安 芸 広 島 国 前 寺

安芸広島國前寺(こくぜんじ)

安芸國前寺概要

◇暦応3年(1340)尾長山(二葉山)麓で庵を営んでいた天台僧・暁忍が日像上人に師事、「暁忍寺」として開山する。
 寺蔵文書では次のようにいう。
 「暦応三庚辰年、日像聖人安芸国ニ下向アリ。・・・厳島ヘ渡海アラムト思召セドモ、風剛ク波濤山ノゴトシ、故ニ暫ク尾長山ノ麓ニ暁忍阿闍梨ト云フ持律ノ僧アリ。此ノ庵ニ至テ旅宿ヲ乞玉フ。・・蓮祖、朗祖ノ所伝ノ法流残リ無ク伝授・・・」
かくして暁忍寺が成る。
開山は日像上人、二祖は暁忍、三祖は大覚大僧正とする。
「大覚大僧正、当山ニ来錫アリテ法灯ヲ挑ケ給フ。・・・・」(「日蓮宗の本山めぐり」 より)

◇明暦2年(1656)広島藩浅野家2代藩主浅野光晟正室自昌院(満姫/加賀前田利常の三女/徳川家光養女)が帰依し、浅野家の菩堤寺となる。この時、寺領200石を下付、「國前寺」と改号する。
 「知新集」では「明暦2年玄徳院殿(浅野光晟)自昌院殿御二方ノ思召ニテ、菩提寺ニ仰付ラレ御寺領弐百石御寄付アリ。本堂ハ自昌院殿御建立、番神堂、客殿、仁王門ナド玄徳院殿御建立。」と云う。

◇その後の寛文年中の不受不施派禁圧、元禄年中のいわゆる悲田宗禁圧によって、国前寺は逼迫する。
この時代の様相は必ずしもはっきりしないが、次のような情報がある。
2019/09/03追加:
○廣島縣史 より
廿二代目日憲の時、江戸谷中感應寺日進、悲田不受不施異流を企て、元禄四年(1691)停止の際、當寺は不受不施となる、自昌夫人は天台宗に轉し、當寺も暫天台宗たるへしとの命ありしに、之に從はさりし爲め、同五年(1692)十一月菩提所を停め、寺禄を沒収せられて平寺となる。
 ※元禄4年の悲田宗禁制で、22世覚雲院日憲は天台宗改宗を拒否、翌年浅野家菩提所を停止、寺禄を没収されたということであろう。
 ※「元禄四年(1691)停止の際、當寺は不受不施となる」とは意味不明であるが、元禄4年不受不施悲田派を停止され云々の意であろう。
 ※「自昌夫人は天台宗に轉じ」とは事実に反する。自昌院はあくまで不受不施を貫く。
 浅野本家は天台宗に轉じたという意であろう。
追加終---
○Webサイト情報
 ○元禄5年(1692)不受不施派禁圧により寺領を没収される。
この際浅野家は天台宗に改宗し、牛田の日通寺に菩提寺を変える。
 ○「知新集」では「寛文3年(1663)天心院殿(浅野綱晟)尊骸この山中(現在の浅野山緑地)に斂れせ給ひ、この頃国前寺が菩提寺だったので同年より20年間国前寺持分で番僧を付けたが、不受不施争論が起り、元禄4年(1691)停止となり、元禄5年国前寺寺領召上げられ天台宗に改宗されましたが、城下に菩提所になる天台寺なく、加茂郡阿弥陀寺が福島正則入部の頃から住職もなかったので大破に及んでいたが形はかなり残っていたので此地に引き移し、自昌院英心日妙大姉の法名と天心院殿徹性日通大居士の諡号の二つを採って英心山日通寺と改めたり。」という大意の記載があるようである。
 ※日通寺及び日通寺の天台から陣門流への改宗については、下に掲載の「日通寺及び日通寺の天台から陣門流への改宗」を参照。

◇昭和20年、原子爆弾投下により国前寺は被爆する。
国前寺は爆心地から約2.5kmの地点に位置し、爆風により建物は北東方向に傾くも、倒壊及び焼失は免れ、被爆者の救護拠点となる。
堂宇復興にあたり、本堂等は解体し、その材料でもって規模を縮小して再建する案もあったが、本堂・庫裡などは旧軌で復興される。
昭和63年から庫裡の修理、平成5年本堂・庫裡は重文となる。平成13年から本堂の修理を実施する。

