近  世  日  蓮  宗  関  東  檀  林 ・ 京  都  檀  林

近世日蓮宗関東檀林・京都檀林

中世末期から、日蓮宗に於いて多くの檀林が成立する。
中世末期から近世の移行期に、法華宗近世檀林として、下総飯高と京都松ヶ崎檀林が成立する。
その後、近世初頭には多くの檀林が開檀するが、就中、飯高・松ヶ崎は関東・関西の根本檀林とされる。
また、関東檀林中の下総飯高、上総小西、下総中村檀林は関東三檀林と称し、大檀林と云われた。
 ※身延が世俗での権勢を手に入れ、小西・中村が受派に接収された後、
 受派身延から見れば、 飯高・小西・中村檀林は関東三檀林・大檀林ということなのであろう。
そして、江戸初期には、一致派(受派)では関東八檀林、関西六檀林と称される数となり、勝劣派では関東関西に7檀林を数えるに至る。
 ※関東八檀林:下総飯高、上総小西、下総中村、下総松崎、下総玉造、常陸三昧堂、池上南谷、身延西谷
   下総松崎檀林に替えて、下総野呂檀林とする向きもある。
 ※京都六檀林:京都松ヶ崎、本圀寺求法院、東山、鷹峯、山科、鶏冠井
 ※勝劣派檀林:摂津本興寺勧学院、上総大沼田、下総細草、下総宮谷、京都大亀谷、京都小栗栖、相模三沢(豊顕寺)
○2013/06/26追加:
 関東檀林についての変遷は、受・不受の抗争から、諸本山及び末寺と同じく檀林もその影響を受け、少々複雑な様相を見せる。
◇「重要文化財飯高寺鐘楼・鼓楼保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、飯高寺、1992 より
 文禄4年(1595)豊臣秀吉、大仏千僧供養会。
慶長4年(1599)「大阪城対論」、この受・不受の抗争は関東にも波及する。
当時、関東の諸山(池上本門寺、中山法華経寺、小湊誕生寺や中村・小西両檀林などの各門流)では強義折伏・不受不施義を宗是とし宗門内の大勢を占めていた。
寛永7年(1630)「身池対論」、幕府により政治的に受派(身延山)の勝利と裁定され、両派の争いは表面上はの決着がつけられる。
受派(身延)は宗門寺院の大半を収めるも、内実は形ばかりのものであった。そこで主導権掌握のため、学徒の教育機関・檀林を支配下に入れるため、不受派の拠点であった中村・小西両檀林を接収する。
 檀林を失った不受派はあらたに下総松崎(顕実寺)、下総野呂(長崇山妙興寺)、上総山田(養安寺檀林)、下総常葉(苅毛檀林、実相寺)、玉造などの檀林を開設する。
しかしこれ等の檀林は何れも寛文6年(1665)の弾圧(寛文の惣滅)及び元禄4年(1691)の弾圧(悲田宗禁止)を契機に消滅する。
○2013/06/28追加:
◇「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、1959 より
 寛永7年(1630)「身池対論」の後、寛文年中に至る関東の状況は以下のようであった。
受派身延の勢力は、「身池対論」以前では4本寺1談所(身延久遠寺藻原妙光寺玉沢妙法華寺貞松蓮永寺、飯高檀林)であったが、「身池対論」以降では池上本門寺中山法華経寺真間弘法寺、小西檀林、中村檀林を加え、7本寺、3談所となる。
一方不受派池上は平賀本土寺、碑文谷法華寺、小湊誕生寺の3本寺を中心とし、碑文谷末谷中感応寺、中山末鎌倉妙隆寺上総鷲山寺を拠点とし、さらに松崎、野呂、山田(養安寺)の3談所に於いて教育を行う態勢となる。
 ※藻原は開山以来の身延の与党、玉沢は養珠院の外護、貞松は鶏冠井日東が住持しかつ養珠院の外護で日乾が日持の遺跡を再興、真間は日樹に組していた日感が頓死し、池上同様見延に屈したものであろう。
 しかし、受派見延の実態はと云えば、池上は末寺・僧俗・信徒のほぼ全てが離反し、中山は身延の脅しにも常に去就がはっきりせず、おまけに末寺は離反し、池上・中山以外の本寺は弱小であった。
一方、不受派は末寺・僧侶・信徒の大部を押さえ、多くの新地(新寺)を建て、民家に止宿し、民衆の教化に勤め、新しく松崎・野呂・山田の3檀林を開設し、受派身延を凌駕し圧倒するものがあった。
 この時期身延日暹が江戸に常駐し幕府に繰り返し繰り返し不受派を訴えているのは、この劣勢を身延の力では如何ともし難く、幕威を以って不受派を制圧しようとしたことに他ならぬのである。
 以上の状況は所謂「寛文の惣滅」といわれる不受不施の禁教まで継続する。
寛文5年(1665)幕府は身延の処分の訴状を受け入れ寺社領は悉く国主の供養である手形の提出を命ずる。
手形の提出を拒んだ京都妙満寺日英、京都上行寺日応、上総鷲山寺日乾・同日受・平賀本土寺日述、下総大野法蓮寺日完、上総興津妙覚寺日尭、雑司谷法明寺日了などが流罪となる。
寛文6年(1666)野呂檀林能化日講、玉造檀林能化日浣は幕府を苦諫し、直ちに流罪となる。
このうち、日述・日尭・日了・日講・日浣と佐渡流罪の青山自証寺日庭を後の六聖と称する。
なお、小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感応寺日純、安房小湊鏡忍寺、越後村田妙法寺、相模依智妙純寺などは悲田供養として手形を提出する。
2023/09/24追加
○「多古町史 上巻」333〜 より
日蓮宗檀林
 江戸期には、幕府は寺院をきびしく統制するとともに、他方では、各宗の学問、すなわち宗学を保護し奨励したので、宗派ごとの仏教の学問的研究は大いに発達する。各宗の本山、地方の有力寺院では宗学研究が進められ、学僧の教育機関が設置される。
 しかし宗学は定型化されたため、それに異議を唱えることは禁止され、他宗と論争することも固く禁じられる。日蓮宗の不受不施派だけでなく、真宗や天台宗でも論争を禁止される一派があった。そのために研究は精密になったが、創造的な教学活動は起こらなく停滞する。
 日蓮宗と浄土宗とは中世にすでに談義所・檀林(談林)と呼ばれる教育機関をもっていた。
それはその宗派の宗学を研究する機関でもあった。鎌倉期に起こった諸宗はその時代の現実的要請にこたえて現われたので、いまだ確かな教学的裏付けをもっていなかった。そのために教学の確立が要求されたのであった。
 近世の初期、日蓮宗は関東八檀林、京都六檀林その他を設ける。
浄土宗でも江戸五檀林、田舎十三檀林、合わせて関東十八檀林その他の機関を設置する。
天台宗・真言宗も浄土宗の刺激を受けて関東十檀林を造るようになる。
このほか比叡山・高野山や京都・鎌倉の五山のように、在来の教育機関が各宗派にあった。これらの中には単に仏典のみならず、儒学や国文学その他算学・天文まで学科目に含むところもあったから、江戸期の僧には知識人が少なくなかった。
 日蓮宗の関東三檀林に数えられる南中村の中村檀林は慶長初期に創設された。詳しい説明は地域史編南中に譲るが、ここには江戸期を通じて諸国から優秀な学徒が集まって研学に励んでいる。後に中山法華経寺の第九十九世、百五世貫首となった、多古村出身の玉樹院日栄(1759〜1842)、林村出身の察遠院日正(1786〜1854)もこの檀林に学んでいるように、中山法華経寺の歴代には中村檀林出身者が少なくない。
 日栄は中村檀林233世化主、京都本法寺44世を経て、中山の法灯を継いでいる。
また日正は峯妙興寺48世となり、本堂・山門を修覆、書院・庫裡を再建して、同寺中興の祖を称され、中村檀林265世化主、京都本法寺46世を勤めた後、法華経寺の法灯を継承している。
 多古町域には中村檀林に先んじて永正年中(1504〜20)に創設された松崎檀林(顕実寺)や、おくれて寛永十四年(1637)に創設された玉造檀林(蓮華寺)があり、飯高檀林などとともにこの地方は日蓮宗学の隠れもない一大中心地をなしていた。


関東檀林

2013/06/26:
◇「重要文化財飯高寺鐘楼・鼓楼保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、飯高寺、1992 より
 寛永7年(1630)「身池対論」の後、不受派の檀林である小西・中村の両檀林は身延山に接収され、檀林を失った不受派はあらたに下総松崎(顕実寺)、下総野呂(長崇山妙興寺)、上総山田(養安寺檀林)、下総常葉(苅毛檀林、実相寺)、玉造などの檀林を開設する。
しかしこれ等の檀林は何れも寛文6年(1665)の弾圧(寛文の惣滅)及び元禄4年(1691)の弾圧(悲田宗禁止)を契機に消滅すると云う。
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上総小西檀林(妙高山正法寺):山武郡大網白里町小西

長禄2年(1458)正法寺創建、開基は小西城主原肥前守胤継、開山は平賀本土寺八世(九世)妙光院日意。(妙高院日意)
 (日意は阿弥陀堂を廃し、法華堂とする。)
天正18年(1590)正法寺7世日悟(平賀本土寺15世)が通王院日裕を招じ、小西檀林を開設。
寛永7年(1630)「身池対論」、日領は奥州相良に追放。
 ※守玄院日領(小松原鏡忍寺9世・小湊誕生寺14世・小西談林能化)
  →小湊誕生寺陸奥相馬中村仏立寺
寛永8年受派身延、小西檀林を帰伏(接収)。

2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
守玄院日領:
 日領は小松原鏡忍寺9世・小湊誕生寺14世・小西談林能化である。
主著「日蓮本地義」を著し、日蓮は常行菩薩の垂迹であると説く。
寛永7年寛永の法難で奥州相馬に配流される。
慶安元年(1648)11月3日寂。
2019/10/26追加:
○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
◇中村・小西両談所の帰伏
 身池対論で、奥州岩城へ追放となった遠寿院日充は中村檀林8世能化である。
  → 岩城平窪田の寺地庵室(日充の庵)
中村は池上日樹(6世)中山日賢(7世)を能化に迎え、小西檀林とともに関東不受派の中心檀林であった。
 また同じく奥州相馬に追放になった守玄院日領は、はじめ佐渡に追放となるが、相馬中村城主相馬氏の老臣である池田直尚によって相馬に預け替えとなるが、小松原鏡忍寺12世でもあり、小西檀林5世の能化であり、10世を再任する。
 身延は小湊に続き、中村・小西両談所を支配下に置くべく、画策をなす。小西檀林に対しては、村民を扇動して、不受の学徒を追放する。中村檀林に対しては起請文を出させて、身延支配を強制し、これも不受の所化衆を多胡・玉造へ追放する。

○江戸後期の檀林絵図:
 正法寺境内坪数絵図:寛政3年(1791)
    ※正法寺境内坪数絵図:「飯高・小西・大沼田の檀林の建築構成-日蓮宗寺院伽藍配置の研究(1)」 より
伽藍中央に講堂(東向、13×8間、唐破風向拝付)があり、左奥に玄関・方丈(8×7間)・座敷2棟(4×6間半、9間半×5間)がある。講堂前方右に経蔵・鳥居、正面に本堂(向拝付、8×7間)、拝殿、妙見宮を配する。鐘楼は本堂前方(南)にある。
講堂北に稲荷2棟、鳥居2基、鎮守、拝殿がある。
講堂左に所化寮が並び、中門、惣門(南向)に通ずる。寮は10棟、戸数70。中門と惣門の間、東に風呂屋、西に堅高堂がある。
所化寮西に炭小屋、飯台(3間半×10間)、正行寺客殿及び庫裏がある。東側には塔頭があり、南より教蔵寺、徳性寺、蓮乗寺、幽玄院がある。また徳性寺と蓮乗寺の間に題目堂、教蔵寺と徳性寺の間の東に学寮4棟がある。
明治6年檀林諸堂を火災・焼失する。現本堂は講堂で、寛文4年(1664)建立、但し後世に大改築。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治27年、寺中蓮乗寺移転、寂照山蓮乗寺として岩手県上閉伊郡大槌町末広町7−14に現存。
 明治32年、寺中徳性寺移転、大黒山徳性寺として長崎県雲仙市吾妻町栗林名443に現存。


下総中村檀林(正東山日本寺): 正東檀林:香取郡多古町南中

永仁3年(1295)日常が興した草庵が始まりとも伝える。
嘉暦年中(1324-28)中山三世浄行院日祐、領主千葉胤貞の帰依を得て東福寺を創建する。
東福寺13世(中山10世)賢聖院日俒、日本寺と改号。
慶長4年(1599)恵雲院日円、中村檀林を開く。日円は中村檀林初祖。
 ※日円は飯高妙福寺6世で、飯高檀林第3世化主招請を巡る争いで心性院日遠が就任したため、隣村に檀林を開くと云う。
慶長8年(1603)飯高化主日遠は見延へ晋山、後任に中村化主日円を推挙、日円は飯高の化主に晋むも、
 慶長10年(1605)39歳で遷化する。これは日円が池上日尊の法系であり、不受として暗殺されたと云われる。
     →中村檀林開講・開祖慧雲院日円
寛永7年(1630)「身池対論」、日充は奥州岩城へ追放。
 ※遠寿院日充:慶安3年(1650)6月19日寂。中村檀林8世(除歴)。
  →遠寿院日充
  →中村檀林日充上人墓所岩城平窪田の寺地庵室(日充の庵)、備前法華の系譜>身池対論・寛永法難
  2023/08/16追加:
   遠寿院日充は(能登滝谷妙成寺12世)と記載していたが、誤認の為「能登滝谷妙成寺12世」は削除する。
   能登滝谷の日充は第10世で院号は不明、慶長7年1月15日寂である。
   滝谷10世日充とは下総岩部安興寺第10世旗上日充上人であることが判明する。
   慶長7年1月15日の寂年が旗上日充の墓碑の寂年と一致する。
       →下総岩部安興寺
 同 中山隠居寂静院日賢(飯高・松崎・中村三談林能化)は遠江横須賀へ追放。
  →中山法華経寺遠江横須賀本源寺
 2013/06/28追加:
  中村檀林歴譜は日樹-日賢-日充-日尭-日条と次第するが、
  日樹-日賢-日充-日尭の四師は「法理違乱により除歴」と云う。
  「日樹上人傳」:
   日本講寺歴代譜では開祖日円-2祖日因-3祖日慈-4祖日要-5祖日存-日樹-日賢-日充-日尭-6祖日修(ママ)と記す。
   日樹-日賢-日充-日尭は法理異乱により除歴、日修を以って第六世と為すとの註書がある。
寛永8年(1631)受派身延山、中村檀林を帰伏(接収)。

2019/10/26追加:
○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
◇中村・小西両談所の帰伏
 身池対論で、奥州岩城へ追放となった遠寿院日充は中村檀林8世能化である。中村は池上日樹(6世)中山日賢(7世)を能化に迎え、小西檀林とともに関東不受派の中心檀林であった。
 また同じく奥州相馬に追放になった守玄院日領は、はじめ佐渡に追放となるが、相馬中村城主相馬氏の老臣である池田直尚によって相馬に預け替えとなるが、小松原鏡忍寺12世でもあり、小西檀林5世の能化であり、10世を再任する。
 身延は小湊に続き、中村・小西両談所を支配下に置くべく、画策をなす。小西檀林に対しては、村民を扇動して、不受の学徒を追放する。中村檀林に対しては起請文を出させて、身延支配を強制し、これも不受の所化衆を多古・玉造へ追放する。

明治8年廃檀。
本圀寺派檀林、明治焼失。
 中村檀林境内景観図:画像相当不鮮明:「近世日蓮宗飯高檀林の堂舎構成」 より
2010/10/29追加:
 中村檀林境内景観図2:「日本博覧図 第9編(千葉県初編)」明治27年 より、上記の図と同一図、
下にある「略縁起」は左上の部分を拡大したもの、
最盛期には数十棟の学寮があり、画にはその学寮跡が描かれる。略縁起にある加藤日慶は明治に寺の再興を図ると云う。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
元応元年(1319)中山3世日祐が開創(瑞光寺)し、慶長4年(1599)瑞光寺15世日円、正東山日本寺と改号し、学室を構える。
「北総日本寺境内図」(文化元年・1804)では
 講堂、方丈、妙玄院、玄論場、文論場、玄義談論場、文句談論場、食堂、浴室、作事、鐘楼、皷楼、経蔵、大門、三門、妙見宮、豊田神祠、岡田神祠 から成る。
大門は南に開かれ、左折して三門に至る。この間の右に院師廟所、歴代墓所がある。三門を入り、左に玄義談論場、右に文句談論場がある。三門より講堂までの間に玄論場と食堂を配する。
講堂前左に経蔵、右に鐘楼、皷楼があり、背後には方丈があり廊下で繫がる。方丈左に作事1棟がある。
講堂左に妙見宮、その北に岡田天王、豊田天王が並んである。また講堂東北に妙玄院、文論場があり、かなり離れて北側浴場がある。
檀林の谷は東谷、西谷とあり、東谷に8寮、西谷に29寮、妙見社3社がある。
現在の講堂は明治25年の再建である。

2023/08/21追加:
◆末寺
妙道寺:香取郡多古町喜多(中佐野);廃寺 →大原・東台・中佐野・東佐野・染井
北中宮高野山妙福寺(廃寺) → 下総中村>北中中中の北中宮高野山妙福寺跡
南和田和田山福現寺:現在は中山末 →中村南和田・南借当・南並木
常高祐山東福寺:香取郡多古町南中(中村檀林<日本寺>の西に接する> →下総中村>南中

2023//08/21追加:
○「多古町史」/地域史編/旧中村/南中(みなみなか)/宗教/神社・寺院 より
◆日本寺(中村檀林) 下巻48〜
 「正東山日本寺」と称する。
山門の「正東山」の扁額は、本阿弥光悦の筆といわれ、池上本門寺、中山法華経寺とともに日本三額の一つという。
  (※山号の正東山は中山が正中山と号するのを受けて故のことという。)
 山門を左手に曲がったところに歴代墓所があり、480余基の墓石が整然と並ぶ。
「日本寺境内真景」を見れば、山門を入って表小路の左側に玄論場、食堂があり、裏小路の左側に文論場がある。
表小路を前進すれば右に鐘楼、左に経蔵を見る。その正面が大講堂である。講堂から遙か離れた左手奥に妙見宮と、豊田・岡田二稲荷の社殿がある。
上記の堂宇のほか、東谷においては慧耕田を越えて昇竜庵など8庵、西谷においては珠林庵など29庵があり、その他には浴室と薬師堂、さらには北山妙見も見られる。
 日本寺境内真景(明治26年)

◆由緒・縁起 下巻48〜
 『中村寺院明細帳』では、次のような概要である。
   千葉県管下下総国香取郡中村字八郎
       法華経寺末 [明治三十五年十月十六日朱書之通 誤謬訂正許可 内 四五九九号]
                                   本山(朱書)
                                 日蓮宗    日本寺
                                        本山日本寺(朱書)
 一、本尊   釈迦牟尼仏
 一、由緒   天正15年(1587)日円創立ニテ日蓮一派ノ元学校ニテ伝来セリ 明治8年始メテ住職セリ寺院トナレリ
          七間三尺(朱書)
 一、堂宇間数 間口拾五間  奥行九間
          七(朱書) 二十三年九月廿七日朱書之通改造許可
 一、庫裡   間口四間 奥行六間
 一、境内坪数 五千百坪 民有地第一種
 一、境内仏堂 五宇
    妙見堂
     本尊 妙見大士    由緒 不詳    建物 間口二間 奥行二間
    摩利支天堂
     本尊 摩支尊天    由緒 明治九年創立 東京下谷徳大寺ノ写ヲ当寺境内ニ安置ス    建物 間口三間 奥行三間
    薬師堂
     本尊 薬師如来    由緒 明治九年創立    建物 間口一間 奥行一間
    稲荷堂
     本尊 豊田霊     由緒 不詳    建物 間口一間 奥行一間
    稲荷堂
     本尊 岡田霊     由緒 不詳    建物 間口一間 奥行一間
 一、住職 (明治)二十年十月十八日退   伊奈日要
         [二十年十月十八日任 三十七年十一月二日退]  加藤日慶
         三十七年十二月七日任命 清水竜山
 一、信徒人員  百五拾人
 一、管轄庁距離 拾弐里拾五町
                                           (以下略)
 佐野区有文書によると、宝永2年(1705)二月十九日(『正東山日本講寺歴代譜』によれば元禄14年/1701)に西谷の火災による類焼の被害を受け、さらに天明7年(1787)二月十四日にも火災に遭っており、宝永のときは、時の化主四十世日好が自らの衣物を供してその重責を負担し、翌年復興。天明のときは「講堂再建御講」を組織して数年のうちに旧観に復したという。160世日翁の代のことである。
これ以前の講堂は、不受不施信仰のことから除歴・弾圧されて、堂宇も荒れるがままになっていたが、8世日境が正保元年(1644)に再建したものである。
 以後幾星霜を経た今日、旧檀林当時の建造物で残っているものは、山門と鐘楼、経蔵(宝蔵庫)、妙見祠のみにとどまり、現在の講堂は331世加藤日慶が明治25年に建築したものである。
 旧講堂は前記のように正保元年に造られたが、総欅材を用いた18間四面(324坪)の萱葺きであったという。
 経蔵は、第10世日筵が承応2年(1653)春に建立、その後の補修は度々なされたであろうが、近年修復が為される。
 縁起では、次の文書の通り、中山開山常修院日常が、永仁3乙未年(1295)に隠居この地に草庵を結んだのを創始とする。

 下総国中村郷正東山日本寺学室者、正中山開基日常聖人御隠居ト当山第十世日俒聖人御定遊され候故ニ、常師正影納メ置キ奉候。檀林聖人職之儀、門中真俗存二−置ス之ヲ一信敬益〻深シ。殊ニ一宗講談之根源ニシテ法燈相続之霊地ト以テ為ス。弥々代々能化永代色衣、自門他門不審あるべからず者也
   寛文十二太才壬子年(1672)六月四日
                                正中山(法華経寺)三十八世日秀御判
     中村談林学徒中

日常・日祐・千葉胤貞・芝徳成寺・日胤・高祐山東福寺・日貞 下巻52〜
                                   →中山法華経寺
 日常は、清和源氏の後裔の武士で、富木五郎胤継といい、代々因幡富木郷にいたが、後下総八幡庄若宮邑に館する。
母を亡くしその骨を身延山に収め、宗祖日蓮の手によって薙髪、入道して常忍日常と改める。
弘安4年(1291)には、日蓮が自ら日常の木像を彫って贈ったのに応え、日常もまた日蓮木像を刻んで生涯敬い奉ずる。本像は本堂内陣に安置される。
 また『香取郡誌』には「寺伝に曰ふ。元応元年己未(1319)十二月日祐之を開基し、其師日常を以て開山とす。千田大隅守胤貞山林境内等を寄附す」とあるが、
正中年(1324〜25)ごろ、中山三世日祐が当地方の布教に際して窪(久保)村を通ったとき、「窪殿」とも呼ばれていた千田庄領主千葉胤貞は、日祐の学識にうたれて帰依し、菩提寺であった飯土井真言寺を法華精舎に改めたという。
 ※日祐は千葉大隅守胤貞猶子。浄行院。
あるいはまた、高田妙見社西方の寺山に別当寺を建てて祈願所としたが、これが現在の芝徳成寺のもとであるともいわれている。
 さらに胤貞はその二子を僧侶とし、日胤・日貞と改めさせ、小寺を西谷に建てて日祐を招き、日胤が開山となった。日祐が常に高師(先代・日高)に篤孝であったことから「高祐山東福寺」と称した。
日貞は徳成寺を継ぎ、宗門の興隆に尽くした功により、日蓮真筆の首題一幅を授けられ、今もなお同寺に伝承されているという。
 また、日胤・日貞は太田五郎左衛門尉の子で、日祐を師と仰ぎ、千葉胤貞の猶子(名目だけの子)となるが、中山二世日高の甥であることから、寺を「高祐山東福寺」と名付け、日高・日祐を開山としたともいわれている。
 東福寺歴代は、日常を初代として日高・日祐・日胤・日貞・日英・日乗・日円・日賢・日東・日詮・日俊・日鎮・日恩と続き、末寺十カ所、塔中二坊があったという(『日本講寺歴代譜』)。
 ※日胤:正東山日本寺3世。千葉胤貞猶子。父は大田五郎左衛門尉茂明(中山2世・伊賀公日高の兄)。弟は智観院日貞。
 ※日貞:正東山日本寺4世。千葉胤貞猶子。智観院。中山法宣院開祖。2世日高の甥にして弟子。兄は日胤。

中山法華経寺・中山日俒・日b 下巻53〜
                           →堺妙国寺日b略歴
 ところで、当地へ隠居した日常の後、中山法華経寺は、2祖日高・3祖日祐・日遵・日暹・日薩・日有・日院・日靚・10世日俒と十代続いて来たが、いずれも開基日常、すなわち富木胤継の血脈を継ぐ武門の出であるところから武家の尊崇が厚く、そうしたことから、法華一宗の会席にも中山の貫主は身延久遠寺の貫主の上位に着座するなど、宗門の慣習にそぐわないこともあり、また、天正年中(1573〜91)京都頂妙寺の日bから度々強く隠居を求められたことなどもあり、ここに日俒は自分の隠居と同時に、釈尊・祖尊・日常尊の三像も共に移遷することを条件に、東福寺へ移ることとなる。
 そして、かねてより親交もあり、当時関東のおよそ全域を支配していた北条氏政に寺地を所望し、台所料として十五石の寄付を得、場所を丸山(現在の位置)へ引き移して寺号を「正東山日本寺」と定めた。時に天正15年(1587)のことである。
 氏政とのかかわりを示す古文書の写しが今も保存されており、次のように記されている。
 
 中山(富木氏を指す)去甲子(1564)甲之台一戦ノ砌始成陣所 以来度々在陣 別而馳走之間多年入魂 只今号其元之地隠居之由 当寺中永代守護可為不入 若横合非分令出来者為先此証文可有披露候 速ニ可遂糺明候 仍後状如件
   天正十五年丁亥十一月廿二日                           氏政(判)
     日本寺
 
 かくて日俒は、自余の宝物・尊像とともに弟子日典を連れ、以後相次いで住持することになるが、旧寺の東福寺の塔中覚応坊を房谷というところに移し、「常高祐山東福寺」の山寺号を付けた。これは旧寺の山号に「常」の字を加えて、日常・日高・日祐の三祖を顕彰したものである。
 日俒・日典が当寺へ隠居以後、近所の村人や近郷の人たちは、日常上人の子孫であるということもあって大いに敬い、これに帰依する。そして年々衰えてゆく中山法華経寺に対し、当寺はますます繁栄の一途を辿り、徳川家康から、次のような朱印状を下さる。
    寄進      日本寺
     下総国匝瑳郡 中村郷内
       拾五石事
  右令寄附証  殊寺中可為不  入者也仍如件
                  天正十九年辛卯(1591)十一月日 印
 また、日俒はその置文で
  抑吾山者、日祐聖人御化導之霊場、今丸山引移改而正東山日本寺名。高祖大聖人御相伝之釈尊並御互之生御影奉致安置。且又立正安国論者此宗之肝心、広宣流布之最要也。一宗之血脉者、宗祖大聖人より日常聖人之相承、某日俒迄十一代之正統移此畢ヌ。依之真俗伏而励信力催参詣東之中山ト唱之由也。雖然中山者、高祖大聖人已来之霊場也。敢不弁優劣、倶ニ仰本寺ト可有参詣者也。山谷曠野起塔供養、当知是処即是道場矣。妙法広布真実甚深。
   天正十九年辛卯三月廿日                            日俒(花押)
 と述る。
 当時、折伏主義的な傾向が強かった関東の諸寺・諸檀林に対し、摂受的な法理を持つ日bは、その勢力を伸ばそうとして、日俒に続いて日典も追放しようとここでまた策動し、文禄2年(1593)十二月二十五日、霊宝紛失の件によって日典を公儀に訴えて長州へと追放し、自らは日俒・日典の後に衰微したといわれる中山法華経寺の12世となり、受派勢力拡大の基盤としたのである。
 日典の代になって寺号を「瑞光寺」と改めていたが、先師日俒は既に隠世、嗣法の弟子もなかったので、信仰の中心人物が追放となった同寺は「その後は看坊ばかりなり」という状態になった。看坊とは、留守居をする僧のことである。

中村檀林開講・開祖慧雲院日円 下巻55〜

※慧雲院日円:
 永禄8年(1565)〜慶長10年(1605)、東正山日本寺15世。妙雲山法輪寺4世(飯高壇林飯高寺)。父は椎名五郎左衛門(千葉五郎末胤末裔と云)と伝。恵雲院とも。

