東 北 ・ 北 陸 諸 国 の 日 蓮 宗 諸 寺

陸奥・出羽・越後・越中・能登・加賀・越前・若狭の日蓮宗諸寺



陸奥の諸寺

宝幢山法立寺仏舎利塔:弘前市新寺町
法立寺は
天文2年(1533)京都本満寺寺中宝持院日尋上人が大浦城下に創建。 (京都本満寺末)
慶長16年(1611)弘前築城により寺町に移転、寛永20年(1643)寺領50石を受ける。
慶安3年(1650)新寺町に移転。
寺中本迹院・南栄院を有する。
 本迹院:
法立寺10世本寂院日運が正保3年(1645)隠居寺として開山する。
 南栄院:
法立寺11世日成の弟子南栄院日浄によって創建される。
末寺:
 青蓮山妙乗寺(五所川原市金木町朝日山)
 薄市山弘法寺(青森県北津軽郡中泊町中里字亀山)
 本立山日精寺(青森県南津軽郡大鰐町大字大鰐字大鰐)
 梅田山法光寺(青森県南津軽郡藤崎町大字藤崎字村元)
2008/04/02撮影:
 陸奥法立寺     陸奥法立寺舎利塔:永代供養塔との銘がある。

妙法山本行寺護国堂:弘前市新寺町
護国堂(持仏堂とも云う)は
享保元年か2年(1716〜17)〉 の建立とされる。文化7年(1810)の類焼は免れる。鬼子母神を安置する。
本行寺は天正6年(1578)津軽為信が京都寶塔寺日健上人を迎え、堀越城中に創建する。
 ※日健上人は宝塔寺歴代には見当たらず(宝塔寺歴世譜)宝塔寺の僧ではなく大光山(六条本圀寺)系の僧という説もある。
 以上のことは、寺伝の天正8年記銘の曼荼羅には、六条本圀寺16世究竟院日ワ辮l(京都常寂光寺開山)の花押脇書があり、
 「妙法山本行寺妙覚院日健(にちごん)授与」と伝存されて来た開基曼荼羅が存在することで裏付けられる。
   ページ妙法山本行寺を参照
 ※六条本圀寺
慶長16年(1611)弘前築城により寺町(元寺町)に移転、慶安2年(1649)に新寺町に移転。
寺中:受源院(住玄院)・満行院を有する。
末寺:
 三森村感應寺(現弘前市独狐)
 飯詰村正行寺(現五所川原市妙龍寺)
 板屋野木村長延寺(現板柳町)
 木作村実相院(現木造町実相寺)
 梅田村(現五所川原市)妙光院(現板柳町妙光寺)
2008/04/02撮影:
 陸奥本行寺護国堂1   陸奥本行寺護国堂2