日通寺及び日通寺の天台から陣門流への改宗

日通寺:
寺院では、開山は日像、開基は日崇という。
 なお、日通寺は明治維新後急速に衰微し、昭和42年旧日通寺の最後の堂宇であった観音堂を焼失という。
現在は平成2年本堂・客殿が再建されているとも云う。
2015/10/05追加:
◇日通寺が事
○Web情報:元禄4年(1691)幕府は悲田派を新義異流として禁止する。
 元禄7年(おそらく、当時國前寺は悲田派であったのであろうと推測されるが)広島浅野藩は公儀に遠慮し、当時は相當の荒れ寺であった賀茂郡国近村天台宗阿弥陀寺を牛田に移し、英心山日通寺と改号する。
この間の元禄5年には國前寺の寺領を没収し、浅野家は天台宗に改宗、菩提寺を國前寺から日通寺に変更する。
元禄12年法華宗勝劣派越後国本成寺の末寺となり、城下の同派寺院の触頭となる。
○「日本歴史地名大系 広島県の地名」平凡社 の日通寺観音堂の項では次のように云う。
 日蓮宗の単立寺院。賀茂郡国近村阿弥陀寺は寛正年中(1460-66)開基という天台の大寺であったが当時は無住で荒れ寺であったという。日通寺中興開基は国前寺日台の弟子日崇。元禄12年日蓮宗に改められ、広島城下日蓮宗五ヶ寺の触頭に定められる。裏の新山には歴代藩主の墓がある。
 ※以上の文脈中、陣門流であるとすれば「日蓮宗系単立」とはよく理解できない。
 ※浅野家歴代の墓所は現在は私有地であり立ち入りは出来ないという。
---2015/10/06追加終---
2019/09/03:
 ※日通寺がなぜ法華宗陣門流であるのかについては
サイト:猫の足跡>日通寺。広島県広島市東区にある法華宗陣門流寺院 に詳しい。
日通寺:
 法華宗陣門流、英心山と号す。
元禄4年の悲田宗禁制により、改易などの懼れあり、安芸浅野藩菩提寺を国前寺から天台宗寺院へ変えざるを得ず、賀茂郡国近村にあった陀法山東松院阿彌陀寺(寛正年間1461-1466創建)を当地へ移転させ、夫人前田氏の法謚自昌院英心日妙と前藩主綱晟の法謚天心院徹性日通から天台宗・英心山日通寺と称したという。
元禄12年(1699)法華宗へ改め、日祟が中興開基となる。国前寺が藩より受けていた200石の寺領も当寺が継ぎ、江戸期には藩内における法華宗の觸頭となる。
元禄12年法華宗に改めたことについては、4代広島藩主浅野綱長(3代広島藩主・浅野綱晟の長男)は、法華宗寺院としたかったことから、住職日祟も丸山本妙寺で修業、幕府の許しを得て元禄12年(1699)法華宗勝劣派本成寺の末寺へと改めて、日祟が中興開基となったという。
 また、本ページに「廣島市史」の掲載があるので、次にそのまま転載する。
◇(「廣島市史」より)
 日通寺は英心山と號し、安藝郡牛田村新山に在り、本尊は中央寶塔南無妙法蓮華經・左多寶如来・右釋迦牟尼佛なり、藩制時代には寺領二百石を附せられ、廣島城下法華宗勝劣派五箇寺(本照寺、長久寺、長遠寺、妙詠寺、本運寺)の觸頭たり、當寺往古は天台宗陀法山東松院阿彌陀寺と號し、寛正年間の開基にして、賀茂郡國近村にありしが、元禄五年此地に移さる、是より先き寛文十三年藩主淺野綱晟は江戸に於て逝去せられ、遺骸を安藝郡新山に歛められ、其後二十年間、尾長村法華宗國前寺より番僧を附置せしが、元禄四年幕府より不受不施派を禁止するに及び同五年藩府は國前寺を以て其流を酌むものと認め、其寺領二百石を停止し、又前藩主光晟の夫人前田氏(加賀御前と稱す)天台宗に改宗せんとの志あり、然るに當時廣島城下に於て菩提所とすべき天台宗の寺院なかりしかば、遍く之を諸郡中に求めけるに、かの賀茂郡阿彌陀寺は往昔末寺も十二箇寺を有せし大伽藍なりしも、後ち漸く衰頽し、殊に福島氏の時より寺領は貢祖地となり、尋で無住となり、堂塔は益、大破し、僅に本堂のみを存せしかば、之を取りて此處に移し、元禄七年七月寺堂建立の工を起し、夫人前田氏の法謚自昌院英心日妙と前藩主綱晟の法謚天心院徹性日通の文字を取り、英心山・日通寺と改稱し、國前寺にある綱晟の尊牌、浄心院(光晟の二男三次支藩主長治の養子)清凉院(綱晟の女)の兩廟をも此寺に移し、以て藩家の菩提寺と定められ、是より八年間、天台宗にて松榮寺の支配とし、新山了哲と云へる番僧を附せり、然るに元禄十二年七月藩主綱長は再び當寺の天台宗を改め、法華宗勝劣派越後國本成寺の末寺を爲さんと欲し、江戸丸山本妙寺に依頼し、幕府に請ひしに聴許あり、本成寺は殊に之を客末の格式に置けり、是より先き元禄七年もと國前寺日台の弟子日祟は本成寺の法義を信じて、江戸に赴き、本妙寺日養に師事し、同寺に滞留修業せしが、招かれて日通寺の住職となり、同年十二月日祟廣島に歸りて入寺し、中興の開基となれり、同八年四月三日入佛供養法會を行ひ、五月寺堂落成し、寺領二百石を附せらる、是に於て廣島城下の寺院一箇寺を増加し、既定數に超過せるを以て、廣島町組眞宗四十二箇寺の中、沼田郡(今の安佐郡の内)長東村蓮光寺(佛護寺十二坊の一)の町組を除き、日通寺を以て之に替へたり、後ち光晟の夫人前田氏(自昌院)藩主綱長(顯妙院)藩主斎粛(温徳院)の霊廟皆こゝに置かる、寺内に自昌院殿以来藩主其他の寄附せられし遺品・寶什甚だ多かりしが、今存するもの少し、明治維新の後、寺領幷に觸頭を廢止せられ、加ふるに檀家少數なるを以て、寺院の維持益々困難に陥り、堂塔も之を修繕するの資力なく、ひたすら風損雨蝕のまゝに委したれば、今は舊時の壮観を存せず、唯本堂(桁行五間梁行四間)本堂内陣(桁行三間梁行三間)寶蔵(桁行三間梁行二間)庫裡あるのみ、
(転載終)

