近  世  日  蓮  宗  関  東  檀  林 ・ 京  都  檀  林

近世日蓮宗関東檀林・京都檀林

近世、日蓮宗に於いて多くの檀林が成立する。
中世末期から近世の移行期に、法華宗近世檀林として、下総飯高と京都松ヶ崎檀林が成立する。
その後、近世初頭には多くの檀林が開檀するが、就中、飯高・松ヶ崎は関東・関西の根本檀林とされる。
また、関東檀林中の下総飯高、上総小西、下総中村檀林は関東三檀林と称し、大檀林と云われた。
そして、江戸の安定期には、一致派では関東八檀林、関西六檀林と称される数となり、勝劣派では関東関西に7檀林を数えるに至る。
 ※関東八檀林:下総飯高、上総小西、下総中村、下総松崎、下総玉造、常陸三昧堂、池上南谷、身延西谷
   下総松崎檀林に替えて、下総野呂檀林とする向きもある。
 ※京都六檀林:京都松ヶ崎、本圀寺求法院、東山、鷹峯、山科、鶏冠井
 ※勝劣派檀林:摂津本興寺勧学院、上総大沼田、下総細草、下総宮谷、京都大亀谷、京都小栗栖、相模三沢(豊顕寺)
○2013/06/26追加:
関東檀林についての変遷は、受・不受の抗争から、諸本山及び末寺と同じく檀林もその影響を受け、少々複雑な様相を見せる。
◇「重要文化財飯高寺鐘楼・鼓楼保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、飯高寺、1992 より
文禄4年(1595)豊臣秀吉、大仏千僧供養会。
慶長4年(1599)「大阪城対論」、この受・不受の抗争は関東にも波及する。
当時、関東の諸山(池上本門寺、中山法華経寺、小湊誕生寺や中村・小西両檀林などの各門流)では強義折伏・不受不施義を宗是とし宗門内の大勢を占めていた。
寛永7年(1630)「身池対論」、幕府により政治的に受派(身延山)の勝利と裁定され、両派の争いは一応の決着がつけられる。
身延派は宗門寺院の大半を収めるも、内実は形ばかりのものであった。そこで主導権掌握のため、学徒の教育機関・檀林を支配下に入れるため、不受派の拠点であった中村・小西両檀林を接収する。
 檀林を失った不受派はあらたに下総松崎(顕実寺)、下総野呂(長崇山妙興寺)、上総山田(養安寺檀林)、下総常葉(苅毛檀林、実相寺)、玉造などの檀林を開設する。
しかしこれ等の檀林は何れも寛文6年(1665)の弾圧(寛文の惣滅)及び元禄4年(1691)の弾圧(悲田宗禁止)を契機に消滅する。
○2013/06/28追加:
◇「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、1959 より
 寛永7年(1630)「身池対論」の後、寛文年中に至る関東の状況は以下のようであった。
受派身延の勢力は、「身池対論」以前では4本寺1談所(身延久遠寺藻原妙光寺玉沢妙法華寺、貞松蓮永寺、飯高檀林)であったが、「身池対論」以降では池上本門寺中山法華経寺真間弘法寺、小西檀林、中村檀林を加え、7本寺、3談所となる。
一方不受派池上は平賀本土寺、碑文谷法華寺、小湊誕生寺の3本寺を中心とし、碑文谷末谷中感応寺、中山末鎌倉妙隆寺、上総鷲山寺を拠点とし、さらに松崎、野呂、山田(養安寺)の3談所に於いて教育を行う態勢となる。
 ※藻原は開山以来の身延の与党、玉沢は養珠院の外護、貞松は鶏冠井日東が住持しかつ養珠院の外護で日乾が日持の遺跡を再興、真間は日樹に組していた日感が頓死し、池上同様見延に屈したものであろう。
 しかし、受派見延の実態はと云えば、池上は末寺・僧俗・信徒のほぼ全てが離反し、中山は身延の脅しにも常に去就がはっきりせず、おまけに末寺は離反し、池上・中山以外の本寺は弱小であった。
一方、不受派は末寺・僧侶・信徒の大部を押さえ、多くの新地(新寺)を建て、民家に止宿し、民衆の教化に勤め、新しく松崎・野呂・山田の3檀林を開設し、受派身延を凌駕し圧倒するものがあった。
 この時期身延日暹が江戸に常駐し幕府に繰り返し繰り返し不受派を訴えているのは、この劣勢を身延の力では如何ともし難く、幕威を以って不受派を制圧しようとしたことに他ならぬのである。
 以上の状況は所謂「寛文の惣滅」といわれる不受不施の禁教まで継続する。
寛文5年(1665)幕府は身延の処分の訴状を受け入れ寺社領は悉く国主の供養である手形の提出を命ずる。
手形の提出を拒んだ京都妙満寺日英、京都上行寺日応、上総鷲山寺日乾・同日受・平賀本土寺日述、下総大野法蓮寺日完、上総興津妙覚寺日尭、雑司谷法明寺日了などが流罪となる。
寛文6年(1666)野呂檀林能化日講、玉造檀林能化日浣は幕府を苦諫し、直ちに流罪となる。
このうち、日述・日尭・日了・日講・日浣と佐渡流罪の青山自証寺日庭を後の六聖と称する。
なお、小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感応寺日純、安房小湊鏡忍寺、越後村田妙法寺、相模依智妙純寺などは悲田供養として手形を提出する。


関東檀林

下総飯高檀林(飯高寺・法輪寺):匝瑳市飯高1789

2013/06/26加筆・修正:
天正元年(1573)要行院日統が(旧八日市場市)飯塚の光福寺(法輪寺とも称する)に学室を開く。
 ※要行院日統は飯塚村で法華教の講釈を行い、多くの来聴者を集める。
天正7年(1579)京都から教蔵院日生を招じ、平山刑部の庇護があり、学室を当地の妙福寺に移し、飯高檀林が成立する。
 ※来聴者の数は益々増加し、それに対応するため、京都より教蔵院日生を呼び講釈の補佐をさせる。
  以降、補佐するものの住む建物を教蔵院と称するようになる。
 ※妙福寺は妙見社別当であり、往時は総門付近にあり、後に妙見社付近に移転。
天正8年(1580)現在地(飯高)に移転する。(法輪寺と称したようである)。
 ※天正19年身延日新は家康より飯高に檀林地を拝領、日生は飯高に移り、講堂と庫裏を建立する。
天正11年(1591)徳川家康より30石の朱印を受く。朱印状には飯高寺と記され、それ故寺号を改む。
 ※家康からの朱印状には地名の飯高寺とあり、飯高寺と法輪寺が並用されることとなる
慶長元年(1596)蓮成院日尊が来援、初代化主として飯高檀林が正式に発足する。
慶長3年心性院日遠第3代化主入山、第3代化主の座を巡っては、妙福寺6世日円との確執があったと云う。
慶長4年(1599)「大阪城対論」(徳川家康・京都妙顕寺日紹と京都妙覚寺日奥)、翌年日奥対馬に遠島。
その後の状況は、受と不受との対立は寺院からみれば身延対池上・平賀・中山・小湊であり、檀林から見れば飯高(受)対中村(不受)小西(不受)の対立であった。
同年、日円は隣村中村に檀林を開く。
慶長8年(1603)飯高化主日遠は見延へ晋山、後任に中村化主日円を推挙、日円は飯高の化主に晋むも、
 慶長10年(1605)39歳で遷化する。これは日円が池上日尊の法系であり、不受として暗殺されたと云われる。
慶安4年(1652)寿量院日祐代、慶安3年に焼失した講堂を再建、養珠院(家康側室・紀州頼宣、水戸頼房生母)の寄進になる。
 飯高寺領田地図(江戸期)や各種絵図によると基本的に近世を通じて堂宇配置はほぼ同じであったと考えられる。
  ※飯高寺領田地図:「飯高・小西・大沼田の檀林の建築構成-日蓮宗寺院伽藍配置の研究(1)」 より
  ※養珠院は大講堂のほか内外妙見社、七面社も寄進する。
享和3年(1803)「御由緒明細帳」では以下の堂宇が知られる。
 大講堂:慶安元年再興、桁行14間梁間9間、寄棟造、銅板葺、一軒疎垂木、平入(当初は入母屋造、茅葺)
大廊下、中廊下、
書院、学問所、対面所、庫裏、井戸屋(1間2間)、籾蔵、槙小屋、堂番部屋、裏門石段百弐拾段、
鼓楼、鐘楼、材木小屋、井戸屋(5尺四方)、所化部屋(梅小路、桜小路、楓小路、柳小路、無門小路)
一切経蔵、文句議論所、妙見社(2間に4間)、玄義論談所、橋門(堀切に橋を渡し茅葺屋根を架する、2間×9間)、
所化部屋(松小路、藤小路、竹小路)、妙見社(2間に4間)、七面社、総門、
食堂、浴室、教蔵院(玄能寮)、表門、裏門、所化部屋(四軒小路、三軒小路、ニ軒小路、三軒小路(ママ)、松崎小路、野路小路)
 境内は台地上にあり、南北に長い瓢箪形の敷地を持つ。
南に惣門があり北に大講堂があり、その中間に堀切があり橋門を渡す。惣門前石段下に食堂、惣門内左に教蔵院、竜眠庵などがある。橋門を渡ると右に談合所、左に経蔵、北進すると左右に所化寮が並び大講堂に至る。
大講堂前庭左に鐘楼、右(東)に鼓楼があり、東は裏門石坂に通じる。大講堂裏に方丈(庫裏)居間があり廊下で繫がる。境内山裾にも学寮があった。享和3年には衆寮59棟、所化寮125軒を数える。
 飯高檀林復元配置図
 飯高檀林略地図   ;何れも 「近世日蓮宗飯高檀林の堂舎構成」 より
  ※檀林の最盛期は約800人の学徒が在籍と云う。
  ※現在の総門は延宝8年(1680)の建立と伝承、皷楼は享保5年(1720)建立、天明8年(1781)現在の鐘楼建立。
また寛永年中以降、次の三谷が発生した。
中台谷に学頭竜眠庵、称心庵、城下谷に学頭向城庵、心性庵、松和田に学頭松和田軒、普潤軒などがある。
 ※昭和55年、講堂・鐘楼・鼓楼・総門重文指定。 ※講堂は慶安元年(1648)養珠院の建立と云う。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
 飯高檀林講堂平面図:重文、慶安4年(1651)建立。14間×9間、寄棟造、栃葺き。
2013/06/26追加:
◇「重要文化財飯高寺鐘楼・鼓楼保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、飯高寺、1992 より
 飯高檀林跡地形測量図
なお、本書に飯高檀林の組織などの解説がある。
◇「重要文化財飯高寺講堂・総門保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、飯高寺、2003 より
 飯高寺境内配置図
なお、本書に飯高檀林の組織、法式、年中行事などについての詳細な解説がある。


上総小西檀林(妙高山正法寺):山武郡大網白里町小西

長禄2年(1458)正法寺創建、開基は小西城主原肥前守胤継、開山は平賀本土寺八世妙光院日意。
 (日意は阿弥陀堂を廃し、法華堂とする。)
天正18年(1590)正法寺7世日悟(平賀本土寺15世)が通王院日裕を招じ、小西檀林を開設。
寛永7年(1630)「身池対論」、日領は奥州相良に追放。
 ※守玄院日領(小松原鏡忍寺9世・小湊誕生寺14世・小西談林能化)
寛永8年受派身延山、中村檀林を接収。
○江戸後期の檀林絵図:
 正法寺境内坪数絵図:寛政3年(1791)
    ※正法寺境内坪数絵図:「飯高・小西・大沼田の檀林の建築構成-日蓮宗寺院伽藍配置の研究(1)」 より
伽藍中央に講堂(東向、13×8間、唐破風向拝付)があり、左奥に玄関・方丈(8×7間)・座敷2棟(4×6間半、9間半×5間)がある。講堂前方右に経蔵・鳥居、正面に本堂(向拝付、8×7間)、拝殿、妙見宮を配する。鐘楼は本堂前方(南)にある。
講堂北に稲荷2棟、鳥居2基、鎮守、拝殿がある。
講堂左に所化寮が並び、中門、惣門(南向)に通ずる。寮は10棟、戸数70。中門と惣門の間、東に風呂屋、西に堅高堂がある。
所化寮西に炭小屋、飯台(3間半×10間)、正行寺客殿及び庫裏がある。東側には塔頭があり、南より教蔵寺、徳性寺、蓮乗寺、幽玄院がある。また徳性寺と蓮乗寺の間に題目堂、教蔵寺と徳性寺の間の東に学寮4棟がある。
明治6年檀林諸堂を火災・焼失する。現本堂は講堂で、寛文4年(1664)建立、但し後世に大改築。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治27年、寺中蓮乗寺移転、寂照山蓮乗寺として岩手県上閉伊郡大槌町末広町7−14に現存。
 明治32年、寺中徳性寺移転、大黒山徳性寺として長崎県雲仙市吾妻町栗林名443に現存。


