 法謚正俒院殿高真日仲大禅定門 慶長十七年壬子三月八日卒 尓来于今二百五十五年祭二其霊一為二親社一稱二大権現一 願因二所レ鳩之功徳一自受法楽之久慧月遍耀二于法性之空一 化他利物之暁徳風遠禳二乎災禍之雲一耳 慶應二年丙寅春三月八日 嶺陰日慧應二八日講社之需一謹 当寺廿九世文勇日浄代」と刻まれる。
 (後略、供養碑には「題目」が刻まれることに留意。)

多古八坂神社  → 下総の牛頭天王

 ※多古高野前天神社、多古高野前稲荷社など残余の「社」は省略。

多古>島 --------------------

     ●島村石造物等所在図
     ● 島 村 繪 圖    :妙光寺・妙福寺・大相寺・妙賢寺が描かれる。星宮は妙見菩薩。

下総島正覚寺(不受不施派)

 島集落の寺院を記述するにあたって、前もって触れておきたいことがある。
それは、島は一村こぞって日蓮宗不受不施派であることである。
この派は、町内においては島だけではなく、中佐野・東台・大原の各旧村もほとんど村ぐるみで同派であり、一村の中で一部が同派である村々は、水戸・林から、南玉造・坂に及ぶ。
 島には、町内でただ一カ寺、不受不施派で住職の在住する正覚寺があり、同派弾圧時代の事実を伝える遺構が残される。また、同派の宗宝ともいえる古文書類が、正覚寺宝蔵庫に納められ、多数の研究者が訪れることなどから、不受不施派の代表的なところになったようである。

◇正覚寺  下巻443〜
 字鍛冶内2320番地にある。
水田の中に浮かぶ丘陵地の中心に位置する。日蓮宗不受不施派の寺院で、成等山正覚寺という。
成等山正覚寺
 明治時代に書かれた『社寺台帳』には、次のように記されているのみである。
    千葉県香取郡多古町島弐千参百弐拾番地
               所属宗派 妙法華宗 正覚寺
  本尊 宗祖日蓮奠定十界常住ノ文字曼荼羅
 道路から1.2mほど高くなったところに山門が建てられ、正面の額には「成等山」と刻字されている。
前庭の中心に銀杏の老樹がそびえ、本堂と庫裡が並んでいる。左手に2.7m四面の瓦葺き鐘堂があって、直径60cmほどの梵鐘には、 
如来一切所有之法
我此土安穏 如来一切自在神力
毎自作是念 如来一切秘要之蔵
日蓮が慈悲広大ナラバ 南無妙法蓮華経ハ 万年ノ外 未来マデモ流ルベシ 日本国ノ一切衆生ノ盲目ヲ ヒラケル功徳アリ
如来一切甚深之事
千葉県香取郡多古町島 日蓮宗不受不施派成等山正覚寺 日蓮大菩薩七百遠忌施主 門真市江田信子 ミドリ 有子 豊中市中村文三
  とあり、鐘堂・梵鐘ともに昭和55年六月に建設されたものである。
 寺内には高さ2.5mほどの石燈籠一対が、本堂前にあり、「奉献 共敬神尊仏念篤当祖先四百五十年忌 寄進石燈籠二基 以慰祖先霊吊菩提実可謂慎終追遠之徳厚矣 昭和六年三月十日宇井磯太郎 冨澤勧一 冨澤勝蔵」、「冨澤勧一 同勝蔵出 三左衛門 勧一曽奉職宮内省主馬寮卅年又参加日清日露役叙勲七等 今勤西郷伯爵家職 勝蔵隨大正六年奉職宮内省大膳寮 冨澤勧一 冨澤勝蔵」と刻む。
 宝蔵庫は本堂前西側にあって、古くは文安五年(1447)ごろからの古文書・曼荼羅などが数十点、他の寺宝とともに納められる。
 本堂西側にある1mほどの石塔は太子講塔で、「聖徳皇太子天明二壬寅年(1782)正月吉日建之 構中」と刻まれている。
 本堂西側にある高さ1mほどの石塔には「不退院宗昇日注 天保十一年庚子(1840)秋八月建立」と刻まれ、台石には「筆子中 島邨 水戸 石成 境村 多古 中村 古内 飯塚 並木 篠本 船越 谷新田 岩山 加茂 酒々井 江戸」とあることから、寺子屋の師匠のものと思われる。
 本堂軒先に懸けられている半鐘は直径30cmあまりのもので、「正覚寺再興ノ師 教妙院日耀聖人〓(※〓の文字は不明)大悲教導満乾坤精撰立正安国論刀剣流竄更不顧祖師慈眼莫倫尊 聖人第五十回忌並ニ先祖代々菩提ノ為 祖山参詣記念ニ正覚寺へ此ノ鐘ヲ奉納ス 昭和四十七年四月二十五日 施主仲町六代目郡司勘兵衛 妻志づ子 高根二代目郡司博庸 妻寿子」の刻文がある。
 三十番神:
 受派の時代に祀られたのであろうか、現在は境内の北西に垣根で隔てられているが、鳥居をくぐり、七段ばかり石段を登ると、木造亜鉛葺きで1.5mに1mほどの三十番神の本殿がある。石段には、「奉納大木幸三郎昭和十二年 月」とあり、コンクリート製手洗いには「奉納星野瀧蔵 大木寅之助 大木幸三郎 宇井清一 昭和十二年九月吉日」とある。

下総島旧妙光寺(本覚山妙光寺)

下掲のように、長崎に移転するというも、長崎(西彼杵郡上長崎村中川郷)での存在が確認できない。

◆下総島旧妙光寺 下巻445〜

 前項の正覚寺は、もと本覚山妙光寺という受派の寺で、明治9年に不受不施派が再興されると、村人がこぞって復宗したため、受派寺院としてはその存亡を危惧される状態になる。
 明治十三年の『寺院明細書』は次のように記している。
     寺院明細書
  千葉県管下々総国香取郡島村字鍛冶内
                    同県東葛飾郡中山村日蓮宗一致派法花経寺末
                                         中本山 妙光寺
  一、本尊 三宝諸尊     一、由緒 創建年月不詳ト雖 宝暦嘉永両年度悉皆焼失 両度共村方檀徒私費ヲ以再建
  一、境内 九百七拾弐坪 民有地第二種     一、堂宇 本堂萱葺(間口九間 奥行五間)庫裏同(間口四間半 奥行六間半)
  一、住職 無之     一、境外所有地 無之     一、檀徒 五人              (以下省略)
     明治十三年八月六日
  ここに見られるように、檀家はわずか五人である。
そして後には、次の文書が示すように、長崎県へと移転して行く。
         御届
  庶四一九四号
                                 香取郡多古町島
                                      妙光寺
   明治三十九年八月十五日付願長崎県西波杵郡上長崎村中川郷へ移転ノ件聞届ク
     明治四十一年八月一日
      千葉県知事 有吉忠一
  前書之通該寺移転許可相成候間此如及御届候也
                          右妙光寺事務担任      大講師 松本泰辨 印
                          法類兼組寺惣代大立寺住職  準講師 佐藤朗夫
                          右寺檀家惣代        星野佐市 印
                                        島田藤吉 印
                                        富澤三右衛門 印
      録司大僧都 森田日教殿
 
 こうして長崎へ移転した妙光寺の土地や建物は、次の文書に見られるように、村へ売却され、現在の正覚寺が所在する場所と本堂は、このときのものである。
     土地建物売渡証
   香取郡多古町島   字鍛冶内弐千参百弐拾番
  一、郡村宅地参反弐畝拾弐歩    仝上仝番仝宅地内建設
  一、木蔵萱葺平家本堂壱棟     此建坪四拾五坪
  一、木造萱葺平家庫裡壱棟     此建坪弐拾九坪壱合五勺
    此売渡代金壱百弐拾五円也
   右売渡代金正ニ領収候也
     明治四十一年八月三十一日
                         香取郡多古町島二千三百二十番      妙光寺
                         香取郡豊和村飯塚八百十一番地      光福寺住職
                         右妙光寺事務担任            松本泰辨 印
    香取郡多古町島
      宇井孝一郎殿 宇井市郎左衛門殿 宇井熊吉殿 宇井磯太郎殿 郡司勘兵衛殿 郡司要助殿
 
 妙光寺の縁起について、前記の『寺院明細書』には「創建年月不詳トいえども――」とあるが、南中の竹林山妙光寺々記に「貞治三年(1364)五月創立で、開基は日朝上人である。同僧は嶋村妙光寺・多古村妙光寺及び当(南中妙光寺)三ケ寺の開祖である」との一文があり、島・妙光寺二十八世日省が宝暦十一年(1761)に書き留めた『御霊宝目録』の冒頭には、「永仁五丁酉(1297)七月本山二祖中老日高上人東最初折伏御弘通之時改真言宗 宗門之致精舎者也 城主大嶋殿依二テ教化一外護、大旦那  御弟子日朝聖人措堂建立……」とある。また同文中の一節に「一、中山開祖日常上人御本尊一幅、永仁五丁酉当山開闢之時御授与也」とも記している。右の本山二祖中老日高上人とは、中山法華経寺二世日高のことであろうが、その折伏弘通のときに真言宗から改宗し、城主大嶋氏が旦那となって、日朝の時代に堂を建てたということのようである。
 →  中村妙光寺多古村妙光寺
御霊宝目録
 そして、文安五年(一四四八)住職と思われる日栄が、後代のために書き遺した「押書き」と題する一文があるが、これが書かれてから七年後に、原・馬加氏の攻撃で島城は落城している。
 さらに落城翌年の康正二年(1456)五月二十五日に、中山法華経寺開祖富木常忍(常修院日常)聖人の御舎利、御直筆本尊を授与するという旨の一文があり、弘治三年(1557一五五七)正月二十一日には、島城攻略軍の一族である原胤貞から、前代に引き続いて保護するとの安堵状が付与されている。
◎島妙光寺末寺:
下総多古蓮華山本蓮寺 →下総◆多古
下総島大相寺(廃寺) →直下に記載

下総島大相寺(廃寺)  下巻449〜

 字中通1981番地にあって、数通の区有文書がその行方を物語る。
『旧明細書』(年月不明)には、 
   由緒不詳 創立年月日不明 開山不明
  一、本尊日蓮大士木像一躯 御許可の寺号 移転ス     一、過去帳一冊信徒三名 御許可ノ上組寺妙薬寺へ加信編入ス
  一、本堂 桁五間半梁四間半       一、境内坪数 五百八十九坪   (以下省略)
とあり、明治36年には次の書類が提出されている。
       廃寺願
                  千葉県香取郡多古町島
                                   本覚山妙光寺末 日蓮宗 大相寺
香取郡多古町島千九百八拾壱番 字中通
一、境内反別 壱反六畝拾五ト(歩) 有租地 同所千九百八拾弐番 字中通
一、宅地反別 参畝ト  持主大相寺 有租地
一、堂宇壱棟 間口伍間参尺 奥行四間参尺 但壱間四尺奥行参間参尺ノ玄関付キナリ
  右大相寺之儀ハ、当区妙光寺之末寺ニシテ、境内ハ故来ヨリ税地ニシテ、地租諸税等檀家ニテ相納メ来リ、去ル明治拾四年ヨリ、堂宇境内共悉ク島尋常小学校舎ニ貸借約定済ノ上使用罷在候処、仝拾五年ニ至リ、無住無檀之不幸ニ陥リタルモ、区内協議之上諸税等ハ、区費ヲ以テ年々相納メ、依然トシテ、学校ニ仮用致居候。
  然ルニ今般小学校令改正ニ相成、寺院ノ名称ヲ廃シ、学校ニ変更セシムルノ不得止義ニ付、此際廃寺之義願出候間、何分前条深ク御憐察之上御聞届被成下度、別紙図面及貸借約定書・謄本相添へ此如奉願上候也
   明治参拾六年参月十九日        社寺惣代人 宇井市郎兵衛 印
                      仝   戸村繁蔵 印
                      仝区長 宇井孝一郎 印
                      [仝郡仝町千田日蓮宗廣宣寺住職] 紀川日明 印
                      [法類ノ義当区内ニ参ケ寺有之候処曽テ皆廃寺ニ相成目今更ニ無之候]
  千葉県知事石原健三殿
 