国前寺現況

「日蓮宗の本山めぐり」(昭和46年)では建物として、本堂、庫裡、仁王門、経蔵、鐘楼、七面堂、護法堂とあるが、七面堂と護法堂は本堂背後にあるため、未見。推測であるが、七面堂と護法堂位置を次の国前寺伽藍図で示す。 経蔵とは不明。
 国前寺伽藍図:YahooMap
 國前寺全景:本堂背後の石階を登った平坦地の堂宇が七面堂(拝殿/本殿)であろう。
 國前寺本堂/庫裡
2015/08/22撮影;
仁王門:天保11年(184)建立。
 国前寺仁王門1     国前寺仁王門2     国前寺仁王門3       仁王門前題目碑
国前寺本堂:重文。寛文11年(1671)自昌院の建立、重層寄棟造、唐破風造の向拝を付設、外壁は塗籠とする。堂前の4基の石灯籠も本堂と同年の刻銘がある。

国前寺本堂11
国前寺本堂12
国前寺本堂13
国前寺本堂14:左図拡大図
国前寺本堂15
国前寺本堂16
国前寺本堂17
国前寺本堂18
国前寺本堂19
国前寺本堂20
国前寺本堂21
国前寺本堂22
国前寺本堂23
国前寺本堂24

庫裏:重文。本堂と同年代の建立と推定、切妻造、屋根錣葺。光晟の建立と伝える。
 国前寺庫裡1     国前寺庫裡2     国前寺庫裡3
鐘楼は明治38年再建。
 国前寺鐘楼1     国前寺鐘楼2

 国前寺寺務所     国前寺檀信徒会館:安穏閣という、写真向かって右側である。

●國前寺歴代
 開山 龍華樹院日像 康永元年11.13寂(1342)
 二祖    暁忍 文和3.11.8寂(1354)
 三祖 大覚大僧正 貞治3.4.3寂(1364)
  (略)
 18世 大乗院日達 萬治4.2.13寂(1661)76歳  ※日達は國前寺歴代に載り、除歴はされていない。
  (略)

