関 東 諸 国 の 日 蓮 宗 諸 寺

上野・下野・常陸・下総・上総・安房・武蔵・相模の日蓮宗諸寺

上野の諸寺

前橋永寿寺:品量山と号する。
永寿寺は松平大和守の位牌所であり、松平氏の移封に伴い、その都度移転を繰り返す。
 詳細は次の通りであるが、寛文7年松平直矩再度姫路に転封・越後村上経王寺が分立、姫路に永寿寺が建立される。
これ以降永寿寺は松平大和守の転封に合わせて8回程度移転する。
即ち、天和2年(1682)豊後日田→貞享3年(1686)出羽山形→元禄5年(1692)陸奥白河→寛保元年(1741)播磨姫路→寛延元年(1748)上野厩橋→明和4年(1767)武蔵川越→慶応3年(1866)あるいは明治4年厩橋→前橋に現存する。
永寿寺寺歴:
慶安2年(1649)松平直矩、播磨姫路より越後村上15万石に転封。
 ※直矩は村上教王寺(を直矩の父方の祖母・品量院と母・永寿院の位牌所とする。
 ※村上教王寺は村上に現存し、寺町大寺といわれる。
 貞和5年(1349)日住上人の創立、当初は角田にあり、永禄年中に猿沢に移転、慶長年中に村上に移転。
寛文7年(1667)松平直矩再び姫路15万石に転封となる。
 ※転封に伴い、経王寺は分かれ、一つは姫路に移り、寺号を永寿寺と称する。開祖は日教上人。
 ※永寿寺2世は智境院日演上人。
 ※智境院日演上人は京都本法寺17世日休上人弟子、京都東山檀林の19世化主、京都勝光寺5世、播磨市川蓮泉寺開山。
天和2年(1682)松平直矩、豊後日田7万石に国替。
貞享3年(1686)松平直矩、出羽山形10万石に転封。
元禄5年(1692)松平直矩、陸奥白河15万石へ移封。
 ※永寿寺は豊後日田、出羽山形、陸奥白河に移転と思われる。日田、山形での痕跡はWeb上の検索では発見できない。
元禄8年(1695)松平直矩逝去。その子基知、基知の養子義知と襲封。
寛保元年(1741)松平義知(明矩と後に改名)、姫路15万石に転封。
 ※永寿寺は白河から播磨姫路に移転。永寿寺は姫路五軒邸妙国寺の付近にあったという。 →姫路永寿寺跡<播磨の諸寺中>
 ※白川永寿寺は姫路に移転するも、跡地に残った僧が妙関寺を建立するという。  →白河妙閑寺<陸奥の諸寺中> 
寛延元年(1748)松平朝矩(明矩嫡子)上野厩橋15万石に転封。
明和4年(1767)松平朝矩、厩橋城は崩壊寸前の状態の為、武蔵川越に居城を移す。
 ※川越藩時代は、城下の旧堺町(現川越市六軒町2丁目)にあったという。
慶応3年(1866)松平直克、厩橋城が再築・竣工。
 ※永寿寺、川越から厩橋へ移転する。(明治4年現在地に移転?)

常陸の諸寺

羽賀堀ノ内誠諦寺
法華宗陣門流・越後本成寺末、政継山と号する。
境内に『政継山誠諦寺の由来と沿革』という碑?があると思われるも未見、「常陸国信太郡波賀郷に佐竹盛重氏の城あり、そのかたわらに戒定院の寺あり、天正年中(1573年〜1591年)に佐竹氏は、豊臣秀吉公によってわずかに小寺を残し、領国を没収し放逐させられ、又戒定院の住僧は寺を退去し寺堂も亦年を経て破滅せり。(後略)」とあるという。後略のため、戒定院などとの関係が不明であり、残念である。
 → 常陸下君山廃寺中の芳賀城跡>法華宗陣門流誠諦寺に写真あり。

大洗護国寺
戦後の三重塔あり。昭和4年創立、井上日召開基。
 → 大洗護国寺

下総の諸寺

下総中山法華経寺
 →中山法華経寺

下総平賀本土寺
 →平賀本土寺

下総原木山妙行寺
現在は単立と思われるも、近世は中山法華経寺末。
六角二重塔を有する。
 → 下総原木山妙行寺

下総真間弘法寺
 →真間弘法寺

下総大野法蓮寺
開山は日蓮上人の大檀越曽谷教信。後に曽谷教信は出家し、日蓮上人より法蓮日禮の法号を授けられる。建治3年(1277)、下総大野の地(現市川市)に一寺を開き、自身の出自と法号から曽谷山法蓮寺と号する。
なお寛文の法難で、伊予吉田に追放となった日完は法蓮寺18世。
現在、充行院、圓行院の寺中がある。