 この廃寺願いによって跡地と建物は無償で払い下げられ、実際は多古尋常小学校の分教場であった島小学校が、従来どおり使用することとなる。
 しかし、翌37年にこの分教場が廃止されたこともあって、本堂と境内を、新寺建設の資金に充てるため組寺である妙薬寺住職へ売却し、栃木県足尾町へ移転した。それが明治41年秋のことである。
  ※足尾町(現在は日光市)への移転後の状況は不明である。

下総島妙福寺(廃寺)  下巻451〜

 現在その所在を知ることはできないが、正覚寺の文書に、由緒の一端を伝える次の一文が残される。
 千葉胤貞の子日胤が創立し、その没後、南中妙光寺と合併するが、日淳の時代に再び分かれて天文三年(1534)に一山として独立したようである。
原文は次のとおりである。
 嶋妙福寺由来之事。然日胤と申者千田殿之御一類尓(に)て、木原郷ニ御座候ヲ、然処千田殿依有御受法日胤も御受法候而、三戸(水戸)郷を旦那ニ在嶋ニ造立、寺家を従中山日祐聖人三杖本尊御申候而、繁昌有事其陰無之処ニ、千田殿御■亡之後、中村唐竹林ニ妙光寺者御座候ヲ、然ニ千田殿ニ離御申候而中村を引退、嶋妙福寺を借用候而先ニ御在寺候。
 然処其次年之正月一日ニ妙福寺之日胤被成御死去、遺跡無御座候。彼妙光寺妙福寺一寺ニ成■■、弟子旦那悉妙光寺へ就申候。然処日淳其末弟ニ候間、祐師之御本尊を妙光寺へ乞申、遺跡を立申度由申候処ニ、此御本尊御分失■■無御座候由仰候間、不及力候処ニ、日淳学問之時分、笠井小松川之左京殿へ遊山ニ罷越候折節、人ニ申事ニ、祐師之御本尊売可申由告来候間、不思儀ニ存、日淳拝ミ申候へ者、遺所之御本尊尓て御座候間、仏天之御奐慮見ハ宿縁存、五百文ニ買取軈而日靚上人ニ如同三杖本尊申請、妙覚山妙福寺と申授被書■■被下候処ニ、戊子正月四日夜焼失出■■世物法物無残焼失申候。其時彼靚師之御本尊ハ失申候。然祐師之御本尊ハ御残候間、当住日俒聖人之御本尊を申請妙行坊日昌ニ付属申候実也。
 日淳先祖始  妙福寺之旦那数多ニ候ヘ共、一人も付不申候者、凡天之御守護分新旦那日淳日昌取出■■、妙福寺建立仕候。如此有古例寺■■候。為後々記置申仍付属状如件
                                   権律師日淳
                                         妙行坊日昌示之
   天文三年甲午(一五三四)二月三日
 
 その他、蓮妙寺・妙賢寺・広宣寺・妙栄寺の四カ寺については、寺名のみが残り、明治の村絵図におおよそ所在を示すだけで、詳細は不明である。

路傍の小祠・石宮など  下巻452〜

島共同墓地
 字二之台2413にある。
ここは古城跡の一隅で、椎の古木の陰に、不受不施派信者であったことを隠すために戒名を削られた石塔や、二基を接して、側面の戒名が読み取れないようにした石塔があり、また、昭和23年に、古城跡の一角から採土作業のときに出た人骨を弔った石塔には、「千葉家勇士之墓」と刻まれている。
 ※本項にある共同墓地の「戒名を削られた石塔」に関しては
上述の下総香取郡多古町>◆日蓮宗不受不施派の法難(※下総多古町域)  上巻335〜
に掲載の写真
 弾圧の跡をとどめる島の墓地
が該当すると思われる。

島妙見社
 →下総多古町の妙見社中にあり。


五反田・林・水戸・石成・千田・船越・牛尾  --------------------

五反田

集落内に寺院はなく、明治初年の戸籍簿によると10戸のうち9戸が飯櫃村(芝山町)真言宗蓮福寺、1戸が飯笹村同宗地福寺の檀家である。

五反田三十番神  「多古町史 下巻」583〜

住民は嘗て林村から移住したといい、その時三十番神を鎮守として祀ったという。
 大字林字三夜台(さんやだい)1351番地にある。内陣に三〇の神像が祀られている。
境内に鬼子母神祠があり、祠内に「昭和十四年池栄山卅世開眼」の棟札がある。また石造の手洗いは、明治12年、当村山倉貞二郎の寄進である。

林(はやし)

多古>林法林寺(池栄山) 下巻55 〜
○「多古町史」/地域史編/旧多古町/林/宗教/神社・寺院 より

池栄山法林寺
 字池端388番の1にある。明治になるまではこの集落内に寺が三ケ寺あったといわれるが、それらのことについて平山氏は「長者屋敷之事、並に妙法寺・法林寺・法光寺の事」と題する小文の中で次のように述べる。
 
 其の昔承平元辛卯年(931)人皇六十一代朱雀天皇之御宇、下総国佐倉に於て平親王将門謀叛して覇を伸ばし、住人皆勝手を以て諸所に越しけるとなり。漸く残りし百姓七八軒なり。
 其の後暦応元戊寅年(1338)、足利尊氏将軍の頃、中山三世日祐上人大法弘通の為、染井小原妙光寺に於て御説教あり、又隣郷を教化せらる。
其の時当村挙りて改宗ありける。阿弥陀堂を改めて法華の道場となし、正林山妙法寺と号す。
住持も亦日祐上人の弟子となりて、日傳と改名し、開山と申し伝ふるなり。行学を励みて村人を指導すること二十余年、延文五庚子年(1360)十月二十日逝去なり。
 それより二百四十余年を経て慶長九辰年(1604)、伊勢国薦野の城主土方掃部頭様、田子並に其の近郷にて五千石を拝領なされ候。
翌年10年乙巳春(1605)御奉行加茂宮治兵衛様と申す人御出張下され、城之内へ仮り屋を建て林村の田畑御検地の上、石高御定め下し置かれ候節、名主藤左衛門この地へ引寺に願い、並に寺公役代除地に遊ばされ、御承引仰せ付けられ候。今の妙法寺これなり。
それより脇の坂を堂坂と称し、上の畑地を寺の台と云ひたり。
 妙法寺二世日叙、天授5己未年(1379)四月二十五日迂化す。三世日朝、応永31甲辰年(1424)三月二十九日迂化す。
弟子二人あり、長日正師の後を嗣ぐ。
次日財は安産守護の鬼子母神像を感得して、当村池の端に一寺を創立し、池栄山法林寺と号す。
文明2庚寅年(1470)五月二十九日迂化す。
弟子日円嗣ぐ、晩年隠居して正栄山法光寺を創立す。文明9丁酉年(1477)十月九日迂化す。
三ケ寺共今猶繁栄して法燈明らかに輝き、末法万年の闇を照す。誠に有難き事なりけり。
日祐上人は応安7甲寅年(1374)五月十九日遷化す。
 応永13丙戌年(1406)妙法寺三世日朝、檀信徒と共に精進努力して土を盛り、大塚を築き三十三回忌の供養を営みたり。今この塚を上人塚と称するなり。
  (注) 現在も字上人塚836番に、大小二基の塚がある。
 
 右の三カ寺について明治4年の『社寺地立木取調書』は、次のように当時の様子を伝える。
                                 下総国香取郡林村
  一、境内除地三百七拾坪  日蓮宗一致派
     立木無御座候      妙法寺
  一、境内二百三拾四坪   同宗同派
     御年貢地        法林寺  (目通三尺〜七尺の杉・椎八本、明細省略)
  一、境内壱畝三歩    日蓮宗一致派
     御年貢地        法光寺  立木無御座候
 
 さらに、明治に作られた『社寺明細帳』には、法林寺だけが次のように記される。
 
     千葉県管下下総国香取郡多古町林字袋端
                               日蓮宗一致派 誕生寺末 法林寺
  一、本尊   釈迦如来
  一、由緒   元和元乙卯年(1615)建立ノ由古老ノ口碑ニ伝フ
  一、境内坪数 参百四坪        一、檀徒人員 九拾九人
 
 また現在法林寺に残されている『法林寺由緒』は次のように伝える。
  旧記を按するに、人皇九十六代後醍醐天皇の御宇延元3戊寅年(1338)中山三世日祐聖人遊化の砌、当林村挙村改宗権門の一寺を本化の道場と為し正林山妙法寺と号す。寺主も亦祐尊の弟子となり、正林院日傳と称し、大法宣伝に勤む。正平15庚子年(1360)十月二十日寂す。
 二世日叙を経て三世日朝に至り、弟子二人あり。
長を日正と称し、師の後を嗣く。次を日財と称す、当村字池の端に一寺を建て、池栄山法林寺と号す。妙法寺は、其後相伝す。
 二十九世に至り、明治維新の際不受不施派再興の為めに檀家減少し、遂に法林寺に併合す。又法光寺を併合して、以て現今に至る。法統を伝ふること実に二十有六世。
   大正十年十月聖辰
    正東山(中村檀林)三百卅二世
                                         日渕 併誌
 
 以上の文書から見ると、暦応元年(1338)日祐の布教のとき改宗して妙法寺となり、慶長10年(1605)字城之内へ引寺、移築した。
 同寺三世住職の日朝に日正・日財と二人の弟子がいたが、日正が師のあとを継いで同寺四世となり、日財は別に法林寺を創立して開山となった。のち、日財はその弟子日円に法林寺住職の座を譲り、さらに法光寺を創立した。
 明治9年に不受不施派が禁制から解かれると、妙法寺檀家の多くは不受不施派に改派した。
そのために同寺では檀家が減少するところとなり、経営上の理由もあって法林寺に併合された。
その後、さらに法光寺を併合して法林寺だけが残ったのである。
現在も村内の檀家は25軒だけで、半数を超える家々は不受不施派その他である。
 山内には、妙法寺跡から移したといわれる高さ64cmの板碑があって
「開山正林院日傳大徳 延文5庚子年(北朝年号・1360)十月二十日」と妙法寺開山日伝の院号と没年が刻まれ、
法林寺開山の石塔(77cm)には、「開山日財上人歴代之諸先哲 明治三十七年一月隆正代建之」とある。
 入口にある120cmほどの石塔は「日蓮大師六百遠忌」としてあり、明治37年一月に右と同じ隆正が建立したものである。
 妙法・法林二カ寺併合の理由を、由緒書では不受不施派への改派であるといっているが、同派は明治になってはじめて広まったものではない。
法林寺法系書に「開山日財 妙法寺三世日朝弟子 法林院ト号ス 文明2庚寅年(1470)五月二十九日」と明確に記されていながら、十九世から二十三世までの五代については、二十二世日山の名を記すのみで、他は法名さえなく空白になっている。
また妙法寺歴代書にも、二十四世日俊と二十五世日健の没年記録が記されていない。
 このようなことは、各寺院とも住職が不受不施派であった場合に多く見られる例で、確証は得られないにしても、正徳(1711)から以後のことでもあり、同派弾圧の時代とほぼ合致することからみても、このころからすでに不受不施派信者が多かったのではないかと思われる。
 ※法林寺歴代である蓮性院日解は寛政6年(1794)寛政多古法難により十一月牢死する。
  →蓮性院日解は玉造>「本妙院殿」碑 を参照
 ※蓮性院日解は林の法林寺歴代にその名がないのは、上記の解説の通りである、不受不施僧であった故と推定される。
  19世から21世は欠、22世は日山で寂年欠、23世欠である。
 ※法林寺歴代である蓮性院日解は寛政6年(1794)寛政多古法難により十一月牢死する。
  「日蓮宗不受不施派読史年表」長光徳和・妻鹿淳子、開明書院、昭和53年 p.169に記載。
    林庵居住、不見派 とある。
 ※同上「日蓮宗不受不施派読史年表」p.169に「寛政6年11月12日 心見院日迅牢死する。下総林村法林寺隠居 不見派」とある。
 ※小湊誕生寺末、奠師法縁。