國前寺末寺

近世には、国前寺は日蓮宗本山となる。
 概要で推察できるように、國前寺は不受不施から、書物をし悲田派に変わり、悲田派禁制ののち受不施に転じ、生き残ったものと思われる。
○佛性山実相寺(香取市苅毛)
  →下総常葉檀林(苅毛檀林)が設けられる。
 実相寺は、嘉元2年(1304)あるいは明応3年(1494)に真言宗から日蓮宗に改宗、
 延宝2年(1674年)には常葉談林が開檀され、不受不施派檀林の一翼を担う。
 ※この開設年代からいえば、常葉談林は寛文年中の惣滅後、度重なる弾圧の中、不受不施派最後の教線を護った拠点
 という評価は妥当なものであろう。
○広栄山法雲寺(麻布法雲寺:渋谷区広尾)
 寛永7年(1630)麻布今井町に創建。開山は日校、開基は詳でない。
 享保12年(1727)付近の今井谷町に移り、宝暦年間更に桜田町に移る。
 境内1209坪。国前寺末である。創立以来広島藩主浅野氏の保護を受ける。
 明治34年下澁谷村(現在地)に移る。
○大乗山薬王寺(鎌倉市扇ガ谷)
  →鎌倉薬王寺
○日妙山法華寺(富山市梅沢町)
 梅沢町に現存するも、詳細は不明
○寿正山妙栄寺(三次市三次町)
 壽正院(三次藩初代浅野長治の母)の御願によって、慶安元年(1848)風源院(浅野長治)が建立する。
 元禄13年(1700)及び文政2年(1816)に2度にわたり焼失するも、広島本藩の外護もあり、その都度再建される。
○圓教山得城寺(長崎市神浦江川町)
 神浦に現存するも、詳細は不明
  ↓2023/08/27追加:
 下総玉造の玉造城跡にあった円教山得城寺は、25世真章院日憲代の明治12年三月二十三日火災に遭い焼失し、再興に至らず、長崎県上浦村(現長崎市上浦町)に寺籍が移されるという。
過去帳および他の什物と檀家の一部は蓮華寺に移される。
本寺の檀家は不受不施派内信が多く、禁制の時代、≪得城寺書院は、その隠れ庵≫であったという。
また現地には歴代住職のほか多くの墓碑が残されているようである。おそらく得城寺開山と思われる「得城院日進上人」の石碑もあると思われる。
 ※ただ、寺籍を移した長崎得城寺がなぜ広島の國前寺末であるのかは不明。
  →詳細は総常盤村>南玉造得城寺址(玉造城址) を参照
  ※上浦得城寺景観(GoogleMap より転載):入母屋造の本堂、庫裡、別途客殿もある?、題目石、数基の板碑類があると思われる。


