東 海 ・ 東 山 諸 国 の 日 蓮 宗 諸 寺

甲斐・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩・信濃・飛騨・美濃の日蓮宗諸寺

甲斐の諸寺

甲斐飯野妙善寺
光明山と号する。鏡中條長遠寺(下に掲載)末。
多宝塔(平成10年建立)を有する、 →飯野妙善寺

鏡中條長遠寺(じょうおんじ)
南アルプス市鏡中條、恵光山と号する。身延山末、鏡師法縁縁頭寺。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
文治年中(1186-89)甲斐源氏の一族である加賀美遠光の祈願所として、真言宗として創建される。
開山は久成院日心で、小室日伝の俗弟であった。建治3年(1277)身延山に登り、宗祖の教化を受け、改宗する。
 (中略)
江戸期には身延山を中心に甲斐の寺を三分して、東部は甲府遠光寺、中部は中条長遠寺、西部は市の瀬妙了寺を触頭とし、寺院を統制する。中本寺であった。
寺中に玉泉院(山梨県南アルプス市鏡中條705・仁王門門前と思われる。)がある。一老職。明治39年寺中体善坊を合併。
末寺:Wikipedia より
 功徳山蓮生寺(山梨県甲斐市玉川)
 ○光明山妙善寺(山梨県南アルプス市飯野) →上に掲載。
 長慶山福王寺(山梨県南アルプス市飯野)
 弘經山法源寺(山梨県南アルプス市十五所)
 法忍山妙蓮寺(山梨県南アルプス市鏡中條)
 意光山常教寺(山梨県南アルプス市鏡中條)
 遠秀山泉能寺(山梨県南アルプス市藤田)
 法勝山妙遠寺(山梨県南アルプス市寺部)
 江原山法音寺(山梨県南アルプス市江原)
 金光山本乗寺(山梨県南アルプス市西南湖)
 泉光山妙善寺(山梨県南アルプス市和泉)
 恵命山蓮華寺(山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢)
 鬼島山妙現寺(山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢)
 修瑞山大蓮寺(山梨県韮崎市本町)
 法岸山淨蓮寺(山梨県韮崎市旭町上条南割)
 法榮山妙蓮寺(山梨県西八代郡市川三郷町落居)
 依田山常慶寺(山梨県西八代郡市川三郷町落居)
 淨味山蓮性寺(山梨県中央市臼井阿原西花輪)
 延壽山妙圓寺(長崎県平戸市宝亀町)

甲斐小室懸腰寺
妙石山と号する。小室山妙法寺末。
日蓮上人と恵頂阿闍梨(日傳上人)との法力対決で用いられた巨石を祀る。
懸腰寺は小室山南方、渓を隔てた数町の所にある。
 小室懸腰寺山門     小室懸腰寺本堂:法論石は堂内にある。

甲斐鰍沢妙台寺
千光山と号する。小室山妙法寺末。
詳細不詳。南に八幡社、蓮華寺と続く。
 鰍沢妙台寺

甲斐鰍澤蓮華寺
寛元4年(1246)、日興上人は甲斐大井荘(おおいのしょう)鰍沢に生誕する。
この地鰍澤は中世末・近世・近代初頭まで、駿信往還の宿場町であり、また富士川水運の集配地でもあり、交通の要衝であった。当時は問屋、旅籠、商店が軒を並べていたと云う。特に見延山お会式のときは雑踏を究めたと伝える。
日興上人は大井荘荘官の子息であったが、蓮華寺は父の館跡を弟子日華に命じて寺院としたと云う。
開山は寂日坊日華、慶長16年(1611)に蓮華寺と改号する。
 鰍沢蓮華寺本堂     鰍沢蓮華寺庫裏:伽藍は近年造替され、風情は全くない。

甲斐鰍澤蓮久寺
千秋山と号する。小室山妙法寺末。蓮華寺の南すぐ(1.5町)にある。
こちらも蓮華寺と同じく、日興上人誕生の地とする。門前道路を挟んで産湯井が残る。
現在、本堂(寛政6年1794建立)、庫裏(明和7年1769建立)、天神堂(寛政8年建立)、鐘楼(昭和)、水屋堂(平成)を有する。
 鰍沢蓮久寺本堂     鰍沢蓮久寺天神堂

甲斐鰍沢感應寺
真龍山と号する。小室山妙法寺末。
山麓に近年のものと思われる本堂(小宇)のみがある。詳細不詳。蓮久寺南、沢を越えた山裾にある。
下記の明神七面堂は、背後を登ることすぐにある。
 ※七面堂棟札には感應寺住持の関与を窺わせる記載があるので、七面堂は当寺の仏堂であったと推定される。
 鰍沢感應寺堂宇

甲斐鰍沢明神七面堂
本殿は、宝暦5年(1755)鰍沢村が施主となり建立、棟梁は身延の池上民部、同角之丞と云う。
 江戸期初頭、角倉了以によって富士川が開削され、鰍沢から駿河の岩淵まで開通する。
高瀬舟による富士川舟運が盛んになり、鰍澤は河岸として大きく発展する。
七面堂は高瀬舟の船頭たちが航行の安全の守り神として建立する。本殿内部の柱には金箔 を貼り、中備として12支の彫刻を配した蟇股を置く。蓋し、この頃の鰍沢の財力を示すものであろう。
 本尊七面天女像の裏面には、日現上人がその師日悦上人の守り本尊であった像をここに奉納したとの墨書がある。
「山梨県南巨摩郡における在郷七面堂建築について : 鰍沢町明神および十谷七面堂・早川町大原野七面堂の事例研究」渡辺洋子(「日本建築学会計画系論文集 第495号」1997年 所収) では以下にようにある。
 「街道から石段を登り、鳥居をくぐり、感應寺の裏をまわって二天門を通り、急な階段を登ると七面堂の境内となる。境内には拝殿・本殿と稲荷堂・鐘楼が建つ。
 棟札には「本社建立宝暦5年 鰍澤村真龍山感應寺第9世本立院日如代 施主は鰍沢村中 棟梁は身延の池上民部、同角之丞」とある。
 昭和10年の調査報告「鰍沢七面堂の建築」では以下が記録される。
木造七面天女像は鰍沢経王寺14世日悦の所持していた像を弟子の17世日現が本尊として祀る、日現の在職中の延享元年(1744)火災、その後現在の地に遷座する、寛延4年(1754)日現在職中船方衆を施主に七面随身門・随身を再興するときの記録がある、と。
 明神七面堂の伽藍は聞き取り及び史料から拝殿・幣殿・本殿の形式を採っていたことが明らかである。
拝殿は5間4尺2寸×5間3尺の大きな建築で、戦後は解体し明神町公民館として再移建される。その形は入母屋造・茅葺で縁を廻らせ蔀戸を用いるものであったとされる。
 拝殿の解体移築の後、幣殿も取り壊し、伽藍内にあった日朝堂を拝殿跡に移築する。これが現在の拝殿である。しかし現在は破損が著しい。幣殿及び旧拝殿の向拝の礎石は今も残る。」

 本殿平面図     本殿内厨子     明神七面堂拝殿:1997年(以前)当時、今は存在しない。
現在、七面堂に至る街道からの参道は、おそらく途中が崩落のため、侵入が不可能で、感應寺墓地から至ることが可能である。
感應寺背後の狭い地に二天門が突如出現し、その背後から尋常ではない急な石段があり、それを登りきると、七面堂の境内に至る。境内は一定の広さがあるが、ごく近年(2010年と思われる)に修復された本殿と、今はなき拝殿などの礎石のみが残る。
本殿は3間×3間、1間向拝付、入母屋造、屋根銅板葺(当初檜皮葺)
 ※1997年上掲論文では残存するも、その後退転したか、本殿修理に際し、取壊したかであろう。
 鰍沢明神七面堂01:拝殿などの礎石が残るが、一部は本殿参道整備に動かされていると思われる。
 鰍沢明神七面堂02     鰍沢明神七面堂03     鰍沢明神七面堂04     鰍沢明神七面堂05
 鰍沢明神七面堂06     鰍沢明神七面堂07     鰍沢明神七面堂08     鰍沢明神七面堂09
 鰍沢明神七面堂10
 鰍沢明神七面堂二天門     鰍沢明神七面堂石階:下は二天門


甲斐小室妙法寺
 →甲斐小室妙法寺


身延山久遠寺
 →甲斐身延山

甲斐石和遠妙寺
鵜飼山と号する。
文永8年(1269)日蓮上人、同地を訪れ時忠の亡霊と遭遇するも、この時、日蓮上人は亡霊を成仏させること能わず。
文永11年(1274)日蓮上人、日朗・日向を伴い、石和川(笛吹川)にて鵜飼の翁(平大納言時忠)の亡霊に、再度出会う。
日蓮上人は3日3夜にわたり、日朗の集めた石に、日向が磨った墨を使い、1石に1文字ずつ法華経の経文69,384文字を書いて川底に沈める。この川施餓鬼により鵜飼翁は成仏するに至ると伝える。
これは謡曲「鵜飼」(榎並佐衛門五郎作、世阿弥元清改作)として、江戸期流行する。
このため、この謡曲「鵜飼」の由緒寺院である当寺は江戸期、江戸出開帳の回数は見延山に並ぶほど多かったと云う。
日蓮上人の川施餓鬼の跡地に、本覚坊日養上人鵜飼堂を建て、明徳元年(1390)日梵上人が場所を移し堂宇を建立する。
これが石和山鵜飼寺であり、慶長年中日遠が鵜飼山遠妙寺と改号する。
現在、総門・仁王門・本堂・庫裏・客殿・鐘楼、及び七面堂・漁翁堂・願生稲荷堂の小宇を有する。
 石和遠妙寺総門:総門の内側に仁王門がある。
 石和遠妙寺仁王門:寛政元年(1789)再建、平成19年修理、この仁王門の立位置の雰囲気は京都頂妙寺に似る。
 石和遠妙寺本堂     石和遠妙寺漁翁堂

甲斐八代定林寺
 →五重塔(明治以降)のページ543にあり。

甲斐富士吉田上行寺
2017/03/15加筆・修正
身延山別院(身延派であろう)と称する。常行寺とも綴る。北口本宮富士浅間権現の西に位置する。
文永6年(1269)日蓮上人は富士山五合五勺の経ヶ岳で百日間籠り、そこに法華経を埋納すると伝えられる。その際に日蓮上人は御師「塩谷」を宿坊とする。
上行寺の地は、塩谷の内庵だった所だといわれ、日蓮上人が開いた草庵ともいう。
あるいは、「塩谷」の御師が法華経弘教のため、日蓮上人に仕え、自らの屋敷を庵室としたのが上行寺の草創ともいう。
その後、観応2年(1351)日仙上人(永徳2年1382遷化)が中興開山し、上行寺とする。
「勝山記(妙法寺記)」の明応8年(1499)の条に「吉田上行寺上へ引ルヽ也」とあり、この年に上行寺は現在地に移転と考えられる。
昭和39年法華宗本門流から日蓮宗に改宗。
 富士吉田上行寺


信濃国の諸寺

上田妙光寺
2019/09/10追加:
○サイト:妙光寺の歴史 より
妙光寺の歴史>妙光寺沿革:
 天文元年(1532)井上長大夫居士の発願により、法泉院日雲を開山とし、一堂を創建し、法泉院と称するに始まる。
以降、四世まで法泉院代である。
修禅院日進:
 寛永7年(1630)2月の身池対論の判決で、碑文谷妙光山法華寺11世修禅院日進は、池上方として信濃上田に追放、上田城主仙石政俊預となる。
日進、当地にあること34年、弘教伝道す。上田城主仙石政俊は、自らが開基となり、住庵法泉院を改めて修禅山妙光寺を開創する。
日進は寺号初祖、中興開山となる。
寛文3年(1663)寂。
 ※おそらく、日進は、住庵法泉院という書き方から、法泉院に住居したものと思われる。
  不受不施派の由来は備前法華の系譜を参照。
 なお、不受不施とは多少の因縁があるのかどうかは不明であるが、次のように云う。
元禄11年(1698)仙石家が城内で日頃信仰していた弁財天が、上田城の鬼門除けとして当山に遷座する。
この弁財天はそもそも厳島弁財天の分身で、仙谷忠政(忠俊であろう)(仙石政俊長男)の正室として嫁してきた安藝広島2代藩主浅野光晟の娘(亀)が、浅野家で信仰していた厳島弁財天の分身を守本尊として奉持してきたものであるという。
 ※浅野光晟の正室は自昌院(満姫・前田利常の三女)である。
2023/06/11追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
修禅山と号す。身延山末
天文元年(1532)創建、開山法界院日雲、開基修禅院日進(寛文3年/1663寂)。
寛永7年(1630)日進、身池対論で上田城主仙石越前守政俊にお預けとなる。
政俊は居城に鬼門除の祈願所を建立小堂法泉院を改築し、日進を迎える。蟄居すること40年、寺号を公称する。
山号は日進の院号、寺号は碑文谷開山妙光院日源の院号に依る。
日進蟄居40年記念碑があり、碑文谷法華寺開山日源木像、当寺開山日進木像を有す。


岡村高國寺
妙宣山と号する。
門前の案内板は以下のように述べる。(大意)
 元和元年(1615)観誠院日長(江戸番町不受不施僧、「日蓮宗寺院大鑑」では「碑文谷日進の弟子か」という)洛陽順拝の帰路、当地にて高島藩士三名を教化、当地に庵を結び、寛永元年(1624)高国寺が創建される。
 ※山号寺号は高國寺殿宣山月光大姉に由来し、大姉は豊臣秀頼臣下禰津城主禰津神平勝直の室で、長崎勘解由左衛門尉俊仲の女、夫君の死後諏訪に住み、高島城下で慶長2年(1597)に寂す。
 ※禰津城は小県郡東部町/現・東御市にあり。
寛永11年(1634)日長、筑前博多香正寺に日延を訪ね本末寺院の契約を結ぶ。
 ※可観院日延は朝鮮臨海君の王子で、加藤清正に連れられ来日、後に小湊誕生寺18世(16世とも云う)に晋山、不受不施僧であり、寛永7年(1630)身池対論で九州へ自ら下向するあるいは追放される。
 ※加藤清正は文禄の役で戦場の孤児3人を伴い帰り、一人の男子は出家せしめ、その男子は後に日遥となり、熊本本妙寺3世、肥前島原護国寺開山となる。
 別の孤児の姉弟の内、姉は備中妹尾領主戸川達安(庭瀬藩の項を参照)に入嫁せしめ、弟は後に日延となり、小湊に晋山し、江戸二本榎円真寺・博多香正寺の開山となる。
  →可観院日延は博多香正寺中にあり。
同年、法華宗信者であり、今出川宰相の妹(永高院)が高嶋藩2代諏訪忠恒に輿入れ、寛永16年後の3代諏訪忠晴を出産。
寛文5年(1665)3代忠晴は本堂表門などを寄進する。
延宝3年(1675)日長上人遷化、87歳。
天和3年(1683)永高院(永高院殿天心日誠大姉・諏訪忠晴生母)江戸藩邸にて逝去、雑司ヶ谷法明寺に分骨、その後に当山に霊廟を建立し42石を寄進、以降歴代藩主の外護を受ける。
元禄12年(1699)4世日逞上人、備中倉敷本栄寺より入山、悲田宗禁制となり不受不施義を捨て、身延山直末となり、転宗する。
享和3年(1803)の大火で類焼、殆どを焼失する。
寺中が2院あるも、安政4年通元院頽廃、明治8年了源院廃寺となる。
現在、本堂(大正7年)、庫裡(享和3年)、鐘楼(昭和56年)、位牌堂(昭和33年)、仁王門(明治3年諏訪上社より移築)、清正公堂(嘉永7年1857)、文庫蔵(江戸中期)、表門(大正9年)の堂宇を備える。
清正公堂があるのは日延との関係からであろうか。
2023/08/13追加:
○「近世信濃国における日蓮教団の展開−信濃国の不受不施について−」作田光照
   (「現代宗教研究」35、日蓮宗現代宗教研究所、2001 所収) より
諏訪郡 宣妙山高國寺
 小湊誕生寺18世可観院日延は身池対論には列座しなかったが、日樹等と法理一味に申し合わせたので同罪であると主張し、自ら追放に加わる。
日延は伊勢国一柳監物殿直盛への預りとなり、まもなく筑前に赴く。
  ※一柳直末は豊臣秀吉の直参の家臣・大名であるが、その室は心誉(黒田職隆<孝高の父>の娘、黒田孝高の妹)である。
  一柳直盛は直末の弟で、直末とともに秀吉の直参である。
  その後、関ヶ原では東軍に属し、慶長6年(1601)伊勢神戸藩主(50000石)となる。
  寛永13年(1636)伊予西条藩主(68000石)に転封されるも、赴任途上逝去する。
   推測するに、一柳直盛の御預けとなった日延は、その事情は不明ながら、
  一柳直盛の兄の室が黒田孝高の妹である縁故の故に、
  筑前博多に預け替え?に類するような処置が可能であったのではないかと思われる。

諏訪郡高国寺の開山観誠院日長は対論から4年後の寛永11年(1634)三月上旬に筑前の日延を訪ね次に記す本尊を賜わる。
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  如三世諸佛法之儀式 寛永十一年甲戌暦三月上旬吉日
    南無无邊行𦬠   正像末弘未法皆成佛之
          大日天王
    南無上行菩薩大梵天王  提婆達多  大印文也、
          身子尊者
          文殊大𦬠
    南無多寶如来       鬼子母神十羅刹女
                 日蓮大𦬠
  南無妙法蓮華経                  日延(花押)
                 小續日家聖人
    南無釈迦牟尼佛  普賢大𦬠  天照大神八幡大𦬠
             目蓮尊者
    南無浄行菩薩大          阿修羅王
             帝釈天王
    南無安立行𦬠   大月天王  為本末契約、授与之者也、歡成坊日長筑前下向時書之
  我今亦如是説无分別法  信州諏訪郡宣妙山高国寺常住
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 この本尊には「為本末契約、授与之者也」とあり、高國寺は身池対論の後、身延の攻勢が強まった時期に、身延の受派へは同ぜず、不受不施の姿勢を堅持することを示すものである。
 この時期、信濃の不受不施派寺院は、末寺帳で確認する限り、筑摩郡(?)小湊末妙光寺のみである。
   妙光寺は元禄12年(1699)3月19日、身延山久遠寺の末寺となる。
   →上田妙光寺
元禄4年、
「此度悲田不受不施御停止ニ付則受不施改派仕候、・・・・
                      元禄四年辛未五月二十七日
                       信州高国寺日逞花押血判
     本寺
      碑文谷法華寺」
                の「誓詞」を本寺である碑文谷法華寺に送る。
  ※元禄以降身延末であるが、「日蓮宗寺院大鑑」では「碑文谷日進の弟子か」というから、それまでは碑文谷末であったようである。
佐久郡妙法山実大寺、法清山尊立寺もこれに同じく悲田不受不施から受派となって久遠寺末に編入されたという。
ここに、悲田派も壊滅し、信濃の全ての寺院は受派に転派する。
2023/01/22追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
身延山末、脱師法縁。
元和元年(1615)の創立。開山は日長(碑文谷日進の弟子か?)。開基檀越諏訪藩主諏訪忠晴母。日長が江戸より来松、一宇を建立。
 ※碑文谷日進:修禅院日進については、上項「上田妙光寺」にあり。
 2012/10/24追加:
 ○寺中の消息(移転):
  ○K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
   昭和7年、高國寺寺中通元院移転、松島山通元院として大和郡山市藤原町1−43に現存
2008/11/14撮影:
 上諏訪高国寺本堂
諏訪上社神宮寺遺構・遺物
上社神宮寺上り仁王門及び仁王像が現存する。
神宮寺の遺物は多くは真言宗寺院に引取られるが、本寺では競売などによって移されたものと思われる。
2008/11/14撮影:
諏訪上社上り仁王門は明治の神仏分離の処置で明治3年高國寺へ移建され、高國寺山門として現存する。
 上社神宮寺上り仁王門1     上社神宮寺上り仁王門2     上社神宮寺上り仁王門3
特に優れた建築ではない。またこの門の仁王像は不明(撮影時には仁王像は無し)
2010/12/10追加:
○「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
 上社神宮寺上り仁王門は弘化4年(1847)大破、同年再建される。
仁王像も同年の作と推定される。像高は210cm。高國寺へは明治3年移建・遷座。
2023/01/22追加;
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
仁王門(上社神宮寺上り仁王門)は老朽化のため、2015年に建替えられる。2015年10月12日本堂とともに落慶。
しかし棟とその周辺には古材が使われ、原形は維持されるという。
仁王像(上社神宮寺上り仁王像)高さ2m超。
 建替え後高國寺仁王門:上に掲載の仁王門が建替え前であるが、外観は継承していると思われる。
 上社神宮寺上り仁王門安置仁王像
          →諏訪明神神宮寺<上社神宮寺・下社神宮寺>

伊那法華道

○伊那谷遺産プロジェクト>PDFファイル「法華道」 より
 甲斐の国と信州高遠を最短(全長約22km)で結ぶ道である。
甲州街道から富士見町の若宮で分かれ、入笠山東斜面を登って大阿原湿原−仏平峠−荊口−山室を通って非持に至る道である。
道沿いには多くの古刹が並び、信濃への法華経伝来の足跡を今に伝える歴史の道でもあったことから、「法華道」と呼ばれた。
御所平峠の南には、文明5年(1473)身延山11世日朝が高座に適した岩を見つけ岩上にて従者に法を説いたといわれる「高座岩」がある。
途中、御所平峠−芝平−荊口−山室への道筋も法華道に含まれたようである。
○「伊那市歴史文化基本構想」伊那市教育委員会、2020 より
南北朝期の伊那は、南朝と関わりの深い地域でもあった。
後醍醐天皇の第八皇子宗良親王は、大河原(現在の下伊那郡大鹿村)に拠点を置き、地域の有力者の力を借り、中央構造線の谷(後の秋葉街道)を行き来しながら活発に活動する。
宗良親王も利用していた中央構造線の谷から山室、荊口、芝平を抜けて諏訪盆地に至る道は、「法華道」と呼ばれ、平安期に最澄が法華信仰(天台宗)を伝えた道である。
室町期には日蓮宗の布教にも使われる。
街道沿いの日蓮宗遠照寺には中世の建物が残る。
遠照寺釈迦堂・内部の多宝小塔は15世紀の建立である。これらは、大工集団・池上一門の大工の造作になる。
 法華道ルート図
○日蓮宗関連遺構
1.遠照寺釈迦堂附多宝小塔:
 高遠町山室:文明年間(1469〜87)建立の釈迦堂の中には、大工・池上氏一族が建てた多宝小塔がある。
2.遠照寺七面堂:
 高遠町山室、日蓮宗における七面信仰を物語るお堂で、現在の建物は江戸中期の建築。色彩豊かな天井絵がある。
3.七面堂:
 谷非持山:七面信仰を物語るお堂で、日蓮宗玄立寺の守護神を安置している。現在の建物は江時代中期に再建された建物。
 ※この七面堂は下に掲載の高遠玄立寺に掲載のように玄立寺の付属仏堂であろう。
4.弘妙寺須弥壇:
 高遠町荊口:日蓮宗弘妙寺本堂内にある朱塗の須弥壇。文政5年(1822)白鳥弥四郎の作で龍の彫刻が刻まれている。<未見>

高遠遠照寺

2022/01/31追加:
伊那市河合村
○「河合村史」 より
河合村山室、村の中央にあり。妙朝山と号す。甲州身延山末。
身延11世日朝上人文明五癸巳年(1473)此の寺に来り、是を開基の祖とす。
末寺同村妙覚山玄立寺、支院、善行院・本行院。
往古天台宗にて、宮澤南にありしを、この為何年頃か引て、日蓮宗の寺とす。宮澤に今寺地有りて、大門のあとあり。
 河合村史・玄立寺遠照寺:明治12年:非持玄立寺を末寺とする。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
文明15年(1483)創立、開山行学院日朝。潮師法縁、住職は小西法縁。
○Wikipedia より
 寺伝では、最澄が東国教化のために伊那谷を通った折りに(「叡山大師伝」)教えに浴し、弘仁11年(820)現在の釈迦堂の場所に前身である薬師堂が建てられた時が草創とされる。
 (1955年文部省による解体調査修理の際、屋根裏より「弘仁十一年薬師堂建之」の矢羽根が発見される。)
伝承では、最澄自作の漆黒の薬師如来を安置したという。
以来、天台宗寺院として発展し、天福元年(1233)現在地より1kmほど南、原妙堂の地に天台宗谷室山天福寺が開かれる。
「三義村誌」には「碩徳名僧相継ぎ諸人の渇仰最も盛んにして・・(隆盛するも)、文正六年十一月伽藍悉く祝融の厄に遭ふ。然るに、文明五年(1473)身延山11世行学院日朝上人、この地に駐錫を垂れ住僧権律師某を教誡す。師本化の慈光に浴し豁然として改宗し名を日用と賜わり遠照寺第1世として、道場を薬師堂の許に創し一寺を建立し、日朝上人を開山と仰ぎ日蓮宗妙朝山遠照寺を開く」(要約)という。
 これまで釈迦堂の建立は、1955年の文部省による解体調査修理の折りに須弥壇壇腹裏板、来迎壁裏面に発見された墨書から天文7年(1538年)とされて来たが、今般の調査において、新築建物に落書きがされるはずはなく、堂内多宝塔が文亀2年(1502)であること、新たに発見された明応5年(1496年)朝師堂建立の墨書(朝師堂前机内墨書)等により、建立年代は40年以上さかのぼり、文明6年(1474)から明応4年(1495)の間と改められた。
現況
◇釈迦堂(附多宝小塔):重文:昭和5年旧国宝に指定。附指定の多宝小塔は昭和30年追加指定。
2020年日蓮宗では、宗門最古の法華堂に指定。
釈迦堂は方3間、一重、入母屋造、向拝一間付き、銅板葺で、西面する。
文明6年(1474)から明応4年(1495)の間の建立。宗門史跡調査委員会の調査により天文7年(1538)建立説は改められる。
15世日耀に至るまで釈迦堂を本堂として充てるが、後に本堂を別に建立する。
和様に唐様及び大仏様を織り交まぜ、大仏様が見られる日本東端の仏堂である。
◇堂内の多宝小塔は、三間多宝塔、瓦棒入板葺。
文亀2年(1502)の建築、大工は塔内部の墨書により高遠鉾持の池上左衛門太夫政清とその一族と知れる。
 心柱に以下の墨書がある。
  正面(西側)「地頭藤沢遠江守御代々官比丘尼妙因 生年 六十四」
  南面「文亀2年壬戌二月二十三日始之六月一日建立畢」
  背面「吉田原豊前守法名円妙ーー遠照寺住正行房日周−−大工鉾持住池上左衛門太夫政清−−」
  北面「奉造立処之宝塔者遠尋在世現本巳之中間顕証−−」
 2022/04/20撮影:
  多宝小塔心柱墨書1     多宝小塔心柱墨書2
◇七面堂
創建は永正3年(1506)遠照寺2世日周の代<厨子の墨書>という。
現在の建物は元禄から享保の頃の再建。七面天女・三光天子・鬼子母神を祀る。
桁行6間梁間4間入母屋造。極採色の欄間彫刻や天井画で荘厳されていると云う。軒は珍しく3軒で、下2軒は扇垂木、上の1軒は平行垂木を用いる。但し、如何なる屋根構造なのかは分からない。因みに大和興福寺北円堂が三軒の構造を用いる。
 2022/08/23追加:
  遠照寺七面堂内部:ページ:境内全体が宗門史跡に指定「遠照寺」 より
◇鰐口・陣太鼓:
織田軍高遠城攻略の際の遺留品。鰐口には飛騨高山大神宮御宝前鰐口、文明十五年(1483)室宗忍信女の銘。
陣太鼓は征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐戦勝のお礼に諏訪神宮寺(明治の廃仏毀釈で解体廃寺)普賢堂に奉納した太鼓と伝えられる。
現地案内板には次のようにある。
鰐口:径34cm厚さ9cm。「文明15年(1483)癸卯八月」「濃州路土岐郡高田郷高山大神宮」の銘がある。天正10年森長可の寄進という。
陣太鼓:天正10年(1582)織田軍が高遠城を攻撃、諏訪大明神普賢堂にあったものを森長可が寄進と伝える。
 →諏訪大明神普賢堂とは上諏訪大明神神宮寺普賢堂である。
◇絵島(大奥大年寄・絵島生島事件の当事者)墓碑<分骨>がある。

伽藍として以下を有する。
山門、鐘楼堂、本堂、釈迦堂、朝師堂、七面堂、庫裏、土蔵

○2022/01/31追加:
2015/03/06に多宝小塔のページに掲載内容(以下の通り)
遠照寺多宝小塔
 多宝小塔は釈迦堂(重文・天文7年<1538>建立)須弥壇上に厨子を兼ねて安置される。釈迦堂と同一時期の造作とされる。
 遠照寺多宝小塔1     遠照寺多宝小塔2:何れも出所失念
初重は3間で2個の厨子があり、釈迦・多宝の2尊が安置される。多宝塔を囲み須弥壇上には四天王も安置。初重は2手先、軒はニ重繁垂木、中備は3間とも蟇股。上重は4手先、ニ重繁垂木、亀腹は漆喰(白)。高さ約2m (あるいは総高295cm。)相輪は木製。
開山は文明15年(1481)日朝上人。釈迦堂のほか本堂・朝影堂を備える。
2015/03/06追加:伊那市教育委員会撮影画像
 信濃遠照寺多宝小塔3
2022/01/31追加:
○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より
 遠照寺多宝小塔11
○出所忘失
 遠照寺多宝小塔12
○サイト:JAPAN GEOGRAPHIC より転載
 遠照寺多宝小塔13     遠照寺多宝小塔14     遠照寺多宝小塔15     遠照寺多宝小塔16
 遠照寺多宝小塔17     遠照寺多宝小塔18     遠照寺多宝小塔19     遠照寺多宝小塔20
 遠照寺多宝小塔21     遠照寺多宝小塔22     遠照寺多宝小塔23     遠照寺多宝小塔24
 遠照寺多宝小塔25     遠照寺釈迦堂
2022/04/20撮影:
 遠照寺創建
 弘仁11年開創・矢羽根
 1955年文部省による解体調査修理の際、屋根裏より「弘仁十一年薬師堂建之」の矢羽根が発見される。
 弘仁11年は820年。
 遠照寺薬師堂石碑
 文明5年(1473)身延11世日朝によって天台宗から日蓮宗に改宗、天台宗谷室山天福寺(天福元年/1233開創)から日蓮宗妙朝山遠照寺となる由来を可視化したものであろう。
 ※高遠山室に「原遺蹟」(遠照寺の南南西約500m)があり、本遺跡は山室川の支流で東側の山麓より流れ出る宮澤川の扇状地に位置する。
平成8年〜10年にかけて発掘調査され、縄文中期後期の竪穴式住居跡・土壙・竪穴、平安期の竪穴式住居・掘立建物跡及び一万数千点の遺物が発掘される。
天福元年にこの地に創建されたという天福寺跡と伝える場所からは掘立建物と思われる遺構が発見されるという。(現地説明板)
 応永の古文書