林・路傍の小祠・石宮など 「多古町史 下巻」559〜

 旧道沿いの各所には、社というほどのものではないにせよ、幾つかの石塔や石宮がある。
  (※以下を転載、残余は省略する。)
馬頭観世音:二カ所にある。
 字栗剥谷(くりはぎさく)823番には、高さ1m余の石塔があり、「南無妙法蓮華経 馬頭観世音 文久二壬戌年(1862)十月吉日建之 願主鈴木平兵衛」と刻まれ、
もう一基は、字名内(なうち)645番にある65cmのもので、「馬頭観世音菩薩享和二壬戌(1802)十二月吉日 林村」と刻まれる。
板碑:
 字庄屋見下(しょうやみした)657番の墓地内に、よこ60cm、たて75cmほどで、かつての支配者千葉氏一族の供養碑であると伝えられるるが、建立の時代や施主の名前は不明である。
この碑に刻まれた文字は、 
            千葉介常重
      常兼子六人 上総介常宗
    大千葉介常永公 臼井 常安
    南無妙法蓮華経 匝瑳 常廣
     千葉介常兼公 椎名 胤光
            海上 与一  以上のように明瞭に判読できる。

水戸・石成  「多古町史 下巻」473〜

 もとは、それぞれが水戸村、石成村を称して独立し、村ごとに鎮守を祀り、寺を維持して来たが、同時に、幕政時代からなにかにつけて共同体制をとっていた。
その理由を、「地勢が似ているうえに、家打ち交りて判別しがたく」と述べている(「合併出願書」)。
それに加えて、石成についての資料にも乏しいので、ここでは便宜上一村として記述していくことにする。
 多古北部から南部の水田地域へ半島状に張り出した台地が、途中でさらに東西に二分され、その西側部分をはさんで、多古橋川と高谷川が流れている。そして、突端部の先を水田が帯状に広がっているが、北縁の集落が水戸で、その東端の集落が石成である。

石成雷雲山石成寺 「多古町史 下巻」495〜

 字石成1053番にある。真福寺末真言宗である。(以下省略)

水戸常照山法眼寺 「多古町史 下巻」496〜

 字谷ノ内1019番地にある。
明治の『社寺明細帳』では、
     千葉県管下下総国香取郡多古町水戸字谷ノ内
                               誕生寺末 日蓮宗一致派 法眼寺
  一、本尊   三宝諸尊      一、由緒   不詳
  一、堂宇間数 間口三間三尺 奥行三間三尺     一、境内坪数 弐百八拾七坪 官有地第四種
  一、境外所有地 (省略)     一、檀徒人員 六拾七人
上記では「不詳」としているが、これ以前の天保十四年(1843)に、本山へ提出した文書によると、
      天保十四年卯八月
      御尋ニ付書上帳
                下総国香取郡水戸村  法眼寺
  宝永三丙戌年(1706)正月十五日
  一、開山 智乘院日寳大徳
  寺作
  一、田畑 無御座候
  一、寄附地 高六石九斗八合
      内畑壱石五斗九升六合  此内荒畑三斗五升弐合  内六石五斗五升六合田地
        此内押砂場四斗九升    旱田場七斗弐升六合
  一、除地 無御座候     一、境内 九畝十六歩除地     一、買添地面 無御座候
  一、檀方 四拾八軒内壱軒休  人数〆弐百廿三人 [内男百十五人 内女百八人]
   右之通相改候処相違無御座候 以上
     天保十四年卯八月日
                   下総国香取郡千田庄水戸村 法眼寺
                    [筑後国 久留米産] 三十一世 日了
                     檀方惣代 半兵衛  村役人 治郎兵衛
      御本山御役僧中
 すなわち、宝永三年(1706)智乘院日宝によって開かれたという。
 さらに、現在の過去帳(明治43年入山の三十七世慈眼院日静記)には、「文化(ママ)・明治両度の火災により、その一切を焼失したことから、開基・歴代・創建年代などは不明であったが、災禍の荒廃を修覆のため作業をしていたとき、『応安二年己戌(ママ)(1369)五月六日』と刻まれた題目板碑を掘り出した。他の文字は不明である」との内容が記されている。
 そして、同所にある文化十二年(1815)建立の碑に「開山觀照院日勝大徳」とあることを考え併せて、法眼寺について『日蓮宗寺院大鑑(昭和56年池上本門寺発刊)』の記していることを見てみよう。
   「〔祖像〕説法像   〔仏像〕三宝尊 鬼子母神 妙見大士 摩利支天
   〔沿革〕応安二(1369)年の創立。開山観照院日勝。潮師法縁。(大観には開山日宝とある)」
 このように、当寺の開山は日勝で、応安二年に創立されたとしている。
 同所には「當寺開祖智上院日宝大徳 施主檀那中 當寺三十二世智叡(花押)」と刻まれた弘化五年(1845)正月建立の題目塔があり、日宝を開山・開祖としていることは前記の天保十四年文書と同様であるが、創建年号とする宝永三年(1706)以前の、寛文十二年(1672)三月に建てられた多宝塔も同地にあることなどから、当寺の開創は少なくとも宝永三年以前であって、この年に日宝を開山とする天保十四年文書は、中途の衰退を再び隆盛ならしめた、中興の祖としての日宝のことを指しているのではないだろうか。
 なお、当寺の火災について、名主縫之丞の記録によると、「文政(ママ)十年(1827)十一月二十五日法眼寺焼失、天保二年(1831)六月小池より買入、七月再建。明治四年二月六日再焼失、六月仮屋建つ」と、このようになっている。
 かつては間口が十二間(21m強)あったという本堂(過去帳)は、明治四年の焼失後、仮本堂として建てられたもので、同四十三年に大修繕が加えられ、現在の本堂は昭和九年に再建されたものである。その玄関軒先に懸けられた鐘には、「夫鐘者宣令法音之器而古佛始矣是故音聲發則貪婪進躁者足曠然以生信含哺而熙法音鼓腹而游道〓其徳至哉盖在昔倶樓孫之石鐘有南唐先君之銅鐘其益儼然〓影響然當山右鐘 嘆久之於是〓信俗靡然捐貲改鑄以〓無窮其辭日惟鐘思索允〓其極應若景雲發信難測降福穰永以無極 維文化十三年丙子(一八一六)六月住持日隆代檀越講中 南無妙法蓮華経 下之總州香取郡水戸村常照山法眼寺」と刻まれている。
寺域の小祠・石塔
 境内には題目塔が二基ある。
その一基には「南無妙法蓮華経 後五百歳中廣宣流布 五百五十遠忌塔 奉読経久遠偈一千部 文政七甲申(1824)十月十三日 常照山廿九世日隆代 法眼寺講中」とある。
他の一基は、前出の、弘化五年に建てられた「當寺開祖智上院日宝大徳」とあるものである。
 また、筆子中建之の報徳碑が二基あり、それぞれ次のように刻まれている。
「妙法法入院取要日悟信士 文政十三庚寅(1830)八月廿五日 五木田縫之丞」、「妙法慈徳院法眼日生信士 安政五戊午(1858)七月九日 五木田縫之丞」。
 これは、文政四年(1821)ごろから子弟の教育に当たっていた縫之丞父子のもので、筆子たちの報恩のあらわれであろう。

正覚寺水戸出張所(旧不受不施派教会所) 「多古町史 下巻」500〜

 字海老谷725番にある。
明治七年七月に政府が信仰の自由を認める新法を公布し、やがて不受不施派も公許となるが、翌八年十月十九日、法眼寺住職波多野日祈と村人七名が宗論の結果、法眼寺檀家を離れる。
そのときの信者の人たちによって設けられたものである。
しかしこの改(復)宗離檀は、後日に多くの問題を生じさせたようで、次に掲げる一文(下書き)も、それらの事情を伝えるものである。
    仮葬御届
                            第十五大区壱小区
                                 香取郡水戸村
                                     青木直右衛門
 右奉申上候、私拳家日蓮宗不受不施派信仰ニ付、本年壱月教部省第二号御布達ニ照準シ、本村菩提寺法眼寺住職波多野日祈へ、承認書渡呉候様数度申入候へ共、彼是延引罷在候内、祖父新七儀長病候処、養生不相叶本月四日午後死去仕、兼而信仰罷在候間、葬送之儀も必ス右不受不施派同区同郡東台拾八番地山口揚順同居教導職試補小高辨明ニ依頼致呉候様堅遺言有之、葬期ニ迫り 右波多野日祈へ組合之者ヲ以承認書相渡し呉候様只顧申入候得共承諾不仕、無余儀組合親戚之もの立合之上仮葬仕置候間、此如御届奉申上候 以上
     明治九年十二月五日
                                     右村    青木直右衛門
                                     親類惣代  平山治郎兵衛
                                     組合惣代  高岡伊左衛門
    令宛
 内陣には、明和九壬辰(1772)正月末日・日體花押の鬼子母神画像があるが、これは不受不施派信者だけで行う子安講の本尊であるという。
  ※現状、この出張所がどうなっているのかは、不明である。(GoogleMapでも様子は分からない。)

千田(ちだ)

     ●下総千田重ね図

千田廣宣寺跡 「多古町史 下巻」528〜

 当集落には現在、寺院はなく、住民のほとんどは水戸の法眼寺を菩提寺としているが、古くは令法山廣宣寺と称した寺があった。
 かつてこの集落は、西南台地上(字古屋敷周辺)に寺を中心にしてつくられていたが、後世になって、低地の水田ぎわに寺院とともに移住したと語り伝えられている。
 移住の時代を知る手掛りの一つとして、移住後の寺院跡に建ち、現在でも題目講などが行われている堂(※旧本堂)の内に、廣宣寺の棟札が近年まであり、それには「建長三年(1251)建之」と読みとれたという。
 そのころは鎌倉幕府五代将軍頼嗣の時代で、日蓮が清澄山で初めて「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて新しい宗門日蓮宗を開いた2年前の年である。
このことから考えると、右の棟札は台地から低地へ移ったときのものではなく、台地の字古屋敷(※廣宣寺跡)に建てられていた天台宗もしくは真言宗であったときのものといえよう。
 移築されたといわれるところは低地帯の字滝ノ脇70番地(※旧本堂の西に77地番、東に67番地がある)あたりで、上・下総国境いの旧道から分かれて東へ向かう道(※旧道)沿いであるが、千田から芝山町打越へ通ずる新道が後方の丘の上に造られたため、農道から寺院跡地へ入るような感じである。入口に立つ題目塔(※所在図にある題目塔であろう)がなければそれとはわからないほど竹が密生している。
 丘の南面は平地であるが二段になっていて、前段の西奥には池跡があり、字(あざ)名にも残る滝の水(※旧本堂の横が滝の脇墓地)がこの池にそそいでいたのでもあろうか。
後段の平地は丘の中腹で、その左手に墓地(※滝の脇墓地)があり、右手にある堂の場所は、旧本堂跡ということである。
 旧道からの入口に題目塔(約1m)があって、「南無妙法蓮華経 廣宣寺 後五百歳中廣宣流布 文化三丙寅天(1806)正月吉祥日 當寺十八世瀧王日誠 本妙院日幸聖人 〓光院日遵聖人 立行院日将聖人」とあり、墓地の中にあるほぼ同じ大きさの題目塔には「南無妙法蓮華経 高祖大師五百五十遠忌報恩 開山日祐 二世日活 三世日圓 四世日寿 中興日堯 二世日慈 三世日教 五世日長 六世日修 七世日實 八世日宣 九世日進 十世日応 十一世日徧 十二世日健 十三世日亮 十四世日誠 十五世日暁 十六世日雄 十七世日観 本願主十六世日雄 秋葉利左衛門 同勘左衛門檀方中 天保二年辛卯(1831)十月十七世日観代」と、歴代の名が刻まれる。
 この題目塔に、開山として日祐の名が見えるが、十四世紀初めに下総一帯を布教し、多くの寺院を日蓮宗に改宗させた中山法華経寺三世浄行院日祐と同一人物だとすると、以前は他宗であった当寺が、このときから日蓮宗寺院となったことによって「開山日祐」としたものと思われる。それは改宗寺の多くが開山を日祐としていることからもうなずけよう。
 そして、他の例に見られるのと同じように、不受不施派弾圧にかかわって衰退した寺運を再び隆盛ならしめたのが「中興日堯」なのではないだろうか。
 境内の墓石の一つに「当山卅一世泰善院日明聖人 明治廿八年旧九月十二日 檀家中」とあることから、そのころまで寺はあったようである。
   ※現地は開発が進み、相当程度変貌している様子である。
 また、詳しい年月は不明であるが、明治のある時期に寺籍を長崎県南高来郡南有馬町浦田九五六番へ移し、有馬山廣宣寺となって現在に続いているということである。
  ※有馬山廣宣寺は南島原市南有馬町278に現存する。