自昌院満姫

2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より
《振姫(正清院)》
 ※徳川家康三女、蒲生秀行の室、後に浅野長晟(紀伊和歌山藩2代、広島藩初代)に再嫁、浅野光晟(広島藩2代)の母
「祖心尼なあ」が町野家に再嫁して4年後、主君蒲生秀行が二男一女を残し急逝する。
秀行の室・振姫は徳川家康の娘(三女)であるため、遺児の蒲生忠郷と忠知は、「松平」姓を賜り、会津60万石を襲封する。
その後家康は振姫を紀伊37万650石の浅野長晟に再嫁させる。更に長晟は広島安芸に移封される。
振姫は光晟(浅野本家)を生み、光晟が2代安芸広島藩主となる。
 (2023/12/06画像入替)
  徳川・前田・浅野家関係図:壽福院・自證院(振姫)・千代姫・自昌院(満姫)・本妙院(充姫)系譜
《自昌院満姫》
 自昌院(満姫):父は加賀三代藩主・前田利常、母は二代将軍・徳川秀忠の娘・珠姫(天徳院)。
 祖父は前田利家、祖母は壽福院。
 戒名は自昌院英心日妙大姉、元和5年(1619) - 元禄13年(1700)
慶長6年(1601)数え3歳で前田家に嫁した珠姫(秀忠の娘)は、24歳で死去するまでに三男五女を生む。15歳の慶長18年(1613)に長女亀鶴姫を生み、元和5年(1619)に6人目の満姫を生む。
寛永元年(1624)、12歳の亀鶴姫・6歳の満姫・4歳の富姫はともに、祖母の壽福院ちよに従い江戸の前田家上屋敷に移る。
珠姫の娘三人(亀鶴、満、富)は、上屋敷にて、祖母(壽福院)が孫を養育する。
 さて、日奥・日樹は備前法華の系譜である。
その日樹を師として支援したのが寿福院ちよ、加藤清正などであるが、その寿福院の法華信仰を見て育ったのが満姫(自昌院)である。
寛永8年(1631)、壽福院逝去、61歳であった。満姫は6歳から12歳まで、祖母の壽福院と江戸で暮したことになる。
その年に前田家は幕府より謀反の疑いをかけられ、前田利常は嫡男光高を伴って江戸城に入り謹慎し、嫌疑を晴す。
その前後に満姫と廣島浅野光晟(松平安芸守)との縁談がまとまり、寛永12年(1635)16歳の満姫は家光の養女として輿入れする。
 浅野光晟の母は徳川家康の三女振姫である。最初、蒲生秀行の室となり二男一女の母であったが、秀行の急逝後、徳川家康は蒲生家から振姫を戻し、当時紀伊の浅野長晟に再嫁させ、生まれたのが広島藩主2代の浅野光晟である。
 この時期、江戸における法華宗不受不施派の布教拠点が確立される。
 寛永4年(1627)四谷千日谷に不受不施の小湊誕生寺の拠点として妙円寺創建(小湊誕生寺末寺)
 寛永5年赤坂紀伊徳川家屋敷内に久遠寺末の仙寿院創建(これは受不施派)される。
 寛永6年千駄ヶ谷に寂光寺(不受不施派)が開かれる。
 寛永8年赤坂より青山権田原伊賀町に立法寺(不受不施派)が移転する。 
幕府は不受不施派の活躍に寛永8年(1631)10月、新地に寺院建立を禁止する。
この年は壽福院が歿し、家光が弟の忠長を甲斐に幽囚し、翌年改易にした年である。
寛永9年1月、二代将軍徳川秀忠が死去、5月には加藤清正の嫡男・忠広が改易され山形庄内の鶴岡、丸岡に配流される。
 繰り返すが、
寛永12年(1635)16歳の満姫は老中土居大炊頭利勝・酒井雅楽守忠世に伴われ、江戸城より霞ヶ関の浅野家上屋敷へ嫁ぐ。
将軍の娘が嫁ぐとき、化粧料とか賄料が与えられる。満姫の場合は「隠田屋敷」(隠田村に与えられる)であった
《隠田屋敷》
寛文4年(1664)浅野家が原宿(武蔵国豊嶋郡穏田村)に下屋敷・隠田の抱え屋敷を拝領する。
 ※しかし、下記に示される資料などから、隠田屋敷の拝領は寛文4年より少し前と思われる。
江戸の古地図(安永年間)に「松平安芸守抱え屋敷」と記されている場所が、満姫(自昌院)が拝領した「隠田屋敷」である。
「東京市史稿」には「隠田屋敷拝領は延宝以前(1673)。拝領の時既に熊野権現社あり」とある。
青山の浅野本家・広島藩松平安芸守「下屋敷」の下方に隠田川があり、それを越えると長泉寺、越後糸魚川藩松平日向守下屋敷がある。
その隣地が熊野権現社である。その熊野社を囲むように自昌院の「隠田屋敷」がある。現在の「神宮前六丁目 33 番地」の辺りである。
   松平安芸守抱え屋敷:安永年中(1772-81)     隠田屋敷之圖:宮地とあるのが熊野権現
   東都青山絵図:熊野社、妙円寺、仙寿院
 「寛文の惣滅」で、弾圧され地下に潜んだ不受不施派の僧俗を匿った人物が自昌院満姫であり、その場所が原宿の広島浅野本家の下屋敷の近く「松平安芸守抱え屋敷」である。
浅野家は下屋敷33、877坪を幕府より拝領し、隠田川の対岸近くの土地17、370坪を百姓より買い求め「抱え屋敷」を自昌院専用屋敷としたのである。新寺建立は禁止されているため、屋敷内に表向きは熊野権現社再建とし、寺社奉行が介入できない武家屋敷内に熊野社を建て、不受不施僧を隠まうのである。
 自昌院は写経した法華経八巻を熊野権現に奉納し、玉造蓮華寺の日浣に開眼を依頼し、自らの心願を祈るという。
自昌院が支援した安国院日講は、
 1)仏法僧の三宝を敬う心で布施するのは敬田であるが、他宗の者からは布施を受けられない。
 2)慈悲の心で供養(悲田)されても、施主が法華信者でなければ三宝が冒涜され受け取れない。
 3)寺領、道路、水などは国主の供養(恩田)と考えるべきでない。
 国民として当然の権利であり、幕府が言う供養としては受け取れない。
と主張する。
不受不施の正統性は日講の云う通りである。
しかし徳川幕府の宗教政策は、不受不施派・キリシタンを口実に外様大名の取り潰しを狙っているものでもある。

 寛永7年(1630)身池対論が行われ、その採決に抗議し、池上本門寺などの不受不施僧が自害する。
あるいは出寺し、地下で不受不施を堅守するなどの深刻な事態となる。
この出寺した不受不施僧を江戸において匿まい支援したのが、自昌院である。
自昌院の法華信仰は、祖母寿福院の不受不施義の法華信仰を相続したのである。