多宝小塔
 

 高遠遠照寺多宝小塔11    高遠遠照寺多宝小塔12:上図拡大図
 高遠遠照寺多宝小塔13    高遠遠照寺多宝小塔14    高遠遠照寺多宝小塔15    高遠遠照寺多宝小塔16
 高遠遠照寺多宝小塔17    高遠遠照寺多宝小塔18    高遠遠照寺多宝小塔19    高遠遠照寺多宝小塔20
 高遠遠照寺多宝小塔21    高遠遠照寺多宝小塔22    高遠遠照寺多宝小塔23    高遠遠照寺多宝小塔24
 高遠遠照寺多宝小塔25    高遠遠照寺多宝小塔26    高遠遠照寺多宝小塔27    高遠遠照寺多宝小塔28
 高遠遠照寺多宝小塔29    高遠遠照寺多宝小塔相輪
 遠照寺伽藍・諸物
 高遠遠照寺山門1     高遠遠照寺山門2     高遠遠照寺山門3     高遠遠照寺山門4
 山門内・題目石その1:年紀不明    山門内・題目石その2:正徳4甲午年(1714)年紀
 高遠遠照寺本堂    高遠遠照寺本堂内陣1    高遠遠照寺本堂内陣2
 遠照寺鰐口・陣太鼓:向かって左が鰐口    高遠遠照寺鰐口:遠照寺ルーフレットから転載
 高遠遠照寺庫裏
 高遠遠照寺鐘楼1    高遠遠照寺鐘楼2
 釈迦堂横・日蓮大菩薩その1:500遠忌報恩:天明元年(1781)
 釈迦堂横・題目石その3    釈迦堂横・題目石その4    釈迦堂横・題目石その5
 釈迦堂横・日蓮大菩薩その2:600遠忌報恩:明治14年(1881)
 釈迦堂横・題目石その他多数
 釈迦堂
 遠照寺釈迦堂石碑    遠照寺釈迦堂11    遠照寺釈迦堂12    遠照寺釈迦堂13    遠照寺釈迦堂14
 遠照寺釈迦堂15     遠照寺釈迦堂16    遠照寺釈迦堂17    遠照寺釈迦堂18    遠照寺釈迦堂19
 遠照寺釈迦堂20     遠照寺釈迦堂21    遠照寺釈迦堂22    遠照寺釈迦堂23    遠照寺釈迦堂24
 遠照寺釈迦堂25     遠照寺釈迦堂26    遠照寺釈迦堂27    遠照寺釈迦堂28
 遠照寺釈迦堂須弥壇1    遠照寺釈迦堂須弥壇2    遠照寺釈迦堂須弥壇3
 日朝堂:明応5年(1496)上棟(元禄13年日朝堂前机裏書)
 遠照寺日朝堂1    遠照寺日朝堂2    遠照寺日朝堂3    遠照寺日朝堂4
 遠照寺日朝堂5    遠照寺日朝堂6    遠照寺日朝堂7    日朝堂前机裏書:活字
 遠照寺絵島墓碑:蓮華寺からの分骨という。
 七面堂
 遠照寺七面堂1    遠照寺七面堂2    遠照寺七面堂3    遠照寺七面堂4
 遠照寺七面堂5    遠照寺七面堂6    遠照寺七面堂7    遠照寺七面堂脇堂:堂名・堂機能不明。
 什宝の一端
 南無本化上行菩薩:年紀は元文二年(丁巳)1737、身延○○の書が判読できない。
 行學院日朝尊者賛:内容にほぼ判読できない、書手も判読できない、年紀は元文三年(戊午)1338
 日朝・日意・日傳曼荼羅:向かって左より、身延11世日朝、身延12世日意、身延13世日伝のもの。
 遠照寺15世日耀曼陀羅


高遠玄立寺
○「河合村史」 より
河合村非持、村の北方にあり。妙覚山と号す。妙朝山遠照寺末寺(遠照寺の末派)。 
永禄八乙巳年(1565)、遠照寺三世観亮院日宣弟子行法律師日顕創立。後二百有余年、住僧有無不詳。
元禄十丁巳年(1697)、右同寺9世恵運坊日任弟子、蓮華院日融大徳開基創立す。
 河合村史・玄立寺遠照寺:明治12年
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
身延山末、永禄8年(1565)創立、開山は行法律師日顕、開基蓮乗院日融。脱師法縁、住職は潮師法縁。
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
七面堂は付属仏堂で、貞享4年の建立、建物は5間に6間、白取和四郎の彫刻で装飾される。また境内には池上一門の祖先である武田の番匠作三重塔格護位牌堂もあって文化財として指定保護される。
●玄立寺多宝小塔
伊那市、室町期の造立、下重:一間、上重:平行垂木、細部は禅宗様、風鐸は改変、安置:多宝如来・釈迦如来、伊那市文であるが、池上氏の位牌堂の名称で指定。
2022/01/31追加:
○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より
 玄立寺多宝小塔
○「近世信濃国における日蓮教団の展開 −南信伊那郡を中心とした諸門流についてー」作田光照 より
玄立寺の本末関係の考察がある。
本寺:遠照寺とする。しかし、如何なる資料に基づき遠照寺末とするのかは不明。
 ※河合村史・玄立寺遠照寺:明治12年 では遠照末とするので、これに依ったのであろうか?
江戸期の記録では次のようである。
 寛永寺院本末寺帳:玄立寺の記載なし ※但し寛永度は直末のみ記載し、孫末寺は含まない。。
 伊那神社仏閣記(延享元年/1744資料がベース):身延末
 延享寺院本末寺帳:身延末 ※孫末の詳細な記載はなし。
 天明寺院本末寺帳:記載なし
 伊那略誌(文化9年/1812刊):記載なし

2022/05/03「X」氏撮影画像
多宝小塔は本堂裏手の池上氏位牌堂内に安置される。
池上氏は当地の大工棟梁であり、近世初頭身延山大工として五重塔建立などに携わるという。
 玄立寺多宝小塔1     玄立寺多宝小塔2     玄立寺多宝小塔3     玄立寺多宝小塔4

2022/04/20撮影:
現在、玄立寺住職は、さる事情で、出身である身延山に帰山し、玄立寺には住居しない。
但し、地区民の法事等があれば、身延から玄立寺に出向くという。
従って、多宝小塔は外から拝見するしかない。
○池上宗信位牌堂
「現地説明板」では次のように云う。
位牌堂前には鳥居を建てる。堂内には多宝塔が据えられ、その前に位牌が安置される。(現在位牌は見当たらない)
位牌には「妙法宗琢霊位」、裏には「慶長4巳亥(1599)8月6日 池上新之丞清左衛門宗信」とある。
多宝塔内には一塔両尊(中央は宝塔、右に多宝如来、左に釋迦牟尼仏)を安置する。さらに傍には木札があり「宗琢霊神池上新之丞清左衛門宗信」と記す。
法名は「妙法宗琢霊位」であるが「宗琢霊神」としても祀られ、それ故堂前には鳥居が建てられたのであろう。
池上宗信は身延山の大工棟梁で、一族を率いて、身延祖師堂・大方丈・五重塔・唐門・三門舞台など多くの堂宇を建立する。
○玄立寺七面堂(長谷非持山七面堂)
2014年屋根修理竣工。
「現地説明板」:
祭神:七面大明神・ご神体は吉祥天、貞享元年(1684)勧請
建築:貞享4年(1687)、大工は池上又兵衛
再建:宝暦9年(1759)、彫刻は白鳥弥四郎(諏訪神宮寺)、大工は池上佐源治(本村)
○長谷非持山馬頭観音
七面堂の境内には、元禄期からの数多くの馬頭観音が集められている。
江戸期、この地が杖突街道・秋葉街道が通る交通の要所であり、早くから馬が使われていたことが知られる。
「現地説明板」:
安置される馬頭観音は区内各処にあったが、宅地化・圃場・道路整備などで集められたものである。
この中に「元禄二年三月六日 中山本家」の銘を持つ石像(高さ37cm)があり、上伊那では最古のものという。
この地では多くの石工が出、また物資運搬に馬が利用されたことが偲ばれる。
位牌堂多宝小塔:
 玄立寺多宝小塔11     玄立寺多宝小塔12     玄立寺多宝小塔13     玄立寺多宝小塔14
 玄立寺多宝小塔15     玄立寺多宝小塔16     玄立寺多宝小塔17     玄立寺多宝小塔18
 玄立寺多宝小塔19     玄立寺多宝小塔20     玄立寺多宝小塔21     玄立寺多宝小塔22
 玄立寺多宝小塔23     玄立寺多宝小塔24     玄立寺多宝小塔25     玄立寺多宝小塔26
 玄立寺多宝小塔27     玄立寺多宝小塔相輪1    玄立寺多宝小塔相輪2    玄立寺多宝小塔相輪3

 高遠玄立寺入口:山門等は失われたのか無し。石階左右に多くの石碑がある。
 石階右の石碑類:日蓮大菩薩石柱、背後に不明石碑(判読不能)、石造祠、天保2年日蓮石碑がある。
 天保2年日蓮石碑:天保2辛卯年(1831)、日蓮550遠忌報恩。
 石階左の石碑類:日蓮大菩薩碑(年紀不明)、背後の題目石(年紀不明)、文久4年大黒天石、不明石碑(年紀不明)、その他2基がある。
 日蓮大菩薩碑(年紀不明):他の文字は判読できない
 題目石と大黒天碑:背後の題目石(年紀不明)と大黒天碑は文久4甲子年(1864)年紀。
 不明石碑(年紀不明):判読不能、左右に上部を欠いた石碑、判読不能石碑が写る。
 玄立寺本堂兼庫裡1     玄立寺本堂兼庫裡2     玄立寺本堂兼庫裡3
 玄立寺鬼子母神堂1     玄立寺鬼子母神堂2

 境内日蓮500遠忌塔:日蓮500遠忌報恩塔:正当は天明元年(1781)
 境内皇紀2600年祈念塔:2600年は昭和15年。下段に南無○日蓮大士、鬼子母神大尊神、南無清正公大神祇と刻む。
 境内日蓮700遠忌塔:日蓮700遠忌報恩塔:700回忌は昭和56年。
 池上宗信位牌堂1      池上宗信位牌堂2      池上宗信位牌堂3

 玄立寺七面堂1     玄立寺七面堂2     玄立寺七面堂3     玄立寺七面堂4     玄立寺七面堂5
 玄立寺七面堂6     玄立寺七面堂扁額     玄立寺七面堂脇堂
 長谷非持山馬頭観音1:元禄2年銘
 長谷非持山馬頭観音2    長谷非持山馬頭観音3    長谷非持山馬頭観音4
 長谷非持山馬頭観音5    長谷非持山馬頭観音5
玄立寺七面堂のさらに上方に八幡宮がある。
扁額は「陸軍大将林銑十郎書」とある。国家神道・帝国陸軍・侵略戦争のセットを如実に示すものであろう。
 長谷非持山八幡宮1    長谷非持山八幡宮2    長谷非持山八幡宮3    長谷非持山八幡宮扁額

高遠蓮華寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 妙法山と号する。四条妙顕寺末、鏡師法縁。
招聘15年(1360)創建、開山身延5世日台。開基妙顯寺2世大覚大僧正。正平年中伊豆の伊東朝高の6男道源入道がこの地に一宇を建立、妙法山長遠寺(身延山末)と号する。
慶安年中本末間に係争があり、身延の調停も不調となり、長遠寺の寺号を身延に戻し、妙顕寺末寺となり、現山号寺号を名乗る。
高遠城主保科・鳥居・内藤諸氏の庇護を代々受け、末寺6ヶ寺を建立。絵島殿墓所がある。10世叡尊律師日體は駒ヶ根大法寺1世。
○蓮華寺サイト>蓮華寺縁起 から
 当寺は、「勅額菊之紋拝領 東龍華院」と称され、京都妙顕寺二祖大覚大僧正妙実上人を開基、身延山久遠寺五世鏡円阿闍梨日台上人を開山とした日蓮宗の寺院である。
嘉歴元年(1326)妙実上人高遠に弘通、高遠城下に寺院を建立、妙法山蓮華寺と号す。妙実上人晩年の草創寺院である。
 ※諸文献で見る限り、嘉歴元年(1326)の頃、大覚大僧正の信濃での足跡は確認できない。故に、慶安4年(1726)身延山を離れ、四条妙顕寺末となった時、妙實の開基とした可能性が高いと思われる。おそらくはいわゆる「勧請開基」の類と思われる。
延文5年(1360)身延山第五世日台上人を開山に迎え、高遠北原の地に移し、寺号を蓮華寺から長遠寺と改める。
 ※北原:日蓮宗長久寺(現在は堂一宇のみという)のあるところが北原であり、この付近か。
高遠身延門流の初祖となり、伊那谷地域各地(松倉、栗田、四日市場、中村、弥勒、小原、勢理町、久保川、新子、手良、福島、駒ケ根、木曽等)に法華堂(弘通所)を開設する。
慶長6年(1601)保科正光公高遠城下に建立する。寛永6年(1629)当山十七世日遵上人、保科正之公・お静の方の帰依を受け、日蓮聖人像を奉安する。
さらに、寺領百石を寄進され城下勢理町へ三宝を移す。東西一町余り、南北二町の広大な境内を有した。
 ※高遠の勢理町とは不明。
寛永13年(1636)保科正之山形へ。日遵上人後事を当山十八世本理院日観上人に託し山形に浄光寺を開創する。
慶安4年(1726)当山十九世日隆上人、鳥居公の帰依を受け本堂・庫裡を寄進され、現在の地に移転する。
江戸幕府にて不受不施・本末の論争が起こり、「往昔之芳志故」に京都妙顕寺客末となり、名称を蓮華寺に戻す。
 ※詳細は不明であり、「往昔之芳志故」という具体的内容も不明である。妙顯寺末に転ずるということから、不受不施堅持ということとも思われず、どういう経緯なのであろうか。
享保11年(1726)多宝塔「日蓮聖人御真骨」を奉安する。
 ※日蓮御真骨多宝塔:多宝塔というも、形式は宝塔である。
 ※高遠蓮華寺舎利宝塔
四代将軍徳川家綱公「厳有院殿贈正一位相国公」、お静の方「浄光院殿法紹日恵大師」、鳥居忠春正室「恵光院殿徹照妙賢日通大姉」、絵島殿「信敬院妙立日如大姉」等永代供養の鄭重なる扱いを受ける。本光院宮、梶井宮家等の天皇家祈願所となって末寺も六ヶ寺を数え、「勅額菊之紋拝領 東龍華院 中本山」と呼称される寺格を備う。
本堂は間口十一間・奥行九間、庫裡は間口七間・奥行十四間。
○絵島生島事件
 絵島もしくは絵島生島事件はWebサイトを参照ください。
要するに、大奥の絡む幕閣の権力闘争であったと思われるが、大奥大年寄の絵島が権力闘争に敗れたということであろう。
その罪状は、歌舞伎的には「生島と絵島との淫乱事件」であり、大奥の「風紀の乱れの不届」であった。
絵島は高遠藩内藤清枚にお預けとなる。
絵島は高遠での27年間の幽閉(閑居)の後、寛保元年(1741)に61歳で逝去する。
戒名は「信敬院妙立日如大姉」。ここ蓮華寺に墓所があり、遠照寺に分骨がある。
絵島は大奥の通例であった日蓮宗徒であった。
ろの背景は、近世日蓮宗主流派は堕落した結果として権力に取り入り、自らの栄華を達成しようと画策する体質にあった。
大奥は日蓮宗の祈祷性の故と思われるが、近世を通じ、大奥に深く喰いった宗派であった。
古くは養珠院(家康側室、紀伊頼宣生母、水戸頼房生母)が身延信徒であり、
大奥の著名なスキャンダルである鼠山感応寺事件・谷中延命院事件(日蓮宗谷中延命院日潤<日道>の大奥女中女犯)・
中山智泉院事件(「密通女犯」・・・左記「山感応寺」に記載)は全て日蓮宗絡みであった。
因みに、徳川家光長女千代姫(霊仙院、尾張徳川光友の正室)その母自證院(家光側室)も日蓮宗徒であった。(→江戸自證院
2022/04/20撮影:
 木曾山脈連峰:高遠蓮華寺より望む
 高遠蓮華寺門前
 蓮華寺題目石など群:総数20基ほどの石塔・石碑類が並ぶ。
 蓮華寺日蓮立像
 日蓮立像東に13基ほどの大乗妙典供養塔などが並ぶ、享保14年(1730)年紀の刻するものも見える。
 大乗妙典供養塔など群1    大乗妙典供養塔など群2
 さらに東に題目石など7基が並ぶ。
 蓮華寺題目石など群1    蓮華寺題目石など群2    蓮華寺題目石など群3    蓮華寺題目石など群4
 高遠蓮華寺山門    高遠蓮華寺本堂1    高遠蓮華寺本堂2    高遠蓮華寺本堂3    高遠蓮華寺本堂4
 高遠蓮華寺鐘楼    高遠蓮華寺観音堂    高遠蓮華寺宝蔵か:不明
 高遠蓮華寺玄関    高遠蓮華寺庫裏1    高遠蓮華寺庫裏2
 高遠蓮華寺北辰堂1    高遠蓮華寺北辰堂2
 七面堂:延宝8年(1680)高遠城主鳥居忠則が徳川家継追善の為廟所として寄進、元禄2年(1689)七面大明神を奉祀する。
 高遠蓮華寺七面堂1    高遠蓮華寺七面堂2    高遠蓮華寺七面堂3
 高遠蓮華寺絵島立像:1992年造立。
 高遠蓮華寺絵島墓所    高遠蓮華寺絵島墓碑:高遠遠照寺に分骨され、遠照寺にも墓碑がある。
◆末寺
 理性山三澤寺(伊那市福島)
 長久寺(伊那市高遠町藤澤北原)
 久成山本妙寺(伊那市高遠町長藤四日市場)
 藤沢山慈照寺(伊那市高遠町長藤栗田)
 ○真浄山大法寺(駒ケ根市赤穂町) →下に掲載

高遠鉾持桟道日樹題目石
 高遠鉾持桟道に日樹上人筆と伝える題目石が現存する。
  →鉾持桟道日樹題目石

赤穂大法寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
真浄山と号す。高遠蓮華寺末、鏡師法縁。
永禄12年(1569)創建、開基叡尊律師日體、開基檀越城西池上氏。中興開山は正善院日定。11世本養院日長は京都伏見泉経寺29世へ。
境内は上穂(うわぶ)城跡の一画である。
※開基檀越は池上宗仲公の末裔の上穂城西池上氏。
※開基は高遠蓮華寺10世、中興は同20世。
※彩色された七面堂がある。享保7年(1722)第3世日栄は七面堂を建立、市内を貫通する七面川の由来となる。
2022/04/19撮影:
 駒ヶ根大法寺入口     大法寺入口題目碑     駒ヶ根大法寺本堂     駒ヶ根大法寺庫裏
 駒ヶ根大法寺七面堂1     駒ヶ根大法寺七面堂2     駒ヶ根大法寺七面堂3

参考:上伊那の石碑(道祖神・庚申塔など)

○庚申塔
 庚申塔は、基本的に、庚申講の人々が建てた供養塔である。
庚申の年(最近では昭和55年)や庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いといわれている。
庚申は「コウシン」「かのえさる」と読む。庚申待とも称ばれる。
庚申講とは、庚申の日に人間の体内にいるという三尸(さんしの)の虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで、庚申様を祀り、飲食などを行う。
庚申講は金融組織にもなったという。庚申の日は甲子と同様60日に一度巡ってくる。六十干支順位表では57番目に当たる。
庚申様は道教では天帝、佛教では青面金剛(但し天竺由来ではなく道教由来の仏像)、神道では猿田彦を祀る。
○甲子塔
 甲子塔は、基本的に、甲子講の人々が建てた供養塔である。
甲子日待は、甲子(きのえね)の夜に、禍を転じて福を授けてくれる大黒天を祀り、夜遅くまで飲食をともにしながら語り合う行事であった。
甲子は「きのえね」「カッシ」「コウシ」と読む。甲子は60日に一度の甲子の日の夜に子の刻(午前零時)まで起きて、商売繁盛、五穀豊穣などを祈る。子(ネズミ)を使者とする大黒天が本尊となる。
庚申懇話会編「石仏調査ハンドブック」では、甲子塔の分布は、東北地方から関東・甲信越地方に及んでおり、塔は大黒天の丸彫像や自然石に大黒天像を陽刻したものや陰刻したものがあるが、「甲子塔」と刻まれた文字塔が大部分であるという。
日蓮宗では、日蓮上人が大黒天を信仰していたことから、日蓮宗の僧の指導のもとに、甲子日待が行われていたといわれる。
○月待塔
 月待塔は、月の信仰で、特定の<月齢>の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔をいう。
<月齢>は十三夜・十四夜・十五夜・十六夜・十七夜・十八夜・十九夜・二十夜・二十一夜・二十二夜・二十三夜・二十六夜などがあり、七夜待塔は旧暦17日から23日までの「七夜待」を行った行事・信仰である。
庚申講や甲子講と同じく、時代が進むにつれ、庶民の娯楽の側面が強くなっていくようである。
○道祖神
 道祖神は路傍に祀られる。村落の境、村の中心、道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されてきたという。
○馬頭観音
 馬は古より、人々を性活を共にしてきた。そういった中で、馬の無病息災を祈る民間信仰が発生したきたのでると云われる。
馬頭観音の姿から、農家では農耕馬の、馬の産地では仔馬たちの、運搬を生業とする業者は運搬馬の無病息災を祈り、あるいは死んでしまった馬の冥福を祈り、といった理由で馬頭観音が信仰されたと推測される。

2022/04/19撮影:
○赤穂の石碑
大法寺北西約200m附近:庚申塔・道祖神など
 赤穂の石碑その1−1:背後のレンガ色の建物は昭和伊南総合病院    赤穂の石碑その1−2
 赤穂の石碑その2:庚申塔・甲子塔など
2022/04/20撮影:
○高遠山村の石碑
 高遠山村の石碑:1基の道祖神は分かるが、石碑の文字が殆ど判読できない。
○高遠玄立寺の石碑
 玄立寺入口上の石碑:昭和59年の庚申塔2基、明治10年の二十二夜など、道祖神、不明1基
 玄立寺境内庚申塔     玄立寺境内甲子塔
2022/04/21撮影
○越戸庚申塔:越戸の集荷場の傍らにある。
 越戸庚申塔:「文化11年(1814)9月」の年紀と「高遠領弥勒村石工 伊東要左衛門昆貞」の石工銘がある。
 越戸道祖神:上記庚申塔の少し南にある。
○別所常楽寺道祖神
 別所常楽寺道祖神別所常楽寺参道にある。

信濃下伊那郡領法寺・隣政寺・光明寺
2023/08/13追加;
 ※領法寺・隣政寺・光明寺は江戸初期には日蓮宗で不受不施を堅持していたが、元禄年中悲田宗の禁制により、日蓮宗より天台宗に転宗を余儀なくされ、天台宗寺院として現在まで法灯を維持する。
○「近世信濃国における日蓮教団の展開−信濃国の不受不施について−」作田光照
   (「現代宗教研究」35、日蓮宗現代宗教研究所、2001 所収) より
 池上・比企両山15世長遠院日樹は「身池対論」の判定で、寛永5年(1630)信濃飯田にお預けとなる。
しかし、日樹は配流後一年ほどで寂したため、配流された伊那郡では日樹の教えが伝播した形跡は見られない。
僅かに、日樹の形跡は、伊那郡の1年ほどの謫居中に、出された数通の書簡と本尊が遺されているだけである。
その内の本尊は、『長源寺誌』によると、四幅あり、授与者銘のあるものは3幅でいずれも在家者に授けている。
他に博多の妙典寺に「寛永七疾 午五月十六日信州伊奈郡飯田書之五十七歳日樹」と銘記されたものがある という。
   ※→博多妙典寺
   ※日樹伊那郡飯田にて刻書した曼荼羅本尊については日樹聖人真筆十界勧請曼荼羅を参照。
 以上のように、信濃では日樹の教えが顕著に伝播した形跡はないが、信濃伊那郡では、嘗ては不受不施派寺院であった谷中感應寺(現天台宗谷中天王寺)末であった領法寺・隣政寺・光明寺(何れも下伊那)の3ヶ寺があった。
 これらの3寺は延享3年(1744)の「伊那神社仏閣記」では次のように記載される。
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 市田郷 九ヶ村之内山吹領也
 (領法寺)
 一 山吹 天台宗 座光山 江戸谷中感應寺末山 領法寺
 古来法華宗に而、山吹之領主座光寺喜慶為菩提所開基す、不受不施御改并に元禄四年悲田院御改に而、元禄九丙年より天台宗に改る、

 (隣政寺)
 一 駒場田沢入 天台宗 普門山 江戸谷中感応寺末山隣政寺(俗呼而山ノ寺と云、)
 此山古跡に而奥の院に戒壇有、日蓮聖人之直書等数々有、不受不施悲田院御改前は法花宗、元禄九丙年より天台宗に改宗す、
 観音堂伊那順礼三十二番

 (光明寺)
 一 新田町 天台宗 江戸谷中感応寺末山 光明寺
 初は法花宗也、元禄之改に天台に改宗す、前之寺地は町之北之方に有、元禄年中大仏堂へ寺を引移す、寺中に大仏有、是は松下年来寺之住僧空誉上人之作に而一宇建立す、後に光明寺を引移し境内一つに成、古之寺地ともに光明寺控と成、当寺本尊観音古仏に而石之唐櫃に安置す、
 --------------------
 つまり、光明寺は元禄4年(1691)の「不受不施悲田院御改」にて、隣政寺・領法寺は元禄9年に天台宗に改宗している。
従って、「伊那神社仏閣記」以降の延享2年(1745)の末寺帳では法華宗寺院としての記載はなく、次の天明年中の末寺帳では、3ヶ寺とも天台宗として「武州谷中感應寺末」として記載される。
 一方、本寺である谷中感應寺(碑文谷法華寺)は、天明年中の末寺帳では、次のように記載される。
 (谷中感應寺)
 一 豊島郡谷中 御朱印高三拾八石餘 長耀山 院家寺 感應寺
 寺中八ヶ寺
 末寺三ヶ寺信州ニ有之  ※※隣政寺・領法寺・光明寺が該当する。
  ※谷中感應寺は碑文谷法華寺の末寺である。
(中略)
 (碑文谷法華寺)
 一 荏原郡馬込領碑文谷 御朱印高拾九石 妙光山吉祥院 法華寺
 寺中八ヶ寺内七ヶ寺廃寺
 末寺壹ヶ寺
  ※下伊奈郡山吹村:基本的に江戸期は交代寄合旗本(伊那衆)の座光寺氏が幕末まで知行する。慶長7年(1602)1000石、関が原の戦いの功により400石加増。
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 ※次にWeb上にて「領法寺・隣政寺・光明寺」の情報検索すると、詳細な情報はないが、概要は次のようなことが判明する。
 1、光明寺:下伊那郡高森町山吹8382-1
  山吹/光明寺は、寛文13年(1673)吉田村にあった日蓮宗の立法寺を移転して建立される。
 江戸にあった本寺感応寺が天台宗に改宗させられたのに従って天台宗となる。
 本堂左手の参道を上った正面に観音堂がある。観音堂は延宝8年(1680)建立で「桂堂」と呼ばれる。
 本尊は白衣観音であるが、堂内には、法華経の守護神である三十番神の額が掲げられている。
 中央自動車道の開削で現在地に移転する。その際黒松の老大木も移転する。
 2.隣政寺(山の寺):下伊那郡高森町山吹2357
  天正元年(1573)日得上人により日蓮宗として開山、元禄年中天台宗に改宗、山吹村を治めた旗本座光寺氏の祈願寺となる。
 ※日蓮宗の時から座光寺氏の祈願所だったのかあるいは開基檀越も座光寺氏であったのかは不明。
 安永年中(1772〜)の山火事と明治20年の放火で2度焼失する。
 現本堂は、明治27年の再建、木曽亀(坂田亀吉)の作。また、本堂向拝正面の彫刻は木曽亀の師匠である立川流彫刻師の作である。
 不動堂は、明治21年(1888)に今宮郊戸神社より購入移築される。
 隣政寺は「山の寺」といわれるように、標高890mに位置し、気温が低いため古くから近在の蚕種を預かり、貯蔵していた。
 3.領法寺:下伊那郡高森町山吹1137
  領法寺の東側一帯が座光寺氏の山吹陣屋跡である。
 座光寺氏の菩提寺との記事もある。
 --------------------
 元禄4年(1691)4月28日、悲田宗禁制となり碑文谷法華寺谷中感応寺小湊誕生寺は、受派へ転派することを余儀なくされ、久遠寺の支配となる。
なお、幕府の達では、小湊・碑文谷・谷中の3ヶ寺も不受不施悲田宗を改め、天台宗への改宗を命ずるものであったが、身延日奠は先例の妙覚寺・池上の時のように改宗せず、身延支配下にするよう申し入れをする。碑文谷・谷中も天台への改宗ではなく、身延支配の受派への転宗を寺社奉行に願い出る。
 飯田藩では翌元禄5年(1692)から領内の不受不施追及が厳しさを増す。
 元禄11年(1698)11月には、再び制禁の悲田派を保っていることが発覚し、碑文谷日附、谷中日遼等が流罪となる。
これを機に碑文谷法華寺・谷中感應寺は天台宗に改宗となり、小湊は日蓮出生の地故に改宗せず、受派に転ずる。
 --------------------
 (元禄11年/1698年11月12日)碑文谷法花寺日附・谷中感應寺日遼・前住日鐃・三田大乗寺日衷・中道寺日善・千駄が谷寂光寺日祥・房州小港誕生寺中境妙院日照・同州成川妙耀寺日進御流に處せらる。こは八年前悲田宗派禁制ありし時證状をさゝげながら。このたび妙榮寺妙月に同意して、改派せしによてなり。妙月は亡命せしにより物色して捜索せらる。
 ※以上は「徳川實紀 第六巻」に所収と思われる。
飯田藩では、引き続き、毎年のように吟味(宗門改め)が行われ、切支丹・不受不施の厳しい取り締まりがなされる。