 なお、同時代に書かれた『社寺明細帳』に同寺は載せられていない。
 往時の様相を知るものはほとんど残されていないが、火の見に懸けられた直径約30cm余の半鐘があり、それには、「下總國千田村令法山廣宣寺什宝 中古岩信徳院當住智滝 世話人サカイ幸左衛門隠居 チダ長左衛門 サカイ勘左衛門隠居 チダ利右衛門 施主銘々現女 善祈 弘化三年午(1846)五月吉日 (以下判読不能)」の字が読みとれる。

千田・路傍の小祠・石宮・石塔など 「多古町史 下巻」530〜

 ※風神様のみ転載する。
風神様
 字宮ノ前209番の2がその所在地で、鎮守諏訪神社参道入口である。
三差路の中心部が一段高くなっているところに立つ70cmほどの石宮で、次のように刻まれる。
「南無妙法蓮華経 風神守護 文政六未年(1823)六月十五日 西加茂 成田 奈免川(滑河) 酒々井 佐倉 江戸道 北た(多)古 かんとり(香取) 佐原 中村 松崎 小見川道 南山中 芝山 埴谷 いわとミ(岩富) 東か祢(東金)道 近郷世話人■■村願主織右衛門」。

船越

神社については、熊野・日吉社(2社)・高皇霊社・牛頭天王があるが、八坂社(牛頭天王)<下総の牛頭天王中>のみ転載する。

船越小島山実相院 「多古町史 下巻」958〜

 字堂島2041番地で、台地が東方へ岬状につき出ている部分にある小島集落の中央部に位置する。
由緒・縁起
 明治の『社寺明細帳』では
       千葉県管下下総国香取郡東條村船越字堂島
                天台宗 観音寺末 実相院
       (※現在天台宗の故、以下省略)
当寺は隣接する芝山町の天応山観音教寺の末寺である。
 観音教寺は天応元年(781)の創建と伝えられ、「芝山の仁王様」として親しまれている寺で、鎌倉時代には80余りの末院があったという。
 実相院は明治の『社寺明細帳』に記された後、年月は不明であるが、火災によってほとんどの資料を失ったため、その詳細を知ることはできない。

船越正円山妙立寺 「多古町史 下巻」960〜

 字堂島2031番にある。
牛尾方面より島集落に通ずる旧道から、丸山の方に向かう道が分かれる角で、かつては目抜き通りであったが、現在は西側に多古・横芝間の県道ができたため、街道から外れている。
由緒・縁起
 『社寺明細帳』では
        千葉県管下下総国香取郡東條村船越字堂島
                 日蓮宗 妙光寺末 妙立寺
  一、本尊   釈迦如来     一、由緒   元禄二年(1689)創立ノ由古老ノ口碑ニ存ス
  一、堂宇間数 間口弐間 奥行弐間    一、庵室間数 間口六間 奥行四間     一、境内坪数 百四拾三坪
  一、境外所有地 (省略)      一、檀徒人員 百弐拾四人
 という。
 『日蓮宗寺院大鑑』では、「文明十二(1480)年の創立。開山正円院日立。住職は潮師法縁。(大観には永仁五年〈1297〉一月十五日の創立、開山日朝とある)」として、旧本寺は中山法華経寺とする。
 この寺も無住の時代が長かったためか、寺伝については資料も散失して不明であり、伝承だけが残る。
それによると、島・水戸・船越三カ村の村境い付近の土中から本尊の釈迦像が出土したことからその地を釈迦台というようになったという。
 また、現在の島地域内の字釈迦台に妙立寺釈迦堂が建てられていたが、あるとき島に悪病が流行したことをこの堂の祟りであるとして取りこわし、それを船越に移して再建したともいう。
 とくに幕末から明治にかけては「子育釈尊」として多くの参詣者を集め、堂内に掲げられている絵馬には東京方面からの奉納者名もあり、釈迦堂天井に描かれた絵には繁栄時代の名残りが見られる。
 この子育釈尊の霊験は現在にも引き継がれ、幼児の夜泣き・虫封じのためとして、符札を受けに来る人たちも多い。
 その後に無住の時代を経て兼務住職彦坂玄孝師を迎えた妙立寺は、庵室も荒れたため近年それを取りこわし、青年館が建てられる。
 釈迦堂だけが残されているが、その回廊の擬宝珠には「下総国香取郡舟越村正円山妙立寺智芸代 御宝前 当所勝又庄左衛門 飴屋吉五郎 勝又初右衛門 佐瀬平次兵衛 嘉永三庚戌年(1850)十一月日 願主中村高田清次右衛門 当所山邊吉左衛門 鍋屋重蔵 勝又甚五右衛門」と刻む。
寺域内の石塔・奉献物
石燈籠:
「奉納御宝前大正六年十月  村宇井仙蔵」、石造手洗いに「御宝前明治十九年戌一月吉日 各邨信徒 子中 正円山三十一世日海代再興之 当村信徒中並総代人山邊武左衛門 宇井利平次 椎名七郎左衛門 鈴木金左衛門 多古川口幸吉鐫」。
題目塔:
「南無妙法蓮華経 高祖大士六百遠忌御報恩奉誦久遠偈五万巻 奉唱有題三千五百部 南無子育釈尊安置 元治元年甲子(1864)十月建之 正円山二十九世順孝代」
鰐口:
直径36cmほど、「本願主佐瀬権之丞母並ニ喜捨施入面々現安后善 奉納明治十三辰二月十五日正円山三十世日正代 子育釈尊御宝前」とある。
釈迦堂の右手に石塔場がるが、そのなかの石塔:
1.3mほどで、表に「天隨院利山貞翁居士 宇井佐富貞翁墓 文化十四丁丑(1817)十一月二十三日 無堂飛鳥園一叟はる人 辞世・われ仏雪にも仏あるものを(一句不明)筆弟中 文化十三丙子四月八日立之」とあり、願主舟越村のほか現在の八日市場・佐原二市と、野栄・光・栗源・芝山・横芝町から蓮沼村にかけて四一カ村の名が刻まれている。
 (※以下省略)

船越法性山大立寺 「多古町史 下巻」963〜

 字堂島2022番にある。
集落のほぼ中心地で、多古から横芝へ向かう県道ぎわに見える石段を登ったところである。
かつては妙立寺門前あたりからその参道があったが、県道工事によって移動したという。
由緒・縁起
『社寺明細帳』では
       千葉県管下下総国香取郡東條村船越字堂島
                日蓮宗 誕生寺末 大立寺
  一、本尊   三宝祖師     一、由緒   天文廿三甲寅年(一五五四)二月創立
  一、堂宇間数 間口七間三尺 奥行五間三尺     一、庵室間数 間口四間 奥行六間
  一、境内坪数 三百九坪     一、境外所有地 (省略)     一、檀徒人員 四百五拾四人
 この由緒については、寺にわずかに伝えられる文書の一節に、後年になってから書かれたと思われる「追記」があり、
創立者 領主千葉氏胤仲公三男法性房ト云フ、始メ真言宗ナリ、志摩村妙光寺開祖日朝聖人ト俗姓ノ兄弟故、法ヲ論ジテ帰伏ス、号ヲ日意ト改メ、壱宇ヲ建立シ法性山ト号シ、地所ハ領主ヨリ賜之、宝永四丁亥(1707)九月本山誕生寺歴世大中院日孝聖人代末寺ト成ル
 
とあるが、この胤仲が飯櫃城主山室氏に敗れて自害したという時期について、『山室譜伝記』には弘治元年(1555)、『多胡由来記』には天正十三年(1585)とし、高根の親社権現にある碑文はその没年を慶長十七年(1612)と記す。
 また日朝については、弘安年中(1278〜88)多古妙光寺を開基して弘安六年(1283)に没したことが同寺縁起にあり、唐竹(南中)妙光寺はその寺記に貞治三年(1364)日朝によって建立されたことと、その没年を応安六年(1373)と記す(日朝については通史編中世「多古妙光寺の成立と一円法華」の項参照)。
 いずれにせよ、胤仲の三男法性坊(後の日意)が、日朝と「俗姓ノ兄弟故、法ヲ論ジテ帰伏ス」とする右の追記は、胤仲と日朝両者間の最も近い没年をとってみたとき、そこに一八二年ものひらきがあることからしても、十分に注意して見る必要がある。
 多くの文書・什宝類は、昭和七年三月三十一日夜類焼による火災のため伽藍とともに焼失する。
 その後檀家の努力によって同九年一月三日から堂宇の再建に着手し、同年三月二十八日に落成開堂供養が行われる。
寺域内の石塔・石碑
題目塔:
三段の礎石の上に1.3m余の石塔が立ち、「南無妙法蓮華経 文久三癸亥年(1863)十月日建之佐瀬一門先祖代々家内安全檀方中施財之面々現安後善 為修善院法達日行信士 善達院妙修日解信女菩提 高祖大菩薩六百遠忌御報恩自他倶安同帰常寂」
題目塔:
高さ約1mあり、「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩奉勧唱題目一万部奉擬五百遠忌報恩 天明元辛丑年(1781)十月十三日 祖中一結 法性山十二世妙寿院」
鬼子母神塔:
高さ約90cm、「鬼形鬼子母尊神御宝前 南無妙法蓮華経 奉読誦久遠偈一千部成就 弘化四年丁未(一八四七)九月 供養砌講中一結謹立之」
大黒塔:
高さ63cmほどで、「奉誦久遠偈一万巻成就攸 南無妙法蓮華経 南無大黒尊天神 当応今世得現果報法性山十四世日旋代 甲子講造立 享和四年甲子(1804)二月四日」
鬼子母神塔:
高さ72cm、「若悩乱者頭破七分 南無妙法蓮華経 鬼子母尊神 奉読誦久遠偈壱千五百部 文久元辛酉年(1861)九月日 堂谷講中」とそれぞれ刻む。
歴代碑:
高さは約90cmで、「当寺開基日意上人 二世日現 三世日正 四世日惺 五世日運 六世日瑞 七世日要 八世日長 九世日幽 十世日良 十一世日宝 十二世日泰 十三世日深」とあるが、その後歴代は日忠・日俊・日方・日奉・日苗・日聴・日量・日基・日浤・日芳・日照・日量・玄角・日健・亮延・日雄・日音と続き、昭和二十二年五月以降は、現住職の三十一世澄心院日豊(彦坂玄孝)師によってその法燈が守り継がれる。
(※残余の碑は省略。)


船越・路傍の小祠・石宮など 「多古町史 下巻」968〜

妙見宮:
字戸上1741番にある。第三小学校裏の丘上で、その参道は急坂となる。50cmほどの石宮で、「妙見大菩薩 昭和二十五年旧正月 椎名安次之立」。

(※稲荷社、八幡社、浅間社、弁天社、弁財天宮などの小石祠、庚申塔、道祖神(多数あり)などは省略)


牛尾(うしのお)