 天正年中(1573〜91)京都頂妙寺日bは中山10世日俒に度々強く隠居を求め、ついに日俒を強迫的に隠居させ、さらに文禄2年(1593)霊宝紛失の件によって、11世日典をも追放へと追いやる。
こうした日bと日本寺の軋轢は、後に中村檀林開基から飯高に帰り、同檀林4世となった恵雲院日円(慧雲院日圓)の暗殺、という事件の遠因を内蔵するといえる。
 ところで、寺号も旧称の「正東山日本寺」に復し、日蓮宗僧侶が勉学するための檀林となったのは、この日円のときからという。

 日円は、千葉氏の末裔椎名五郎左衛門の子として、永禄10年(1567)、飯高村(八日市場市)御堂谷に生まれ、七歳のとき同村妙福寺に入り、十歳で得度。「天資甚だ敏悟にして、一を聞き十を知るの材あり」といわれる。
 天正元年(1573)に日統が開いたといわれる飯塚檀林(八日市場市、後に飯高檀林)で、日統の友日生に教えを受け、天正8年(1580)に日生が他派の迫害のため内山に移り、さらに飯高の妙福寺へ転じたときもこれに従った。
 天正10年(1582)日生は請われて京都松ケ崎檀林の化主として再び故郷に帰り、高弟日尊がその後を継いだが、日円も19歳のころから諸部を講授するようになった。
 慶長元年(1596)三十歳。
「困学至誠、悟入力を得、弁華機鋒会上敵無し。ここに師徒各草扉を卜し、講習既に若干の星霜を歴(へ)ると雖も、只是れ私築にして未だ天下に公すること能はず」と。
 この年、日蓮宗門唯一の飯高檀林(妙雲山法輪寺、現在は「飯高寺」)が公許される。(寺伝では、天正13年/1585教蔵院日生の開基にして、18年蓮成院日尊之が開山たり。当時堂宇は飯高城主平山刑部の建てし処という。)
 慶長3年(1598)日尊は飯高から江戸池上本門寺12世の住持に転ずるが、ここで、次代講主の座をめぐって学僧や信徒の間に紛争が生ずる。
すなわち日道(法雲院)を推す派と、このとき首座となっていた日円を推す派との争いである。日円はこのとき「道公もと余より長ぜり、なんぞ長幼の別を忘れ、これを除(お)いて講席に階(すす)むことをせんや」と諭したが、衆徒はこれをきかず、党を結ぶに至る。
 これによって日円は、自分の身を退くしかないとして、ひそかに逃れて西谷の柳下平右衛門宅にその身を寄せ、次いで北場浄妙寺に入る。しかし、その徳を慕って教えを乞う者の訪れが多く、遂に幽谷の勝地丸山の瑞光寺を再び日本寺と改め、ここにおいて開講することになる。
これが学室中村檀林の創始である(「慧雲円上伝」)。
 一方飯高檀林では、日尊の後を日道が継いで講主となるが、在講わずか一年で身延山19世となるに及んで、再びその後任をめぐって紛糾が生ずる。
京都本満寺の日重と、日円のいずれを招請するかの論議であったが、これを聞いた日円は「重公は宗門の先哲であり、宗門での評価も高く、私の及ぶところではない」として固辞し、日重に来檀を請うたが、日重もこれを受けず。結局、日重の法友日遠(心性院)が飯高の講主として着任するが、このとき日遠は28歳。
慶長4年(1599)のことである。
 なお、この年は日奥が不受不施を唱え、家康がこれを大坂城中で糺明し、対馬へ流罪となす。
 次いで慶長8年(1603)日遠もまた身延に転ずることになり、衆徒をして日円をその後任に請わしめる。
日円は再三これを辞すが日遠の要請強く、遂にやむことを得ず飯高檀林第4世の講主となる。
 日円は、飯高第4世となったが中村への帰山の望みが強く、しばしば辞意を表わすも許されることなく、在任三年目の慶長10年(1605)6月4日、六万部の山林において、何者かの手によって殺害される結果となる。時に39歳であった。

 日本寺には、日常の隠居から日円の死に至るまで310年間の様子を記した古文書がある。
これは『檀林年貢帳』の表題があり、元禄元年(1688)に33世日演が記したものである。
次にその一部を示し、参考とする。
 
一、房谷(ぼうざく)東福寺、本ハ高祐山大善寺ト云寺也。此レ当寺ノ末寺ニシテ、亦当寺ノ檀那等ノ墓を此処ニ立ル也。助兵衛屋敷より此丸山へ寺ヲ引テ以後、日本寺ト改ル也。依之東福寺之名を房谷へ遣スなり。助兵衛屋敷とハ、今幸助・与右衛門屋敷通りより北山迄なり。丸山トハ、今ノ講堂立テル所を云也。
一、当寺を中山と両寺一寺と云事。日俒師、日常師之御隠居所と定メ玉フ。中山日秀師色衣之補任ニ有之。
一、当寺を常師之御隠居と定ル事。中山代々妻帯也。而ルヲ日b師歎之、三ケ寺輪番之訴訟を企テ俒師を退院セシメ給フ。其時俒師ノ云、常師ヨリ以来師弟相続テ北山ヲ住持ス、終ニ隠居スルコト無シ。而ルニ汝チ若我ヲ退院セシメント思ハヽ、先ツ常師ヲ隠居ナサシメヨト云。依之、常師正御影[此ハ祖師ノ御作ナリ]、祖師御影[此ハ常師御作ナリ]、並ニ釈尊一体随身ナサレ、当寺ヘ御隠居有之故ニ当寺ヲ常師之御隠居処ト云也。b師之訴訟ハ東照宮大権現之御代ナリ。奉書ヲ頂戴シテ輪番ヲ勤ムル也。
一、日俒師此山ヘ御隠居之時キ日典師御同道。此ハ御弟子ニシテ亦御子息ナリ。日俒師・日典師相続テ当寺ニ住持シ玉フ。
一、日俒師・日典師当寺へ退隠ナサレテ以後、近所之真俗、常師ノ御子孫ナリトテ大ニ帰依ヲナシ、当寺日々ニ繁昌シ、中山年々衰微ス。依之、又日b師公儀ヘ訴テ典師ヲ追放シ玉フ。其後ハ看坊バカリ也。是ハ俒師御逝去ノ以後ナリ。
一、只今ノ大門前ノ円師之墓所ハ即俒師ノ墓也。其  之墓モツク、円師之墓所ハ飯高ニ有之。
一、丸山を又従本立名シテ西谷(サイザク)ト云。日俒師此所ヘ助兵衛屋敷より引キ給フ也。日俒師 死去之後、御子息日典師入寺也。追却ノ後ニ日円師御移有之。
一、法兄日因 法弟日円
  生国下総飯高村ナリ
一、坂ノ中道寺ニ俒師随身ノ釈尊有之
一、俒師家を立給時 壺ヲ堀リ出ス、中ニ銭有リ。俒師ノ云、此地当ニ二繁昌ス一云々。今果シテ尓(しかり)ナリ、故人皆ナ権者ナリト云。
一、飯高盛山妙福寺、本ハ中台ニアリ。中村談林代ニ中山之直末ニナス。
 久保妙福寺、並木城山ヨリ久保ヘ引也。
       法理故本末之義中絶ス。
       元禄四年復根本成末寺手形等有
 (中略)
 和田村福賢(現)寺
 此等ハ当談林之末寺也。
                                           (以下略)
 
 日円の最期については、文献上残されているものは皆無である。
ただ日本寺の口碑と中村信徒たちの口伝によるのみであるが、その多くは飯高の学徒たちによって殺害されたものと伝えている。
 先述したように、日俒の隠居・日典の追放を策した日bは、家康の側室お万の方(養珠院)の外護を得て、飯高を武力によって奪取したとの伝承があり、この確執が殺害事件の一因となったとも考えられる。
 また、日円は、日遠が身延に去るに当たって無理強いに飯高4世にさせられたが、もとよりそれは本意ではなく、中村隠退の意志が固く、再三辞意をもらしているが、万一辞任した場合は、学徒の大半は日円に従って中村へ移り、飯高は衰微してしまう。そこで禁制の不受不施信奉者であることを理由に襲撃したともいわれる。このことは、法論に勝ったためその怨恨から殺害されたという里伝と一致する。
 いずれにせよ、先住の転任に際して、日円が後の講主となることを好まなかった衆徒の中から、その下手人が出たであろうことは想像に難くない。
 日円終焉の地は、現在の飯高小学校校門の南側、県道が十字に交差した所の、字聖人塚の山林中といわれ、この地は後に不受不施信徒が買い取って廟所とし、今も聖地として崇められている。
 日円上人塚:
  聖人塚は上記の通りの位置にある。
  但し、明治7年創立の飯高小学校は2010年3月閉校となり、現在は千葉県立飯高特別支援学校となる。
  ○GoogleMapから日円上人塚の写真を転載する。
    日円上人塚1     日円上人塚2    
      所在:経度緯度・35.74904757677063, 140.5235937587498に所在(匝瑳市飯高1699)
        ↓ 直下に日円上人塚の記事あり。
 前記のように、この事件に関する文献上の記録は皆無である。これは、当時不受不施は天下の禁断であって、一連の事実を明らかにすることは飯高・中村両檀林にとって必ずしも得策でないので、関係者によっていち早くもみ消されたことによるものといわれる。
 それでも中村檀林では、日円殺害当日の血染めの袈裟衣を、毎年の虫干しの日には信者に拝ませたとのことで、明治五年ごろまではたしかに存していたという。このことは、平山亀之助(季則・元村長)が当檀332世日淵(清水竜山)に宛てた、昭和十一年四月十七日付の書簡によって明らかにされる。
  (書簡は省略)

下総飯高日円上人塚:
○「匝瑳探訪 157:金原を歩く 日圓の墓」匝瑳市、依知川雅一 より
 日圓上人は飯高の産で、妙福寺や飯高檀林が開かれた頃に学び、慶長8年(1603)飯高檀林4世の化主に就任する。
しかし、前後して日圓は飯高の後継爭いを避け、中村日本寺に移る。中村では日圓を慕う学徒が多く集まり中村檀林開祖として尊崇される。
 慶長10年(1605)39歳の若さで飯高の地で逝去し、現在の「日圓上人塚」の地に埋葬される。
日圓の死を巡っては、飯高から中村へ帰る途中、安久山で飯高檀林の学徒によって殺害されたとの伝承もある。
 なお、上人塚は中村檀林と中村西谷の信徒によって祀られ護持されてきた。
また、日圓400遠忌の記念として「恵雲院日圓聖人と中村檀林」都守基一、正東山日本寺、平成16年 が出版され、関連資料が紹介されその生涯が明らかとなる。
2023/11/29撮影:
 下総飯高日圓上人塚:樹木が切られ、以前の写真の廟所の雰囲気が壊れている。
 日圓上人廟     日圓上人墓碑・正面
 日圓上人墓碑・正面・側面:正面:開基恵雲院日圓聖人、側面:中村檀琳満山謹営/・・■■四己巳年
 年忌が「■■四己巳年」としか判読できず、己巳の年で関係するであろう歳は寛永6年、元禄2年、寛延2年、
 文化7年、明治2年であろうが、「四己巳年」に該当する紀年がなく、銘にある年紀は確定できない。
 再確認を要する。
 日圓上人墓碑・側面:中村西谷在家中 敬造/六月上旬四日


中村檀林と不受不施派 下巻59〜

 日円が飯高へ講主として移った後、その弟子日因(恕南・唯心院。高齢であったところから「阿爺慈(おやじ)」と)が中村檀林の二祖となる。
後年この日因が、旧宇を坊谷に移して寺号を初めの東福寺に復し、末院とする。そして、その跡に大講堂を造営し正東山日本寺と称したという。
 日因の後は、日慈(正教院)・日要(顕是院)と続き、この代の慶長六年(1601)には西大頭寮観月庵も開き、次の日在(実性院)まで草創期の建設がなされるのである。
 次いで6世の日樹から日賢・日充へと続くが、日充のとき寛永7年(1630)二月に「身池対論」が幕府の命によってなされ、不受不施側からは、池上本門寺へ転住していた日樹、同じく中山法華経寺隠居日賢、中村檀林日充他、受派側からは久遠寺前住の日乾・日遠、上総茂原の日東等が出座する。
 この結果、幕府は不受不施を非なるものと裁定したが、日樹について次のように述べる。
 
   池上日樹違目之事
一、池上日樹今度申立候不受不施之儀者、先年権現様邪義ニ聞キ召シ、日奥を遠島へ流罪被二仰付一候。然処只今其御さバきを違背申、又不受不施之義申出候事、不届に被二思召一候付、日樹ハ信濃国伊奈江被レ成二御預一候。徒党之出家者御追放之事。
一、日奥儀者、伊賀守御詫事申上候に付て、以二御慈悲一御前へも被二召出一候処、今度張本人として、権現様御さバきの旨を又致二違背一、不受不施之儀日樹に申立させ、書物以下相渡、再犯之処、別而曲事事被二思召一候に付、日奥ハ如二最前一袈裟衣を剥取、対馬流罪被二仰付一候事。
   寛永七年四月二日
 
 つまり、法理論ではなく、権現様の先規によって裁決したのである。
   ※結末は「身池対論」の項を参照
      →備前法華の系譜>身池対論
      →長遠院日樹>日樹上人伝  など
 その結果、日条が6世となり、7世の日豊へと続くのであるが、幕府の圧迫が強く、あたかも燈の消えたような状態で、学徒もその止まるものわずかに二〇余名となり、堂宇も荒れるがままになっていたという。
 次いで、日境(通心院)が8世として飯高から移り、この衰運の挽回に努力し、各方面に新機運の醸成を計る。
正保元年(1644)大講堂を再建したことは特筆すべきことである。
 また、日境と共に飯高から従って来た学徒八〇余名を中心に、東谷に真如庵を興して学僧達の指導に当たる。この学舎は世に東谷(東法眷(はっけん))と称されたものである。
この飯高派に対して、衰微の時代に残留していた二〇余名は旧住の日奠・日筵とともに、4世日要が建てた西谷の観月庵に拠って、東西の二法眷と並称されるようになる。
 日筵(隆源院)は37歳で第10世の化主となり、在位二年目の承応2年(1653)経蔵を建立する。
 このようにして檀林は、次第に外観・内容とも隆盛となり、また、京都本法寺15世の学林日長が板頭寮において妙玄の講義を始めた(その学舎を後に妙玄院といい、同師を中村玄講始祖とした)のもこの頃である。
 講祖日円が不受不施信仰に関連して殺害され、身池対論後三代の講主がそれぞれ流罪となった中村檀林が、どのようにその教義を承けていったかは不明である。
しかし、その後も幾人かの流罪者・内信者を出している事実から見ても、始祖の法理は常にその底流に流れていたと見るべきであろう。
 寛文5年(1665)十月十九日幕府は、「不受不施帰伏手形せざるものを罪科に処す」とする。
ついに不受不施は禁制宗門となり、寺々衆徒は改宗を誓って赦されるか、または信仰を守るために地下に潜行して内信となるかのいずれかになる。
このとき、中村檀林9世であるべき日堯(義弁院)は上総興津の妙覚寺にいたが、同年十二月四国丸亀へ流罪となり、歴代から除歴される。
また同じく玄能(主任教授)であった日述(生知院)は平賀本土寺の20世となっていたが、伊予宇和島へ流罪となる。
 このように幕府は次々と処断したのであるが、この年の法難を「寛文の惣滅」といい、これ以後ほとんどの寺院・僧侶は改宗したが、当地方においてはなお根強くその教義を信奉する者が多かったのである。
   ※寛文の法難については
      →備前法華の系譜>寛文の法難
      →長遠院日樹>日樹上人伝  など

不染院日雄の諫暁 下巻62〜

 寛延元年(1748)地下のマグマが爆発する。
即ち、不受不施派僧侶・不染院日雄の諫暁が敢行される、
 檀林学頭・不染院日雄(了楩)が「立正護国論」を示して幕府に諫暁したのである。
もちろん死罪・遠島は覚悟の上であったろう。当時の法中(不受派僧)は諫暁書を差し出すことに意義を感じ、取調べに当たっては激しく抗弁するが、裁許が下ればそれ以上争うことはしない。「有難く」受けるのである。
 日雄は、寛延4年(1751)八丈島へ遠島を申し渡されるが、檀林学頭の身でありながら日奥門流と称して不受不施を主張し、『不染世間法記』『正法伝弘決』を著わしたりして、公けに反抗した罪を問われたものである。
 その流人帖には、 
 一、国家一統不受不施ニ可御仰付、御停止承知不仕、諫暁書差出候ニ付、遠島仰付。
 下総国香取郡中村檀林正東山日本寺学徒
   寛延四未年四月十日  了楩
 とあり、流罪となってわずか二年後の宝暦3年(1763)十二月八日八丈島で没す。
  ※○「不受不施派殉教の歴史」 より
   不染院 了楩 日雄:寛延元年流罪、飯高檀林(?)学頭、もとは受派、
   「立正護国論」1巻を寺社奉行に捧げ入牢、自誓受戒して日奥門流として称する。
   遺著は「不受大綱」「正法伝弘決」、墓碑は末広村字背戸の澤。
      →備前法華の系譜>八丈島中に不染院日雄の記述あり。

このことにより、同檀林90世の日厳(体智院)は、「中村檀林永代不受不施禁断之事」をすべての学僧に対して厳達している。ここに、その内容を読み下し文に改めて載せる。 
 わが正東山日本講寺は、権現公より代々御朱印の地領を賜わり、すなわち受不施山であることは明白である。最も高祖(日蓮)の正宗を守り、開山日円師以来、歴代は連綿として其の学業を継承し、永く法灯をかかげて来た。若し法義に違背する者は、日樹・日賢などのように公けの歴代から除かしめた。いわんや書生の徒においておやである。
 然るに了楩(日雄)は、自ら法敵・祖敵なるを知らず、ひそかに公所に訴え、不受不施邪流を興そうとした。実に法義にもとるのみか、天下一統の法度を犯した天下一統の法度者である。(中略)ここに、かの邪流に迷い天下の制禁を犯すことのないよう、条目を定める。
 と述べ、以降、箇条書きで、
 一、若し法義にもとり、あやしげな者があれば上下の差別なく相互に吟味をし、その大頭か能従へ相談すべし。もし不吟味であれば、その法眷ならびに能従の落度とす。
、大衆の中に、もし不受不施の邪義を企て公訴などに及ぶ者があっても、その法眷・能従は引受けてはならない。化主並びに列座が苦労することになる。
、当山の学徒で、もし檀外に於てかの邪流をひそかに流布し、説法などする者を見聞きしたときは、速かに知らせるべし。
 一、今後学徒の中で、もし邪流の者があったときは、その法眷中で相糺して列座へ申し達し、早速触頭へ届け出よ。公儀で吟味の時はその法眷並びに能従が召連れて出府するべし。
 右の条々慎しんで相守り、若し違犯する者は法華経中一切、三宝諸天、善神別、鬼子母神、三十番神、鎮守妙見大士、七面大明神、高祖日蓮大菩薩、檀林開基日円上人の御罰を蒙り、現在に於ては沙門の冥加が尽きて大重病を受け、未来に於ては永却に地獄に堕ちるものである。仍て起証文如レ件。  寛延三年(1750)庚午七月下旬
 このような化主の厳達がなされたが、これ以後も、119世日理(教示院)のとき(明和2年/1764)玄能の地位にあった日超(本如院)が、当地方における不受不施の中心的寺院であった島の妙光寺(現在の正覚寺)に住持するなど、幕府の弾圧がどのようであれ、不受不施信奉者はその跡を絶つことがなかったようである。

◆中村檀林のその後 下巻63〜

 いずれにせよ中村檀林は、その化主が身延・池上・中山などをはじめ、京都本圀寺のほか、各地の本山寺歴代としての交流が極めて深く、宗門最高の学府として多くの碩学・巨匠を輩出、日蓮宗門の隆興に寄与することまことに大であって、教学史上まれに見る足跡を印したといえよう。
 檀林の開講は春秋の二回で、春は二月一日から五月十日まで、秋は八月一日から十一月十日までの百日間である。そしてこの一期間をいずれも一夏といい、一夏ごとに講主の交替が行われるのを例としていた。すなわち、一年に二名ずつ歴代が誕生するわけで、このため他山に比べて歴代の数が多くなっている。
 教授の最高を文能、または化主・能化とも呼ばれ、次席が玄能、あるいは古板頭ともいわれて、共に上人と称された。いずれも一夏ごとの交代制であった。その下に上座部の、一老より五老までの助講があり、講義と同時に諸寺務も分担していた。
 学級の進級は物読み次第といい、名目・四教儀・集解・観心・直談・文句・止観・御書の各部・八階級に分けられており、これらを全部修学するには一四・五年かかったようである。これら講義とは別に、月に三〜五回の諸行事・法要式が行われ、学僧として厳しく教育された。
 旧檀林当時の建造物については先述したが、明治4年ごろに売却されたという浴室について、前記平山亀之助の手記は興味深い内容をもっているので、次にその概要を記す。
 
 桧木造りで萱葺き、間口八間、奥行四間の建物で、その蒸風呂釜は九尺四面の厚い銅製のものである(五右衛門風呂式に、底から火を焚いて沸かしたものである)。湯気が立ちこもる頃学僧達が集まり、一月に四回ほど入浴したという。
 第一室で着衣を脱ぎ、第二室の流し場で体を洗い、第三室の蒸し室に入るのである。この室は、桧木の四寸角ぐらいの角材をサイの目に組みたてて壁とし、そのすき間から湯気が出るようになっている。ただ湯釜の上には一坪ほどの部分を桧板で張り、直接の熱さを防いだ。そして、その格子造りの縁の上に琉球莚などを敷き、その上に横に寝たりして体を動かし、湯気に浸ったのである。それでも長くは居られず、度々流し場に出て湯あみし、幾度となく入ったということである。
 
 浴室にしてもこのように32坪の萱葺き造りであり、80棟三36坊の学僧寮、大講堂を含む宏壮な建造物、最盛期には500人を下らなかったといわれる学僧に対する経費はどうなっていたのであろうか。
もちろん学僧からの授業料が大きな割合を占めたであろうが、その基本的なものは天正以来の御朱印地15石である。
 これは北条氏時代からの既得権と寺格によって徳川幕府が寄付したもので、田地の管理権を任されて、耕作者に対する支配権を持つ旗本知行所と同格であった。
この田地からの収入については幕府へ年貢を納めることを要せず、いわゆる「除地(ぢょち)」としての取扱いを受けたのである。
 また、寺社領内の山林に杉を栽培したのも、有事の際に役立てようとする配慮からで、檀施を仰がず自給自弁をねらいとしたものであり、単に風致林としての意味だけではない。そのため、学僧達が記念または謝恩の意をこめて、数本ずつ植えて行ったということである。
 村民達との間は、年貢などのことから、所有権者と耕作者という関係ばかりではなく、学僧と村民との間には当然ながら、心温まる交流も生じたことであろう。
その一端を、寛政7年(1795)の智海執事等による日記『聚塵録・百拾三之巻』は次のように記している。
 
  四月十一日 曇天
一、空風呂示談。此度東谷又兵衛浄瑠理会仕候由ニテ満山番附廻り、依之中下不レ参リ様ニモ申渡候得共、左(さ)モ難レ成、両中頭ヘ申達シ、中下万一見物ニ参リ候共、決而諠誮(喧嘩(けんか))口論無レ之様相慎候旨申渡決ス。且亦東谷中之事故(ゆえ) 列内ハ見物ニ不レ参ル旨決レ申  (以下略)
 
 また、寺内で行われる諸行事には、近郷近在の老若男女が参集したであろうし、檀林とはいえ、一般庶民から離れての生活はあり得ないことであった。
 こうして住民とのなじみも深く、時の権力に迎合することもない気概を示し、開創以来400年の星霜を経て、連綿327代にわたってその法燈を掲げて来た中村檀林も、明治の改革によって廃檀となる。
が、その教義・精神は、後の立正大学へと受け継がれて行くこととなる。
 明治5年の廃檀後最初の住職となったのは、かつて312代でもあった下谷徳大寺の相川日譲で、重任である。
廃檀の後も一カ寺としての格が確立されるよう努力したが、旧檀林ということからこの件はなかなか進展を見ず。また檀林所有の御朱印地をめぐり、これを村有と主張して杉材を伐採しようとした東谷・西谷区民との間に訴訟問題も起こる。
 この問題は次代の日光・日要と累年にわたったが解決せず、さらに、住職とはいえ名目上のものだけであったりしたことなどから、この間に寺の什器・宝物等の散逸も多く、廃檀に次いで大きな受難の十数年を経過する。
 これを聞いた京都本圀寺の釈禎は、先聖の墓碑に香華の絶えるのを憂え、訴訟問題の決着、一寺確立、その他山積した諸問題の解決を加藤日慶に懇望したのである。それに応え、明治20年に管長特命住職として日慶(龍妙院)が第331世となり、年来の訴訟を和解し、争点となった山林を個人名儀によって官庁より払下げを受け、寺有に帰せしめて、再び村民と紛争の起こらないよう終止符を打った。
 続いて、これまでの講堂が破損著しく、修繕するよりは建て替えた方がよいということから、全面新築に着手し、明治25年にその落成を見た。
ここで「一本山確立」の規模を達成したのである。
 再築の費用として、先輩諸賢たちが植え置き、今は巨木となった境内山林の杉木を売却したのであるが、奸商に欺かれて多く伐採し過ぎたとのことであり、そのため寺域の景観が損なわれたという。
 当時その森林がいかに繁っていたかを物語る小話がある。「東谷・西谷の家で、もし朝の副食が間に合わないときは、檀林の森へ行って大声をあげるとよい。そうすると、朝早く九十九里浜へ子烏の餌を取りに行って帰った親烏が驚いて、口にくわえている鰯を落とすから、それを拾って来て膳に乗せればよい」。それほど多くの烏が住む大森林であったのだろう。
 いずれにせよ日慶はその墓碑にあるとおり、「明治中興之祖」としての功績を残し、次の清水竜山・横井日顕・木村日紀に伝え、前貫首中条是竜師の没後は今井是観師が新貫首となり、歴代はなお続いていくのである。
 この間の大正5年、立正大学へ史料・教材として保管を任せてあった学徒入檀の際の誓状の巻軸三百余の他、古文書の大部分は、三月八日の同大学火災のために焼失。明治初年の荒廃・混乱期における経典類の盗難と共に、貴重な文献・資料を逸失してしまったことは、学界のためにもまことに痛恨の極みである。
 現在日本寺重宝として日蓮宗々務院・宗宝調査委員会へ登録してあるものの一部を記して記録に止めたい。
  (記録は省略する。)

◆日本寺の主要建造物 下巻69〜

 檀林から正東山日本寺として本山寺となった現在のたたずまいは、次のようである。

〔歴代廟所〕
 山門左手奥に歴代先聖の廟所があり、墓碑が整然と並んでいる様子は前述のとおりである。
正面にひときわ目立つ碑が二基あり、その一は日祐のもので、「当山開基日祐上人 応安七甲年(1374)五月十九日 下之総州香取中郷正東山日本講寺 初転法輪一結 五十五人徒衆謹建立之 元禄二年(1689)五月十九日」。
 他の一は日円のもので、「初祖恵雲院日円聖人 慶長十乙巳年(1605)六月上旬四蓂 奉唱題目一万部円師謹中」と刻まれている。
 なお日円墓所は、その終焉の地とされる飯高の聖人塚山林中にある。
  ※日円墓所/飯高の聖人塚は、上術の「中村檀林開講・開祖慧雲院日円」中にあり。
 また、日bによって隠居を強要され、当寺へ中山寺の什宝と共に移った日俒の碑は、山門外の参道にあり、三層の台石上に建つ一メートル余のもので、正面に「当山中興日俒聖人 慶長三年(1598)五月二十九日」とその寂年を刻み、左側には「延宝七年(1679)六月 新説僧中始立之」、右側には「文化八未歳(1811)四月 再営之 新説 一結」の文字が見える。
〔経蔵(宝蔵庫)〕
 10世日筵が建立したもので、「下総国中村正東山日本寺 欲納一大蔵経題目講」と添書した一返首題には「承応第2癸巳(1653)孟春吉祥日」と書かれている。
 本堂内に保存されている棟札に「文庫発起微財寄附志趣者 学業繁栄典籍盈富 日運 励長 智達 快好 現貞 大長 文化4年(1807)十二月良辰落成 大工東(棟)梁渡辺佐七」と書かれた一札があるが、この「文庫」は、別にあったものでもあろうか。
〔鐘楼〕
 本堂内にある棟札によれば、「維時享和第3癸亥(1803)龍集五月吉辰 下総中村正東山日本講寺鐘楼棟札 鐘楼一宇建立之 四老光天 当役観如 板頭快通 三老観嶽 五老海山 大工棟梁飯田儀兵衛 同脇矢城荘左衛門 木挽岡村長兵衛」とあり、187世日明(頂珠院)のときである。
〔本堂(講堂)〕
 総二階の瓦葺きである。右手の方丈とは渡り廊下でつながる。
 内部の中央は吹き抜けで、二階部分は周囲だけが畳の敷かれた部屋になっている。
一階内陣には、仏舎利・宝塔等が安置される。
内陣右側には、弘安4年(1281)の日蓮手彫りになる日常上人木像、同じく日常作の日蓮聖人木像、寛文7年(1667)十一月に造られた法華玄義の著者天台大師の木像、正徳6年(1715)三月十六日造の日円師木像などが整然と安置され、檀林の名残りである「開講」「東」「西」の大額と「曲彔(きょくろく)」(椅子の一種)がある。
 また旧講堂普請の棟札が残されているが、要旨は次のように書かれている。「維時寛政2竜集庚戌(1790)六月 如意珠大吉日 謹拝書之矣大講堂再〓(「興」の旧字)成就之砌営之 四老智山 二老顕是 板頭宣秀 三老隆恵 五老行  」
 なお、明治25年には現本堂が造替される。
〔妙見社〕
 旧檀林当時の建て物の一つである。本殿右側に(側神として)宇賀明神、左側に薬師如来が祀られる。
 法域鎮護の神として祀られたものであろうが、妙見尊は中世の支配者千葉一族の氏神で、各村々に必ずといってよいほど祀られており、当寺域内にも明治初年のころ
 本殿内には、妙見尊を中心にして右に鬼子母神、左に七面大明神の尊像が安置され、棟札の表には「南無妙見大菩薩 正東山日本寺北山 妙見宮常住 南無妙法蓮華経 初転法輪守護 元禄十丁丑歳(1697)十月良日」。
〔稲荷社〕
 妙見社の玉垣に沿って左右に幾つもの鳥居が続き、その奥の南側に豊田稲荷、北側に岡田稲荷が鎮座している。