下総佐倉昌柏寺
2019/09/19追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
華林山と号す、京都常徳寺末、奠師法縁。
開山は黎本院日題、開基は是勝院日慈、開基檀越は佐倉城主松平和泉守乗久。
日像が開基した京洛数ヶ寺の一寺という。
天正4年(1576)日題が下総矢作城主国分大膳亮を教化、その菩提寺として大崎村に再建、華林山妙眞寺と称する。
寛文年中に日慈が佐倉城主松平和泉守とその室昌柏院殿により、佐倉本町の現在地へ移転・再興し、現寺号に改める。
1世日慈は三浦大明寺18世へ転出。
 ※日慈は不受不施僧、寛文法難の頃、大明寺住職であったと思われるも、除歴という。
研究出版活動華林山文庫。(華林山文庫の創建時期あるいはどの代なのか等の言及はなく、不明)
 ※佐倉昌柏寺華林山文庫の蔵印の繪圖:六条本圀寺の資料に出てくる。
2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
寛文のころ、佐倉の昌相寺(昌柏寺が正)には華光院日航(備前金川妙国寺10世)がいた。
 ※華光院日航は備前金川妙国寺10世、後に相模衣笠大明寺17世(除歴)という。
 衣笠大明寺から除歴は日航・日慈などが不受不施僧の故であろう。
 なお、「不受不施派殉教の歴史」では「昌柏寺に日航がいた」とあるが、「日蓮宗寺院大鑑」に掲載の昌柏寺歴代住職に中に、
 日航の名前はない。(一時身を寄せたか、除歴されたかであろう。)

上総の諸寺

上総茂原藻原寺
 →茂原藻原寺

上総鷲津鷲山寺
 →鷲巣鷲山寺

勝浦妙潮寺
末寺:尾張一宮真浄寺

安房の諸寺

安房小湊誕生寺
 →小湊誕生寺/両親閣妙蓮寺

安房本行寺
三間二層堂を有する。

武蔵の諸寺

武蔵柴又帝釈天
 →柴又題経寺

武蔵谷中感應寺
 →谷中感応寺(現天台宗)

武蔵雑司谷法明寺
 →雑司ヶ谷法明寺

長徳山妙行寺
法華宗陣門流、東京都豊島区西巣鴨4-8-28 多宝塔を有する。
 → 明治以降の多宝塔722

武蔵池上本門寺
 →池上本門寺

江戸土冨店長遠寺
台東区元浅草2-2-3
長遠院日樹上人の開創と伝える。
 → 江戸土冨店長遠寺

江戸市野倉長勝寺
大田区中央6-6-5
日樹上人供養塔がある。
 → 江戸市野倉長勝寺
2019/07/28追加:
覺應山と号する。正保3年(1646)創立。開山陽善院日繕。開基檀越田中長勝。
寛文元年(1661)下総大野法蓮寺日完の開眼銘のある日蓮上人坐像がある。
銘によれば、この像は正永山了性寺の祖師像として開眼するという。おそらく、了性寺も寛文の法難に連座して、祖師像が長勝寺に遷されたのであろう。
さらに長勝寺は池上本門寺末から小湊誕生寺末に転じ、日樹上人の供養塔もある。
 ※不受不施派から悲田派に転じ、その後受派に接取されたものと推測される。