伊那郡飯田日樹上人墓所
  →飯田日樹上人墓碑日樹上人伝


伊豆の諸寺

伊東佛現寺及び輪番8ヶ寺
 → 伊東佛現寺/佛現寺輪番八ヶ寺
 輪番8ヶ寺:
  伊東山佛光寺(大光山本圀寺末)
  伊東山妙照寺(玉沢妙法華寺末)
  伊東山大行寺(身延久遠寺末)
  伊東山妙法寺(中山法華経寺末)
  伊東山法船寺(池上本門寺末)
  延壽山妙隆寺(京都妙満寺末)
  伊東山蓮正寺(北山本門寺末)
  恵日山廣宣寺(西山本門寺末)

伊豆国分寺
慶長5年(1600)に法華宗蓮行寺として再興され、さらに昭和29年に伊豆国分寺と寺号を改称する。
 → 伊豆国分寺跡


駿河の諸寺

富士五山
富士山西麓にある日興門流の重須本門寺、西山本門寺、上野妙蓮寺、上條大石寺、大宮久遠寺をいう。
現在は、重須(北山)本門寺・大宮(小泉)久遠寺は日蓮宗、上条(富士)大石寺・上野(下條)妙蓮寺は日蓮正宗、西山本門寺は単立である。
○「駿河國富士山繪圖」村山興法寺三坊、推定江戸末期 より
富士山別當表口/村山興法寺三坊蔵板 とある。
 駿河國富士山繪圖     駿河國富士山繪圖・部分図
本繪圖の中央に描かれるのは村山興法寺(浅間・大日・大棟梁)と三坊(大鏡坊・池西坊・辻之坊)である。
その興法寺の西南に大宮の浅間(本宮)・大宮司・別當がある。(駿河浅間本宮)
その浅間本宮の東方に小泉久遠寺、本宮の北方に北山本門寺・五重塔が描かれ、北山本門寺の西方に上野大石寺・五重塔、大石寺の南に上野妙蓮寺、妙蓮寺のさらに南方に西山本門寺が描かれる。いわゆる富士五山である。
なお、村山興法寺三坊の概要は次の通りである。
 富士山村山口登山道の要所にある。
起源は富士山を神体とする、古くから祀られるいわゆる浅間社の一つであったと思われる。
中世には天台僧末代上人(富士上人、大棟梁権現)が修験の拠点として堂舎・坊舎を構え、修験の富士山興法寺とする。
中世末期から近世には駿河の国主今川氏が崇敬し、天下を掌握した豊臣秀吉、徳川氏も寺領を寄進する。また武家や公家からの信仰も集め、加えて修験者が全国から蝟集し、その隆盛は富士山本宮と比肩してといわれる。
富士山興法寺には諸坊(7坊という)があったが、その内大鏡坊・池西坊・辻之坊は村山三坊と称され、興法寺の別當で興法寺を管理しかつ村山口富士登山道の管理も行うという。
宝永年中の宝永大噴火により、興法寺の堂舎は全壊し、村山登山道も破壊され、村山登山道が廃れるきっかけとなる。
明治初頭の神仏分離・修験の廃止令により、興法寺は解体、諸坊は廃され、浅間社は村山浅間社となり、大棟梁権現は廃され、法寺本堂である大日堂のみ存続する。
2020/08/29追加:
○大日本沿海輿地全図
 大日本沿海輿地全図:富士山部分図:江戸後期
向かって右下から反時計回りに、小泉富士山久遠寺、村山富士浅間社、北山富士山本門寺、上條富士山大石寺、下條富士山妙蓮寺、大鹿三沢寺、西山富士山本門寺が描かれる。
2020/08/04追加:
○1/50000地図:明治29年大宮
 明治29年大宮(部分):反時計回りに、小泉久遠寺、重須本門寺、上條大石寺、下條妙蓮寺、西山本門寺が位置する。
小泉久遠寺参道は約700mあったと思われる。
重須本門寺参道は甲州街道から分岐し、本門寺に至るもので、約1600mを測る。
上條大石寺参道は坂下から始まると思われる。大石寺山門まで約2300mを測る。
西山本門寺参道は南北に一直線に伸び、山下黒門から山上の本尊堂まで約910mを測る。
○1/50000地図:昭和19年富士宮
 昭和19年富士宮(部分)
小泉久遠寺参道は現在の原型ができたようで、参道入口から本堂跡迄で役350mとなる。
重須本門寺参道、上條大石寺参道は地図上で辿ることができ、明治19年地図とほぼ変わりはないと思われる。
西山本門寺参道は明治19年地図と変わりはない。
○1/50000地図:平成4年富士宮
 平成4年富士宮(部分)
小泉久遠寺参道ははっきりとは地図に表されないが、現況から判断して、昭和19年地図と変化はないと思われる。
重須本門寺参道は甲州街道の分岐付近が不明確になっている。
大石寺参道はまだ地図上ではその面影を留めるも、大石寺の拡張でその面影を失ったものと推測する。
 なお、大石寺参道については
富士宮市>『富士宮の道しるべと古道』展>5 大石寺道(2011年05月31日掲載)に次の解説があるので、転載する。
 「淀師の筋違橋のたもとや富丘小学校のすぐ東の辻・青木字小屋敷・馬見塚字小屋敷など、大宮町から大石寺への昔の道筋に大石寺道の道しるべが立っている。大石寺への道しるべは、他にも上井出から大石寺に至る道筋などに見られる。
大石寺は、日蓮六老僧の一人日興が、日蓮の死後身延山を下って上野にいたり、地頭南条氏の力を借りて、正応3年(1290)に創建した寺であり、日興を中心とした日蓮宗の中心的な寺院として発展してきた大寺院である。そこには、将軍や大名とその奥方の寄進により建造された三門(県文)・御影堂(県文)・五重塔(重文)などがあり、その繁栄を物語ると同時に、多くの参詣者がやってきたものと考えられる。
また、大石寺道の道しるべからも、かつて大宮町から富知神社前・筋違橋・金之宮神社から富丘小の東へ出て、風祭川を渡って青木を通り、多くの信徒が大石寺参詣に向かったものと考えられる。この道筋には、「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔も多く残されている。」

小泉久遠寺:富士五山の一
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
富士山と号する。目師法縁。現在は日蓮宗本山。
建武元年日郷の開基、開基檀越は南条時綱(時光の子)であるが、これに石川孫三郎などが外護する。
縁起書によると、日郷が日興・日目より遺嘱された本尊・御影を小泉に遷座すべく、開創したという。
天正11年(1583)戦火で焼失した堂宇が再建される。境内89700坪、末寺136ヶ寺、塔頭12坊といい、堂宇は総門・黒門・山門・二天門・表門・赤門・仕出門・長屋門・本堂・客殿・大書院・白書院・庫裡・下庫裡・鐘楼・太鼓堂・天王堂などという。
江戸期にも回禄し、明治元年にも火災焼失、さらに明治13年全山焼失する。本堂庫裡などを順次復興し、現在に至る。
三派合同前は本門宗。現在は本堂・黒門(寛保3年/1743建立)・客殿・庫裡・開山堂・宝蔵・鐘楼などを有する。
大乗坊
唯一残る寺中である。盛時は13坊があるも、明治維新で6坊に減ずる。最後まで残った大乗坊も先年(昭和56年より以前)寂し、無住となる。
○サイト「富士おさんぽ見聞録」>小泉久遠寺 より
 縁起によれば、日郷は日目より大石寺を遺嘱されるも、大石寺4世日道の激しい反対を受ける。そのため建武2年(1335)御影や本尊などを携えて大石寺を退出したという。
大石寺を退いた日郷は、蓮蔵坊の組織と機能を富士郡小泉郷に移したという。これが現在の小泉久遠寺である。
小泉には早くから日蓮法華が浸透していたようで、かれらが日郷を迎えたのであろう。
日郷は小泉にあった法華寺を久遠寺に改めたという。
 直後、日郷は布教拠点であった安房へゆき、その地に法華堂(保田妙本寺)を建立。日郷の本血脈は、保田妙本寺住職が継承することとなる。そして小泉久遠寺は保田妙本寺と「両山一寺」の制を敷き、妙本寺住職が小泉久遠寺を兼帯し、小泉久遠寺には代官がおかれたという。
 久遠寺は多くの災害に見舞われたが、その都度復興する。
 境内規模は、往古は89,700坪あり、そこに総門、黒門、山門、二天門、赤門、出仕門、長屋門が連なり、本堂、客殿、書院、白書院、庫裡、鐘楼堂、天王堂などが建ち並んでいたという。塔中は妙栄坊、蓮蔵坊、本住坊、本浄坊、専蔵坊、教順坊、大恩坊、大乗坊、常照坊、眞行坊、善了坊、慈圓坊の12か坊。
 江戸末期の「駿河志料」では、「本堂6間4面 影堂、天王堂、釈迦堂、東照宮御神号碑、客殿東西9間南北13間、鐘楼、宝蔵、書院、庫裏、下庫裏、門三ヶ所、黒門、大門」と載せる。塔頭は本浄坊、慈圓坊、大乗坊、善了坊、眞行坊、大恩坊、眞成坊、常照坊、立圓坊の9か坊に減ずる。
○小泉久遠寺末寺:Wikipedia より
 開山日蓮、二祖日興、三祖日目、第四代日郷は開基
現在は次の末寺がある。
長久山円蔵寺(静岡県駿東郡長泉町元長窪)
日照山長遠寺(富士市三ツ沢)
◇萱守山妙円寺(富士宮市小泉) →下に掲載
○「日蓮宗の本山めぐり」昭和45年 より
久遠寺は富士山裾野に位置し、背後(北)には富士山を背負い、前方(南)には見下ろす地である。
従って、眺望のきく時には、北を仰げば、常に富士山に見守られた構図になる。
 富士山と久遠寺入口     富士山と黒門     富士山と開山堂
2020/05/21撮影:
天候は曇りで富士山を見ることはできず。
 久遠寺参道入口(上掲:富士山と久遠寺入口)     参道入口題目石
 久遠寺黒門(上掲:富士山と黒門)     久遠寺黒門と参道     参道から黒門を望む
 久遠寺参道:向かって右側には寺中が連なっていたものと思われる。
 久遠寺々中跡か:大乗院の南にあり、おそらく寺中跡であろう。
 久遠寺大乗坊1     久遠寺大乗坊2     久遠寺大乗坊3
 中心伽藍入口題目碑:久遠寺には総門、黒門、山門、二天門、赤門、出仕門、長屋門などの多くの門があったといい、現在は黒門しか残存しないが、中心伽藍入口付近には山門などがあったと思われる。従って、この題目碑附近に山門などがあったのであろう。
一直線の参道が行きつく先には本堂があった。本堂は明治13年小学校開校祝いの花火の災禍で焼失、そのため明治17年上野東光寺本堂を譲り受け仮本堂とする。本堂は庫裡・客殿などの所に再建され、仮本堂は開山堂となるという。
 久遠寺開山堂0(上掲:富士山と開山堂
 久遠寺開山堂1:石階の前に2個の礎石がある。二天門の礎石であろうか。     久遠寺開山堂2
 久遠寺開山堂3:堂を取り巻く礎石がある。焼失した本堂の礎石であろう。
 開山堂から本堂前広場を望む:広場の先が長い参道である。
 旧本堂前礎石:石階下に方形の造り出しを有し、中央に枘孔を穿つ礎石が2個残る。門礎であろうか。
 久遠寺旧本堂礎石1     久遠寺旧本堂礎石2     久遠寺旧本堂礎石3
 残存する礎石から、旧本堂は正面ははっきりしないが4間、側面6間の建築であったと思われる。
 久遠寺本堂1     久遠寺本堂2     久遠寺太鼓堂1     久遠寺太鼓堂2     久遠寺鐘楼
 久遠寺宝蔵1     久遠寺宝蔵2     久遠寺庫裡1     久遠寺庫裡2     久遠寺客殿1     久遠寺客殿2
 久遠寺束石か:どの堂宇のものなのかは不明
 祖師・先師・歴代墓地
 日蓮・日興・日目・日郷碑     日蓮大菩薩碑     日興上人碑     日目上人碑     日郷上人碑
 久遠寺歴代1     久遠寺歴代2     久遠寺歴代3     久遠寺歴代4


重須(北山)本門寺:富士五山の一
日蓮宗大本山、五重塔は明治42年、五重塔を修理中の失火により焼失する。
 →重須本門寺


上條(富士)大石寺:富士五山の一
日蓮正宗総本山、五重塔が現存する。
 →上條大石寺


下條妙蓮寺:富士五山の一
項目(記事)追加予定。
○Wikipedia より
正中元年(1324)南条時光(大石寺開基)、妻妙蓮尼の一周忌供養のため自らの邸宅跡を寺院とし、開山に寂日房日華を招いて建立する。
文化10年(1813)客殿再建。
文政2年(1819) 表門再建。
明治9年 末寺7ヶ寺とともに、日蓮宗興門派(明治32年本門宗と改称)の結成に参加。
明治33年 大石寺とその末寺が本門宗を離脱、日蓮宗富士派(のち日蓮正宗と改称)として独立。下条妙蓮寺は本門宗に残留。
昭和16年 国策により三派合同(日蓮宗一致派・顕本法華宗・本門宗)日蓮宗となる。
昭和25年 下条妙蓮寺は末寺6ヶ寺とともに日蓮宗を離脱、日蓮正宗に合流。
昭和45年 昭和25年日蓮宗に残留した忠正寺が日蓮宗を離脱、日蓮正宗に合流。
 但し、江戸期妙蓮寺触れ頭であった蓮華山妙典寺は日蓮宗に残留のまま。
伽藍は、本堂(御影堂)・客殿・開基堂(日華堂)・方丈・山門・墓地等よりなる。
寺中に7ヶ坊(本妙坊、心教坊、蓮光坊、蓮一坊、蓮二坊、蓮三坊、蓮四坊)がある。
末寺には忠正寺(富士宮市)、蓮光寺(富士宮市)等がある。旧末寺がある。
境内地は富士五山のなかでは一番小さいであろう。戦後の農地解放で狭められたという。総門は江戸中期までかなり南方にあったといい、それでも、富士五山のなかでは規模が一番小さいのは変わりない。
○サイト「富士おさんぽ見聞録」>下條妙蓮寺 より
多寶富士山と号する。日蓮正宗本山。
近世前期には、寺中は円立坊・真光坊・本行坊・宗円坊・蓮蔵坊・心教坊・本正坊・感応坊・実相坊・正行坊などで、末寺は法善寺・妙典寺・常照寺・妙遠寺など。盛時は塔中20か坊、末寺8か寺を数えたという。
天明6年(1786)の「法華宗勝劣派妙蓮寺派寺院本末帳」は塔頭7軒、末寺7か寺と所載。
「駿河国新風土記」は塔頭10軒とし、本妙坊・善応坊・蓮光坊・心教坊・徳玄坊・本行坊・恵光坊・久遠坊 感応坊・性円坊とある。
安永9年(1780)出火でほぼ伽藍を焼失。
直後、下庫裏を移築。さらに寛政9年(1797)大庫裏、文化10年(1813)客殿を再建し、玄関も建立。
文政2年(1819)表門再建。
末寺:
盛時は末寺8ヶ寺を数えたといい、天明6年(1786)「法華宗勝劣派妙蓮寺派寺院本末帳」には末寺7ヶ寺と載る。
7ヶ寺の内、下条妙行寺、下稲子常照寺、貫戸妙遠寺は廃寺となり、蓮華山妙典寺(東京)は日蓮宗に残留のまま。
現末寺は下條法善寺(下に掲載)・富士宮朝日町忠正寺(下に掲載)・富士宮市上稲子蓮光寺の3ヶ寺となる。
2020/05/22撮影:
 下條妙蓮寺参道:正面は本堂に至る、東側は寺中3坊が並ぶ。
 下條妙蓮寺本堂1     下條妙蓮寺本堂2     下條妙蓮寺本堂3
 下條妙蓮寺日華堂1     下條妙蓮寺日華堂2     下條妙蓮寺鐘楼
 下條妙蓮寺表門1     下條妙蓮寺表門2     下條妙蓮寺表門3     下條妙蓮寺手水舎
 下條妙蓮寺方丈1     下條妙蓮寺方丈2     下條妙蓮寺方丈3
 下條妙蓮寺玄関1     下條妙蓮寺玄関2
 下條妙蓮寺客殿1     下條妙蓮寺客殿2     下條妙蓮寺客殿3     下條妙蓮寺客殿4
 寺中蓮光坊前景      蓮光坊門前題目石     寺中蓮光坊山門     寺中蓮光坊本堂     蓮光坊玄関庫裡など
 寺中蓮光坊前参道題目石
 寺中心教坊山門     寺中心教坊本堂     寺中心教坊本堂・庫裡     寺中本妙坊山門     寺中心教坊本堂・庫裡
 下條妙蓮寺西参道:蓮一坊から蓮四坊の寺中が並ぶ、創価学会との蜜月で戦後建設された宿坊であろう。
 寺中蓮一坊     寺中蓮ニ坊     寺中蓮三坊     寺中蓮四坊


西山本門寺:富士五山の一
○Wikipedia より
 日興の寂後、弟子日代が重須本門寺を相承する。その後、重須の地頭石川実忠や信徒らと対立し、子弟を連れて重須本門寺を離山する。
康永3年(1344)西山の地頭大内安清から寺地の寄進を受け、西山本門寺を建立する。
近世はじめ、京都上行院を通じて後水尾天皇の皇女常子内親王が帰依する。延宝6年(1678)常子内親王、後水尾天皇の位牌を当寺に納め、天和3年(1683)書写した法華経を両親の菩提のために納め、祈祷所とする。常子内親王は関白近衛基熙の室である。
時の住持は18世日順であったが、日順の父である原宗安(原志摩守)は、本因坊日海(本因坊算砂)の指示により、織田信長の首を西山本門寺まで持ち帰り、柊を植え首塚に葬ったと伝える。
また、20世日圓は、水戸徳川家の出身であり、徳川光圀の寄進を受けて伽藍を整えた。
明治9年 末寺12箇寺とともに、富士門流の統一教団日蓮宗興門派(後に本門宗と改称)の結成に参加。
昭和16年 国策により三派合同により日蓮宗となる。
昭和32年 西山本門寺、塔頭、末寺は日蓮宗を離脱(末寺の一部は日蓮宗に残留)し単立となる。
その後、由比日光の主導で、西山本門寺は塔頭、末寺、檀家総代の了解を得ないまま日蓮正宗に合流するも、反対派による「合流」措置無効の確認をもとめる訴訟おこる。
昭和35年 由比日光の遷化。由比日光の後継指名により、日蓮正宗は吉田日勇(下条妙蓮寺)を兼任住職として任命する。
昭和50年 最高裁判決で、檀家側が勝訴。吉田日勇は本寺より退去し、旧門末の福正寺の森本日正が正式に後任住職として着任する。
現在、境内に残存する堂宇は次の通り。
鐘楼、本堂、尊霊殿、大庫裡、納屋、御宝蔵、黒門、日映堂、三師塔(日蓮・日興・日代)、鐘楼、正八幡宮、信長公首塚
寺中は
浄圓坊、大詮坊、妙圓坊
末寺は
福正寺(千葉県千葉市中央区)、光栄寺(静岡県伊東市)、代世寺(静岡県富士宮市)、本妙寺(静岡県富士宮市)、
長谷山弘宣寺(栃木県鹿沼市上久我1663) ・・・・・ 何れも単立である。
本山が日蓮宗から独立し、日蓮正宗に移籍する時、追随せず日蓮宗に留まった末寺は12ヶ寺ある。
○「富士おさんぽ見聞録」>「西山本門寺」 より
 開基は日興の高弟日代。日興が没すると重須本門寺を継承した。しかし、重須地頭石川実忠や宗徒と対立し、康永2年(1343)重須を離山。
日代は、西山領主大内安清に招かれて西山へ移り、康永3年に大内氏から寺領・堂宇の寄進を受けて西山本門寺開く。重須と同じく「本門寺」を称し、以降、正嫡・寺号相承をめぐり、重須と長らく相論を続けることとなる。
江戸期の境内
堂塔は、慶長10年(1605)の火災でその大半を失うも、中興16世日映の代に旧観に復する。
当時は、総門・中門・鐘楼・経蔵・宝蔵・天王堂・垂迹堂・客殿・大庫裡・下庫裡・書院・位牌堂・祖師堂・本尊堂・開山堂・裏門などを有する。
寺中は30余坊を数え、天明8年(1788)では塔頭26軒、末寺21か寺を数える(「法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳」)。
江戸後期「駿河記」には次の12か坊が記される。
妙圓坊、洗因坊(浄因坊であろう)、本泉坊、臨唱坊、大詮坊、本能坊、浄圓坊、常照坊、代信坊、圓信坊、恵林坊、行善坊
これら多くは明治初期までに廃坊となる。
常子内親王の帰依
18世日順の代、京の末寺・一条上行院を通じ、後水尾天皇の皇女常子内親王の深い帰依を受ける。
親王が両親の位牌を西山本門寺に納め、さらに天和3年(1683)両親菩提のため親筆の法華経を奉納し、夫の近衛基熙が関白になった折には、書写した祈祷経を納め、西山本門寺を祈祷所に定める。
なお、娘の近衛熙子(天英院)は6代将軍徳川家宣の室である。
江戸期の末寺
天明8年(1788)「法華宗勝劣派西山本門寺寺院本末帳」では21ヶ寺の末寺がある。
18世紀初頭の末寺一覧(出典「富士門流の歴史重須篇」)では次のように云う。
富士山福正寺 下総千葉郡今井村
富士山上行寺 武州江戸芝弐本榎
○久遠山本妙寺(末頭) 駿州富士郡西山村 →下に掲載
良水山興代寺(廃寺) 駿州富士郡西山村
興出山代世寺 駿州富士郡西山村
興立山代行寺(廃寺) 駿州富士郡馬見塚村
上行山安立寺 駿州富士郡青木村
○深澤山上行寺(廃寺) 駿州富士郡大宮村 →下に掲載
野中山善能寺 駿州富士郡野中村
○興起山代立寺 駿州富士郡小泉村 →駿河小泉代立寺
興流山代通寺 駿州富士郡曾比奈村
瀧戸山代信寺 駿州富士郡山本村
大見山上行院 豆州大見地蔵堂村
霊場山光栄寺 豆州伊東吉田村
恵日山広宣寺 豆州伊東芝村
富士山上行院 甲州府中愛宕町
富士山上行寺 京都一条通堀川端・・・現在の上京区堀川一条附近には見当たらない。
富士山上行院 京都北野老松町・・・現在の上京区老松町には見当たらない。
富士山上行院 阿州河内郡額田村
久遠山本因寺 肥州熊本元家町
上行山寿光寺 摂州大坂山小橋村
2020/09/05追加:
○「社寺境内図資料集成1 東北・関東・中部・中国・四国・九州」国立歴史民俗博物館、2001 より
富士山西山本門寺繪圖
 富士山西山本門寺繪圖:西山本門寺蔵、文化5年(1818)の年紀
江戸期には総門・中門・鐘楼・経蔵・宝蔵・天王堂・垂迹堂・客殿・大庫裡・下庫裡・書院・位牌堂・祖師堂・本尊堂・開山堂・裏門があったというので、それを参考にすると以下のように云える。
境内南端に黒門があり、参道の幾何かの石階の上に中門(楼門)がある。中門から客殿・庫裡などに至る参道左右には多くの寺中(坊舎)が並ぶ。ちなみに天明8年(1788)では塔頭26軒、江戸後期には12坊を数えるという。
寺中の先の参道左には客殿(現本堂)・庫裡などの本門寺伽藍が並ぶ。西には築地が築かれ、門があるが、これが上で云う裏門であろうか。伽藍背後には宝蔵と思われる堂宇が描かれる。
客殿などの横をさらに進むと、門と思われるものが描かれ、その奥には何れも妻入りの入母屋造と思われる本尊堂・祖師堂(御影堂)・開山堂が描かれる。
三堂の中央が本尊堂で向かって左が開山堂、右が御影堂であろう。(推測)
三堂背後の区画に描かれるのは三師塔(日蓮、日興、日代)であろう。
 次の「西山本門寺現況」は本繪圖を参照すべし。
2020/05/22撮影:
●西山本門寺現況
西山本門寺黒門:ここから三尊堂までの西山本門寺参道が始まる。
西山本門寺参道については上に掲載の地図(富士五山の項)を参照願うとして、「1/50000地図:明治29年大宮」を再掲する
 明治29年大宮(部分):反時計回りに、小泉久遠寺、重須本門寺、上條大石寺、下條妙蓮寺、西山本門寺が位置する。
西山本門寺参道は南北に一直線に伸び、山下黒門から山上の本尊堂まで約910mを測る。
この明治29年地図の参道は江戸期の参道を引き継いでいて、かつ現在もその当時の原形を保っているものと推定される。
距離は重須や大石寺の参道に及ばないが、今尚近世の雰囲気を保つ。
 西山本門寺黒門1     西山本門寺黒門2     西山本門寺黒門3     西山本門寺下馬札
西山本門寺参道:基本的には緩やかな登り坂であるが、勾配のきついところには立派な切石の石階となっている。これらの石階の建立年代は不明ながら、今尚殆ど狂うことなく、厳と存在する。
 西山参道石階1     西山参道石階2     西山参道石灯篭1:御富士とあると思う。     西山参道石階3
 西山参道石階4:見下ろし
 西山参道土道1:向かって左は妙圓坊、右は行善坊跡で、現在はここから坊舎及び坊舎跡が並ぶ。     西山参道石灯篭2
西山参道は次のような寺中や寺中跡の間を通り、本尊堂などに至る。
 寺中妙圓坊1     寺中妙圓坊2:妙圓坊跡とあるから、何時しか再興されたのであろうか。
 寺中妙圓坊本堂     寺中妙圓坊庫裡
 寺中行善坊跡1      寺中行善坊跡2     寺中行善坊跡3
 寺中浄因坊跡1      寺中浄因坊跡2     寺中本泉坊跡1     寺中本泉坊跡2
 寺中臨唱坊跡1      寺中臨唱坊跡2
 寺中大詮坊山門1     寺中大詮坊山門2     寺中大詮坊本堂     寺中大詮坊庫裡
 ※大詮坊は西山13世日春によって永禄8年(1565)に開創される。古来大詮坊は「代官席」と呼ばれる要職を占め、大詮坊のみ山門建立が認められていたという。平成14年代官門が再建される。
 寺中浄圓坊本堂1     寺中浄圓坊本堂2     寺中浄圓坊庫裡     寺中本能坊跡1     寺中本能坊跡2
 西山参道・現本堂横:本尊堂などに至る。     本尊堂への参道1     本尊堂への参道2
 西山本尊堂跡1      西山本尊堂跡2     西山本尊堂跡3      西山本尊堂跡4
 本尊堂前石灯篭1:特異な形の灯篭である。2基対にある。
 本尊堂前石灯篭2:刻文は判然とはしないが、富士山本門寺とある。
 本尊堂遺物:2個・対にあるが、何か分からない。向拝の位置にある?。
 本尊堂礎石1     本尊堂礎石2     本尊堂礎石3
 ※残存する礎石から、正面は5間、奥行きははっきりしないが、6間か。何れにしろ正面より、奥行きの方が大きいことは確かである。おそらく妻入りの建物であったと推定される。
 ※参道の終点は、杉林の中に残る御影堂、本尊堂、開山堂の跡である。これらは本門寺の中心建物だったが、安政2年(1855)の大地震で失われ、その機能を客殿(現本堂)へ移す。堂跡の後ろには歴代墓所があり、そこに大檀越大内安清の墓碑がある。
 ※本尊堂確認の後、引き返したので、御影堂跡・開山堂跡は未見(訪問時に三堂跡の認識はなし)。さらに北側に墓地があり、三師塔があることは訪問時認識がなく、従ってこれも未見。
 ※サイト:「フォト蔵」に三堂跡の写真があるので、転載する。
   本尊堂跡      御影堂跡      開山堂跡:未見に付、三堂の位置関係は不明である。
 参道から現本堂入口     西山手水舎
 西山本門寺本堂1     西山本門寺本堂2     西山本門寺本堂3     西山本門寺本堂4     西山本門寺本堂5
 西山尊霊堂1     西山尊霊堂2
 西山本門寺鐘楼1     西山本門寺鐘楼2     西山本門寺鐘楼3     西山本門寺鐘楼4     西山本門寺鐘楼5
 日映上人廟所:日映は西山16世、堂塔は、慶長10年(1605)の火災でその大半を失うも、中興16世日映の代に旧観に復する。
 日映上人墓碑     西山歴代墓碑3基
 西山本門寺宝蔵1     西山本門寺宝蔵2     西山本門寺宝蔵3     西山本門寺宝蔵4
 織田信長首塚     大柊と首塚


駿河宮原法華寺
富士山と号する。重須本門寺末。
明治初頭、旧幕臣200余戸が当地に移住、寺院の必要性に迫られ創設する。
明治4年日信により開山。しかし、その後士族の離散が相次ぎ、廃寺同様となるも、近年漸く現況を取り戻す。
2020/05/21撮影:
 宮原法華寺境内     日蓮上人立像     宮原法華寺本堂     法華寺本堂扁額
 宮原法華寺客殿     宮原法華寺庫裡

駿河竹養山正法寺跡
緯度・経度:35.248541, 138.610439 に所在(富士宮市宮原128附近)する。
 新しい石碑には「中老僧身延三世三位阿闍梨日進上人開山/竹養山正法寺/旧富士郡最初の身延直末永代緋金襴跡」と刻するので、ここが竹養山正法寺の跡なのであろう。そしてその隣には「墓地分譲中/竹養山正法寺/上柚野178」の立て看板があるので、上柚野正法寺はこの地から上柚野へ移転したものと解釈される。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 元は真言宗であったが、建治3年(1277)日進(中老僧の1人)が法論し、改宗させる。よって日進を開山とする。日進は後に身延3世となる。
盛時は本堂・祖師堂・七面堂・番神堂・慈眼坊・道仙坊・鐘楼などがあったが、焼失と復興を繰り返す。
 ※諸資料及びWebページを参照するも、上柚野正法寺の故地が富士宮市宮原であること・宮原から上柚野に移転したことは一切出現しないので、故地と上柚野との関係は一切不明である。
2020/05/21撮影:
 竹養山正法寺跡     竹養山正法寺跡碑
 題目石・常夜燈:正法寺跡に接して、正法寺との関係は不明であるが、題目石・常夜燈各1基がある。
 正法寺跡横題目石:正面には寛政元年(1789)の年紀と甲子講一結社と刻む。甲子の信仰を偲ばせる。
 なお、「甲子待ち」については、下に掲載の「駿河小泉富士根題目石類」を参照。