 この難しい時代に自昌院満姫は、悲田派の道を選び、浅野家・加賀前田家の改易を逃れ、不受不施の法華信仰を貫いたのである。日浣・日講が肥後・日向に配流される寛文6年(1666)は自昌院48歳である。
この年の一月江戸雑司谷に鬼子母神堂を建立する。
子孫繁栄は表向きで、不受不施派に対する弾圧に対し、法華経の行者守護を鬼子母神に強き祈願を込めたに違いない。
   →雑司谷鬼子母神堂は雑司ヶ谷法明寺の雑司ヶ谷鬼子母神の項を参照。
 この当時、不受不施派の寺院は江戸に212ヶ寺あったと言われる。
  ※不受不施派寺院212ヶ寺とは「禁制不受不施派の研究」宮崎英修(p.46-50)に基ずくものと思われる。
おそらく、自昌院満姫は日遵より法華法門を聴聞していたと推測される。
万治2年(1659)2月3日、自昌院は浅野家「隠田抱え屋敷」にて妙法蓮華経八巻の写経を終える。
これは、2年前の明暦3年(1657)1月の「明暦大火」による焼死者10万8000人、翌年の万治元年(1658)に自昌院の父・前田利常が死去した追善と国家安全を期しての写経であった。
   自昌院法華経:妙円寺蔵     自昌院満姫筆の法華経
寛文元年(1661)6月1日上記の法華経写経八巻を開眼したのは、日遵の後継者たる玉造蓮華寺日浣(明静院)である。
自昌院はこの法華経を熊野権現に奉納し、法華信仰を増進した。
自昌院の紋は梅鉢紋であり、のち自昌院の法華経八巻が納められるのは原宿神宮前の妙円寺であであり、その寺紋は梅鉢紋である。
熊野権現の別当が妙円寺だった可能性もある。(妙圓寺は隠田熊野権現別當という。)
妙圓寺は関東大震災に被災、東京大空襲で全焼するも、住職が唯一持ち出したのが自昌院法華経である。
なお、関東大震災で被災した熊野権現は再建を断念し、そのとき妙円寺に自昌院法華経が移管されたと考えられる。
  
 自昌院は大乗院日達(下に掲載)、安国院日講に帰依し、特に日講が日向佐土原に配流の砌は、兄弟の契をした間柄と伝わる。
さらに、自昌院は浅野本家の広島2代藩主・浅野光晟に嫁したことにより、安芸国前寺を菩提寺として諸堂を再興する。
しかし元禄4年(1691)徳川幕府は悲田不受不施を禁止し、悲田派であった国前寺覚雲院日憲が受派への改宗を拒否したため、翌年には菩提所と寺領を召上られ身延の支配下となる。
---「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」終---

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本妙院充姫

戒名:本妙院殿顕常日住大姉、広島藩4代藩主浅野綱長の女充姫、公家(羽林家)の河鰭(かわばた)少将輝季室、元禄17年(1704)〜延享元年(1744)4月29日逝去。
 本妙院は不受不施派の外護者であったと推定される。それを推定する遺物が下総玉造に遺存する。
下総玉造には本妙院殿碑が残る。
 その刻銘は「妙法 本妙院殿 顕常日住大姉 延享元甲子(1744)四月二十九日逝去 施主 蓮性院宇幸是日解 芸州大守娘川鰭(かわばた)三位殿簾中 甲陽源姓跡部一族霊魂 道喜居氏妙教了教慧光」である。
その施主蓮性院日解は不受不施僧(下総林法林寺)で、寛政多古法難により同6年(1794)十一月牢死と伝える。
 なお、刻銘中の「甲陽源姓跡部一族」とは旗本で日誉(不受不施は檀林である下総常葉檀林(苅毛檀林)9世)に帰依していたといわれる。
刻銘から本妙院と跡部一族との繋がりが示唆される。
 →「本妙院殿」碑


大乗院日達略歴・日達上人建立/再興寺院

2024/04/23追加修正:
◎大乗院日達上人略歴
天正15年(1586)生誕
年紀不明:岡山蓮昌寺にて稚髪(日会)
 ※日達は蓮昌寺日会に付いて得度といわれるが、大著「蓮昌寺史」蓮昌寺、平成14年に日会及び大乗院日達の記述は一切出てこない。奇妙なことである。
年紀不明:安芸国前寺第18世
年紀不明:不受不施の弾圧で国前寺から追放される。
慶長9年(1604)佐渡・相川妙輪寺開創(19歳)・・・慶長9年とは少々若すぎて疑問がある。
元和4年(1618)武蔵・三田大乗寺開基(33歳)
寛永7年(1630)夏、蓮昌寺日達、信濃伊那の日樹上人謫居を見舞う。(45歳)
 同年大乗院日達、日賢、日弘、日領、日充、日進の諸師の追放地に慰問する。
   前六聖人連署の大曼荼羅
  「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
  →大乗院日達は備前法華の系譜>「身池対論・寛永法難」中にあり。
寛永8年(1631)春、ふたたび蓮昌寺日達、信濃伊那の日樹上人謫居を見舞い看病する。(46歳)
寛永年間(1624-1645)鎌倉扇ヶ谷薬王寺中興
正保2年(1645)武蔵・高井戸村本教寺開基(60歳)
慶安元年(1648)武蔵・飯倉一乗寺開基(63歳)
寛文元年(1661)示寂(76歳)