下総中村檀林(正東山日本寺):香取郡多古町南中

永仁3年(1295)日常が興した草庵が始まりとも伝える。
嘉暦年中(1324-28)中山三世浄行院日祐、領主千葉胤貞の帰依を得て東福寺を創建する。
東福寺13世(中山10世)賢聖院、日本寺と改号。
慶長4年(1599)恵雲院日円、中村檀林を開く。
 ※日円は飯高妙福寺6世で、飯高檀林第3世化主招請を巡る争いで心性院日遠が就任したため、隣村に檀林を開くと云う。
慶長8年(1603)飯高化主日遠は見延へ晋山、後任に中村化主日円を推挙、日円は飯高の化主に晋むも、
 慶長10年(1605)39歳で遷化する。これは日円が池上日尊の法系であり、不受として暗殺されたと云われる。
寛永7年(1630)「身池対論」、日充は奥州岩城へ追放。※遠寿院日充(能登滝谷妙成寺12世)
 同 中山隠居寂静院日賢(飯高・松崎・中村三談林能化)は遠江横須賀へ追放。
 2013/06/28追加:
  中村檀林歴譜は日樹-日賢-日充-日尭-日条と次第するが、
  日樹-日賢-日充-日尭の四師は「法理違乱により除歴」と云う。
  「西樹上人傳」:
   日本講寺歴代譜では開祖日円-2祖日因-3祖日慈-4祖日要-5祖日存-日樹-日賢-日充-日尭-6祖日修と記す。
   日樹-日賢-日充-日尭は法理異乱により除歴、日修を以って第六世と為すとの註書がある。
寛永8年受派身延山、中村檀林を接収。
明治8年廃檀。
本圀寺派檀林、明治焼失。
 中村檀林境内景観図:画像相当不鮮明:「近世日蓮宗飯高檀林の堂舎構成」 より
2010/10/29追加:
 中村檀林境内景観図2:「日本博覧図 第9編(千葉県初編)」明治27年 より、上記の図と同一図、
下にある「略縁起」は左上の部分を拡大したもの、
最盛期には数十棟の学寮があり、画にはその学寮跡が描かれる。略縁起にある加藤日慶は明治に寺の再興を図ると云う。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
元応元年(1319)中山3世日祐が開創(瑞光寺)し、慶長4年(1599)瑞光寺15世日円、正東山日本寺と改号し、学室を構える。
「北総日本寺境内図」(文化元年・1804)では
 講堂、方丈、妙玄院、玄論場、文論場、玄義談論場、文句談論場、食堂、浴室、作事、鐘楼、皷楼、経蔵、大門、三門、妙見宮、豊田神祠、岡田神祠 から成る。
大門は南に開かれ、左折して三門に至る。この間の右に院師廟所、歴代墓所がある。三門を入り、左に玄義談論場、右に文句談論場がある。三門より講堂までの間に玄論場と食堂を配する。
講堂前左に経蔵、右に鐘楼、皷楼があり、背後には方丈があり廊下で繫がる。方丈左に作事1棟がある。
講堂左に妙見宮、その北に岡田天王、豊田天王が並んである。また講堂東北に妙玄院、文論場があり、かなり離れて北側浴場がある。
檀林の谷は東谷、西谷とあり、東谷に8寮、西谷に29寮、妙見社3社がある。
現在の講堂は明治25年の再建である。


水戸三昧堂檀林

天和3年(1683)徳川光圀、太田久昌寺に設置。

天和2年(1682)光圀は山内に檀林を設置。
さらに元禄5年(1692)以降西山の地に大規模檀林を造営。講堂・方丈・4つの寮などが付設した。
化主には中村檀林21世日耀上人を迎え、水戸三昧堂檀林と称する。
 (天保14年に廃檀。嘉永年中に再興、明治2年に廃絶。)
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
「久昌寺及檀林絵図」では講堂、方丈、鐘楼、玄義寮、上座寮、所化寮、食堂、湯殿から構成される様が描かれる。
 久昌寺及檀林絵図
講堂は築地に囲まれた一郭にあり、方丈と鐘楼がこの築地内にある。方丈は3棟からなる。
講堂一郭の前に食堂があり、三面小路があり、この小路の両側に所化寮2棟とさらに別の1棟がある。
この西側には柳小路があり所化寮1棟が建つ。この西側には松小路があり、湯殿、所化寮3棟が配置される。
この小路の突き当たりには玄義寮が建つ。これから右折して桜小路があり、この小路に所化寮1棟と上座寮がある。


池上南谷檀林

元禄2年(1689)池上・比企谷23世日玄、池上本門寺照栄院に設置する。
鎌倉法華堂檀林↓を移す。学寮60余、僧徒千余人と伝える。
2009/10/23追加:2011/02/19追加:
◇照栄院:朗慶山、本門寺3院家の一院。「南谷檀林立善講寺」あるいは「向林庵」と称す。日朗上人開基。
 南谷檀林:元禄元年(1688)本門寺第22世日玄上人開創、明治維新で廃檀。
  現在の池上小学校、池上会館、照栄院の一帯が南谷檀林であった。
  講堂、方丈玄頭寮、板頭寮、首座寮、所化寮、玄文両談合場、食堂、総門、妙見堂などを具備。
  板頭寮(天保7年<1836>再建)のみ照栄院書院として残存する。妙見堂も坂上に現存する。
  池上照栄院     池上照栄院本堂
◇妙見堂:寛文4年(1664)瑶林院(加藤清正娘・徳川頼宣室)が建立、慶応2年の再建。南谷檀林妙見堂。
 妙見菩薩立像は寛文4年銘があり、南谷檀琳開設の時その守護として移管されたと云う。
  池上妙見堂     瑶林院妙見菩薩立像
  △池上妙見坂     △池上妙見堂1     △池上妙見堂2
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
「新編武蔵風土記稿」では以下のように述べる。
日朗上人幽棲の跡なり。門、講堂(9間×7間)、鎮守堂(妙見菩薩)、玄寮、板頭寮、学寮(正善庵、東林庵、白寮など)12棟がある。
元文年中(1736-40)の「長栄山絵図」では
講堂は小高い丘上にあり、南面し、廊下で照栄院(方丈)に連絡する。講堂下には檀林の小路が十文字にあり、玄寮、板頭寮や所化寮が各区画に立ち並ぶ。妙見宮は講堂背後の山頂に配される。
なお板頭寮の遺構は照栄院の庫裏として現存する。
2011/04/11追加:
◇「江戸名所圖會」 より
 江戸名所圖會・檀林部分:講堂・方丈などは描かれるもその他は省略され、詳細には構成は分からない。
2011/04/11追加:
◇「撮された戦前の本門寺」平成22年 より
 大正3年南谷檀林総門:かっては門前に学寮が並ぶ。明治の廃檀後、門・妙見堂・講堂・板頭寮などを残し取壊された。
  妙見堂と板頭寮の遺構が残存する。

相模鎌倉法花堂檀林(常栄寺)

慶長11年(1606)高松寺3世日祐の開設。
元禄2年、池上・比企谷23世日玄、檀林を池上に移し、南谷檀林↑と称す。


------不受派檀林-----------------------------------------------------------------------

下総玉造檀林(蓮華寺):下総香取郡:寛文の惣滅で廃檀となる。

2013/06/26修正:
弘安10年(1287)中老日位、真言宗観音院を日蓮宗に改宗、蓮華寺と改号す。
文明の頃平賀7世日意が中興。
寛永元年(1624)長遠院日遵再興し、檀林を創建。
 ※寛永14年(1637)日遵開設とも云う。
  ※寛永7年(1630)「身池対論」の後、身延山に小西・中村の両檀林を接収され、檀林を失った不受派は
  新に玉造檀林を開設と云うから寛永14年の檀林開設が妥当とも思われる。
寛文6年(1666)幕府(身延)による「寛文の法難」、明静院日浣(玉造談林五世・津山顕性寺歴代)は肥後人吉に流罪となり、廃檀となる。
  →寛文の法難と矢田部六人衆について
現本堂:安永3年(1774)再建。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
現諸堂宇は以下の通り。
本堂(8間×6間半)、庫裏、諏訪堂(鬼子母神堂)、鐘楼 など
 玉造檀林講堂平面図

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2013/06/26:
◇「重要文化財飯高寺鐘楼・鼓楼保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、飯高寺、1992 より
寛永7年(1630)「身池対論」の後、不受派の檀林である小西・中村の両檀林は身延山に接収され、檀林を失った不受派はあらたに下総松崎(顕実寺)、下総野呂(長崇山妙興寺)、上総山田(養安寺檀林)、下総常葉(苅毛檀林、実相寺)、玉造などの檀林を開設する。
しかしこれ等の檀林は何れも寛文6年(1665)の弾圧(寛文の惣滅)及び元禄4年(1691)の弾圧(悲田宗禁止)を契機に消滅すると云う。


下総松崎檀林(法王山顕実寺):香取郡多古町東松崎

2013/06/26追加:
大同3年(808)真言宗として創建されると伝える。
文永年中(1264〜1274)日蓮宗に改宗する。(法宣院日英か)
寛永14年(1637)常寂院日耀が開檀すると伝える。
 平賀本土寺日述(能化)、日瑶、碑文谷法華寺日禅(能化)などが歴代と云う。
不受不施の義により弾圧、受派に転じ、水戸徳川家の庇護を受ける。
 寛文年中か元禄年中に廃檀されたのであろうと推測するも、情報がなく、不詳。


下総野呂檀林(妙興寺):千葉市若葉区野呂町

2013/06/26修正:
鎌倉後期、在地の石井左近が現在地の南方約800mに日合上人(日朗門下)を開山として建立したと云う。
 (建治元年・1275か)
 ※旧地の八反目台貝塚付近には歴代の墓所が残ると云う。
永禄12年(1569)里見氏兵乱のため焼失、天正3年(1575)地頭斎藤善七郎胤次が現在地附近に再興する。
慶長5年(1600)池上中妙院日観、ここに檀林を開設。(寛永7-8年/1630-31の設置とも云う)
 2013/06/27「禁制不受不施派の研究」より
  寛永7年(1630)身池対論の結果、京都妙覚寺は日乾に、池上本門寺は日遠に引き渡されることになるが、
  この申渡しは慶安5年(1652)であったが、池上大坊の中妙院日觀は同年池上を去り、野呂妙興寺に逃れ、
  ここの談所を開き子弟を教育せんとする。承応明暦(1652-)から寛文5、6年まで不受派の拠点となった
  野呂談所がこれである。
平賀本土寺日述(能化)、小湊誕生寺日明(能化)、碑文谷法華寺日禅(能化)などが歴代と云う。
寛文元年(1661)日講が法華玄義、法華文句を講ずる。
寛文6年(1666)幕府(身延)による「寛文の弾圧」、安國院日講(野呂妙興寺能化)は日向佐土原大小路へ流罪。
 廃檀となる。
  →寛文の法難と矢田部六人衆について
天保5年(1834)山火で類焼。
文久2年(1862)現在地に再興。現本堂:天明元年(1781)再建。
なお、現存する子安堂は檀林時代の御経堂を改造、山門もまた檀林時代の鐘楼堂を移して改造した建物と云う。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
現諸堂宇は以下の通り。
本堂(12間×8間、幕末に再建)、経蔵、鐘楼、惣門、庫裏、下小屋、納屋
 野呂檀林講堂平面図


上総山田檀林(養安寺檀林・碑文谷檀林、蔵王寺)