駿河富士宮淀平町要行寺:日蓮正宗
興栄山と号する。上條大石寺末。
文明10年(1478)創立、開基は上條大石寺第9世日有。
明治33年大石寺とともに本門宗を離脱、日蓮宗富士派に参加。
昭和35年伽藍改築。
2020/05/21撮影:
山門などはない。
 要行寺諸堂1:向かって左から庫裡・本堂・納骨堂か     要行寺諸堂2:向かって左から客殿か、庫裡、本堂
 要行寺推定本堂     要行寺推定庫裡     要行寺推定客殿     要行寺推定納骨堂
 日蓮・日興・日目供養塔     日蓮大菩薩供養塔     日興上人供養塔     日目上人供養塔
 要行寺歴代墓碑1     要行寺歴代墓碑2

駿河富士宮朝日町忠正寺:日蓮正宗
崇敬山と号す。下條妙蓮寺末。
寛永元年(1624)富士妙蓮寺日忠が建立する。あるいは天正18年(1590)日忠の建立とも云う。
昭和35年日蓮宗を離脱し、日蓮正宗に帰属する
2020/05/21撮影:
 忠正寺門前     忠正寺山門     忠正寺山内題目石     忠正寺本堂1     忠正寺本堂2
 忠正寺寺号碑:背後に写る建物が庫裡や信徒会館などと思われる。

駿河富士宮寶町本光寺
大鏡山と号する。重須本門寺末。
草創は大永5年(1525)重須7世日國が神田橋北方に堂宇を構えたことによる。
天正13年(1585)井出志摩守藤原正次が大檀越となり、現在地に移転再興する。その時、山号を富士山から大鏡山に改号する。移転理由は旧地が狭小であったからという。
 大宮本光寺山門     大宮本光寺本堂     大宮本光寺本堂扁額     大宮本光寺玄関     大宮本光寺庫裡
 大檀越供養塔:正面には「當山開基大檀那 慶長14年酉2月26日/妙法 心性院殿蓮夢日安 大居士/井手志摩守藤原正次」と刻む。

駿河小泉代立寺
富士山と号する。西山本門寺末。
近年建立の多宝塔を有する。塔は平成24年(2012)落慶
 →駿河小泉代立寺(多宝塔)

駿河小泉富士根題目石類
偶々移動中に発見する。富士根南公民館裏にある。緯度経度:35.220740, 138.633535 に所在。
2020/05/21撮影:
4基の石塔類が並ぶ。
 富士根題目石類:向かって左から二尊石仏、題目石その1、題目石その2、甲子碑が並ぶ。二尊石仏の性格は不明。
 富士根題目石その1:題目の他には判読できない。側面は享保2年(1717)の年紀を刻す。
 富士根題目石その2:題目講一統一之□□□のほかは判読できない。
 富士根甲子碑:甲子と講中と刻む、この性格は不明であるが、「Bコース<上野地区>石造物をたずねるコース」に「甲子」塚の解説がある。
その解説は「『甲子(きのえね)』の文字とともに「明治27年造立」「神田組」の銘がある。これは、年6〜7回ある甲子の日の夜に、夜遅くまで宴会をして祀る「甲子待ち」の碑である。甲子の日のなかでも旧暦11月の甲子の日が主な祭日とされ、黒豆や二股大根が供えられた。」とある。
 ※上記の解説取り上げられた「甲子」塚は緯度・経度:35.277823, 138.570818 に所在する。
おそらくは、ここの富士根甲子碑も解説にあるような性格のものと思われる。
なお、甲子碑は北山、大久保・上条の三叉路などにもある。また、上に掲載の「駿河竹養山正法寺跡」に接してある題目石には「甲子講」と刻するので、やはりこの地には「甲子待ち」の風習が盛んであったのであろう。

駿河小泉妙圓寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
萱守山と号す。小泉久遠寺(上に掲載)末。
正慶年中(1322-339に日郷によって創立される。開基檀越は小泉法華衆である。
日郷は上野大石寺2世日目の弟子であるが、日目が上洛の途中美濃垂井で寂したので供奉の日尊は墓所を守り、日郷が大石寺の経営に当る。しかし大石寺3世日道と法義の違和を生じ、日郷は本尊等を持ち大石寺を退出する。(日郷は大石寺塔中蓮蔵坊に住する。)
日郷は当所の法華堂(妙圓寺の前身)の近くの萱に中に数日潜伏したという。これが山号の由来ともいう。
やがて日郷は本尊を奉持し、安房に至り保田妙本寺を創め、また上野南条氏より所領の寄進を受け、当山の基を開く。
本尊勧請形式は祖師像の左右に日興・日目の像を配する。この方式は西山本門寺系と小泉久遠寺系とに散見されるという。
三派合同以前は本門宗、興統法縁であるが、各師とも院号がないのが、この法縁の特長である。
2020/5/21撮影:
 小泉妙圓寺山門1     小泉妙圓寺山門2
 小泉妙圓寺本堂     小泉妙圓寺本堂扁額     小泉妙圓寺庫裡
 日蓮日郷日興日目碑1     日蓮日郷日興日目碑2     日蓮日郷日興日目碑3:中央日蓮、左右は日郷・日興日目
 開基日郷上人     日興上人日目上人     妙圓寺題目石

駿河大宮廃上行寺
深澤山と号する。西山本門寺(上に掲載)末。
上行寺は江戸前期、大宮代官の手代深沢弥兵衛(西山本門寺強信)によって開基される、寺地は大宮中宿町であった。
明治5年明治維新の混乱で廃寺となる。
現在、上行寺にあった題目宝塔が、「二貫地共同墓地」に移設されている。これは神田川畔から移されたものである。
平成6年神田川整備事業に伴い、神田川畔の題目宝塔が調査され、その結果、題目宝塔は寛文元年(1661)大宮中宿町の題目講が上行寺に建立したものと判明する。
上行寺廃寺の後、この題目宝塔は神田川畔に移されたのであろうが、河川改修で「二貫地共同墓地」に移され保存されることになる。
なお、「二貫地共同墓地」には開基深沢弥兵衛の墓所があり、適所に移されたと云える。
 また、小泉代立寺には2012年に多宝塔が建立されるが、多宝塔に納められた「夢合わせ祖師像」「板曼荼羅」は廃上行寺の什宝であったという。上行寺は明治5年に廃寺、檀徒は多く代立寺に移り、今般塔に納められた什宝は檀家の柴田氏たちが守ることになる。平成21年、柴田氏から祖師像と板曼荼羅を代立寺に奉納するとの申出がり、寺では多宝塔建立を決めるという。
2020/05/21撮影:
写真は何れも「二貫地共同墓地」にて撮影。
 「題目宝塔のいわれ」:上行寺・題目宝塔の由来が語られる。
 廃上行寺題目宝塔1     廃上行寺題目宝塔2     廃上行寺題目宝塔3
 廃上行寺題目宝塔4:背面である、寛文元年八月十三日・大宮中宿町などの文字を刻する。
 石仏・題目石など:題目宝塔の隣に多くの石造物が並ぶ。     題目石(由緒不明)

駿河大宮常泉寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
妙源山と号す。身延林藏坊<身延山中>末。
身延行學院日朝が岩本実相寺からの帰路、当地に休息したという。日朝の法孫常泉院日経(開山)が当地に一宇を建立、その時期は慶長の初めと推察される。2世は妙源院日相。
爾後、日朝及び本尊を勧請する。
度々の災禍で度々堂宇を失う。直近では昭和7年大宮の大火で焼失する。
2020/05/21撮影:
 大宮常泉寺山容     門前題目石:享保8年(1723)銘という。
 大宮常泉寺本堂     常泉寺本堂扁額     常泉寺本堂内部:向かって右は日朝上人     大宮常泉寺庫裡
 常泉寺永代供養塔     常泉寺題目石:右側面には日蓮大菩薩、背面には天保3年(1832)の年紀を刻む。
 道祖神・法界萬霊塔

駿河下條法善寺
上野山と号する。日蓮正宗。下條妙蓮寺(上に掲載)末。
元和元年(1615)下條妙蓮寺僧泉林院日慶が建立。
昭和25年、本寺とともに日蓮宗を離脱、日蓮正宗に合流。
2020/05/22撮影:
 法善寺門前題目石     法善寺寺号碑     寺号碑横題目石
 法善寺山門     法善寺本堂へ     法善寺本堂     法善寺宝蔵

駿河大鹿三澤寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
弘法山と号する。池上本門寺末。親師法縁。開山は日朗。
開基は当地の地頭三澤昌弘。延慶元年(1308)一念発起し出家し、三澤院法昌日弘と号し、邸を捨て寺とする。
明暦3年(1657)池上19世日豊が中興開基、字三澤より現在地に寺を移転する。時の住職10世日相は承応3年(1654)身延七面山に登り水行し池田綱清(因幡国鳥取藩2代藩主、松平綱清)の病を平癒させ、綱清の帰依を得、寺運は隆盛となる。
大正7年全焼し、現堂宇はその後の再建である。
今も、綱清及び芳心院の細長い供養塔が残る。
○池田綱清の系譜は次の通りである。
父は因幡鳥取藩祖池田光仲、母は徳川頼宣長女茶々姫(芳心院)。
芳心院は紀州徳川頼宣の第一女。名を茶々姫という。
母は加藤息女(瑶林院)。生母は側室中川氏(理真院)という。
 <瑶林院は吹上報恩寺(紀伊日蓮宗諸寺中)、六条の地に於ける終竟の本圀寺などを参照。>
さらに遡れば、徳川頼宣の父は徳川家康、母は養珠院(お萬)である。
○三澤寺ルーフレット「弘法山三澤寺」 より
松平綱清は本堂・庫裡・七面堂・松竹梅と鶴亀が描かれた武者返しのついた石垣、4丁四方の寺領を寄進する。
江戸期は4ヶ寺の末寺を有する。
○大日本沿海輿地全図
大日本沿海輿地全図:富士山部分図:江戸後期
向かって右下から反時計回りに、小泉富士山久遠寺、村山富士浅間社、北山富士山本門寺、上條富士山大石寺、下條富士山妙蓮寺、大鹿三沢寺、西山富士山本門寺が描かれる。
2020/05/22撮影:
 入口石階脇宝塔3基     寺号碑と宝塔3基     日蓮大士500遠忌塔:500遠忌は天明元年(1781)
 開山日朗菩薩塔
 三澤寺本堂1     三澤寺本堂2     三澤寺本堂扁額     三澤寺庫裡     三澤寺離れ
 三澤寺鐘楼      三澤寺宝蔵跡:住職談
 池田家供養塔ほか1     池田家供養塔ほか2
 池田家供養塔ほか3
 池田(松平)家供養塔:向かって左の宝塔が「松平家写経供養塔」である。年紀は貞享4年(1687)という。この供養塔は、本堂を寄進した池田綱清生母芳心院が施主となり、日相が建立という。右の塔は、武田氏の家臣・篠原尾張守の子孫で、柚野を支配していた篠原忠左衛門が建立した供養塔という。
 七面堂参道石碑     七面堂参道     三澤寺七面堂1     三澤寺七面堂2

駿河大鹿窪題目石
GoogleMapでは大鹿窪道祖神と出るが、題目石である。道祖神は題目石から三澤寺に行く方面にある。
富士宮市大鹿窪932−3(緯度・経度:35.246023, 138.565088 に所在)
2020/05/22撮影:
何れも、刻銘が判読しづらく、詳細は不明である。題目石2基と四角柱1基(性格は不明)がある。
 大鹿窪題目石     大鹿窪題目石その1     大鹿窪題目石その2     大鹿窪題目石不明石柱

駿河西山本妙寺
久遠山と号する。西山本門寺(上に掲載)末頭。富士宮市西山1519。
もとは真言宗寺院(医王山西山寺末、牧之原市西山寺202)であったが、康永2年(1343)重須本門寺を離山した日代が留錫し、西山本門寺建立を機に「南森山本妙寺」と号して同寺末となる。開山は日達。「駿河記」は「此院日代初住の地なり」と所載。
 西山本妙寺入口     西山本妙寺本堂1     西山本妙寺本堂2     西山本妙寺題目石     西山本妙寺庫裡


駿河中島安立寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
照心山と号す。 岩本実相寺(下に掲載)末、達師法縁。
寛文5年(1665)岩本実相寺9世日恒が「安立庵」として開創。
 ※但し、「寺院御改書上扣帳」「末寺寺院御改書上帳」では、天正年中(1573-92)以来と記載しりという。
宝永年中(1704-11)岩本実相寺19世日體が隠居して開基となり、20世まで実相寺の隠居寺であった。開基檀越は松山半左エ門。
「大観」には延宝4年(1676)の開創とし、開山は日選とする。
2020/05/21撮影:
 安立寺入口題目石:寺号碑     中島安立寺山門     中島安立寺日蓮塔:安永10年(1781)銘
 中島安立寺本堂1     中島安立寺本堂2     中島安立寺庫裡     中島安立寺離れ

岩本実相寺
2020/05/21撮影:
○「日蓮宗の本山めぐり」
岩本実相寺
智証大師円珍が唐より一切経を2本招来し、1本は近江園城寺へ、もう1本は当山の山頂に開創と同時に納める。
あるいは、久安元年(1145)鳥羽法皇が叡山横川の智印に命じて建立したともいう。ともかく天台の大寺としての歩を進める。
日蓮は鎌倉から当山の経蔵に入り、居ること2年、「立正安国論」の構想がなったという。
この時の学頭は智海であったが、智海は日蓮に閲藏の許可をし、日蓮の構想がなった時、日蓮に傾倒し、子弟の礼をとって、日源の号を授かる。
しかし、智海の改宗と岩本山の転宗に反対した学僧たちは富士川の西・中之郷(現在の富士川町)に移住する。これが現在の中郷山等覚寺という。
移住した学徒が作った四十九院は暫くの間、岩本山と軋轢を起す。
永禄11年(1568)甲斐の武田信玄が侵攻し、全山が焼失する。
本堂:昭和34年放火のため、焼失。昭和37年再建。
経蔵:日蓮が正嘉元年から文應元年の間、この一切経蔵に籠り、諸経を閲読す。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
岩本山と号す。開山は日蓮、日源は2祖。日源は後に碑文谷法華寺、谷中感應寺、雑司ヶ谷法明寺などを開く。
天台宗の時代49院500坊を有するとも伝える。
学頭の智海の時代、後の六老僧日興、日持も当山にあり、後に日蓮と子弟関係を結ぶ。
○賢秀院日源
元々は、天台宗実相寺の学頭であり、智海法印と称するも、日蓮と邂逅し、帰依し、日源の名を与えられる。
日蓮宗実相寺2祖である。
その後、
碑文谷天台宗法服寺を法華寺(現在は不受不施の故天台宗圓融寺となる)と改宗(碑文谷法華寺)、
雑司ヶ谷の真言宗威光寺を法明寺に改宗(雑司ヶ谷法明寺)、谷中感應寺を開創、
駿河の真言宗古刹を改宗し、東光寺とするなど、各地で法華経信仰を弘める。
○岩本実相寺寺中・末寺・・・・・・・・・・サイト「富士おさんぽ見聞録」 より
「寺院御改書上扣帳」延享2年(1745):塔頭9軒、末寺15寺。
「駿州富士郡岩本實相寺末寺帳」天明6年(1786):塔頭10軒、末寺15寺。
「末寺寺院御改書上帳」天保13年(1842)塔頭9軒、直末15寺。
「岩松村誌」大正期:塔頭は全て退転、末寺は15寺である。
現在は、久成寺(宮下村)、佛好寺(美濃国苗木)は廃寺、常在院(秋田縣東置賜郡)、眞乗院(長崎縣西彼杵郡)が末寺に加わる。
という。
延享2年(1745)〜現在に至る末寺の一覧は次の通り。
妙経山信行寺(末頭) 東京都台東区谷中1−5−7
持栄山本照寺 静岡県富士市厚原489
妙瑞山本光寺 静岡県富士市瓜島町170
真如山実円寺 静岡県富士市三ツ沢320−1
中道山円妙寺 静岡県富士市中丸550
中野山園林寺 静岡県富士市中野77
妙経山長慶寺 静岡県富士市水戸島350
田嶋山妙福寺 静岡県富士市津田町83−1
顕本山久成寺 (廃寺)静岡県富士市宮下
妙雲山栄立寺 静岡県富士市平垣本町11−12
○照心山安立寺 静岡県富士市中島231−1 →上に掲載。
詮量山蓮心寺 静岡県富士市蓼原897−1
蓮清山玄龍寺 静岡県富士市中村町3103−1
仏原山立光寺 静岡県富士市前田830
正中山佛好寺 (廃寺)美濃国苗木
岩本山常在院 山形県東置賜郡高畠町1692
 常在院はその山号寺号から、元は実相寺塔頭であったが、明治22年山形県に移転再興する。
 天文年間(1532-44)善慈院日従が岩本実相寺の塔頭として建立(大観によれば六老僧日興が開基)。
 明治22年、鑑清院日融が開山となり、現在地に移転再興する。境内に願満稲荷大明神を勧請。
大法山真乗院 長崎県長崎市蚊焼町1797
 真乗院はその寺号から、元は実相寺塔頭であったが、明治41年長崎県に寺号を遷す。
 明治23年、長崎本蓮寺28世日達らが、清浄結社蚊焼教会を設立。
 明治41年、六老僧日持の旧跡である実相寺塔頭真乗院(日持開基)の寺号を移転する。
 昭和42年に庫裏を新築、同45年に本堂屋根を葺替。
2020/05/21撮影:
 岩本実相寺境内図     実相寺参道題目宝塔:詳細不明
 総門前題目石     岩本実相寺総門
 眞乗院・常在院位置図
 眞乗院・常在院跡:向かって左が眞乗院、右は常在院跡
 寺中常在院跡跡1:中央に写るのは立正研修会館で、この付近が常住院跡か、写る門は総門
 寺中常在院跡跡2:但し、写真手前の区画は別の塔頭かもしれなし。
 寺中眞乗院跡:写る門は総門
 寺中常在院石碑1:但しこの石碑の現在ある場所は眞乗院跡であり、常在院跡から移設されたものであろう。
 本石碑の年紀は文政4年(1821)である。
 寺中常在院石碑2:背後の石碑は日持大上人とあり、眞乗院の石碑である。この石碑は下に掲載。
 寺中眞乗院石碑1:文政2年(1819)の年紀。     寺中眞乗院石碑2:「當山開基蓮華阿闍梨日持大上人」と刻す。

 楼門石橋前題目石:延享3年(1746)年紀     楼門石橋前常夜燈
 実相寺楼門(仁王門)1     実相寺楼門(仁王門)2     実相寺楼門(仁王門)3     実相寺楼門(仁王門)4
 実相寺楼門(仁王門)5     実相寺楼門(仁王門)6
 楼門(仁王門)と鐘楼     実相寺鐘楼1     実相寺鐘楼2     実相寺鐘楼3     実相寺鐘楼4
 実相寺妙法堂:開山以来の鎮守
 楼門・鐘楼・釈迦堂・書院・方丈      釈迦堂・書院・方丈     実相寺釈迦堂1     実相寺釈迦堂2
 実相寺書院・玄関     書院・方丈前庭     実相寺方丈1     実相寺方丈2     実相寺方丈3     実相寺方丈4
 本堂前日蓮立像     実相寺本堂1     実相寺本堂2
 実相寺祖師堂1     実相寺祖師堂2     実相寺祖師堂3     実相寺祖師堂4
 祖師堂前題目石1     祖師堂前題目石2:賢秀院日源700遠忌
 祖師堂東題目石・開山廟墓碑:廟墓は回廊の奥にある。     祖師堂東題目石:日蓮上人550遠忌、天保2年(1931)
 当山歴代上人墓碑     歴代上人の墓碑:中央は日源上人墓碑
 日源上人墓碑     日源上人墓碑・部分     歴代上人の墓碑2     歴代上人の墓碑3
 実相寺魔王堂
 実相寺一切経蔵1     実相寺一切経蔵2     実相寺一切経蔵3     経蔵横題目石:特に注目すべきものではない。
 実相寺天満天神堂1     実相寺天満天神堂2
 天満天神堂横歴代墓碑     天満天神堂常夜燈     天満天神堂横歴代墓碑     歴代墓碑経石塔
 実相寺七面山境内図
  天満天神堂からさらに登ると、稲荷、鐘楼、七面堂別當歴代墓、七面堂、七面堂別當、八所権現があるが、不注意により未見。
  未見につき自前の写真がないため、以下の写真は諸Webサイトから転載。
  七面山鐘楼:この東には七面堂別當歴代墓があるという。
  実相寺七面堂:七面大明神は元禄頃勧請という。     七面堂別當屋敷
  実相寺八所権現:岩本山鎮守、智印の勧請という。


駿河興津附近の諸寺

興津石塔寺(廃寺)
2016/09/26追加:2020/04/12一部追加:
高光山と號す。興津耀海寺(2項下に掲載)末。
明治期廃寺となるという。(明治7年廃寺、本寺の耀海寺に統合される。)
石塔寺は東海道から身延山参詣や甲府へ向かう身延道の分岐点にあったという。
今ここには、門前にあった題目碑と道標、七面山常夜燈が現存する。題目碑は高さ3mで、側面には承応3年(1654)の銘がある。
また、享和元年(1801)大坂の俳人安井(大伴)大江丸が石塔寺に建立した道標は本寺である興津耀海寺に移され、現存する。
▽GoogleStreetViewより
 廃石塔寺題目碑など:題目碑・身延への道標などが写る。
2016/09/26追加:
○日像上人略伝(「岡山市史」) より
應長元年(1311)日像駿河の興津に宿る時、主人教を受け、地を捨てて寺となし。高光山石塔寺と號す。
 →日像上人略伝
2020/05/21撮影:
廃石塔寺にあった題目石・道標類は、近年破壊され、無残な状態となる。
上に掲載の廃石塔寺題目碑など(GoogleStreetView)や
サイト:静岡周辺の道祖神・庚申塚・石碑・石仏−あの頂を越えて 中の 廃石塔寺石塔類1  廃石塔寺石塔類2 や
出所をs_minagaが見失ったブログの画像、廃石塔寺石塔類3 と 諸Web情報を総合すれば、近年まで廃石塔寺は次のような石塔類があったことが分かる。
南側から、
1)不明角柱(剥落して読めないが道標か)
2)道標(身延山道):下部には宍原江四里 萬沢江三里 南部江三里 身延江三里と刻む。(身延へは13里)
 右側面には元禄6年(1693)10月10日の年紀、施主は山城国布施と刻む。
3)明治14年(1881)の遠忌碑・・・不詳
4)七面山常夜燈(笠の欠落した常夜燈)
5)道標(身延山道と刻む)が2基
6)題目石(承応3年(1654)年紀、高約3m)
7)題目道標(延宝5年(1677)の年紀、大坂題目講)・・・不詳
8)石塔寺無縁供養塔(昭和16年年紀)
9)身延行石碑(元政上人の漢詩か)
があったが、2020/05/21の状況では
1)、3)、4)、5)の2基、7)が見当たらない(つまり廃棄されたのではないか)、6)の題目石は現存するも、正面を除く3面には無粋にコンクリ―トが打たれ、破壊されたも同然の姿となる。8)、9)のみ原形のまま残る。
なお、1)・2)・5)2基・7)などの道標が処分されたと思われるが、その代替として、令和元年と刻む新しい道標が作られている。
要するに、修復ではなく、無茶苦茶な破壊が行われたようである。
 奥津石塔寺跡1     興津石塔寺跡2     石塔寺跡題目石1     石塔寺跡題目石2
 石塔寺無縁供養塔     身延行石碑      令和元年身延山新道標

興津理源寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
祥瑞山と号する。身延山末、脱師法縁。
開山は身延26世知見院日暹、日像の説法弘通の霊地を追慕して慶長年中(1596-1615)に草創される。
江戸期に2度に渡り堂宇を失い、再建する。
江戸初期、村に疫病がはやり、多くの犠牲者が出たが、村の代表が身延七面山を信仰し難を遁れたという。この縁故をもって、現に七面山という裏山の近くに当寺を建立したと伝える。
2020/03/06撮影:
 理源寺門前題目石:側面には 安永五丙申歳(1776)/奉唱満題目三千部成就處/七月佛生日建之 と刻む。
 門前東海道行路病死者供養塔     理源寺山門
 境内題目碑     題目石(日蓮大菩薩?)     題目石(不明1)
 題目石(真徳院日修):日修は理源寺20世・明治20年寂、安政の地震後、倒壊した堂宇を再建したという。常住山45世加歴とは、常住山は駿府感應寺と思われ、感應寺歴代には44世真徳院日修(准)とある。45世か44世かは不明。
 題目石(日蓮700遠忌):昭和56年     題目石(不明2)     理源寺日蓮上人立像
 理源寺本堂1     理源寺本堂2     理源寺庫裡     理源寺七面堂     理源寺七面堂内部     理源寺稲荷堂
 意眼日明墓碑覆屋      意眼日明墓碑
意眼さん(目の神):覺智院意眼日明尊位、丹後宮津城主の子で盲人であり、身延日朝の許に参詣の折、この地で没す。29歳、墓碑には元禄10年(1697)寂とある。宮津藩は藩主の交代が頻繁で元禄期であれば、覚智院は阿部氏か奥平氏であろう。

興津耀海寺
○現地説明板など より
 教敬(きょうぎょう)山と号す。身延山末。玉澤法縁。中本山といい、身延触頭、末寺2ヶ寺を有す。
永正7年(1510)真言宗林陽坊から日蓮宗に改宗。開山身延12世圓教院日意。開基市川法清と蓮新の父子(市川氏は東本陣の先祖)。
幕末頃村雲瑞龍寺の祈願所となる。
明治維新後、境内を東海道本線が貫くなど衰微する。ちなみに、東海道本線を挟んだ南側にある現「興津宿公園」も寺地であったという。
 檀徒に興津家がある。浄蓮坊は興津家の先祖で日蓮上人弟子、熱原法難に尽力する。
奥津家は鎌倉期奥津の地頭であり、室町期は興津城主であった。
夏心堂
 夏心了道上人を祀る。夏心はもと幕臣で、瘡毒を患い度々侮辱を受けていたが、当地で恥辱を受けた時、正当な果し合いのもと一撃で相手を倒し、深く懺悔して自決する。その際に「我は病に苦しみ今日の所行に及ぶ。以後、我と同じ病に悩む者あらば、信ずる者をば救わん。」と遺言する。そこで小堂を建て夏心を祀る、これが夏心堂である。種々の病に霊験があると信仰される。
「みのぶ道」の道標
 道標は末寺石塔寺にあったもので、耀海寺の東方約1kmの東海道と身延道との分岐点にあった。ちなみにこの奥津には日像と深草の元政の足跡が残されている。
石塔寺は明治7年廃寺、本寺の耀海寺に統合される。
明治13年興津中宿の大火で、この道標は折損する。縁者により耀海寺に移される。長い間不明であった下部が平成17年境内から発見され、復原されるという。
この道標は享和元年(1801)大坂の俳人安井(大伴)大江丸が建立したもので、自筆のものである。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
末寺として次がある。
本立寺
石塔寺:興津、明治7年に廃寺、2項上に掲載。
2020/03/06撮影:
 奥津耀海寺前     興津耀海寺入口
 興津耀海寺本堂1     興津耀海寺本堂2     耀海寺玄関庫裡など
 夏心堂前題目石(日意)1     夏心堂前題目石(日意)2:側面には日意舊跡と刻む。     夏心堂前題目石(法界)
 耀海寺夏心堂     耀海寺夏心堂内部     興津一族浄蓮坊供養塔
 「みのぶ道」の道標1     「みのぶ道」の道標2     「みのぶ道」の道標刻銘:現地説明板より

興津不動教会(奥津不動院)
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
通称:不動院、清水区興津本町159-2に所在。(この地番はYahooMapでは「動龍庵」と表示されている。)
智光院日栄(昭和28年寂)が創建する。玉澤法縁の系統であるが、現担任は西谷法縁。
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 では
由緒は全く「日蓮宗寺院大鑑」と同じであるが、堂宇の写真がある。この堂宇は、未見ではあるが、山腹にある不動院の写真である。
○興津不動院写真:他サイトから転載
 ページ「東海道 奥津宿6」 より                ページ「興津宿」 より
               興津不動院1                       興津不動院2
2020/03/06撮影:
興津本町159-2の地番には「堂宇」が一宇あり、そこには「不動尊拝所 日蓮宗耀海寺」の立札がある。
(YahooMapではこの堂宇は「動龍庵」と表示されている。)
おそらくこの堂宇が、少なくとも昭和56年までは不動教会(もしくは不動院)であったと推定される。しかし、今般この堂宇の確認を怠り、推測するしかない。
 ところで、訪問後に諸情報を参照すれば、旧不動教会と推定されるところから、新「茨原神社」、不動滝、牛頭天王を経て、つづら折りの道を辿れば、山中に「不動院」があることが判明する。
この山中の「不動院」が、新しい不動院(不動教会)とも思われるが、これも今般確認を怠り(未見)、不明である。
 まず東海道本線の踏切を渡れば、直ぐ左に旧不動教会であった思われる「不動尊拝所」がある。
そこから直ぐに、新しい不動院に至る道があるが、その入口には不動の瀧、及び茨原神社と津島神社(牛頭天王)がある。
但し、茨原神社はもともと山の中腹にあったが、参道石階が崩落し、参拝が困難となり、近年現在地へ移されるという。
 そもそも、「不動院」とは、波切不動尊を祀るようである。
現地の説明板によれば、波切不動尊は坂上田村麻呂の戦勝に関わる不動尊で、口碑では不動尊の霊験で津波を左右に割り、奥津を津波から救った(波切不動)ともいう尊像という。そして山号は奥津山と号する。こういった不動尊と日蓮宗不動教会(不動院)の結びつきは釈然としないが、あるいは、創始者である智光院日栄が古くからの波切不動尊信仰と日蓮宗の祈祷を結びつけたのかも知れない。
 不動尊拝所の看板:背後の建物が旧の不動教会と思われる。耀海寺とあるので、不動院は耀海寺管理と思われる。
 波切不動尊由緒1     波切不動尊由緒2     興津不動滝
2020/05/21撮影:
前回は未見であったが、不動尊遥拝所から「くの字」の参道をしばらく登った山腹に不動院がある。
 興津山不動院石碑:右の手水には昭和7年とあり、不動院の創立年は不明であるが、昭和7年頃の創立かも知れない。なお、この石碑の背面には「昭和44年新築」とあるので、現在の堂宇は昭和44年建立と思われる。
 興津不動院11     興津不動院12     興津不動院13     興津不動院扁額     興津不動院内部
 不動院からの眺望:清水港     山下・不動尊遥拝所