○「日蓮教団史概説」 より
 (寛文の不受不施の法難の時)岡山蓮昌寺住僧の大乗日達は、日樹を遙かに信州伊那の配所に慰問」する。
また「(万治寛文年中の多くの不受不施僧・寺院が処分される中で)大乗日達、平賀の日誠、小湊の(長遠院)日遵、三浦大妙寺日慈、名古屋本住寺観照日淳、蓮昌寺本壽日船などが前田・浅野等の外護のもとに古制を堅持」する。

○ページ:本覚真如山本教寺 より
 「開山日達(天正15年/1586〜寛文元年/1661)は備前蓮昌寺日会に就いて稚髪、本山自昌山国前寺18世不受僧として不受派の統帥者で知られた長遠院日遵にその功績を称えられている。」
 ※但し、蓮昌寺日会は蓮昌寺歴代禄には記載ない。
 「(不受不旋義の故)国前寺を追われ、各地に弘教、三田大乗寺、飯倉一乗寺、青山梅嶺寺、佐渡妙輪寺など
新寺建立すること九ヶ寺、鎌倉薬王寺(国前寺末)はじめ堺経王寺、 麻布法雲寺(国前寺末)などを再興する。」
 つまり、日達は不受不施僧であり、岡山蓮昌寺にて出家し、国前寺18世であった。
日達以降も国前寺は不受不施(悲田派)であった、元禄5年(1692)不受不施派禁圧(所謂悲田派の禁止)によって、浅野家もお家安泰のため幕府の意向に逆らえず、幕府に阿ざるを得なかったものと推測される。