○2013/06/26追加:
山田檀林は上総山辺郡養安寺村山田に所在と推測するも、現在当地には日蓮宗本成寺、円融寺が残るが、一切が不詳。
檀林の寺号は蔵王寺と称すると云うも、蔵王寺とは不明である。
なお現在現地には御嶽神社と称する社があるが、明治維新までは蔵王権現を祀った蔵王堂であったと云う。
このことから、推測であるが、この蔵王堂が蔵王寺なのであろうか。あるいは蔵王堂別当が養安寺であったのであろうか。
元禄11年(1698)廃檀となる。
○2013/06/27追加:ある程度詳細が判明する。
「養安寺檀林について」植田観樹・山口裕光(「現代宗教研究 第20号」日蓮宗現代宗教研究所、昭和61年 所収) より
1)所在地:上総国山武郡養安寺村金峯山蔵王寺に設けられた檀林である。
2)各種名称:
 ・碑文谷檀林:武蔵碑文谷法華寺にはもと碑文谷談所があったが、各本寺の学室と同様に、戦国末期に消滅する。
   近世初頭、碑文谷13世(12世とも)守眼院日晴(寛文4年/1664寂)、蔵王寺に碑文谷檀林を再興する。
    ※碑文谷法華寺は弘安年中(1278-)中老日源が天台宗法服寺を改宗したもの。
     11世修善院日進は「身池対論」により、信濃上田に配流となる。
 ・養安寺檀林:勧持院日禅本尊(埴谷長光寺蔵、日禅は碑文谷13世<14世とも>、同檀林2世)には養安寺檀林とある。
 ・山田談所:近世初頭の文書には山田談所とある。
3)檀林開基日晴と開檀の経緯:
 「身池対論」の後、野呂・玉造・松崎の各檀林が開檀し、いずれも不受派の拠点となり、次第に勢力を伸張する中で、
 一方では寛永8年不受派の一大拠点であった小西・中村の両檀林が身延山に接収され、不受派学徒は離散を余儀なくされる。
 こうした中、養安寺檀林は小西・中村の談所を追われた不受派学徒を収容するために、碑文谷日晴により開かれたものと
 考えられる。
4)二祖日禅と養安寺檀林の消滅
 檀林二祖は碑文谷13世日禅であり、日禅は松崎及び野呂檀林の能化をも務める。
 寛文5年(1665)小湊誕生寺日明・谷中感応寺日純など6ヶ寺は悲田手形を幕府い提出し、信徒及び世人から指弾される。
 元禄11年(1698)幕府は碑文谷法華寺、谷中感応寺を天台宗に改宗せしめる。従って養安寺檀林は消滅したものと思われる。
  ※寛文の惣滅以降元禄11年までの経過に資料はなく、この間の事情は詳らかならず。
5)日蓮宗現代宗教研究所による調査:昭和58、9年
養安寺檀林についてはその存在さえ不明確であったが、現地調査により以下が判明する。
檀林は寛永8年身延山に接収された小西檀林の北東小高い丘を越えた約1kmにある。
 養安寺付近地図
現地に残るものは旧跡地を示す石碑や歴代碑等だけであるが、その廻りの跡地と思われるところには無地主の田畑が広がる。
また丘の上には蔵王権現(御嶽神社)が残る。
 養安寺檀林跡略図
石碑は蔵王寺入口と思われる農道にある六百遠忌記念碑と本堂裏付近と思われる地点に3基あり、そこに5基の歴代碑がある。
なお、近くの本成寺の歴代碑には蔵王寺歴代の名も見られるとのことであるが、未調査である。
6)六百遠忌記念碑:高さ127cm幅125cmで、首題を刻み、首題の下に「小湊日諦」、横に六百遠忌、裏に明治16年10月12日(六百遠忌正当日)の日付と施主の名がある。小港日諦とは小湊誕生寺58世智玄院日諦であろう。
蔵王寺は明治の廃仏毀釈の嵐の頃、明治6年10月6日に炎上したと伝える。日諦はこれを惜しんで記念碑を建立したのであろうか。炎上した蔵王寺の檀家全14軒は小西正法寺の檀家になると云う。
碑の対面にある桑田家には蔵王寺の打鳴しを溶かして作った茶釜等があると云う。
 ※明治6年炎上とは、失火のようなニュアンスであるが、真相は良く分からない。
 蔵王寺とは蔵王権現に由来するのか、日蓮宗で蔵王権現とはその例を見ず、近世に存在した蔵王権現と蔵王寺(御嶽寺)との
 関係はどのようなものであったのか、蔵王権現と御嶽寺とは神仏分離の行われるような関係であったのであろうか、
 一切が不詳である。
7)旧碑・歴代碑8基
昭和52年土台をコンクリートにして1箇所に集められる。
・推定門前碑には「檀林旧跡 金峯山御嶽寺」と刻み、文化7年(1810)9月の年紀がある。御嶽寺とは蔵王寺とは異なった寺号である。この寺号が相違する のは、少なくとも開檀の日晴代には「金剛山蔵王寺」と号していたが、恐らくは元禄4年(1691)の悲田停止(悲田不受不施の禁止)の所謂元禄の破却後、改号 を余儀なくされたなどの事情があったものと思われる。
・開基上人碑には「当山開基日瑞上人」とあり、右側面には「中興顕常院日義大徳」、左側面には16世18世の名を刻し、建立は明治16年10月11日である。
その他の碑には19世20世(25世再職)23世24世の名が刻まれる。
8)什宝
・蔵王寺天蓋:埴谷長光寺に伝わる。銘には「金剛山蔵王寺常什 中興師日晴 寛文三」云々とある。
長光寺は寛文9年日禅が千葉市中田町から現在地に移した野呂妙興寺末と云う。
・過去帳:(長光寺蔵か?)開基日瑞から36世日律(慶応4年5月入院)までの記載がある。
・日禅上人本尊:(埴谷長光寺蔵)数幅伝わるが、寛文9年(1669)に認めた幅には「碑文谷法華寺14世日禅」「野呂妙興寺 養安寺村蔵王寺 松崎村妙講寺 顕実寺 三談所兼職也」と記される。
なお碑文谷日禅は悲田説主張によって寛文7年に佐渡に配流とされるが、寛文9年の本尊の存在により、寛文7年配流説は誤伝となろう。


下総常葉檀林(苅毛檀林、仏性山実相寺)

2013/06/26追加:
創建年代は未詳、明応3年(1494)日久上人代に真言宗から日蓮宗に改宗と伝える。改宗は嘉元2年(1304)とも云う。
付近一帯は不受不施派の強固な地盤であった。
延宝2年(1674)日賢により常葉檀林が開設される。
 ※この開設年代からいえば、常葉談林は寛文年中の惣滅後、度重なる弾圧の中、不受不施派最後の教線を護った拠点という評価は妥当なものであろう。
その後の消息は情報がなく不詳。
江戸中期に火災焼失するが、山門は焼失を免れると云う。
○「広報かとり 平成24年4月15号」では以下のように云う。
実相寺山門は芸州浅野公から寄進されたものと伝わる。
浅野光晟公の正室である自昌院(満姫/加賀前田利常三女)は不受不施派の信者で、この地域にも関係の深い日講上人の庇護者でもあった。この日講と日賢は親しい関係にあったため、浅野家菩提寺の安芸国前寺の末寺である実相寺に常葉檀林が開かれるに際し、山門が寄進されたのであろうか。残念ながらそれを裏付ける記録は確認できない。
 山門は、切妻造、四脚門、現在は桟瓦葺(元は茅葺)。組物は出組・平三斗、中備や棟木下に板蟇股を用いる。軒は二軒の繁垂木、天井は化粧屋根裏とある。棟札など建築年代を示す記録はないが、その様式から見て檀林開設頃の建築と考えられる。

--------以上不受派檀林---------------------------------------------------------------------


身延山西谷檀林

弘治2年(1556)前身の善学院が創建される。
慶長9年(1604)心性院日遠、身延山に西谷檀林を創める。
寛文9年(1669)大講堂建立、延宝5年(1677)、貞享3年(1686)、元禄年中所化寮など増設。
明治8年身延祖師堂焼失、西谷大講堂を祖師堂として移築、祖師堂再建にあたり、その西に移築、釈迦堂(本師堂)となる。
2010/05//29撮影:
 身延山西谷檀林跡1:現在は信行道場(身延山の僧侶 育成・修練道場)となる。
 身延山西谷檀林跡2:長い石階が続き、その左右には学寮跡と思われる地形を残す。
 身延山西谷檀林跡3
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-2-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 17〔通号 21〕1983/03 所収)  より
「身延山史」では以下のように述べる。
弘治2年(1556)第14世善学院日鏡、西谷善学院に閑居し、所化を集めて講義する。檀林の発祥なり。
慶長9年(1604)心性院日遠、善学院を改築し、西谷檀林を創設す。その後、堂舎などが随時拡張される。
貞享3年(1686)「身延山諸堂軒数覚」では以下の堂舎がある。
 妙見堂、弁財天、講堂(9間×7間半)、廊下、茶の間、廊下、庫裏、所化寮3棟、飯台場2棟
 更に別資料では、文句談合所、浴室などもあった。
「身延山絵図」-宝永3年(1706)〜正徳3年(1713)-では
  身延山絵図談所1     身延山絵図談所2
 講堂(入母屋造・向拝付設)は南面、右は廊下を架し化主寮・庫裏、さらに食堂があり、左には経蔵、鎮守妙見がある。
講堂前には3棟の所化寮、一段下もの1棟の所化寮がある。所化寮右にある1棟は妙玄庵(玄義寮)であろう。そのほか北側にも数等の学寮がある。
その後惣門が建立され、学寮も数棟建立される。


万延元年(1860)頃には
 講堂(9間四方)、庫裏、書院、廊下、鼓楼、中門、妙見堂、弁天堂、経蔵、鐘楼、食堂、妙玄庵、玄能寮、所化寮4棟、学寮14軒、隆性院、本是院、宝聚院、正終院、平寮10軒、文句席談所、玄義席談所、観心席談所、集解席談所、惣門、隠寮、浴室
となる。

「身延山図経」-弘化4年(1847)-では上記万延元年頃の堂舎構成と大差はない構成が示される。
 身延山図経:談所部分図;左図拡大図
講堂は桁行3間梁間4間、入母屋造。明治8年に久遠寺祖師堂として移建される。


上総大沼田檀林(法輪山妙経寺):勝劣派檀林:東金市大沼田457:(南南西約1kmで細草檀林遠霑寺に至る)

永禄2年(1559)鷲山寺10世日進が東金自在山長久寺を創建し、談所が開かれる。(長久寺檀林創立)
文禄3年(1594)田間長久寺檀林を大沼田妙経寺に移し、大沼田檀林となる。
寛永6年(1629)鷲山寺13世日乾、檀林を中興、勝劣派の常談所と定める。
元和元年(1615)徳川秀忠より境内地の朱印を得る。東西60間南北120間所化寮36棟を数えると云う。
 ※2012/07/10:以上を「法華宗宗門史」より、追加修正する。
 (東金市大沼田457 妙経寺が檀林跡、大沼田檀林中興日乾上人の墓碑があると云う。)
※大沼田から下総鷲巣鷲山寺(建治3年[1277]日弁開山)に檀林を移すと思われるも、詳細不詳。
※以下は鷲巣鷲山寺大沼田檀林と推定される。
慶安2年(1649)寺領安堵の時、もしくは寛文4年(1664)御朱印帳に記載の頃、鷲山寺に檀林を移すと推測される。・・・この項は確認を要する。
 檀林懐古之図
 檀林懐古之図(中心部):昭和25年にかっての大沼田檀林の姿を描いて奉納された 「図」と云われる。
石井與一郎氏奉納、年齢から云って、石井氏が檀林を実見したことはないから、おそらく元図があったものと推定される。
 本堂兼講堂を中心として、右に庫裏、庫裏後方に庭園・八幡宮、左に学校開基碑、乾師堂、弁天堂、前に楓・銀杏・榎があり開山日寿上人碑及び鐘楼がある。本堂から相当な前方に表門があり、途中左に裏門に通ずる道があり、その両側に学寮が並ぶ。(能化寮、所化寮6棟、角寮、柳寮、伴頭寮、大途寮、賄寮、本ギョウ[阝+堯]寮)
能化寮右は鬼子母神堂、左は石井家墓地で日寿上人墓がある。<日寿上人は妙経寺の開基上人>
表門から本堂への参道右に三十番神堂、大仙坊がある。大仙坊裏(右)は石井家屋敷で妙経寺所有と書き込みがある。
○2010/11/11追加:「tukamoto」氏ご提供情報及び2010/11/03撮影画像
法輪山妙経寺(大沼田檀林)縁起
                 ・・・・・平成21年設置の説明板及び同年設置の檀林石碑刻文を要約
正中2年(1325)鷲山寺日弁上人高弟日壽上人が当寺を開山する。
往古は祖師堂・八幡宮・寺中恵正院・寛照坊・大仙坊の3院を有する。
永禄2年(1559)鷲山寺10世日進上人、田間村より檀林を当地に移し、大沼田檀林とする。・・・・説明板は永禄2年移転とする。
 ※文禄3年(1594)田間長大寺より当山(妙経寺)へ移す。・・・石碑では文禄3年移転とする。
寛永6年(1629)鷲山寺13世日乾上人、檀林を勝劣派の常檀所と定め、妙経寺を中興開基する。
当時は境内東西70間南北120間が除地で、講堂・本院・柳坊・側坊・伴頭寮・能化寮・所化寮・その他学寮36棟を数える。
宝暦5年(1755)暴風雨により諸堂悉く倒壊、天明5年(1785)10×10間の本堂兼講堂などを再興。
慶応4年(1868)本堂・本院を除く諸堂を焼失。
明治3年檀林本院を妙経寺庫裏に、明治7年本堂・講堂を妙経寺に移譲し、大沼田檀林は廃檀となる。
大正8年本堂改修、大正13年庫裏焼失、昭和26年八幡宮再興、昭和56年本堂改修・庫裏建替。
 ◇大沼田檀林は鷲巣鷲山寺の支配であった、檀林は鷲山寺末寺長久寺から大沼田妙経寺に移され大沼田檀林は成立する。
「tukamoto」氏撮影画像
 