陸奥黒崎妙経寺
 →明治以降の三重塔484にあり。

陸奥渡利佛眼寺:日蓮本宗
要法寺末: 諸佛山と号する。現福島市渡利
2016/05/12追加:
嘉元3年(1305)日尊上人が笹木野村に法華堂を建立する。その後、笹木野仏眼寺と発展する。
仙台(若林区荒町)に現存する日蓮正宗法龍山佛眼寺の由緒も次のようにいう。
嘉元3年(1305)陸奥国信夫郡笹木野村(現福島県福島市笹木野)に建立される。開基は日蓮正宗第3祖日目の弟子である日尊。
笹木野仏眼寺はその後次のように変遷する。
伊達正宗は米沢、岩出山、仙台と居城を移すが、佛眼寺もそれに従い、移転を繰り返すという。
そして最終的には、延宝2年(1674)佛現寺、現在地の荒町に移転。
 ※その後、荒町佛眼寺は大石寺の末寺となっていったようで、その過程で迫害(法難)などが生じた様子が窺える。また争いは近代まで続き、京都要法寺と日蓮正宗の間で確執があった様子も窺える
 ※笹木野村佛眼寺跡には現在曹洞宗佛母寺が建立され現存という。
開創された嘉元3年から370年後、つまり延宝3年(1675)現在地に円頓庵が創建され、「渡利仏眼寺」が開創となる。(「ふくしま市景観100選、94.仏眼寺」より「笹木野仏眼寺(ぶつげんじ)開創から370年後、現在地に円頓庵(えんとんあん)が創建され、「渡利仏眼寺(ぶつげんじ)」が開創となる。」)
 ※如何なる文献からかは不明であるが、笹木野仏眼寺開創から370年後、現在の渡利佛眼寺が開創されたということになる。
2010/04/27撮影:
 陸奥渡佛眼寺三門:文化3年(1806)建立
 陸奥渡佛眼寺境内:中央は本堂、左は客殿・庫裏、右は鐘楼
 陸奥渡佛眼寺本堂:弘化3年(1846)再建
 陸奥渡佛眼寺鐘楼:天保13年(1842)再建
 陸奥渡佛眼寺番神堂:嘉永6年(1853)再建、垂迹堂・開山堂とも称する。
  ※佛眼寺談:「信達には要法寺末寺が9(あるいは6か)ヶ寺ある。」
  ※「霊山町史」:金龍山蓮昌寺:開山日尊上人
2016/05/12追加:信達には以下の日蓮本宗寺院が知られる。
東栄寺:福島市飯野町青木東栄寺20
飯坂妙法教会:福島市飯坂町石倉46
一円寺:福島市立子山町屋坂38
本法寺:福島市新町8−12
妙泉寺:福島市飯野町青木戸ノ入5−2
佛眼寺:福島市渡利岩崎町159
蓮昌寺:伊達市霊山町泉原方事73
妙蔵寺:伊達郡桑折町南半田沢入2
2016/05/12追加:佛眼寺什宝:佛眼寺ご提供
 宝蔵・日興上人像:宝蔵は平成13年再建、日蓮上人像及び日興上人像を安置
 開山日尊上人像    三十番神像
 曼荼羅三法台座銘:台座底面に「天正12年(1584)甲申季秋」の墨書があり、当寺最古の銘文である。

白河妙関寺
寛保元年(1741)松平大和守家(松平義知)は陸奥白河から播磨姫路に再度転封され、松平大和守家の位牌所である永寿寺も姫路に再度移転する。妙関寺は永寿寺跡地に留まった永寿寺の僧によって、建立されたと伝えられる。
 ※永寿寺は前橋永寿寺<上野の諸寺中>を参照
明治初年火災焼失、記録なども失い、詳細は不詳という。
2014/04/10撮影;
 白河妙関寺題目碑1     白河妙関寺題目碑2;門前道路を隔ててある。かなり大きな碑である。
 白河妙関寺山門        白河妙関寺本堂
末寺に多宝山長福院がある。
 長福院開山は享保16年亮生院日乗による。
 明治18年頃石川村増子友右衛門現在地に自宅を移建、白河妙関寺14世智光院日輝を招聘、布教所とする。
 (日輝は中興開山)
 明治25年教会所となる。
 明治32年多摩柿生麻生長福院を移転し、教会所を合併し、長福院と号する。

佐渡の諸寺

 →佐渡法華宗諸山

越中の諸寺

越中上市全勝寺
妙具山と号する。本寺は不明。
2014年本堂屋根葺き替え、本堂の相輪は2014年現在で27年を経過(つまり1987年(昭和62年)に相輪を設置)という。
上記の他の情報は全くWeb上になく、寺歴は不明。
2016/12/25追加:K.G氏情報
京都四条妙顕寺末、奠師法縁
2016/11/26撮影:
 全勝寺入口題目碑     全勝寺本堂1     全勝寺本堂2    全勝寺庫裡     全勝寺境内題目碑

越中石動本行寺
津幡山と号す。京都立本寺末。
天文5年(1536)能登七尾にて創建され、前田秀継(前田利春の六男、前田利家の弟)が庇護する。
天正11年(1583)秀継は津幡城主(7千石)となり、津幡城下に移る。
天正13年(1585)さらに秀継は木舟城主(高岡市福岡町・4万石)となり、木舟城下に移る。
同年、天正大地震によって木舟城は倒壊、秀継も圧死し、本行寺も大破する。
秀継の子(次男?)である前田利秀(前田利家の甥)が跡を継ぎ、天正14年(1586)居城を今石動城に移し、本行寺も石動城下に移る。
文禄2年(1593)利秀、朝鮮出兵で肥前名護屋へ向かう途中、京都にて病没(享年26歳)、亡骸は本行寺に葬られ当寺が菩提寺となる。
境内背後にある五輪塔がその墓碑である。
2016/11/26撮影:
 石動本行寺本堂1    石動本行寺本堂2    石動本行寺本堂3    本堂前題目碑1    本堂前題目碑2
 石動本行寺堂宇:堂名不明      石動本行寺庫裡     前田利秀墓碑(五輪塔)