上記の本覚真如山本教寺のページ では、日達による新寺9ヶ寺、再興は3ヶ寺の例示がある。
◎新寺9ヶ寺
◆本覚真如山大教寺:目黒区青葉台4-7-7
○大教寺のHP より
 本覚真如山と号す。身延久遠寺末。
正保2年(1645)の創立。開山大乗院日悦。開基大僧都日達。
 創立当時は高井戸村にあったが、正徳3年10世日住の時に下馬引澤村へ、明治28年19世日解のときに現在地(目黒)へと移転した。
 (以上の創建・寺歴については「日蓮宗寺院大鑑」の記事を引き写し)
 開山日達(1586〜1661)は岡山蓮昌寺日会に就いて稚髪、本山自昌山国前寺18世不受僧として不受派の統帥者で知られた長遠院日遵にその功績を称えられている。
 昭和9年本堂建立。
◆三田大乗寺:現天台宗永隆寺:目黒区中目黒5-7-21
 元和4年(1618)日達上人の開基、日蓮宗麻布山大乗寺と号する。
 元禄11年(1698)不受不施禁制の余波で、天台宗に改め随道上人が中興する。
その後寺号を「三等山永隆寺」と改号する。
 明治35年三田小山町より現在の地に移る。
 2019/08/25追加:
 〇「備中領主戸川の時代 庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾の歴史」戸川時代研究会、平成14年(2002) より
 撫川戸川氏
  菩提寺は江戸三田小山の大乗寺である。
 麻布山大乗寺は元和4年(1618)大乗院日達の開山。京都妙覚寺に属する。
 元禄11年(1698)住職日衷は遠流となる。おそらく大乗寺は悲田派であったのであろう。
 寺は天台宗日光門主上野寛永寺お預けとなる。(つまり天台宗に改宗されたということである。)
 天保5年(1834)三等山永隆寺と寺号変更する。
 明治35年三田小山町より目黒区中目黒5-7-21へ移転する。
 撫川戸川氏初代逵富、3代逵恒、4代逵邦、5代逵壽、6代逵義、7代逵寛は大乗寺に葬られる。
 2代逵索(のり)は妹尾盛隆寺に葬られる。
 8代逵敏(とし)は讃岐松平氏からの養子であり、明治27年宮脇村西方寺に葬られるも、
 明治40年庭瀬不変院に改葬される。
◆飯倉一乗寺(江戸麻布一乗寺):港区麻布台2-3-22
 廣栄山と号す、小湊誕生寺末。潮師法縁。
慶安元年(1648)大乗院日達の開山である。
古い祖師像を有し、その彫刻手法から推定すると鎌倉後期か室町前期の制作と思われる。永年、多くの信徒の焚く香で黒い祖師像であったが、先年修復され、威厳ある祖師像に甦る。別に高村光雲作の祖師像が安置されている。
戦災で伽藍を焼失、平成元年庫裡を7階建のビル建替え、その内2階から6階はテナントに賃貸、都心型寺院の経営を試みる。
◆青山梅嶺寺:
 青山とは東京であろうが、「日蓮宗寺院大鑑」を含め、一切情報なし。
鎌倉扇が谷薬王寺が梅嶺寺と号したとも言われ、薬王寺に埋葬された伊予松山藩蒲生忠知の息女の院号が「梅嶺院殿」などから、日達との関係性が覗われるが不明である。
◆佐渡妙輪寺:
2015/08/31追加:
 慶長9年(1604)大乗院日達上人妙輪寺を開創。
 → 塚原根本寺中「佐渡国寺社境内案内帳」及び「寺社帳」の末寺の項に記載がある。
     相川下寺町
      覚鷲山妙輪寺:開基大乗院日達、慶長年中建立、・・寺号を妙蓮寺と云、京都妙覚寺末、
      寛文11年妙輪寺と改、根本寺末に成る、
      元禄年中再建立、寛保元年本堂、諸尊、仏具残らず焼失、延享5年建立、番神堂は明和2年再建立、
      境内1反5畝歩。
  寛永7年(1630)京都妙覚寺18世妙耀院日奥上人法久寺を開創。
   ※日蓮宗法久寺(次助町)については、次のようにも云う。
     <「佐渡金山遺跡(上寺町地区)の分布調査成果について」佐渡市世界遺産推進課>
     元和8年(1622)僧日貞が上相川岩崎町に法円寺を建立。
     寛永6年(1629)次助町に移転。
     寛文11年(1671)京都妙覚寺から根本寺末寺となり、寺号を法久寺と改める。
     昭和17年下寺町妙輪寺に合併、このとき妙輪寺は法輪寺となる。
 宝暦年中以前に佐渡相川中寺町妙栄寺(開基は不明)は退転する。妙栄寺祖師像を妙輪寺に納めるという。
 明治32年妙輪寺は究竟院日禎大僧上開山の円徳寺跡地に移転する。
  ※圓徳寺は慶長元年開基という。
  ※「佐渡国寺社境内案内帳」では
   1.相川下寺町
    宝生(性)山円徳寺:京都本圀寺末、慶長元年本圀寺少僧正地鎮上人渡海、開基す。境内3反9畝18歩。
   とある。この圓徳寺のことであろう。 → 「佐渡法華宗諸山」(「佐渡国寺社境内案内帳」)のページ中に記載。
 昭和17年、法久寺が火災により焼失、再興を断念し妙輪寺に合併、智中院日東上人を初祖とし法輪寺と改号する。
  ※久栄山法輪寺は佐渡市相川下寺町13に現存する。
○「佐渡相川の歴史」別冊 佐渡相川郷土史事典 より
佐渡相川法輪寺
 下寺町にある日蓮宗の覚鷲山法輪寺は、慶長9年(1604)5月に大乗院日達(同9年死去)による開基。
はじめ妙蓮寺といい、不受不施派の京都妙覚寺末であったが、寛文9年(1669)に妙輪寺と改名し、大野の根本寺末となる。
元禄年間に再建したあと、享保2年(17171)に出水をうけ、寛保元年(1741)には火災に遭い焼失。
明治初年には廃寺、同十年復興。三本橋からの移転などが重なる多難な寺歴を重ね、のち上寺町にあった法久寺(元和8年日興上人により創立)も合併し、昭和17年法輪寺と改称する。
◆本陽寺:上田市鍛冶町
文緑4年(1584)小諸藩主千石秀久室本陽院(本陽院殿槃室妙栄大禅定尼)により小諸に開基。開山は大乗院日達上人。
元和8年(1622)千石氏は上田に移封、現在地に移転する。
 仁王門、本堂(寛文12年/1672再建)、庫裡、玄関(旧上田城藩主居館の玄関を明治中期に移建)、番神堂、鬼子母神堂を具備する。
など
◎再興
仙台孝勝寺中興(12世)
 孝勝寺歴代譜では、12世日達とある。
 但し、「日蓮宗寺院大鑑」ほか、日達に触れたものは見当たらない。
鎌倉薬王寺
 寛永年間(1624-1645)鎌倉扇ヶ谷薬王寺中興
◆堺経王寺
2015/08/31追加:
本覚山と号する。
天文5年(1536)天文法華の法難では焼失した本山妙覚寺は堺の末寺である本寺に避難する。
往時は寺域3000坪を誇るも、大坂冬の陣の兵火や昭和20年の戦災などで衰微する。
現在の本堂は七面堂を改築したものという。
祭祀する日限七面大明神の大祭は現在も続き、この大祭では天文の法難に由来するといわれる「千巻陀羅尼」が執行される。
 ※大乗院日達の中興の情報は未掌握。
◆麻布法雲寺
 → 上の国前寺末寺の項に記載。
など


2015/08/28作成:2024/04/23更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系