駿河清水附近の諸寺

清水本要寺
 :妙蓮寺の北に接する。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
示迹山と号する。清水妙蓮寺(下に掲載)末。玉澤法縁。
寛永元年(1624)妙蓮寺8世蓮行院日等がこの地に一宇を建て隠棲す、これが本要寺の始りである。
昭和20年7月米軍の空襲で全焼。戦後に再建される。
2020/03/06撮影:
 清水本要寺入口     清水本要寺本堂     清水本要寺庫裡
 本要寺題目石(日静):勵瑞院日静は31世     鬼子母神?など石仏覆屋

清水妙蓮寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
華生山と号する。身延山末。玉澤法縁。中本寺。
元は真言宗の巨刹であったが、時の住持智善房が、久遠成院日親との法論に屈し、現山寺寺号に改称して、日蓮宗に転宗する。
8世蓮行院日等は北側に本要寺を建て隠棲する。
昭和20年7月米軍の空襲で全焼。戦後、長時間を要するが、再建を果たす。
2020/03/06撮影:
末寺として本要寺(上に掲載)があるが、他に末寺があるのかどうかは不明。
 清水妙蓮寺山門     妙蓮寺門前題目石     清水妙蓮寺境内     日蓮上人立像     本堂前題目石
 清水妙蓮寺本堂1     清水妙蓮寺本堂2     清水妙蓮寺本堂内部     清水妙蓮寺本堂扁額
 清水妙蓮寺玄関     水妙蓮寺庫裡客殿     清水妙蓮寺鐘楼
 妙蓮寺法華宝塔1     妙蓮寺法華宝塔2:平成12年の建立。
 妙徳稲荷堂     妙徳稲荷堂内部     妙蓮寺常行菩薩像

江尻妙泉寺
 :静岡市清水区江尻東3−5−4
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
本應山と号す。身延山末。中本寺。
延徳3年(1491)甲斐武田家家臣穴山梅雪の弟梅庵が入江に庵を結び、発心して日建と号し、当寺を開創する。
昭和20年7月米軍の空襲で全焼。
昭和27年本堂・庫裡・鬼子母神堂が再興される。現在の本堂は昭和56年の再建。
2020/03/06撮影:
末寺は南隣の浄春寺(下に掲載)があるが、他にあるかどうかは不明。
 妙泉寺入口     門前題目石     妙泉寺本堂     妙泉寺本堂扁額
 宝篋印塔など:性格は不明     鬼子母神堂か:不明

江尻浄春寺
 :静岡市清水区江尻東3−5−15
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
海光山と号す。清水妙泉寺(上に掲載)末。玉澤法縁。
正保元年(1644)妙泉寺11世常住院日妙が開創と伝える。(「駿河風土記」)
その後幾たびかの災害などで再建を繰り返す。
昭和20年7月の空龍で灰燼に帰す。
2020/03/06撮影:
 浄春寺山門:昭和62年建立     門前題目石     浄春寺本堂:昭和28年再建     浄春寺庫裡:昭和50年造替
 開運弁財天     浄春寺歴代墓碑:五輪塔
 題目石3基1     題目石3基2
 題目石(題目経石塔)     題目石(不明):延享4年(1741)年紀     題目石(法界):文政13年(1830)年紀

清水妙慶寺
 :静岡市清水区清水町8−16
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
圓教山と号す。村松海長寺末、池上・神楽坂法縁。
大永年中(1521-28)今川義元がその息(女)靱負佐(ゆげいのすけ、ゆきえのすけ)の菩提を弔うため、開基となり、創建される。
靱負佐は永正18年(1521)帰寂し、法名を圓教院妙慶日恵大姉と称する。山寺号はこの法名による。
永禄2年(1559)村松海長寺10世蓮華院日存を迎え開山する。
永禄4年今川氏真から朱印を受ける。
本堂は8間×5間の規模で、客殿も幾度は再建を繰り返す。
安政元年(1854)の大地震で諸堂が倒壊、明治維新を挟み、現在の本堂が再建される。
大正4年庫裡を改修、位牌堂新設、鐘楼門を新築する。鐘楼門は昭和19年の地震で解体するが、29年山門として再現する。
2020/03/06撮影:
 妙慶寺山門1     妙慶寺山門2     妙慶寺山門3     妙慶寺山門4     門前題目石
 妙慶寺本堂1     妙慶寺本堂2     妙慶寺本堂扁額     妙慶寺庫裡客殿     本堂前題目石:日蓮上人650遠忌
 堂宇名称不明堂:笠森稲荷とも思われるも、確証はない。
 妙慶寺鐘楼
鐘楼は平成3年再建、梵鐘は寛政7年(1795)の鋳造であるが、今次侵略戦争によって供出を命ぜられる。しかし、この鐘は戦利品として米国に持ち帰られる。昭和63年米カンザス州トピカ市から突然返還の申し出があり、妙慶寺に返還され、新築された鐘楼に吊るされる。なお、この鐘は原山門となっている鐘楼門に吊るされていたものである。、
 なお、門前に清水次郎長生家が残る。
 清水次郎長生家     清水次郎長肖像写真

矢部能満寺
 :静岡市清水区南矢部669
見海山と号する。池田本覚寺末。西谷法縁。
もとは真言宗定金金剛院と称していたが、住職宥海が中老日位との法論に敗れ退去する。
寺は無住となるも、應永2年(1395)池田本覚寺3世日順によって改宗する。
 ※海満阿闍梨日順:当寺開山、応永13年寂
現本堂は天明2年(1782)の建立という。
山頂の七面堂は昭和に入っての再建という。
2020/03/06撮影:
 能満寺門前題目石     能満寺門前日蓮塔     能満寺山門
 能満寺本堂1     能満寺本堂2     能満寺本堂扁額     能満寺玄関・庫裡     能満寺庫裡
 題目石・石塔     大法院日觀塔:事跡不明     題目石(不明その1)
 題目石(不明その2):左右側面に銘があるが、判読できない。     題目石(700遠忌)
 能満寺歴代廟塔
南の丘上に七面堂がある。
 能満寺七面堂1     能満寺七面堂2     能満寺七面堂3     能満寺七面堂4     能満寺七面堂内部
●矢部牛頭天王
能満寺東南に牛頭天王が祀られる。明治維新まで、能満寺が別當であった。
寛文年中、京都祇園社より勧請され、神殿と覆屋が造営される。明治元年太政官布告で八坂神社と改称される。祭神はスサノヲ、明治8年村社に落ちぶれる。<写真は撮影せず>

村松本能寺
 :静岡市清水区村松1−4−80
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
東光山と号す。村松海長寺(下に掲載)末、池上・神楽坂法縁。
永正6年(1509)池田本覚寺9世正受院日東が創建する。
日東は本覚寺本堂建立に尽力するが、その途中夢告により当地に至り、妙正の導きにより建立成就の力を得る。よって、その建立成就の後、当地に一宇を建立し、隠棲したのが当山の始りである。
以上の経緯から本来は池田本覚寺末であるはずであるが、なぜ村松海長寺末であるのかは不明である。
以降、多くの天災などで諸堂の再建を繰り返すが、昭和35年本堂・庫裡・書院を再建し、境内を整備する。
○「現地説明板」 より
池田本覚寺日東はある時霊夢即ち池田から真東の地に光物を夢み、自ら有度山を踏み越え、海浜に出たとき、洞窟に安置された虚空蔵菩薩を拝し、光物の存在を確認する。日東はこの霊夢明示のこの地を弘教の拠点と定め、本能寺を創建する。因みに寺宝には虚空蔵菩薩像、妙正天像等がある。
霊夢に現れたのが妙正天であり、妙正に導かれ光物を夢にみるという。
○日蓮宗静岡県中部宗務所>寺院案内>本能寺のページ より
「妙正堂の縁起」
山門の正面が鎮守「妙正堂」で、妙正大善神を祀る。妙正大善神は、疱瘡(天然痘)から子どもを守護する霊験を持つ。
なお、妙正大善神は、甲斐武田氏重臣・穴山梅雪の息女を神格化した善神という。梅雪息女は天正3年(1575)疱瘡で若年にして歿する。その遺言は「我は疱瘡で苦しむ人々を守護するであろう」というものであったと伝える。
身延山延壽坊には梅雪息女の墓所があり、法号は「延壽院殿妙正日厳大姉」であり、神号の「妙正」はこの法号に由来する。
 妙正大善神を勧請するのは本能寺と延壽坊のみであるが、どのような経緯で本能寺に勧請されたのかは詳らかではない。
しかし、武田氏の駿河領有期に穴山梅雪が江尻城主として清水を治めていたこととの関連は容易に想像がつくであろう。
 →延寿坊は身延山中に記載あり。乞う参照。
2020/03/06撮影:
 本能寺山門     本能寺境内:向かって右正面が妙正堂     本能寺本堂1     本能寺本堂2
 本能寺玄関庫裡     本能寺客殿     本能寺妙正堂     妙正堂内部
 名称不明堂宇      本能寺供養塔

村松本妙寺
 :静岡市清水区新緑町2−12
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
遠因山と号す。村松海長寺(下に掲載)末、池上・神楽坂法縁、住職は池上・柳島法縁。
村松海長寺15世遠離院日恒が隠棲し、本山に近いこの地に鬼子母神堂を建立したのが起源である。寛永10年(1633)の創立である。
近年本堂と庫裡とを合併、堂宇を改築する。
2020/03/06撮影
 本妙寺入口題目石     本妙寺本堂・庫裡1     本妙寺本堂・庫裡2
 本妙寺本堂     本妙寺本堂内部     本妙寺庭・墓地

本山村松海長寺
 :静岡市清水区村松299
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
龍水山と号し、日蓮宗本山、末寺5を有す。
仁寿2年(852)有渡山八ヶ原に創建された天台宗峨岳寺(慈覚大師の開基、山号は村松山)が前身である。
寛弘8年(1011)山津波により、堂宇倒壊し、現在地に遷る。
文永9年(1272)中老僧日位、この地を弘教し、寺主の慈証を帰伏せしめ、一山をあげて日蓮宗に改宗する。
慈証は日受と改号し、日位を開基とす。この時の山寺号は龍水山海上寺であるが、江戸期に海長寺と改める。
伽藍は幾多の火災・災害により破壊・再建を繰り返す。
文明年中の焼失、文明6年(1497)震災、明暦の暴風や、宝暦・天保・安政の災害により多くの堂宇が破壊される。
明治21年鐘楼再建、南向大門を廃し東向石門を建造する。
大正10年位牌堂より出火し、鐘楼と庫裡を残し焼失する。10年後祖師堂・本堂・宝蔵・書院などを再建し、落慶法要を行う。
直近では、昭和20年7月今次侵略戦争の米軍空襲で、鐘楼と宝蔵を除いて灰燼に帰す。
江戸期寺中として賢妙院・円城坊・宝積坊がありしも、明治初頭に廃寺となる。
○「海長寺」のサイト より
徳川家康が甲斐の武田を攻略した折、敵の残徒、今福丹波守虎孝の追撃を避け当山へ逃げ込み、一命を助かったことがある。
今福主従は家康を討ち漏らした責を負い自刃したので、杉原山堤畔に小堂を造り主従7名の霊を慰めたという。
これより徳川家との縁故が深く、当山の定紋は三ツ葉葵である。
 ※訪問時は気が付かなかったが、蟇股や屋根瓦の紋章に三ツ葉葵が掲げられているようである。
寺門が生き残り権勢を誇るため、時の権力に歩み寄ったということであろう。一方では、時の権力の宗教介入に頑強に抵抗した日蓮上人の正系も存在したが、それは徳川幕府によって徹底的に弾圧されたという事実もある。あたかも誇りのように三ツ葉葵を許されるなどというのは気持ち悪いとしか言いようがないであろう。
○ページ「杉原山虚空蔵堂」 より
 上記の今福主従のついては、次のように云う。(引用)
 このあたりは杉原山と言います。今から約五百年前に創立された本能寺 村松一丁目のたきぎ取りのやまであり、当時は杉原山全体が同寺の飛地境内でありました。現在、この仏堂の境内地は、六十六平米程であります。
 戦国時代甲斐の武田信玄がまだ世に出なかった徳川家康を攻め、窮地に陥れました。
その時、家康を追い詰めたのは信玄の家臣、今福丹波守主従七人であったといわれますが、ついに家康を探し出すことができず、ご主君に申し訳ないと、この地で無念の自害をしたと伝えられています。
 後に村人達は、この七人の悲運を哀れに思って「七代様」と呼んで供養してきました。
七代様を虚空蔵菩薩としてお祭りするようになったのは、今から二百年余り昔の明和八年(1771)本能寺第十八世遠寿院日問上人の時からであります。 昭和六十年二月 不二見地区まちづくり推進委員会 清水市立第四中学校郷土研究部』   (案内看板より)
 ※「海長寺」のサイトで云うようには、海長寺の関与には触れられていない。むしろ、後世になって関与したのは末寺である本能寺である書きぶりである。
勿論、当時の家康命拾いの事実は海長寺のいうようなことであったかも知れず、後世の末寺本能寺の関与は裏から海長寺が操作したのかも知れず、海長寺のサイトを否定するものではない。
 全く関係ないが、七代様を虚空蔵菩薩としてお祀りするとはどのような論理か全く見当もつかない。
◆末寺
高橋山建徳寺(静岡市清水区高橋)
養保山妙福寺(静岡市清水区三保)
○円教山妙慶寺(静岡市清水区清水町)・・・すぐ上に掲載
○東光山本能寺(静岡市清水区村松) ・・・すぐ上に掲載
○遠因山本妙寺(静岡市清水区新緑町)・・・すぐ上に掲載
2020/03/06撮影:
 海長寺山門     海長寺本堂1     海長寺本堂2     海長寺日蓮上人立像
 海長寺圓妙閣:「日蓮宗の本山めぐり」昭和46年では、ここにRC造と思われる箱形の建物が「書院玄関」として写っているので、その箱型の建物が近年に造替されたということであろう。
 海長寺聖寶殿:現在は新しく宝蔵殿が造影されたというので、これは大正末期に造営された宝蔵(昭和20年の空襲でも残るという)であろう。
 海長寺鐘楼
 海長寺天神堂     海長寺天神堂内部
鎮守天満大自在天神はもと飛地境内の天神山にあったが、大正初期に神域を他に譲渡したので、あらたに寺域に天神堂を造営する。
神体は渡唐天神と称し、肩に鞄をかけた菅原道真の木像である。海中出現と伝える。
 海長寺手水舎     海長寺推定南門跡

村松龍華寺
 :静岡市清水区村松2085
観富山と号する。大野本遠寺末。小西法縁。
寛文10年(1670)大野本遠寺4世常寂院日近が、この地から見る富岳の景観を愛し、一庵を草し大野別院とし、隠棲したのが草創である。
日近は養珠院(お萬)の甥にあたり、その縁から、紀伊頼宣・水戸頼房の寄進によって堂宇と庭園が整備される。
 ※現存する本堂は頼宣・頼房の寄進によるもので、江戸初期の建築である。
不動堂近くに高山樗牛の墓がある。
 ※墓は現在の七面堂近くにあると思われる。
2020/03/06撮影:
 龍華寺境内図     龍華寺山門     龍華寺寺号石     龍華寺庭園1     龍華寺庭園2
 龍華寺本堂1     龍華寺本堂2     龍華寺本堂3     龍華寺祖師堂     龍華寺玄関庫裡
 七面堂参道題目石:明治14年年紀     七面堂参道題目笠塔婆:元禄13年(1700)年紀
 龍華寺七面堂1     龍華寺七面堂2     七面堂から俯瞰     龍華寺樗牛館     龍華寺大蘇鉄
 村松から根小屋へ至る間の富士山:龍華寺からの富士山ではないが、龍華寺のやや南方の地点から見た富士山である。


駿府付近の諸寺

池田本覺寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より 及び
○「日蓮宗の本山めぐり」本山会、昭和46年 より
日蓮宗本山、青竜山と号する。
徳治3年(1308)中老日位の開創、元は真言宗の巨刹であった。(門前説明板では延慶元年(1308)創立とある。)
弟子の日静・日厳(本覺寺2世)は関東管領上杉頼重の息で、足利尊氏の外叔父である。日静は本圀寺を鎌倉から京へ移す。
江戸期は徳川将軍家より庇護を受け、当時は8ヶ坊を有する。
 ※付近の寺々は多く徳川家との関係を強調し、もとより日蓮の没後、日蓮宗の諸師の多くは権門に接近し、そのことによって教線を拡大してきたが、ましてや宗徒ではないものからの布施に寄りかかりそれを誇るのが近世日蓮宗(日蓮宗に限らないが)の趨勢であるということであろう。
明治2年本堂・本佛堂・金比羅堂・宝蔵・総門を残し、徳川家浪人の失火で諸堂を焼失。
建造物:本堂は木造銅板葺・文政元年の建立・69坪、本佛堂6.5坪・元亨元年(1321)建造、位牌堂・34坪・明治4年久能山護摩堂を移築、庫裡は明治4年建立・77坪、金毘羅堂・享保5年(1720)再建、金比羅明王(大善神)を勧請したもの・7坪、其のほか玄関、客殿、書院、鐘楼などを有する。なお総門は明治初頭に仁王門跡に移す。
2020/03/07撮影:
 本覺寺門外題目石     本覺寺門前題目石:何れも年紀未確認。
 池田本覺寺総門     本覺寺総門扁額     本覺寺本堂参道     池田本覺寺鐘楼
 池田本覺寺本堂1     池田本覺寺本堂2     池田本覺寺本堂3     池田本覺寺本堂4
 本佛堂には釈迦如来坐像、鬼子母神・十羅刹女、行學院日朝像を安置する。
 本覺寺本佛堂     本覺寺本佛堂扁額     本佛堂釋迦如来坐像     鬼子母神・十羅刹女     行學院日朝像
 本覺寺宝蔵     本覺寺金比羅堂     金比羅大権現像     本覺寺弁財天
 日蓮聖人立像     題目石(開宗650年報恩)     題目石(二基):向かって左は日蓮大菩薩、右は判読できない。
 題目石(石経)     題目石(開宗700年報恩)     題目五輪石塔:寛永19年(1642)の年紀
 本覺寺歴代之墓     開山日位墓碑     二祖日厳墓碑
 妙位日禪尼墓:妙位日禪尼は日位の祖母で日蓮上人に深く帰依するという。
 本覺寺本坊石門     本覺寺慰霊殿     本覺寺玄関・客殿     本覺寺庫裡
久能山護摩堂遺構:
 久能山東照宮護摩堂は位牌堂として明治4年本覺寺に移建される。
復古神道にとって、まず社僧・護摩堂・塔婆などが次いで本地堂・経蔵・鐘楼・仁王門などが佛教として排斥されたようである。久能山でも、社坊・護摩堂・五重塔は破棄され、本地堂・鐘楼などは改変される。
久能山護摩堂の現状は、細部は変更されているが、堂の形式、部材の大枠は元の護摩堂の姿や部材を残すものと思われる。
 久能山護摩堂遺構1     久能山護摩堂遺構2     久能山護摩堂遺構3     久能山護摩堂遺構4
 久能山護摩堂遺構5     久能山護摩堂遺構6     久能山護摩堂遺構7     久能山護摩堂遺構8
 久能山護摩堂遺構9

三松蓮長寺
常慶山と号する。
松野(三松)蓮永寺(日持上人の開基・貞松山)末で日持上人の法系に連なる。
 →駿河府中蓮長寺:三重塔を有する。

→以下の府中宗林寺・妙像寺・倉長寺(宗長寺)・浄祐寺は戦後すぐに駿府寺町附近から現在地(沓谷)に移転する。
駿府寺町附近の戦前の寺院の配置は駿河長谷寺心礎(伝駿河国分寺心礎)古図による城代屋敷と城下寺町」の項に示す。

府中宗林寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
妙祐山と号す。府中感應寺末、脱師法縁。
永和4年(1378)四条妙顕寺3世朗源が、現在の葵区安東付近(駿府城北方)に光栄山妙福寺を創建したと伝える。
元亀3年(1572)三方ヶ原の戦いで戦死した斉藤六郎左衛門宗林(家康の側近あるいは家康の茶人)の追善のために高藤太郎が再興、この時寺号も現在の名称に改称する。
 ※斎藤宗林は、徳川家康の茶師として江戸に随従し、谷中宗林寺の基を開いたともいわれる。
その後安東から寺町に移転し、明治25年類焼、昭和15年静岡大火で焼失、昭和20年静岡大空襲でまたも焼失。
戦後、市の都市計画により現在地に移転、本堂・庫裡を再建する。
2020/03/07撮影:
 宗林寺入口     宗林寺本堂     宗林寺庫裡

府中妙像寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
法養山と号す。池上本門寺末、住職は親師法縁。
正應元年(1288)大国阿闍梨日朗によって開山される。当初の寺地は駿府城北の大岩であった。
後に現在の七間町附近に移り、大伽藍を構えたという。
承応2年(1653)に伽藍を焼失、その後明治維新に至るまで、屡々被災し、多くの堂宇・寺宝を失う。
明治25年類焼、昭和15年静岡大火で類焼、仮堂のまま昭和29年空襲で全焼。
2020/03/07撮影:
 妙像寺山容     妙像寺入口     妙像寺本堂1     妙像寺本堂2     妙像寺本堂扁額
 妙像寺本堂内部     日蓮上人立像     妙像寺庫裡

府中倉長寺(宗長寺)
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
新光山と号す。府中感應寺末、脱師法縁。
開山は平等院日悟(文禄3年/1594寂)であるが、「東国紀行」によれば、連歌師宗長(天文元年/1532寂)が府中に庵を構え、宗長なき後庵が寺となったと云うも確証はないという。但し「寛永年中の日蓮宗末寺帖には「宗長寺」とあるから、宗長の何回忌かに創立されたかも知れない。
戦後、寺町から現在地に遷る。
2020/03/07撮影:
 宗長寺山容     宗長寺山門     宗長寺本堂     宗長寺本堂内部
 日蓮聖人立像     宗長寺題目石     宗長寺庫裡

府中浄祐寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長善山と号す、府中感應寺末、脱師法縁。
寛永7年(1630)感應寺11世竜岳院日長の創立。
元寺町3丁目にあったが度々に被災があり、昭和22年現在地(沓谷)に移転する。
旧地には大黒殿が建立されている。(これは良く分からない。)
 ※先代日源上人は本堂・庫裡を新築し、旧地には大黒殿を造立し布教活動をしていたが、上人遷化にともない現在地へ合併したという。
近年、2階建ての本堂を新築する。土台というか1F はRC造であるが、2Fの本堂は和様の木造建築である。
1Fは大黒天を祀り、地蔵堂には日限地蔵尊・水子地蔵尊を祀る。
なお、清正公像も祀るという。
2020/03/07撮影:
 浄祐寺入口     浄祐寺全容     浄祐寺本堂1     浄祐寺本堂2     浄祐寺本堂扁額
 浄祐寺玄関     浄祐寺庫裡


松野蓮永寺(三松蓮永寺・貞松山蓮永寺)

○「日蓮宗の本山めぐり」本山会、昭和46年 より
 開山は六老僧日持。
当時は駿河庵原郡松野村(現富士市南松野)にあった。開創の時期は文永11年(1274)とも弘安6年(1283)とも云われる。
日持が大陸の布教に出立し、無住同様となり、中世には武田氏の兵火に罹り荒廃する。
元和元年養珠院(お萬)は家康に請うて、駿府城の艮鎮護として、この地(三松・現沓谷)に遷し再興する。
蓮永寺の寺号が駿府へ遷ると松野の寺は永精寺と改められ、現在は妙法山という山号である。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 日蓮宗本山。貞松山と号する。親師法縁。
開山は蓮華阿闍梨日持。
建造物は以下を擁する。
本堂(木造瓦葺・150坪)、総門、書院、客殿、庫裡、仁王門、鐘楼(4坪)、摩利支天堂(10坪)、浄行堂(3坪)、対面所
2020/03/07撮影:
 蓮永寺総門     蓮永寺山号石     蓮永寺寺号石
 仁王門前題目石その1:天保2年(1830)年紀     仁王門前題目石その2     蓮永寺仁王門
 蓮永寺境内1     蓮永寺境内2     蓮永寺境内3
 蓮永寺本堂1     蓮永寺本堂2     蓮永寺本堂3     蓮永寺本堂扁額     蓮永寺本堂内部
 蓮永寺鐘楼      蓮永寺新客殿     蓮永寺玄関・客殿     蓮永寺客殿     蓮永寺対面所
 蓮永寺裏門
 蓮永寺経堂跡1     蓮永寺経堂跡2:蓮永寺の説明は「経堂と云っていた」という。
 蓮永寺摩利支天堂跡1
 蓮永寺摩利支天堂跡2:25年程前に中学生の煙草の火の不始末で焼失した。因みに、この摩利支天は家康とは何の関係もないとのこと。
 蓮永寺摩利支天小祠:堂跡にある瓦製の小祠が現在の摩利支天堂で、今もお祀りはしている。
 蓮永寺題目石類:向かって右から、題目石1、題目石2(■■大聖人)、不明石塔1、題目石3(天保10年年紀)、題目石4(■■七面大明神)、不明石塔2(※この写真では木の陰になり見えにくい)の6基がある。
 題目石2(■■大聖人)     不明石塔1     題目石3(天保10年年紀)     題目石4(■■七面大明神)
 不明石塔2
 養珠院供養塔1     養珠院供養塔2:蓮華院妙紹日心大姉と刻む。総高4.61mあるいは5.5mという。蓮華院と刻む逆修塔。
 ※慶長11年(1606)の「玉沢手鑑草稿」に記載の「宝倉板本尊銘写」によると「蓮華院妙紹日心」とあり、養珠院と称する前は蓮華院と称していたことが分かる。
 ※元和2年(1616)4月22日、蓮華院妙紹日心から養珠院妙紹日心大姉に法号名を変更する(「本光国師日記」 )。
 ※養珠院墓所は甲斐大野本遠寺にある。略歴は養珠院略歴を参照、養珠院霊牌所は紀伊養珠寺を参照。
●寺中に随量院がある。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
随量院
静岡市葵区沓谷2−7−1
元和年中養珠院が蓮永寺を松野から三松へ移転した時、寺中として建立される。
昭和21年旧地から現在地に移転、仮堂であったが、昭和35年木造庫裡を完成、昭和48年RC造本堂を完成。
 蓮永寺随量院;鐘楼と新客殿の間にある。
●浄行堂については、次の記事がある。現在は浄行堂は退転と思われるが、その跡地は未確認である。2016年は存在していたと思われる。
ページ:「谷津山の名刹 蓮永寺(静岡市)」2016/06/29の記事
  浄行菩薩:写真向かって左の石階は経堂跡である。
ページ「蓮永寺(静岡市葵区沓谷)の御首題」2016-05-10の記事
  常行菩薩2
●末寺:Wikipedia より
妓楽山妙音寺(台東区松が谷一丁目)
本松山蓮華寺(文京区白山二丁目)
 蓮華寺末:久宝山観成院(牛久市牛久町)
 蓮華寺末:本松山延寿院(八王子市川口町)
 蓮華寺末:久遠山仙行寺(厚木市上古沢)
大法山本伝寺(文京区大塚四丁目)
長久山妙安寺(練馬区旭町三丁目)
○正信山妙伝寺(鎌倉市扇ガ谷二丁目) → 鎌倉日蓮宗諸寺
松林山妙永寺(富士市浅間上町)
円立山法栄寺(静岡市葵区駒形通四丁目)
○常慶山蓮長寺(静岡市葵区沓谷) → 駿河蓮長寺
妙法山永精寺(富士市南松野):蓮永寺の旧地である。
成等山正覚寺(島田市本通一丁目)

日持上人(蓮華阿闍梨・六老僧)
○「日蓮宗の本山めぐり」本山会、昭和46年 より
建長2年(1250)松野六郎左衛門尉蔵人行易の二男として生まれる。
松野家は鎌倉北条氏に仕え、松野の地の地頭であった。屋敷は蔵人屋敷と呼ばれ、後には圓應山法蓮寺となる。
松野氏3代は蔵人の長子行成(日持の実兄)であるが、弘安3年に寺塔一宇を草創せんと日蓮上人に図って開いたのが蓮永寺(現在の永精寺)である。
弘長3年(1261)14歳の時、当時は天台の巨刹であった岩本實相寺に入り、出家し、甲斐公(後の日興上人)に弟子となる。
叡山で天台の教義を学ぶが、それに疑義を抱き、帰山して岩本の学頭にその質疑を糾すと、日蓮という僧が既に一派を建てその疑問を究明し、師僧である甲斐公も日興と名を改めて日蓮の門下であると知らされる。
文永4年(1267)日蓮の門下に入り、法号の日持を賜り、日興の法弟となり。日興は甲斐公の名称を日持に譲り、日持は甲斐公と尊称されることとなる。
永仁2年(1294)日蓮上人の13回忌法要を済ませ、10月に身延の祖廟に参り、永仁3年正月檀方の制止を聞かず、海外弘教のため、松野を出立する。海外弘教の志は早くから意図されていたようである。
まず奥州に巡錫し、南津軽、弘前、青森に至り、雪に閉ざされた合浦外ヶ濱の漁師・浦野三郎助の家に滞在すること数ヶ月、翌年の春津軽石崎の漁師蠣崎甚兵衛一族の助力を得て、舟を調え蝦夷に入って教化4ヶ年に及んだという。
 「日持上人海外踏破事蹟」中里右吉郎、松野蓮永寺、大正15年 が発行される。
これによれば、真偽のほどは別として、各方面に大きな反響を与える。
昭和11年に北京在住の岩田秀則が、偶然に入手した日持上人の現地遺品によて、大陸渡航の事実が証明されることとなる。
岩田氏が入手した鍍銀の盆は宣化の古寺で盗難の遭ったものと判明したが、盆の中から3枚の文書が現れ、これが日持上人の書いたものと判明したのである。文書は何れも詩で、最初のものは松野蓮永寺を出立した時のもの、次の詩は永仁辛丑秋九月とあり、日本では4年前に正安と改元された永仁の年号を使用しているのかえって異国の地にあることを際立たせる。最後は宗祖の遺影を描いた裏面の記されたものである。
宣化出土遺物については、「日持上人の大陸渡航について」前嶋信次(「史学」三田史学会、昭和32年 所収)に詳述されている。
ここでは、出土品を所蔵していた荒れ寺は「立花寺」というが、老僧の話では、昔この寺に高僧が住み、座ったまま入寂し、その遺骸を荼毘に付したところ、火焔の中にすくっと立ちあがったという。諸人これを奇とし「立花祖師」と呼び、語り継ぐという。前述の遺品も立花寺の什宝であり、これらを合わせて考えると、この立花祖師こそ日持上人であることはほぼ間違いはないであろう。
 なお、この寺は昭和8年匪賊のために襲撃され、建造物は勿論石碑の類まで破壊尽されたので、上人の詳しい事蹟は全く湮滅してしまっている。当時は関東軍が暴虐の限りを尽くしていたので、それの報いというしかない。
 ※多くの問題点があるようで、後日を期す予定。
 ※Wikipediaには、関連寺院として次の記事がある。 
 法蓮寺 - 日持が誕生した地に建立された寺院。 →駿河松野法蓮寺
 実行寺 - 日持が開山した伝説を持つ函館市の寺院。
 妙應寺 - 日持が上陸した伝説を持つ函館市の寺院。
 蓮華寺 - 日持が開山した伝説を持つ青森市の寺院。
 窪之坊 - 日持が開山した身延山の寺院。 →身延山中>南谷窪ノ坊
 蓮永寺 - 日持が開山した静岡市の寺院。 →本項である。
 本満寺 - 日持を崇敬開山とした京都市の寺院。
  ※歴世は次の通り(「日蓮宗寺院大鑑」)
   1世・宗祖日蓮、2世・日朗菩薩、3世・摩訶一院日因、4世・妙竜院日静、5世・建立院日伝、6世・開山玉洞院日秀 と
   あり、日持を崇敬開山という記事はない。如何なる根拠で日持を崇敬開山とするのかは不明。
   因みに、本寺は六条本圀寺から分立したので、1〜5世は本圀寺歴世と同じである。
 盛圓寺 - 日持が開山し永正年間(1504年-1520年)に日授が再建した横浜市青葉区の寺院。