能登の諸寺

七尾「山の寺」
天正9年(1581)前田利家は奥能登地域からの七尾城(小丸山城)の防御を目的に、七尾城の西北の小高い丘に、浄土真宗(真宗寺院は町方に配置)を除く各宗派の寺院を防御陣地として 各地から集め、配置する。これが「山の寺」の始まりである。
設置当初は29ヶ寺が存在したが、現在、現存する寺院は16ヶ寺という。
日蓮宗/法華宗の寺院は法華谷と称される谷筋を中心に配置され、現在は次に取り上げる8ヶ寺が集中する。
なお、現存する8ヶ寺以外に、既に廃寺になったか移転したのかは不明であるが、法華宗あるいは日蓮宗の寺院では長久寺・上慶寺・本興寺があったことが知られる。

七尾長興寺
久住山と号する。京都立本寺末。
文明元年(1469)立本寺六祖・龍華院日實上人の弟子一乗院日種が開創すると伝える。
当寺には本尊のほか、末法惣鎮守七面大明神、鬼子母神十羅刹女などが祀られる。
山門は総欅造で、欄間彫刻は吉田一雋作である。また、かっては遊郭の芸妓が多く参詣したという。
2016/11/26撮影:
 七尾長興寺門前    七尾長興寺山門1    七尾長興寺山門2    七尾長興寺本堂    七尾長興寺庫裡

七尾妙圀寺
法性山と号する。京都六条本圀寺末。
延徳2年(1490)大本山本圀寺11世日堯の弟子法立院日調上人が七尾城山の麓(古城町)に創建する。古城町には寺跡を残すという。
元和元年(1615)当地に移転する。
本堂は二分されていて、本尊仏と、日朗上人が鎌倉の土牢の中で刻むという開運高祖日蓮大菩薩像が共に祀られる。そして日蓮大菩薩像を中心に三光天子(日・月・地球)、三十番神、子育鬼子母神(天照大神神社)、秋山自雲霊神、住吉大明神、浄行菩薩が祀られる。
2016/11/26撮影:
 七尾妙圀寺山門    七尾妙圀寺寺号碑    七尾妙圀寺二分本堂右    七尾妙圀寺二分本堂左    七尾妙圀寺本堂扁額
 七尾妙圀寺鬼子母神    七尾妙圀寺庫裡

七尾長壽寺
久遠山と号する。京都立本寺末。
開山及び開基は実孝大和尚という。実孝大和尚は北条時政の末孫という。
長禄元年(1457)京都立本寺六世龍華院日實上人が北陸布教の時、教化され真言宗から改宗するという。
その後、能登畠山氏の帰依を受け、同年城山の麓に一庵を結び仏命長壽庵と称する。七尾城落城後当地で寺号を公称したといわれる。
本堂には年に一度開帳される土の中から出た土中出現日蓮上人像、七尾城内奉安天満自在尊天神(菅原道真)、行学院日朝上人を祀る。
その他本寺には次のような遺産がある。
長谷川等伯(七尾産、室町末期)の養父母は、当寺の旦那で過去帳と墓碑がある。
鐘楼に吊られる梵鐘は元禄3年(1690)茶釜師宮崎彦九郎義一(寒雉)の作である。
八百屋お七(加賀藩士山瀬三郎兵衛の娘、「振袖火事」で17歳で焚刑に処せられる)の供養塔ある。これは母法春比丘尼の発願で 、本来は大罪人の供養塔など許されない時代に建立されたもので、寺側にも口伝で伝わるものである。花崗岩製、高さ2m17cm、幅60cmを測る。
2016/11/26撮影:
 七尾長壽寺山門    七尾長壽寺題目碑    七尾長壽寺本堂    七尾長壽寺本堂扁額
 七尾長壽寺鬼子母神    七尾長壽寺鐘楼    七尾長壽寺梵鐘    七尾長壽寺お七供養塔