往古大沼田檀林境内図
 法輪山題目碑      妙経寺境内      大沼田檀林跡石碑1      大沼田檀林跡石碑2
 妙経寺本堂       妙経寺開基日壽上人墓
  ◇大沼田壇林の遺構は現存しないが、境内にはそれらしい雰囲気を残す。
2012/07/15追加:
○「法華宗宗門史」法華宗宗門史編纂委員会編、法華宗(本門流)宗務院、1988 より
 大沼田檀林跡:この小宇は上記妙経寺境内に写る小宇であろうか 。鐘楼?。
2010/12/03追加:
○「千葉県指定史跡宮谷県庁跡本国寺本堂保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、2003 より
元和8年(1622)宮谷檀林開設と同じ年に、日乾上人により大沼田妙経寺に大沼田檀林が開設される。
2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
正中2年(1325)鷲山寺日弁上人高弟日壽上人の開基とする。
文禄3年(1594)田間長久寺学問所を妙経寺境内へ移すも、檀林としては未整備であった。
元和元年(1615)鷲山寺13世日乾上人は檀林を整備し、檀林初祖とされる。
初期には弁門流の檀林であったが、その後什門・陣門の勢力が伯仲するが、什門が宮谷に移り、陣門が主流となる。
 大沼田檀林配置図:上記「檀林懐古之図」などを参考にして作成。
「沼田檀林誌」(石井與一郎)では「慶安3年(1650)の『朱印地相続届書』では境内東西70間、南北120間。高6石8斗、所化寮36軒脇坊1軒」と云う。
 大沼田檀林本堂平面図
現存する本堂兼講堂(宝形造)は天明5年(1785)の再建で、大正8年に改築し、その時両脇各1間を縮小すると云う。


上総細草檀林(法雲山遠霑寺):勝劣派檀林:山武郡大網白里町下ケ傍示715-1
                             (大網白里町に細草の地名あり、本門流寺院4ヶ寺あり、北北西約1kmで妙経寺に至る)

智泉院日達上人(京都大亀谷檀林創立)の創建。
 ※檀越は敬台院(徳川氏・蜂須賀至鎮の室・大石寺本堂寄進)、
    参考: → 阿波徳島寺町>敬台寺 を参照
寛永18年(1641)細草檀林創立と云う。大沼田檀林との学徒争いで創立。講堂他多数の堂宇が寄進される。
 ※八品派と富士門流が関係する檀林と思われる。
2010/10/01追加:
「富士宗学要集 第8巻」 堀日亨、創価学会、1978.9<「tukamoto」氏ご提供> では以下のように説く。
 (富士門流など勝劣派各派は)仙波(川越か)などの田舎天台の談所より、中村小西等の一致派檀林に移り、勝劣各山学生が什門を主とする大網宮谷檀林を起すや、間もなく大沼田に分離し遂に深草檀林を創始する。此は隆門と興門との合同であり、用地は八品住本寺屋敷と住民の寄進で充当し、経営は富士門大石寺末顕寿院日感が当たり、敬台院を大檀越として成る。能化には鷲山智泉院日達を請ずる。
 細草新談所由来:・・山辺郡土気の庄細草村・・法雲山遠霑寺建立・・・5間半に8間の講堂一宇造立。
・・・・・・時は寛永19年(1642)であった。・・本願大徳顕寿院日感上人、護持大施主敬台院・・・・・・
明治初年廃檀となる。
※なお細草檀林東門は要行寺山門として現存と云う。
 要行寺:大網白里町四天木甲1342(細草の南方):明治30年代に移築と云う。
○2010/11/11追加:「tukamoto」氏ご提供情報及び2010/11/03撮影画像
現地にある「遠霑寺縁由」碑
           ・・・・碑には以下の主旨の記載がある。
 「遠霑寺は富士と八品の檀林として開創される。即ち寛永19年(1642)富士大石寺末法詔寺日感上人、諸学徒の新檀所設立の懇願を受け、敬台院の外護により開設に至る。以降明治の廃檀に至るまで、両派合同の講寺として栄える。
昭和42年大石寺66世日達上人、檀林の事跡を記念すべく現在の地に法雲山遠霑寺を再興する。
 以上であれば、明治維新後檀林(遠霑寺)は退転するも、現在の遠霑寺は昭和42年再興されたものであると推測される。
現在の「遠霑寺は近代のもので、檀林の関係は何もない」<「tukamoto」氏情報>と云うのと符合するのであろうか。
 上総細草檀林(遠霑寺):寺門左に「細草檀林記念碑」(詳細不詳)が写る。
  但し、現在の遠霑寺は日蓮正宗の寺院である。
・細草檀林東門遺構(要行寺山門)
細草檀林は東西80余間、南北100歩余の寺地を占め、本堂・祖師堂・講堂・鐘楼のほか学寮が立ち並び東西に門が開いていたと伝える。山門は四脚門で、本来屋根は茅葺と思われる。江戸後期の建築と推定される。(以上「現地説明板」)
 細草檀林東門遺構1     細草檀林東門遺構2     細草檀林東門遺構3     細草檀林東門遺構4
 細草檀林東門遺構5     細草檀林東門遺構6     細草檀林東門遺構7
 要行寺本堂
  ◇東門遺構は老朽化が進み、取壊を視野に入れるも、大網白里町の文化財指定があり、取壊は免れる。
  ◇この門は浅草法詔寺からの移建という可能性も考えられ検討を要する。
2010/12/03追加:
○「千葉県指定史跡宮谷県庁跡本国寺本堂保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、2003 より
寛永19年本能寺(日隆門流)23世智泉院日達は日興門流と合同して、宮谷および大沼田から独立して細草檀林を開設する。
2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
大沼田檀林初祖である鷲山寺13世日乾上人が上総に開基した5ヶ寺の一つである。
元和8年(1622)「新寺禁制」の法に抵触し、廃寺となる。その後鷲山寺18世日達上人が隠棲する。
寛永19年(1642)細草檀林が開創され、法雲山遠霑寺と号する。
寛永19年「細草新談所由来」では境内東西80間、南北1百歩と云う。
堂宇学寮などについては必ずしも明らかでないが、講堂、方丈、書院、番神堂、表門、裏門(要行寺山門として現存)、学寮20余棟があったと断片的な記録が残る。
2012/07/10追加:
○「法華宗宗門史」法華宗宗門史編纂委員会編、法華宗(本門流)宗務院、1988 より
大沼田檀林では、寛永13年(1636)日乾(沼田檀林中興)の寂後、陣門の勢力が強まり、隆門・興門と陣門との間で紛争が生ずる。
寛永18年には学徒の争いが激しく、存亡に危機に立つが、鷲山寺日弘はこれを復興、さらに京妙蓮寺日崇は敬台院にこの事情を告げ、敬台院夫徳島蜂須賀氏を動かし公儀へ訴願し、檀林新設の許可を受け、ここに細草檀林法雲山遠霑寺を創す。
初代の化主は智泉院日達(光長寺18世、鷲山寺18世)、敬台院は講堂・所化寮・諸道具一式を寄進する。
大沼田檀林は陣門の学徒を受け入れるも、細草は冨士門流の学徒を多く受け入れる。
寛政2年(1790)の記録では寺領25石寺域33、834坪とあると云う。
 細草檀林跡:檀林は現在の白里中学校にあったというから、写る建物は白里中学校校舎であろう。
  上述のとおり、遠霑寺は現地付近に昭和42年再興されたものと云う。
2012/07/10追加:
細草檀林成立の詳細は → 冨士門流三鳥派(三超派)・細草檀林 を参照。


上総宮谷檀林(法流山本國寺):大網白里町;勝劣派檀林

創建は空海で真言宗阿蘭若興善寺と号したと伝える。
文明3年(1471)日肝(中興開山上人)の時、土気城主酒井定隆による改宗(七里法華)があり、法流山本国寺と改号する。
元和8年(1622)10世日純(後妙満寺30世)は檀林を創設し、宮谷檀林と称する。
日什門流(現在の顕本法華宗、妙満寺派)であったが、什門だけではなく、勝劣派の中心檀林の役割を担う。
堂宇10棟、塔頭12ヶ院、学寮約50を有し、学徒は800人を超えると伝える。
明治2年、境内に宮谷県庁が設置され、檀林は休止。
明治25年、大学林として復興するも、明治33年再度廃校となる。
現在は幕末の本堂を残すのみ、そのほか祖師堂・客殿などの存在が知られる。
2010/12/03追加:
○「千葉県指定史跡宮谷県庁跡本国寺本堂保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、2003 より
宮谷檀林設立の経緯は以下のとおり。
元和7年(1621)中村檀林にて学徒の間に一致勝劣の口論があり、勝劣派学徒50余名が中村を退出。
復学を望むも受け入れられず、翌8年、幕臣久世広宣の尽力で、日純は将軍秀忠に謁し、檀林開設の許可を得る。
元和8年(1622)日純は自身の実家の菩提寺であった宮谷本国寺に檀林を開創する。
 勝劣派(日什門流、日陣門流、日興門流、日隆門流)合同の檀林であった。
その後、
元和8年(1622)宮谷檀林開設と同じ年に、隆門鷲山寺日乾上人により大沼田妙経寺に大沼田檀林が開設される。
寛永19年本能寺(日隆門流)23世智泉院日達は日興門流と合同して、宮谷および大沼田から独立して細草檀林を開設する。
享保8年(1723)日陣門流は三条本成寺23世日尭、陣門の興隆を謀るため、宮谷より独立し、三沢檀林を開創する。
 かくして、以降宮谷檀林は什門の檀林となる。
明治元年安房上総知県事となった柴山典の記録では「・・・本國寺とて一大寺院数十軒の学寮あり方今仏法衰微半は廃屋となり無用のものなれば示談をもって借り受け」県庁となすとある。
明治維新で中断した檀林は明治25年より明治33年まで宮谷大学と称して活動したと云う。
現在は本堂(旧講堂)、客殿、庫裏、山門を残す。
 講堂の略歴は以下のとおり。
寛永14年(1637)講堂建立、元禄11年(1698)講堂再建、嘉永元年(1848)講堂再々建。
昭和37年講堂修理、屋根を入母屋造に改造、屋根は瓦棒銅板葺、向拝屋根を鉄板葺から銅板葺に改める。
平成14年講堂修理、屋根を嘉永元年再興時の茅葺形銅板葺の寄棟造に復元する。