日本山静岡道場

静岡県静岡市葵区沓谷1-22-2
日本山妙法寺大僧伽に属する。
2020/03/07撮影:
 日本山静岡道場入口     日本山静岡道場本堂     静岡道場題目石
 静岡道場仏舎利塔:世界平和塔(仏舎利塔)の小型版であろう。     静岡道場歴代碑
なお、清水区村松に清水小僧伽があるが、未見。

府中感應寺 ・・・・・ 未見

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
仁寿2年(852)慈覚大師円仁により天台宗感應山瀧泉寺として建立され、天台の巨刹であった。学頭5人を筆頭に多くの寺中があり、今にも故地である滝戸(富士市)には巨刹を偲ばせる地名が多く残るという。
しかるに、鎌倉期岳南一帯には日蓮の教化が及び、学頭行智は他の4名の学頭とともに身延の日蓮上人を訪れ、その教義を難詰するも、逆に日蓮上人に教化される。学頭の内3名は直ちに日蓮の門弟となり、続けて日向の巡錫があり、残りの2名も日蓮上人の弟子となる。
学頭5人は改宗し、日辨、日秀、日禅、日慧、日寿の名を授かる。これは建治2年(1276)のことであった。
元徳3年(1331)大地震で堂宇が倒壊。
文明年中(1469-)富士郡領主岩越刑部大輔がその父感應院追善の爲、寺を駿府に遷し再建し、身延11世日朝を屈請し、寺号を常住山感應寺と改称する。
日朝はその後伯耆米子、紀伊和歌山にも感應寺を開き、日本3感應寺と称せられるに至る。
 → 紀伊和歌山感應寺    → 伯耆米子感應寺
移転の時は府中浅間社の近くに寺地を構えるも、家康の命で現在地に移転する。(11世竜岳院日長の代)
13世乾正院日陽によって養珠院が得度剃髪する。これにより徳川家・幕府と密な関係となる。
承応年中類焼、安政の大地震で壊滅、昭和20年の空襲で全焼。寺地は半減するも、昭和30年本堂を再建、順次書院・庫裡が再建される。
末寺:Wikipedia より
○新光山宗長寺(静岡市葵区沓谷) → 上に掲載
○長善山浄祐寺(静岡市葵区沓谷) → 上に掲載
○妙祐山宗林寺(静岡市葵区沓谷) → 上に掲載
圓妙山大慶寺(藤枝市藤枝)
 大慶寺末:八幡山蓮性寺(焼津市上泉)
 大慶寺末:示迹山上行寺(焼津市焼津)
 大慶寺末:岩清山蓮久寺(藤枝市北方)

岡部正應院
韮山本立寺末。
開基は政薩院日勇、日勇は日蓮宗に転宗、在家の身で見珠道場を開設、大正13年には出家得度し、私財を投げ打ち堂宇を建立。
昭和15年正應院日龍は韮山本立寺塔頭正應院を当地に移転、見珠山と号し、正應院の寺号を公称する。
多宝塔がある。
  → 駿河岡部正應院

伊豆戸田長谷寺:沼津市戸田(へだ)1524(田方郡戸田村戸田)

2023/06/11追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
本土山と号す、住職は小西法縁、平賀本土寺末。
寛永7年(1630)不受不施派了心院日弘の開創。
○平賀日弘
 了心院と号し、平賀15世、寛永7年(1630)身池対論にて、追放に遭い、伊豆戸田港に閉居せるを、後に沼津公その学徳を惜しみて、ここに一寺を与え長谷寺と称し帰依浅からず。在住19年慶安元年8月7日69歳にて示寂する。
 →平賀本土寺


遠江の諸寺

遠江横須賀本源寺:掛川市西大渕5431番地(小笠郡大須賀町西大渕)

2023/06/11追加:
 寂静山と号す、寛永5年(1628)第11代遠州横須賀城主井上河内守正利の開創。
横須賀城の門を移築した山門及び第10代遠州横須賀城主井上主計守正就墓塔(宝篋印塔)が残る。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
寛永8年(1631)開創、開基は横須賀城主井上河内守正利、正利の父井上主計守正就の菩提の為創立、開山は中山19世寂静院日賢。身延山末、西谷法縁。
日賢は不受不施義を唱えた故に中山を除歴される。城主井上氏は日賢に深く帰依し、屈請して、開山の院号を山号とする。
寛永12年に諸堂宇が落慶、草創の地は横須賀字坂下谷で、正利が常陸笠間へ城替の後、本多越前守利長の居城となる。
寛文2年に現在の地に移転し、文政3年に再建されたのが現在の堂宇である。
開山日賢の曼陀羅を有する。
なお、横須賀城跡が附近にあり、城跡の東に「坂下ノ谷自然公園」がある。
また、附近には、
日蓮宗妙竜寺(天正11年/1584開創、六条本圀寺末)、
日蓮宗善立寺(萬治3年/1660開創。身延山末)、
日蓮宗妙徳寺(昭和22年開創)がある。
○中山隠居日賢
 寂静院と号す、中山19世、曾ては中村能化。寛永7年(1630)身池対論にて、遠州横須賀井上河内守正利預り。
対論後、三河岡崎に追われ毛尻に蟄居せしも、井上河内守正利が智徳を慕い、幕府に請うて遠州横須賀に迎え、亡父正就の菩提のため一宇を建立し開基となし、寂静山本源寺と号し優遇する。在住15年の後、寛永21年8月24日62歳にて遷化する。
 →中山法華経寺中村檀林

見附玄妙寺:静岡県磐田市見付2440−1

旧日什門流本山、現在は日蓮宗什師会。
末寺:
 ○尾張中村(五反城町)妙行寺 → 尾張の諸寺

端場妙恩寺/橋羽妙恩寺

2016/09/26追加:
浜松市天竜川町
長光山と号する。
応長元年(1311)日像上人の開創で、開基は当時蒲之庄を支配していた金原法橋左近将監(日蓮上人の叔父という)という。
 ※金原法橋は父親の姉が日蓮聖人の生母・妙蓮(梅菊御前)といわれる。ちなみに、兄は曽谷教信という。
2016/09/26追加:
○日像上人略伝(「岡山市史」)
日像の同胞日如尼遠江端場、金原左近の家に客居せり。よって之を省問す、左近日像に説を請ひ、地を捨て寺となし妙恩寺と號す。
 ※日像の同胞日如尼とは日像の姉(妹という説もある)の妙恩尼のことであろうか。
 →日像上人略伝
2016/09/26追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
長光山と号する。身延山末。応長元年(1311)日像上人の開創、開基檀越金原法橋左近将監、2世は日像妹妙恩法尼。妙恩尼は兄日像の洛中弘通を助けるため上洛する。その途中なのか帰路なのかは不明ながら法橋を訪ね、暫し杖を留めるという。そして邸内に庵室を作ったのが当地の法華の揺籃である。日像は鎌倉からの帰路、法橋と対面し、説法数日、帰伏するもの多く、法橋は日像の講蹟を末代に留めるため、その館を寺院とする。
盛時は東海道の参道入口に惣門があり、寺中4ヶ院があったという。伽藍は本堂、鎮守、番神堂、開山堂、東照廟、鐘楼、宝蔵、庫裡、書院が配置されたという。
東照廟とは11世日豪代、徳川家康との由緒ができ、その関係で建立されたものと推測される。
末寺:
 宮口恩光寺
 鹿島妙雲寺
 鹿島住行寺(明治初年廃寺)
 前川円頓寺(明治初年廃寺)
 寺島妙教寺
 平口妙運寺
 野部妙満寺
 阿多古長石寺
 半田寛良寺
 その他東京経王会、浜松別院などがあった。


尾張国の諸寺

日比津題目碑:旧日比津村

旧尾張日比津村には10基の題目碑が存在する。
 → 日比津題目碑(法界碑、題目宝塔、題目塔、題目石)

日比津定徳寺:名古屋市中村区日比津町1−16−8

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長秋山と号す、泥津(ひじつ)番神と通称す。六条本圀寺末、勇師法縁。
正平2年(1347)創立、開基日悚(にちしゅう)。
もと真言宗であったが、正平2年日悚によって改宗。建長の頃泥津村(日比津村の旧名)城主野尻下総守は先祖より伝来感得のアマテラス、八幡神、春日大明神の三体を番神宮に祀り、また大覚大僧正正刻・開眼の三十番神を安置する。
 ※大覚大僧正正刻・開眼とは単なる寺伝であろうか。
  (「第650遠忌記念 大覚大僧正」京都像門本山会、平成25年 では確認が取れない)
○現地説明板 より
当山25世日潤は天保8年(1837)身延山60世に晋山する。
○その他Web情報
日比津はもと土津(ひじつ)または泥津とも書いたが、後に「ひじ」を「ひび」と訛ったといわれる。土津・泥津とは文字通り低湿地を指し、治水が功を奏せば、良好な農地となる。次項「日比津の題目碑」で述べるように、江戸期、日比津はひとまとめの邑となり、相当程度法華宗が隆盛であったと推定される。大正期までは愛知郡日比津村は純農村であったと思われる。
なお、末寺として、下に掲載の「日比津教会」がある。
2018/07/14追加:
○「日本歴史地名大系 23愛知県の地名」平凡社 より
寺伝によれば「尾州愛智郡泥津長秋山定徳寺」は元天台宗であったが、僧日悚が萱津妙勝寺につき、延文5年(1360)に創建し日蓮宗に改宗する。

2018/04/21撮影:
 日比津定徳寺門前     三十番神鎮座の石碑
 門前題目碑その1     門前題目碑その2     門前題目碑その3:日蓮上人700遠忌、大正10年の年紀
 門前左右題目碑2基:年紀は判読出来ず、宝暦年中か?
 日比津定徳寺山門1     日比津定徳寺山門2     日比津定徳寺山門3     定徳寺山門扁額
 日比津定徳寺山内:正面番神堂、向かって右は本堂屋根
 墓碑塔その1頂上題目碑     墓碑塔その2頂上題目碑:山門内右に無縁墓碑塔が2山ある。
 久遠廟(納骨堂):右は無縁墓碑塔2山、左は漱水
 山門内左宝塔3基     山内法華題目碑     山内日蓮大菩薩碑     山内秋山自雲碑
 定徳寺歴代墓碑      定徳寺歴代誌:開山日悚とある。     定徳寺歴代墓碑群1     定徳寺歴代墓碑群2
 定徳寺本堂・番神堂     日比津定徳寺本堂     定徳寺本堂扁額
 三十番神石灯篭     日比津定徳寺鐘楼
 日比津定徳寺番神堂     定徳寺番神堂扁額     定徳寺番神堂奥殿1
 定徳寺番神堂奥殿2:奥殿は番神像収納庫、アマテラス、八幡大菩薩、春日大明神の3躯は伝教大師の作と伝える。
 日比津定徳寺玄関     定徳寺玄関客殿:庫裡は客殿背後にあると思われる。
 定徳寺日潤墓所
 定徳寺天満宮:石碑には「天満宮尊像は日蓮上人の開眼で、もとは城西児玉町観音寺に祀るも、安政3年当山に遷す」(大意)と刻する。
 福禄尊天(稲荷)入口   題目五重石塔   妙龍大善神   福禄尊天(稲荷)参道   福禄尊天(稲荷)1   福禄尊天(稲荷)2

日比津教会:名古屋市中村区日比津町3−8−12

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
日比津定徳寺末、勇師法縁。
開山日孝、もとは定徳寺境内祖師堂であった。
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
当教会はもと村栗山光友庵と称し、創立は安政3年(1856)である。
その時期は、安政の大地震の直後で蔓延する疫病と飢饉、そして天災とで民衆は末法を意識した時期であった。
尾張藩士の太田妙也は一雨院日潤(日比津定徳寺25世、身延60世)によって得度、日潤に随行して身延山に入る。しかし嘉永6年(1853)日比津信徒の願いで身延山から下り、光友庵を建立し村民救済に献身する。太田一族は2世、3世と続き幕末に絶えたが万遍講が護持し、これが当教会の唱題行に集まる女人講の前身となる。
昭和45年日比津教会と公称する。
今日(昭和62年)でも、毎月講中の日には、辻々に建つ宝塔(題目碑)の前に結集して唱題が行われ、日比津に題目の絶える日はないといっても過言ではない。
2018/04/21撮影:
 境内題目碑:年紀未調査     日比津協会本堂1     日比津協会本堂2     日比津協会庫裡
 境内題目碑その2:経石塔とある。
 日比津協会歴代墓碑
 各墓碑には、日行法尼、日正法尼、5世東山院妙遊法■覚尼などの法尼の法号がある。「日蓮宗大図鑑」では4世からの萬遍講(女人講)が護持するとあるので、これらの法号は護持した女人講出自の尼僧であろう。但し、現在は尼僧も絶え、住職は定徳寺が兼務、留守番(僧侶かどうかは不明)が守るようである。

日比津妙聴寺:名古屋市中村区日比津町2−12−8

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
日照山と号す、玉澤妙法華寺末、達師法縁。
開基本寿院日顕(大正3年寂)、昔静岡県田方郡にあったが、明治33年堂宇を焼失、信徒少数で再建不可能につき、同年現在地に移転。
「大観」には大正4年創立、開山日賀、山号はもと即供山とある。
○Web情報
天正4年(1576)に伊豆国田方郡中狩野村(現伊豆市)に創建されたといい、明治33年火災により焼失したため、同年に日比津村の吉田茂左エ門が先祖追善の為一寺建立を発願し、現在地に移転し、定徳寺などの檀家を信徒に迎えたと云う。
○2018/04/21立ち寄りを失念し、写真撮影はなし。後日を期す。
 GoogleStreetView より
  妙聴寺門前題目碑:東向き、正面に南無妙法蓮華経法界、右側(北)に高祖日蓮大菩薩、左側(南)に一禾四海皆帰(歸)妙法 と刻する。
  日比津妙聴寺山門     日比津妙聴寺堂宇
 「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
  日比津妙聴寺本堂

中村常泉寺:名古屋市中村区中村町字木ノ下屋敷47(中村公園東隣)

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
太閤山と号す、萱津妙勝寺末。秀吉生誕地という。
慶長11年(1606)加藤清正創立、開山圓住院日誦。
神体は豊国大明神の肖像。初め大阪城のあったのを秀頼に乞い、此の地に奉安し、一宇を建立、常泉寺と公称する。
慶長16年名古屋築城の時清正の本陣を当山に寄進、仏殿を建立、妙行殿と称し清正の父である清忠を廟堂の別當とする。
なお、此の地は筑阿弥の宅跡で太閤秀吉の降誕の地である。
元和元年豊臣家滅亡とともに廟堂から出火、廟堂・殿宇は灰燼に帰すも、2世日琛が神像・宝物を守り、後幕府の許可を得て、檀林として再建される。
しかし、布教・法要儀式等の活動は停止され、明治初年まで尾張檀林として活動する。その後檀林は廃檀される。
 ※徳川政権下、寺院活動は制約を受け、教育機関としてのみ機能したようである。維新後、通常の寺院活動を開始する。
○常泉寺HP より
始めは豊国大明神の廟堂として、慶長年中加藤清正・開山圓住院日誦とで創建される。
御神体は豊太閤の肖像束帯唐冠(長さ二尺余)で木食興山上人の彫刻という。もともと御神体は大阪城にありしも、清正が秀頼に請願して、この地に移座する。廟堂は正殿拝堂及び廊門を備え、さらに一宇を営み秀吉の宅跡を以て太閤山と号し、太閤産湯という清泉が湧き出るので常泉寺と名づけられ、廟堂の別当とする。さらに清正は慶長16年名古屋城の築城に加わり、それの完成の後、本陣の仮屋を日誦に喜捨して、仏殿(妙行殿と称する)とする。
○境内石碑
昭和58年本堂書院等を焼失、昭和62年本堂等を再建す。
2018/06/27追加:
○「尾張名所図会 巻5」 より
 常泉寺・妙行寺
2018/04/21撮影:
 常泉寺門前題目碑:天保2年(1831)年紀     中村常泉寺山門     境内題目碑
 中村常泉寺本堂1     中村常泉寺本堂2     中村常泉寺玄関     常泉寺書院・庫裡
 豊太閤産湯の井      常泉寺歴代墓碑      常泉寺歴代墓誌

中村妙行寺:名古屋市中村区中村町字木ノ下屋敷22(中村公園東隣)

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
正悦山と号す、清正公寺と通称する。(加藤清正生誕地という)
六条本圀寺末、達師法縁。
開山日勢。永仁2年(1294)日像、真言宗正起山本行寺を改宗、その後、堂宇を焼失。
天文年中日勢が正悦山妙行寺と改称し、中興開山する。
慶長15年(1610)加藤清正妙行寺を清正生誕の地に移し、先祖両親の菩提を弔う。
清正公堂安置の清正公像は肥後熊本本妙寺3世日遥作という。
 2023/05/08追加:
 ○「清正公信仰の研究−近世・近代の「人を神に祀る習俗」−」福西大輔、熊本大学博士授与論文、平成21年 より
 慶長16年清正逝去の折、日遥は清正公2躯を彫刻し、一躯を本妙寺に安置し、もう一躯を妙行寺に寄贈し、清正公堂に安置する。
  →清正公信仰
大観には永仁2年開山日像の代に改宗とある。
 ※永仁2年日像がこの地に弘教したのかどうかは不詳であり、確かな史実に基ずくものなのかも不詳。(→日像上人略伝
末寺:次を有する。
白毫山光耀寺(名古屋市熱田区千年)
2018/06/27追加:
○「尾張名所図会 巻5」 より
 常泉寺・妙行寺
2018/04/21撮影:
 妙行寺門前題目碑     中村妙行寺山門     中村妙行寺本堂     中村妙行寺庫裡
 本堂前題目碑2基:向かって左は年紀不詳、右は宝暦二壬申年(1752)の銘がある。
 加藤清正銅像     妙行寺清正公堂・拝所1     妙行寺清正公堂・拝所2     妙行寺清正公堂・本殿     清正公堂庭園
 清正生誕地石碑:碑は文化7年(1810)建立で、元々は中村公園の西方・高畑八幡社境内に建立されるも、明治3年ここに移設される。
 中村妙行寺鐘楼     中村妙行寺聚宝窟     妙行寺洗心殿

中村・中村教会:名古屋市中村区藤江町3−43<退転>

中村教会は退転し、現存しない。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
昭和10年創立、開山は浄心院日昇(昭和24年寂)、開基檀越伊藤清八。勇師法縁。
 中村教会
壽榮寺HP より <寿栄寺は下に掲載>
・・・≪釈迦牟尼佛 七面大明神 北辰妙見大菩薩≫ 中村教会(中村区 藤江町)の御尊像を当寺に移転し・・・とあり、
以上と中村区藤江町の現地は民家が建っている現状と合わせて判断するに、中村教会は退転、仏像は壽榮寺に遷座すると思われる。

中村龍徳寺

日蓮宗のお寺めぐりのページには「清龍結社:名古屋市中村区中村町加藤屋敷15」とある。
現在、同じ住所には、龍徳寺があり、青龍結社が寺号を公称したものと推定される。
青龍結社・龍徳寺の履歴は全く不明である。そして龍徳寺の現況は3階建てのビルであり、通常の寺院のイメージとは異なる。
龍徳寺HP では
青龍山龍徳寺、1階は駐車場、2階檀信徒用休憩室(和室20畳)、3階は本堂と鐘楼がある。
姫ノ龍神・徳王稲荷が祀られ、龍徳寺の守護神という。
2018/04/21撮影:
 門前題目碑     龍徳寺山門:扁額には「清龍山」とある。
 龍徳寺全容1     龍徳寺全容2     龍徳寺全容3     龍徳寺全容4     龍徳寺鐘楼

中村壽榮寺:中村区二ツ橋町4丁目18−1(未見)

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
昭和42年創立、開山感応院日浄尼。
壽榮結社を中村区中島町に設立、昭和43年に壽榮寺と公称。
土地開発公社より中村区元米野火葬場跡の分譲を受け、昭和47年本堂を建立。
 ※この頃現在地へ移転したものと推定される。
一世は武藤壽榮。
壽榮寺HP より <中村教会の項より転載>
・・・≪釈迦牟尼佛 七面大明神 北辰妙見大菩薩≫ 中村教会(中村区 藤江町)の御尊像を当寺に移転し・・・とあり、
以上と中村区藤江町の現地は民家が建っている現状と合わせて判断するに、中村教会は退転、仏像は壽榮寺に遷座すると思われる。

日什門流・中村妙行寺:名古屋市中村区五反城町3−10

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
広居山と号す。見附玄妙寺末(玄妙寺は遠江の諸寺中>、三派合同以前は顕本法華宗。(日什門流)
天正18年(1590)創立。中区八百屋町(※現・白川公園)に開創、昭和20年空襲により堂宇全焼、戦後米軍により土地を接収される。
昭和34年中村区長筬町に移転、建物竣工直前に伊勢湾台風にて本堂・庫裡が全壊。
昭和35年現在地に移転。
2018/04/21撮影:
 日什門流中村妙行寺1     日什門流中村妙行寺2

下河原光宣寺:清須市下河原1089(旧下河原番神堂)

○Web情報(「愛知県あま市:萱津コース 」)
享保15年(1730)萱津実成寺の末寺として創建され、当初は番神堂と称する。
昭和24年(1949)寺号を公称。
本堂は昭和3年(1928年)の建築、境内には安永8年(1779)の銘の供養塔、樹齢200年以上の大銀杏がある。
2018/04/21撮影:
 下河原光宣寺全容     下河原光宣寺本堂1     下河原光宣寺本堂2     下河原光宣寺本堂3
 下河原光宣寺庫裡     光宣寺題目碑:安永8年銘、裏面には下河原講中と刻む。

西今宿宝満寺:あま市西今宿郷内1−33

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
善通山と号する。萱津妙勝寺末。達師法縁。
享保9年(1724)創立、開山宝満院日繁(享保14年寂)。
むかし、金山荒神社の主宰で境内1反3畝22歩が村除となっている。初め見立坊という僧が住み、今の津島市から圓蔵坊の譲を受けて寺号とする。
 ※金山荒神社とは現在の金山神社であろう、金山神社は宝満寺南に現存する。金山荒神は今の宝満寺境内を合わせ除地となっていたのであろう。
萱津妙勝寺27世日繁が隠居して当寺を開基、寺号を公称する。
明治24年濃尾大地震で諸堂倒壊、のち再建。山内稲荷堂には福壽稲荷大明神を勧請。墓地内享保14年塔婆、門前に安政5年建立の塔あり。
○「宝満寺HP」 より
1)宝満寺前の道路が旧鎌倉街道であり、日蓮上人は京・比叡山に10年ほど修学する。その際、鎌倉街道を利用したと伝わり、この地で休憩した可能性がある。因みにこの地は甚目寺への分岐であり、茶屋・宿が存在したという。
2)開山上人碑(日繁)は当山墓地の一番奥列左より二番目にある。
3)福壽稲荷堂は大正14年の建立。
2018/04/21撮影:
 宝満寺門前
 門前題目碑その1:側面に日朝大聖人(眼病救護)と刻む。これが「安政5年建立の塔」であろう。
 門前題目碑その2:宗祖600年遠忌であるから明治14年頃の造立であろう。
 宝満寺本堂     宝満寺福壽稲荷     宝満寺玄関     宝満寺中門     宝満寺庫裡
 開山宝満院日繁墓碑:判読し難いが、墓地の一番奥列左より二番目にある墓碑である。「墓地内享保14年塔婆」であろう。
 宝満寺歴代墓碑

萱津妙教寺:あま市上萱津上野18

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
萱津妙勝寺末、達師法縁。
嘉永年中(1848-54)創建、開基浄境院瑞應日静尼(嘉永7年/1854寂)。初め妙見堂を建立、昭和17年に寺号公称。
2018/04/21撮影:
 妙教寺山門     妙教寺境内
  ※かつては境内に妙見堂の三本松と呼ばれる名松があったが,現在は1本のみが残る。
 妙教寺墓碑その1     妙教寺墓碑その2:何れも江戸期のもので、住職(尼僧)及び信徒の複数の戒名を刻む。
 妙教寺本堂     妙教寺庫裡
 妙見宮石灯篭:天保12年(1841)年紀、創建(嘉永年中)より少し前の年紀である。
 妙教寺妙見堂:妙見堂は退転し、小祠で造替されていると思われる。

萱津妙勝寺:あま市上萱津上野62

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
長正山と号する、六条本圀寺末、末寺5、
大観には弘長元年(1261)創建、開山善学院日妙。
始め持正山蜜勝寺と号し、真言宗であった。
当時開山は善妙と称し住持していたが、弘長元年宗祖の親化を蒙り改宗して弟子となり、今の山号寺号を賜る。
 ※蜜勝寺は、この地ではなく、もとは川部にあり、日蓮上人の問答の地も川部であったという。
 蜜勝寺は改宗の後、善妙がこの地に移すという。善妙もこの時善学院日妙と改めるという。
 元の地・川部には日妙堂を建立し、現在は川部日妙寺がその法灯を継ぐ。
以降、よく寺勢を維持する。
明治24年震災で堂宇が倒壊するも、その後再建。
2018/07/14追加:
○「日本歴史地名大系 23愛知県の地名」平凡社 より
尾張の日蓮宗濫觴として七堂の大伽藍を持ち、松平忠吉の朱印、徳川義直の30石の黒印を受ける。
天正期(1573-92)の伽藍の規模は本堂(13間×11間)、祖師堂(9間×7間)、五重塔、鬼子母神堂、番神社・拝殿、大黒堂、丈六堂、一代経蔵、鐘楼、山門、庫裡、客殿、書院、浴室、四脚門を持ったという。「寛文覚書」に「寺内門前共7反歩、備前検除」とある。
 ※中世末期(天正期)五重塔及び13間×11間の大堂(本堂)、9間×7間の祖師堂など巨大な伽藍と塔婆があったというも、典拠が示されず、直ちに真とする訳にはいかないが、かといって「日本歴史地名大系」の記述でもあり、即座に偽とする訳にはいかない。

●末寺:5ヶ寺を有する。
 延壽山妙福寺:稲沢市千代町東郷37
 ○尾張西今宿宝満寺 →本ページにあり(上)・・享保9年創立
 ○尾張萱津妙教寺  →本ページにあり(上)・・嘉永年中(1848-54)創建
 ○尾張本郷地福寺  →本ページにあり(下)
 ○尾張川部日妙寺  →本ページにあり(下)・・明治2年頃創建
2018/06/27追加:
●「尾陽諸宗門目録」元禄8年(1695)から享保19年(1734)の間に成立と推定 より
萱津妙勝寺末寺
 ○海東郡本郷  功徳山地福寺
 ○愛知郡日比津 長秋山定徳寺・・現在は六条本圀寺
 ○同郡 上中村 正悦山妙行寺・・現在は六条本圀寺
 ○ 同所    太閤山常泉寺
 中島郡千代  延寿山妙福寺
 同郡 重本  妙光山西林寺
2018/04/21撮影:
 妙勝寺参道入口題目碑:宝暦14年(1764)年紀     妙勝寺参道     妙勝寺山門
 妙題千部供養塔:天保11年(1840)年紀。     妙勝寺境内題目碑
 妙勝寺本堂1     妙勝寺本堂2     妙勝寺本堂3     妙勝寺本堂扁額
 次の堂宇は堂の名称が不明であるが、仮に祖師堂と呼ぶ。おそらく堂の背後の八角円堂中に宗祖縁のものを奉安するものと思われる。
 妙勝寺祖師堂1     妙勝寺祖師堂2     妙勝寺祖師堂3     妙勝寺祖師堂4     本堂と祖師堂
 本堂と玄関その1     本堂と玄関その2     玄関と庫裡      妙勝寺玄関        妙勝寺庫裡
 妙勝寺手水舎     妙勝寺鐘楼
 日蓮上人墓碑     開山開基中老日妙墓碑     妙勝寺歴代墓碑その1     妙勝寺歴代墓碑その2

萱津實成寺:あま市中萱津南宿254

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
長久山と号す、六条本圀寺末。
大観には開山中老善学阿闍梨日妙。開基松平薩摩守忠吉。後、清須城主織田敏定大いに外護し、福島正則も帰依する。
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
二世日長は六ツ師長栄寺及び六ツ師普門寺を創立し、三世日肝は清洲に本要寺、寺中泉竜寺を創立する。
○Wikipedia より
寺伝によれば、鎌倉期は真言宗に属する。この頃は十如堂と称する護摩堂であったという。「尾張國富田荘絵図」(国宝・鎌倉円覚寺蔵)には大御堂と記される。
元応元年(1319)日蓮上人の弟子中老日妙が隠居して實成寺を創建し、明応3年(1494)清洲城主織田敏定(織田信長の曾祖父)が寺領を寄進して堂舎を再興する。
現存する本堂も、明応年中(1491〜1501)織田敏定の造営と伝えられるが、現在も本堂内の一部、須弥壇、内陣の様式や彩色に真言宗当時の護摩堂を偲ぶことができる。江戸前期にも大きな改修を受けており、その後も補修の手が加えられる。しかしながら初期日蓮門下の堂宇をしることのできる唯一の例といわれている。
山門は、福島正則が清洲城より移築したものと伝える。
2018/07/14追加:
○「日本歴史地名大系 23愛知県の地名」平凡社 より
元応元年(1319)日蓮上人の弟子日妙の創建、古くは妙勝寺と称し、上萱津村妙勝寺と兼帯であったが、明応年中(1492-1501)織田敏定の再建造営の時から實成寺と改める。