七尾本行寺(本門法華宗)
揚柳山と号する。京都妙蓮寺末。
文明年中に創建(開山は本行院日士上人か)され、開基檀越は円山梅雪(畠山一族、茶道の祖)と伝える。
天正13年(1585)前田利家の命で、現在地に移転、山の寺寺院の中核を占め、周囲に堀を廻らせた城郭の構えの配置をとる。また前田家祈願所ともなる。
天正15年(1587)秀吉から切支丹の故追放された高山右近を利家は客将として迎え、この地に修道所(現下寺屋敷跡)などを建て、切支丹の文化と文明と西洋技術と人材を受け入れる政策を採る。
慶長18年12月徳川家康は「伴天連大禁教令」を発し、右近も海外追放令を翌19年1月に受けとり、国外に追放される。
しかし、その後も切支丹は密かに生き延び、この本行寺は「切支丹」の「隠れ寺」として、密かに江戸期を生き延びる。今でも「隠れ切支丹」の遺物・行事が本寺に伝えられる。
2016/11/26撮影:
 七尾本行寺参道    七尾本行寺山門    七尾本行寺堂宇    七尾本行寺本堂    七尾本行寺庫裡
 七尾本行寺鐘楼    七尾本行寺三十番神    七尾本行寺開基上人墓碑
 本行寺修道所跡:右近谷、下寺屋敷跡     本行寺修道所跡碑    本行寺右近井戸    本行寺修道所遺物?

七尾印勝寺(法華宗陣門流)
宝泉山と号す。三条本成寺末。
天文17年(1548)京都本禅寺日道上人の草創といわれるも、詳細は不明。
現在は無住という。本堂は近年の建立という。
2016/11/26撮影:
 七尾印勝寺参道     七尾印勝寺鐘楼門1     七尾印勝寺鐘楼門2
 七尾印勝寺本堂1     七尾印勝寺本堂2      七尾印勝寺庫裡客殿

七尾實相寺
本源山と号する。京都六条本圀寺末。
永禄9年(1566)日順上人の開山と伝える。
本堂内に鬼子母神と清正公を祀る。また本堂の裏手には樹齢700年の椎の木がある。
2016/11/26撮影:
 七尾實相寺参道    参道脇題目碑    参道脇清正公碑    七尾實相寺山門
 七尾實相寺山内    山内題目碑      山内日蓮上人碑    七尾實相寺本堂
 七尾實相寺庫裡1    七尾實相寺庫裡2    七尾實相寺椎の木

七尾上の寺法華谷日蓮上人像
2016/11/26撮影:
法華谷に「立正安国を説くお祖師さま 光雲原作」と銘うつ日蓮上人立像がある。
おそらく近年に建てられたものと思われるも、詳細は不明。
 法華谷日蓮上人立像1     法華谷日蓮上人立像2

七尾本延寺
遠寿山と号する。京都本法寺末。
寛正5年(1464)日親上人が京より日蓮上人法難の地、佐渡巡拝の途次、畠山氏を教化、七尾の所口に寺を建て、日賢が弟子となるという。
本尊の他、日親上人坐像、日親上人真筆の曼荼羅などを祀る。
また当寺は七尾出身長谷川等伯の生家の菩提寺である。その縁で、等伯の寄進した木造日蓮上人座像を蔵する。「永禄七甲子年(1564)10月13日」の銘があり、長谷川等伯26歳の時で、等伯が「長谷川又四郎信春」と名乗っていた時代のものである、信春が彩色し、寺院に寄進と伝える。
2016/11/26撮影:
 入口日親上人碑:當山開祖、此國最初之霊場、○○三八世日教の署名花押がある。     入口歴代墓碑か
 七尾本延寺山門1    七尾本延寺山門2    七尾本延寺本堂    七尾本延寺扁額
 七尾本延寺本堂内部1    七尾本延寺本堂内部2    七尾本延寺庫裡

七尾成蓮寺
華開山と号する。能登滝谷妙成寺末。
永仁元年(1293)日像上人、宗祖日蓮上人の遺命である京都における布教活動をするため、佐渡から番匠弥右衛門の船に便乗して七尾に上陸する。その夜は番匠家に宿泊し 番匠一族を教化し、今も残る「板曼陀羅」を認め、授与する。このことから番匠家は真言宗であった菩提寺を改宗し華開山成蓮寺と改号する。
時の住職貞林院律師日便上人は日像上人を開山と仰ぎ、自らは二祖となる。
その後前田利家が能登に下向した時、現在地を与えられ、現在地に移転という。
本堂には開運妙見菩薩を祀る。
  ※この時、番匠の船に乗船していたのが能登石動山五社権現座主満蔵法印であり、船中にて日像上人に帰伏する。この満蔵法印は後に日乗上人となり、能登妙成寺を開山する。
2016/11/26撮影:
 七尾成蓮寺山門    山門前題目碑    七尾成蓮寺本堂    成蓮寺本堂扁額    七尾成蓮寺鐘楼
 山内題目碑    山内日蓮大菩薩碑    山内歴代墓碑か    日像・日審上人/累世番匠家墓碑