2023/10/25追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 「大観」には永仁年中(1293〜98)の創建、富木日常隠棲の地、元応年中(1319〜20)中山3世日祐の時、開基千葉大隅守胤貞より山林境内の寄進を受け、更に天正年中(1573〜91)13世中興日俒の時、北条氏政より寺領を寄付され一本寺の規模となる。
はじめは瑞光寺と称するも、慶長4年(1599)飯高檀林化主4世の化主慈雲院日円によって一大学庠が創設され、これを中村檀林と改号し、寺号を正東山日本寺と改称する。
本堂及び庫裡は明治25年建造、本尊殿・稲荷社(鎮守豊田・岡田大善神とある)・宝蔵・経蔵・中門を有する。
 日本寺歴代
次のように記載される。
 開山常修院日常、初祖浄行院日祐(中山3世)、2世日鳳、3世日貞、4世日英、5世日乗、6世日円、7世日詮、8世日俊、・・・13世中興賢聖院日俒(中山10世)、14世日典。
日典の後は日円であるが、日円が檀林初祖となる。
 学室開祖慈雲院日円(慶長10.3.4)、2世唯心院日因(慶長18.1.29)、3世正教院日慈(寛永4.8.5)、4世顕是院日要(元和9.7.5)、5世実性院日在、(除歴)長遠院日樹、寂静院日賢、遠壽院日充、日堯、6世正覚院日條、7世僧那院日豊(寛文9.6.15)(四条妙顯寺16世・池上19世)、・・・・・・
○「日樹聖人傳」原田智詮・花田一重、昭和36年 では
 中村檀林は・・天正の初め要行院日統の創始(ママ、※日統は飯高檀林の開祖である)とし、天正15年(1587)中山13(ママ)世日院(ママ)の時、北条氏政の丸山寄進により精舎を遷し寺号を正東山日本寺と号する。
飯高檀林の天台学者教蔵院日生が松ヶ崎檀林に転ずるや、蓮成院日尊が跡を継ぎ講座を続ける。日尊が池上入山の際、次の飯高檀林講主を議すが、法雲院日道と慈雲院日円とを推すものがあり紛糾が止まず、断然日円は年長者に譲歩したが衆徒これを聞かず、日円は飯高を退き中村に行くや学徒従い来って去らないので、止むを得ず起こす。これが中村檀林の起源である。(以上、「中村檀林における日円上人の学風徳行」木村日紀)
 正東山日本講寺歴代譜によれば、開祖日円-2祖日因-3祖日慈-4祖日要-5祖日存-日樹-日賢-日充-日尭-6祖日修(ママ)と記した後、その次は日樹-日賢-日充-日尭とのみあって、6祖が日修(ママ)上人となっていて、その註書には「日樹-日賢-日充-日尭は法理異乱により除歴、日修を以って第六世と為す」とある。故に日樹上人が第6祖であったことは事実である。(以上、日本寺貫主木村日紀氏親書)
 日円は法要の帰途現飯高中学校附近の池のほとりで受不施学徒に刺殺される。同校四畝半の浄地に堂内墓碑が建つ。中村の宿(※小字)には湯屋があった。(玉造総代秋山華嵒氏談)
 「此内感心記に長遠院(日樹)寂静院(日賢)両生への記録御座候、慶長16年(1611)の比■■見へ申候、此時分日賢松崎在住と見え申候、元和6年(1620)日樹池上へ入院候而其跡へ日賢中村へ参候故、慶長の末より元和元年迄は松崎在住と見申候」(「正中山貫主秘書函古文書」(「波木井南部氏事跡考」宮崎英修 所収))とあり、当時の日樹・日賢の動向が知れる。
○「日蓮宗の本山めぐり」中野裕道(駿河清水妙福寺住職)、昭和46年 より
 富木常忍中村に隠棲、元応元年(1319)中山3祖日祐この地に草庵を結び、日常を開基となしたのが日本寺の由縁である。
当初は高祐山東福寺と称していたが、天正15年(1587)日俒が13世の法灯を継いだ時、北条氏政から丸山の地の寄進を受け、現在地に移転する。
15世慈雲院日円(通高檀林第4世能下)が晋山すると、学徳を慕うものが蝟集し、さながら学室の観を呈する。日円は止むを得ず檀林清規を定め、教育にあたることとする。慶長3年(1598)のことである。
 中村檀林の開祖である日円は、飯高檀林化主であった日遠が身延へ晋山、その後継に推されたが、日円が飯高に移って間もなく39歳で急逝する。このことから、日円は不受不施の反対派から謀殺されたのではないかとの噂が流れる。
なお、檀林の学徒は盛時には500人を算したという。
 また、本書口絵には日本寺に伝わる「交互の御影」(戦前に先住が作成配布した四切写真・四枚一組のアルバムで、これは広く配布されるが現在では稀少となる)が掲載されていることを付記する。
○「Wikipedia」 より
 当檀林から奠師法縁、親師法縁(精師法縁、貞師法縁)、達師法縁、境師法縁、要師法縁、莚師法縁の七法縁が発生した。
2023/10/18撮影:
 下総日本寺首題     日本寺道路脇題目碑
 日本寺山門:切妻造四脚門、屋根トタン葺き(もとは茅葺)、軒はに二軒、桃山期から江戸初期の手法が見られる。
 日本寺山門扁額:扁額は本阿弥光悦の筆という、江戸初頭のものと推定される。
 日本寺伽藍景観     檀林日本寺寺号碑     日本寺本堂(講堂)     日本寺講堂扁額     日本寺玄関庫裡
 日本寺鐘楼1     日本寺鐘楼2     日本寺鐘楼3     日本寺一切経蔵
 日本寺妙見堂1     日本寺妙見堂2     日本寺宇賀神     日本寺薬師堂1     日本寺薬師堂2
 日本寺岡田稲荷:『中村寺院明細帳』でいう稲荷社・岡田霊であろうが、実態は不明。(両者とも鎮守という。)
 日本寺豊田稲荷:同上にある、稲荷社・豊田霊であろう。
 西谷所在の学坊名称     東谷所在の学坊名称
日本寺歴代墓碑:480基余の墓碑が並ぶという。
  2023/12/27追加:○「聖−写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史−」に「歴代墓所」の写真があるので転載する。
   中村檀林歴代墓碑
 この歴代墓所に檀林開祖「日円」の供養塔がある。
 日本寺歴代墓碑1     日本寺歴代墓碑2     日本寺歴代墓碑3     日本寺歴代墓碑4
 日円・日祐・日蓮・日常・日俒碑
 初祖慈雲院日圓聖人碑:供養塔     日圓碑・慶長十乙巳年
 日圓碑・六月上旬四蓂:蓂は暦草の意であるが、四蓂とは不明
 上述のように、「奉唱題目一万部円師謹中」と刻むとあるが、これは未確認の背面にあるのであろうか。
 當山開基日祐上人碑     日常聖人・中興日俒聖人     二祖日因・三祖日慈聖人     四祖顯是院日要聖人


----- 以下 不受派檀林 -----------------------------------------------------------------------

下総玉造檀林(蓮華寺):下総香取郡玉造(現多古町):寛文の惣滅で廃檀となる。

2013/06/26修正:
弘安10年(1287)中老日位、真言宗観音院を日蓮宗に改宗、蓮華寺と改号す。
文明の頃平賀本土寺7世(9世?)日意が中興。・・・・・現在も平賀本土寺末である。
寛永元年(1624)長遠院日遵再興し、檀林を創建。
 ※寛永14年(1637)日遵開設とも云う。
  ※寛永7年(1630)「身池対論」の後、身延山に小西・中村の両檀林を接収され、檀林を失った不受派は
  新に玉造檀林を開設と云うから寛永14年の檀林開設が妥当とも思われる。
    →→ 長遠院日遵上人
寛文6年(1666)幕府(身延)による「寛文の法難」、明静院日浣(玉造談林五世・津山顕性寺歴代)は肥後人吉に流罪となり、廃檀となる。
  →寛文の法難と矢田部六人衆について
  ※津山顕性寺歴代とは上記の「寛文の法難の福田五人衆の遺跡について」が出所であるが、
  現在津山顕性寺の確認が取れず、「顕性寺歴代とは」不明である。

現本堂:安永3年(1774)再建。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
現諸堂宇は以下の通り。
本堂(8間×6間半)、庫裏、諏訪堂(鬼子母神堂)、鐘楼 など
 玉造檀林講堂平面図

2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
玉造檀林開基日遵(長遠院日遵):
諌迷論の筆者で、村民はそれをもじって「カメロ様」と称した。隠し墓が現存し、墓までの坂をカンメイ坂という。
 ※長遠院日遵は小湊誕生寺19世、江戸牛込市谷自證寺2世
2019/08/29追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より
 宗門の学問所である中村檀林でも、受不受の諍論が起り学生が離散し、身延支配下になる。
寛永14年(1637)池上日樹の弟子である小湊誕生寺17世長遠院日遵は井上河内守正利、久世三四郎、酒井山城守等の外護を受け、中村近くの玉造に蓮華寺を再興し、不受派学徒養成の玉造檀林を創設する。
久世氏は本郷丸山町の勝劣派(法華宗陣門流)本妙寺の有力檀越である。
 ※井上 正利:慶長11年(1606) - 延宝3年(1675)
 寛永5年(1628)遠江横須賀藩4万7500石を襲封。
 慶安2年(1649)奏者番に任ぜられ、常陸笠間藩50000石に転ずる。
 明暦4年(1658)寺社奉行に任ぜられ、寛文7年(1667)寺社奉行を辞職する。
長遠院日遵:寛永7年(1630)身池対論・寛永法難にて、不受不施派の誕生寺16世日領が流罪、17世日税は自害、18世日延が流罪となる。日遵はその後を継ぎ19世となる。
日遵は江戸に不受不施派の活動拠点を自性寺に求め、法華宗自證寺(自性寺)の二世として入寺する。
さらに徳川家光の息女・千代姫の外護を受け、小湊誕生寺に70石の寺領を拝領する。
日遵は池上本門寺・長遠院日樹の弟子であるが、身延久遠寺の支配下になった中村檀林を不受不施派に取り戻すことが出来ず、日樹の指示で玉造檀林を再興する。
2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
長遠院日遵:
 小湊誕生寺19世・玉造檀林祖である日遵は日賢に教えを受ける。従って、台学的傾向の非難を免れないものがあった。
主著「諌迷論」10巻は、日蓮宗から天台宗の転宗して盛んに日蓮宗を悪罵した真迢(はじめ日迢)の「破邪記」を打破するために書かれる。
寛永7年3月には「不受決」を著す。巻尾には池上日樹・中山日賢・平賀日弘・小西日領・中村日充・碑文谷日進の加判がある。
日遵は寛永7年の法難(身池対論)のとき、たまたま小湊より京都頂妙寺に転住していたために、罪は蒙らなかったが、当時の不受派中その学識は日賢・日樹に次ぐべきものだったと思われる。
 ※寛永10年日遵は京都頂妙寺より小湊に下向
承応3年(1654)10月3日寂。

○「多古町史」/地域史編/旧常磐(ときわ)村/南玉造(みなみたまつくり)/宗教/神社・寺院 より
◆妙法山蓮華寺/玉造檀林/日遵・日浣  「多古町史 上巻」1031〜
 南玉造字宿1272番地にある。宿集落中央の十字路から北へ長い参道があり、そのつき当りに位置し、同台地の突端である。
  妙法山蓮華寺堂宇
 明治の『寺院台帳』に次の記録がある。
   千葉県管下下総国香取郡常磐村南玉造字宿
                  本土寺末(松戸市平賀)
                      日蓮宗 蓮華寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 建治年中(1275〜77)ノ比 観音院ト号シテ真言宗ノ寺ニテ 弘安10年(1287) 日蓮ノ弟子中老日位ノ教化ニ依テ宗旨及寺号創立改称 其後応仁年中(1467〜8)本寺九代目先師日意、東弘通ノ節、当地ニ及ヲ(ママ)営膳、安永9年(1780)ニ本堂庫裡自火ニテ焼失 天明元年(1781)ニ再興ス
一、本堂間数 間口八間 奥行六間   一、境内坪数 五三七坪
一、境内仏堂 一宇   鬼子母神:本尊:鬼子母神  由緒:享保5庚子年(1720)創立  建物:方一間三尺
一、檀徒人員 百五拾八人(他略)
 創草の歴史を語るものとして版木が保存されてあり、次のように刻まれている。
     宗祖大菩薩御真骨 縁起
 下総国香取郡妙法山蓮華寺に安置し奉る宗祖大菩薩御舎利塔乃来由越(を)委尋るに、当寺むかし建治の比観音院と号して真言宗乃道場なりし越 開山日位上人、宗祖大菩薩滅度乃後御遺骨越懐にして、弘安7年(1284)上総下総乃両国を化度し玉ひ、当寺乃主に対面あり難問数度に及びしかば、寺主たちまち凝惑の思越ひるがへし、渇仰乃涙とどめがたく、速に三密の門越出て、頓に一乗乃法に帰依し、日位上人乃御弟子となり名越日実と賜ふ、遂に上人をもて当寺乃開山として、山に名付て妙法といひ、寺越蓮華寺と呼ぶ。
 文保2年戊午(1318)四月二十三日に、上人遷化し玉ひしより法孫綿々として絶えず、星霜推うつりて四百有余年、開山上人乃携玉ひし宗祖乃御舎利、赫々として法燈乃光をかかげ長く当寺の什物とす、大檀那千葉氏黄金越かざり白玉を鏤め、高八寸広二寸ばかりの宝塔越つくりて帰附ありしかバ、移してこの中に安置し奉る。凡当寺の事につきて纔かに吉凶乃兆ある時ハ、あらかじめ霊夢乃告あらざることなし(以下略)
                                      下総国 玉造村   妙法山蓮華寺
  さらに、『常磐村郷土誌』には、
 日蓮宗中本寺ナリ建治頃観音院ト号シ真言宗ノ道場ナリシト云フ、弘安7年(1284)日蓮ノ弟子日位総州布教ノ節当寺ニ来リ住僧実源ト会見数度、実源遂ニ改宗シテ日位ノ弟子トナリ日実ト改称ス即チ本山開基ナリ 弘安10年(1287)三月寺号ヲ蓮華寺ト称ス
 応仁二年(1468)本山本土寺九代日意東国布教ニ際シ当寺ニ来リ、檀林寺格ニ進ム、十六代日遵檀林(※玉造檀林)ヲ開ク、学徒四集シ檀運頗ル振ヘリ、廿代日浣ノ時宗派ニ就テ紛糾ヲ重ヌルコト数年、遂ニ廃檀シ寺運衰ヘ堂宇ノ頽廃甚シ、天和3年(1683)日清之ヲ再興ス、後安永9年(1780)正月堂宇悉灰燼ニ帰ス、天明元年(1781)日道本堂ヲ再建ス(中略)名刹タレトモ破檀ノ際旧記什宝悉散乱シテ集録スベカラズ(後略)
 
とあるが、右の日浣は禁制不受不施派教宣の罪により、寛文6年(1666)五月、肥後(熊本)人吉に流罪となり、10年の後配流地で没している。
 そして、日浣の墓碑が当寺境内にあり、その五輪塔には「妙法蓮華経 明静院日浣 延宝4丙辰(1676)七月九日」と、没年が刻まれている。
 なお、玉造檀林としての歴代能化は次のとおりである。
  一世 長遠院日遵 開基
  二世 長真院日栄
  三世 東恩院日惣
  四世 揚善院日逗
  五世 明静院日浣 流罪。廃檀
 開基日遵は、身池対論のときは京都にいて、日奥を補けて同志の中心となり、関東と呼応して不受の宗義を宣揚していた。
 のち、信州伊那に流されていた池上本門寺日樹(長遠院)を訪れたとき、「いつまでも京都に居ないで、早く関東へ行って不受派の門弟衆に対する学問をすすめるように」と諭され、中村・松崎の檀林に学んだことによりこの地方の事情にも通じていることから、寛永10年(1633)夏に、弾圧追放された諸跡の回復と不受派学徒育成のため、松崎檀林の能化となって関東に下る。
 そして同10年(1637)三月に玉造蓮華寺に移り、領主酒井山城守のひそかな外護も得て玉造檀林を創設し、その開基となる。
 その後日遵は安房小湊の誕生寺に転じ、若い学僧達の強い支持もあって日栄(長真院)が檀林二世を継いだ。
この代に、中山法華経寺の諸末寺が不受不施を唱えて本寺に背し、さらには、法華経寺自体が不受派へ帰入するなど、法理をめぐって波乱があったが、正保3年(1646)七月、49歳で日栄は死去する。
 その墓碑には「当談第二之祖 長真院日栄大徳位 正保第三丙戌七月上旬九日 施主武州江府住中山太郎左衛門」とある。
 同じく、同寺境内の奥にある題目塔は、日蓮五百遠忌に建てられたもので、「南無妙法蓮華経 日蓮天下泰平国家安穏後五百歳広宣流布 当村中信男女 為五百遠忌大恩報謝営焉 維時安永9庚子(1780)十一月日 二十八世要示院日迅 花押」と刻まれ、傍らには明徳3年(1392)の種子板碑が建てられているが、日蓮宗への改宗後約一〇〇年ほどのものである。
 参道入口に高さ約2mほどの題目塔があり、「南無妙法蓮華経 順性院宝林妙珠大姉 解悦院有了得甫居士 春台院南嶺妙寿大姉 寛政十一己未年(1799)三月中旬 願主富澤茂嘉 営之 妙法山蓮華寺日妙 花押」と記されている。
 なお、現在も保存されている棟札に、「二十七世日道(花押) 維時安永3甲午(1774)三月大吉祥日 棟梁当村石井半蔵吉久同小川恒七」とあるが、同寺は明和8年(1771)に火災のため焼失したが、富澤茂嘉などの尽力によって安永3年に大伽藍が建てられる。そのときの棟札であろうと思われる。
●2023/10/19撮影:
 玉造檀林参道:宿の十字路(角に題目石あり)から北側に広い直線の参道が続き、その突き当りが蓮華寺である。このような直線道路はこの地方では有り得ない作りで、おそらくは檀林時代の盛観であった地割を残すものとも推測される。
ただ、廃檀となったのは近世初期であり、それから随分時間が経ち、明治維新以降に廃檀となった関西諸檀林すら今は見る影もなく衰微しているのと同じように、往時の面影は地割にその雰囲気を残すのみである。
 玉造蓮華寺題目石:上の「町史」に説明あり。「参道入口に高さ約2mほどの題目塔があり、『南無妙法蓮華経 順性院宝林妙珠大姉 解悦院有了得甫居士 春台院南嶺妙寿大姉 寛政十一己未年(1799)三月中旬 願主富澤茂嘉 営之 妙法山蓮華寺日妙 花押』と記す」とある。
 玉造檀林板碑1:本堂手前に5個ほどの板碑残欠がある。
 玉造檀林板碑2:殆ど判読できない。「町史」にも由来の記載はなく、詳細は不明。あるいは「傍ら(※日蓮500遠忌題目石)には明徳三年(1392)の種子板碑が建てられている・・・」とあり、この板碑が移設されたものかも知れない。
 玉造蓮華寺本堂     玉造蓮華寺堂宇     玉蓮華寺玄関庫裡
 蓮華寺諏訪大神1
 蓮華寺諏訪大神2:諏訪大神とあるが、なぜ諏訪明神なのか分からないが、「町史」で解釈すると鬼子母神と思われる。
 日蓮500遠忌題目石:上の「町史」に説明あり。「南無妙法蓮華経 日蓮・・・・為五百遠忌大恩報謝営焉 維時安永九庚子(1780)・・ 二十八世要示院日迅 花押」と刻む。
 先師先哲墓碑
  手前から
  檀林2世長真院日栄墓碑:上に解説あり、下に写真掲載
  宝篋印塔塔:銘文判読できず不明
  39世日順・40世日孝墓碑:正面は「当山第丗九世 承妙院日順上人/当山第四十世 眞龍院日孝上人」とある
 未調査墓碑その1
 ?7世日慶墓碑(?7世日慶か)
 日浣五輪塔(墓碑):下に写真掲載(2点)
 ■■院日清大徳墓碑:下に写真掲載
 日利・■■聖人:正面は「三十世示慈院日利聖人/丗一世?■■■■■聖人」
 日道聖人墓碑:正面は「当山廿■世■■院日道聖人」、「町史」では「天明元年(1781)日道本堂ヲ再建ス」とある。なお、日道は27世。
  2024/01/21追加:
   要中院日道墓塔
    「房総禁制宗門史」では「安永9.11.2寂、玉造蓮華寺20世、西沢」とある。但し諸資料では20世ではなく、27世とある。
    また、西沢とあるので、西沢庵法中であったのかも知れない。
 ■■院日孝?聖人墓碑:正面は「南無妙法蓮華経 ■■院日孝?聖人」
 日妙・日■聖人墓碑:正面は「■九世■■院日妙聖人/■二■■■院日■聖人」
 不明墓碑(全く読めず)
   である。
 2023/12/27追加:
 ○「聖−写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史−」に「歴代墓所」の写真があるので転載する。
  玉造談林歴代墓碑;現状とほぼ変化はないものと思われる。

 檀林2世長真院日栄墓碑
  正面は「当談第二之祖 長真院日栄大徳位 正保第三丙戌七月上旬九日 施主武州江府住中山太郎左衛門」と刻す。
  2024/01/21追加;
  長真院日栄は談林開祖日遵聖人供養塔(◇前07・談所開基祖日遵・部分図)を玉造に建立し、
  その日遵聖人供養塔は現在玉造前野墓地に現存する。

  日浣五輪塔(墓碑):下図拡大図
日浣五輪塔(墓碑)銘

日浣五輪塔地輪部:左図拡大図
地輪部分には「経 明静院 日浣」と刻む。上述「町史」では「日浣の墓碑が当寺境内にあり、その五輪塔には『妙法蓮華経 明静院日浣 延宝四丙辰(1676)七月九日』と、没年が刻まれている。」とある。
 ■■院日清大徳墓碑:正面は「妙法 ■■院日清大徳/元禄三庚午(1690)」、月日は判読できず。
日清は天和3年(1683)日清之(荒廃した蓮華寺の堂宇)ヲ再興ス、とある。


◆法慶山玉泉寺:蓮華寺寺中  上巻1035
 字宿1274番にある。蓮華寺参道の西側で同寺境内の一部かと思われる。
寺伝によれば蓮華寺一世日実の隠居寺で、文保2年(1318)の創立といわれ、昭和27年に中山法華経寺末として独立した。
俗称「ちじょういん」と呼ばれているが、明治の『寺院台帳』には次のように記されている。
    千葉県管下下総国香取郡常磐村南玉造字宿
                    蓮華寺塔中 日蓮宗 玉泉坊
  一、本尊 釈迦牟尼仏
  一、由緒、本院蓮華寺開基先師日位ノ弟子  日実 文保二戊年四月創立
  一、本堂間数 間口四間 奥行三間    一、境内坪数 二八九坪    一、檀徒人貝 五十七人
 ※ 玉造玉泉寺:GoogkeMap より
2023/10/19撮影:
 蓮華寺塔頭玉泉寺     玉泉寺本堂・庫裏     玉泉寺題目石:南無妙法蓮華経日蓮大菩薩
 玉泉寺稲荷大明神     玉泉寺歴代墓碑


下総松崎檀林(法王山顕実寺):香取郡多古町東松崎

2013/06/26追加:
大同3年(808)真言宗として創建されると伝える。
文永年中(1264〜1274)日蓮宗に改宗する。(法宣院日英か)
寛永14年(1637)常寂院日耀が開檀すると伝える。
 平賀本土寺日述(能化)、日瑶、碑文谷法華寺日禅(能化)などが歴代と云う。
 2019/10/26追加:
 ○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
 元和5,6年を中心として以降寂静院日賢、寿量院日遣、長遠院日遵が化主を勤め、
 身池対論の頃は円通院日調が化主として活躍していた時である。
不受不施の義により弾圧、受派に転じ、水戸徳川家の庇護を受ける。
 寛文年中か元禄年中に廃檀されたのであろうと推測するも、情報がなく、不詳。
なお、法王山顯實寺は香取郡多古町東松崎1933に現存する。
また、元は中山法華経寺末。現在は平賀本本土寺末。

末寺:
 顕実寺末:妙解山妙行寺(千葉県香取郡多古町坂) →下総常盤村>川島・方田・坂
 顕実寺末:宝成山妙高寺(千葉県香取郡多古町坂) →  同  上
 顕実寺末:延命山法光寺(千葉県香取郡多古町方田) →  同  上
 顕実寺末:川島山妙蔵寺(千葉県香取郡多古町川島) →  同  上
 蓮常寺(廃寺・川島字谷153番地に所在した):明治末に無住となり顕実寺に合併。  →  同  上
 常用山常顕寺(廃寺) →下総中村>北中
 

2023/10/02追加:
◆法王山顕実寺 「多古町史 上巻」885〜
 字戸城(とじょう)1933番地にある。
古城址の一隅または隣接地とも思える丘陵上に位置し、もとは中山法華経寺の直末であったが、現在は身延山系に属する日蓮宗の寺院である。
 その歴史は古く、大同三年(808)清澄山を開いた不思議法印の開山といわれ、宗旨は真言宗であったが、文永の頃(1264〜74)日蓮上人と当時の住職魏円(のち日魏)との法論の結果、日蓮宗に改宗する。
 十一世日耀のとき、その博学と人格を慕った多くの学僧が集まり、講を開いて松崎檀林となり、のちに徳川家康から制札を付与され、また、水戸徳川家初代頼房からは母堂英勝院の菩提を弔うためとして24石余の寺領寄進を受け、寺運は隆盛の道を辿る。
 しかし、十四世寿量院日遣は禁制の不受不施派であったため佐渡へ流刑となり、檀林は閉されて学徒は去り、寺領も失う。その後身延受派に改宗するも、寺運を回復せず。
 元禄中期に徳川光圀が当寺に参詣したとき、かつての名刹の衰えを歎き、住職日良の願いを容れて、祖母英勝院を弔うため父頼房が寄進した田圃を再び寺領として還付したという。
◎松崎檀林歴代 
 禁制宗門を宣揚したことにより弾圧を受け、能化のうちで歴代から除歴されたものもあり、事実を書き替えねばならない時代を経たものである。
次に、当寺歴代を記する。
         当山歴代
  開山  [真言ノ時円巍呼法印] 大覚樹院日巍上人
  二世                 日進聖人
  三世  [正中山三祖 二世日高上弟子] 日祐聖人
  四世                 日達聖人
  五世                 日住聖人
  六世                 日融聖人
  七世                 日敬聖人
  八世                 日頼聖人
  九世                 日顕聖人
  十世                 日妙聖人
  十一世 [談林之祖 権大僧都]  常寂院日耀聖人
  十二世  化主            日悦聖人
  十三世  化主            日純聖人
  十四世  化主            日芳聖人
                  ※【補注】この間、十二代法理卒背故歴代に列せず。
                   除歴は日賢 日頣 日遣 日遷 日遣(ママ) 日調 日運 日饒 日述 日逗 日瑤 日禅也
  十五世             照幡院日逞聖人
  十六世             統蓮院日義聖人
  十七世                日観聖人
  十八世             修善院日通聖人
  十九世                日宏聖人
  廿 世                 日感聖人
  廿一世             紫雲院日逢聖人
  廿二世             堯運院日良聖人
  廿三世                日受聖人
  廿四世  在住四十一年     願成院日理聖人
  廿五世             摂心院日浩聖人
  廿六世             了遠院日解聖人
  廿七世             本寿院日量聖人
  廿八世 [飯高中座東山文講]  是運院日環聖人
  廿九世 [飯高中座山科化主]  一玄院日籌聖人
  三十世 [飯高四ノ側ニテ入院 二ノ側ニテ退去] 妙道院日護聖人
  三十一世 [飯高中座山科文講] 俊善院日貞聖人(当山講堂再建主勲功多)
  三十二世 [飯高中座山科文能] 教運院日理聖人(当山庫裡再建立)
  三十三世 [飯高中座山科文能] 順妙院日周聖人
  三十四世            妙上院日領聖人
  三十五世 飯高玄講     妙深院日ャ聖人
 