牛尾戸崎山宝幢院密蔵寺 「多古町史 下巻」1000〜

 字戸崎343番にある。牛尾城跡に近く、門前を通って多古町から横芝町へ向かう県道はここからほどなく芝山町へ入る。
 牛尾にはかつて、当寺のほかに聖任寺、東光寺、長谷寺、福万寺、虚空蔵寺、霊養院などの寺院があったとは村人の言であるが、いまではその跡さえ明らかなものが少なく、残っているのは密蔵寺一カ寺だけである。
由緒・縁起
明治の『社寺明細帳』では
    千葉県管下下総国香取郡東條村牛尾字戸崎
                                真言宗 真福寺末 密蔵寺
      (※真言宗にて、以下省略)

大原・東台・中佐野・東佐野・染井 --------------------

大原

大原天御中主神社 「多古町史 下巻」711〜
  <下総多古町の妙見社中>

大原観音堂跡(成就院跡) 「多古町史 下巻」713〜

 かつて大原村は、不受不施宗徒のあいだでは著名な存在であった。
同派の関係古文書にはしばしばその名が見られ、多古町東部や八日市場市東北部、東庄町北西部の不受不施宗徒の家に、大と焼印のある仏具を見ることがある。
この大印は大原村の大とも大谷家の大ともいわれる。
 大谷家は、不受不施派史料として重要な日奥の『諫暁神明記』やその書簡(後記)などを所蔵していることからみても、当地における中心が同家であったことは事実であろう。
 徳川時代には表面はともかく、全世帯が不受不施派を内信していたが、現在では不受不施宗派の世帯九戸、日蓮宗四戸、真言宗一三戸である。
そしてそれぞれ島・飯笹・井野・染井・多古の寺の檀家にわかれ、集落内に寺院はない。
 正徳二年(1712)の水帳には、字荒神の前行に「長四間、横三間、屋舗拾弐坪、分米四升」として、成就院持ちの寺地所の存在が記されている。
さらに明治初年の戸籍簿には「喜多村九拾弐番地所 官有地真言宗成就寺」の名が見られ、寺院の旧跡といわれている墓地と隣接する観音堂跡付近に、この成就院があったことを証している。
 徳川期の不受不施派弾圧に当たって、この村には深い法難の傷跡を残していないが残されていた資料も少なく、それも重要資料として、研究者の手に渡ったまま行方不明になっていることから、その間の事情についての詳細をうかがい知ることはできない。
 口伝に、寺院と並んで観音堂が建っていたとのことで、後年堂跡の畑地から金色の観音像が出土したことがある。
その観音堂跡といわれている一隅には、成就院住職の墓印であろうかなかば朽ちた卵塔があり、「権大僧都法印定賢 延宝六戊午(1678) 月十三日」と刻まれている。
 寺院跡といわれる字北の内435の2番は墓地になっていて、入って左側に、砂岩で造られた方形家型で正面に鳥居の付された墓石が五基並べて建てられている。
そのうちの二基には文字が刻まれていて、一基には「寛永四年丁卯(1627)今月今日 逆修善根七分全得」と読みとれ、次の一基には「天和二壬戌(1682)九月四日」とだけ刻まれている。
 ここに、不受不施派の中心となっていた大谷家の遠祖に、同派宗祖日奥が送った書簡の一部があり、次に参考として載せる。
この宛名の「道清」は、大谷惣右衛門家四代目の当主の不受不施宗名で、書簡末尾の日付三月二十八日は「慶安四年(1651)三月二十八日」であり、不受不施派の第一回法難後、道清の援助に対する謝礼の書簡である、と伝えられている。
  (前欠)
 呈々御侭力増遣候由ノ段 令■■候 貴老事朝暮芳書喜悦無極候 仍申出馴敷存斗 右本尊ノ事並善五郎■いつ可与路(かよろ) く一■年 筆之儀調上候侭力之段奇来之苦労ニ根気疲候間■妙至極ニ候 持上為御音信再会難期ハ申度事 銀子三匁 又善五郎分五匁両山候へとも 万方江紛候而■■慥令相遅候事情候段喜入候 善空其外皆々無事ノ由目出度候 爰本仏法繁昌申候間可御心易候 時刻到来候者 令帰路万々可申述候為期後音候 恐々謹言
   三月廿八日                                   日奥(花押)
    道清老江
 何分にも時代が古く、判読困難の箇所もあり、その上書き方が「散らし書き」にしたためられているので、いっそう意味が取りにくい。これは書簡の後半分らしく、先きの半分の行方は不明である。

東台

村の起こり 「多古町史 下巻」670〜
  (※前略)
 このあたり一帯が千田庄原郷と呼ばれていたことは、数多の史書に記されているところである。
ここに、その事実を裏付ける反面、幾つかの謎を投げかけている一枚の板碑が現存している。
その板碑はかつて池畔の踏板とされていたものを、破損、散逸を憂えた郷土史家達によって、現在地の星之宮神社境内に移されたものといわれているが、最初に発見され、置かれてあった場所はどこか知るよしもなく、また古老も知らない。
東台板碑
 その碑には次のような文字が刻まれている。
       平喜阿
  右意趣者為
  一結百五十人
  逆修 先 
  廿八人〓(菩提)也
  永和元年[乙卯]
  四月廿五日敬白
 台石には、「昭和三十六年二月二十六日再建 多古町郷土誌編集委員会 石工南栄司」とある。
まずこの文面を文字どおりに考察してみると、永和元年(1375)四月二十五日に平喜阿という人物が、同志一五〇人の生前供養と、すでに亡くなっている二八人の人々の菩提を弔うために建てたものと解釈される。
 建立者であろうと思われる平喜阿とはいかなる人物であるかを知るために、永和のころこの地方の統治者であった千葉氏を『松蘿館本千葉系図』によって調べると、十五代千葉介貞胤の項に次のような一節がある。
 (※以下省略)
 千葉介、元弘三年(1333)五月十六日始テ義貞(新田)ニ属、武蔵金澤貞將ト武州鶴見ニ戦有功、建武二年(1335)十一月八日伐尊氏(足利)、建武四年(1337)正十二月日北国下降義貞ノ後陣トナル、五百騎ニテ打ケルガ雪ニ道ヲ迷ヒ、味方ニハナレ敵陣ヘ迷ヒ出、尾張守高經インキンニ使ヲツカハスユヱニ高經ニ属スト、参考太平記ニ出、観応二年(一三五一)正月朔卒年六十一、法名喜阿弥陀仏号浄徳寺。
 この一文によれば、平喜阿なる人が十五代千葉介貞胤であることになる。貞胤は千葉氏総本家の統領で千葉城の城主である。
 この貞胤の活躍したころは建武の中興が行われた時代で、朝廷方に味方して、官軍として一身の繁栄をはかるか、ときの将軍方について安泰を得るか、国の政治の実権を旧に復そうとする朝廷方と、武力によってこれを奪おうとする武家方との間に立つ地方武士は、身の去就に心を悩ました時代でもあった。
 千葉氏のみでなく、関東の豪族は、ときに、父子、兄弟相分れて戦ったのである。多古町域では建武三年(1336)七月二十七日に千葉城主貞胤軍が、千田庄軍を攻めた土橋城の戦があり、それは今に伝えられている。
 こうした社会情勢であったために逆修、すなわち自ら生きているうちに己の菩提を弔うようなことが行われたのではあるまいか。
 このほかにもこの碑には疑問がある。まず建立の時代である。碑文に刻まれた永和元年(1375)には、法号を平喜阿といった貞胤は正平六年(1351)すでに没して孫満胤の時代になっている。さらに千田庄を攻めた貞胤の供養碑がなにゆえに千田庄内に建てられたのか。さきの『松蘿館本千葉系図』では貞胤の法名が喜阿弥陀仏となっているが、『千葉大系図』では善珍常徳法阿弥陀仏となっている。また逆修についての考え方も狭義であるかもしれない。今にわかにこれらについてを立証することはできないが、町史における今後の課題として重要なことであろう。
 見方によっては、史上に名をとどめる武将の供養塔が建てられ、建武の時代に彼我攻防の的となっていたことは、この地が戦略の拠点であり、それだけ開拓や文化の進んだ土地であったことを如実に物語るものといえよう。

東台本還寺跡 「多古町史 下巻」675〜

 ここは不受不施派信仰の村である。村人は徳川時代の長い弾圧の期間、ひそかに不受不施の教えを信じながら耐え抜き、今なおこぞってこの宗派である。
それだけに祖先崇拝の諸行事は昔のとおり固く守られていて、墓地なども毎月一日、十五日には必ず清掃され、さながら公園のように清浄な場所である。
 長い弾圧の歳月の中で生きる手段として、表面上は受派である一般的な日蓮宗徒として寺院も造営したが、禁制を解かれた明治九年以降は受派の寺を離れて本来の不受不施派を標榜して、字妙見前997番地の1に不受不施派教会所を造り、永年にわたる悲願を果たした。
 やがてこの教会は隣の中佐野へ移されて、今もその務めを続けている。旦那寺は島の正覚寺である。
 偽受派信者を檀家として、禁教信者を追求の手から護り続けた寺院の跡をたずねると、その一つは字向下978番地の1にあって、集落の中央に位置し、現在は集会所が建てられている。明治の『寺院台帳』では
     千葉県管下下総国香取郡多古町喜多字向
                                     誕生寺末 本還寺
  一、本尊   釈迦如来     一、由緒   不詳
  一、堂宇間数 間口六間 奥行四間     一、境内坪数 百弐拾弐坪     一、住職   小野錬雄
  一、壇徒人員 弐拾三人
 また、区有文書の中に同寺の半鐘が盗まれたときのことを記した次の一文がある。
   盗難届書
                                千葉県下総国香取郡喜多村
                                  用係代組長 木内小左衛門
 右奉申上候。私村内66番地日蓮宗東台山本還寺、本堂軒下へ半鐘壱箇掛置候ヲ、本月廿一日午前十時頃、右寺隣家ナル柳川七郎兵衛、不相見趣用係り宅迠届申出候ニ付、旦方ノ者自分共ニ立会心当り相尋候得共見当不申、紛失ノ品左ニ
一、半鐘  壱箇
  但 差渡シ壱尺五寸位    目方拾五貫目位   此代金拾弐円位     銘・寛文六年(1666)五月日
                                千田庄大原郷東台村
                                  寄附人 佐藤五郎兵衛(※以下7名省略)
 
 右品近傍所々相尋候得共、更ニ行衛不相分、全ク盗賊之所業ト存候。此段御届申上候  以上
                                  右檀中惣代 組長 木内小左衛門 印
   明治十一年十二月廿二日
     千葉県令 柴原 和殿
  そしてこの寺跡から最近移されたという石塔三基が妙見前墓地の一隅にあって、それぞれ次のように刻まれている。
  (正面)「南無妙法蓮華経日蓮大師 文政十二己丑年(1829) 正当五百五十稔」
  (左側)「奉唱玄号一千部成弁処 元禄十年丁丑(1697) 東台一結男女」
  (右側)「奉唱玄名一千部五百遠忌報恩謝徳 天明元年壬(辛)丑年(1781)十月十三日 東台山本還寺惣檀中」
  (正面)「文碩院 眉聖人(右側)天保六乙未(1835)十二月七日」
  (正面)「心成院日政聖人 天保十五甲辰年(1844)九月二十四日化」
 
 こうして石碑や古文書を見る限り、本還寺は元禄十年(1687)から明治十一年までは、受派寺院として存在していたようである。
大正期になってからは寺院台帳にその寺名をとどめるのみで、寺院の建物は村の集会所のような役割を果たすのみであった。
そして、そのころから本還寺の寺籍は秋田県の某所に移されたといわれているが、明確にはわからない。
 さらにもう一カ寺あったということであるが、その在所が何処であるのか、古老もそれを知らない。ただ、次の文書によって存在の事実だけは証することができる。
     売渡し申一札之事
  一建家壱棟 但し表間口  四間  奥行   弐間  外ニ九尺大飛(ひ)さし
    代金拾円也
   右者我等取持之建家壱棟 此度貴殿方へ売渡し 代金正ニ受取申候也
                                   第百十番 地主荘巖寺
     明治五壬申年十一月
      加藤 い登 殿