原宿妙圓寺
2019/09/03追加:
サイト:猫の足あと>蓮光山妙円寺|安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の信仰 に詳しい情報がある。
以下上記ページの要約
「渋谷区史」による妙円寺の縁起 では
妙圓寺(原宿一丁目六四番地):小湊誕生寺末、蓮光山と号する。
寛永4年(1627)円成院日光が四ツ谷千日谷(今の鮫河橋八軒町)に草菴を営なみ、それが妙圓寺となる。
その後荒廃するも、立正院日寛が、小湊誕生寺26世日孝の依頼を受けて入寺、整理する所あり、宝永3(1706)年穏田村の檀家百姓又兵衛の寄進地(現在地)に移る。
なお、熊野権現の別当であつた。熊野権現も穏田村にあり。日光の勧請する所で、その後安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の再建にかかる。
前田氏は、本寺の造営にも力を添えたものと見えて、現存の寺門の瓦には、前田氏の梅鉢の家紋がある。
寺宝に、浅野光晟の室前田氏が自写せる法華経八巻を蔵し、萬治二年(1659)二月の奥書がある。熊野権現に奉納したのを神仏分離の際、本寺の有に帰す。前田氏、名は満、利常の女、法名を自昌院英心日妙という、元禄13年(1700)7月27日に歿す。
2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収)
 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺を創設する。
すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院↓)を建て千駄谷に移す。
開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。
妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。
 東都青山絵図:安永年中(1772-81)/妙圓寺が描かれる。

千駄谷仙壽院
2019/09/03追加:
サイト:猫の足あと>法雲山仙寿院|紀伊藩徳川頼宣の生母お萬の方の発願、新日暮の郷 に詳しい情報がある。
以下上記ページの要約
「渋谷区史」による仙寿院の縁起 などでは
仙壽院
甲州巨摩郡本遠寺末。法雲山東漸寺仙寿院と号す。
はじめ寛永五年(1628)紀州家の山屋敷(赤坂喰違屋敷の一部)に草庵が設けられ、正保元年(1644)十一月現在の場所に移して寺としたことが、文政の書上にある。「江戸名所図会」によれば、當寺は紀州頼宣公御母堂養珠院日心大姉、正保紀元甲申草創あり。當寺の鬼子母神は、同大姉の延嶺(甲州身延山)にして、霊示を感じ。大野の邊の土中に得られて後、當寺開創、落成の日、安置ありしとなり。と記されている。
江戸期には、境内四千六百五十三坪を有する。
開山は里見日遥(一源院日遥・安房の太守里見義康の次子)、日遥は後に飯高檀林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村村田妙法寺へ瑞世した。日遥を祖とする千駄ヶ谷法類は、当山を縁頭寺とする。
2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収)
 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺↑を創設する。
すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院↓)を建て千駄谷に移す。
開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。
妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。
 東都青山絵図:安永年中(1772-81)/仙壽院が描かれる。

江戸自證寺
現在、境内は縮小され、新宿区富久町4-5にある。
しかも、現在は天台宗に改宗され、鎮護山自證院圓融寺と称する。
もとは榎町にあり、日蓮宗法常寺と号するという。
寛永17年(1640)尾張藩主徳川光友の正室である千代姫の母(徳川3代将軍家光/法号は自證院殿光山暁桂大姉)をが当寺に葬送され、大猷院殿の命によって富久町に移轉、「本理山自證寺」と改め、日須上人が開山という。
 2世は日遵:小湊誕生寺第19世、不受不施派の檀林として玉造檀林を再興。
  不受不施派の活動拠点を自證寺(自性寺)に求め、入寺する。
 3世は日庭
慶安5年(1652)自證院殿、富久町の自證寺に新たに建てられた霊廟に改葬される。
 ※現在、この霊廟は「旧自証院霊屋」として「江戸東京たてもの園」内(都立小金井公園内)に移築保存されているという。
 ※慶安5年(1652)尾張徳川光友正室千代姫が、生母お振の方(三代将軍・家光の側室)を供養するため、
  不受不施派富久町自證寺に建立する。
 元文年中(1736-41)自證寺は天台宗に改宗を命ぜられる。
 明治維新後、寺は荒廃、明治18年台風で霊屋倒壊し、翌年解体される。
 明治20年、駿河台の某という人物に350円で売却される。
 明治21年、さらに転売され谷中頤守院に移築され、位牌堂となる。(霊廟の機能は失われる。)
  ◇谷中頤守院とは不明
 昭和12年、建築史家の藤岡通夫は、自證寺霊廟であることを再発見する。
 昭和32年、西武鉄道によって買収され、紀尾井町赤坂プリンスホテル内に移築される。
 昭和54年、ホテル新館計画予定地に建っていたため、またもや解体され、永年倉庫に保管される。
 昭和61年、西武鉄道から東京都に寄贈される。
 平成7年(1995)小金井公園・江戸東京たてもの園内に復元・保存される。