 このように記され、欄外に「十四世日芳十五世日逞、中間講主十二代法理卒背故依A于正中山之下知@ニ不r列A歴代@ニ
日賢 日頣<シン> 日遣 日遷 日遣(ママ) 日調 日運 日饒 日述 日逗 日瑤 日禅
此十二世」と、除歴となった講主の名が書かれる。
  ※@・Aは一点・二点の代用、rはレ点の代用である。
  ※除歴12世である日賢は寂静院、日頣、日遣は寿量院、日遷、日遣(ママ)、日調は圓通院、日運は通玄院か、日饒、日述は生知院、日逗は玉造揚善院か、日瑤は平賀、日禅は碑文谷 であろう
◎伝来する古文書
 以下、同寺に伝わる古文書によってその跡を記す。
   由緒書                                  下総国松崎顕実寺
     寺起年号月日等
一、寺起立之儀者、人皇五十一代平城天皇之御宇大同三年(808)不思議法印草創仕候而法王山玄慈寺と申候、其後文永年中(1264〜74)祖師日蓮当国遊化之節、時之住持大僧都大覚樹阿闍梨円魏法印改宗仕日蓮弟子ニ相成候、日魏と改名仕候、山号者古来之通法王山と申候寺号を改法王山顕実寺と申候
一、改宗已後日魏を開基と而、拙寺十一世権大僧都常寂院日耀代永正年中(1504〜20)檀林ニ相成候、法喜山妙講寺と相改申候、宗門学校相成申候、其後天正年中(1573〜91)古来ニ相復シ法王山顕実寺と申来候
一、拙寺歴代之内日祐儀中山三世ニ而拙寺江隠居仕候故、以来中山之隠居所相定申候、其故諸役免除ニ御座候
一、中山四十七世日潤依旧例諸役免除之本尊御座候
一、其後任旧例三寺同道ニ而正中山直寺隠居所相定者也、依而如件
   元禄二年巳(1689)七月日
                                    拙寺二十一世紫雲院日逢代
  諸堂間数
一、講堂 桁行拾三間、奥行九間  惣而悉ク下リ桧木起立年暦相知不申候
一、弁財天 本社九尺四面     一、拝殿 桁行三間、奥弐間半
  神躰者三躰、此内壱躰者弘法大師之作裏書切附空海ト判御座候、尤赤  之如ク成、原木ニ一円ニ如ク彫込候古雅体ニ御座候、改宗之砌日蓮開眼
一、梶御前様御守本尊壱躰、作者並年号相知不申候     一、同前立壱躰     一、功徳天女壱躰
一、釈迦像壱躰、日蓮開眼     一、日蓮像壱躰、開基日魏之作
一、千仏堂、三間奥行弐間半     一、鐘楼門、中門、惣門、裏門     一、庫裏、起立後一千年余ニ及申候     一、書院、居間
  境内坪数
一、享保十三戊申(一七二八)十二月、小出信濃守様御掛リ境論出入御裁許済口境内絵図面ニ弐万五千五百五拾壱坪半と御座候
一、祖師日蓮之大本尊、久遠成院日親之究     一、日像之本尊     一、開山日魏之像
  (中略)
   御由緒
一、英勝院様尊脾御安座之儀者乍恐御在寿之御名梶御前様と奉称候、太田資宗法号道顕公御伯母日宗上人御妹君、御在寿之間拙寺を厚被為遊御信仰候 
   旧記曰
 大檀越 水戸府君黄門頼房公御母堂
 法諱  英勝院殿清春大姉、六十五歳御逝去、寛永十九年壬午(1642)八月廿三日
     太田資宗法号道顕公伯母日宗之妹君
 右之通ニ御座候
一、乍恐
 東照神君様御入国以後御制札御紙面被成下御文言
    せい札
 右竹木くねかきさらし以下取之狼籍いたす者有ら者からめ取急度可申上者也 依而如件
   子十一月十九日
 
   禁制     法王山顕実寺
一、境内主郷不入竹木等きり取事
一、狼籍之事
一、境内垣やふる事
   子十一月十九日     奉行
 是は高札ニ而門外ニ差出申候、尤従御公儀被仰渡候御本紙者秘之置申候
右者梶御前様御吹挙遊御制札成下候
 
一、拙寺、弐拾四石余田畑御■■■旧記曰英勝院様為御菩提慶長年中、源威光様御代当寺江被為附置候田畑廿四石余等
    未二月
                                         下総松崎顕実寺
  水戸寺社御奉行所
 右者正徳五年未(1715)二月拙寺田畑争論之節、従御館奉蒙御尋候ニ付奉申上候旧記御座候、此節御役人小笠原小野右衛門殿ニ御座候
 
一、元禄年中黄門義公様御代拙寺廿二世日良義御目見仕候節、拙寺由緒之義奉蒙御尋依之、乍恐梶御前様御在寿之間御取扱等、尊牌御安座之様子並田畑御寄附之趣等奉申上候、其節御紋附紫紋白袈裟拝領被仰付候、難有頂戴仕候而永く寺宝仕候
一、義公様御直翰被成下候御文言左之通ニ御座候
 昨日初得清話披雲華之等何■軽■任到来干菓子一筐投之机右聊慰閑寂耳不宜
   孟陬廿一日      光圀
    日良上人
 
 義公様西山御殿被為在候節、度々御目見被仰付候時其後御直翰成下御文言
 為年甫之嘉儀先頃者遠路御入来特一品携来欣喜至候其節他之不接芝眉残念不少候申謝如此頓着
    二月三日                                 西山隠士光圀
  顕実寺日良上人猊座下
 
一、綱条卿様御真翰(水戸徳川家三代当主)勿以善小而不為、勿以悪小而為之
   羽林 印
 
一、元禄八年(1695)下総国御道行被為成候之砌、拙寺江被為遊入御候暫時御逗留被為遊候、英勝院様尊牌御料被為遊其節尊牌御直筆を以御改被成下候、乍恐尊牌御粧形容御表
  顕祖姓太田太人英勝院清春禅定尼神位
                  孝孫源光圀奉祀
  右者御表面隷書彫刻紺青入
  御内彫込之底
  故太夫人源姓太田氏諱梶子之神主
  右者墨書
  御裏楷書彫刻
  太夫人嘗侍、東照公世帰法花故置田圃二十有四石余於下総国香取郡松崎村顕実教寺以為冥資、後因異派諍論衰廃有年、予偶過此感慨居多今也、新彫木主再安殿堂傍云
  右之通ニ御座候
 
一、義公様其節御位牌所ニ御定被成下永々尊牌奉守護候様被仰附候、尤寛永年中以来無怠■八月廿三日御正当忌末寺山内衆徒一同ニ御法事修行奉申上候
一、法花経一部紺紙金泥、黄門光圀公様
一、御紋付高張挑灯 壱
一、御紋付銚子大盃
一、朝鮮本之添品法花経 梶御前様
右者従梶御前様御頂戴仕寺宝ニ仕候
一、義公様御尊牌御安座奉祀候、毎年極月六日末寺登山之上御法事奉申上候
一、前段之趣重■奉蒙御深恩候儀故年々可奉拝賀之処、二十二世日良儀御目見仕候節御日延ニ而遠路之事故ニ年々登城等御宥免被成下候、住寺替リ之節者御目見江被御渡候
一、拙寺御寄附田畑者、梶御前様御在寿之御時より之御納ニ御座候、従往古曰く御舘様長日御祈祷奉申上候
   文化六年巳(1809)三月
                                   法王山顕実寺 印
                                         二十九世日籌
  小石川御舘寺社御奉行所

 また、正徳五年(1715)には、二十四石余の寄進地返還をめぐって、寺院側と名主たちの争いがあり、そのことが次の文書に示されているが、その内容は多くの意味を含んだもので、貴重な資料といえる。 
     取替証文之事
一、下総国香取郡松崎村顕実寺訴上候者、慶長年中従水戸様英勝院様御菩提のため田畑弐拾四石余御寄附被遊置候処、中頃無住之節末寺相談之上右田畑松崎村名主共方江預ケ置、其後元禄年中日逢住職之節右田畑相返し候由、然共年久敷無住ニ而田畑反別聢ト不相知候故、右名主共申 次第ニ受取置候由、拙僧儀拾四年以前未之年ゟ(より)顕実寺住職仕候処、村中ニ田畑渡し残り有之隠置候段及承候間、去る年致吟味候得者、相残り五ケ所隠置候由ニ而田畑相返し申候、仍之名主共隠地仕置誤り候旨之証文差出し候ニ付其分致し請取置候、然処ニ右名主共申候ハ御寄附高弐拾石余之御年貢ハ前々之通り指出し、外ニ此度相渡し候五ケ所分年貢ハ格別ニ候間、向後年貢増し候而可納旨申候得共、右五ケ所共ニ御寄附高弐拾四石六斗四升弐合四勺八才之内ニ而、三年以前吟味之上隠置誤リ候間之証文相渡し其上増年貢差出し候様ニ申候儀何共迷悪至極ニ奉存候、且又従水戸様右高御寄附被遊候砌ハ、松崎村者大久保相模守様御知行所ニ而其後土井大炊頭様御知行所ニ罷成候節新検御改被成、右御寄附高弐拾四石余之分ハ御除被下候也承伝候得共右水帳隠置候哉無之由ニ而見せ不申、是又無覚束奉存候
一、古来より顕実寺談所山と申持山御座候処ニ、是又先年無住之節致押領名主五人ニ而割取、役山と名付支配致来り申候、且又顕実寺弁財天者所之鎮守ニ而古来法末之田地御座候処、延宝年中房州より致引寺新寺能満寺建立仕り弁財天新社相立、右之田地能満寺江我儘ニ寄附仕候、右能満寺新寺茂顕実寺末寺㝡福寺と申寺地ニ而御座候を能満寺取立申候、右㝡福寺寺地之内ニ三畝六歩之処先年住寺年貢地を境内ニ囲御年貢諸役相勤候処ニ、此住寺幸山と申者代追都罷成候右三畝六歩之年貢地其外寺持来り候畑並ニはりま山ト申山御座候を、無住之内畑者御地頭江御差上ケ山ハ名主共江御とらせ被成候得者、此山茂(も)村之者共能満寺江寄附いたし候、依之去春御地頭牧野伝兵衛様江御訴申候得者年貢畑ハ顕実寺江御返し被成候、山之儀ハ名主共江申断候得共何角ト申相返し不申候、且又天神社並ニたての権見と申古来より除地ニ而顕実寺末寺真浄寺致別当罷有之候処ニ、右社地茂押領致村中土取場ニ致し残分者能満寺より法末為致申候、如斯無住之節より段々我儘成儀いたしめいわく仕候、名主組頭被召出御吟味之上田畑山林ともに向後明白ニ被成候様ニ奉願候旨申之。
 名主五人答候者、慶長年中従水戸様顕実寺江田畑弐拾四石余御寄附被遊候由之処、中頃顕実寺無住之節当村名主共方江預ケ申候其後元禄年中日逢入院之節右田畑不残相返し申候、然処ニ顕実寺当住寺御寄附之内田畑五ケ所隠置候旨申之候得共、先年顕実寺境内ニ並居申候百姓屋敷三軒境内江入添候而、其為代地田畑四ケ所顕実寺より被差出候処、今更名主共之内隠置候田畑之由度々被申候故無是非三年以前ニ相渡し申候得共、是ニ而茂御寄附高ニ不足之由被申候付、椿下玄慈寺ト有之を下田壱反弐畝十四歩之処壱ケ所都合五ケ所相渡申候、惣而慶長年中之水帳に茂御寄附之訳ケハ相不知候得共、談所分と有之を不残相済申候、然上者右五ケ所之分者御寄附高弐拾四石余之外物ニ候間、増年貢被指出候様ニ申候得共何角と申承引不仕候、左様無御座候而者右五ケ所分田畑四反八畝十四歩之年貢可出方無之迷悪ニ奉存候、且又慶長年中御検地之後土井大炊様新検御改被成候■顕実寺被申候得共曽而以新検入候儀覚不申候、尤も水帳之類慶長之水帳より外無之、御地頭方江収納之儀茂此水帳を以致来り申候
一、顕実寺ニ談所山と申持来り候を名主共致押領之様ニ被申候得共、無跡かたも偽ニ而御座候、右山ハ西庭山と申候而往古より名主共持来り候ニ紛無御座候、且又弁財天之儀ハ先年鎮守ニ仕候節大小之百姓とも米壱升弐升づゝ差出し祭礼相勤来り申候、其後百姓とも困窮いたし迷悪之由申ニ付御地頭方江御窺申少々宮地不足を祭礼田取定権現之神事共ニ勤来リ申候、顕実寺離旦之後用水池ニ井堰之弁財天と申候而祭申候を、能満寺願請鎮守ニ仕数年祭礼仕来り申候、仍之為法示之右用水池之上ニ少し之百姓山有之此所江弁天引移し申候、然上者右祭礼田顕実寺少茂構無御座候、其上右能満寺者新寺之由被申上候得共、延宝年中大久保加賀守様御知行所之節御願申房州加茂村能満寺と申一寺引移し申候、全以新寺ニ而無御座候、且又顕実寺末寺幸山と申住寺追都ニ罷成候、後年貢地畑者御地頭江被取上ケ、はりま山ハ組頭共江被下配分仕候也、顕実寺被申之候得共右年貢地畑者牧野伝兵衛様知行所ニ御座候故、地頭江御取上ケ山之儀ハ前々より百姓ニ御座候故、右之段御地頭方江申断候而能満寺江寄附仕申候、然者右之山顕実寺より相構可申儀少も無御座候、天神社たての権現之儀顕実寺何角と被申候得共、天神社者顕実寺支配ニ候故百姓少も指図不申候、たての権現者往古より村中守護神ニ而古来より別当無御座候処、近年ニ至り能満寺を別当頼支配為致申候、然を百姓とも土取場ニ仕候抔被申上候儀以外成偽ニ御座候、如斯品々之儀、当顕実寺住職ニ罷成何角と六ケ敷儀共被申懸何とも村中百姓難儀仕候、以来難提成義不申様ニ奉願候旨申之争論ニおよび候ニ付、双方致召出御吟味之上先年従水戸様顕実寺江田畑廿四石余御寄附被遊候儀無坊ニ付、元禄年中日逢住職之節名主共田畑相返し右渡候、残り不足之分五ケ所三年以前是又相返候、其上名主共より其節差出候証文ニ御寄附高弐拾四石六斗四升弐合四勺八才田畑合廿四ケ所相渡候、都合いたし候上ハ前以来少も違乱申間敷旨連判ニ而差出し今更五ケ所分増年貢顕実寺ゟ差出し候様ニ申候儀難相定相聞候ニ付、御吟味之上心得違ニ而右之通り申候段奉誤リ候旨名主共不残口上書差上之候、且又山之儀ハ顕実寺持山之由難申之証拠一切無之、名主共儀役山ニ而支配致し来り由申之候得共、是又不証拠之上者何連の山とも難聞思召御吟味之上ハ右之山いか様ニも被御付候共少も申分無御座候旨双方口書差上之候、且又顕実寺より数ケ条願之儀申上之候ニ付逸々御吟味被成候処、何連茂申伝斗ニ而証拠之儀曽而無御座候得共、御吟味之上ハ得心仕前以来ニ御訴訟之儀少も無之旨顕実寺口上書差上之候、仍之被仰渡候者御寄附高廿四石六斗四升弐合四勺八才、年貢顕実寺より前々之通相納、其外増年貢等差出し申間敷候、寄附地之内旧年私欲仕候為御過怠名主共義者手錠被仰付候、且又山之儀ハ双方無証拠之上者松崎村中之持山と相聞候、然上ハ自今以後顕実寺並村中ニ而支配仕之以論仕間敷候旨急度被仰渡候奉畏候、若達而出入ケ間敷儀申出候ハヾ何分之曲事ニ茂可被仰付候、為後証依之連判証文差上ケ申処如件
                                 下総国香取郡松崎村
                                          顕実寺
                                  同国 同郡 同村 源兵衛
                                           権左衛門
                                           権右衛門
  正徳六年申(1716)四月廿一日                         六郎左衛門
                                            勘兵衛
 御評定所
 
 こうした変遷の後、寺運は再び盛んになるかと思われるも、ひとたび離檀した村内の檀家がもとの菩提寺へ復することはなかったようで、明治期にはその様相が大きく変り、同十二年の『寺院明細帳』には次のように記される。
   千葉県管下下総国香取郡東松崎村字戸上
                                 日蓮宗 中山法華経寺末顕実寺
一、本尊十界曼荼羅     一、由緒 (同前記・省略)
一、本堂 縦七間横六間三尺     一、庫裡 縦六間横八間三尺     一、鐘楼堂 縦弐間横弐間     一、境内坪数 一千百二十坪
一、境内仏堂 壱宇 天女堂  本尊 弁財天女
 由緒 抑モ本尊ト称シ安置スル天女ノ木像ハ、旧古真言宗ノ在時該祖空海上人ノ自作ナルモノニシテ、今ニ当寺ノ宝物ト称シ貴重セル所ノ木像ナリ、故ニ尚村民斉ク尊信スルヲ以テ該堂廃頽ニ及フ事ナシ、始終営繕ヲ加エ祭事今ニ至ル迄怠慢ナク罷在候
一、境外所有地   耕地反別五町七反六畝壱歩 東松崎村の内   山林〃 六反一畝十二歩 東松崎村の内   宅地〃
一、住職 中戸川順要     一、檀徒人員 百七十四人
 右之通取調候処相違無之候也 以上
   明治十二年十一月廿四日
 そして現在は、四十一世日直竜健師が四一軒の檀家とともに本尊の十界大曼荼羅を護持している。

◆寺内の石塔・石造物
 ◎参道左側にあったといわれる鐘楼は「宝永四丁亥暦(一七〇七)廿四世日理代」とかすかに読み取れる棟札を残すだけである。
なお、吊されていた梵鐘は太平洋戦争中に献納されたが、それには、次のように刻まれていたという。「正保第二乙酉暦(1645)仲冬十六日 信心新鐘之施主武州江戸之住人俗号星田久右衛門尉 法号理化院日是敬白 鐘工同処鈴木伝兵衛藤原次重 当談所第七之貫職通玄院日運謹書」
 内陣には、多宝塔を中にして右に多宝如来、左に釈迦如来、前立ちに祖師像が安置され、右袖には鬼子母神と水戸家位牌、左袖には三十番神と大黒様となっている。
 護摩壇に並ぶ鉦は二個あって、「明治二十七年十月吉辰日、下総国香取郡常磐村顕実寺三十七代順要購入」「大極上本唐用鉦 壱尺壱寸金星 嘉永五年壬子(1852)六月吉辰 下総国松崎法王山顕実寺什具三十五世日ャ代」とそれぞれ刻まれる。
 ◎境内には幾つかの石造物があるが、主なものは次のとおりである。
下総板碑二基:
 高さ1mほどのものには左右に「延文六年辛丑(1361)正廿七日 右志者為西法一百ケ日世」とあり、1.2m余のものには「永享十年(1438)三月廿七日」の文字が見られる。
日ャ上人の碑:
 <省略>
平山刑部の墓碑:
 歴代住職の墓碑と並んでいる。もと、川島字谷153番地にあった蓮常寺が、明治の末に無住となったため顕実寺に合併されたが、そのときに、蓮常寺十二世日恵の造立になるこの墓碑も、現在地に移されたものである。
題目塔:
 入口石段を登った右手にあり、「南無妙法蓮華経日浩 本朝宗門学室権輿旧跡 中山隠居所法王山顕実寺慈本院東行日我徳位 万治二己亥(1659)八月十二日卒」と刻す。
法論の松:
 鐘楼の建っていた付近に、地上1mほどのところから大きく曲った松の大木があった。文永の頃日蓮上人がこの寺を訪れ、当時の住職日魏と法論数日の後、ついに日蓮宗に改宗させたが、そのとき腰を下していた松をのちに、「法論の松」と名付けたという。
鐘ケ渕:
 <省略>
2023/10/19撮影:
松崎檀林顯實寺
 顕実寺境内
 顕実寺新本堂1:本堂前の更地が旧本堂のあった場所であろう。     顕実寺新本堂2
 顕実寺庫裡1     顕実寺庫裡2     顕実寺本堂前題目石:銘は上に掲載     顕実寺日蓮上人立像
 日蓮大菩薩宝篋印塔:正面「南無享保蓮華経 日蓮大菩薩」、他面未調査で詳細不明。
 顕実寺板碑残欠:2基あるとのことであるが良く分からない。
 顕実寺歴代墓碑:向かって右から、日巍550年遠忌、了遠院日解、中興両祖願成院日理・摂心院日浩、本寿院日量・・・墓碑
 顕実寺歴代墓碑その2:向かって左は正東山・方王山中興龍妙院日慶(明治43年寂)墓碑
 開基日巍550年遠忌碑
◇旧本堂
 本堂は近年、旧本堂が建っていた場所から背後(北側)に位置をずらし、新たに造立されたようである。
その新本堂は身延山系風あるいは関東新義真言宗風の「こけおどし」の醜悪な外観を呈する。
この意味でこの松崎の風土や嘗ての松崎談所の伝統をぶち壊す醜悪な本堂で返す返すも残念なことである。
不受不施の壇林から、受派の寺院に転落し、さらに新本堂の造立で、嘗ての壇林の雰囲気さえも捨て去ったとは言いすぎであろうか。
もっとも、外観は木造建築であるようなので、その点は救われたのではないかと思う。
次に、若干ではあるが、旧本堂の写真があるので、次に掲載する。
かなり風格のある堂宇であるように思われ、取壊されたのは残念と思われる。
 顕実寺旧本堂1:「日蓮宗大図鑑」昭和62年      顕実寺旧本堂2:「多古町史」昭和60年
 顕実寺旧本堂3:CoogleMap、2017/05、背後に新本堂が一部写る。
 顕実寺旧本堂4:某Webサイト、2014/02、背後は建築中の新本堂
 顕実寺旧本堂5:某Webサイト、撮影日不明であるが、既に旧本堂周囲は伐採され、整地されているため、新本堂着工直前と思われる。


下総野呂檀林(妙興寺):千葉市若葉区野呂町

2013/06/26修正:
鎌倉後期、在地の石井左近が現在地の南方約800mに日合上人(日朗門下)を開山として建立したと云う。
 (建治元年・1275か)
 ※旧地の八反目台貝塚付近には歴代の墓所が残ると云う。
永禄12年(1569)里見氏兵乱のため焼失、天正3年(1575)地頭斎藤善七郎胤次が現在地附近に再興する。
慶長5年(1600)池上中妙院日観、ここに檀林を開設。(寛永7-8年/1630-31の設置とも云う)
 2024/02/05追加;
 ○「八日市場市史 下巻」昭和62年 より
  慶長元年蓮成院日尊の開講とも言われるが、寛永年中中妙院日観の開講とする説が有力である。
  ※蓮成院日尊は飯高檀林初祖で池上13世。
 2013/06/27「禁制不受不施派の研究」より
  寛永7年(1630)身池対論の結果、京都妙覚寺は日乾に、池上本門寺は日遠に引き渡されることになるが、
  この申渡しは慶安5年(1652)であったが、池上大坊の中妙院日觀は同年池上を去り、野呂妙興寺に逃れ、
  ここの談所を開き子弟を教育せんとする。承応明暦(1652-)から寛文5、6年まで不受派の拠点となった
  野呂談所がこれである。
平賀本土寺日述(能化)、小湊誕生寺日明(能化)、碑文谷法華寺日禅(能化)などが歴代と云う。
寛文元年(1661)日講が法華玄義、法華文句を講ずる。
寛文6年(1666)幕府(身延)による「寛文の弾圧」、安國院日講(野呂妙興寺能化)は日向佐土原大小路へ流罪。
 廃檀となる。
  →日講上人
天保5年(1834)山火で類焼。
文久2年(1862)現在地に再興。現本堂:天明元年(1781)再建。
なお、現存する子安堂は檀林時代の御経堂を改造、山門もまた檀林時代の鐘楼堂を移して改造した建物と云う。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
現諸堂宇は以下の通り。
本堂(12間×8間、幕末に再建)、経蔵、鐘楼、惣門、庫裏、下小屋、納屋
 野呂檀林講堂平面図

2023/12/21追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長崇山と号す。通師法縁。
建治元年(1275)創立、開山大受阿闍梨日合、開基檀越曽谷道崇。
永禄12年(1569)里見氏兵乱で伽藍全焼の為、加納ヶ丘より現在地に移転。天保5年山火の為全焼。
慶長年中野呂壇林開設、天保5年諸堂焼失の為、閉壇。
 ・・・
 16世 中妙院日観:慶安3・12・13、池上大坊復暦
 17世     日誠:谷中感應寺11世、碑文谷法華寺12世
 18世 生知院日述:天和元・9・1(1681):平賀本土寺21世
 ・・・
 21世 安国院日講
 22世 守玄院日禅:碑文谷法華寺14世
 ・・・
2023/12/21追加:
○「日蓮宗の本山めぐり」中野裕道、昭和46年 より
建治元年(1275)曽谷道崇、本化の道場を建立する。道崇の父・曽谷教信(法蓮)は富木入道と並ぶ最有力の直檀であり、教信は大野法蓮寺の開基である。
永禄12年(1569)里見氏兵乱で伽藍全焼、天正元年(1573)野呂の地頭・齋藤胤次が土地を寄進し、堂宇を再建。
慶長元年(1596)野呂壇林を開設、隆盛であったが21世の住職が不受不施の強硬論を唱え、幕府の忌憚に遭い、日向の配流となるなどの法難があり、寺運が漸く衰微する。
 ※今の時代に、21世と云うだけで、日講の法号を記さないのは身延山系の偏見であろうか面白い。
天保5年(1834)山火の類焼を受け、諸堂焼失し、閉壇。
2023/12/21追加:
○「長崇山妙興寺のHP」 より
 <隆盛を誇った檀林(談所)>
 檀林の設立には諸説あるが、慶長年間初頭頃または寛永7年(1630)に不受論(身池対論)後、中妙院日観上人を池上より迎え「野呂檀林」(談所)を開設した。当時としては、まれに見る大講堂を有し、学侶の養成を行ったとされる。
 寛文元年(1661)碩学・安国院日講上人が『法華玄義』『法華文句』を講ずると全国から学僧が集まり隆盛をきわめた。
 しかし、寛文6年(1666)幕府は上人の唱える不受不施理論を非とし、同上人を日向に流罪に処し(寛文惣滅)、しばらく寺運は衰微した。
 その後、また檀林も勢力を盛り返したとされるが、天保5年(1834)の火災で堂宇を失い、閉講を止むなきに至ったとされている。
 檀林の終始時期については不受不施の弾圧及び、火災で資料を焼失して定かではない。
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天和2(1682)年、松平安芸守(広島)により一切経蔵が寄進建立されている。
檀林時代に松平安芸守の建立寄進になる一切経蔵を改築した子安堂が現存していたが、平成23年3月11日、東日本大震災の被害で倒壊寸前となり再建された。
 ※松平安芸守とは広島藩浅野光晟正室自昌院を指す。
2023/12/21追加:
○Wikipedia より
妙興寺末寺
法鏡山長善寺(千葉市若葉区坂月町)
不動山慈眼寺(千葉市若葉区野呂町)
蓮城山栄久寺(千葉市若葉区川井町)
昌谷山長光寺(山武市埴谷)
長光寺末:七面山実相院(八街市八街に)
長光寺末:北中山学成院(嬉野市塩田町大字五町田甲)
福増山本念寺(市原市福増)
妙蓮山本成寺(大網白里市養安寺)
2023/12/21追加:
○ページ「都川・鹿島川上流 内陸貝塚をあるく (2) (仮)」 より
 妙興寺;
妙興寺は建治元年(1275)創建であるが、本堂が現在地に移ってきたのは、文久3年(1862)である。
 上人塚:※八反目台貝塚と思われるが、確証がつかめない。
妙興寺の開祖、日合上人(?-1293)の御墓所。歴代の妙興寺の住職の墓石も並ぶ。
日合上人は、天津小湊の領主工藤吉隆の弟で、日蓮の高弟日朗の門下という。妙興寺が最初に創建されたのはこの上人塚の東と伝承され、東には「別房」という小字名も残っている。一方、園生貝塚研究会は、この付近について、考古学的見地から、中世の館址または寺院址の可能性を指摘しており、伝承と符合する。
 八反目台貝塚:
上人塚を中心とするその周辺は、八反目台貝塚でもある。鹿島川支流の二つの谷にはさまれた標高43〜54mの台地上に立地し、東西約120m,南北約60mを範囲とする点在貝塚である(縄文後期・晩期)。
 八反目台貝塚想定地
 慈眼寺:
八反目台貝塚の縄文人たちが通った可能性のあるルートを想定して、泉自然公園へ向かう。途中、慈眼寺(清水不動)の前を通るが、妙興寺の末寺である。