東台・路傍の小祠、石宮など 「多古町史 下巻」679〜

 不受不施派として強い団結を維持し続けたためか、他の神仏に対する関心は極めて薄い。
したがって、信仰の対象物となる小祠、鋳造物、石物などはほとんどない。
  (※妙見・題目塔のみ転載する。)
◆東台星之宮神社:<下総多古町の妙見社中>

◆東台題目塔:  「多古町史 下巻」
 羽黒台524番の5にある。広い畑の中央にただ一つ建てられている。
正面には「南無妙法蓮華経観世音」、右側に「享和元辛酉(1801)十一月吉日」、左側に「中佐野村 東台村郷中」と刻まれていて、この石塔北側に斃馬捨場(そますてば)があったといわれるが、あるいは廃馬を弔うために建てた馬頭観世音塔のようなものであったかもしれない。

中佐野

<中佐野>不受不施派に対する弾圧  「多古町史 下巻」641〜

  →日蓮宗不受不施派の法難に転載

中佐野妙道寺跡  「多古町史 下巻」650〜

 前にも述べたように、内信者として固く不受不施を信じながらも、表面的には受派でなければ厳しい弾圧をくぐることは不可能であったことから、人々は字谷の内九二一番地にあった妙道寺を仮の菩提寺とした。同寺について明治の『寺院台帳』には次のように載せられている。
   千葉県管下下総国香取郡多古町喜多字谷
                                  日本寺末 妙道寺
一、本尊   釈迦如来
一、由緒   不詳
一、堂宇間数 間口六間 奥行四間半
一、境内坪数 弐百坪  民有地第一種
一、住職   増田智行
一、壇徒人員 五拾人     以上
 このように由緒不詳となっているが『年中行事』は次のように記している。
 一、元禄十二年卯(一六九九)六月十四日晩五ツ時分ニ当村妙道寺焼出(ママ)ス 翌年建立成就
 一、文化六年己巳(一八〇九)十月十九、廿日客殿修覆諸尊開眼供養
 一、諸掛〆(文字記入なし)
 一、寄進〆金拾両余
 一、玄米 白米〆九俵也
 一、打ならし 壱ツ
   江戸信者四谷より寄普
 一、縁の細  三反
 右者 六側也 恵光師之代
 
参詣数多天気■一夜 二日無滞両日朝之間 陀羅尼品衆僧拾余人 法事修行中村壇林よ里 御当役 椿村海旭師両日読法金仁朱奉納宗祖大菩薩御衣替代金三歩也
三宝様御洗濯並修覆代金三歩也
御厨子直シ代金壱歩仁朱也
右者左原町大仏師左仲
〓(時)之住僧恵光師之代寄晋之覚(以下略)
 
 このようにして文化六年客殿の修覆と諸尊の開眼供養が行われ、つづいて天保九年(1838)門前の石段が造られ、天保十三年(1842)には門石が建立された。
 そして嘉永七年(1854)二月四日からは寺金の貸付けが始められた。
この制度は別名「資堂金」とも呼ばれ、寺院維持資金を運用して一定の元金を村人達に年利一割ぐらいで貸付け、その利子をもって寺の維持費に充てる方法で、各寺院で広く行われた。
初めは堂塔の建立を目的として行われたために「資堂金」と名付けられたらしいが、だんだん運営維持資金となり、元金も寺によっては本寺から借り受けたりすることもあったらしい。
妙道寺では、元金の六両二分は新五右衛門祖母が寄進し、貸付けは村内二〇軒に平均割で貸したようである。
 現在同寺跡には、昔日を偲ばせるものとしては庭先の火の見に掛けられている半鐘一つがあるだけで、その刻字は次のとおりである。
奉誦久遠偈一万巻 右之志意趣者 半鐘建立施入之面々志処之諸精霊仏果菩提並各現当二世為祈禱
  下之総州香取郡千田庄中佐の村
   元文二丁巳天(一七三七)十月十三日
     妙高山妙道寺 十二世日啓
 為先祖両親菩提功徳施主 萩原重郎兵衛
 為先祖両親菩提施主 佐久間吉兵衛
 為父覚往院玄理菩提施主 大木新次郎
        惣旦那中
 為法順院宗賢■ 施主
      東台村 佐藤(ト)氏 茂平次 市郎兵衛 次郎左衛門 清兵衛 同栗山妙智 大石氏 妙寿 同おみき 同おとも
      石田屋孫三郎 間宮氏
      江戸神田住西村和泉守作
南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦文仏 鬼子母神 法華守護三十番神 十羅殺女

中佐野喜多教会の設立  「多古町史 下巻」652〜

 このように、一宇一堂ずつ造営された妙道寺も、明治九年に不受不施派の禁制が解かれると、抑圧されていた反動もあってか檀徒は一斉に不受不施派へ走り、寺は見るみるうちにさびれていった。
これは改宗というよりも内に秘められていたものが爆発的に発散したと見るべきであろう。
 不受不施派の隆盛につれて檀家を失った妙道寺のさびれ方はひどく、大正10年に管長大僧正河合日辰宛に提出した各申告書には、「本堂十坪、庫裡九坪、仏像、一塔、両尊四菩薩、宗祖大師」として、寺院の面目は保ってはいるものの、住職は東松崎顕実寺住職増田智行の兼務となり、檀家は、医師佐久間宗徳、農小野田繁次郎、同清宮福太郎の三世帯一八名のみとなった。
間もなくこの檀家も離れて、登記簿に名をとどめるだけの寺となり、昭和33年には建物も取り払われて新しく佐野会館が建てられた。
 一方、本来の不受不施派に立帰り妙道寺から離れた人々は、信仰の拠りどころとしての場を持つために、近郷の人達に呼び掛けて、中佐野25戸、東台19戸、大原5戸、林6戸、岩山2戸、船橋1戸、佐原2戸計60戸で喜多教会と名付ける題目堂を東台字妙見前997番地へ建立することとし、明治18年四月十七日に日龍上人を招聘して上棟式を行った。
同20年十月に宝堂、同24年十二月に食堂が建てられ、本尊の祖師尊像は東京の信徒から寄贈を受け、同26年に内陣須弥壇が完成した。
 しかし明治8年以来日正などの再興出願から、同9年四月十日をもって禁制を解かれ、各地で信徒の数が日増しにふくらんでいくなかで、同30年を過ぎたころから、禁制打破の功労者である法主日正と補佐役日龍の間に、宗制についての見解の相違が目立つようになった。
日正は、古来不受不施信徒は同宗の者以外とは交わらず、また伊勢神宮などのお祓いを請ける事を嫌ったりするが、このようなことを改め、もっと他との交流を自由にすべきであると唱えた。
これに対して日龍は、古法護持こそ不受不施派の面目であるとして互いに譲らず、対立を深めていったのである。
そして、遂には日龍が身を退くという事態となり、この波紋は喜多教会の信者間にも及んだ。
 一日も早く日正・日龍の両師が和解して「衆生教化」の本道に立還るべきだとする和融組と、自ら退身して結果的には不受不施派から離れた日龍を支持する信徒を教会に出入りさせる事は謗法であるとする組との間で内紛が起こった。
そして同34年十月十九日に和融組の大原5戸、東台5戸、中佐野7戸、林2戸の19戸は喜多教会を離れて島正覚寺の直轄檀家となる。
以来七年間信仰の争いに妥協はなかったが、大正3年に至って両者に和解が成立し、和解条件にそって東台に建てられてある喜多教会は、歴史的使命を果たしたとして取り壊されることになったが、建物の一部は現在地の字神の上949番地へ移築されて立派に存続している。
   →備前法華の系譜>不受不施派の分派>明治以降の分派>日龍派 参照
 そのときの和解条件や内容はおよそ次のとおりである。
   和解条件
香取郡多古町喜多東台字妙見台九百九拾七番地ノ宅地外二筆及同番地ニ在ル題目堂壱棟ヲ 明治三十七年九月ヨリ双方不和ノ為メ共有保持シ分配スル事能ハザリシ処 今回双方協議ノ上分配方法ヲ協定シ和解スル事左ノ如シ
一、宅地三筆ヲ大谷徳治郎外二十三名ニ名義変更スル事
一、題目堂壱棟此代金七拾円也 内金弐拾円ヲ売却費トシテ残金五拾円ヲ小野田繁次郎外三十九名ニ渡ス事
一、金拾円を宅地公課立替人大谷徳治郎殿ニ返ス事
  但シ双方ヨリ金五円宛ツ出ス事
一、以前ヨリ双方ニテ預リ又ハ保管等ナシ在ル物品ハ其侭ニテ異議無之事
一、明治三十五年九月二十六日双方協議ノ上題目堂ヲ閉鎖致シ 其節取為替置キ候契約証ハ 尓来無効タルベキ事
右和解条件二通ヲ作成シ 双方一通宛所持シ異議ナク協定候也
   大正三年七月十六日
                                      和解委員
                                         大谷徳治郎 印
                                         萩原 長吉 印
                                         佐藤蔵右衛門 印
                                         山口 庄蔵 印
                                         松本 良助 印
                                         清宮岩太郎 印
                                         木内敬三郎 印
                                         加藤 佐市 印
                                         小野田繁次郎 印
                                         鈴木喜三郎 印
                                         大谷多喜司 印

中佐野・路傍の小祠・石宮など  「多古町史 下巻」655〜

 他宗との交わりを避けるというより、他宗をきびしく排撃するほど激しい教義を持つ不受不施派信仰の集落だけに、他と比べて野仏や石宮の数はいたって少ない。
  ※道祖神、馬頭観音、稲荷、天神社などあるが、喜多教会所の建物の一部が移建された所には辨天社がある。
弁天社:
 字谷ノ内九四八番にあり、この社ぐらい建立の来歴を明らかにしているものは少ない。『年中行事』の一節に次のように記されている。
「惣社弁天宮之建立之儀ハ、同(享保)十六年亥(1731)六月より企チ(テ)九月十月(日)より細工以たし極月(十二月)十五日ニ建立成就ス。
其節歳番役与惣兵衛 長五郎、大工ハ多古村之儀右衛門(ニ)シテ東台平七郎、木挽同村太兵衛、委細ハ棟札ニ記ス。
別ニ某御経ヲ十巻奉誦御開眼仕御札奉納者也。
右社地ハ長五郎 善兵衛 与惣兵衛居山社地ニ寄進シ、社地の普請成就ス」とあり、高欄・擬宝珠の金具には「下総国香取郡中佐野村鎮守弁才天女守 享保十六辛亥年霜月吉日 作小幡内匠」と刻まれていて、月日などについて差異はあるものの創始年は符合している。
そしてこのころは弁才天が村の鎮守であったようである。
また、この時代に建てられて残っているものは前記の擬宝珠だけで、木造部分は昭和四十六年の山崩れによって潰され、現在はコンクリート造りのものになっている。

東佐野(とうざの)

東佐野満福寺跡  「多古町史 下巻」614〜

 現在当集落に寺院はない。
家々の宗旨には日蓮宗と真言宗とがあって、菩提寺も染井妙暹寺、多古妙光寺、飯櫃(芝山町)蓮福寺に分かれている。
 寛文六年(1666)の名寄帳には、「遍照院屋鋪三畝九歩」と記されていて、明治四年宮谷県庁への届書にも、「新義真言宗遍照院 境内御年貢地六拾四坪」とある。さらにその後の社寺台帳には、次に見られるように「満福寺」の名が載せられている。
 ※満福寺は真言宗、蓮福寺門徒である。