越前の諸寺

越前武生の諸寺

越前武生/智光山本興寺
法華宗真門流本山、延徳元年(1489)本行院日源開基、本堂・庫裡・鐘堂、寺中五ヶ院を有する。
寺伝では、元は真言宗興隆寺であったが、延徳元年本隆寺開山日真上人が来山し、法論・論破、興隆寺吉祥坊は改宗し本行院日源と号し、寺号を改めるという。近世には寺中8ヶ院を有する。
 越前本興寺本堂     越前本興寺庫裏     越前本興寺伽藍配置
現存寺中五ヶ院と廃坊跡:
 顕正院勇猛院実教院(勇猛院兼住)、行運院本寿院 (行運院兼住)の5院と 推定廃坊跡 がある。
  ※真門流総本山は京都本隆寺、三本山は当寺、妙法蓮華経山平等会寺(鯖江)及び恵光山本境寺(小浜)を云う。

越前武生/金龍山妙国寺
京都妙顕寺末、詳細は未調査。
 越前妙国寺

越前武生/経王山栄久寺
京都妙覚寺末、大永5年(1525)京都妙覚寺学頭経王院日要上人開基、嘉永5年(1852)の大火で焼失。
 越前栄久寺

越前武生/華岳山経王寺
京都妙顕寺末、永仁2年(1294)日像上人北陸弘通の折、一乗谷に創建、朝倉氏滅亡の後、天正3年(1575)前田利家が現地に移転。
嘉永5年(1852)の大火で焼失。
 越前経王寺

越前武生/頂滝山妙高寺
京都本法寺末、嘉吉3年(1443)京都本法寺日親上人開基、日親上人佐渡巡拝の折当地の桑野氏を折伏、堂宇を建立。
 越前妙高寺

そのほか、越前武生市中には
久成寺(法華宗真門流)、蓮尚寺、本行寺、妙智寺などが知られるも未訪問。

(参考:武生市中にある。
天台宗真盛派別格本山引接寺
長享2年(1488)真成上人開基、寺中9、末寺53を有する。
 越前引接寺伽藍配置図

越前敦賀の諸寺

「敦賀誌」石塚資元著、嘉永3年(1850)頃成立か では以下の見解が述べられる。
 気比大神宮寺の項:
  正四位上左中弁兼備後権守藤原朝臣兼忠
  左大史正六位上牟久宿称忠陳
「この後毎度の回録にて、いつの頃この神宮寺廃絶せしや、その在し処さへしられす、今幸臨寺の後の山の出岬を寺尾と云、これ古の神宮寺の跡也と云伝ふれ共証とすへき物もなし、幸臨寺及び三重塔神宮寺のなこりにや、宮司の支配なりしか共、延宝(1673〜)年間より永賞寺へ付属せり、三百年前御所辻子に神宮寺在しといひ伝ふるるハ、いつの比其処に移せしにや、古記なけれハ知へきよしなし、善妙寺・本妙寺本勝寺妙顕寺・正蔵寺・滝本院等皆神宮寺の子院也、金前寺ハ子院の内 の密言院といひし也、善妙寺ハ御所辻子に在し神宮寺中より、今の処へ移りしハ、三百年前といへともしかと知かたし、永禄元年朝倉義景 気比宮造営の古図をみれハ、其比ハ社内今の拝殿の東南に神宮寺あり、度々の回録により、漸々めて造営せられしと見ゆ、」
 参考:若狭気比神宮寺越前敦賀幸臨寺