上総山田檀林(養安寺檀林・碑文谷檀林、蔵王寺)

○2013/06/26追加:
 山田檀林は上総山辺郡養安寺村山田に所在と推測するも、現在当地には日蓮宗本成寺、円融寺が残るが、一切が不詳。
檀林の寺号は蔵王寺と称すると云うも、蔵王寺とは不明である。
なお現在現地には御嶽神社と称する社があるが、明治維新までは蔵王権現を祀った蔵王堂であったと云う。
このことから、推測であるが、この蔵王堂が蔵王寺なのであろうか。あるいは蔵王堂別当が養安寺であったのであろうか。
元禄11年(1698)廃檀となる。
○2013/06/27追加:ある程度詳細が判明する。
「養安寺檀林について」植田観樹・山口裕光(「現代宗教研究 第20号」日蓮宗現代宗教研究所、昭和61年 所収) より
1)所在地:上総国山武郡養安寺村金峯山蔵王寺に設けられた檀林である。
2)各種名称:
 ・碑文谷檀林:武蔵碑文谷法華寺にはもと碑文谷談所があったが、各本寺の学室と同様に、戦国末期に消滅する。
   近世初頭、碑文谷13世(12世とも)守眼院日晴(寛文4年/1664寂)、蔵王寺に碑文谷檀林を再興する。
    ※碑文谷法華寺は弘安年中(1278-)中老日源が天台宗法服寺を改宗したもの。
     11世修善院日進は「身池対論」により、信濃上田に配流となる。
 ・養安寺檀林:勧持院日禅本尊(埴谷長光寺蔵、日禅は碑文谷13世<14世とも>、同檀林2世)には養安寺檀林とある。
 ・山田談所:近世初頭の文書には山田談所とある。
3)檀林開基日晴と開檀の経緯:
 「身池対論」の後、野呂・玉造・松崎の各檀林が開檀し、いずれも不受派の拠点となり、次第に勢力を伸張する中で、
 一方では寛永8年不受派の一大拠点であった小西・中村の両檀林が身延山に接収され、不受派学徒は離散を余儀なくされる。
 こうした中、養安寺檀林は小西・中村の談所を追われた不受派学徒を収容するために、碑文谷日晴により開かれたものと
 考えられる。
4)二祖日禅と養安寺檀林の消滅
 檀林二祖は碑文谷13世日禅であり、日禅は松崎及び野呂檀林の能化をも務める。
 寛文5年(1665)小湊誕生寺日明・谷中感応寺日純など6ヶ寺は悲田手形を幕府に提出し、信徒及び世人から指弾される。
 元禄11年(1698)幕府は碑文谷法華寺、谷中感応寺を天台宗に改宗せしめる。従って養安寺檀林は消滅したものと思われる。
  ※寛文の惣滅以降元禄11年までの経過に資料はなく、この間の事情は詳らかならず。
5)日蓮宗現代宗教研究所による調査:昭和58、9年
養安寺檀林についてはその存在さえ不明確であったが、現地調査により以下が判明する。
檀林は寛永8年身延山に接収された小西檀林の北東小高い丘を越えた約1kmにある。
 養安寺付近地図
現地に残るものは旧跡地を示す石碑や歴代碑等だけであるが、その廻りの跡地と思われるところには無地主の田畑が広がる。
また丘の上には蔵王権現(御嶽神社)が残る。
 養安寺檀林跡略図
石碑は蔵王寺入口と思われる農道にある六百遠忌記念碑と本堂裏付近と思われる地点に3基あり、そこに5基の歴代碑がある。
なお、近くの本成寺の歴代碑には蔵王寺歴代の名も見られるとのことであるが、未調査である。
6)六百遠忌記念碑:高さ127cm幅125cmで、首題を刻み、首題の下に「小湊日諦」、横に六百遠忌、裏に明治16年10月12日(六百遠忌正当日)の日付と施主の名がある。小港日諦とは小湊誕生寺58世智玄院日諦であろう。
蔵王寺は明治の廃仏毀釈の嵐の頃、明治6年10月6日に炎上したと伝える。日諦はこれを惜しんで記念碑を建立したのであろうか。炎上した蔵王寺の檀家全14軒は小西正法寺の檀家になると云う。
碑の対面にある桑田家には蔵王寺の打鳴しを溶かして作った茶釜等があると云う。
 ※明治6年炎上とは、失火のようなニュアンスであるが、真相は良く分からない。
 蔵王寺とは蔵王権現に由来するのか、日蓮宗で蔵王権現とはその例を見ず、近世に存在した蔵王権現と蔵王寺(御嶽寺)との
 関係はどのようなものであったのか、蔵王権現と御嶽寺とは神仏分離の行われるような関係であったのであろうか、
 一切が不詳である。
7)旧碑・歴代碑8基
昭和52年土台をコンクリートにして1箇所に集められる。
・推定門前碑には「檀林旧跡 金峯山御嶽寺」と刻み、文化7年(1810)9月の年紀がある。御嶽寺とは蔵王寺とは異なった寺号である。この寺号が相違する のは、少なくとも開檀の日晴代には「金剛山蔵王寺」と号していたが、恐らくは元禄4年(1691)の悲田停止(悲田不受不施の禁止)の所謂元禄の破却後、改号を余儀なくされたなどの事情があったものと思われる。
・開基上人碑には「当山開基日瑞上人」とあり、右側面には「中興顕常院日義大徳」、左側面には16世18世の名を刻し、建立は明治16年10月11日である。
その他の碑には19世20世(25世再職)23世24世の名が刻まれる。
8)什宝
・蔵王寺天蓋:埴谷長光寺に伝わる。銘には「金剛山蔵王寺常什 中興師日晴 寛文三」云々とある。
長光寺は寛文9年日禅が千葉市中田町から現在地に移した野呂妙興寺末と云う。
・過去帳:(長光寺蔵か?)開基日瑞から36世日律(慶応4年5月入院)までの記載がある。
・日禅上人本尊:(埴谷長光寺蔵)数幅伝わるが、寛文9年(1669)に認めた幅には「碑文谷法華寺14世日禅」「野呂妙興寺 養安寺村蔵王寺 松崎村妙講寺 顕実寺 三談所兼職也」と記される。
なお碑文谷日禅は悲田説主張によって寛文7年に佐渡に配流とされるが、寛文9年の本尊の存在により、寛文7年配流説は誤伝となろう。
2019/10/26追加:
○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
山田は安養寺檀林のことであり、山武郡大和蔵王寺(廃寺)に設けられた談所で、碑文谷12世日晴が開き、14世日禪が第2祖となる。これは大和小西檀林が寛永8年に身延に接取され、不受の学徒は小西檀林を離散したが、これらの学徒を収用する為であった。


下総常葉檀林(苅毛檀林、仏性山実相寺)

2013/06/26追加:
 創建年代は未詳、明応3年(1494)日久上人代に真言宗から日蓮宗に改宗と伝える。改宗は嘉元2年(1304)とも云う。
付近一帯(香取郡)は不受不施派の強固な地盤であった。
延宝2年(1674)(慈善院)日賢により常葉檀林が開設される。
 ※この開設年代からいえば、常葉談林は寛文年中の惣滅後、度重なる弾圧の中、不受不施派最後の教線を護った拠点という評価は妥当なものであろう。
その後の消息は情報がなく不詳。
江戸中期に火災焼失するが、山門は焼失を免れると云う。
○「広報かとり 平成24年4月15号」では以下のように云う。
実相寺山門は芸州浅野公から寄進されたものと伝わる。
 浅野光晟公の正室である自昌院(満姫/加賀前田利常三女)は不受不施派の信者で、この地域にも関係の深い日講上人の庇護者でもあった。
 (2023/12/06画像入替)
  徳川・前田・浅野家関係図:壽福院・自證院(振姫)・千代姫・自昌院(満姫)・本妙院(充姫)系譜
この日講と日賢は親しい関係にあったため、浅野家菩提寺の安芸国前寺の末寺である実相寺に常葉檀林が開かれるに際し、山門が寄進されたのであろうか。残念ながらそれを裏付ける記録は確認できない。
 山門は、切妻造、四脚門、現在は桟瓦葺(元は茅葺)。組物は出組・平三斗、中備や棟木下に板蟇股を用いる。軒は二軒の繁垂木、天井は化粧屋根裏とある。
棟札など建築年代を示す記録はないが、その様式から見て檀林開設頃の建築と考えられる。
2023/12/10追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」 より
 広島國前寺末、「大観」には開山日久とある。
○「多古町史」>内野御塚の項 より
 4基の石塔があるが、その中には次の常葉檀林に関係する2基がある。
  (但し、これらの石塔は、現在、玉造内野御塚から玉造前野墓地へ移設されている。)
1)慈善院日賢石塔:「南無妙法蓮華経 日賢聖人 慈善院 元禄十丁丑年(一六九七)八月十二日化」と刻する。
慈善院日賢は刈毛実相寺・常葉檀林開祖であり、佐倉昌柏寺の二世である。
2)安立正国院日誉石塔:日誉は玉造の鈴木家出身で、常葉檀林(刈毛・実相寺)九世、佐倉昌柏寺三世である。
「南無妙法蓮華経 安立正国院日誉聖人位 開示悟入 伝之智見大 享保六年辛丑年(一七二一)十月二日化」と刻す。
 ※以上により、慈善院日賢は常葉檀林開祖、安立正国院日誉は常葉檀林(刈毛・実相寺)9世と知れる。
 しかし、実相寺歴代墓所にある歴代墓碑の刻銘中には、慈善院日賢及び日誉の名はなく、不受不施僧の故、除歴されたものと推定される。
  在玉造前野墓地慈善院日賢墓碑
  在玉造前野墓地安立正国院日誉墓碑:銘文:安立正国院/南無妙法蓮華経 日誉聖人位
   日誉については、
  「房総」p.297、279:「享保6年10月3日寂、佐倉長柏寺3世、常葉檀林9世、玉造生まれ」
  「年表」p.131:「享保6年10月3日正国院日誉没(59)安立、下総刈毛檀林能化、下総玉造無村隠居」 という。
2023/12/10追加:
○「房総禁制宗門史」加川治良、国書刊行会、昭和52年 より
 寛文の惣滅前後、下総の不受不施派は、玉造談林日浣、野呂談林日講、平賀日進(野呂談琳から入寺)を中心に、
沢真浄寺(見朗院日東)、刈毛実相寺(備後国前寺末)、岩部大乗寺、岩部安興寺、玉造蓮華寺(明静院日浣)、島妙光寺、小川大相寺、松崎顕実寺(通心院日瑶)などの強力な教線を持っていた。これらの寺院は周辺に末寺を展開していた。
 寛文年中是勝院日慈が三浦大明寺18世から下総佐倉昌柏寺(紫竹常徳寺末)に入寺する。日慈は昌柏寺開基であり、玉造談林板頭となる。
しかし、寛文の惣滅で玉造は破却され、日慈は昌柏寺で寂する。
昌柏寺を継いだのは2世慈善院日賢である。(延宝4年(1676)入寺)
 慈善院日賢は寛文の惣滅で壊滅した不受不施派の再興拠点として刈毛実相寺に常葉談林を開設する。
この常葉談林の歴代は堀越義昌氏の調査により、その一端が明らかとなる。
   ※次のある【 】内は本著の「房総不受不施派名簿」から転載
 16世 是心院日泰:埴谷妙宣寺、島妙光寺14世。元禄法難で神津島流罪。三浦大明寺日淳弟子。【元禄4年12月16日寂】
 17世 玄明院日寛
 18世 世体院日台:岩部安興寺23世、体量院とも号す。
 19世 慈善院日賢(談林の祖):下総佐倉昌柏寺2世。【元禄10年8月12日寂】
 20世 慈眼院日静:【延宝8年8月21日寂、常葉談林能化2世、字英碩】
 20世<ママ>恵眼院 日b(勲印僧都):日講の日記「説黙日記」「破鳥鼠論」に記載。
  江戸青山梅嶺寺歴代で、梅嶺寺破却後、談林に来歴と思われる。勲印僧都として加歴されたのであろう。
  【元禄9年4月27日寂、岩部大乗寺13世、常葉談林後に改宗】
 21世 一樹院日堯:「説黙日記」に「紫竹兼称無住之由、一樹院号残清日堯出寺蓄電」とあり、
  紫竹常徳寺を出寺し、末寺昌柏寺を経て談林に入る。
 22世 実成院日進
 23世 世雄院日眼
 24世 見朗院日東:沢真浄寺16世。【元禄16年1月7日寂、常葉談林7世】
 25世 明静院日寶:岩部大乗寺16世、岩部安興寺23世。【享保19年4月5日寂、常葉談林8世】
 26世 昌春院日誉:佐倉昌柏寺3世立正安国院日誉で、所化名を昌春という。玉造村鈴木家出身で玉造庵に関係する。
  【享保6年10月2日寂、佐倉昌柏寺3世、玉造談林9世、玉造生まれ】
 27世 本是院日性
  ・・
 31世 唯全院日長 水戸鼠口墓地に墓塔があり、この墓銘から日長の名が知れる。
   「讀史年表」:日長(日良)下総刈毛村
   「宗門史」:唯全院日良、天明2.8.9寂、刈毛実相寺31世、林法林寺14世(日長) とある。
  ・・
常葉談林(実相寺)は刈毛談林・常盤談林とも云われる。
談林は日講・日浣の外護者芸州夫人(自昌院)の外護を受け、広島國前寺末である。
談林は寛文惣滅後に残った寺院の結束であったが、開設と同時に幾多の困難が当然加えられる。
第一は不受不施を高揚して受派と戦うことはできない、しかし、悲田宗としてそれに参加した史料もない。
戦い得たのは、あるいは談林を支え得たのは、この地方の数多くの信徒の強信といえる戦いがあったからである。
  ※なお、16世 是心院日泰〜27世 本是院日性 の歴代の法名は2023/10/20撮影の
  「相寺歴代墓碑左側面3」(下に掲載)に刻字されている。
2023/10/20撮影:
 門前題目塔正面     門前題目塔裏面:南無日蓮大菩薩 日進(花押)/貞享元甲子年(1684) 八月特正
 実相寺山門1     実相寺山門2     実相寺山門3     実相寺山門4     実相寺山門5
 実相寺本堂1     実相寺本堂2:堂前に初和16年本堂改修竣工の記念碑が建つ。
 実相寺庫裡1     実相寺庫裡2
 実相寺天満宮     実相寺天満宮扁額     実相寺天満宮石祠:施主に筆子中とある。
 なぜ天満宮かは分らないが、近世には実相寺で手習を教えていた(筆子中)ので、それで菅原道真が勧請されたのであろうか。
 山内題目塔群:向かって左の植栽の影にも1基あり、合計6基ある。
 日蓮500遠忌塔:正面「高祖日蓮大菩薩」、側面「五百遠忌報恩/奉唱・・・號二千部」、側面「天下泰平国家安穏」、背面「安永十辛丑歳■■■■■ 三十四世日明(花押)
 山内題目塔(内容不詳)1:正面「南無妙法蓮経」以外判読できず、側面も良く分からない。
 文政13年題目塔:正面「南無妙法蓮華経 日■(花押)」、側面「奉唱題目壱千部成就之攸」、背面「文政十三庚寅春三月吉辰日 當山三十九世日行(花押)
   2023/12/23追加:○「栗源町文化財資料目録」平成5年 より
    高祖大士五百五拾遠忌供養塔:文政十三庚寅春三月吉辰日、160×38cm、二十九世日行
 寛政8年題目塔:正面「南無妙法蓮華経」、側面「奉唱玄号二千部成就之攸」、背面「于時寛政八丙辰歳十一月開眼之者也 當山三十五世日堅(花押)」
 山内題目塔(内容不詳)2:正面「南無妙法蓮華経 ■■(花押)」
 日像題目塔1     日像題目塔2:正面「南無妙法蓮華経 南無日像菩薩 康永元壬午年(1342)十一月十三日」、側面「元祖大士五百御遠忌起立之」
 2023/12/23追加:○「栗源町文化財資料目録」平成5年 より
  法界万霊供養塔:貞享甲子元年八月時正、205×52cm
  との記載があるが、どの石塔かは不明(但し大型塔である。)
 実相寺歴代墓所1:中央の宝塔が実相寺歴代墓碑である。
 実相寺歴代墓所2
 実相寺歴代墓碑
 実相寺歴代墓碑正面:正面には次のように刻む。
     一世 受教院日法聖人 開山 本法院日久聖人 三世 ■世院日充聖人
     四世 本成院日義聖人 五世 本善院日饒聖人 六世 法壽院日静聖人 七世 教壽院日陳聖人
     八世 界如院日■聖人 九栖 教行院日因聖人 十世 自■院日周聖人 十一世 正明院日貞聖人
 実相寺歴代墓碑左側面1     実相寺歴代墓碑左側面2
 実相寺歴代墓碑左側面3:この左側面には不受不施であった歴代(16世から27世)
                  の法名が刻まれる。<「房総禁制宗門史」>
     16世/是心院日泰 17世/玄明院日寛 18世/世体院日台 19世/慈善院日賢 20世/慈眼院日静
     勲印僧都/恵眼院日b 21世/一樹院日堯 22世/実成院日進 23世/世雄院日眼 24世/見朗院日東
     25世/明静院日寶 26世/昌春院日誉 27世/本是院日性
 実相寺歴代墓碑右側面
  この歴代墓碑は「栗源町文化財資料目録」では「歴代聖人霊位塔:という。228×42cm。
 実相寺歴代墓所3
  日利聖人墓碑:歴代墓碑にその名がなく、不詳。側面「貞享4丁卯年(1687)」の年紀
  日傳聖人墓碑:30世、持經院
 実相寺歴代墓所4
  日通聖人墓碑:歴代墓碑にその名がなく、不詳。
日賢卵塔
 2023/12/23追加:○「栗源町文化財資料目録」平成5年 より
  日賢卵塔:元禄十年■月十二日、高さ150cm と記載されるが、不明である。(未見)
  ※日賢は檀林開祖の慈善院日賢で、元禄十年は慈善院日賢の示寂した年である。

-------- 以上不受派檀林 ----------------------------------------------------------------------



下総飯高檀林(飯高寺・法輪寺):匝瑳市飯高1789

2013/06/26加筆・修正:
2024/02/04「八日市場市 上巻」より加筆・修正:
 飯塚に龍尾山要行院光福寺がある。應永15年(1408)日英の開基と伝える。
同寺6世要行院日泰の弟子に要行院日統という学僧がいた。日統は比叡山に学び、後堺に赴き佛心院日b・正覚院日航と妙国寺に学ぶ。
天正元年(1573)要行院日統は故郷・飯塚に帰り、平山刑部の庇護があり、光福寺に学室を開く。
これが飯塚檀林で、開講時、日統は42,3歳であったという。
 ※要行院日統は飯塚村で法華経の講釈を行い、多くの来聴者を集める。
日統が叡山遊学の後輩に本国寺日モフ弟子蓮成院日尊、立本寺日経の弟子経蔵院日生らがいて、この日尊・日生は天正5年学徒30余名を連れて、京都から飯塚に下向し、日統らの法筵に加わる。
 ※来聴者の数は益々増加し、それに対応するため、京都より教蔵院日生ら呼び講釈の補佐をなさせる。
  以降、補佐するものの住む建物を教蔵院と称するようになる。
天正7年(1579)日統は遷化する。日統は飯塚新田の聖教塚に葬られる。
日統の葬送の折、天から花が芬々と舞い降りてきたので、日統は「花降り日統」と云われる。
   →岩部安興寺中の「匝瑳探訪131『花降り上人』」の項を参照。
日統の後は弱冠27歳の日生が講主となるが、若さ故の反発を買い、いったんは内山妙広寺に身を寄せる。
天正8年(1580)日生は飯高妙福寺6世日自と平山刑部少輔らの招きで、妙福寺(法輪寺とも云う)に講筵を開く。
この妙福寺(法輪寺)学室が後に飯高寺となり、飯高檀林に発展をすることとなる。
 ※妙福寺は妙見社別当であり、往時は飯高寺総門付近にあり、後に妙見社付近に移転という。
なお、この年日生は京都に帰り、松ヶ崎檀林を開く。
   →京都松ヶ崎檀林

天正19年(1591)徳川家康より30石の朱印を受く。朱印状には飯高寺と記され、それ故寺号を改む。
この寺領拝受については身延山17世慈雲院日新の尽力がおおきかったといわれる。
 ※家康からの朱印状には地名の飯高寺とあり、飯高寺と法輪寺が並用されることとなる
寺領受領により、講堂・学寮などの建築が進展する。
慶長元年(1596)蓮成院日尊が初代化主として飯高檀林が正式に発足する。
日尊は京都生まれで、上述のように日生とともに飯塚檀林に招かれ、妙福寺学室の開設から18年間に渡り、学徒の教育に尽す。
慶長3年日尊は池上13世に転住し、檀林2世化主には身延日新弟子・法雲院日道が就く。
慶長4年日道は退檀、身延山19世に晋山する。
その後、3世化主を巡り、飯高妙福寺6世慈雲院日圓を推すものと京都本満寺一如院日重をを押す一派の2派に割れる。
日圓は日b・日重の関西学派の勢力を避けて、中村北場浄妙寺に移る。
同年、日重は自らの代りとして、27歳の心性院日遠を遣わし、日遠が第3代化主として入山。

慶長4年(1599)「大阪城対論」(徳川家康・京都妙顕寺日紹と京都妙覚寺日奥)、翌年日奥対馬に遠島。
その後の状況は、受と不受との対立は寺院からみれば身延対池上・平賀・中山・小湊であり、檀林から見れば飯高(受)対中村(不受)小西(不受)の対立であった。
また別の言い方を借りれば、「当時日蓮宗では寛容・摂受主義的な立場に立ち天台学中心の関西学派と厳粛・折伏主義を主張する従来の教学系統・祖書中心主義の関東学派との対立が根強かった」のである。当然、日重・日乾・日遠は関西学派の系統である。
同年、中村に移っていた日円であるが、多くの飯高の学徒が日圓の学徳を慕い中村に集ったため、中村正東山日本寺に檀林を開く。
慶長8年(1603)飯高化主日遠は見延へ晋山、後任に中村化主日円を推挙、日円は飯高の化主に晋む。
 (日圓は飯高4世化主であるが、飯高歴代から除かれる。)
しかし、慶長10年(1605)39歳で遷化する。これは日円が池上日尊の法系であり、不受として暗殺されたと云われる。
     →中村檀林開講・開祖慧雲院日円
     →この間の経緯は本ページ中の「中村檀林」の項を参照。

2024/02/05追加:++++++++++
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
妙雲山と号す、身延山末。
「大観」では、寛永17年(1640)創立、開基心性院日遠。開山蓮乗院日尊。
開基遠祖と呼ばれる要行院日統は天正元年(1573)下総飯塚の光福寺に学室を構え、講筵を開く。
日統の後を継承した教蔵院日生は天正8年(1580)昌山妙福寺に移住し、学徒に三大部を講じる。よって開講の祖と云われる。
蓮乗院日尊の時、現在の地に講堂を建て、法輪寺と称する。
天正19年(1591)徳川家康より朱印を下賜され、飯高寺と改称。
家康側室養珠院の本願で大講堂などが築造され、受派の根本檀林と公認される。
歴代
開祖遠祖 要行院日統 天正7.3.7寂
講経鼻祖 教蔵院日生 文禄4.7.14寂
1世 蓮乗(成)院日尊 慶長8.3.16寂 池上13世
2世 法雲院日道 慶長6.12.12寂 身延19世
3世 心性院日遠 寛永19.3.6寂、身延22、池上16、本満寺14、貞松8、妙傳寺8、大野・西谷開山
4世 恵雲院日圓 慶長10.6.4寂、39歳 中村開祖
           ++++++++++

慶長4年の「大阪対論」を端緒とし、日蓮宗内では不受と受派との対立が関東に飛火し、対立が先鋭化する。
関東では池上・中山・平賀・小湊・中村檀林・小西檀林などが拠点となり、強義折伏・不受不施義を掲げて、宗門内を圧倒的に制していた。
これに対し、摂受派・身延山は幕府の宗教政策にすり寄り、その強権を利用すべく、関西諸山の後押しもあり、不受不施禁制を含む日蓮宗法度の制定を求めて盛んに提訴していた。
 こうした状況の中、飯高檀林は10世化主日東以降、身延山の学僧が化主として入檀し、受派の檀林の道を歩むこととなる。
不受と受派との対立の中で、不受派は関東の地に松崎・玉造・刈毛・山田・野呂などの諸檀林を次々を開檀していった。
一時期、受派は、末寺や信徒の反撃で末寺・信徒が離反し、影響力を失いつつある中で、幕府権力に縋る以外に方法を亡くし、教学面では房総で唯一支配する飯高檀林の強化に注力することとなる。身延としては飯高を根本檀林として確立する必要性があったのである。
このことが、飯高が日蓮宗における最大規模の檀林となった大きな要因であろう。
かくして、飯高は特に不受不施禁制の後、全国最大規模の檀林となる。

慶安4年(1652)寿量院日祐代、慶安3年に焼失した講堂を再建、養珠院(家康側室・紀州頼宣、水戸頼房生母)の寄進になる。
 飯高寺領田地図(江戸期)や各種絵図によると基本的に近世を通じて堂宇配置はほぼ同じであったと考えられる。
  ※飯高寺領田地図:「飯高・小西・大沼田の檀林の建築構成-日蓮宗寺院伽藍配置の研究(1)」 より
  ※養珠院は大講堂のほか内外妙見社、七面社も寄進する。
享和3年(1803)「御由緒明細帳」では以下の堂宇が知られる。
 大講堂:慶安元年再興、桁行14間梁間9間、寄棟造、銅板葺、一軒疎垂木、平入(当初は入母屋造、茅葺)
大廊下、中廊下、
書院、学問所、対面所、庫裏、井戸屋(1間2間)、籾蔵、槙小屋、堂番部屋、裏門石段百弐拾段、
鼓楼、鐘楼、材木小屋、井戸屋(5尺四方)、所化部屋(梅小路、桜小路、楓小路、柳小路、無門小路)
一切経蔵、文句議論所、妙見社(2間に4間)、玄義論談所、橋門(堀切に橋を渡し茅葺屋根を架する、2間×9間)、
所化部屋(松小路、藤小路、竹小路)、妙見社(2間に4間)、七面社、総門、
食堂、浴室、教蔵院(玄能寮)、表門、裏門、所化部屋(四軒小路、三軒小路、ニ軒小路、三軒小路(ママ)、松崎小路、野路小路)
 境内は台地上にあり、南北に長い瓢箪形の敷地を持つ。
南に惣門があり北に大講堂があり、その中間に堀切があり橋門を渡す。惣門前石段下に食堂、惣門内左に教蔵院、竜眠庵などがある。橋門を渡ると右に談合所、左に経蔵、北進すると左右に所化寮が並び大講堂に至る。
大講堂前庭左に鐘楼、右(東)に鼓楼があり、東は裏門石坂に通じる。大講堂裏に方丈(庫裏)居間があり廊下で繫がる。境内山裾にも学寮があった。享和3年には衆寮59棟、所化寮125軒を数える。
 飯高檀林復元配置図
 飯高檀林略地図   :何れも 「近世日蓮宗飯高檀林の堂舎構成」 より
  ※檀林の最盛期は約800人の学徒が在籍と云う。
  ※現在の総門は延宝8年(1680)の建立と伝承、皷楼は享保5年(1720)建立、天明8年(1781)現在の鐘楼建立。
また寛永年中以降、次の三谷が発生した。
中台谷に学頭竜眠庵、称心庵、城下谷に学頭向城庵、心性庵、松和田に学頭松和田軒、普潤軒などがある。