宮谷本国寺境内図:左図拡大図

大正11年3月朝日講の際に本漸寺中村日錦が「宮谷懐古」と題する講演のため作成と云う。

2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
寛政6年(1794)「法流山本国寺書上記」では
「境内21町余・・・塔中10坊 末寺42ヶ寺、惣門額庫裏大書院宝蔵大講堂・・・・本堂鐘楼堂番神鎮守八幡・・・。
経蔵・・鎮守大黒天社建北谷嶺弁財天女社建、溜池上稲荷天満宮学室東谷西谷南谷北谷也、惣軒数120軒余、大衆635人集会」とある。
 宮迫檀林本国寺配置図:上記「宮谷本国寺境内図」などを参考にして作成
本堂は延宝5年(1677)、安永9年(1780)、享和2年(1803)再建される。
講堂は寛永14年(1637)日要建立、元禄10年(1697)、嘉永元年(1848)再建される。
寛永14年建立講堂は茂原行光寺本堂として現存する。
 本堂棟札裏には「干時寛永第七四太才丁丑歳・・・」とあり、
 「茂原行光寺縁起由緒」(明治36年)では「本堂(6間5尺×6間4尺)は客殿の形に修営す。現来宮谷檀林の講堂なりしが、
 建替の趣を聞き込み・・・元禄15年該講堂を希請し・・建築せしと云う」とある。
  寛永14年宮谷檀林講堂平面:茂原行光寺本堂
  嘉永元年再興宮谷講堂平面
なお、学生は平均400人前後で、寛政9年(1797)には635人を数えると云う。


武蔵三沢檀林(法照山豊顕寺):勝劣派檀林:横浜市神奈川区三ツ沢西町

永正12年(1515)三河国八名郡多米(ため)に多米周防守元興は父元益の追善供養のため、鷲津本興寺末本顕寺を建立する。
その後、久米氏は後北条氏に重用され、元興は天文20年(1551)本顕寺を武蔵国久良木郡三沢に移転し、法照山豊顕寺と改号する。
天正18年(1590)秀吉の小田原城攻めで、多米氏は滅亡する。
享保9年(1724)日尭、武蔵豊顕寺に檀林を設置。
本堂は天保14年(1843)建立、客殿・庫裏は安政5年(1858)建立。
現在は法華宗陣門流総本山本成寺末である。法照山と号する。
2010/12/03追加:
○「千葉県指定史跡宮谷県庁跡本国寺本堂保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、2003 より
享保8年(1723)日陣門流・三条本成寺23世日尭、陣門の興隆を謀るため、宮谷より独立し、三沢檀林を開創する。
2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
永正12年(1515)本成寺9世日覚の弟子日持上人が開基する。
 (後北条氏与党である多米元興、父元益の追善供養のため、遠江本興寺末寺として三河多米の地に本顕寺を建立する。)
天文20年(1551)多米元興、現地武蔵三沢に移し、豊顕寺と改号する。
享保5年(1720)檀林設置の許可が裁可される。
陣門では初め宮谷檀林を拠点とし、その後は大沼田檀林に移り、享保年中に陣門流の檀林を持つこととなる。
享保8年頃には経蔵、八幡社、弁天堂、毘沙門堂、講堂5棟、学舎25棟があったとされる。
安政5年(1858)講堂、経蔵、鐘楼、物置、湯殿、学寮30棟などがあったと云う。
 三沢檀林配置図:明治年中、岡崎長福寺日祥「陣門流作法鈔」所収絵図などを基とする。
学生数は平均192人で、嘉永4年(1851)では244名の在籍と云う。


関西檀林

京都松ヶ崎檀林(本涌寺)

本涌寺は天正2年(1574)日生により創建、天正8年松ヶ崎檀林が開設。
開祖日生は比叡山に学ぶ、天正2年松ヶ崎の僧都山麓に講堂を構える。
天正5年日生は関東に赴き、飯塚檀林の創建に加わる。
天正8年松ヶ崎に戻り、ここに学室を開く。松ヶ崎檀林の成立。(最盛期は約300人の学徒が在籍と云う。)
本涌寺の立地は東に妙円寺、西に妙泉寺(立本寺末)がある。
大正7年本涌寺と妙泉寺は合併し、寺号を涌泉寺と改号する。(妙泉寺跡は松ヶ崎小学校となり、何の痕跡もない。)
◇「都名所圖會 巻6」:
 松ヶ崎(檀林)
「松崎本涌寺は開基日生上人にして、日蓮宗派なり。天正年中に法華円純の学室となる。妙泉寺は日像上人のひらき
給ひし所にして同宗なり。毎歳七月十六日堂のまへにて、此里の老若男女うち交り、題目にふしをつけ声おかしく拍子
とり、踊り狂ふなり。是なん松崎の題目をどりとて名に高し。其夜うしろの山において、妙法の二字を焼火に顕し、聖霊会ゑ
の送火とするなり。」
 ※なお、絵図にある七面社(妙泉寺と本湧寺の中間の鳥居を北西に上る)は相当荒れているが、今も健在である。
  但し、図中の日輪瀧・月輪瀧は痕跡のみあると思われる。(今は涸れる。)この境内は湧泉寺管理地と思われる。
  2012/11/29追加:天正4年(1576)日諦僧正が勧請。本尊は涌泉寺に安置 、「七面山の御祭」「お火焚祭」には本尊が当地に遷座すると云う。
◇「近世日蓮宗松ヶ崎檀林の堂舎構成」丹羽博亨、羽野隆 より
 (「日本建築学会計画系論文集 第485号、183-192、1999.7」所収)
承応3年(1654)講堂が建立。
以下の各種境内絵図が残る。
 ◇享保18年(1733)松ヶ崎檀林境内図
各種境内絵図を総合すると、以下のような檀林の配置であった。
 境内地は東西88間、南北30間、
境内中央に講堂・食堂(飯台)・方丈(能化寮)・学文所・納所・浴室が配置される。西には表門、東には裏門を構える。さらに講堂・食堂の前広場南(石段下)に所化寮2棟がある。
東側(東谷)には、講堂東側石段を上った平坦地に対論場・経蔵、東に所化寮2棟、その中間に鳥居がある。さらに上ったところに鎮守と拝殿がある。その上の平坦地に対論場・玄能寮がある、さらに上ったところにも鎮守・拝殿がある。
西側(西谷)には最も低い平坦地に板頭寮、その一段上に所化寮・対論場があり、石段下に鳥居、石段東の狭隘地に鐘楼、その上の平坦地に対論場があり、さらに長い石段上に鎮守と拝殿がある。廟所は西北にあると思われる。
 ◇宝暦7年(1758)松ヶ崎檀林境内図
享保18年とほぼ同一配置であるが、方丈・学文所・納所が大規模化している。北東の社殿は番神社、この両脇は対論場、東西両谷に書く対論場2棟が建築される。
 ◇明和6年(1769)松ヶ崎檀林境内図
西谷に板頭寮が配置(所化寮の南下段)
 ◇安永7年(1779)松ヶ崎檀林境内図:明和6年図と大差がない。
 ◇安永9年「都名所圖會 巻6」:絵図などは上出のとおり。
入母屋造の講堂、その左は妻入の食堂、背後は方丈、講堂右に石段上に経蔵と鳥居、さらにその上に鎮守がある。講堂前庭には井戸屋根形があり、その善方に所化寮の屋根がある。表門・裏門も描かれている。
 ◇文化7年(1810)の資料では
敷地:88間に30間、表門:明8尺、門番所:2間半に1間半、鎮守:3尺に2尺5寸、拝殿:1間に5尺6寸、鎮守:1尺に2尺、拝殿:1間に4尺5寸拝殿、鎮守3尺に3尺、拝殿:1間に4尺5寸、
講堂:7間に6間、方丈:9間に3間、経蔵:1間半四方、鐘楼:1間半四方、食堂:6間に5間、納所寮:3間に1間1尺、下部屋:1間に1間2尺、薪部屋:2間半に2間、浴室:3間に2間2尺、桶所:2間5尺に1間半、本院対論所:3間半に2間半、玄講堂:7間に3間、所化寮:8間半に2間半 11間半に2間半 21間半に2間半 23間半に2間半 23間半に2間半 14間半に2間半、対論場:2間半に2間、対論場:3間半に1間半、対論場2間半に2間、裏門:明6尺5寸、井戸屋形:1間2尺に1間、露地門:1間に3尺5寸、開山墓:1丈四方、墓地:南北4間半に東西7間半
とある。
 ◇明治4年「寺地画図」
基本的に江戸期の配置と変らない。但し東側鎮守は刹堂、西は妙見堂という。
 ◇「松ヶ崎涌泉寺現状略配置図」:「飯高寺講堂と檀林について」玉井哲雄、丸山純ほか 所収
破線で示す現状墓地になっている雛壇状の敷地に学寮があったと云われる、またそれら以外にも木立の中に整地されたと思われる平坦地が幾つか確認できる。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
 松ヶ崎檀林本堂平面図:桁行7間、梁間6間、入母屋造、屋根本瓦葺、正面に1間の広椽、左右は半間の落椽を廻らす。
承応3年(1654)建立。
◇松ヶ崎本湧寺(湧泉寺)現況
   参考:湧泉寺概要地図      湧泉寺航空写真

 本湧寺伽藍概略図:左図拡大図

2007/08/30撮影:△印、2012/11/15撮影:▽印
本湧寺表門:西から撮影
 ▽本湧寺表門2
本湧寺講堂:西南から撮影、承応3年(1654)建立
 ▽本湧寺講堂2     ▽本湧寺講堂3
生 師 廟:南から撮影、開祖日生上人廟
松ヶ崎檀林の開祖である教蔵院日生上人廟である。
地元では「教蔵院さん」と呼ぶという。
8月15・16日は涌泉寺の境内で題目踊、さし踊が行われる。

 △本湧寺学室石碑:表門右手にある、「法華宗根本學室」
 △本湧寺参道法華題目碑:ここに2基ある、中央の石碑は「眼病救護七面大天女道」 とあり、石碑の背後に七面社参道がある。
               左奥に祠が鎮座する。
 ▽松崎山題目碑:本湧寺参道その1      ▽参道法華題目碑:本湧寺参道その2
 ▽松崎山妙泉寺題目碑:現在の涌泉寺表門前にあるが、妙線寺より移設したものであろう。
 ▽表門前題目穂:これも現在の涌泉寺表門前にあるが、法華宗根本学校道とあ り、街道に面した本湧寺入口がある場所から移設されたものであろう。
 △西谷板頭寮跡平場     △西谷連絡石階     △西谷所化寮平場     △西谷対論場平場
 △東谷講堂横連絡石階     △東谷所化寮平場
  ▽東谷玄能寮跡平場:写真中央部

 △講堂下東所化寮平場:現状は日蓮宗尼衆宗学林がある、ここに講堂下の東所化寮があった所と推定される。東から撮影。
            写真中央手前建物が日蓮宗尼衆宗学林
  参考:日蓮宗尼衆宗学林
      大正8年、村雲瑞龍寺10代日栄門跡の発願により、松ヵ崎妙泉寺の跡地に「尼衆修道院」を創立。
      昭和18年、現校名に変更。
      昭和29年、休校(生徒数減少による)
      昭和50年、旧松ヶ崎檀林(本湧寺)境内に復興、日蓮宗唯一の尼僧教育機関とされる。
 △講堂下西所化寮平場:現状は民家と思われるも、ここに講堂下の東所化寮があった所と推定される。西 より撮影。
  ▽講堂下所化寮跡平場2:西より撮影

2007/09/05追加:
参考:松ヶ崎妙泉寺(廃寺)