染井

染井の遺跡・旧蹟
・染井古墳群
 昭和33年、多古高校社会科クラブの調査報告によれば、地内に前方後円墳2、方墳3、円墳26、計31基の古墳が群をなし、2基の前方後円墳はそれぞれ長さ40m、高さ3.2m。長さ20m、高さ2mである。円墳26基中、すでに畑として開墾されているため計測困難のものが9基、他は方墳ともに直径20m以下、高さはおおむね2m以下で、ほとんどは原形をとどめていない。
 (※次の旧跡を転載し、残余は省略)
・染井妙福寺跡
 妙暹寺わきを登ったところに妙福寺跡がある。同寺は小湊・誕生寺の末寺で、通称「上の寺」と呼ばれていた。
明治30年、本山を同じくする妙暹寺と合併した。
・染井正徳院跡
 字正徳院にある。此所にかつて正徳院という寺院があったことから字名となった。
「正徳院塚」と呼ばれた長さ30mの大きな塚があった。昭和33年ごろ調査し、後に畑に造成して地区民に分譲した。
・染井日増断食跡
 口伝に、集落地域内に日蓮宗不受不施派僧日増が、同派に対する幕府の弾圧に抗し、自ら断食死したという断食跡があるといわれるが、確認できなかった。なお、寛文九年(1669)渡邊治左衛門に授与した題目曼荼羅がある。

染井・宗教/神社・寺院  「多古町史 下巻」763〜

 明治まで村内に妙暹寺・妙福寺があり、いずれも日蓮宗寺院で、住民はことごとく同宗の信者である。
多古妙光寺はもと染井原小井戸のあたりにあったという。
 かつて住民は真言宗を信仰していたが、延文四年(1359)中山法華経寺の三世日祐が原法華堂供養にきて、法華弘道の百日説法をし、近郷の男女がことごとく改宗したとの説がある(妙印山縁起)。
   →日祐百坐説法塚・・・日円上人塚の直ぐ西にある。
 また村内に山王権現(三輪大神)を勧請して産土神とし、古くからの民間信仰として道祖神・庚申・馬頭観音などを祀り、月待ち、日待ち、風法楽などがある。

染井妙印山妙暹寺(みょうせんじ)  「多古町史 下巻」765〜

 字染谷358番地にあり、一塔両尊四士式本尊を安置する日蓮宗の寺院である。
寺伝に弘安中(1278〜87)常在院日朝の開基とある。
 本尊の周囲に、釈迦の二脇士といわれる獅子に乗った文珠、白象にまたがる普賢両菩薩と、不動・愛染明王。持国・広目・多聞・増長の四天王を配し、また本尊左壇に清正公、右壇に鬼子母神と十羅刹女が祀られている。
 また二体の祖師像があるが、別壇の像には「開祖朝公御作 冠鍋親師随身仏 御胎籠高祖大菩薩」の銘がある。祖師像のわきに開祖日朝、冠鍋日親の像がある。これは文化十四年(1817)祖師像納堂改修の際に刻んだものである。
 なお、同寺の山号「妙印山」は多古妙光寺と同号であり、特殊な関係があるように思われる。
多古妙光寺も日朝の開山であり、日朝が隠居寺として創建したところから、同一山号を称したとの説がある。
 門前に天明元年(1781)九月建立の宗祖五百遠忌碑、寺内墓地に明和九年(1772)五月建立の開山日朝の四百遠忌碑がある。
境内北側上に鬼子母神祠がある。
 明治の『社寺明細帳』では 
    千葉県管下下総国香取郡多古町染井字染谷
                                   誕生寺
                                     日蓮宗 妙暹寺
  一、本尊   釈迦仏       一、由緒   不詳
  一、堂宇間数 間口六間三尺 奥行五間    一、境内坪数 弐百参拾四坪 民有地第壱種
  一、住職   霧生玄尚     一、檀徒人員 弐百九拾八人
 とある。
○「日蓮宗不受不施派読史年表」
円乗院日秀(透)  p.112


染井・路傍の小祠・石宮など  「多古町史 下巻」767〜

題目板碑
 妙暹寺境内に二基の下総式板碑があるが、摩滅して銘は読めない。
また同寺北上の共同墓地に二基の下総式題目板碑がある。
一基は高さ66cm、幅59cmで「為父母三十三年并道妙也 応安七年(1374)七月廿六日」。
もう一基は高さ78cm、幅37cmで「右為妙■■■七分全得也 永■(享)六年甲寅(1434)七月日」とあり、ともに、「千葉県史料・金石文篇」に載せられている。
 (※残余のものは省略)

----------------------------------------------------------------------------------------------------

下総中山法華経寺

 →中山法華経寺

下総平賀本土寺

 →平賀本土寺

下総原木山妙行寺

現在は単立と思われるも、近世は中山法華経寺末。
六角二重塔を有する。
 → 下総原木山妙行寺

下総真間弘法寺

 →真間弘法寺

下総大野法蓮寺:市川市大野町

 開山は日蓮上人の大檀越曽谷教信。後に曽谷教信は出家し、日蓮上人より法蓮日禮の法号を授けられる。
建治3年(1277)、下総大野の地(現市川市)に一寺を開き、自身の出自と法号から曽谷山法蓮寺と号する。
なお寛文の法難で、伊予吉田に追放となった日完は法蓮寺18世。
 ※大野法蓮寺日完は不受不施派(寛文の法難)後六上人から外される。その事情は→江戸青山自證寺日庭を参照。
 →日完については「備前法華の系譜」中にあり、「日完」のワードで検索<ctl + F>を乞う。
平賀本土寺末。

現在、充行院、圓行院の寺中がある。


上総の諸寺

上総茂原藻原寺
 →茂原藻原寺

上総鷲巣鷲山寺
 →鷲巣鷲山寺

勝浦妙潮寺
末寺:尾張一宮真浄寺


安房の諸寺

安房小湊誕生寺
 →小湊誕生寺/両親閣妙蓮寺

安房本行寺
三間二層堂を有する。


武蔵の諸寺

武蔵柴又帝釈天

 →柴又題経寺

武蔵谷中感應寺

 →谷中感応寺(現天台宗)

武蔵雑司谷法明寺

 →雑司ヶ谷法明寺

長徳山妙行寺

法華宗陣門流、東京都豊島区西巣鴨4-8-28 多宝塔を有する。
 → 明治以降の多宝塔722

武蔵池上本門寺

 →池上本門寺

江戸土冨店長遠寺

台東区元浅草2-2-3
長遠院日樹上人の開創と伝える。
 → 江戸土冨店長遠寺

江戸市野倉長勝寺

大田区中央6-6-5
日樹上人供養塔がある。
 → 江戸市野倉長勝寺
2019/07/28追加:
覺應山と号する。正保3年(1646)創立。開山陽善院日繕。開基檀越田中長勝。
寛文元年(1661)下総大野法蓮寺日完の開眼銘のある日蓮上人坐像がある。
 →日完については「備前法華の系譜」中にあり、「日完」のワードで検索<ctl + F>を乞う。
銘によれば、この像は正永山了性寺の祖師像として開眼するという。おそらく、了性寺も寛文の法難に連座して、祖師像が長勝寺に遷されたのであろう。
さらに長勝寺は池上本門寺末から小湊誕生寺末に転じ、日樹上人の供養塔もある。
 ※不受不施派から悲田派に転じ、その後受派に接取されたものと推測される。

原宿妙圓寺

2019/09/03追加:
サイト:猫の足あと>蓮光山妙円寺|安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の信仰 に詳しい情報がある。
以下上記ページの要約
「渋谷区史」による妙円寺の縁起 では
妙圓寺(原宿一丁目六四番地):小湊誕生寺末、蓮光山と号する。
寛永4年(1627)円成院日光が四ツ谷千日谷(今の鮫河橋八軒町)に草菴を営なみ、それが妙圓寺となる。
その後荒廃するも、立正院日寛が、小湊誕生寺26世日孝の依頼を受けて入寺、整理する所あり、宝永3(1706)年穏田村の檀家百姓又兵衛の寄進地(現在地)に移る。
なお、熊野権現の別当であつた。熊野権現も穏田村にあり。日光の勧請する所で、その後安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の再建にかかる。
前田氏は、本寺の造営にも力を添えたものと見えて、現存の寺門の瓦には、前田氏の梅鉢の家紋がある。
寺宝に、浅野光晟の室前田氏が自写せる法華経八巻を蔵し、萬治二年(1659)二月の奥書がある。熊野権現に奉納したのを神仏分離の際、本寺の有に帰す。前田氏、名は満、利常の女、法名を自昌院英心日妙という、元禄13年(1700)7月27日に歿す。
2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収)
 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺を創設する。
すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院↓)を建て千駄谷に移す。
開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。
妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。
 東都青山絵図:安永年中(1772-81)/妙圓寺が描かれる。

千駄谷仙壽院

2019/09/03追加:
サイト:猫の足あと>法雲山仙寿院|紀伊藩徳川頼宣の生母お萬の方の発願、新日暮の郷 に詳しい情報がある。
以下上記ページの要約
「渋谷区史」による仙寿院の縁起 などでは
仙壽院
甲州巨摩郡本遠寺末。法雲山東漸寺仙寿院と号す。
はじめ寛永五年(1628)紀州家の山屋敷(赤坂喰違屋敷の一部)に草庵が設けられ、正保元年(1644)十一月現在の場所に移して寺としたことが、文政の書上にある。「江戸名所図会」によれば、當寺は紀州頼宣公御母堂養珠院日心大姉、正保紀元甲申草創あり。當寺の鬼子母神は、同大姉の延嶺(甲州身延山)にして、霊示を感じ。大野の邊の土中に得られて後、當寺開創、落成の日、安置ありしとなり。と記されている。
江戸期には、境内四千六百五十三坪を有する。
開山は里見日遥(一源院日遥・安房の太守里見義康の次子)、日遥は後に飯高檀林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村村田妙法寺へ瑞世した。日遥を祖とする千駄ヶ谷法類は、当山を縁頭寺とする。
2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収)
 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺↑を創設する。
すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院↓)を建て千駄谷に移す。
開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。
妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。
 東都青山絵図:安永年中(1772-81)/仙壽院が描かれる。

------------------ 以下江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人 -----------------

   → 江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人

------------------ 江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人 終り -----------------

武蔵芝日本榎承教寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長祐山と号す、大檀林、池上本門寺末。末寺2
正安元年(1299)一条院日圓によって西芝((現:港区虎ノ門)の地に開山、池上・芳師法縁。
承応3年(1654)現在地へ移転。池上門末触頭となる。
延享2年(1745)類焼、山門・仁王門・鐘楼は類焼を免れ現存する。現在の本堂は天明元年(1781)建立。
明治初頭大教院後の大檀林を当寺に設置、明治37年廃壇。
 大教院承教寺の図:法華諸国靈場記圖繪、明治15年
  →日蓮宗大檀林
○Wikipedia より
英一蝶の墓:本堂脇にある。東京都指定旧跡。塔頭の顕乗院(退転・廃寺)から改葬される。
墓標は安政の大地震で破損し、明治6年六世孫の英一蜻が復刻。
二本榎の碑:山門脇にある。
上総木更津光明寺本堂は文政13年(1830)承教寺の客殿を移築する。昭和47年改築という。
旧末寺:
○長泉山妙福寺(東京都港区高輪) →直下に掲載。
朝日山安立寺(秋田県大館市花岡町猫鼻)
○現地説明板には次のようにある。
英一蝶:承応元年(1652)大坂に生まれ、幼少のころ江戸に移る。元禄11年(1698)「当世百人一首」や「朝妻舟」の図などが将軍綱吉を風刺したとして三宅島に配流となったが、在島12年ののち大赦により江戸に戻った。享保9年(1724)73歳で没する。
2022/12/26撮影:
 芝承教寺山門     芝承教寺仁王門
 承教寺日蓮石碑:安永9年(1780)の年紀     承教寺題目石:無縁法界塔
 承教寺大檀林跡石碑
 芝承教寺本堂1     芝承教寺本堂2     芝承教寺本堂3     芝承教寺客殿・庫裏
 芝承教寺鐘楼     英一蝶墓碑1     英一蝶墓碑2:「北窓翁一蝶墳」と刻する。
 山内の日本榎石碑


武蔵芝日本榎妙福寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長泉山と号す、芝承教寺末。
正安2年(1300)日宝により開山、池上・芳師法縁。
承応2年(1653)赤坂より現在地へ移転。
現在の本堂・庫裏は昭和9年建立。
2022/12/26撮影:
承教寺山門と仁王門の参道にある。境内は狭隘で本堂・庫裏のみが建つ。
 芝妙福寺全景     芝妙福寺入口     芝妙福寺本堂庫裡