明治7年廃壇となる。
維持不能となった諸建造物は悉く売却、取り壊された。
飯高檀林は飯高寺となり、教育機能は現在の立正大学に引き継がれる。
 ※昭和55年、講堂・鐘楼・鼓楼・総門重文指定。
2024/02/25追加:
○「八日市場市史 下巻」昭和62年 より
◇飯高檀林境内図
 飯高檀林境内図:元禄期の頃の景観、飯高寺蔵。
◇飯高檀林略地図
 飯高檀林略地図
圓是院日耀:12代化主、中台に学寮「竜眠庵」を建立。
壽量院日祐:13代化主、寛永9年(1632)城下に学寮「向城庵」を創建。
寂遠院日通:15代化主、寛文2年(1662)松和田に学寮「松和庵」を開く。
2024/02/25追加:
○「飯高寺講堂と檀林について」千葉大学(「昭和54年度近世重要社寺遺構調査」の報告)より
◇飯高檀林講堂平面図
講堂は慶安元年(1648)再建される。これは家康側室・養珠院の寄進したものという。
この講堂は慶安3年庫裡・書院・衆寮とともに焼失、同4年再建され、これが現在の講堂である。
諸記録から屋根は入母屋造、草葺、木連格子であったとみてよい。
 飯高檀林講堂平面図
2023/11/30撮影:
旧八日市場市(現匝瑳市)依知川氏のご案内あり。
 飯高檀林総門1     飯高檀林総門前石階     飯高檀林総門2
 食堂(飯台場)は現在の総門前、道路を隔てた台地(今は畑)にあったという。
 飯高檀林食堂跡:飯台場跡、場所は依知川氏のご教示。
 総門から参道を進み、右側の歴代廟所に入口付近に堀切(城跡の堀切という)があり、ここに橋門(橋廊下)があった。
  (※堀切の写真は撮影忘れでなし)
 飯高檀林一切経蔵
 道標・祟石・題目塔
 飯高檀林道(道標) 20:側面に「阿部氏本光院殿」の刻銘があるが、阿部氏本光院殿とは不明。さらに別側面には「■■院日■営之」とある。また、肝心の地名の「かな」が読めず、どの方面かの道標なのかは不明、おそらくどこかの街道に立てられていた道標が飯高寺境内に移設されたものと思われる。
 飯高檀林題目塔:「南無妙法蓮華経 法界萬靈」と刻す、側面・背面とも未確認。
 飯高檀林題目堂
 飯高檀林参道
 飯高檀林講堂1     飯高檀林講堂2     飯高檀林講堂3     飯高檀林講堂4
 飯高檀林講堂5     飯高檀林講堂6
 飯高檀林鼓楼1     飯高檀林鼓楼2     飯高檀林鼓楼3     飯高檀林鼓楼4
 飯高檀林鐘楼1     飯高檀林鐘楼2     飯高檀林鐘楼3     飯高檀林鐘楼4
飯高檀林歴代墓塔
 講経鼻祖教蔵院日生墓塔
 初祖蓮乗院日尊墓塔:「開山蓮成院日尊聖人/慶長八癸卯年/暮春十有六日」
 2世法雲院日道墓塔:「■■ 法雲院日道上人」
 3世心性院日遠三重宝塔 41:初重:心性院日遠聖人/寛永十九壬午年/三月上■■、二重:判読できず、三重:南無妙法蓮華経
法類については煩雑であるので、省略。(※概要・解説は「八日市場市史 下巻」p.187〜 にある。)
飯高寺歴代墓所の中で、52世日潮の墓塔が眼にとまったので、取り上げる。
52世日潮:中台谷潮師法類の法脈は52世日潮から始まる。
日潮は六牙院と号す、寛延元年9.20寂、70歳。身延36世、仙台孝勝寺23世、京都松ヶ崎35世。
京都の産で戦後は宇治に移転しているが、おそらく関東下向前であろうが、宇治琳聖寺の開山でもある。
 潮師法類祖・日潮
 飯高檀林歴代墓所1     飯高檀林歴代墓所2     飯高檀林歴代墓所3     飯高檀林歴代墓所4
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
 飯高檀林講堂平面図:重文、慶安4年(1651)建立。14間×9間、寄棟造、栃葺き。
2013/06/26追加:
◇「重要文化財飯高寺鐘楼・鼓楼保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、飯高寺、1992 より
 飯高檀林跡地形測量図
なお、本書に飯高檀林の組織などの解説がある。
◇「重要文化財飯高寺講堂・総門保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、飯高寺、2003 より
 飯高寺境内配置図
なお、本書に飯高檀林の組織、法式、年中行事などについての詳細な解説がある。


飯高檀林所化塚

○現地「案内板」匝瑳市教委 より
 飯塚檀林就学中、志半ばにしてこの世を去った所化(学僧)たちの墓である。
ここには約200基の墓塔があり、最も古いものは宝永3年(1703)3月の年季のある了是という所化の墓塔である。
中には2~3人の名を刻んだものもある。
また、所化塚の前の道はかつては檀林と江戸を結ぶ主要道で、化主(現在の学長)の交代時や所化が出身地との往来の際必ず通った道である。
 かつての檀林は全国各地から学僧が集まり、最盛期には1000人を超える学僧が学んでいたという。いつしか檀林と江戸を結ぶ街道には旅人の便宜の為、檀林を起点に一里塚が築かれ、一里塚は染井に、二里塚は芝山の白升、三里塚は成田の下総御陵牧場前に、四里塚は法華塚として成田の駒井野に「南無妙法蓮華経」と書いた石塔が建てられる。三里塚と法華塚は地名として現在も残る。
 ※上記の檀林−江戸道の一里塚については「多古町史」に次の記載があるので、下に紹介する。
○「多古町史」の「【付】「多古町旧道図」について」p.328〜 より
 佐倉を経て江戸へ至る江戸道に沿って、染井に一里塚、芝山町白枡に二里塚、成田に三里塚があった。四里目は四の字を避けて法華塚といい遠山村(成田市)にあった。染井の一里塚は現在、その名残りの道祖神が国道二九六号線交差点付近の畑の中に祀られている。このあたり元は台地縁辺部であって、道路工事のため掘り崩し原状をとどめていないが、一里塚はその縁辺部にあったのである。
 この一里塚の基点は南中の日本寺であるとか、松崎神社であるともいわれている。里程からいえば日本寺説が有力であるが、なぜ日本寺を基点としたか、だれがそれを制定したのかは明らかでない。
  (中略)
 江戸道も「までいど」の坂を登って染井へ出、通称「一里塚」の道祖神の所で右へ折れ、佐野橋のところで現在の国道と斜めに交差し、喜多では「大海(だいかい)道」という小字のある坂を登り、三社神社の前へ出て、その後は国道とほぼ同じコースを行くようである(「旧道図」参照)。「までいど」の坂の分岐点に立つ道標は明治二十年のものであるが、「東多古、八日市場、てうし(銚子)、北十余三、さくら田、佐ハら、西三里塚、佐くら、東京」と記されている。
 軽便鉄道 p.879〜 より
明治四十三年六月六日、千葉県臨時議会に柏・野田間と、成田・多古間二線の軽便鉄道敷設案が上提された。
 (中略)
駅は成田・成田裏・東成田・法華塚・三里塚・千代田・五辻・飯笹・染井・多古の一〇駅である。
 (後略)
2023/11/30撮影:
旧八日市場市(現匝瑳市)依知川氏のご案内あり。
 飯高檀林所化塚入口     飯高檀林街道1:金原三社神社方向を望む     飯高檀林街道2:檀林総門方向を望む
 飯高檀林所化塚1     飯高檀林所化塚2     飯高檀林所化塚3     飯高檀林所化塚4
 飯高檀林所化塚墓塔:法師の名称が使われているが、おそらく未だ自坊を持っていない修行中の僧侶を指すのであろうか。
 圭流院日然聖人墓塔1:表面
 圭流院日然聖人墓塔2:「飯高檀林上座干時三老」とあり、上座(現代でいえば学部長か教授クラスか)で、その時は三老(「集解部」、現在では学部に相当か)であったが、その任にある時示寂したと思われる。



水戸三昧堂檀林

天和3年(1683)徳川光圀、太田久昌寺に設置。

天和2年(1682)光圀は久昌寺山内に檀林を設置。
さらに元禄5年(1692)以降西山の地に大規模檀林を造営。講堂・方丈・4つの寮などが付設した。
化主には中村檀林21世日耀上人を迎え、水戸三昧堂檀林と称する。
 (天保14年に廃檀。嘉永年中に再興、明治2年に廃絶。)
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
「久昌寺及檀林絵図」では講堂、方丈、鐘楼、玄義寮、上座寮、所化寮、食堂、湯殿から構成される様が描かれる。
 久昌寺及檀林絵図
講堂は築地に囲まれた一郭にあり、方丈と鐘楼がこの築地内にある。方丈は3棟からなる。
講堂一郭の前に食堂があり、三面小路があり、この小路の両側に所化寮2棟とさらに別の1棟がある。
この西側には柳小路があり所化寮1棟が建つ。この西側には松小路があり、湯殿、所化寮3棟が配置される。
この小路の突き当たりには玄義寮が建つ。これから右折して桜小路があり、この小路に所化寮1棟と上座寮がある。


池上南谷檀林

元禄2年(1689)池上・比企谷23世日玄、池上本門寺照栄院(池上南谷檀林)に設置する。
鎌倉法華堂檀林↓を移す。学寮60余、僧徒千余人と伝える。

相模鎌倉法花堂檀林(常栄寺・宝篋堂檀林)

比企谷常栄寺に設けられた宝篋堂檀林(法花堂檀林)は、元禄2年(1689)池上本門寺照栄寺に遷され、南谷檀林となる。

慶長11年(1606)高松寺3世日祐の開設。
2024/02/05追加:
○「八日市場市史 下巻」昭和62年 より
慶長11年(1606)自證院日詔の開講。
元禄2年(1689)池上・比企谷23世日玄、檀林を池池上本門寺照栄院に移し、南谷檀林↑と称す。
2023/05/28追加:
2023/05/21:鎌倉常栄寺を再訪、常栄寺でルーフレットを入手、次の記載があることを発見。
慶長11年(1606)比企谷・池上両山14世自證院日詔は桟敷台(源頼朝が由比ヶ浜での「千羽鶴の放生会」を観覧するために設けた展望台)に鎌倉比企谷常栄寺を創建し宝篋堂檀林を開壇した。
この檀林は、元禄2年(1689)池上本門寺照栄院に移され、南谷檀林がそれである。
 ※自證院日詔は備中山田の出である。 →自證院日詔<備中山田のお塚中にあり>
「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年
慧雲山と号す、比企谷妙本寺末、寛文2年(1672)創建、開山は自證院日詔、開基慶雲院日祐、開基檀越慶雲院妙周日祐尼。池上神楽坂法縁。
宗祖日蓮が龍口法難の時、老婆が胡麻のぼたもちを供養した寺である。老婆は印東次郎左衛門尉祐信の妻で、桟敷尼(法名は妙常日栄)という。
慶雲院日祐は水野淡路守重良の息女であり、ここに一宇を建立、学室法篋堂檀林を開設。
法篋堂檀林の林長は自證院日詔、学室の初祖は寂遠院日通、元禄2年(1689)檀林を池上に遷し、南谷檀林と称す。


身延山西谷檀林

弘治2年(1556)前身の善学院が創建される。
慶長9年(1604)心性院日遠、身延山に西谷檀林を創める。
寛文9年(1669)大講堂建立、延宝5年(1677)、貞享3年(1686)、元禄年中所化寮など増設。
明治8年身延祖師堂焼失、西谷大講堂を祖師堂として移築、祖師堂再建にあたり、その西に移築、釈迦堂(本師堂)となる。
2010/05//29撮影:
 身延山西谷檀林跡1:現在は信行道場(身延山の僧侶 育成・修練道場)となる。
 身延山西谷檀林跡2:長い石階が続き、その左右には学寮跡と思われる地形を残す。
 身延山西谷檀林跡3
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
「身延山史」では以下のように述べる。
弘治2年(1556)第14世善学院日鏡、西谷善学院に閑居し、所化を集めて講義する。檀林の発祥なり。
慶長9年(1604)心性院日遠、善学院を改築し、西谷檀林を創設す。その後、堂舎などが随時拡張される。
貞享3年(1686)「身延山諸堂軒数覚」では以下の堂舎がある。
 妙見堂、弁財天、講堂(9間×7間半)、廊下、茶の間、廊下、庫裏、所化寮3棟、飯台場2棟
 更に別資料では、文句談合所、浴室などもあった。
「身延山絵図」-宝永3年(1706)〜正徳3年(1713)-では
  身延山絵図談所1     身延山絵図談所2
 講堂(入母屋造・向拝付設)は南面、右は廊下を架し化主寮・庫裏、さらに食堂があり、左には経蔵、鎮守妙見がある。
講堂前には3棟の所化寮、一段下もの1棟の所化寮がある。所化寮右にある1棟は妙玄庵(玄義寮)であろう。そのほか北側にも数等の学寮がある。
その後惣門が建立され、学寮も数棟建立される。


万延元年(1860)頃には
 講堂(9間四方)、庫裏、書院、廊下、鼓楼、中門、妙見堂、弁天堂、経蔵、鐘楼、食堂、妙玄庵、玄能寮、所化寮4棟、学寮14軒、隆性院、本是院、宝聚院、正終院、平寮10軒、文句席談所、玄義席談所、観心席談所、集解席談所、惣門、隠寮、浴室
となる。

「身延山図経」-弘化4年(1847)-では上記万延元年頃の堂舎構成と大差はない構成が示される。
 身延山図経:談所部分図;左図拡大図
講堂は桁行3間梁間4間、入母屋造。明治8年に久遠寺祖師堂として移建される。
2023/09/02追加:
○「御宝物で知る 身延山の歴史」2008 より
 5代化主日明は小湊誕生寺より入山、「日明等邪義を唱」へ、不受不施の悲田供養の新義を唱え、寛文5年(1665)除歴される。


上総大沼田檀林(法輪山妙経寺):勝劣派檀林:東金市大沼田457:(南南西約1kmで細草檀林遠霑寺に至る)

永禄2年(1559)鷲山寺10世日進が東金自在山長久寺を創建し、談所が開かれる。(長久寺檀林創立)
文禄3年(1594)田間長久寺檀林を大沼田妙経寺に移し、大沼田檀林となる。
寛永6年(1629)鷲山寺13世日乾、檀林を中興、勝劣派の常談所と定める。
元和元年(1615)徳川秀忠より境内地の朱印を得る。東西60間南北120間所化寮36棟を数えると云う。
 ※2012/07/10:以上を「法華宗宗門史」より、追加修正する。
 (東金市大沼田457 妙経寺が檀林跡、大沼田檀林中興日乾上人の墓碑があると云う。)
※大沼田から下総鷲巣鷲山寺(建治3年[1277]日弁開山)に檀林を移すと思われるも、詳細不詳。
※以下は鷲巣鷲山寺大沼田檀林と推定される。
慶安2年(1649)寺領安堵の時、もしくは寛文4年(1664)御朱印帳に記載の頃、鷲山寺に檀林を移すと推測される。・・・この項は確認を要する。
 檀林懐古之図
 檀林懐古之図(中心部):昭和25年にかっての大沼田檀林の姿を描いて奉納された 「図」と云われる。
石井與一郎氏奉納、年齢から云って、石井氏が檀林を実見したことはないから、おそらく元図があったものと推定される。
 本堂兼講堂を中心として、右に庫裏、庫裏後方に庭園・八幡宮、左に学校開基碑、乾師堂、弁天堂、前に楓・銀杏・榎があり開山日寿上人碑及び鐘楼がある。本堂から相当な前方に表門があり、途中左に裏門に通ずる道があり、その両側に学寮が並ぶ。(能化寮、所化寮6棟、角寮、柳寮、伴頭寮、大途寮、賄寮、本ギョウ[阝+堯]寮)
能化寮右は鬼子母神堂、左は石井家墓地で日寿上人墓がある。<日寿上人は妙経寺の開基上人>
表門から本堂への参道右に三十番神堂、大仙坊がある。大仙坊裏(右)は石井家屋敷で妙経寺所有と書き込みがある。
○2010/11/11追加:「tukamoto」氏ご提供情報及び2010/11/03撮影画像
法輪山妙経寺(大沼田檀林)縁起
                 ・・・・・平成21年設置の説明板及び同年設置の檀林石碑刻文を要約
正中2年(1325)鷲山寺日弁上人高弟日壽上人が当寺を開山する。
往古は祖師堂・八幡宮・寺中恵正院・寛照坊・大仙坊の3院を有する。
永禄2年(1559)鷲山寺10世日進上人、田間村より檀林を当地に移し、大沼田檀林とする。・・・・説明板は永禄2年移転とする。
 ※文禄3年(1594)田間長大寺より当山(妙経寺)へ移す。・・・石碑では文禄3年移転とする。
寛永6年(1629)鷲山寺13世日乾上人、檀林を勝劣派の常檀所と定め、妙経寺を中興開基する。
当時は境内東西70間南北120間が除地で、講堂・本院・柳坊・側坊・伴頭寮・能化寮・所化寮・その他学寮36棟を数える。
宝暦5年(1755)暴風雨により諸堂悉く倒壊、天明5年(1785)10×10間の本堂兼講堂などを再興。
慶応4年(1868)本堂・本院を除く諸堂を焼失。
明治3年檀林本院を妙経寺庫裏に、明治7年本堂・講堂を妙経寺に移譲し、大沼田檀林は廃檀となる。
大正8年本堂改修、大正13年庫裏焼失、昭和26年八幡宮再興、昭和56年本堂改修・庫裏建替。
 ◇大沼田檀林は鷲巣鷲山寺の支配であった、檀林は鷲山寺末寺長久寺から大沼田妙経寺に移され大沼田檀林は成立する。
「tukamoto」氏撮影画像
 
往古大沼田檀林境内図
 法輪山題目碑      妙経寺境内      大沼田檀林跡石碑1      大沼田檀林跡石碑2
 妙経寺本堂       妙経寺開基日壽上人墓
  ◇大沼田壇林の遺構は現存しないが、境内にはそれらしい雰囲気を残す。
2012/07/15追加:
○「法華宗宗門史」法華宗宗門史編纂委員会編、法華宗(本門流)宗務院、1988 より
 大沼田檀林跡:この小宇は上記妙経寺境内に写る小宇であろうか 。鐘楼?。
2010/12/03追加:
○「千葉県指定史跡宮谷県庁跡本国寺本堂保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、2003 より
元和8年(1622)宮谷檀林開設と同じ年に、日乾上人により大沼田妙経寺に大沼田檀林が開設される。
2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
正中2年(1325)鷲山寺日弁上人高弟日壽上人の開基とする。
文禄3年(1594)田間長久寺学問所を妙経寺境内へ移すも、檀林としては未整備であった。
元和元年(1615)鷲山寺13世日乾上人は檀林を整備し、檀林初祖とされる。
初期には弁門流の檀林であったが、その後什門・陣門の勢力が伯仲するが、什門が宮谷に移り、陣門が主流となる。
 大沼田檀林配置図:上記「檀林懐古之図」などを参考にして作成。
「沼田檀林誌」(石井與一郎)では「慶安3年(1650)の『朱印地相続届書』では境内東西70間、南北120間。高6石8斗、所化寮36軒脇坊1軒」と云う。
 大沼田檀林本堂平面図
現存する本堂兼講堂(宝形造)は天明5年(1785)の再建で、大正8年に改築し、その時両脇各1間を縮小すると云う。


上総細草檀林(法雲山遠霑寺):勝劣派檀林:山武郡大網白里町下ケ傍示715-1
                             (大網白里町に細草の地名あり、本門流寺院4ヶ寺あり、北北西約1kmで妙経寺に至る)

智泉院日達上人(京都大亀谷檀林創立)の創建。
 ※檀越は敬台院(徳川氏・蜂須賀至鎮の室・大石寺本堂寄進)、
    参考: → 阿波徳島寺町>敬台寺 を参照
寛永18年(1641)細草檀林創立と云う。大沼田檀林との学徒争いで創立。講堂他多数の堂宇が寄進される。
 ※八品派と富士門流が関係する檀林と思われる。
2010/10/01追加:
「富士宗学要集 第8巻」 堀日亨、創価学会、1978.9<「tukamoto」氏ご提供> では以下のように説く。
 (富士門流など勝劣派各派は)仙波(川越か)などの田舎天台の談所より、中村小西等の一致派檀林に移り、勝劣各山学生が什門を主とする大網宮谷檀林を起すや、間もなく大沼田に分離し遂に深草檀林を創始する。此は隆門と興門との合同であり、用地は八品住本寺屋敷と住民の寄進で充当し、経営は富士門大石寺末顕寿院日感が当たり、敬台院を大檀越として成る。能化には鷲山智泉院日達を請ずる。
 細草新談所由来:・・山辺郡土気の庄細草村・・法雲山遠霑寺建立・・・5間半に8間の講堂一宇造立。
・・・・・・時は寛永19年(1642)であった。・・本願大徳顕寿院日感上人、護持大施主敬台院・・・・・・
明治初年廃檀となる。
※なお細草檀林東門は要行寺山門として現存と云う。
 要行寺:大網白里町四天木甲1342(細草の南方):明治30年代に移築と云う。
○2010/11/11追加:「tukamoto」氏ご提供情報及び2010/11/03撮影画像
現地にある「遠霑寺縁由」碑
           ・・・・碑には以下の主旨の記載がある。
 「遠霑寺は富士と八品の檀林として開創される。即ち寛永19年(1642)富士大石寺末法詔寺日感上人、諸学徒の新檀所設立の懇願を受け、敬台院の外護により開設に至る。以降明治の廃檀に至るまで、両派合同の講寺として栄える。
昭和42年大石寺66世日達上人、檀林の事跡を記念すべく現在の地に法雲山遠霑寺を再興する。
 以上であれば、明治維新後檀林(遠霑寺)は退転するも、現在の遠霑寺は昭和42年再興されたものであると推測される。
現在の「遠霑寺は近代のもので、檀林の関係は何もない」<「tukamoto」氏情報>と云うのと符合するのであろうか。
 上総細草檀林(遠霑寺):寺門左に「細草檀林記念碑」(詳細不詳)が写る。
  但し、現在の遠霑寺は日蓮正宗の寺院である。
・細草檀林東門遺構(要行寺山門)
細草檀林は東西80余間、南北100歩余の寺地を占め、本堂・祖師堂・講堂・鐘楼のほか学寮が立ち並び東西に門が開いていたと伝える。山門は四脚門で、本来屋根は茅葺と思われる。江戸後期の建築と推定される。(以上「現地説明板」)
 細草檀林東門遺構1     細草檀林東門遺構2     細草檀林東門遺構3     細草檀林東門遺構4
 細草檀林東門遺構5     細草檀林東門遺構6     細草檀林東門遺構7
 要行寺本堂
  ◇東門遺構は老朽化が進み、取壊を視野に入れるも、大網白里町の文化財指定があり、取壊は免れる。
  ◇この門は浅草法詔寺からの移建という可能性も考えられ検討を要する。
2010/12/03追加:
○「千葉県指定史跡宮谷県庁跡本国寺本堂保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、2003 より
寛永19年本能寺(日隆門流)23世智泉院日達は日興門流と合同して、宮谷および大沼田から独立して細草檀林を開設する。
2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
大沼田檀林初祖である鷲山寺13世日乾上人が上総に開基した5ヶ寺の一つである。
元和8年(1622)「新寺禁制」の法に抵触し、廃寺となる。その後鷲山寺18世日達上人が隠棲する。
寛永19年(1642)細草檀林が開創され、法雲山遠霑寺と号する。
寛永19年「細草新談所由来」では境内東西80間、南北1百歩と云う。
堂宇学寮などについては必ずしも明らかでないが、講堂、方丈、書院、番神堂、表門、裏門(要行寺山門として現存)、学寮20余棟があったと断片的な記録が残る。
2012/07/10追加:
○「法華宗宗門史」法華宗宗門史編纂委員会編、法華宗(本門流)宗務院、1988 より
大沼田檀林では、寛永13年(1636)日乾(沼田檀林中興)の寂後、陣門の勢力が強まり、隆門・興門と陣門との間で紛争が生ずる。
寛永18年には学徒の争いが激しく、存亡に危機に立つが、鷲山寺日弘はこれを復興、さらに京妙蓮寺日崇は敬台院にこの事情を告げ、敬台院夫徳島蜂須賀氏を動かし公儀へ訴願し、檀林新設の許可を受け、ここに細草檀林法雲山遠霑寺を創す。
初代の化主は智泉院日達(光長寺18世、鷲山寺18世)、敬台院は講堂・所化寮・諸道具一式を寄進する。
大沼田檀林は陣門の学徒を受け入れるも、細草は冨士門流の学徒を多く受け入れる。
寛政2年(1790)の記録では寺領25石寺域33、834坪とあると云う。
 細草檀林跡:檀林は現在の白里中学校にあったというから、写る建物は白里中学校校舎であろう。
  上述のとおり、遠霑寺は現地付近に昭和42年再興されたものと云う。
2012/07/10追加:
細草檀林成立の詳細は → 冨士門流三鳥派(三超派)・細草檀林 を参照。


上総宮谷檀林(法流山本國寺):大網白里町;勝劣派檀林

創建は空海で真言宗阿蘭若興善寺と号したと伝える。
文明3年(1471)日肝(中興開山上人)の時、土気城主酒井定隆による改宗(七里法華)があり、法流山本国寺と改号する。
元和8年(1622)10世日純(後妙満寺30世)は檀林を創設し、宮谷檀林と称する。
日什門流(現在の顕本法華宗、妙満寺派)であったが、什門だけではなく、勝劣派の中心檀林の役割を担う。
堂宇10棟、塔頭12ヶ院、学寮約50を有し、学徒は800人を超えると伝える。
明治2年、境内に宮谷県庁が設置され、檀林は休止。
明治25年、大学林として復興するも、明治33年再度廃校となる。
現在は幕末の本堂を残すのみ、そのほか祖師堂・客殿などの存在が知られる。
2010/12/03追加:
○「千葉県指定史跡宮谷県庁跡本国寺本堂保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、2003 より
宮谷檀林設立の経緯は以下のとおり。
元和7年(1621)中村檀林にて学徒の間に一致勝劣の口論があり、勝劣派学徒50余名が中村を退出。
復学を望むも受け入れられず、翌8年、幕臣久世広宣の尽力で、日純は将軍秀忠に謁し、檀林開設の許可を得る。
元和8年(1622)日純は自身の実家の菩提寺であった宮谷本国寺に檀林を開創する。
  ※日純は常楽院日経の弟子で宮谷檀林は日経の遺流の一つという。
 勝劣派(日什門流、日陣門流、日興門流、日隆門流)合同の檀林であった。
その後、
元和8年(1622)宮谷檀林開設と同じ年に、隆門鷲山寺日乾上人により大沼田妙経寺に大沼田檀林が開設される。
寛永19年本能寺(日隆門流)23世智泉院日達は日興門流と合同して、宮谷および大沼田から独立して細草檀林を開設する。
享保8年(1723)日陣門流は三条本成寺23世日尭、陣門の興隆を謀るため、宮谷より独立し、三沢檀林を開創する。
 かくして、以降宮谷檀林は什門の檀林となる。
明治元年安房上総知県事となった柴山典の記録では「・・・本國寺とて一大寺院数十軒の学寮あり方今仏法衰微半は廃屋となり無用のものなれば示談をもって借り受け」県庁となすとある。
明治維新で中断した檀林は明治25年より明治33年まで宮谷大学と称して活動したと云う。
現在は本堂(旧講堂)、客殿、庫裏、山門を残す。
 講堂の略歴は以下のとおり。
寛永14年(1637)講堂建立、元禄11年(1698)講堂再建、嘉永元年(1848)講堂再々建。
昭和37年講堂修理、屋根を入母屋造に改造、屋根は瓦棒銅板葺、向拝屋根を鉄板葺から銅板葺に改める。
平成14年講堂修理、屋根を嘉永元年再興時の茅葺形銅板葺の寄棟造に復元する。

宮谷本国寺境内図:左図拡大図

大正11年3月朝日講の際に本漸寺中村日錦が「宮谷懐古」と題する講演のため作成と云う。

2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
寛政6年(1794)「法流山本国寺書上記」では
「境内21町余・・・塔中10坊 末寺42ヶ寺、惣門額庫裏大書院宝蔵大講堂・・・・本堂鐘楼堂番神鎮守八幡・・・。
経蔵・・鎮守大黒天社建北谷嶺弁財天女社建、溜池上稲荷天満宮学室東谷西谷南谷北谷也、惣軒数120軒余、大衆635人集会」とある。
 宮迫檀林本国寺配置図:上記「宮谷本国寺境内図」などを参考にして作成
本堂は延宝5年(1677)、安永9年(1780)、享和2年(1803)再建される。
講堂は寛永14年(1637)日要建立、元禄10年(1697)、嘉永元年(1848)再建される。
寛永14年建立講堂は茂原行光寺本堂として現存する。
 本堂棟札裏には「干時寛永第七四太才丁丑歳・・・」とあり、
 「茂原行光寺縁起由緒」(明治36年)では「本堂(6間5尺×6間4尺)は客殿の形に修営す。現来宮谷檀林の講堂なりしが、
 建替の趣を聞き込み・・・元禄15年該講堂を希請し・・建築せしと云う」とある。
  寛永14年宮谷檀林講堂平面:茂原行光寺本堂
  嘉永元年再興宮谷講堂平面
なお、学生は平均400人前後で、寛政9年(1797)には635人を数えると云う。