寛文5年(1655)日庭は書物をせず(手形を拒否し)、千代姫が自證寺の檀越であるとの関係で幾分遠慮したものか、手形提出を拒否した外の僧侶が追放処分を下される中で、いわば穏当に出寺を勧告される。日庭は出寺する。
 出寺した日庭は信徒との関係をそのまま地下に持ち込み、自證庵を作り、不受不施の指導を地下で続ける。
元文年中(1736-41)自證寺は天台宗に改宗を命ぜられる。
 ※千代姫:寛永14年/1637 - 元禄14年/1699、法号霊仙院、軍徳川家光長女、尾張藩主徳川光友の正室。母は側室の自證院。
舊境内は一萬六百坪餘、内門前町屋三百坪餘、朱印寺領二百石という。
伽藍は節目の多い材木を使用していたことから、ふし寺・瘤寺と呼ばれる。
○「江戸名所圖繪>巻之四 第十一冊 より
 自證寺伽藍:・・・・・元文年中(1736-41)故ありて天台宗に改めらる。・・・・・と記事がある。
  ※但し、天台宗での自證院伽藍である。自證院霊廟は本図に描かれていないが、本堂向かって左奥の一郭にあるものと思われる。
2014/03/10追加:
日庭上人:青山自證寺3世、長遠院、寛文6年追院、後の貞享2年(1685)佐渡流罪、後六聖人。
 ◇備中妹尾盛隆寺に供養塔があるという。
  → 備中妹尾盛隆寺
 ◇横浜孝道山仏舎利殿:ページ<http://dogsv.com/~tama/tama/new/hikao/4.html>には
「孝道山は寛文の頃、日庭聖人隠棲の地であり、既にお堂があったとのことです。廃堂になった後、昭和24年に孝道山として整地されるまで、鳥越山と呼ばれる松林の丘陵で残り、その際、山頂から日庭聖人の像が掘り出されたとのことです。」とある。
  → 横浜孝道山仏舎利殿
 ◇佐渡妙法山蓮長寺の寺内に日庭上人の配流された本敬寺があったといわれる。
  → 蓮長寺は佐渡法華宗諸山中のあり
2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
 青山自證寺日庭石像
孝道教団敷地内から掘り出され、石像と一緒に題目銭も出土したという。日庭は神奈川での新寺建立の科によって佐渡に流罪となる。
 青山自證寺日庭石像:日庭石像は仏舎利殿(二層堂)の背後にある。(未見)
自前の写真がなく、また本書に掲載の写真は小さく判然としないので、ページ:「孝道教団」より転載する。
なお、元自證庵にあった仏壇・内佛その他の什物は備前益原大樹庵(現・法泉寺)へ運ばれる。
 備前法泉寺内佛元自證庵仏壇布書
--- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---
 ※不受不施派の由来は備前法華の系譜を参照。