正暦3年(992)中納言源保光が松崎寺を創建、円明寺と号す、後に歓喜寺と改号、延暦寺末であった。
徳治2年(1307)日像上人京都弘教、歓喜寺実眼が日蓮宗に改宗、寺号を妙泉寺と改号する。
天文5年(1536)の天文の法難で、焼亡。
天正3年(1575)に寺院再興と云う。江戸期を通じ寺院は存続するも、明治維新前は寺中全て無住となる。
明治8年妙泉寺に(松ヶ崎)仮小学校開校、塔頭止静院(坊名不明)を始めとする5ヶ院は妙泉寺に合併。
明治9年五ヶ院廃寺跡地に(松ヶ崎小学校)独立校舎を建てる。
大正7年妙泉寺は本涌寺と合併し、寺号を本涌寺は涌泉寺と改号する。
大正9年 妙泉寺本堂を撤去、松ヶ崎小学校敷地とする。(※これによると妙泉寺本堂は大正9年まで存続したと思われる。)
○「都名所圖會 巻6」:
 松ヶ崎(檀林):左下部分に妙泉寺が描かれる。(絵のみで文は全くなし。)
○「リーフレット京都 No.189 松ヶ崎妙泉寺の江戸時代」京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館、2004年10月 より
 寛政元年松ヶ崎妙泉寺絵図:地元岩崎晧氏蔵
 妙泉寺と松ヶ崎小学校関連図:岩崎氏作図が原図
  ※岩崎氏は寛政元年(1789)、天保14年(1843)、嘉永3年(1850)年紀の3枚の絵図を所有と云う。
  ※掲載の絵図が若干不鮮明であるが、本堂、方丈、鐘楼、石塔堂、冠木門、鎮守・拝殿と思われる堂宇、
   その他2・3の小堂、並びに寺中観蓮坊、春妙坊、寿如坊、智?坊、了山坊の5寺中が存在した様子が分かる。
2012/11/29追加:
 ▽松崎山妙泉寺題目碑:現在の涌泉寺表門前にあるが、妙線寺より移設したものであろう。 (上の松ヶ崎檀林に掲載済)


京都求法院檀林(六条檀林)

○「遺拾・都名所圖會」;
本圀寺壇林求法院:妙見堂・四観の松。宝珠院:七面明神社あり。
○壇林求法院:方丈奥庭塀外(北)にあった。(即求法講院)
天正11年(1583)本国寺16世日メA本国寺に檀林を開設、日重が講授する。
天明8年(1788)大火で焼失。
妙見堂:開基日重上人の開眼なり。一致派の学室、当国六檀林の一員なり。
四観松(しかんのまつ):求法院講堂の東南にあり。
 求法院檀林寺地画図:画像相当不鮮明:「近世日蓮宗飯高檀林の堂舎構成」 より
  ※妙見堂は本図の北西隅に描かれる。
2014/11/12追加:
○求法院檀林妙見大菩薩
求法院檀林の妙見大菩薩は廃檀後、同じく寺中の信正院に遷され、その後信正院は移転、合併(本栖信正院)、伏見に移転(信正山本栖寺)するも、伏見の地に妙見堂が建立され、妙見像も遷されていると思われる。
 → 信正山本栖寺
2011/04/11追加:
○「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(「広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
天正19年(1591)本圀寺境内に学室を設け、一如院日重を開基とする。
天明8年(1788)の大火によって類焼する。ただちに講堂は仮建され、その他の堂舎も再建される。
天明の大火以前の堂舎構成は不明である。しかし
寛政3年(1791)の「本圀寺古図」(寛政3年本圀寺境内図)は天明の大火以前の景観とも思われ、これによれば以下の堂舎構成と云う。
 敷地(南北47間、東西36間)、表門(高麗門)、門番所、宮(妙見)、講場3棟、経蔵、講堂(10間×8間・小棟造)、能化寮、食堂、板頭寮、中頭寮、ニ老寮、三老寮、四老寮、五老寮、所化寮4棟、井戸屋形、重師廟所
 表門は北にあり、西辺に所化寮、三老寮、所化寮、ニ老寮、南西隅に講場、経蔵を配す。
講堂は西面し廊下で食堂、その背後の能化寮を繋ぐ。能化寮の北に板頭寮、北東隅に妙見と鳥居、井戸屋形がある。その南には講場と玄能寮を配置する。
南辺には重師廟所がある。その他寮舎は東西方向に3棟あり、各機能別に区分して使用される。
天明の大火後の堂舎配置は明治4年寺地画図で知ることができる。
 本圀寺寺地画図
◇求法院檀林講堂
講堂は明治6年の廃檀後、深草墨染寺(下に掲載)本堂として移建され、現存する。
 伏見墨染寺本堂平面図

深草墨染寺
○明治3年「日蓮宗本末一覧」
 甲身延山末、妙傳寺支配 墨染寺 とある。
2011/06/18撮影:
深草山墨染寺:上述のように本堂は求法院檀林講堂を移建と云う。
天正年中、豊臣秀吉深草貞観寺旧地を日秀上人に与え、墨染寺を創建す。その後現在地に移転する。
現在は頗る衰微し、街中に本堂・近年改築の庫裏のみを有する状態である。
 深草墨染寺本堂1     深草墨染寺本堂2     深草墨染寺本堂3
2017/04/29撮影:
桜寺と俗称する。境内に薄墨のように咲く墨染桜が植わっていることによる。
 深草墨染寺山門     墨染寺山門脇題目碑     墨染寺境内題目碑
 深草墨染寺本堂4      深草墨染寺本堂5      深草墨染寺本堂6
 墨染寺本堂扁額(桜寺)     墨染寺本堂扁額(鬼子母神)     本堂前題目碑その1     本堂前題目碑その2
 墨染井手洗石:墨染井手洗石は江戸役者中村歌右衛門(二代目)が明和5年(178)7月に寄進と刻する。
 深草墨染寺庫裡:庫裡の左前に切妻の小宇が写るが、これが毘沙門堂で、ここに伏見(廃)法性寺の毘沙門天像を祀る。
※伏見法性寺は現在退転し、祀られていた毘沙門天は深草墨染寺に遷座するという。遷座した毘沙門天像は墨染寺毘沙門堂に安置される。 → 伏見法性寺
 墨染寺毘沙門堂内部     (廃)法性寺毘沙門天像


京都東山檀林(妙恵山善正寺)

文禄4年(1595)瑞竜院日秀尼、秀次菩提のため、嵯峨亀山に一宇を建立、善正寺(秀次法名)と号す。慶長5年今の地に遷す。寛永年中東山檀林が設置される。
秀次・村雲瑞竜寺墓所。本圀寺に属する。
2015/01/18追加:
○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864) より

巻3:妙恵山善正寺:左図拡大図

法華宗一致派本圀寺に属す。

開基は求法院第三世本妙院日鋭上人、本願は関白豊臣秀次公の母公獣瑞龍院日秀法尼、関白秀次公の追善のため建立する。
秀次公法名は善正院殿高岸道意大居士と号する故に善正寺と名付けたり。

◇「拾遺都名所圖會 巻2」:
[法華宗にして本圀寺に属す。開基は日鋭上人、本願は関白秀次公の母義瑞龍院日秀尼なり。則秀次公追福の為に建立し給ふ。秀次公の法名を善正院殿高岸道意と号す。当寺は山城国六檀林の一室なり、第四世日演上人興起す〕
釈迦堂〔上壇の地、本堂の西にあり。本尊釈迦仏は金銅の坐像九寸余。元和元年二月十三日肥前の国玉名郡中村の民人霊夢を感じて漁人の網に揚れり、希代の霊尊にして、宗徒常に詣す〕
鐘楼:寛永17年
◇2011/01/13撮影:
明治維新後おそらく廃檀となり、近代化とともに境内は学校や住宅などに転用され、境内も縮小・近世の建物もほぼ姿を消し、今では、往時の寺域や寺観を想像することは難しくなっている。
現在は本堂・本師堂・善正殿(秀次廟)・鐘楼・庫裏などの建築がある。しかし、本堂・本師堂・善正殿は新しく、近年に木造建築として造替されたものと推定される。
 東山檀林門前:学室石碑・石階などが辛うじて、往時の雰囲気を伝えるが、この石階などが往時のものかどうかは不明。
 東山檀林学室碑:善正寺・学室・妙慧山などと刻む。この石碑が往時のものかどうかは不明。
 東山檀林善正寺参道:この参道も辛うじてかっての雰囲気を残すが、往時のままかどうかは不明。
 東山檀林善正寺堂宇:左から本師堂、本堂、鐘楼、背後は庫裏
 東山檀林善正寺善正殿:本堂・本師堂とともに正規の寺院建築として近年に造替されたものである。
  ※2014/09/10追加:
  「「伸和建設資料 T、U」によれば
  善正寺御霊屋(善正殿)は昭和60年、善正寺釈迦堂(本師堂)及び善正寺客殿は平成5年の建立という。
 2014/10/12撮影:
  東山檀林門前2     東山檀林本堂1     東山檀林本堂2
  東山檀林本師堂1     東山檀林本師堂2     東山檀林本師堂3     東山檀林鐘楼
  東山檀林善正殿2
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
寛政元年(1789)頃「東山檀林善正寺古図」では
 敷地(南北70間、東西65間)、表門(高麗門)、半門、裏門、妙見宮、番神堂、玄義講義所、文句講義所、鐘楼、玄能寮、本堂(7×8間)、釈迦堂(6間四面)、客殿・玄関、書院、庫裏、食堂、大頭寮、くず屋、経蔵、秀次霊屋、雪隠、所化寮5棟
が描かれる。
 西に表門を開き、その付近にくず屋と玄義講談所が配される。石段を登って正面が本堂、その西側に釈迦堂が何れも南面し、釈迦堂前に鐘楼、本堂東に経蔵、本堂背後に廊下で客殿・書院・庫裏・食堂に連絡する。
北西に玄能寮、北東に鎮守妙見社がある。大頭寮は北東にある。南東には文句講義所と番神堂がある。所化寮は西辺に3棟、北辺に1棟、東辺に1棟が配される。秀次廟所・墓所は北辺にある。
基本的に「東山名勝圖會」元治元年(1864):妙恵山善正寺(上掲)と同一の配置である。

◆関連事項
2014/09/10追加:
○豊臣英次の実父・日海上人(瑞竜院日秀尼の夫、弥助、後に豊臣吉房・三好吉房)開基一音院は六条本圀寺塔頭として現存する。
2014/09/10追加:
○寺町四条旧大雲院境内より関白秀次供養塔と推定される地輪を発見
  → 寺町四条旧大雲院北野天神鐘楼中)
2014/08/22次の新聞報道がなされる。
 イビソク関西支店(伏見区)<民間発掘調査会社>が四条寺町の大雲院跡地で、豊臣秀次の供養塔の一部を発見と発表
発見されたのは五輪塔の地輪で「文禄四年/禅昌院殿龍叟道意大居士/七月十五日」と刻される。「道意」とは秀次が高野山に入寺したときの法号であり、文禄4年7月15日は秀次が自害した日である。地輪の大きさは23cm四方で高さ16cmを計る。
この秀次五輪塔は貞安によって密かに建立されたものと推定される。三条河原の瑞泉寺の「瑞泉寺縁起」では貞安は三条河原の刑場を訪ねたと記すようであり、おそらくは秀次と貞安とは何等かの繋がりがあったもの思われるからである。
 秀次供養塔地輪
なお、墓所の一つである京都三条河原瑞泉寺では秀次の戒名は「瑞泉寺殿高巌一峰道意」と号し、今般発見された秀次戒名とは異なるが、これは大雲院貞安が付与したものであろうと思われる。
秀次墓所:
今般寺町四条の大雲院旧地から発見された地輪は供養塔のそれであり、墓所ではない。
秀次墓所は、東山善正寺の他、三条河原瑞泉寺及び紀伊高野山光台院裏山にもある。
 2016/04/09撮影:
  瑞泉寺殿秀次墓所     秀次及連座処刑者五輪塔     瑞泉寺本堂庫裡
  瑞泉寺旧山門瓦:中央の菊花紋がセメントで塗り潰されている。
  これは明治の神仏分離に付随した廃仏稀釈で「皇室」を憚って、自主的に処置したものとの説明(掲示)がある。
  強制ではなく自主的であったとしても、時代がそれを許さなかった訳で、げに国家神道とは恐ろしきものかな。


京都鷹峯檀林(常照寺)