武蔵白金覺林寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
最正山と号す、清正公、小湊誕生寺末、潮師法縁。
  →清正公信仰
寛永8年(1631)可観院日延(寛文5年寂)の開山。
 ※可観院日延:加藤清正によって召致された李氏朝鮮の王子という。小湊誕生寺18世。兄は熊本本妙寺3世本行院日遥。
 但し、現在では日遥と日延が兄弟であることは否定されている。
○「芝區誌」 より
覺林寺 白金今里町四番地
日蓮宗安房誕生寺末、寛永年間創建し、最正山と號する。開山は僧日延である。
門外電車通に大石標が立つて居り、其表面には「鎮守清正公大神儀」背面には「寛延四辛歳閏六月二十一日最正山日要」と鐫つてある。
 中略
正面は清正堂で、・・・
寺傳に依ると、文禄年間清正凱旋の時、朝鮮人を伴つて歸り、安房誕生寺の貫主とした。其貫主こそ日延で、寛永四年に江戸に来り、八年に當寺を開いたといふ。
 中略
なほ境内には祖師堂、妙法堂、稲荷祠がある。
○「御府内寺社備考」 より
安房国小湊誕生寺末 白金村
最正山覚林寺、境内古跡年貢地248坪外抱地360坪
起立之儀は本寺十八世可観院日延寛永年中 吋所に隠居仕其後承応(1652-1654)2年久成坊と申者借地に於開基仕候。寺号之儀を開山代○○○相分不申候元禄五壬申年五月寺社御奉行本多紀伊守様
厳有院様 御善古跡寺院に被仰付候。 ※厳有院:徳川家綱
開山可観院日延寛文五乙未年正月廿六日卒。
本堂、梁間三間桁行五間。内棟方二間。本尊三宝祖師。
鎮守清正神儀堂。内棟二間半二間。中之間、三間半に二間。拝殿一間半六間。
清正神儀、木坐像丈一尺一寸。右は開山日延代安座し来候。
釈迦牟尼佛、木立像丈五寸。右は清正神儀陣中当本額背小大光山日植と祀有之。細字法華経一部。
 以下、略
2022/12/26撮影:
覚林寺は弘化2年(1845)の大火で全焼する。
山門は安政3年(1856)、清正公堂は慶応元年(1865)に再建される。
清正公堂は拝殿・幣殿・本殿からなる権現造、拝殿は間口3間奥行3間、幣殿は間口1間奥行3間、何れも唐様を用いる。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と云う。
 覚林寺清正公大神祇石碑     覚林寺山門     覚林寺境内1     覚林寺境内2
 覚林寺題目石     覚林寺題目石他3基     覚林寺本堂     覚林寺毘沙門堂     覚林寺稲荷社
 覚林寺清正公堂拝殿1     覚林寺清正公堂拝殿2     覚林寺清正公堂1     覚林寺清正公堂2


武蔵白金立行寺

大久保寺。智光山と号す、法華宗陣門流(越後三条本成寺派)。京都本禅寺末。
寛永7年(1630)日通(延宝5年/1677寂)によって開山、開基檀越は旗本大久保彦左衛門(大久保忠教)である。
寛文8年(1668)火災焼失、現在地に移転。
○「新編武蔵風土記稿」 より
(麻布領白金村)立行寺
境内除地1812坪6合、年貢地421坪。重秀寺の東にあり。法華宗京都本禅寺末、智光山と号す。
開山日通聖人、延宝5年9月8日寂す。本堂10間に6間、本尊三宝を安置す。
 以下略
○「芝區誌」 より
立行寺(以下大意)
法華宗京都本禅寺末、智光山と稱する。當寺の開祖は日通上人で、其初め麻布市兵衛町に小庵を結ぶ。・・・
しかし寺内の隆盛と共に、此地が狭隘となり・・・、大久保彦左衛門忠教、其他數百の信徒に謀り、寛永七年九月同地に一宇を建立する。これが智光山立行寺である。
後、寛文八年火災に逢つて焼失し、今の地に移る。延享二年再び灰燼に歸し、幾もなく新築の堂宇を落成する。
慶應四年の變亂に遭遇し、檀家が離散する。
2022/12/26撮影:
大久保彦左衛門忠教墓:
戒名;了眞院殿日清、没年齢 80歳、墓は宝篋印塔、高さ約350cm。
なお、大久保忠教の墓は以下にもある。
京都本禅寺:五輪塔(題目石)
・岡崎長福寺(岡崎市竜泉寺町):五輪塔(題目石)<未見>
 立行寺山門     立行寺本堂     立行寺客殿・庫裏     立行寺鐘楼     立行寺題目石
 立行寺大久保家墓所1     立行寺大久保家墓所2     立行寺大久保家墓所3     立行寺大久保家墓所4
 立行寺大久保家墓碑1     立行寺大久保家墓碑2     立行寺大久保家墓碑3
 大久保忠教廟


江戸碑文谷法華寺

目黒区碑文谷1-22-22
2019/09/10追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
碑文谷法華寺
 縁起によれば嘉祥元年(848)慈覚大師の開基とされる。その建築は東京南部の最古のものとされ、特別保護建造物に指定される。
 ※その建築とは本堂釈迦堂で室町初期の建築とされる。現在は重文。また日源五重石塔がある。
 ※圓融寺のページでは「比叡山延暦寺の末寺、妙光山法服寺が開山されたのは、・・・平安前期の仁寿3年(853)」という。
 ※中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、寺中18、末寺75箇寺を数えるという。
弘安6年(1283)日源により日蓮宗に改宗、妙光山法華寺と改称する。
  ※日源については岩本実相寺を参照
寛永7年(1630)身池対論の時、第11世修禅院日進は日樹と同座し、信濃上田に流される。
  →上田妙光寺<信濃の日蓮宗諸寺中>に蟄居。
2019/10/26追加:
○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
◇碑文谷法華寺・平賀本土寺の反撃
 碑文谷日進は信州上田仙谷政俊に預けられ、その帰依を得て、妙光寺を創し、平賀日弘は伊豆戸田に預けられ長谷寺を創す。
身池対論の遺跡たる両寺とも他の諸寺と同じく、身延の脅迫にあう。
 碑文谷法華寺は日進のあと守玄院日誠が稟(う)けるが、住職ではなく、看坊職(住職代理)として法華寺を薫する。
日誠は看坊職を長期にわたり、勤めていて、身延の圧力には屈することはなかったようである。
  ※日誠:野呂17世、谷中感應寺11世、碑文谷法華寺12世。
 平賀本土寺についても、身延は手を変え品を変えて支配下に入れようとするも、寺僧は本土寺が祖師在世の草創であることを楯に他門流の支配は受けぬと断固拒否する。
さらに、池上・妙覚寺と同じく本土寺にも公儀より御下知を蒙ったのであれば、その証拠(つまり朱印状)を示せと身延に反撃し、もしご朱印なくば、幾度督促されても、従うことは出来ないと通告する。身延としては打つ術がなく、引き下がるほかはなかった。
 -end-
寛文5年(1665)幕府から供養として寺領受領の手形を強要された時、14世日禪は慈悲として受領する手形を書く。(悲田派の成立)
元禄4年(1691)悲田派禁制が出され、元禄11年法華寺は天台宗改宗を命ぜられ、東叡山寛永寺末となる。
法華寺には少なくとも江戸期以前とみられる「黒仁王」(丈3m余、黒塗り)があり、諸願成就の民間信仰で繁栄していた。
悲田派禁制後、不受の信徒は寺を天台宗に奪われたが、仁王だけは日蓮宗法華寺寺代からのものであれば、そこに公然と不受の信仰を仁王という民間信仰に偽装していたことは想像に難くない。碑文谷仁王は江戸中期に最も喧伝され、雑多な現世利益の流行に紛れて、不受の信徒の格好の隠れ信仰や秘密の連絡場所になっていたことは明らかだろう。
 ※天保5年(1834)経王山円融寺と改称する。(現存)
2019/09/10追加:
○サイト:妙光寺の歴史 より
妙光寺の歴史>妙光寺沿革:
 天文元年(1532)井上長大夫居士の発願により、法泉院日雲を開山とし、一堂を創建し、法泉院と称するに始まる。
以降、四世まで法泉院代である。
修禅院日進:
 寛永7年(1630)2月の身池対論の判決で、碑文谷妙光山法華寺11世修禅院日進は、池上方として信濃上田に追放、上田城主仙石政俊預となる。
日進、当地にあること34年、弘教伝道す。上田城主仙石政俊は、自らが開基となり、住庵法泉院を改めて修禅山妙光寺を開創する。
日進は寺号初祖、中興開山となる。
寛文3年(1663)寂。
2023/08/11追加:
寛永8年10月、江戸の信者が日蓮聖人の尊像(現在、北山本門寺片山日幹蔵)を造り、配所を訪れ日進に奉げる。
妙光寺には、安藝国大守奥御殿が上田に配流された日進を励ますために出した書簡が残される。
日進が信者に授与した曼荼羅は、現在上田市妙光寺・本陽寺、小諸市実大寺・尊立寺、諏訪市高国寺、千葉県夷隅町光福寺、東京都豊島区法明寺、佐世保市延寿寺、北山本門寺片山師等、諸方に伝えられる。
なお「日進聖人像」(妙光寺二世日通の造立であろう)は上田妙光寺に現存する。

武蔵品川妙國寺・本光寺

 →品川妙国寺/本光寺

弦巻常在寺

世田谷区弦巻1-34-17
宝樹山と号す。身延山末。木造五重小塔を有する。
 → 武蔵弦巻常在寺

下高井戸覺蔵寺

杉並区下高井戸3−4−7
清月山と号す、池上本門寺末。多宝塔建立中。
 → 武蔵下高井戸覺蔵寺<明治以降の多宝塔中799にあり>


相模の諸寺

横浜戸塚日蓮宗妙現寺
横浜市戸塚区舞岡町860に所在する。榮光山と号する。
 (横浜市戸塚区は相模に属する。)
○K.G氏情報:
平成31年2月28日日蓮宗横浜結社が榮光山妙現寺と寺号公称する。(日蓮宗宗務院認証)
榮光山妙現寺はもともと島根県大田市祖式町祖式2081第2にあった京都要法寺末で、移転復興という名目で横浜に移る。
○Webでは次の情報がある。
妙現寺は身延山を総本山とし、池上本門寺に宗務院を構える日蓮宗の寺院である。
元来、寺院は島根県中部、世界遺産石見銀山の近くに存在し、銀山の隆盛とともに栄えたが、銀山廃坑後の過疎化に伴い衰退し、現住職が平成元年に就任した時には既に伽藍は朽ち果てて消失していた。
平成21年11月に戸塚区舞岡町に本堂、庫裡を再建新築する。
 ※元来は京都要法寺(興門派)に属したのであろうが、横浜での移転復興の過程で一致派の日蓮宗に帰属したようである。

相模比企谷妙本寺及び鎌倉の諸寺
 → 比企谷妙本寺及び鎌倉日蓮諸寺にあり。

相模片瀬龍口寺/片瀬本蓮寺多/片瀬龍口寺輪番八ヶ寺
 → 片瀬龍口寺(附片瀬本蓮寺多宝塔・片瀬龍口寺輪番八ヶ寺)にあり。
片瀬龍口寺輪番8ヶ寺:
片瀬龍口山常立寺(身延山久遠寺末)
片瀬龍口山本蓮寺
腰越龍口山本成寺
腰越龍口山勧行寺
腰越龍口山法源寺
腰越龍口山東漸寺
腰越龍口山妙典寺
腰越龍口山本龍寺

相模酒匂法船寺
済度山と号する。比企谷妙本寺末。木造三重小塔を有する。
 → 相模酒匂法船寺

法善寺(日蓮宗):小田原市酒匂2-38-33

本典寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-1-17

妙善寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-1-22

妙蓮寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-6-29


2016/04/06作成:2023/11/20更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系8