●末寺
 延寿山長栄寺(北名古屋市六ツ師)旧筆頭末寺
 慈雲山普門寺(北名古屋市六ツ師)
 ○光宣寺(清須市下河原)   旧下河原番神堂  →本ページにあり(上)
 ○妙淨寺(あま市下萱津池端) 旧池端番神堂   →本ページにあり(下)
 ○七寶山瑞圓寺(あま市七宝町)旧沖之島番神堂 →本ページにあり(下)
●寺中
 ○正法山正善寺(現存)旧正善坊 →本ページにあり(下)
 ○玄中山圓行寺(現存)旧圓行坊 →本ページにあり(下)
 ○寶久山泉龍寺(現存)旧泉龍坊 →本ページにあり(下)
  一揚院 焼失して圓行坊に吸収されたと伝える。
  学泉院 江戸末期に廃寺、跡地には正善院が移転する。
2018/04/21撮影:
 門前題目碑:宝暦12年(1762)年紀
 門前題目碑3基:向かって左の年紀は未調査、中央は近年のもの、右は明治3年の年紀。
 門横題目碑類:左は日露戦役戦没者4名の顕彰碑、中央は題目碑で横に「日露戦役英霊」と刻み、年紀は明治37年、右は「軍馬記念碑」
 實成寺山門     實成寺山内     本堂前日蓮上人立像
本堂:桁行5間、梁間6間、宝形造、銅板葺(もと杮葺)で、屋根の頂に露盤宝珠をあげる。前方の間口5間、奥行2間を外陣、
その奥中央の3間×4間を内陣、内陣の両脇を脇陣とする。初期日蓮宗本堂を偲ぶことのできる唯一の例と云われる。
 實成寺本堂1     實成寺本堂2     實成寺本堂3     實成寺本堂4     實成寺本堂5
 實成寺本堂6     實成寺本堂7     實成寺本堂8     實成寺本堂9
 實成寺開山堂1     實成寺開山堂2     實成寺鐘楼     實成寺堂宇(堂名不明)     釈迦涅槃石像
 實成寺寺務所      實成寺中門     書院客殿庫裏など1     書院客殿庫裏など2     書院客殿庫裏など3

實成寺々中正善寺:あま市中萱津南宿254・・・旧正善坊

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
長久山と号する、萱津寺實成寺末。
(大観には開山正善院日秀とある。)
○Web情報(「愛知県あま市:萱津コース 」)
正善寺は正法山と号し、創建時期は不詳であるが江戸以前といい、正善坊日秀の開基と伝える。
当初は西隣にありしが、江戸末期にここにあった学泉院が廃寺になり、跡地であった現在地に移される。
古くは高僧の隠居所であったという。
○2018/04/21撮影:
現地では、開山堂を正善寺と見誤り、正善寺の写真撮影をしていないので、偶然バックに移った写真しかないのが実情である。
 實成寺々中正善寺山門     正善寺山門・本堂:向かって左が山門、鐘楼の背後が本堂
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
明治24年濃尾大震災のおり堂宇を失い、その後古材をもって仮本堂兼庫裡が再建される。
それから宗祖700遠忌に報恩記念として本堂と庫裡が建立され、寺観を一新する。
 實成寺々中正善寺本堂:小宇は鬼子母神を祀る。
お寺紹介 より
昭和56年宗祖日蓮大聖人第700遠忌報恩記念として、山門を残し山内が一新される。
 實成寺々中正善寺山門     實成寺々中正善寺本堂
○Webページ より
 正善寺山門・本堂
○GoogleMaps より
 實成寺全容:向かって左に正善寺本堂・山門が写る。

實成寺々中泉竜寺:あま市中萱津南宿254・・・旧泉龍坊
○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
寶久山と号する。萱津寺實成寺末、筵師法縁。
永享元年(1429)創立、開山宝塔院日肝(永享10年/1438寂)
はじめ泉龍坊として創立、昭和17年に寺号公称。
明治24年の濃尾大震災で本堂倒壊、同29年に本堂・庫裡再建。
2018/04/21撮影:
 實成寺々中泉竜寺全容1     實成寺々中泉竜寺全容2
 實成寺々中泉竜寺本堂1     實成寺々中泉竜寺本堂2     實成寺々中泉竜寺本堂3
 實成寺々中泉竜寺庫裡      實成寺々中泉竜寺堂宇:堂名称不明

實成寺々中圓行寺:あま市中萱津南宿254・・・旧圓行坊

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
玄中山と号する、萱津寺實成寺末、筵師法縁。
寛永15年(1638)の創立。開山圓柔院日宣(寛永18年寂)
はじめ圓行坊として創立、昭和18年に寺号公称。
本堂・山門・庫裡・玄関を23世日慎建立。
(大観には開基玄中院日昌とある。)
2018/04/21撮影:
 實成寺々中圓行寺全容1     實成寺々中圓行寺全容2     實成寺々中圓行寺山門
 實成寺々中圓行寺本堂1     實成寺々中圓行寺本堂2
 圓行寺玄関客殿     圓行寺庫裡     圓行寺題目塔     圓行寺歴代墓碑

實成寺々一揚院
○Wikipedia より
焼失して圓行坊に吸収されたと伝える。(これ以外の情報なし)

實成寺々中学泉院
○Web情報(「愛知県あま市:萱津コース 」)
江戸末期に廃寺、跡地には正善院が移転し、現存する。

萱津妙浄寺:あま市下萱津池端18・・・・・旧池端番神堂

萱津寺實成寺末、山号不明。
○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
住職名のみの記載。
○Web情報(「愛知県あま市:萱津コース 」)
元文年中(1736〜41)頃に實成寺住職の日照(了妙院)が隠居して設けた鬼子母神堂が始まりで、阿弥陀堂と称したという。
安永6年(1777)に鬼子母神堂となり,昭和17年(1942年)に現在の寺号となる。
境内には明応8年(1499)の銘のある宝篋印塔基礎など遺物が残されており、古くからあった堂の場所に草庵を設けたものと推定される。
2018/04/21撮影:
 妙浄寺遠望     門前題目碑:宗祖500遠忌、安政5年(1858)の年紀。
 門前題目碑側面:開祖 了妙院日照 とある。※但し、日照の實成寺の世代などは不明。
 妙浄寺山門     妙浄寺境内     妙浄寺本堂     妙浄寺庫裡
 歴代之碑并宝篋印塔基礎     歴代之碑裏面:幕末から尼僧が住持することが分かる。
 宝篋印塔:明応8年銘のあるという宝篋印塔基礎であろう。     秋山自雲五輪塔:仁王門に安置

本郷地福寺:あま市本郷柿の木87

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
功徳山と号する、萱津妙勝寺末、達師法縁。
寛永19年(1642)創立、開山開基渓雲院日貞。
もと成就寺と称するも、元文年中に改称。真言宗から改宗と伝えるので江戸期以前の創建とも思われる。
明治24年濃尾地震で堂宇倒壊、明治29年暴風雨により再び堂宇倒壊。
その後、堂宇を順次整備。
「新撰祖書」編者10世玄修院日明墓碑、明和9年(1722)宝塔がある。また、玄修院日明は日明寺開山である。
2018/04/21撮影:
地福寺墓地に日明寺墓碑がある。肝心の地福寺の墓碑は確認せず。
 地福寺門前     門前題目碑:明治13年年紀     地福寺山門
 山内題目碑:「明和9年宝塔」と思われるも、年紀が判読できず。     地福寺本堂1     地福寺本堂2     地福寺庫裡
 地福寺地蔵堂
 玄修山日明寺歴代先師之墓:地福寺墓地に日明寺歴代墓碑がある。     日明寺歴代:開山祖書 玄修院日明 とある。
 玄修院日明聖人塔:日明寺歴代墓に並んで日明の墓がある。但し台石と比して「竿石」は新品であり、竿石は造替されたのであろう。

本郷日明寺:あま市本郷郷中7−2

萱津妙勝寺末。
○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
玄修山と号する、玄修院日明により創立、開基檀越伊藤七兵衛義敬。達師法縁。
開山日明は山科護国寺玄講および六条本圀寺求法檀林170世に就く。
寛政10年丹羽郡九日市場妙法寺より、本郷に隠棲。「新撰祖書」50巻を著述。
明治24年濃尾地震で倒壊、その後再建。
昭和15年玄修山日明寺庵と号していたが、日明寺と公称する。
2018/04/21撮影:
 日明寺入口     日明寺全容     日明寺本堂1     日明寺本堂2     日明寺庫裡
 日観法尼等墓碑:日明寺歴代墓碑は地福寺にある。しかし、本墓碑1基のみが日明寺境内にある。本墓碑は大正15年、10世常川常照建立、10世は日観法尼であり、昭和17年遷化である。(上掲の日明寺歴代による)

堀之内題目碑(題目宝塔):愛知県海部郡大治町堀之内郷中
題目碑は堀之内にあるが、その地点は南北道に東からの道が突き当たる三叉路Aの角である。
この三叉路Aから南に進めばすぐにアオキスーパーがあり、北には2、3mで南北道に西からの道が突き当たる三叉路Bとなる。
この三叉路Bを西に行けば30mほどで松林寺があり、さらに西進すれば明眼院に至る。
題目碑のある地点から南北道を北進すれば40mほどで禅宗東林寺に至る。
2018/04/21撮影:
本題目碑は近年の復彫である。
次のプレートが埋められている。「平成15年正月/陸橋開宗751年/御題目竿石のみ復彫/堀之内 講中一同」
 堀之内題目碑1:南面する。
 堀之内題目碑2:正面は「南無妙法蓮華経」、東面(写真には写らない)は「南無日蓮大菩薩」と刻む。
 堀之内題目碑3:西面は「五百五十年供養塔」、裏面には「文化5年(1808)」の年紀を刻む。

廃法華寺(千音寺村圓乗寺支院):あま市七宝町下田堂中652:現在は千音寺村円乗寺支院となる。 
千音寺村圓乗寺墓地に「穣法院日経法尼墓誌」(下に掲載)があり、それには次のような記載がある。
 元法華教会担任/旧一真山法華寺第一世/穣法院日経法尼/八十八歳/平成27年(2015)10月13日遷化
穣法院日経法尼は法華教会担任で一真山法華寺第一世であり、2015年に遷化する。
以上により、法華寺の前身は、法華教会であり、時期は不明ながら山号は一真山、寺号は法華寺と公称し、その法華寺初代は穣法院日経法尼であったと分かる。
そして、現在(2018年)法華寺は、「圓乗寺支院」と称するので、2015年の住職遷化の後、ほどなく廃され、圓乗寺に合併、境内の整理が行われたものと思われる。
○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
住職名:前田穣法
 ※前田穣法の法名が「穣法院日経法尼」であることは、院号に「穣」を使い、間違いないと思われる。
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
住職名:前田穣法
 法華寺写真:法華寺であった頃、本堂の横に庫裡と思われる堂宇があったと思われる。但し、それ以外の様子はこの写真では分からない。
2018/04/21撮影:
 廃法華寺現況1:本堂と思われる堂1宇とその西側に題目碑と墓碑10基ばかりが残される。
 廃法華寺現況2:本堂は圓乗寺支院とされる。
 廃法華寺現況3:本堂前に題目碑と常夜燈があるが、上掲法華寺写真では存在せず、廃寺による境内整理で移設されたものと思われる。
 廃法華寺題目碑:明治2年年紀
 廃法華寺常夜燈:明治4年年紀
 題目碑や常夜燈が旧法華寺境内から堂の前に移設されたつまり当初から法華寺の備品であったとすれば、明治初頭には法華教会は存在していたことになる、あるいはこれらの年紀は、これらが法華教会創立時の備品であれば、法華教会の設立が明治初頭であることを示すのかも知れない。
 題目碑及び墓碑群:向かって右に墓碑(5か6基)、左に4基の報恩塔(題目碑)がある。
 向かって右から、右端の石は墓碑なのか自然石なのかは不明、右から2基目は信徒2名の戒名がある信徒の墓碑、
右から3基目は一真院日活上人墓碑、一真院は法華寺の山号になっているので、おそらくは法華教会を開いた上人かも知れない、
右から4基目は全く判読ができないが、大きさ・形状から信徒の墓碑と思われる、右から5基目は信徒2名の戒名がある信徒の墓碑、
右から6基目は「智金印妙静日了法尼」と刻むが、推測するに、法華教会一世日活から教会を引き継いだ教会2世かも知れない。
左端の2基の題目碑及び左から3基目の題目碑の合計3基は何れも宗祖600遠忌報恩塔で明治14年の年紀である、
左から4基目は宗祖650遠忌報恩塔で昭和6年の年紀である。

堂中題目碑:あま市七宝町下田堂中
2018/04/21撮影:
廃法華寺から南2筋目を西に入り、凡そ40mほどの所にある。
正面は題目、右側面は安永6年(1777)の年紀、左側面は■■大菩薩■■■で殆ど判読できない。
 堂中題目碑1     堂中題目碑2

川部日妙寺:あま市七宝町川部瀬木戸42−1

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
裙衣(ツマゴ)山と号する。萱津妙勝寺末、達師法縁、住職は潮師法縁。
開山善学院日妙(貞和元年/1345寂)。弘長元年に真言宗蜜勝寺善妙が宗祖との問答の末に改宗、蜜勝寺を萱津に遷し、妙勝寺と称する。
問答の地川部には新たに草庵を設け、これが当寺の始りである。草庵は日妙堂と称し、9尺四面の堂が明治元年まで存在するも、同2年に現在の本堂を建立する。昭和17年には日妙寺と公称する。
○日蓮宗尾張伝道センター>お寺紹介>日妙寺 より
縁起:当山の開山は、善学院日妙上人で、達師法縁のお寺である。
もともとこの地には真言宗の密勝寺という寺があり、弘長元年(1261)に、当時の住職である善妙が佐屋川の裙衣(つまご)橋で日蓮聖人を待ちうけ、問答のすえ、改宗して妙勝寺と改称する。これが現在の長正山 妙勝寺(萱津)である。
問答の地であるこの川部(かわべ)には、「裙衣橋」の旧跡に草庵が建立される。これが当寺の始まりである。
日妙堂と称し、明治2年(1869)に現在の場所に移転、本堂を建立し、昭和17年に、日妙寺と公称する。
残念ながら、問答、草庵跡の資料等は残ってはいない。
○川部日妙寺住職談(2014/04/21談)
 概要:住職は備中東花尻の出身で、則武氏と名乗る。
 (備中東花尻には日蓮宗妙傳寺、同立成寺及び多くの題目碑がある。→備中庭周辺の寺院を参照。また、則武氏は南備地方では高名な苗字である。著名人が多い。)
 今から(2018年)約50年前に晋山する。当時、この寺は無住で荒れ果てていた。檀家は一軒もなく、寺院の経営には苦労する。
今はやっと堂宇を修復し終えたという段階である。
 高祖像:本堂安置の高祖像は木彫ではなく、張り子の像である。元は日妙寺のやや離れた北側の祖師堂(高祖堂)に安置されていた。
高祖堂を信仰する講中(名称は失念)が消滅し、何時しか荒れ果て、当寺に遷座したものである。
 妙見堂:妙見堂には能勢妙見より勧請した妙見大菩薩を祀る。妙見堂は今から数十年前に造替した。妙見大菩薩を安置する厨子は身延山の日朝上人縁故の寺院に厨子が余剰にあるとのことで譲り受けたものであるが、「洗う」のに、新造と同じくらいの費用がかかった。
 門前題目碑群:門前に六基の題目碑(法界塔)があるが、附近にあったものを集めたものである。講中(名称は失念)の活動が停止され、それ故、当寺に集めたものである。
2018/04/21撮影:
妙見堂には妙見大菩薩、鬼子母神、三十番神像を安置する。本堂には日妙像を安置というも、不明であるが、高祖像が安置(住職談)される。
 川部日妙寺全容1     川部日妙寺全容2:いずれも向かって左から妙見堂・本堂である。
 門前題目碑六基:住職談を参照     門前題目碑その1     門前題目碑その2     門前題目碑その3
 門前題目碑その4     門前題目碑その5:何れも年紀は調査せず。江戸末期及び近代のものが多いであろう。
 川部日妙寺山門      川部日妙寺本堂     本堂安置高祖坐像:住職談を参照     川部日妙寺庫裡
 川部日妙寺妙見堂     妙見堂内部     妙見堂須弥壇:中央妙見大菩薩、右檀三十番神、左檀鬼子母神像多数を祀る。
 妙見大菩薩像:能勢型妙見像である。     妙見堂三十番神
 三十番神祠廟新造棟札(表):元文3年(1738)三十番神祠廟を施主川部村講中にて新造する。
 三十番神祠廟新造棟札(裏):国主中納言宗春とは宗春に奉るという意味であろう。禅宗赤池蟠住山龍淵寺大震とは禅宗といい不審であるが番神堂落慶の導師であろう。因みに、宗春は享保15年(1730)に尾張藩主を相続、元文4年(1739)幕府より隠居謹慎を命ぜられる。但し、現存する三十番神像及び祠は、少々稚拙であり、この棟札の元文3年の像・祠ではなく、つまり失われ、再造された像・祠であるかもしれない。

千音寺村圓乗寺:名古屋市中川区富田町大字千音寺字東屋敷3990

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
安住山と号する、身延山末、勇師法縁。
文明元年(1469)の創立、開山圓教院日意。元天台宗であったが、圓乗院日x(にちしゅん/第1世である)の時改宗する。
○「日蓮宗安住山円乗寺」のページ<縁起、圓教院日意聖人> より
(大意である。)
当山はもと千如山音教寺と称し、天慶2年(936)の創建で、天台宗であった。(千如山音教寺が千音寺の語源という。)
 ※天台宗の時、塔中法華院、華光坊、大圓坊を統したりという。
文明元年(1469)天台より日蓮宗に改宗していた日意によって、日xは音教寺を日蓮宗に改宗、寺号を改めて安住山圓乗寺と定む。
之より圓教院日意を開基とし、圓乗坊日xを第一世とする。
 ※日意と日x及び日意と圓乗寺との関係性は必ずしも明確ではないが、下に掲載の「圓教院日意」の項を参照。
以降、寺勢の盛衰はあれども、法灯を継ぐ。
明治24年濃尾大震災で堂宇壊滅するも、本堂、玄関、書院庫裡、番神堂、手洗屋形、山門鐘楼堂、周囲の石垣等を復旧す。
然るに、昭和20年の空襲で、山門・鐘楼以外の堂宇を焼失するも、順次復興を果たし現在に至る。
 戦前の圓乗寺番神堂1     戦前の圓乗寺番神堂2:いずれも「日蓮宗安住山円乗寺」のページ より転載
 圓教院日意:
字は法鏡、加賀の産、学を好み叡獄の学頭を勉む。
長禄年中(1457-60)尾張音教寺に住す(今の安住山圓乗寺) 。
文安2年(1461)寺を弟子法xに譲り再び叡山に登り学頭を務む。
文安4年、再び伊勢桑名妙蓮寺(現在の日蓮宗寿量寺)を領す。
掌て竊に慈覚大師の理同事勝の説につきて擬滯する所ありしが後甲州身延山に至りて日朝上人に遭い法戦三昼夜、為に疑雲釈然たるものあり。仍て叡山の席を轉じて師資の契りを結ぶ、後、日朝上人の覚、坊に退くや後を継ぎて身延山第十二世と成る。
在住二十年後、西谷に退きて今の円教坊に住し永正16年(1519)三月三日寂す。
日朝上人の東身延山<鎌倉の日蓮宗諸寺中の東身延本覚寺>を鎌倉に築けるに傚い、京都に西身延山を剏(ソウ)せんとし今の京都妙伝寺を開剏(ソウ)す。
 ※文明九年(1477)京都一条尻切屋町に豪商薬屋・妙善(桑名家)の帰依を受けて妙傳寺を開創す。日意、妙傳寺にあること23年。
此れより先き文明元年(1469)徒の為に法要を示すや皆其化に浴して宗を改め寺名を改めしむ。
千如山音教寺を安住山圓乗寺と初代日x上人大圓坊を慧光山学成寺と初代日慶上人 華光坊、法華院、不明 其の他、
 (意味が不明の部分があるが、千如山音教寺を安住山圓乗寺と改号、日xは大圓坊を慧光山学成寺と改号し第1世を日慶とす、
 華光坊と法華院については不明であり、その他の事象もあり・・・・ということであろう。)
なお、圓教院日意上人の化を受けて改宗せし寺数寺を挙ぐれば、津島妙延寺<本ページ中にあり>、桑名寿量寺、桑名顕本寺等など(がある。)
 ※なお開山せしは身延山西谷圓教坊、身延山東谷(南谷?)隅之坊、甲斐六郷定林寺、甲斐下部妙圓寺、甲斐雨畑正徳寺などがある。
●末寺
判明する末寺は以下の通り
 ○新家妙本寺 →下に掲載
 ○下田法華寺(推定) →上に掲載
2018/06/27追加:
○「寺社名録 4」 及び ○「尾張志」 の圓乗寺関係の記事は下の千音寺村学成寺の項を参照。
2018/04/21撮影:
 圓乗寺入口     門前題目碑:延享3年(1746)の年紀     圓乗寺山門
 日蓮上人立像     圓乗寺本堂     圓乗寺扁額     圓乗寺番神堂1     圓乗寺番神堂2     圓乗寺水屋形
 玄関・客殿・庫裡     玄関・客殿1     玄関・客殿2     圓乗寺庫裡     圓乗寺鐘楼     圓乗寺納骨堂
 圓乗寺/学成寺歴代墓碑
 圓乗寺歴代墓誌:開基圓教院日意、第1世圓乗院日xとある。     学成寺歴代墓誌:第1世大圓院日慶とある。
 穣法院日経法尼墓誌:元法華教会担任/旧一真山法華寺第一世/穣法院日経法尼/八十八歳/平成27年(2015)10月13日遷化

千音寺村学成寺跡:廃寺(未見):名古屋市中川区富田町大字千音寺字市場下屋敷

日蓮宗安住山圓乗寺はもと天台宗千如山音教寺と称し、寺中に法華院、華光坊、大圓坊を有していた。
文明元年(1469)音教寺法xは音教寺を日蓮宗に改宗、寺号を改めて安住山圓乗寺と称し、自らを一世日xとする。
同時に、日xは寺中大圓坊を慧光山学成寺と改号しその第1世を日慶となす。
以上が、日蓮宗学成寺の開創であると推定される。
圓乗寺墓地にある「学成寺歴代墓誌」によれば
第一世は大圓院日慶、その後寺歴は不明の部分があるようで、八世日説・中興日清・日達・十二世日正・日閑・十七世日耀・明治22年遷化日良・最後と思われる春道院日重以外の上人名は不詳という状態である。
そして、昭和44年学成寺は圓乗寺に合併とある。
圓乗寺「こぼんちゃん日記」2014年07月13日記事
「戦前には日蓮宗学成寺があった場所」として写真の掲載がある。「戦災で全焼。その後、当山と合併して現在は参詣者用の駐車場。」「こちらには宝塔や学成寺歴代の墓地もあります」との説明がある。
学成寺の位置は不明ながら、学成寺跡は駐車場となり、そこには宝塔や歴代墓碑が残るものと思われる。
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2018/06/27追加:
○【廃】学成寺の位置が判明する。
1)寛保年中「寺社名録」に身延山末覺城寺(学成寺)が見え、天保15年「尾張志」には「略縁起」が記載される。
2)寛政年中「尾張国愛知郡村絵図」には学成寺の位置が具体的に描かれる。
 (以上により、学成寺の具体像と位置が判明する。)

○「寺社名録 4」寛保年中(1741-44)に成立 より
 寺社名録/戸田庄千音寺村
 一 寺門三畝歩 悉く除  日蓮宗甲州身延山久遠寺末寺
                             安住山圓乗寺
 一 同 同            右同末
                                 覺城寺
  ・・・・
   ※悉く除:悉くは疑問、解読できず。除地であることは間違いない。
   ※学成寺は覺城寺と記載されている。山号の記入が無いのは理由が分からない。
   ※学成寺は身延山末で、境内地は圓乗寺と同じく3畝歩=凡そ90坪であり、除地であることが分かる。
○「尾張志」深田正韶撰、中尾義稲編、岡田啓編、天保15年(1844)序 より
 巻之53/圓乗寺・學成寺
圓乗寺
 千音寺村にありて安住山といふ甲州身延山久遠寺の末寺也、明應年中僧日創建す、本尊ハ釈迦如来なり
學成寺
 同村にありて恵光山といふ、甲州身延山久遠寺の末寺なり、明應年中圓教院日意開基創建す、本佛坐像の釈迦多寶如来二躯を本尊とせり、境内に三十番神堂ありて鎮守とす
 ※恵光山(慧光山)と号す、圓教院日意の開基開創とする、鎮守三十番神堂を有することが分かる。
○「尾張国愛知郡村絵図」寛政年中(1789-1801)作成
 千音寺村絵図(全):千音寺村全図である。
 千音寺村絵図(部分1):行雲寺・圓乗寺・長禅寺・学成寺を含む村中心部分図。
長禪寺、学成寺、行雲寺、圓乗寺が絵図の中心部に描かれる。学成寺は長禪寺の一区画を挟んだ東の区画にあることが分かる。
なを、天神、星の宮もこの図に描かれる。七所明神は行雲寺・圓乗寺の北側にあるが、この図のもう少し北にあり、この部分図には出てこない。
 千音寺村絵図(部分2):絵図の左上部分図。
  長禪寺境内■■■■除
  圓乗寺 同様  ゝ
  学成寺 同様  ゝ
  行雲寺 同様  ゝ
  七社明神境内・・・   ■除
  天神境内・・・・     ■除
  星宮 同・・・・・     ■除 とあり、近世千音寺村の主要寺院は4ヶ寺、神社は3ヶ社と知れる。いずれも除地であった。
   ※■は技能不足につき、判読できず。
●学成寺の現況
○地図上の位置
 学成寺位置(マピオン):千音寺村集落は中屋敷を中心に北から時計回りに、上屋敷(行運寺がある)、西屋敷、南屋敷(長禪寺がある)、市場下屋敷(学成寺がある)、市場上屋敷、東屋敷(圓乗寺がある)の字で成り立つ。もとよりこの屋敷を含む字の成り立ちを承知はしていないが、古代音楽寺の伽藍と関係があるような想像がされるのである。
なお、赤星神社(星の宮)は元地より少し北東方向に社地を移している。それは昭和55年高速道建設のためという。
 航空写真(GoogleMap):画面の中央が学成寺跡の更地であり、その西方に長禪寺がある。
○GoogleStreetView
何れも、西側から学成寺跡を撮影したものである。
 【廃】学成寺1     【廃】学成寺2:学成寺題目碑や歴代墓碑が一か所に集められ、現地に残るようである。     【廃】学成寺3
【廃】学成寺の歴代については、上に述べたように、圓乗寺の墓地に歴代墓碑(圓乗寺/学成寺歴代墓碑)と墓誌(学成寺歴代墓誌)が祀られている。

新家妙本寺:名古屋市中川区新家3−706

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
一乗山と号する、千音寺村圓乗寺末、勇師法縁。
元禄5年(1692)創建、昭和32年祖師教会より一乗山妙本寺となる。
○「名古屋市中川区:万場コース」 より
一乗山と号し,元禄14年(1701)に千音寺の円乗寺の第15世日啓上人により創建され、昭和27年に寺号を公称する。
 ※圓乗寺15世日啓とは疑問である。「圓乗寺歴代墓誌」には日啓は載らず、15世は日達とある。
 歴代墓碑の中で該当するのは、一妙院日經(元禄4年入寺、享保2年退寺)と思われる。日經(にちけい)は日啓(にちけい)と音が通ずる。
2018/04/21撮影:
 新家妙本寺入口
 大乗妙典廻國供養塔:年紀未調査     宗祖700遠忌報恩塔:700年遠忌は昭和56年
 宗祖650遠忌報恩塔:650年遠忌は昭和6年     題目碑(宗祖600遠忌報恩):600年遠忌は明治14年
 題目碑(宗祖550遠忌):550遠忌は天保2年(1831)     山内題目碑:年紀未調査
 新家妙本寺本堂1     新家妙本寺本堂2     新家妙本寺玄関     新家妙本寺庫裡     新家妙本寺歴代墓碑

沖之島瑞円寺:あま市七宝町沖之島北屋敷・・・・・旧沖之島番神堂、前田利家室松の生誕地

七寶山と号す。萱津寺實成寺末。
○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
穣園院日豊尼:昭和54年64歳寂。
○愛知県あま市:七宝北コース より
七宝山と号す。文禄年中(1592〜96)にこの地の郷主であった犬飼義久が堂宇を設けて祖先を祀ったのが寺の始まりという。
正保2年(1646)には開眼の日秀上人の大黒天像を安置し、元禄8年(1695)には法華経の守護神の三十番神を勧請し、番神堂と呼ばれるようになる。七宝焼きの香爐や釈迦涅槃絵図などが寺宝であるという。
○「日蓮宗尾張お寺マップ」 より
前田利家正室芳春院生誕地。平成12年(2000)に星野仙一を建設委員長として本堂を新築。2012年に祈祷堂を再建。
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
 沖之島瑞円寺:平成12年に本堂は一新(造替)されたようで、今はこの堂宇を見ることはできないと思われる。

蜂須賀円竜院:あま市蜂須賀北本郷1289

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
宗照山と号する、六条本圀寺末、筵師法縁。
大正2年創立、開山圓妙院日賢(昭和7年寂81歳)
 ※なお、「六条本圀寺々中」のページ中の塔頭圓龍院の項を参照(六条本圀寺寺々中であった時の圓龍院の記述あり。)
○愛知県あま市:蜂須賀コース より
蜂須賀地区の信徒の要望により萱津泉龍寺住職と花木茂左衛門により創建されたといい、当初は妙見堂と称するという。
昭和5年(※大正2年?)六条本圀寺の円竜院を譲り受けて移転したことから、寺名も改められたという。
2018/04/21撮影:
 圓龍院全容     蜂須賀正勝舊宅跡碑     圓龍院山門     圓龍院山門扁額
 圓龍院本堂1     圓龍院本堂2     圓龍院本堂扁額
 圓龍院本堂内部:右壇は日蓮上人真作(伝)大黒福寿尊天、左壇は身延七面山分体七面大明神と思われる。
 圓龍院庫裡1     圓龍院庫裡2     圓龍院鐘楼
 圓龍院歴代墓碑
 圓龍院法尼墓碑:「六条本圀寺々中」のページ中 2004/08/09追加:2.当院は以前尼寺であった。(近年、法灯の継承があった)。
 との記載があるが、現住の先代・先々代は尼僧(法尼)であったと思われ、墓碑が現存する。