元和2年(1616)、本阿弥光悦土地を寄進、嫡子光磋の発願で、日乾上人を招じて創建される。
寛永4年(1627)、日乾鷹峯檀林を開設する。
現在旧本堂(講堂)は退転。あるいは現本堂は近年の改築と云う。(寺院の説明)
また、山門は吉野太夫寄進と云う。
2011/04/11追加:
 ◇鷹峯檀林「学室」扁額:本阿弥光悦筆;常照寺派発行「ルーフレット」より転載
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
第3世日揚は旧の講堂を廃し、中村檀林講堂に酷似する大講堂を建立。
元禄元年大門建立、万延元年(1860)大講堂焼失、慶応2年(1866)講堂再建。
 鷹峯檀林配置古図:講堂は「焼失後未建立不在」とあり、万延元年-慶応2年の間のものであろう。
 鷹峯檀林平面古図:上図とほぼ同一の堂舎配列である。
配置古図によれば
 敷地東西60間、南北70間、大門(薬医門)、門番所、妙見宮、七面社、鐘楼、玄義論場、止観論場、玄頭寮、玄堂、講堂(7間×9間半)、方丈(6間×14間)、飯台場、板頭寮、中座寮、経蔵、土蔵、小家2棟、廟所、所化寮6棟 がある。
南に大門を開き、大門正面に板頭寮があり、その前に飯台場、東に玄堂がある。その背後に講堂があり、廊下で方丈に連絡する。玄頭寮と玄義講場は西側、止観講場と中座寮は東側に位置する。廟所・墓地は北東に妙見社と七面社は北西にある。
2016/06/19追加:
○安永9年(1780)初版本「都名所圖會」 より
 「都名所圖會」鷹峯: 光悦寺及び題目堂、檀林常照寺、圓成寺(寺名表示はない)、源光房の寺院が描かれる。
2011/04/15追加:
鷹峯檀林現況:2011/04/02撮影:
 鷹峯檀林碑     本堂日潮上人扁額
 鷹峯檀林山門(赤門):吉野太夫寄進と云う。また門は近代に改造されてとも云う。
 鷹峯檀林本堂:建築年代は良く分からない。
 現在以下の小宇を有する。
 鷹峯檀林開山廟:身延21世日乾上人の五輪塔を安置する。
  なを写真左(一番奥)に生垣に囲まれた宝珠と笠を載せた墓碑が写るが、この墓石は吉野太夫の墓碑である。
 鷹峯檀林鎮守常冨大菩薩     鷹峯檀林鬼子母神     鷹峯檀林遺芳庵茶席


山科檀林(竹ヶ鼻護国寺):JR山科駅南(山科京極)に現存する。

京都山科檀林:JR等山科駅前に現存する。
寛永20年(1643)日勇(京都妙傅寺14世)により創建、京都六檀林の一つ「山科檀林」が設置される。
 ※この地はもと廃護国院(真言宗)があった場所と云う。
 ※檀越は妙恵院(四条隆術の室)。
 ※京都妙傳寺
2014/12/31追加;
サイト「山科護国寺」では以下のように述べる。
 「妙慧院(参議四条隆術の室)は、深く日勇上人に帰依し、自ら開基檀那として寛永20年(1643)了光山護国寺を開創する。
 この時、信徒である東福門院(後水尾天皇皇后、徳川秀忠の娘和子)は大講堂と方丈を寄進、
 さらに紀伊徳川光貞及び室天真院は総門と学寮を建て、日勇上人は護国寺に山科檀林を開闢する。
 慶安元年(1648)日勇上人、弟子寂遠院日通上人に化主(住職)を譲り、慶安3年護国寺にて遷化す。
 日通上人は、妙玄講堂・論議場(妙玄講堂を寂遠院と称し、論議場を通玄峰と号する)を設け、檀林制規を制定する。
 なお日通上人は東山妙傳寺16世、池上本門寺20世、身延山30世に晋山、飯高檀林の化主を務る。」
 「総門と旧学寮は、創建時に建立される。
 開山の日勇に帰依した紀州徳川家2代藩主・徳川光貞、その室天真院殿(安宮照子)の寄進による。
 総門はその娘の台嶺院殿、伏見家の高厳院殿が施主になる。学寮は明治5年に喪失す。総門は現存し欅造りになる。」
 「総門:紀州徳川家からの寄進:
 護国寺で唯一開創当時から残る欅造りの門である。開山の日勇聖人に深く帰依していた紀州徳川二代藩主である
 徳川光貞とその妻安宮照子(天真院殿)が願主となって建立される。
 またその娘の台嶺院殿、伏見家の高厳院殿が施主として名前を連ねている。」
明治5年廃檀。その後荒廃し、20年間無住と云う。
現在は以下の堂宇がある。
総門:唯一残存する創建時の門と云う。本堂はRC造(昭和37年造替)。鐘楼、日勇上人廟(元妙見堂)を有する。
◇「拾遺都名所図絵 巻2」:天明6年(1786)
 護国寺〔同所(地蔵院)南側にあり、法華宗にして、開基は日勇上人なり。京師妙伝に属す、一派の学校なり]
  竹ヶ鼻護国寺
  ※北側に表門があり、この門が現存する山門(総門)であろう。本堂、食堂、経蔵、妙けん社・同拝殿・同鳥居、鐘楼、裏門
   の他多くの学寮などの施設があった様が描かれる。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
寛永20年宇治郡古刹護国院の跡に日勇を開祖として開創され、四条隆術の外護により大講堂、方丈、総門、衆寮2宇が建立される。その後寛文年中前後に日通により妙玄講場、所化の論義所などが整備される。
 貞享5年山科檀林古図
上記の貞享5年(1688)の古図では
敷地東西58間南北62間、表門、門番、裏門、妙見宮、釣鐘堂、玄義部屋、本堂(講堂)、客殿・玄関、台所、食堂、所化寮8棟
がある。
北に表門を開き、近くに玄義部屋を配する。本堂は南面し、廊下で客殿、台所、食堂に繫がる。北東に談合部屋、釣鐘堂、妙見宮・拝殿がある。所化寮は南側に3棟、東側に4棟、北側に1棟ある。
 元禄10年山科檀林古図
上記の元禄10年(1697)古図と貞享5年古図との違いが、本堂(講堂)が6×8間で東面し、書院は4間半×7間になる。その他堂舎の新築・改造が少しある。
 寛政元年山科檀林古図
上記の寛政元年(1789)古図の堂舎構成は上記の「拾遺都名所図絵 巻2」天明6年(1786):竹ヶ鼻護国寺と基本的に同じである。
本堂(講堂/寄棟造)は7×5間に規模が縮小され、客殿も3間半×6間半に縮小される。
なお寛政元年の配置は明治5年の廃檀まで変化がない。
2014/12/18撮影:
現在、付近は山科駅南の繁華街となり、寺域はかなり縮小されているものと思われる。
 山科檀林題目碑1:學校とあり、左右には「了光山」「護国寺」と刻する。
 山科檀林題目碑2:写真向かって右に赤褐色の背の低い石碑が写るが、この石碑は「だんじょ妙見宮」と刻む。
  ※「だんじょ妙見宮」碑:未見:「護国寺(山科区)」のページより転載。
 山科檀林総門1     山科檀林総門2
 山科檀林本堂1     山科檀林本堂2     山科檀林本堂3     山科檀林鐘楼
 北辰妙見宮石灯篭竿:妙見宮前にあったと思われる石燈籠の残欠で竿部分のみが残ったものであろう。
 山科護国寺開山廟:元妙見宮という。
 開山廟内部:中央は法性院日勇上人碑、向かって右は第二世寂遠院日通上人碑、左は第四世發心院日堯上人碑。
  なお、日堯上人は、「寛文12年(1672)山科檀林発心院日堯円頓者義海を著す」という。
 山科檀林歴代碑


鶏冠井檀林(真経寺/北真経寺)

鶏冠井に於ける日蓮宗諸寺 →鶏冠井(北真経寺・南真経寺・興隆寺・石塔寺)を参照。

徳治2年(1307)西国に赴く途中、日像上人は向日明神の導きで、鶏冠井に至り、説法して、鶏冠井を皆法華となす。
この時、鶏冠井村真言宗真言寺の実賢律師を折伏して改宗させ、名を真経寺と改号する。
明暦3年(1657)通明院日祥上人が真経寺に17堂舎を設け檀林を設立し、真経寺は2分される。
 ※現地の説明板などでは開檀は承応3年(1654)とする。
即ち真経寺は檀林として北真経寺<四条妙顕寺末(明治3年「日蓮宗本末一覧」) >と称し、新に信仰の対象として、興隆寺西南に南真経寺が移転・建立される。
 2016/03/26追加:
 ※檀林は「冠山庠」とも称する。(「日本歴史地名大系 26 京都府の地名」)
 また「冠山檀林」とは鶏冠井檀林と推定され、「冠山檀林」とも云われた思われる。
 <大和常徳寺歴代墓碑に「冠山檀林二百七世文講」と刻む墓碑がある。>
 おそらく、冠山とは山号の鶏冠山を示すのであろう。また庠(ショウ)とは「まなびや」の意である。
近世の姿は次で知ることができる。
 「拾遺都名所圖會 巻三」天明7年 より:西岡鶏冠井村 檀林
 「拾遺都名所圖會 巻三」天明7年 より:西岡向日興隆寺真経寺
  ※図の上が興隆寺で本堂・鐘楼・方丈・庭園などを具備した寺院であった。図の下が南真経寺。
明治初頭(現地説明板では明治8年)檀林は廃檀され、明治8年興隆寺も廃寺となる。
2011/04/11追加:
◇「近世日蓮宗檀林の建築構成-1-」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
 寛政元年鶏冠井檀林古図
上記の寛政元年(1789)は拾遺都名所圖會(天明7年)と同一の堂舎構成である。
この古図では
講堂(5間×7間)、探玄窟、方丈・客殿、土蔵、板頭寮、三十番神社、七面社、表門、経蔵、鐘楼、飯台、玄義寮、論義室、寮8棟、浴室、木工屋、裏門 がある。
敷地は東西46間南北44間である。西に表門を開き、付近に探義窟がある。講堂は南面し、背後に廊下で客殿、台所につながり、客殿は高塀で囲まれる。講堂東側に飯台、玄義寮がある。
板頭寮は北西に、文句講場、中頭寮は南東に、北側に浴室、講堂の前に鐘楼、経蔵、木小屋を配する。三十番神社と七面社は西側に鳥居を建てて在る。
講堂・客殿・台所・飯台・玄義寮・表門の遺構は現存する。
 鶏冠井檀林講堂平面図
5間×5間、寄棟造、本瓦葺、正面に1間の広椽を採り、落椽を廻らす。
◎鶏冠井檀林(北真経寺)現況
2007/07/19撮影:
 北真経寺本堂境内:廃檀後、学寮などは退転し、かなり広い境内は駐車場と化す。
   同     本堂;檀林当時の本堂が残存する。京都府登録文化財。
   同  本堂扁額:鶏冠山と号する。
2016/01/23撮影:
 近世の鶏冠井檀林:現地説明板を撮影
 鶏冠井檀林西門     西門内題目碑1     西門内題目碑2     鶏冠井檀林南門
 鶏冠井檀林北門:東門はあったとしても早くに退転か。北門は近年に再興されたと思われる。

本堂・妙見堂・食堂:向かって左から
檀林講堂(本堂)1:本堂は檀林時代の講堂の遺構である。
檀林講堂(本堂)2:左図拡大図
檀林講堂(本堂)3:本堂扁額
檀林講堂(本堂)4
檀林講堂(本堂)5
檀林食堂1     檀林食堂2:食堂も檀林時代の遺構という。
檀林妙見堂
鐘楼・経蔵     檀林鐘楼     檀林経蔵
鎮守(番神社か)
檀林探玄窟:檀林時代は西門を入ったところに位置する。
檀林方丈
論議堂・寮跡など
檀林松寮跡