2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より
《祖心尼なあ》 
 ※振・振局(自證院)の祖母
祖心尼なあの父は、伊勢国田丸城主牧村和貞、豊臣秀吉の朝鮮出征の時、五歳の娘を前田利家に頼んで出征し戦死する。
前田利長(二代)が養父となり、のち前田直知に嫁ぎ、慶長13年(1608)21歳の時、町野幸和に再嫁す。
町野幸和は蒲生氏郷(会津60万石)の家臣である。
なお、二代蒲生秀行の室は、徳川家康の娘・振姫である。
 寛永19年(1642)祖心尼「なあ」は大奥に入り、従姉妹である春日局に協力する。
春日局亡きあと、祖心尼が江戸城大奥を一切取締ることとなる。
 江戸城大奥の女性は多くが法華宗不受不施派信者であった。祖心尼なあは養祖母となる前田利家の側室・寿福院ちよの法華信仰を見て育ったと考えられる。
ところが、法華宗の不受不施信仰とキリシタンは邪教と言われ幕府より弾圧される。
キリシタンの高山右近は領地を没収され前田家に身を寄せていた。祖心尼の夫・町野幸和が仕えた主君・蒲生氏郷もキリシタン大名であった。
「なあ」の祖父・稲葉重通は臨済宗崇福寺の檀家であり、従って「なあ」自身の宗旨も臨済宗であるが、祖心尼の内信仰は法華信仰であり、キリシタン信仰にも注目していたと考えられる。
   徳川・前田・浅野家関係図
《自證院/振・振局》
祖心院なあの孫姫(不利・お振)は将軍家光の側室に上り「振局( ふりのつぼね)、振、法号は自證院」となる。
 ※「祖心院なあ」の孫姫、徳川家光の側室、家光の長女千代姫の母、自證院
寛永14年(1637)振局は家光の長女・千代姫を出産し、千代姫2歳の時、尾張徳川光友に嫁す。
寛永17年(1640)8月、千代姫の母・振局(自證院、振)は早世する。
 ※千代姫を生んだ時の振局は13〜15歳くらいと推定され、16〜18歳ころ逝去したと推定される。無理な出産が早世の理由とも云われる。
振局は牛込榎町日蓮宗法常寺に葬られ、のち寺は市ヶ谷に移され、自證寺(自性寺)と改められる。
 ※慶安5年(1652)富久町の自證寺に建てられた霊廟に改葬される。
家光は振局の菩提寺として市ヶ谷に法華宗自證寺を建立し200石を扶持する。
従姉妹の満姫はのち、赤穂浅野長直の室と自分の嫡男浅野綱晟(疱瘡死・37歳・広島藩3代藩主)を自性寺に埋葬する。
法華宗自性寺は寛文5年(1665)の不受不施派弾圧により天台宗自證寺と改宗させられる。
《千代姫》
 法号は霊仙院、徳川家光の息女(長女)、母は振局(自證院)
千代姫は日遵を外護し、小湊誕生寺に70石の寺領を扶持する。
 ※日遵は小湊誕生寺第19世(身池対論・寛永法難で、誕生寺16世日領は流罪、17世日税は自害、18世日延は流罪)、池上日樹の弟子、不受不施派の檀林として玉造檀林を再興する。また、不受不施派の活動拠点を自證寺(自性寺)に求め、法華宗自證寺(自性寺)の二世として入寺する。
---「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」終---

◆不受不施派の自證寺(自證庵)は若松寺として再建される。
      ↓
不受不施派若松寺:
港区南麻布3丁目10-7
龍華山と号す。
明治6年日正が麻布本村町に自證庵を再興、昭和17年若松寺の寺号を公称する。

江戸碑文谷法華寺
目黒区碑文谷1-22-22
2019/09/10追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
碑文谷法華寺
 縁起によれば嘉祥元年(848)慈覚大師の開基とされる。その建築は東京南部の最古のものとされ、特別保護建造物に指定される。
 ※その建築とは本堂釈迦堂で室町初期の建築とされる。現在は重文。また日源五重石塔がある。
 ※圓融寺のページでは「比叡山延暦寺の末寺、妙光山法服寺が開山されたのは、・・・平安前期の仁寿3年(853)」という。
 ※中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、寺中18、末寺75箇寺を数えるという。
弘安6年(1283)日源により日蓮宗に改宗、妙光山法華寺と改称する。
  ※日源については岩本実相寺を参照
寛永7年(1630)身池対論の時、第11世修禅院日進は日樹と同座し、信濃上田に流される。
2019/10/26追加:
○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
◇碑文谷法華寺・平賀本土寺の反撃
 碑文谷日進は信州上田仙谷政俊に預けられ、その帰依を得て、妙光寺を創し、平賀日弘は伊豆戸田に預けられ長谷寺を創す。
身池対論の遺跡たる両寺とも他の諸寺と同じく、身延の脅迫にあう。
 碑文谷法華寺は日進のあと守玄院日誠が稟(う)けるが、住職ではなく、看坊職(住職代理)として法華寺を薫する。
日誠は看坊職を長期にわたり、勤めていて、身延の圧力には屈することはなかったようである。
  ※日誠:野呂17世、谷中感應寺11世、碑文谷法華寺12世。
 平賀本土寺についても、身延は手を変え品を変えて支配下に入れようとするも、寺僧は本土寺が祖師在世の草創であることを楯に他門流の支配は受けぬと断固拒否する。
さらに、池上・妙覚寺と同じく本土寺にも公儀より御下知を蒙ったのであれば、その証拠(つまり朱印状)を示せと身延に反撃し、もしご朱印なくば、幾度督促されても、従うことは出来ないと通告する。身延としては打つ術がなく、引き下がるほかはなかった。
 -end-
寛文5年(1665)幕府から供養として寺領受領の手形を強要された時、14世日禪は慈悲として受領する手形を書く。(悲田派の成立)
元禄4年(1691)悲田派禁制が出され、元禄11年法華寺は天台宗改宗を命ぜられ、東叡山寛永寺末となる。
法華寺には少なくとも江戸期以前とみられる「黒仁王」(丈3m余、黒塗り)があり、諸願成就の民間信仰で繁栄していた。
悲田派禁制後、不受の信徒は寺を天台宗に奪われたが、仁王だけは日蓮宗法華寺寺代からのものであれば、そこに公然と不受の信仰を仁王という民間信仰に偽装していたことは想像に難くない。碑文谷仁王は江戸中期に最も喧伝され、雑多な現世利益の流行に紛れて、不受の信徒の格好の隠れ信仰や秘密の連絡場所になっていたことは明らかだろう。
 ※天保5年(1834)経王山円融寺と改称する。(現存)
2019/09/10追加:
○サイト:妙光寺の歴史 より
妙光寺の歴史>妙光寺沿革:
 天文元年(1532)井上長大夫居士の発願により、法泉院日雲を開山とし、一堂を創建し、法泉院と称するに始まる。
以降、四世まで法泉院代である。
修禅院日進:
 寛永7年(1630)2月の身池対論の判決で、碑文谷妙光山法華寺11世修禅院日進は、池上方として信濃上田に追放、上田城主仙石政俊預となる。
日進、当地にあること34年、弘教伝道す。上田城主仙石政俊は、自らが開基となり、住庵法泉院を改めて修禅山妙光寺を開創する。
日進は寺号初祖、中興開山となる。
寛文3年(1663)寂。