蜂須賀村題目碑
圓龍院山門前の道をまっすぐおよそ380m南下した地点(名鉄青塚駅手前)に位置する。
2018/04/21撮影:
 蜂須賀村題目碑1     蜂須賀村題目碑2
 蜂須賀村題目碑東面:表面・髭題目
 蜂須賀村題目碑南面:日蓮大菩薩五百遠忌
 蜂須賀村題目碑西面:裏面・安永九庚子年十月一三日:但し安永9年は1780年で、日蓮500遠忌の正当は天明元年(1781)である。
 蜂須賀村題目碑北面:奉御首題十萬遍

江南昭蓮寺:江南市木賀本郷町西152・・・・・未見

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
岩倉長遠寺末、松ヶ崎法縁。
享保元年(1716)創立、開山了道法師(延享2年/1745寂)、開基檀越勝山武兵衛。勝山氏により番神堂建立。天明4年風雨により堂宇大破再建。明治初頭の神仏分離の処置で祖師堂と改称。
明治24年濃尾大震災により倒壊、明治42年再建。
尾張四高祖の一体(日法作、もと日比津常徳寺奉安)を奉祀する。

尾張一宮妙泰寺:一宮市定水寺郷内95−1・・・・・未見

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
永持山と号する、身延山末。
大観には明治4年の創立、開山日性とある。

尾張一宮心證寺:一宮市大宮3−4−7

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
成等山と号す。四条妙顕寺末。
大観には寛文元年(1661)創立、開山日慧、開基浅井七左衛門とある。
○サイト「日蓮宗心證寺」 より
寛文元年(1661)、戦国期苅安賀城主であった浅井田宮丸の子孫である浅井七左衛門正貞が、父である心證院の菩提を弔うために苅安賀に創建し、以来代々浅井家の菩提寺であったという。
開山は守要院日慧(元禄10年遷化)。
明治24年濃尾地震により諸堂倒壊。
明治29年、現在地の檀信徒の切望により、苅安賀から、現在地に移転する。
跡地は、寧静小学校、苅安賀小学校と名前を変え、現在の大和西小学校となる。
西尾張中央道が建設されるまでは、大和西小学校の講堂脇には墓地や水路が残っていたという。
また、東海北陸自動車道の一宮西インターが建設される際に、愛知県埋蔵文化財センターが発掘調査をし、心證寺の寺域を画す堀割の遺構や五輪塔の一部、南無妙法蓮華経と書かれた卒塔婆などが出土するという。
昭和20年7月の一宮大空襲により、本堂、朝師堂、庫裡、書院等の伽藍は全焼、住職一家も焼死する。
昭和26年現在の本堂を再建。
 → 尾張苅安賀・・・・・下に掲載
   ※苅安賀時代の心證寺は尾張名所圖繪:苅安賀全図尾張名所圖繪・苅安賀部分図に描かれる
2018/03/11撮影:
 一宮心證寺入口:左は本堂、中央は庫裡     入口寺号碑・題目碑     入口題目碑:明治28年の年紀
 境内題目碑     心證寺本堂1     心證寺本堂2     心證寺本堂内部1     心證寺本堂内部2     心證寺本堂内部3
 鬼子母神・妙見大菩薩の他、本堂内部には愛染妙王、普賢菩薩、毘沙門天像などを祀る。
 心證寺庫裡     心證寺開山日慧墓碑     心證寺歴代等墓碑
 開基・浅井七左衛門平正貞墓碑。
 ○サイト「日蓮宗心證寺」 より
  右側面に元禄2年の年号、左側面に心證寺創建の由来が記される。
  判読しづらいが、おおよそ次のように記すという。 
  「浅井七左衛門平正貞は、父の心證院宗孚日解居士、母の成等院妙孚日悟大姉の菩提を弔うために、尾州苅安賀村に一寺を創建し、
  成等山心證寺と名付ける。殊に田畑二反を寄進し、寺の財産とする。浅井氏並びに従者はこの寺の壇越である。
  寺の住職は祈願と回向を怠ってはならない。」
   ※浅井七左衛門正貞は、苅安賀城主浅井新八郎政貞の五代後裔という。
  開基浅井七左衛門墓碑正面:浅井七左衛門の戒名慈天行院宗佐日證居士と刻む。
  開基浅井七左衛門墓碑右側面:元禄二己巳(1686)の年紀を刻み。
  開基浅井七左衛門墓碑左側面:判読しづらいが、大意は上記の通りである。

尾張一宮真浄寺:一宮市真清田2−13−15

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
古久山と号す。勝浦妙潮寺末。松ヶ崎法縁。
明治38年創立、開山戒俊院日増。元上総勝浦松部妙潮寺末寺として創立、明治初年より寺運は衰微する。明治28年岡本武兵衛が先祖の菩提の為当地に寺号を移転し建立する。(大観には明治41年当地に移転とある。)
 ※勝浦妙潮寺は現存する。「上総五十座」を執行する「浜七カ寺」の1ヶ寺として健在である。
2018/03/11撮影:
当日住職は不在の様子であり、門扉は閉じられ、詳細は不明。
 尾張一宮真浄寺全容:向かって左より本堂、庫裡、右端に小祠(銅板葺屋根の上部のみが写る)及び鳥居(写真には写らない)が配置。
 真浄寺入口題目碑:背面には大正九年一月 古久山真浄寺 と刻む。     真浄寺入口・鳥居:奥が庫裡・本堂である。
 真浄寺入口・鳥居2     真浄寺小祠:おそらく番神堂と思われるも、不明。
 真浄寺本堂1     真浄寺本堂2     真浄寺墓碑2基:おそらく歴代住職の墓碑と思われるも、境内に入れず、確認出来ず。

尾張一宮本妙寺:一宮市泉3−11−13

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
住所、電話番号、住職名のみ記載。その他の情報の記載はなし。
○リーフレット「日蓮宗 尾張お寺マップ」 より
昭和12年本孝院日事法尼により創建。
2018/03/11撮影:
僅かに、民家風の堂宇が存在する。当日門扉は閉じられ中の様子は不明。
 一宮本妙寺1     一宮本妙寺2     一宮本妙寺3     一宮本妙寺4

尾張一宮妙隆寺:一宮市新生2−8−8

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
住所、電話番号、住職名のみ記載。その他の情報の記載はなし。
2018/03/11撮影:
堂宇は退転し、僅かに、題目碑と寺号碑のみ残る。
 尾張一宮妙隆寺門前:寺号碑は昭和59年11月建立とある。
 妙隆寺題目碑1     妙隆寺題目碑2:天保5甲午年(1834)の年紀がある。少なくとも江戸後期には創立されていたようである。
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
 尾張一宮妙隆寺:昭和62年頃までは山門・堂宇は存在していたようである。
○苅安賀蓮照寺談(2018/04/06)
現在、妙隆寺跡地(駐車場)を管理しているのは苅安賀蓮照寺と判明する。
蓮照寺に問い合わせると次のような談であった。
今(2018年)から20数年前(30年にはならない)庵主が高齢のため逝去、跡取り・後継もなく、無住となる。(庵主とは尼僧とも思われる。)
妙隆寺の責任寺院は蓮照寺であったので、蓮照寺にて庵主の葬儀を執り行う。
しばらく、堂宇はそのままであったが、堂宇に第三者が住み付き、近隣からクレームがあり、堂宇は取り壊し、本尊などは仮堂を建て、そこに安置する。現在はその仮堂も撤去する。廃寺の手続きは難しく、現在に至る。
寺歴の詳細は承知しない。天保5年の題目碑があるのであれば、その頃には創立されていたのであろう。
以前は四ツ谷(四谷・よつや)教会と称していたが、いつしか寺号の公称を許され、妙隆寺と称する。
なお、四ツ谷教会の由来は、現在の住所は一宮市新生であるが、新生とは高度成長期に付けられた新しい町名で、以前附近は「四ツ谷」と称していたということに依る。

尾張苅安賀

戦国期の城下町であり、土佐要法寺(土佐藩主山内家菩提寺)の故地であり、一宮心證寺の故地でもあり、尾張岩倉城下から妙栄寺、国照寺が移転した地である。
○「苅安賀遺跡」愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第93集、2001 より
地名:
 苅安賀は戦国期にみられる村名である。津田正生の「尾張国地名考」では「旧名は須賀村なるべし。苅屋はのちの冠字なるべし。」と自然堤防地帯の砂地を指す須賀地名とする。
 地名としては南北朝期からみられ、「妙興寺文書」の嘉慶2年(1338)に「穴田仮屋須賀」と記されている。
以後長亨元年(1487)頃まで当地の地名が妙興寺文書に残り、「仮屋須賀」「苅安須賀」などとも記される。
 また本願寺関係の「阿弥陀如来絵像裏書」として光福寺(岐阜県羽島市)の文明7年の年記をもつ裏書には「尾州中島郡苅安賀正徳寺門徒」と記される。
町並みの沿革:苅安賀の町並みの歴史は5期に分けることができる。
・第1期 古代から中世にかけて、現在の大江川・日光川・光堂川などに囲まれ、自然堤防上に集落が発達する。集落は八王子遺跡から苅安賀遺跡へ中心を移し、そこに鎌倉街道の脇街道が通り、賑わいをみせた時期である。
・第2期 室町期から戦国期にかけて、日蓮宗要法寺(現高知市所在、応仁元年/1467創建)、浄土真宗聖徳寺(現名古屋市所在)などの寺院が建立され、寺内町的な性格をもち、町が大きく発展する。
・第3期 戦国期から織豊期にかけてで、もっとも発展した。
亨禄年中(1528〜 32)日蓬宗国照寺・妙栄寺が、岩倉より移る。
永禄4年(1561)年浅井新八(郎)によって苅安賀城がつくられ、城下町も形成された。
小牧長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康方に攻められ落城する。
・第4期 江戸期。美濃街道からもはずれ、苅安賀城も廃城となり、宿場町・城下町の機能を失ったが、六斎市が行われた市場町として、周辺農村の商業的中核として生き延びることになる。いままでの街道は巡見街道となる。
「寛文村々覚書」(1666)によれば13の寺があり、苅安賀廃城以後に建立された寺院として、専養寺と心證寺(寛文元年/1661創建)が挙げられる。
「尾張名所図絵」(天保年中)『苅安賀村絵図』(弘化年中)からは以下のことがわかる。
  尾張名所圖繪:苅安賀全図
  尾張名所圖繪・苅安賀部分図
第一に、巡見街道が村の中央を東西に通り、東は一宮村、西は萩原村に通じる。
第二に、村の中央にある正福寺に入る道は、北にある八王子塚の西を通り、毛受村に至り、さらに北へ伸びる。
第三に、苅安賀城が町の南に位置し、城と町は多くの川や堀に囲まれる。
第四に、街道沿いに民家が並び、東から観音寺・鎮西寺・誓願寺・専養寺・妙栄寺・蓮照寺・国照寺・心證寺・常清寺・正福寺・八幡社・専徳寺と西に広がる。「水筋も通りし里や 芥子の花」と名所図絵にも詠まれ、商品作物の栽培が盛んとなり、関戸家などの大地主があらわれる。
幕末頃、観音寺・常清寺・心證寺・鎮西寺・専養寺で寺子屋が行われ、明治6年心證寺は寧静学校となる。
・第5期 明治維新以後から現在。明治24年の濃尾大震災は町に壊滅的な被害を与える。
今回の調査で区画溝が見つかった心證寺は、「寛文元年、浅井田宮丸の後裔浅井七郎左衛門正貞(宝暦9年没)が父心証院(慶安4年没)菩提のために創建し、代々の菩提所としていたが、明治29年11月、当地檀家信徒切望により、迎えられ、現地(一宮市大宮)へ移転し・・・」と云うように、明治24年の濃尾大震災を契機に移転する。
○サイト「日蓮宗蓮照寺」 より
永禄元年(1558)、織田信長により「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)の拠点・岩倉城が落城、岩倉織田氏家老である山内盛豊(一豊の父)も戦死し、城下は壊滅する。当時岩倉城下にあった蓮照寺・国照寺・妙栄寺(何れも天台宗賢林寺<現小牧市藤島町>の末寺であった)や町家の中には山内盛豊の従弟の浅井高政を頼って苅安賀城下に移住する(これを岩倉越という)。苅安賀に逃れた三ヶ寺は苅安賀城主より東端の地を与えられ、日蓮宗の苅安賀三ケ寺として開山する。
天台宗から日蓮宗となった経緯は、この苅安賀三ケ寺の地に後に山内一豊の菩提寺となる日蓮宗要法寺<長禄2年(1458)創建>)があったことが少なからず関係するものと考えられる。
要法寺は山内一豊の転封のに従い、移転する。即ち、天正13年(1585)尾張苅安賀より近江長浜に、天正18年(1590)に遠江掛川に移り、慶長5年(1600)に土佐に移転する。
  → 土佐要法寺中の苅安賀の項を参照

苅安賀妙栄寺:一宮市大和町苅安賀角出3294

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
長慶山と号す、四条妙顕寺末、生師法縁。
天正8年(1580)創立、開山東光院日能(永禄元年/1558寂)、開基春陽院日以(天正12年/1584寂)、開基檀越森嶋一庵。
もと岩倉にあり、日能により現在地へ移転、日以により移築完成、明治24年濃尾震災により堂宇倒壊、明治27年庫裡、明治39年本堂再建。
2018/03/11撮影:
 妙栄寺参道題目碑1     妙栄寺参道題目碑2     苅安賀妙栄寺山門1     苅安賀妙栄寺山門2
 門前題目碑その1:延寶九辛酉年(1681)の年紀
 門前題目碑2基:向かって右は文政十一戊子(1828)の年紀、左は摩耗して年紀等は判読不能。
 妙栄寺俯瞰その1     妙栄寺俯瞰その2     妙栄寺本堂1     妙栄寺本堂2
 妙栄寺手水舎:背後の小宇は蓮照寺妙見堂     妙栄寺庫裡
 妙栄寺妙見堂:堂の名称は不明であるが、堂内には小厨子が置かれ、その前に七曜紋の高坏がある。この紋からおそらく妙見尊を祀るものと推定される。
 妙栄寺歴代墓碑:この区画には開山などの墓碑は無いものと思われる。


苅安賀蓮照寺:一宮市大和町苅安賀角出3298

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
光栄山と号す、四条妙顕寺末、生師法縁。
天正12年(1584)創立、開山正乗院日恵(四条妙顕寺9世日芳の弟子)。
○サイト「日蓮宗蓮照寺」 より http://renshouji.jp/about/
平成26年旧本堂解体、宝暦6年(1756)の建立(棟札が現存)であった。
鐘楼は昭和6年建立。
平成28年新本堂・客殿落慶。
2018/03/11撮影:
 苅安賀蓮照寺参道:手前の道は巡見街道であり、蓮照寺入口には石燈籠、寺号碑、題目碑、石門柱が建つ。
 蓮照寺門前題目碑:寛政六甲寅年(1794)の年紀     苅安賀蓮照寺山門
 蓮照寺本堂1     蓮照寺本堂2     蓮照寺玄関     蓮照寺玄関・客殿     蓮照寺庫裡
 蓮照寺手水舎:背後は妙見堂     蓮照寺鐘楼     蓮照寺妙見堂
 境内題目碑その1     境内題目碑その2:日蓮600遠忌     境内題目碑その3:向かって左は題目碑その2、右は日慧墓碑
 開基正乗院日恵墓碑     蓮照寺歴代墓碑
○旧本堂の写真がWebに散見するので、転載する。
写真で見る限り、新本堂は旧本堂の旧軌をほぼ受け継いでいるようである。
 旧蓮照寺本堂1     旧蓮照寺本堂2     旧蓮照寺本堂3


苅安賀国照寺:一宮市大和町苅安賀角出3299

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
鷲洞山と号す、四条妙顕寺末、勇師法縁。
天文年中(1532-55)創立、開山鷲洞院日審。享禄年中岩倉より現在地へ移転。
苅安賀城主浅井家の墓あり。
2018/03/11撮影:
 苅安賀国照寺参道:手前の道は巡見街道、入口には寺号碑・朝野三輪墓案内碑、題目碑2基、石門柱が建つ。
 國照寺山門前     山門前題目碑右     山門前題目碑左     國照寺山門(鐘楼門)
 國照寺本堂1     國照寺本堂2     國照寺本堂内部     國照寺手水舎
 國照寺玄関・庫裡     國照寺玄関     國照寺庫裡     境内題目碑(墓碑)
 第名真女の墓:第名真女と読んだが、多分誤読であろう。この墓碑については不詳。
 苅安賀城主の墓:苅安賀城主浅井信濃守政高の墓は従来城跡の傍に在りしが、昭和44年国道建設に際して、國照寺に移せりという。
 故に現在は苅安賀城主の墓は國照寺にあり。国道は155号線である。
  →苅安賀城主の五輪とう(墓碑)は「尾張名所圖繪」に「浅井ゴリン」として描かれる。上掲の「尾張苅安賀」の項から引用
    尾張名所圖繪:苅安賀全図       尾張名所圖繪・苅安賀部分図
 苅安賀城主の墓その1     苅安賀城主の墓その2     苅安賀城主の墓その3
 國照寺歴代墓碑     開基鷲洞院日審墓碑     歴代墓碑中の題目碑
○「朝野三輪女」一宮高等女学校校友会、大正13年 より
 孝貞女三輪の墓:未見に付、「朝野三輪女」から転載する。
 三輪夫妻の墓碑     三輪夫妻墓碑の石刷


尾張良顕寺:一宮市今伊勢町馬寄大聖6

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
住所、電話番号、住職名のみ記載。その他の情報の記載はなし。
○リーフレット「日蓮宗 尾張お寺マップ」 より
明治20年、現在地等を野村久四郎より寄進を受け説教所を開設。その後寺号を公称する。
○「日蓮宗尾張伝道センター」 より
大聖山と号す。明治20年、現在地等を野村久四郎氏(資性院良顕居士)より寄進を受け、「大聖教会」を創立。
以後、寺号公称し現在に至る。
2018/03/11撮影:
 良顕寺入口題目碑:昭和6年年紀     尾張良顕寺入口     尾張良顕寺全景     日蓮宗説教所石柱
 尾張良顕寺本堂1     尾張良顕寺本堂2     尾張良顕寺庫裡
 良顕寺墓所     檀越野村久四郎等墓碑:資性院良顕居士などの刻銘あり。     資性院良顕居士等刻銘
 良顕寺第一世墓碑:第一世浄善院日良法尼     良顕寺歴代塔:現在では第一世浄善院日良法尼のみ祀る。


尾張法蓮寺:一宮市木曽川町黒田勘治西60

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
妙王山と号す。身延山末。
永正7年(1510)創立、開山は身延11世日朝弟子法浄院日妙。<大観では妙應元庚牛(1492)創立とあるも、庚牛は永正7年であるので、永正7年創立が正しいものと思われる。>
寺内の妙見尊は創立の翌年永正8年に開山によって勧請されるという。
○リーフレット「日蓮宗 尾張お寺マップ」 より
妙見大菩薩は秘仏であり、九曜星尊と称し、1月15日及び6月中旬に開帳される。
2018/03/11撮影:
 尾張法蓮寺山門1     尾張法蓮寺山門2     法蓮寺主要伽藍     尾張法蓮寺手水舎
 尾張法蓮寺本堂1     尾張法蓮寺本堂2     尾張法蓮寺本堂3     法蓮寺本堂扁額     法蓮寺日蓮上人立像
 境内題目碑その1:天明二壬寅年(1892)年紀     境内題目碑その2     本堂前題目碑:調査せず、詳細不明。
 法蓮寺納骨堂:推定     尾張法蓮寺玄関     尾張法蓮寺庫裡     尾張法蓮寺鐘楼
 法蓮寺妙見堂1     法蓮寺妙見堂2     尾張法蓮寺土蔵     推定信徒会館
 法蓮寺開日妙墓碑:明治34年百遠忌報恩     法蓮寺歴代墓碑


尾張妙君寺:一宮市木曽川町黒田錦里11

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
無量光山と号す、勇師法縁。
昭和21年創立、開山神弛院日雄、開基無量光院妙君(昭和19年寂)。
 ※当地はもと、黒田城の武家屋敷跡であったが、開基上人より寄進されるという。
木津川教会として設立。
昭和52年本堂・書院を建立。
2018/03/11撮影:
 尾張妙君寺山門     山門前題目碑     尾張妙君寺鐘楼     尾張妙君寺山内     山内題目碑     山内十三重石塔
 尾張妙君寺本堂     妙君寺本堂内部1     妙君寺本堂内部2     妙君寺本堂内部3     妙君寺本堂内部4
 妙君寺玄関・書院     妙君寺庫裡
 妙君寺開山日雄墓碑     妙君寺開基妙君墓碑


尾張津島本蓮寺:津島市池麩町18

○「津島町史」愛知県海部郡津島町役場、昭和13年 より
越後本成寺末寺。(法華宗陣門流)
妙榮山と号す。境内704坪(徇行記に境内1反1畝20歩、内8畝16歩御除地、3畝4歩年貢地とあり)を有する。越後本成寺末寺。
肥後の大橋太郎左衛門通貞の子一妙丸貞経の創建したもので、一妙丸は事によりて尾張に来たり、愛知郡中根村に天台宗法華堂を造立したが、元中9年(1392/明徳3年)その家臣の末裔志願を発し、中根村の法華堂を現地に移し、妙榮山本蓮寺と稱へ、遠江本興寺日乗(応永32年/1426/寂)を請じて開山とした。
堂宇には本堂、三十番神堂・庫裡・鐘楼・玄関・門等がある。現住山口完考で第30世である。
○「中世津島の景観とその変遷」山村亜希(「愛知県立大学文学部論集. 日本文化学科編 53」2005-03-31 所収) より
本蓮寺:徇行記・図会・尾張志:明徳3年(1392/元中9年)中根村より麩屋町に移転/ 図会:麩屋町/日蓮宗
奴屋城主・大橋信重(良王君の嫡子)の菩提寺と伝承
○各種Web情報 より
法華宗(陣門流)、妙榮山と号す。開山は遠江本興寺日乗。
大橋貞経、愛知郡中根村に天台宗法華堂を建立し、それを明徳3年(1392/元中9年)津島に移し、日蓮宗に改宗、遠江本興寺日乗を招じて開山とす。
南朝良王君の子である神王は大橋家に入り、大橋信重と名乗ると伝え、本蓮寺は神王(大橋信重)の菩提寺という。
 大橋氏:
桓武平氏の流れであり、平貞能が肥後国山本郡大橋に下向し、大橋氏を称したことに始まるという。
大橋氏系図では平貞能(大橋貞能、太郎左衛門)の子が大橋通貞、その子は大橋貞経と続く。
更に系図では貞経-貞宗-貞俊-貞高(三河守)-貞則(三河守)-貞清(三河守)-貞省(三河守・貞清の弟)-信吉(三河守)-信重(和泉守)-定安(和泉守)-重一(三河大河内元網男)と続く。
後には南朝宗良親王(後醍醐天皇皇子)の末裔と称する。
宗良親王の末裔というのは、宗良親王の孫(神王)が大橋氏の養子(大橋信重、津島大納言)となったということに因る。
 大橋通貞:
一妙丸貞経の実父。大橋太郎左衛門尉、肥後守、法名:大橋院殿蓮実通貞大居士。母大夫高原女。
豊後国の地頭であったという。鎌倉の源頼朝に呼び出され、謀叛の疑いで投獄(土牢/光即寺本堂の裏山に所在)される。豊後の領知は没収。
12年後、成長した実子一妙丸は、実父を想い、鶴岡八幡宮に詣り、法華経を唱ええうという。このことは頼朝の耳に入り、一妙丸を召す。一妙丸は父に会うために鎌倉に来たと述べる。頼朝はこの一妙丸の心に感服し、通貞を赦免、本領を安堵するという。
 大橋貞経:
一妙丸、通貞の実子、太郎、肥後守、母鍋谷庄司女、
正嘉元年(1257)六月十一日卒、法名:本蓮院殿一妙麿貞經居士。
一妙丸と源頼朝との関係は上項を参照。
一妙丸は尾張國中島海部の二郡を頼朝より賜り、尾張に来たり、愛知郡中根村に天台宗法華堂を造立する。
但し、系譜については異説がある。
異説:「浪合記」では、貞経の父は貞能であり、頼朝に捕えられたのも貞能とし、通貞は登場しないようである。
 大橋信重:
良王親王の子神王丸が大橋家を継ぎ名を改めたという。(「尾州雑志」)
和泉守、津島大納言、奴野屋城主。
文亀2年(1502)4月3日卒。法名:本蓮寺殿従二位亜相神王大居士。なお亜相とは大納言の唐名である。
本蓮寺が信重の菩提寺である。
 良王
その系譜は、宗良親王(後醍醐天皇皇子)-尹良<ゆきよし>親王(宗良御子)-良王<よしゆき>(尹良親王御子)-神王 といい、神王は津島大橋家に入り、大橋信重と名乗るという。
○「尾張國海西郡津島之圖」延享5年(1748) より
 尾張國海西郡津島之圖:全図
 尾張國海西郡津島之圖:部分図:中央やや上に本蓮寺・妙延寺が描かれ、中央下は津島牛頭天王社が描かれる。
2018/06/06追加:
○「尾張名所圖繪 巻7」 より
妙榮山本蓮寺
麩屋町にあり、日蓮宗越後國蒲原郡本成寺末寺也。寺伝にいふ。
大橋太郎右衛門尉通貞、文治2年(1186)頼朝公のために囚人となりて、松葉ヶ谷の土の牢に入られ建久8年(1197)まで12年の間、日夜法華経読誦おこたることなし。
妻は肥後國鍋谷の庄司が女なりしかば、通貞鎌倉に趣く時、旧里にかへり、庄司がもとにて男子を出生す。即ち貞経これなり。
十二歳の時、潜に肥後國を出でて鎌倉に赴き、八幡宮に詣し、二六時中、父のために法華経を読誦す。このこと、頼朝公に聞えて、御感のあまり通貞の罪を免し、本領尾張國中島・海部の二郡を賜ふ。その後、建保七年(1219)七月兵庫頭頼茂違勅の罪ありしに、貞経は頼茂が族類なりしかば、その縁により、京都三条河原において斬らるべかりしを、忽ち大流星出でて、雷の如く響き、雲中に鬼あらはれなど、不思議のことども多かりしかば、これも許されて、古里に帰へる事をえたり。
ここにおいて愛知郡中根村に一宇を建て、法華寺と名づく。正嘉元年(1257)六月十一日貞経72歳にして卒し、法名本蓮寺と号す。その後明徳3年(1392)貞経が末孫この寺を当地に、うつし、法号によって今の寺号とす。
本尊 法華/三宝 鎮守 三十/番神
2018/07/14追加:
○「日本歴史地名大系 23愛知県の地名」平凡社 より
「吾妻鏡」文治元年(1185)7月7日条によれば、大橋氏の三世貞能は平氏一族で、四世通貞の母は原太夫高春の女という。高春は尾張国住人である。この縁で通貞の子一妙丸貞経が「尾張国愛知・海部二郡を領し、法華経帰依によりて愛知郡中根村に天台宗法華堂を造立・・・明徳3年大橋貞経の家臣末裔、志願を発し、中根村の法華堂を今の地に移し、日蓮宗に改、当寺を造立す・・・」と寺伝は伝える。
寺内に鎮守番神堂がある。

○無印は2018/03/11撮影:◇印は2018/04/21撮影:
前述の「津島町史」では「本堂、三十番神堂・庫裡・鐘楼・玄関・門等がある」というから、山門、本堂のみ現存し、しかし本堂は半破、番神堂・鐘楼は退転、庫裡・玄関はおそらく老朽化のため一般住宅風に造替され、頗る衰微する。
 津島本蓮寺山門
 津島本蓮寺題目碑その1:日蓮上人600遠忌とあるから明治14頃の建立であろう。     津島本蓮寺題目碑その2:詳細不詳
 津島本蓮寺本堂1     津島本蓮寺本堂2     津島本蓮寺庫裡
 ◇津島本蓮寺供養塔・墓碑群     日蓮上人供養塔     日朗日印日陣供養塔
 開基日乗墓碑     大橋通貞・貞經墓碑:大橋院殿蓮實通貞大居士/本蓮院殿一妙貞經大居士と刻む。
 本蓮寺歴代墓碑1     本蓮寺歴代墓碑2

尾張津島清正公社

加藤清正は、永禄5年(1562)今の名古屋市中村区で生誕する。
清正3歳の時、父清忠を亡くし、清正5歳の永禄9年に母とともに叔父の家(津島上河原町)に寄寓するという。
明治18年寄寓した叔父の家があったと伝えられる地に清正公社と碑が建立される。
 →清正公信仰 →中村妙行寺 →直下の津島妙延寺
2018/04/21撮影:
 津島清正公社1     津島清正公社2     津島清正公社拝殿     加藤公遺跡碑
 津島清正公社本殿1     津島清正公社本殿2

尾張津島妙延寺:津島市今市場町1−11

○「日蓮宗寺院大観」池上本門寺、昭和56年 より
津島山と号す、身延山末、筵師法縁。
寛正5年(1464)創立、開山開基円教院日意。身延12世日意と宗論の末、真言宗高乗坊が改宗、寺号改称。
 →圓教院日意:安住山圓乗寺の圓教院日意の項を参照
○本寺は加藤清正手習いの寺子屋として知られる。
加藤清正(虎之助)は永禄5年(1562)に名古屋中村に生誕する。
 →中村妙行寺
清正数え3歳の時、父清忠が逝去する。
永禄9年(清正5歳)母いと(伊都)とともに叔父の家(津島上河原町)に寄寓する。
この寄寓していた数年間、母は清正に読み書き・手習いを習わすため、妙延寺に通わせたという。
なお、習字の時清正が習字の半紙を懸けて乾かしていたと伝える大きな松(「清正公草紙掛松」と称する。)が昭和初期まで残っていたという。
残念ながら、その松は、今は枯れて、幹の一部を残す(寺宝として保存)だけである。
また、叔父の住居跡は、明治18年国家神道によって、「清正公社」とされ、社と碑が建てられる。
  ※津島清正公社は直上に掲載。
  →清正公信仰
2018/03/11撮影:
 津島妙延寺山門     妙延寺門前題目碑:日蓮上人500遠忌正当ということであるから、天明元年(1781)建立であろう。
 津島妙延寺本堂     津島妙延寺庫裡     津島妙延寺堂宇:名称不明、妙見堂か。     津島妙延寺鐘楼
 鐘楼前題目碑その1:2基     鐘楼前題目碑その2     清正公草紙掛松跡
 妙延寺歴代墓碑その1       妙延寺歴代墓碑その2


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