京都大亀谷檀林(隆閑寺):勝劣派檀林

承応2年(1653)本能寺・本興寺20世日善、大亀谷檀林創立、明暦元年(1655)講堂建立着手。
 ※講堂材木は種子島公母が願主となり、種子島より寄進すると云う。
拾遺都名所圖會 巻4:
隆閑寺〔大亀谷のひがし、宇治道の南にあり。妙亀山と号す。法華宗にして、開基は洛の本能寺日達上人なり。法華勝劣派の学室とす〕
なお、法華宗大本山京都本能寺は元治元年(1864)の兵火で灰燼と帰す。
焼失後、隆閑寺学室を移築し、昭和3年に現伽藍が竣工するまで、隆閑寺学室を仮本堂としたと云う。
京都本能寺のページに仮本堂と思われる写真を掲載。
 仮本堂時代の本能寺本堂:推定
 明治後期の本能寺:「京都府写真帖」京都府、明41年 より
 本能寺伽藍:「京都名勝写真帖」風月庄左衛門、風月堂、明治43 より・・・2010/11/29追加
  ※上記は昭和3年以前の本能寺仮本堂の写真と思われる、
   であるならば、この写真の堂宇はまず隆閑寺学室講堂を移建した仮本堂であろう。
  ※但し、「仮本堂時代の本能寺本堂」と「明治後期の本能寺」「本能寺伽藍」の本堂向きなどが相違し、この点など究明が
  必要であろう。
2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
承応2年(1653)本能寺23世日達上人本能寺学問所を開設す。日達は鷲山寺・光長寺貫主、大沼田・細草檀林第1世である。
京都にも八品派教学の檀林の必要性があり、本能寺日善が日達を招じたものである。
承応元年本能寺日順の寄附により、大亀谷地藏院に敷地を得て、翌年に開設される。(日順は銀20枚で大亀谷地藏院を買収)
 ※大亀谷地蔵院については伏見妙栄山本成寺を参照。
堂宇・学室は以下のような様子と知れる。
講堂(明暦元年・1655種子島母公が寄進)、書院、飯台、南北寮、鐘楼、大門、地藏堂、番神堂、同拝殿、地主堂、学室など。
 明治5年隆閑寺境内絵図:「紀伊郡村々ニ在之社寺境内外区別下図」 :京都府立総合資料館蔵
上図では敷地東西25間南北22間半、講堂(西面)、北に飯堂と住居、南に長屋2棟、飯堂前に蔵、住居前に鐘楼、講堂南に三光堂がある。なおこの建築構成は京都妙蓮寺道林寺学室と同一である。
 ※敷地東西25間南北22間半とは境内除地で地蔵屋敷であろう、別途除地地蔵堂屋敷東西14間南北7間6寸があり。
 2016/01/09追加:
 上記と同一の絵図を掲載する。
  ○社寺境内外区別原図:「大亀谷六躰町隆閑寺」:京都府立総合資料館蔵
  本図は社寺上地令ならびに地租改正にともなう社寺境内外区別事業で作成されたものである。
  明治4年現境内地を除く境外社寺領(朱印地、黒印地、除地等)の上地を命じ(第一次上地令)、
  同年府藩県に対して社寺の境内外区別の取調を命ずる。
  この時作られたものが「社寺境内外区別原図」(明治4〜6年)である。
2013/06/17追加:
○「本能寺史料 本山篇(上)」藤井学・波多野郁夫、思文閣出版、1996 より
・361 三栖薬師寺主東光院他連署大亀谷檀林屋敷地寄進状
 京三條本能寺日善上人他大旦那宛
  伏見大亀谷六躰町地蔵院屋敷・同地蔵屋敷・・・間口は7間余・・・両所大破に及び・・・本能寺へ永代進上申しあげる・・・
   慶安5年(承応元年)(1652)
    三栖薬師寺主東光院、竹田安楽寿院寺主大弐、ほか各村年寄
・362 日善開眼大亀谷隆感寺棟札
 日善の花押あり 明歴元年(1655)年紀
・363 日善開眼大亀谷隆感寺棟札
 日善の花押あり 明歴元年(1655)年紀
・364 大亀谷談所隆感寺由緒書写
 壬辰歳伏見大亀谷談所妙亀山隆感寺建立、本は地蔵院の旧地、破廃の故に為す・・・当寺より銀子弐拾枚地蔵院の守に渡し、
 その後部屋70軒立、20軒は当寺が立、残50軒は勝劣6寺より立・・・当寺貫主日善、能下日達・・・・
・366 大亀谷隆感寺談所再興に付松平伊豆守書状
 ※元禄5年(1692)本能寺日円、大亀谷檀林再興を伏見奉行所に出願、元禄11年再興が成就と云う。
・379 伏見大亀谷隆感寺由緒等書上控
 ・・・元禄年中檀林再興の儀願出・・・、元禄年中談林飯台所・能下寮普請願出・・・・
  天保12年(1841)  本能寺役者
・386 大亀谷隆閑寺由緒・敷地坪数等届書
 ・・・ 境内除地 東西25間南北22間半 同除地地蔵堂屋敷 東西14間南北7間6寸 ・・・
  明治元年
・387 大亀谷隆閑寺檀林境内新開絵図
      大亀谷隆閑寺檀林境内新開絵図:明治3年、境内地の内(境内西か)、南北33間東西40間を寮などを取払、
       新開したということなのであろうか。但し取引とは不明。慶応4年には檀林衰退云々、明治元年には隆閑寺無住
       との届出もあり、維持が困難と云うことなのであろうか。
・387 大亀谷隆閑寺檀林建物間取絵図
      大亀谷隆閑寺檀林建物間取絵図:門、本堂、方丈(取払)、食堂、鐘楼、三光堂・同拝殿、諸寮などがあり
       檀林の基本的な構えを示した絵図なのであろか。
・387 大亀谷隆閑寺檀林建物間取絵図
      大亀谷隆閑寺檀林建物間取絵図:境内地は南北33間東西82間、西側部分は新開され更地なのであろうか。
 2016/01/09追加:
  寺地画圖:「城州伏水大亀谷六躰町隆閑寺」:京都府立総合資料館蔵
   ※寺地画図
   明治3年、京都府下における社寺地をすべて管轄すべき旨の太政官達を受けて京都府が、
   管轄の各社寺に命じて作成させた境内地略図である。
これは翌年の社寺上知令に利用する目的であった。

※※隆閑寺は大亀谷六躰町にあったと判明するも寺地の地番は判明せず。
現在、六躰町の大部は新興住宅地に変貌すると思われ、未だその跡地の特定には至らず。
2017/04/29追加:
○「角川日本地名大辞典」1982 より
六体町
万帖敷の西部に隣接し、大津へ向かう大亀谷の道筋町。
城下町時代は四周を武家屋敷に囲まれた林野の地域であった。(豊公伏見城ノ図)
寛文10年山城國伏見街■並近郊図によれば道筋の東側に民家が描かれ、その奥に「法華談所」と記される。
これは本能寺末寺の隆閑寺で、同寺には小野篁作と伝える木彫地蔵尊の祠堂があり、篁作六體地蔵尊の一躯であることが町名の由来となっている。現在は石屋町の本成寺境内に祀られる。
2017/05/10追加:
○「山城名跡志巻十二」 より
妙亀山隆閑寺:大亀谷ノ東宇治道ノ南ニ在リ(以下略)

2011/05/10撮影:
○京都本能寺より情報入手
・隆閑寺は廃寺である。(廃寺の時期および位置は詳しいものが今不在で不詳)
・隆閑寺学室石碑は大本山本能寺に移設する。(現在浦上玉堂春琴廟所の向かって左隣にある。)
 大亀谷檀林石碑1:左は浦上玉堂春琴廟所、右の解説板は浦上玉堂の解説。
 大亀谷檀林石碑2:隆閑寺學室とある。
 大亀谷檀林石碑3:元禄□六□八月中□、背面の刻文も含め、一部判読不明、元禄6年に石碑建立か。
 大亀谷檀林石碑4:妙亀山檀林とある。
・本能寺明治仮本堂(隆閑寺講堂)は現在の本能寺大宝殿(講堂)の位置にあった。
 本能寺大宝殿:この場所に隆閑寺講堂(本能寺仮本堂)があったという。


京都小栗栖檀林(本経寺)

永正3年(1508)創建。日承の名が知られるも不詳。
2010/10/01追加:
「富士宗学要集 第8巻」 堀日亨、創価学会、1978.9 より
 要法寺22世日祐代、京都勝劣派八山什門陣門隆門真門興門合同檀林の計画が成り、要山は小栗栖久遠山本経寺(要山11世日法開基)を用地に供し、本能寺日承を能化として小栗栖檀林が開創される。
しかし什門隆門陣門は江戸後期には出檀せず、本隆寺要法寺のみの学生であり、遂に明治2年要山は離檀する。
本経寺:京都要法寺末、開山は要法寺11世日法上人、永正3年草創する。境内には
講堂(4間半×6間)、書院(4間半×7間半)、庫裏(3間×7間)、鐘楼、三十番神社、拝殿、弁財天社、学寮長屋8、玄義談合場がある。(以上は宝永2年 ・1705「小栗栖檀林惣境内」による)
本経寺檀林境内:東西25間南北60間、新部屋東西12間南北19間。(以上は元禄5年1692)
「拾遺都名所圖會」:
 小栗栖本経寺:講堂、玄関、厨、経蔵、鐘楼、下段中段上段に多くの学寮が配置される。
明治初期まで赤門が残る。「明智薮」は現在本経寺に寄進され本経寺所有と云う。
講堂は明治43年伏見華山寺(臨済宗)に移築、客殿として使用、鬼瓦には享保13年(1728)とあると云う。
2011/03/18追加:
 華山寺本堂や庫裏は1970年頃に造替され、古い建物は残らない。従って移築されたという講堂は現存しないと思われる。愚堂国師廟所?(当寺は入定地と云う)を有する。
 檀林赤門は小栗栖西方寺正門として残存する。
  ※西方寺は大阪一心寺末寺。本堂は口恭行の設計になるビル建築(1990建立)である。
但し残存する赤門の材は多く取り替えられ旧材は一部に残るのみと思われる。また向かって右の門柱はビルに接し、門柱から右にあるべき屋根は切落された状態で 残存する。
 おそらく廃檀後は急速に荒廃したと思われ、古い堂宇は既になく、現在では殆ど檀林の面影を残さない。
即ち、現在はRCの本堂および庫裏があるのみで、かっての境内の下段と思われる土地も住宅に変貌する。近年建てられたと思われる石碑(下掲載)が辛うじて、ここが檀林跡であったと示すのみの状態である。
2011/03/08撮影:
 小栗栖本経寺11     小栗栖本経寺12     小栗栖檀林碑
  西方寺山門1          西方寺山門2
2011/04/11追加:
○「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
永正3年(1508)要法寺11世日法上人が本経寺を建立づる。
万治元年(1658)要法寺22世日祐上人檀林を開創する。寛文6年講堂落慶。
 小栗栖檀林配置図:昭和5年上島日珠「小栗栖檀林」所収の実測図、「拾遺都名所圖會」などに基ずく。
赤門は北小栗栖西法寺に、講堂は山科花山寺に移建され現存する。
 ※花山寺とは元慶寺のことか?。元慶寺は華山寺の南に隣接する。講堂の現存については未確認。
 小栗栖檀林講堂平面図


岡宮檀林(岡宮光長寺学室)(大本山光長寺)

享徳3年(1454)光長寺学室創立。
(光長寺東之坊5世本果院日朝に源を発する。)
文政2年(1819)光長寺43世日宏が檀林を再興する。
明治維新後、東黌となる。大正3年西黌(尼崎本興寺学室)と合併、本門法華宗学林となる。


京都妙蓮寺道林寺学室(道輪寺学室)

2011/04/11追加:
山城妙蓮寺を参照:以下は左記ページから抜粋。
 文明5年(1473)日慶上人、寺内に道輪寺学室を開設、日忠上人を学頭に招聘。
 学室道輪寺:開基は常住院日忠上人、文明5年建立、中興建立は大成坊檀越渡辺氏行蓮・同室妙寿。云々・・・
 学室が描かれる絵図:
  寛延元年奉行調査古図:妙蓮寺蔵、寛延元年(1748)
  天明火災以前境内古図:天明8年(1788)
 天明の大火後学室は再建されなかったと推定される。
  洛陽妙蓮寺境内真図:天明の大火後の絵図、学室道輪寺旧地とある。
「近世法華宗檀林の建築構成」丹羽博亨(広島工業大学研究紀要 16〔通号 20〕1982/03 所収)  より
 大亀谷檀林の建築構成は京都妙蓮寺道林寺学室と同一である。


尼崎檀林大本山尼崎本興寺

享徳3年(1454)日隆、本興寺に勧学院を創立、近世には尼崎檀林と称される。
寛永年中の檀林制度を導入し、組織が整えられる。例えば能化(主座)と所化(学生)、所化には四部と役課(教授)があり・・・・
明治維新後、西黌となり、大正3年東黌(岡宮光長寺学室)を合併、本門法華宗学林となる。
現在は本興寺山内興隆学林専門学校として引継がれる。
2012/07/15追加:
「法華宗宗門史」法華宗宗門史編纂委員会編、法華宗(本門流)宗務院、1988 より
 尼崎勧学院古図


2007/07/23作成:2017/05/10更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系