武蔵三沢檀林(法照山豊顕寺):勝劣派檀林:横浜市神奈川区三ツ沢西町

永正12年(1515)三河国八名郡多米(ため)に多米周防守元興は父元益の追善供養のため、鷲津本興寺末本顕寺を建立する。
その後、久米氏は後北条氏に重用され、元興は天文20年(1551)本顕寺を武蔵国久良木郡三沢に移転し、法照山豊顕寺と改号する。
天正18年(1590)秀吉の小田原城攻めで、多米氏は滅亡する。
享保9年(1724)日尭、武蔵豊顕寺に檀林を設置。
本堂は天保14年(1843)建立、客殿・庫裏は安政5年(1858)建立。
現在は法華宗陣門流総本山本成寺末である。法照山と号する。
2010/12/03追加:
○「千葉県指定史跡宮谷県庁跡本国寺本堂保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、2003 より
享保8年(1723)日陣門流・三条本成寺23世日尭、陣門の興隆を謀るため、宮谷より独立し、三沢檀林を開創する。
2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
永正12年(1515)本成寺9世日覚の弟子日持上人が開基する。
 (後北条氏与党である多米元興、父元益の追善供養のため、遠江本興寺末寺として三河多米の地に本顕寺を建立する。)
天文20年(1551)多米元興、現地武蔵三沢に移し、豊顕寺と改号する。
享保5年(1720)檀林設置の許可が裁可される。
陣門では初め宮谷檀林を拠点とし、その後は大沼田檀林に移り、享保年中に陣門流の檀林を持つこととなる。
享保8年頃には経蔵、八幡社、弁天堂、毘沙門堂、講堂5棟、学舎25棟があったとされる。
安政5年(1858)講堂、経蔵、鐘楼、物置、湯殿、学寮30棟などがあったと云う。
 三沢檀林配置図:明治年中、岡崎長福寺日祥「陣門流作法鈔」所収絵図などを基とする。
学生数は平均192人で、嘉永4年(1851)では244名の在籍と云う。


関西檀林

京都松ヶ崎檀林(本涌寺)

本涌寺は天正2年(1574)日生により創建、天正8年松ヶ崎檀林が開設。
開祖日生は比叡山に学ぶ、天正2年松ヶ崎の僧都山麓に講堂を構える。
天正5年日生は関東に赴き、飯塚檀林の創建に加わる。
天正8年松ヶ崎に戻り、ここに学室を開く。松ヶ崎檀林の成立。(最盛期は約300人の学徒が在籍と云う。)
 2024/02/05追加:
 ○「八日市場市史 下巻」:
 日生は播磨の生まれで、京都・岡山・比叡山に遊学中、日統・日尊らと交情を深め、
 天正5年その縁で日統に下総飯塚村に招かれ、飯塚檀林(後に飯高檀林の発展する)で開筵する。
 同8年日統は日尊に後事を託し、京都に帰り、松ヶ崎檀林を開く。
 その後、文禄4年(1595)43歳で示寂する。
本涌寺の立地は東に妙円寺、西に妙泉寺(立本寺末)がある。
大正7年本涌寺は妙泉寺を合併し、寺号を涌泉寺と改号する。
本涌寺は京都内野立本寺末、生師法縁。
 ※妙泉寺跡<下に掲載>は松ヶ崎小学校となり、地上には何の痕跡もない。
◇「都名所圖會 巻6」:
 松ヶ崎(檀林)
「松崎本涌寺は開基日生上人にして、日蓮宗派なり。天正年中に法華円純の学室となる。妙泉寺は日像上人のひらき
給ひし所にして同宗なり。毎歳七月十六日堂のまへにて、此里の老若男女うち交り、題目にふしをつけ声おかしく拍子
とり、踊り狂ふなり。是なん松崎の題目をどりとて名に高し。其夜うしろの山において、妙法の二字を焼火に顕し、聖霊会ゑ
の送火とするなり。」
 ※なお、絵図にある七面社(妙泉寺と本湧寺の中間の鳥居を北西に上る)は相当荒れているが、今も健在である。
  但し、図中の日輪瀧・月輪瀧は痕跡のみあると思われる。(今は涸れる。)この境内は湧泉寺管理地と思われる。
  2012/11/29追加:天正4年(1576)日諦僧正が勧請。本尊は涌泉寺に安置 、「七面山の御祭」「お火焚祭」には本尊が当地に遷座すると云う。
◇「近世日蓮宗松ヶ崎檀林の堂舎構成」丹羽博亨、羽野隆 より
 (「日本建築学会計画系論文集 第485号、183-192、1999.7」所収)
承応3年(1654)講堂が建立。
以下の各種境内絵図が残る。
 ◇享保18年(1733)松ヶ崎檀林境内図
各種境内絵図を総合すると、以下のような檀林の配置であった。
 境内地は東西88間、南北30間、
境内中央に講堂・食堂(飯台)・方丈(能化寮)・学文所・納所・浴室が配置される。西には表門、東には裏門を構える。さらに講堂・食堂の前広場南(石段下)に所化寮2棟がある。
東側(東谷)には、講堂東側石段を上った平坦地に対論場・経蔵、東に所化寮2棟、その中間に鳥居がある。さらに上ったところに鎮守と拝殿がある。その上の平坦地に対論場・玄能寮がある、さらに上ったところにも鎮守・拝殿がある。
西側(西谷)には最も低い平坦地に板頭寮、その一段上に所化寮・対論場があり、石段下に鳥居、石段東の狭隘地に鐘楼、その上の平坦地に対論場があり、さらに長い石段上に鎮守と拝殿がある。廟所は西北にあると思われる。
 ◇宝暦7年(1758)松ヶ崎檀林境内図
享保18年とほぼ同一配置であるが、方丈・学文所・納所が大規模化している。北東の社殿は番神社、この両脇は対論場、東西両谷に書く対論場2棟が建築される。
 ◇明和6年(1769)松ヶ崎檀林境内図
西谷に板頭寮が配置(所化寮の南下段)
 ◇安永7年(1779)松ヶ崎檀林境内図:明和6年図と大差がない。
 ◇安永9年「都名所圖會 巻6」:絵図などは上出のとおり。
入母屋造の講堂、その左は妻入の食堂、背後は方丈、講堂右に石段上に経蔵と鳥居、さらにその上に鎮守がある。講堂前庭には井戸屋根形があり、その善方に所化寮の屋根がある。表門・裏門も描かれている。
 ◇文化7年(1810)の資料では
敷地:88間に30間、表門:明8尺、門番所:2間半に1間半、鎮守:3尺に2尺5寸、拝殿:1間に5尺6寸、鎮守:1尺に2尺、拝殿:1間に4尺5寸拝殿、鎮守3尺に3尺、拝殿:1間に4尺5寸、
講堂:7間に6間、方丈:9間に3間、経蔵:1間半四方、鐘楼:1間半四方、食堂:6間に5間、納所寮:3間に1間1尺、下部屋:1間に1間2尺、薪部屋:2間半に2間、浴室:3間に2間2尺、桶所:2間5尺に1間半、本院対論所:3間半に2間半、玄講堂:7間に3間、所化寮:8間半に2間半 11間半に2間半 21間半に2間半 23間半に2間半 23間半に2間半 14間半に2間半、対論場:2間半に2間、対論場:3間半に1間半、対論場2間半に2間、裏門:明6尺5寸、井戸屋形:1間2尺に1間、露地門:1間に3尺5寸、開山墓:1丈四方、墓地:南北4間半に東西7間半
とある。
 ◇明治4年「寺地画図」
基本的に江戸期の配置と変らない。但し東側鎮守は刹堂、西は妙見堂という。
 ◇「松ヶ崎涌泉寺現状略配置図」:「飯高寺講堂と檀林について」玉井哲雄、丸山純ほか 所収
破線で示す現状墓地になっている雛壇状の敷地に学寮があったと云われる、またそれら以外にも木立の中に整地されたと思われる平坦地が幾つか確認できる。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
 松ヶ崎檀林本堂平面図:桁行7間、梁間6間、入母屋造、屋根本瓦葺、正面に1間の広椽、左右は半間の落椽を廻らす。
承応3年(1654)建立。
◇松ヶ崎本湧寺(湧泉寺)現況
   参考:湧泉寺概要地図      湧泉寺航空写真

 本湧寺伽藍概略図:左図拡大図

2007/08/30撮影:△印、2012/11/15撮影:▽印
本湧寺表門:西から撮影
 ▽本湧寺表門2
本湧寺講堂:西南から撮影、承応3年(1654)建立
 ▽本湧寺講堂2     ▽本湧寺講堂3
生 師 廟:南から撮影、開祖日生上人廟
松ヶ崎檀林の開祖である教蔵院日生上人廟である。
地元では「教蔵院さん」と呼ぶという。
8月15・16日は涌泉寺の境内で題目踊、さし踊が行われる。

 △本湧寺学室石碑:表門右手にある、「法華宗根本學室」
 △本湧寺参道法華題目碑:ここに2基ある、中央の石碑は「眼病救護七面大天女道」 とあり、石碑の背後に七面社参道がある。
               左奥に祠が鎮座する。
 ▽松崎山題目碑:本湧寺参道その1      ▽参道法華題目碑:本湧寺参道その2
 ▽松崎山妙泉寺題目碑:現在の涌泉寺表門前にあるが、妙泉寺より移設したものであろう。
 ▽表門前題目穂:これも現在の涌泉寺表門前にあるが、法華宗根本学校道とあ り、街道に面した本湧寺入口がある場所から移設されたものであろう。
 △西谷板頭寮跡平場     △西谷連絡石階     △西谷所化寮平場     △西谷対論場平場
 △東谷講堂横連絡石階     △東谷所化寮平場
  ▽東谷玄能寮跡平場:写真中央部

 △講堂下東所化寮平場:現状は日蓮宗尼衆宗学林がある、ここに講堂下の東所化寮があった所と推定される。東から撮影。
            写真中央手前建物が日蓮宗尼衆宗学林
  参考:日蓮宗尼衆宗学林
      大正8年、村雲瑞龍寺10代日栄門跡の発願により、松ヵ崎妙泉寺の跡地に「尼衆修道院」を創立。
      昭和18年、現校名に変更。
      昭和29年、休校(生徒数減少による)
      昭和50年、旧松ヶ崎檀林(本湧寺)境内に復興、日蓮宗唯一の尼僧教育機関とされる。
 △講堂下西所化寮平場:現状は民家と思われるも、ここに講堂下の東所化寮があった所と推定される。西より撮影。
  ▽講堂下所化寮跡平場2:西より撮影

2007/09/05追加:
参考:松ヶ崎妙泉寺(廃寺)

正暦3年(992)中納言源保光が松崎寺を創建、円明寺と号す、後に歓喜寺と改号、延暦寺末であった。
徳治2年(1307)日像上人京都弘教、歓喜寺実眼が日蓮宗に改宗、寺号を妙泉寺と改号する。
天文5年(1536)の天文の法難で、焼亡。
天正3年(1575)に寺院再興と云う。江戸期を通じ寺院は存続するも、明治維新前は寺中全て無住となる。
明治8年妙泉寺に(松ヶ崎)仮小学校開校、塔頭止静院(坊名不明)を始めとする5ヶ院は妙泉寺に合併。
明治9年五ヶ院廃寺跡地に(松ヶ崎小学校)独立校舎を建てる。
大正7年妙泉寺は本涌寺と合併し、寺号を本涌寺は涌泉寺と改号する。
大正9年 妙泉寺本堂を撤去、松ヶ崎小学校敷地とする。(※これによると妙泉寺本堂は大正9年まで存続したと思われる。)
○「都名所圖會 巻6」:
 松ヶ崎(檀林):左下部分に妙泉寺が描かれる。(絵のみで文は全くなし。)
○「リーフレット京都 No.189 松ヶ崎妙泉寺の江戸時代」京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館、2004年10月 より
 寛政元年松ヶ崎妙泉寺絵図:地元岩崎晧氏蔵
 妙泉寺と松ヶ崎小学校関連図:岩崎氏作図が原図
  ※岩崎氏は寛政元年(1789)、天保14年(1843)、嘉永3年(1850)年紀の3枚の絵図を所有と云う。
  ※掲載の絵図が若干不鮮明であるが、本堂、方丈、鐘楼、石塔堂、冠木門、鎮守・拝殿と思われる堂宇、
   その他2・3の小堂、並びに寺中観蓮坊、春妙坊、寿如坊、智?坊、了山坊の5寺中が存在した様子が分かる。
2012/11/29追加:
 ▽松崎山妙泉寺題目碑:現在の涌泉寺表門前にあるが、妙線寺より移設したものであろう。 (上の松ヶ崎檀林に掲載済)
2017/09/26追加:
○日像上人略伝(「岡山市史」) より
永仁2年(1294)松崎歓喜寺實眼僧都、日像の説法中屡々来たりて論難するも、日像皆撃破す。
徳治元年(1306)松崎の實眼寂す、日像實眼の門徒の請に応じ7月14日より16日迄大いに妙法を説く、與村帰依して妙題を唱へて他経を棄て、寺を改めて妙泉寺といふ。
  →日像上人略伝
2016/10/02追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
延暦年中比叡山三千坊の一つ歓喜寺として、創建される。
永仁2年(1294)住僧實眼、日像に帰依しその門に入る。
徳治元年(1306)7月に全村民が悉く舊宗を捨て法華の信者となり、妙泉寺と改める。


京都求法院檀林(六条檀林)

○「遺拾・都名所圖會」;
本圀寺壇林求法院:妙見堂・四観の松。宝珠院:七面明神社あり。
○壇林求法院:方丈奥庭塀外(北)にあった。(即求法講院)
天正11年(1583)本国寺16世日メA本国寺に檀林を開設、日重が講授する。
天明8年(1788)大火で焼失。
妙見堂:開基日重上人の開眼なり。一致派の学室、当国六檀林の一員なり。
四観松(しかんのまつ):求法院講堂の東南にあり。
 求法院檀林寺地画図:画像相当不鮮明:「近世日蓮宗飯高檀林の堂舎構成」 より
  ※妙見堂は本図の北西隅に描かれる。
2014/11/12追加:
○求法院檀林妙見大菩薩
求法院檀林の妙見大菩薩は廃檀後、同じく寺中の信正院に遷され、その後信正院は移転、合併(本栖信正院)、伏見に移転(信正山本栖寺)するも、伏見の地に妙見堂が建立され、妙見像も遷されていると思われる。
 → 信正山本栖寺
2011/04/11追加:
○「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(「広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
天正19年(1591)本圀寺境内に学室を設け、一如院日重を開基とする。
天明8年(1788)の大火によって類焼する。ただちに講堂は仮建され、その他の堂舎も再建される。
天明の大火以前の堂舎構成は不明である。しかし
寛政3年(1791)の「本圀寺古図」(寛政3年本圀寺境内図)は天明の大火以前の景観とも思われ、これによれば以下の堂舎構成と云う。
 敷地(南北47間、東西36間)、表門(高麗門)、門番所、宮(妙見)、講場3棟、経蔵、講堂(10間×8間・小棟造)、能化寮、食堂、板頭寮、中頭寮、ニ老寮、三老寮、四老寮、五老寮、所化寮4棟、井戸屋形、重師廟所
 表門は北にあり、西辺に所化寮、三老寮、所化寮、ニ老寮、南西隅に講場、経蔵を配す。
講堂は西面し廊下で食堂、その背後の能化寮を繋ぐ。能化寮の北に板頭寮、北東隅に妙見と鳥居、井戸屋形がある。その南には講場と玄能寮を配置する。
南辺には重師廟所がある。その他寮舎は東西方向に3棟あり、各機能別に区分して使用される。
天明の大火後の堂舎配置は明治4年寺地画図で知ることができる。
 本圀寺寺地画図
◇求法院檀林講堂
講堂は明治6年の廃檀後、深草墨染寺(下に掲載)本堂として移建され、現存する。
 伏見墨染寺本堂平面図

深草墨染寺
○明治3年「日蓮宗本末一覧」
 甲身延山末、妙傳寺支配 墨染寺 とある。
2011/06/18撮影:
深草山墨染寺:上述のように本堂は求法院檀林講堂を移建と云う。
天正年中、豊臣秀吉深草貞観寺旧地を日秀上人に与え、墨染寺を創建す。その後現在地に移転する。
現在は頗る衰微し、街中に本堂・近年改築の庫裏のみを有する状態である。
 深草墨染寺本堂1     深草墨染寺本堂2     深草墨染寺本堂3
2017/04/29撮影:
桜寺と俗称する。境内に薄墨のように咲く墨染桜が植わっていることによる。
 深草墨染寺山門     墨染寺山門脇題目碑     墨染寺境内題目碑
 深草墨染寺本堂4      深草墨染寺本堂5      深草墨染寺本堂6
 墨染寺本堂扁額(桜寺)     墨染寺本堂扁額(鬼子母神)     本堂前題目碑その1     本堂前題目碑その2
 墨染井手洗石:墨染井手洗石は江戸役者中村歌右衛門(二代目)が明和5年(178)7月に寄進と刻する。
 深草墨染寺庫裡:庫裡の左前に切妻の小宇が写るが、これが毘沙門堂で、ここに伏見(廃)法性寺の毘沙門天像を祀る。
※伏見法性寺は現在退転し、祀られていた毘沙門天は深草墨染寺に遷座するという。遷座した毘沙門天像は墨染寺毘沙門堂に安置される。 → 伏見法性寺
 墨染寺毘沙門堂内部     (廃)法性寺毘沙門天像


京都東山檀林(妙恵山善正寺)

文禄4年(1595)瑞竜院日秀尼、秀次菩提のため、嵯峨亀山に一宇を建立、善正寺(秀次法名)と号す。慶長5年今の地に遷す。寛永年中東山檀林が設置される。
秀次・村雲瑞竜寺墓所。本圀寺に属する。
2015/01/18追加:
○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864) より

巻3:妙恵山善正寺:左図拡大図

法華宗一致派本圀寺に属す。

開基は求法院第三世本妙院日鋭上人、本願は関白豊臣秀次公の母公獣瑞龍院日秀法尼、関白秀次公の追善のため建立する。
秀次公法名は善正院殿高岸道意大居士と号する故に善正寺と名付けたり。

◇「拾遺都名所圖會 巻2」:
[法華宗にして本圀寺に属す。開基は日鋭上人、本願は関白秀次公の母義瑞龍院日秀尼なり。則秀次公追福の為に建立し給ふ。秀次公の法名を善正院殿高岸道意と号す。当寺は山城国六檀林の一室なり、第四世日演上人興起す〕
釈迦堂〔上壇の地、本堂の西にあり。本尊釈迦仏は金銅の坐像九寸余。元和元年二月十三日肥前の国玉名郡中村の民人霊夢を感じて漁人の網に揚れり、希代の霊尊にして、宗徒常に詣す〕
鐘楼:寛永17年
◇2011/01/13撮影:
明治維新後おそらく廃檀となり、近代化とともに境内は学校や住宅などに転用され、境内も縮小・近世の建物もほぼ姿を消し、今では、往時の寺域や寺観を想像することは難しくなっている。
現在は本堂・本師堂・善正殿(秀次廟)・鐘楼・庫裏などの建築がある。しかし、本堂・本師堂・善正殿は新しく、近年に木造建築として造替されたものと推定される。
 東山檀林門前:学室石碑・石階などが辛うじて、往時の雰囲気を伝えるが、この石階などが往時のものかどうかは不明。
 東山檀林学室碑:善正寺・学室・妙慧山などと刻む。この石碑が往時のものかどうかは不明。
 東山檀林善正寺参道:この参道も辛うじてかっての雰囲気を残すが、往時のままかどうかは不明。
 東山檀林善正寺堂宇:左から本師堂、本堂、鐘楼、背後は庫裏
 東山檀林善正寺善正殿:本堂・本師堂とともに正規の寺院建築として近年に造替されたものである。
  ※2014/09/10追加:
  「「伸和建設資料 T、U」によれば
  善正寺御霊屋(善正殿)は昭和60年、善正寺釈迦堂(本師堂)及び善正寺客殿は平成5年の建立という。
 2014/10/12撮影:
  東山檀林門前2     東山檀林本堂1     東山檀林本堂2
  東山檀林本師堂1     東山檀林本師堂2     東山檀林本師堂3     東山檀林鐘楼
  東山檀林善正殿2
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
寛政元年(1789)頃「東山檀林善正寺古図」では
 敷地(南北70間、東西65間)、表門(高麗門)、半門、裏門、妙見宮、番神堂、玄義講義所、文句講義所、鐘楼、玄能寮、本堂(7×8間)、釈迦堂(6間四面)、客殿・玄関、書院、庫裏、食堂、大頭寮、くず屋、経蔵、秀次霊屋、雪隠、所化寮5棟
が描かれる。
 西に表門を開き、その付近にくず屋と玄義講談所が配される。石段を登って正面が本堂、その西側に釈迦堂が何れも南面し、釈迦堂前に鐘楼、本堂東に経蔵、本堂背後に廊下で客殿・書院・庫裏・食堂に連絡する。
北西に玄能寮、北東に鎮守妙見社がある。大頭寮は北東にある。南東には文句講義所と番神堂がある。所化寮は西辺に3棟、北辺に1棟、東辺に1棟が配される。秀次廟所・墓所は北辺にある。
基本的に「東山名勝圖會」元治元年(1864):妙恵山善正寺(上掲)と同一の配置である。

◆関連事項
2014/09/10追加:
○豊臣英次の実父・日海上人(瑞竜院日秀尼の夫、弥助、後に豊臣吉房・三好吉房)開基一音院は六条本圀寺塔頭として現存する。
2014/09/10追加:
○寺町四条旧大雲院境内より関白秀次供養塔と推定される地輪を発見
  → 寺町四条旧大雲院北野天神鐘楼中)
2014/08/22次の新聞報道がなされる。
 イビソク関西支店(伏見区)<民間発掘調査会社>が四条寺町の大雲院跡地で、豊臣秀次の供養塔の一部を発見と発表
発見されたのは五輪塔の地輪で「文禄四年/禅昌院殿龍叟道意大居士/七月十五日」と刻される。「道意」とは秀次が高野山に入寺したときの法号であり、文禄4年7月15日は秀次が自害した日である。地輪の大きさは23cm四方で高さ16cmを計る。
この秀次五輪塔は貞安によって密かに建立されたものと推定される。三条河原の瑞泉寺の「瑞泉寺縁起」では貞安は三条河原の刑場を訪ねたと記すようであり、おそらくは秀次と貞安とは何等かの繋がりがあったもの思われるからである。
 秀次供養塔地輪
なお、墓所の一つである京都三条河原瑞泉寺では秀次の戒名は「瑞泉寺殿高巌一峰道意」と号し、今般発見された秀次戒名とは異なるが、これは大雲院貞安が付与したものであろうと思われる。
秀次墓所:
今般寺町四条の大雲院旧地から発見された地輪は供養塔のそれであり、墓所ではない。
秀次墓所は、東山善正寺の他、三条河原瑞泉寺及び紀伊高野山光台院裏山にもある。
 2016/04/09撮影:
  瑞泉寺殿秀次墓所     秀次及連座処刑者五輪塔     瑞泉寺本堂庫裡
  瑞泉寺旧山門瓦:中央の菊花紋がセメントで塗り潰されている。
  これは明治の神仏分離に付随した廃仏稀釈で「皇室」を憚って、自主的に処置したものとの説明(掲示)がある。
  強制ではなく自主的であったとしても、時代がそれを許さなかった訳で、げに国家神道とは恐ろしきものかな。


京都鷹峯檀林(常照寺)

元和2年(1616)、本阿弥光悦土地を寄進、嫡子光磋の発願で、日乾上人を招じて創建される。
寛永4年(1627)、日乾鷹峯檀林を開設する。
現在旧本堂(講堂)は退転。あるいは現本堂は近年の改築と云う。(寺院の説明)
また、山門は吉野太夫寄進と云う。
2011/04/11追加:
 ◇鷹峯檀林「学室」扁額:本阿弥光悦筆;常照寺派発行「リーフレット」より転載
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
第3世日揚は旧の講堂を廃し、中村檀林講堂に酷似する大講堂を建立。
元禄元年大門建立、万延元年(1860)大講堂焼失、慶応2年(1866)講堂再建。
 鷹峯檀林配置古図:講堂は「焼失後未建立不在」とあり、万延元年-慶応2年の間のものであろう。
 鷹峯檀林平面古図:上図とほぼ同一の堂舎配列である。
配置古図によれば
 敷地東西60間、南北70間、大門(薬医門)、門番所、妙見宮、七面社、鐘楼、玄義論場、止観論場、玄頭寮、玄堂、講堂(7間×9間半)、方丈(6間×14間)、飯台場、板頭寮、中座寮、経蔵、土蔵、小家2棟、廟所、所化寮6棟 がある。
南に大門を開き、大門正面に板頭寮があり、その前に飯台場、東に玄堂がある。その背後に講堂があり、廊下で方丈に連絡する。玄頭寮と玄義講場は西側、止観講場と中座寮は東側に位置する。廟所・墓地は北東に妙見社と七面社は北西にある。
2016/06/19追加:
○安永9年(1780)初版本「都名所圖會」 より
 「都名所圖會」鷹峯: 光悦寺及び題目堂、檀林常照寺、圓成寺(寺名表示はない)、源光房の寺院が描かれる。
2024/04/26追加:
○2024/04/25朝日新聞関西本社夕刊 より
 鷹峯檀林妙見大菩薩立像:秘仏
2011/04/15追加:
鷹峯檀林現況:2011/04/02撮影:
 鷹峯檀林碑     本堂日潮上人扁額
 鷹峯檀林山門(赤門):吉野太夫寄進と云う。また門は近代に改造されてとも云う。
 鷹峯檀林本堂:建築年代は良く分からない。
 現在以下の小宇を有する。
 鷹峯檀林開山廟:身延21世日乾上人の五輪塔を安置する。
  なを写真左(一番奥)に生垣に囲まれた宝珠と笠を載せた墓碑が写るが、この墓石は吉野太夫の墓碑である。
 鷹峯檀林鎮守常冨大菩薩     鷹峯檀林鬼子母神     鷹峯檀林遺芳庵茶席