武蔵品川妙國寺・本光寺
 →品川妙国寺/本光寺

弦巻常在寺
世田谷区弦巻1-34-17
宝樹山と号す。身延山末。木造五重小塔を有する。
 → 武蔵弦巻常在寺

下高井戸覺蔵寺
杉並区下高井戸3−4−7
清月山と号す、池上本門寺末。多宝塔建立中。
 → 武蔵下高井戸覺蔵寺<明治以降の多宝塔中799にあり>


相模の諸寺

横浜戸塚日蓮宗妙現寺
横浜市戸塚区舞岡町860に所在する。榮光山と号する。
 (横浜市戸塚区は相模に属する。)
○K.G氏情報:
平成31年2月28日日蓮宗横浜結社が榮光山妙現寺と寺号公称する。(日蓮宗宗務院認証)
榮光山妙現寺はもともと島根県大田市祖式町祖式2081第2にあった京都要法寺末で、移転復興という名目で横浜に移る。
○Webでは次の情報がある。
妙現寺は身延山を総本山とし、池上本門寺に宗務院を構える日蓮宗の寺院である。
元来、寺院は島根県中部、世界遺産石見銀山の近くに存在し、銀山の隆盛とともに栄えたが、銀山廃坑後の過疎化に伴い衰退し、現住職が平成元年に就任した時には既に伽藍は朽ち果てて消失していた。
平成21年11月に戸塚区舞岡町に本堂、庫裡を再建新築する。
 ※元来は京都要法寺(興門派)に属したのであろうが、横浜での移転復興の過程で一致派の日蓮宗に帰属したようである。

相模比企谷妙本寺及び鎌倉の諸寺
 → 比企谷妙本寺及び鎌倉日蓮諸寺にあり。

相模片瀬龍口寺/片瀬本蓮寺多/片瀬龍口寺輪番八ヶ寺
 → 片瀬龍口寺(附片瀬本蓮寺多宝塔・片瀬龍口寺輪番八ヶ寺)にあり。
片瀬龍口寺輪番8ヶ寺:
片瀬龍口山常立寺(身延山久遠寺末)
片瀬龍口山本蓮寺
腰越龍口山本成寺
腰越龍口山勧行寺
腰越龍口山法源寺
腰越龍口山東漸寺
腰越龍口山妙典寺
腰越龍口山本龍寺

相模酒匂法船寺
済度山と号する。比企谷妙本寺末。木造三重小塔を有する。
 → 相模酒匂法船寺

法善寺(日蓮宗):小田原市酒匂2-38-33

本典寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-1-17

妙善寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-1-22

妙蓮寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-6-29


2016/04/06作成:2022/12/01更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系