具足山妙顕寺(敦賀)
2009/03/18撮影:
当寺は春鶯山気比神宮寺に由来すると云う。
永仁2年(1294)日像上人が当寺に投宿し、別當覚圓と法論を交し、それを論破する。気比神宮寺は改宗し、現寺号に改める。
7世三智院日森上人「最初具足山」の山号を得る。
「指掌録」(寛文年中〜天保11年の記載):
京都妙顕寺末、塔頭8を有する。
 圓明院、観成院、要廣院、正行院、智證院、興林院、示遄院、本妙院
宝永及び天保年中に全山焼失、その都度再興するも、昭和20年空襲にて再度焼失。戦後現在の姿に再建される。
※「敦賀市市制15年史」敦賀市役所、昭和27年:空襲による被害、焼失棟數36、焼失建坪395坪
現在、本堂(仮堂?)・山門(仁王門・新築)・鐘楼(新築)などの堂宇が復興される。戦前の様子は不明ながら寺中は跡形もなし。
 敦賀妙顕寺題目碑(文化13年銘)    敦賀妙顕寺境内     敦賀妙顕寺山門     敦賀妙顕寺本堂
2010/07/05追加:
○「福井県敦賀郡誌」敦賀郡役所/編、大正4年 より
日像上人は永仁元年、鎌倉を発し、佐渡に日蓮上人の霊跡を弔い、能登・加賀・越前を教化、永仁2年敦賀に至れり。
天保の大火の後、今の本堂山門などを再建、再建にあたり今の本堂と庫裏の位置が入替りとなり。塔頭8院はこの時廃絶す。

日照山本勝寺
2009/03/18撮影:
日隆上人、畿内・瀬戸内・北陸と教線を伸ばし、堺顕本寺、南河内加納法華寺、敦賀本勝寺、応永33年色ケ浜(敦賀)本隆寺、兵庫久遠寺、備前新庄本隆寺、備前牛窓本蓮寺、讃岐宇多津本妙寺を改宗・開創する。 当山の開基は日敬上人。
応永33年(1426)改宗。
「指掌録」(寛文年中〜天保11年の記載):
京都本能寺尼崎本興寺末、塔頭11を有する。
 本住院、常在院、玉樹院、本蔵院、堯運院、信成院、喜見院、実成院、寿量院、本光院、法寿院
末寺に妙因寺、東林寺がある。
※「敦賀市市制15年史」敦賀市役所、昭和27年:空襲による被害、焼失棟數9、焼失建坪301坪
 敦賀本勝寺:仮堂とも思われる本堂1宇があるのみで、境内も縮小され、すこぶる衰微している。
2010/07/05追加:
○「福井県敦賀郡誌」敦賀郡役所/編、大正4年 より
前身は大同元年創建の大正寺であり、応永33年円海の代、日隆上人に屈し、改宗改号する。
本堂(明暦3年再建)、祖師堂(長享2年建立)、客殿、庫裏等あり。

瑞應山本妙寺:本門法華宗
2009/03/18撮影:
永和2年(1376)創建か?
「指掌録」(寛文年中〜天保11年の記載):
京都妙蓮寺末、塔頭10を有する。
 本成院、本覚院、乗心院、大乗院、正寿院、本立院、自成院、隆岡院、要玄院、円光院
※「敦賀市市制15年史」敦賀市役所、昭和27年:空襲による被害、焼失棟數17、焼失建坪591坪
※京都妙蓮寺本堂は天明の大火で焼失、寛政元年(1789)年敦賀本妙寺祖師堂を後方本殿として移築(前方拝殿は寛政4年に完工)と云う。
現在は本堂(RC・近年の再興と推定)1宇があるのみで、寺域の囲いもなく、また本堂前の区画も更地であり、かっての雰囲気を偲ぶすべもない。
 敦賀本妙寺題目碑     敦賀本妙寺本堂
2010/07/05追加:
○「福井県敦賀郡誌」敦賀郡役所/編、大正4年 より
開基日敬上人は日像上人・大覚大僧正の弟子、天授2年(1376)本妙寺建立。
近世初頭大門再建、慶安3年本堂再建、塔頭は11院(本覚院、本立院、円光院、本成院、大乗院、隆岡院、要玄院、正寿院、乗心院、自成院、本法院)在りしが、今皆廃す。現今境内2800余坪。

妙泉山圓隆寺:京都本隆寺末 (法華宗真門流)
※「敦賀市市制15年史」敦賀市役所、昭和27年:空襲による被害、焼失棟數8、焼失建坪132坪
2009/03/18撮影:
 敦賀圓隆寺

久成山長遠寺:京都立本寺末

本泉山大乗寺:京都本国寺末

若狭の諸寺


2016/04/06作成:2016/12/25更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系