山科檀林(竹ヶ鼻護国寺):JR山科駅南(山科京極)に現存する。

京都山科檀林:JR等山科駅前に現存する。
寛永20年(1643)日勇(京都妙傅寺14世)により創建、京都六檀林の一つ「山科檀林」が設置される。
 ※この地はもと廃護国院(真言宗)があった場所と云う。
 ※檀越は妙恵院(四条隆術の室)。
 ※京都妙傳寺
2014/12/31追加;
サイト「山科護国寺」では以下のように述べる。
 「妙慧院(参議四条隆術の室)は、深く日勇上人に帰依し、自ら開基檀那として寛永20年(1643)了光山護国寺を開創する。
 この時、信徒である東福門院(後水尾天皇皇后、徳川秀忠の娘和子)は大講堂と方丈を寄進、
 さらに紀伊徳川光貞及び室天真院は総門と学寮を建て、日勇上人は護国寺に山科檀林を開闢する。
 慶安元年(1648)日勇上人、弟子寂遠院日通上人に化主(住職)を譲り、慶安3年護国寺にて遷化す。
 日通(第2世)は、妙玄講堂・論議場(妙玄講堂を寂遠院と称し、論議場を通玄峰と号する)を設け、檀林制規を制定する。
 なお日通上人は東山妙傳寺16世、池上本門寺20世、身延山30世に晋山、飯高檀林の化主を務る。」
 「総門と旧学寮は、創建時に建立される。
 開山の日勇に帰依した紀州徳川家2代藩主・徳川光貞、その室天真院殿(安宮照子)の寄進による。
 総門はその娘の台嶺院殿、伏見家の高厳院殿が施主になる。学寮は明治5年に喪失す。総門は現存し欅造りになる。」
 「総門:紀州徳川家からの寄進:
 護国寺で唯一開創当時から残る欅造りの門である。開山の日勇聖人に深く帰依していた紀州徳川二代藩主である
 徳川光貞とその妻安宮照子(天真院殿)が願主となって建立される。
 またその娘の台嶺院殿、伏見家の高厳院殿が施主として名前を連ねている。」
明治5年廃檀。その後荒廃し、20年間無住と云う。
現在は以下の堂宇がある。
総門:唯一残存する創建時の門と云う。本堂はRC造(昭和37年造替)。鐘楼、日勇上人廟(元妙見堂)を有する。
◇「拾遺都名所図絵 巻2」:天明6年(1786)
 護国寺〔同所(地蔵院)南側にあり、法華宗にして、開基は日勇上人なり。京師妙伝に属す、一派の学校なり]
  竹ヶ鼻護国寺
  ※北側に表門があり、この門が現存する山門(総門)であろう。本堂、食堂、経蔵、妙けん社・同拝殿・同鳥居、鐘楼、裏門
   の他多くの学寮などの施設があった様が描かれる。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
寛永20年宇治郡古刹護国院の跡に日勇を開祖として開創され、四条隆術の外護により大講堂、方丈、総門、衆寮2宇が建立される。その後寛文年中前後に日通により妙玄講場、所化の論義所などが整備される。
 貞享5年山科檀林古図
上記の貞享5年(1688)の古図では
敷地東西58間南北62間、表門、門番、裏門、妙見宮、釣鐘堂、玄義部屋、本堂(講堂)、客殿・玄関、台所、食堂、所化寮8棟
がある。
北に表門を開き、近くに玄義部屋を配する。本堂は南面し、廊下で客殿、台所、食堂に繫がる。北東に談合部屋、釣鐘堂、妙見宮・拝殿がある。所化寮は南側に3棟、東側に4棟、北側に1棟ある。
 元禄10年山科檀林古図
上記の元禄10年(1697)古図と貞享5年古図との違いが、本堂(講堂)が6×8間で東面し、書院は4間半×7間になる。その他堂舎の新築・改造が少しある。
 寛政元年山科檀林古図
上記の寛政元年(1789)古図の堂舎構成は上記の「拾遺都名所図絵 巻2」天明6年(1786):竹ヶ鼻護国寺と基本的に同じである。
本堂(講堂/寄棟造)は7×5間に規模が縮小され、客殿も3間半×6間半に縮小される。
なお寛政元年の配置は明治5年の廃檀まで変化がない。
2014/12/18撮影:
現在、付近は山科駅南の繁華街となり、寺域はかなり縮小されているものと思われる。
 山科檀林題目碑1:學校とあり、左右には「了光山」「護国寺」と刻する。
 山科檀林題目碑2:写真向かって右に赤褐色の背の低い石碑が写るが、この石碑は「だんじょ妙見宮」と刻む。
  ※「だんじょ妙見宮」碑:未見:「護国寺(山科区)」<リンク切れ>のページより転載。
 山科檀林総門1     山科檀林総門2
 山科檀林本堂1     山科檀林本堂2     山科檀林本堂3     山科檀林鐘楼
 北辰妙見宮石灯篭竿:妙見宮前にあったと思われる石燈籠の残欠で竿部分のみが残ったものであろう。
 山科護国寺開山廟:元妙見宮という。
 開山廟内部:中央は法性院日勇上人碑、向かって右は第二世寂遠院日通上人碑、左は第四世發心院日堯上人碑。
  なお、日堯上人は、「寛文12年(1672)山科檀林発心院日堯円頓者義海を著す」という。
 山科檀林歴代碑
2019/04/26撮影:
 山科檀林題目碑3     山科檀林題目碑4:元禄2己巳年(1689)の年紀     だんじょ妙見宮石碑
 山科檀林総門     山科檀林本堂4     山科檀林本堂内部     山科檀林鐘楼2     山科檀林庫裡
 山科檀林開山廟     開山廟開山日勇     開山廟寂遠院日通     開山廟發心院日堯     題目石(法界)


鶏冠井檀林(真経寺/北真経寺)

鶏冠井に於ける日蓮宗諸寺 →鶏冠井(北真経寺・南真経寺・興隆寺・石塔寺)を参照。

徳治2年(1307)西国に赴く途中、日像上人は向日明神の導きで、鶏冠井に至り、説法して、鶏冠井を皆法華となす。
この時、鶏冠井村真言宗真言寺の実賢律師を折伏して改宗させ、名を真経寺と改号する。
明暦3年(1657)通明院日祥上人が真経寺に17堂舎を設け檀林を設立し、真経寺は2分される。
 ※現地の説明板などでは開檀は承応3年(1654)とする。
即ち真経寺は檀林として北真経寺<四条妙顕寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」) >と称し、新に信仰の対象として、興隆寺西南に南真経寺が移転・建立される。
 2016/03/26追加:
 ※檀林は「冠山庠」とも称する。(「日本歴史地名大系 26 京都府の地名」)
 また「冠山檀林」とは鶏冠井檀林と推定され、「冠山檀林」とも云われた思われる。
 <大和常徳寺歴代墓碑に「冠山檀林二百七世文講」と刻む墓碑がある。>
 おそらく、冠山とは山号の鶏冠山を示すのであろう。また庠(ショウ)とは「まなびや」の意である。
近世の姿は次で知ることができる。
 「拾遺都名所圖會 巻三」天明7年 より:西岡鶏冠井村 檀林
 「拾遺都名所圖會 巻三」天明7年 より:西岡向日興隆寺真経寺
  ※図の上が興隆寺で本堂・鐘楼・方丈・庭園などを具備した寺院であった。図の下が南真経寺。
明治初頭(現地説明板では明治8年)檀林は廃檀され、明治8年興隆寺も廃寺となる。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
 寛政元年鶏冠井檀林古図
上記の寛政元年(1789)は拾遺都名所圖會(天明7年)と同一の堂舎構成である。
この古図では
講堂(5間×7間)、探玄窟、方丈・客殿、土蔵、板頭寮、三十番神社、七面社、表門、経蔵、鐘楼、飯台、玄義寮、論義室、寮8棟、浴室、木工屋、裏門 がある。
敷地は東西46間南北44間である。西に表門を開き、付近に探義窟がある。講堂は南面し、背後に廊下で客殿、台所につながり、客殿は高塀で囲まれる。講堂東側に飯台、玄義寮がある。
板頭寮は北西に、文句講場、中頭寮は南東に、北側に浴室、講堂の前に鐘楼、経蔵、木小屋を配する。三十番神社と七面社は西側に鳥居を建てて在る。
講堂・客殿・台所・飯台・玄義寮・表門の遺構は現存する。
 鶏冠井檀林講堂平面図
5間×5間、寄棟造、本瓦葺、正面に1間の広椽を採り、落椽を廻らす。
◎鶏冠井檀林(北真経寺)現況
2007/07/19撮影:
 北真経寺本堂境内:廃檀後、学寮などは退転し、かなり広い境内は駐車場と化す。
   同     本堂;檀林当時の本堂が残存する。京都府登録文化財。
   同  本堂扁額:鶏冠山と号する。
2016/01/23撮影:
 近世の鶏冠井檀林:現地説明板を撮影
 鶏冠井檀林西門     西門内題目碑1     西門内題目碑2     鶏冠井檀林南門
 鶏冠井檀林北門:東門はあったとしても早くに退転か。北門は近年に再興されたと思われる。

本堂・妙見堂・食堂:向かって左から
檀林講堂(本堂)1:本堂は檀林時代の講堂の遺構である。
檀林講堂(本堂)2:左図拡大図
檀林講堂(本堂)3:本堂扁額
檀林講堂(本堂)4
檀林講堂(本堂)5
檀林食堂1     檀林食堂2:食堂も檀林時代の遺構という。
檀林妙見堂
鐘楼・経蔵     檀林鐘楼     檀林経蔵
鎮守(番神社か)
檀林探玄窟:檀林時代は西門を入ったところに位置する。
檀林方丈
論議堂・寮跡など
檀林松寮跡


京都大亀谷檀林(隆閑寺):勝劣派檀林

承応2年(1653)本能寺・本興寺20世日善、大亀谷檀林創立、明暦元年(1655)講堂建立着手。
 ※講堂材木は種子島公母が願主となり、種子島より寄進すると云う。
拾遺都名所圖會 巻4:
隆閑寺〔大亀谷のひがし、宇治道の南にあり。妙亀山と号す。法華宗にして、開基は洛の本能寺日達上人なり。法華勝劣派の学室とす〕
なお、法華宗大本山京都本能寺は元治元年(1864)の兵火で灰燼と帰す。
焼失後、隆閑寺学室を移築し、昭和3年に現伽藍が竣工するまで、隆閑寺学室を仮本堂としたと云う。
京都本能寺のページに仮本堂と思われる写真を掲載。
 仮本堂時代の本能寺本堂:推定
 明治後期の本能寺:「京都府写真帖」京都府、明41年 より
 本能寺伽藍:「京都名勝写真帖」風月庄左衛門、風月堂、明治43 より・・・2010/11/29追加
  ※上記は昭和3年以前の本能寺仮本堂の写真と思われる、
   であるならば、この写真の堂宇はまず隆閑寺学室講堂を移建した仮本堂であろう。
  ※但し、「仮本堂時代の本能寺本堂」と「明治後期の本能寺」「本能寺伽藍」の本堂向きなどが相違し、この点など究明が
  必要であろう。
2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
承応2年(1653)本能寺23世日達上人本能寺学問所を開設す。日達は鷲山寺・光長寺貫主、大沼田・細草檀林第1世である。
京都にも八品派教学の檀林の必要性があり、本能寺日善が日達を招じたものである。
承応元年本能寺日順の寄附により、大亀谷地藏院に敷地を得て、翌年に開設される。(日順は銀20枚で大亀谷地藏院を買収)
 ※大亀谷地蔵院については伏見妙栄山本成寺を参照。
堂宇・学室は以下のような様子と知れる。
講堂(明暦元年・1655種子島母公が寄進)、書院、飯台、南北寮、鐘楼、大門、地藏堂、番神堂、同拝殿、地主堂、学室など。
 明治5年隆閑寺境内絵図:「紀伊郡村々ニ在之社寺境内外区別下図」 :京都府立総合資料館蔵
上図では敷地東西25間南北22間半、講堂(西面)、北に飯堂と住居、南に長屋2棟、飯堂前に蔵、住居前に鐘楼、講堂南に三光堂がある。なおこの建築構成は京都妙蓮寺道林寺学室と同一である。
 ※敷地東西25間南北22間半とは境内除地で地蔵屋敷であろう、別途除地地蔵堂屋敷東西14間南北7間6寸があり。
 2016/01/09追加:
 上記と同一の絵図を掲載する。
  ○社寺境内外区別原図:「大亀谷六躰町隆閑寺」:京都府立総合資料館蔵
  本図は社寺上地令ならびに地租改正にともなう社寺境内外区別事業で作成されたものである。
  明治4年現境内地を除く境外社寺領(朱印地、黒印地、除地等)の上地を命じ(第一次上地令)、
  同年府藩県に対して社寺の境内外区別の取調を命ずる。
  この時作られたものが「社寺境内外区別原図」(明治4〜6年)である。
2013/06/17追加:
○「本能寺史料 本山篇(上)」藤井学・波多野郁夫、思文閣出版、1996 より
・361 三栖薬師寺主東光院他連署大亀谷檀林屋敷地寄進状
 京三條本能寺日善上人他大旦那宛
  伏見大亀谷六躰町地蔵院屋敷・同地蔵屋敷・・・間口は7間余・・・両所大破に及び・・・本能寺へ永代進上申しあげる・・・
   慶安5年(承応元年)(1652)
    三栖薬師寺主東光院、竹田安楽寿院寺主大弐、ほか各村年寄
・362 日善開眼大亀谷隆感寺棟札
 日善の花押あり 明歴元年(1655)年紀
・363 日善開眼大亀谷隆感寺棟札
 日善の花押あり 明歴元年(1655)年紀
・364 大亀谷談所隆感寺由緒書写
 壬辰歳伏見大亀谷談所妙亀山隆感寺建立、本は地蔵院の旧地、破廃の故に為す・・・当寺より銀子弐拾枚地蔵院の守に渡し、
 その後部屋70軒立、20軒は当寺が立、残50軒は勝劣6寺より立・・・当寺貫主日善、能下日達・・・・
・366 大亀谷隆感寺談所再興に付松平伊豆守書状
 ※元禄5年(1692)本能寺日円、大亀谷檀林再興を伏見奉行所に出願、元禄11年再興が成就と云う。
・379 伏見大亀谷隆感寺由緒等書上控
 ・・・元禄年中檀林再興の儀願出・・・、元禄年中談林飯台所・能下寮普請願出・・・・
  天保12年(1841)  本能寺役者
・386 大亀谷隆閑寺由緒・敷地坪数等届書
 ・・・ 境内除地 東西25間南北22間半 同除地地蔵堂屋敷 東西14間南北7間6寸 ・・・
  明治元年
・387 大亀谷隆閑寺檀林境内新開絵図
      大亀谷隆閑寺檀林境内新開絵図:明治3年、境内地の内(境内西か)、南北33間東西40間を寮などを取払、
       新開したということなのであろうか。但し取引とは不明。慶応4年には檀林衰退云々、明治元年には隆閑寺無住
       との届出もあり、維持が困難と云うことなのであろうか。
・387 大亀谷隆閑寺檀林建物間取絵図
      大亀谷隆閑寺檀林建物間取絵図:門、本堂、方丈(取払)、食堂、鐘楼、三光堂・同拝殿、諸寮などがあり
       檀林の基本的な構えを示した絵図なのであろか。
・387 大亀谷隆閑寺檀林建物間取絵図
      大亀谷隆閑寺檀林建物間取絵図:境内地は南北33間東西82間、西側部分は新開され更地なのであろうか。
 2016/01/09追加:
  寺地画圖:「城州伏水大亀谷六躰町隆閑寺」:京都府立総合資料館蔵
   ※寺地画図
   明治3年、京都府下における社寺地をすべて管轄すべき旨の太政官達を受けて京都府が、
   管轄の各社寺に命じて作成させた境内地略図である。
これは翌年の社寺上知令に利用する目的であった。

※※隆閑寺は大亀谷六躰町にあったと判明するも寺地の地番は判明せず。
現在、六躰町の大部は新興住宅地に変貌すると思われ、未だその跡地の特定には至らず。
2017/04/29追加:
○「角川日本地名大辞典」1982 より
六体町
万帖敷の西部に隣接し、大津へ向かう大亀谷の道筋町。
城下町時代は四周を武家屋敷に囲まれた林野の地域であった。(豊公伏見城ノ図)
寛文10年山城國伏見街■並近郊図によれば道筋の東側に民家が描かれ、その奥に「法華談所」と記される。
これは本能寺末寺の隆閑寺で、同寺には小野篁作と伝える木彫地蔵尊の祠堂があり、篁作六體地蔵尊の一躯であることが町名の由来となっている。現在は石屋町の本成寺境内に祀られる。
2017/05/10追加:
○「山城名跡志巻十二」 より
妙亀山隆閑寺:大亀谷ノ東宇治道ノ南ニ在リ 宗旨 法華 仏殿 西向 当寺ハ法華勝劣義ノ學室也開基洛陽本能寺日達上人
2022/10/18追加:
○「都名所圖繪拾遺 巻四」 より
隆閑寺
大亀谷のひがし宇治道の南にあり 妙亀山と号す 法華宗にして開基は洛の本能寺日達上人なり 法華勝劣派の學室とす
○「山城名跡巡行志 第五」
妙亀山隆閑寺 同所(大亀谷)ニ在 本能寺學室なり

2011/05/10撮影:
○京都本能寺より情報入手
・隆閑寺は廃寺である。(廃寺の時期および位置は詳しいものが今不在で不詳)
・隆閑寺学室石碑は大本山本能寺に移設する。(現在浦上玉堂春琴廟所の向かって左隣にある。)
 大亀谷檀林石碑1:左は浦上玉堂春琴廟所、右の解説板は浦上玉堂の解説。
 大亀谷檀林石碑2:隆閑寺學室とある。
 大亀谷檀林石碑3:元禄□六□八月中□、背面の刻文も含め、一部判読不明、元禄6年に石碑建立か。
 大亀谷檀林石碑4:妙亀山檀林とある。
・本能寺明治仮本堂(隆閑寺講堂)は現在の本能寺大宝殿(講堂)の位置にあった。
 本能寺大宝殿:この場所に隆閑寺講堂(本能寺仮本堂)があったという。


京都小栗栖檀林(本経寺)

永正3年(1508)創建。日承の名が知られるも不詳。
2010/10/01追加:
「富士宗学要集 第8巻」 堀日亨、創価学会、1978.9 より
 要法寺22世日祐代、京都勝劣派八山什門陣門隆門真門興門合同檀林の計画が成り、要山は小栗栖久遠山本経寺(要山11世日法開基)を用地に供し、本能寺日承を能化として小栗栖檀林が開創される。
しかし什門隆門陣門は江戸後期には出檀せず、本隆寺要法寺のみの学生であり、遂に明治2年要山は離檀する。
本経寺:京都要法寺末、開山は要法寺11世日法上人、永正3年草創する。境内には
講堂(4間半×6間)、書院(4間半×7間半)、庫裏(3間×7間)、鐘楼、三十番神社、拝殿、弁財天社、学寮長屋8、玄義談合場がある。(以上は宝永2年 ・1705「小栗栖檀林惣境内」による)
本経寺檀林境内:東西25間南北60間、新部屋東西12間南北19間。(以上は元禄5年1692)
「拾遺都名所圖會」:
 小栗栖本経寺:講堂、玄関、厨、経蔵、鐘楼、下段中段上段に多くの学寮が配置される。
明治初期まで赤門が残る。「明智薮」は現在本経寺に寄進され本経寺所有と云う。
講堂は明治43年伏見華山寺(臨済宗)に移築、客殿として使用、鬼瓦には享保13年(1728)とあると云う。
2011/03/18追加:
 華山寺本堂や庫裏は1970年頃に造替され、古い建物は残らない。従って移築されたという講堂は現存しないと思われる。愚堂国師廟所?(当寺は入定地と云う)を有する。
 檀林赤門は小栗栖西方寺正門として残存する。
  ※西方寺は大阪一心寺末寺。本堂は口恭行の設計になるビル建築(1990建立)である。
但し残存する赤門の材は多く取り替えられ旧材は一部に残るのみと思われる。また向かって右の門柱はビルに接し、門柱から右にあるべき屋根は切落された状態で 残存する。
 おそらく廃檀後は急速に荒廃したと思われ、古い堂宇は既になく、現在では殆ど檀林の面影を残さない。
即ち、現在はRCの本堂および庫裏があるのみで、かっての境内の下段と思われる土地も住宅に変貌する。近年建てられたと思われる石碑(下掲載)が辛うじて、ここが檀林跡であったと示すのみの状態である。
2011/03/08撮影:
 小栗栖本経寺11     小栗栖本経寺12     小栗栖檀林碑
  西方寺山門1          西方寺山門2
2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
永正3年(1508)要法寺11世日法上人が本経寺を建立づる。
万治元年(1658)要法寺22世日祐上人檀林を開創する。寛文6年講堂落慶。
 小栗栖檀林配置図:昭和5年上島日珠「小栗栖檀林」所収の実測図、「拾遺都名所圖會」などに基ずく。
赤門は北小栗栖西法寺に、講堂は山科花山寺に移建され現存する。
 ※花山寺とは元慶寺のことか?。元慶寺は華山寺の南に隣接する。講堂の現存については未確認。
 小栗栖檀林講堂平面図


岡宮檀林(岡宮光長寺学室)(大本山光長寺)

享徳3年(1454)光長寺学室創立。
(光長寺東之坊5世本果院日朝に源を発する。)
文政2年(1819)光長寺43世日宏が檀林を再興する。
明治維新後、東黌となる。大正3年西黌(尼崎本興寺学室)と合併、本門法華宗学林となる。


京都妙蓮寺道林寺学室(道輪寺学室)

2011/04/11追加:
山城妙蓮寺を参照:以下は左記ページから抜粋。
 文明5年(1473)日慶上人、寺内に道輪寺学室を開設、日忠上人を学頭に招聘。
 学室道輪寺:開基は常住院日忠上人、文明5年建立、中興建立は大成坊檀越渡辺氏行蓮・同室妙寿。云々・・・
 学室が描かれる絵図:
  寛延元年奉行調査古図:妙蓮寺蔵、寛延元年(1748)
  天明火災以前境内古図:天明8年(1788)
 天明の大火後学室は再建されなかったと推定される。
  洛陽妙蓮寺境内真図:天明の大火後の絵図、学室道輪寺旧地とある。
「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
 大亀谷檀林の建築構成は京都妙蓮寺道林寺学室と同一である。


尼崎檀林大本山尼崎本興寺

享徳3年(1454)日隆、本興寺に勧学院を創立、近世には尼崎檀林と称される。
寛永年中の檀林制度を導入し、組織が整えられる。例えば能化(主座)と所化(学生)、所化には四部と役課(教授)があり・・・・
明治維新後、西黌となり、大正3年東黌(岡宮光長寺学室)を合併、本門法華宗学林となる。
現在は本興寺山内興隆学林専門学校として引継がれる。
2012/07/15追加:
「法華宗宗門史」法華宗宗門史編纂委員会編、法華宗(本門流)宗務院、1988 より
 尼崎勧学院古図


大教院・中教院、大檀林・檀林/芝二本榎承教寺)

2023/04/26追加:
○「日蓮教団史概説」影山尭雄、平楽寺書店、1659 より
 日蓮宗一致派新居日薩は明治9年日蓮宗の公称許可を得るが、その前年
明治8年教育中心の宗是を立て、東京芝二本榎(承教寺に大教院を、地方8区に中教院を置く。
後、これを大檀林・檀林とそれぞれ改称する。
明治36年大檀林を二本榎から東大崎谷山丘上に遷し、日蓮宗大学林と改称、間もなく、日蓮宗大学と改める。
2023/04/26追加:
○「古書資料館の蔵書の来歴」(「立正大学古書資料館通信 第6号」立正大学図書館品川学術情報課、平成30年 所収)
〈日蓮宗の教育機関〉
 日蓮宗の学制と教育機関の変遷は次の通りである。
明治5年:日蓮宗小教院(承教寺)設置<後に宗務院>
明治8年:承教寺に日蓮宗大教院を置き、全国を8区に分け、各々中教院を置く。更に各県に小教院を置く。
明治17年:大教院は大檀林と、また全国を12区に分け、中教院は檀林・大檀支林と、小教院は宗学林と改称する。
明治28年:3学区12教区に再編し、大檀林承教寺はそのままに、中檀林・小檀林に改組する。
明治37年:大檀林は大崎に移転し日蓮宗大学林と改称、中檀林・小檀林は廃止。
明治40年:日蓮宗大学林は日蓮宗大学(大崎)と改称する。
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明治5年(1872)5月、仏教各宗は政府に対し、神仏合同の教育機関として大・小教院の設置を要請し、認可される。
大教院は、仮の教院を芝の金地院に置き、同年に開講する。
小教院の方は、同年11月に諸宗の寺院に置かれることとなる。
この小教院とは別に、現港区高輪の承教寺にも小教院が開かれ開講するという。
この小教院は後に宗教院と改称され、立正大学の起点となる。
明治8年、神仏合同の大教院が解体され、各宗それぞれが教院を設立し、教育を行うようになる。
日蓮宗では、全国を9区に分け、第1区に大教院を、他の8区の本部に中教院を置き、県ごとに宗学所(小教院)を設置する。
大教院は、宗教院から引き続き承教寺とされる。
先の9区は、明治15年までに12区へと増加する。
明治17年、承教寺内の大教院を大檀林と改称し、1・3・5 区(東京・京都・山梨)の中教院が大檀支林に、他9区の中教院が檀林に、小教院が宗学林と改組される。
明治28年、宗会議にて檀林の改正が決議され、翌29年6 月に新学則を含む改正宗規が施行さる。
新たに3学区12教区が定められ、各学区のもとに教区が置かれる形になる。
大檀林は引き続き承教寺に置かれ、各学区(東京・山梨・京都)には中檀林が、各教区には小檀林が設けられる。
明治36年、臨時第2宗会にて、大檀林と3つの中壇林を合併して大学林とすること、小檀林を全廃することが決議される。
合併後に出来たのが専門学校令による認可を受けた日蓮宗大学林である。
大学林は承教寺を離れ、明治37年に大崎の地で開校する。
明治40年、日蓮宗大学林は日蓮宗大学と改称される。この日蓮宗大学が、後に立正大学となる。
 大教院承教寺の図:法華諸国靈場記圖繪、明治15年

岡山矢坂檀林

〇「大野村誌」児子喜六編、村誌編輯委員会、昭和31年 より
 矢坂の山麓にあり、日蓮宗の徒弟を教育する為に明治8年三門妙林寺、東田町蓮昌寺、備中高松妙教寺の住職が発起して、二日市妙勝寺を仮檀林として七区檀林と称し、開設したものである。
 後に中檀林と改め、明治18年日諒氏の手によりて、矢坂に移転することとし、まず庫裡一棟を建築し、次いで大阪の福永正七氏の寄付に拠りて講堂を建築し、同年10月に竣工移転する。
 檀林は就業年限三ヶ年、徒弟約40人を収容したが、明治27年頃日蓮宗議により、全国の各檀林を廃止することとなり、本檀林も同時に廃止する。
 ※明治8年二日市妙勝寺に仮檀林を開設、明治18年矢坂に講堂・庫裡が竣工し移転する。明治27年矢坂檀林廃檀。
 ※矢坂檀林の位置については、矢坂の山麓とあるだけで、他の情報も皆無で、矢坂山の東西南北のどの山麓なのかも不明である。
 ※矢坂檀林講堂は、廃檀後、明治41年に紀伊和歌山感應寺へ移建され、現存する。
なお、感應寺本堂は近年耐震工事が行われ、2016年10月13日に本堂耐震改修の落慶法要が営まれたという。
 ※当時の日蓮宗檀林については、立正大学図書館の次の記事がある。
上記の「大野村誌」とは齟齬があるが、転載する。
当時は矢坂檀林のほかに、全国に10前後の檀林があったものと推測される。
 ※立正大学図書館>古書資料館通信 Vol.6
 神仏合同の大教院が明治8年(1875)に解体されると、各宗それぞれが教院を設立し、教育を行うようになる。
日蓮宗では、全国を9区に分け、第1区に大教院を、他の8区の本部に中教院を置き、県ごとに宗学所(小教院)を設ける。大教院は、宗教院から引き続き二本榎承教寺とされる。
 先の9区は、明治15年までに12区へと増加するが、明治17年に大きく改められる。
承教寺内の大教院を大檀林と改称し、1・3・5区(東京・京都・山梨)の中教院が大檀支林に、他9区の中教院が檀林に、小教院が宗学林とされる。
 明治28年には、宗会議にて檀林の改正が決議され、翌29年6月に新学則を含む改正宗規が施行される。
新たに3学区12教区が定められ、各学区のもとに教区が置かれる形になる。大檀林は引き続き承教寺に置かれ、各学区(東京・山梨・京都)には中檀林が、各教区には小檀林が設けられる。
 その後、明治36年に開かれた臨時第2宗会にて、大檀林と3つの中壇林を合併して大学林とすること、小檀林を全廃することが決議される。
合併後に出来たのが専門学校令による認可を受けた日蓮宗大学林で、大学林は承教寺を離れ、明治37年に大崎の地で開校する。ただし、大学林の名称は数年で改められ、明治40年4月には日蓮宗大学とされ、この日蓮宗大学が、後に立正大学となる。

2020/04/09追加:
2020/02/28に最上稲荷奥之院(一乗寺)住職から頂いた資料中に「矢坂檀林」関係の資料があるので、紹介する。
○「備前法華の歴史(続)-江戸時代の状況-」都守基一、平成28年 より
10.矢坂檀林
近世、一致派では京都六檀林・関東六檀林の体制であったが、明治維新後、全国寺院が八区に分けられ、それぞれに檀林が置かれる。第七区(岡山・広島・山口・鳥取・島根・愛媛・高知)の檀林は岡山に置かれることとなり、明治8年船頭町妙勝寺を校舎として第七区中教院が設けられる。
明治18年第七区檀林を矢坂に新築することになり、明治19年15間に6間の学寮と、10間に5間の幹事室・食堂・台所・浴室を備えたものと、物置長屋が落成、落成式が実施される。
翌明治20年4月7間に8間の総檜造の講堂が完成する。
設立に当たっては、会計事務桐山善治、高松妙教寺稲荷日諒、その信徒大坂の福永正七の功績が大であった。用地は日諒の信者竹原某が自分の茶畑を寄付する。なお稲荷日諒は講堂落慶の直前の2月3日46歳で遷化する。
明治35年矢坂檀林は宗門の教育制度改革によって廃止され、講堂は紀伊感應寺本堂として移築、現存する。(「矢坂檀林について」)
 ※「矢坂檀林について」とは出典が「矢坂檀林について」岡山県宗務所、昭和38年 を指すのであろう。
そして、同じく出所が明示されていなく、出所が不明であるが、次の3点の繪圖もあるので、合わせて紹介する。
1.日蓮宗第七区檀林全景之圖:岡山縣備前國御野郡大安寺村字矢坂日蓮宗第七区檀林全景之圖
境内1050坪とあり、この図によれば、檀林は矢坂山の北麓にあり、二階建の学寮は東向きであったことが分かる。
 ※北麓のあるのは、現在の矢坂本町、矢坂東町、同西町が北麓にあることと符合する。
 ※二階建の学寮の南に「講堂■■」とあり建物は描かれないが、遅れて建立された講堂の位置であろう。
2.学寮・食堂兼事務寮立面図
3.学寮・食堂兼事務寮平面図:学寮は二階建でその二階平面図が写る、一階平面図の上に二階平面図が貼付され、二階平面図をめくれば、一階平面図が見える図面と思われる。


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