◆江戸牛込市谷自證寺(自証院)
2023/09/13追加:
○「日本歴史地名大系 13 東京都の地名」平凡社、2002 より 自証院 東京都:新宿区旧牛込区地区市谷富久町自証院<現在地名:]新宿区富久町> 鎮護山円融寺と号し、天台宗。創立の年代は不明だが、当初は牛込榎町にあり、法常寺と号する日蓮宗不受不施派の寺院であった。 開山は日須(慶安3年(1650)寂)。開基は尾張藩主徳川光友室千代姫の母於振の方。 寛永17年(1650)於振の方が没すると当寺に葬られ(法名自証院殿光山暁桂大姉)、その頃から本理山自証寺と号するようになり、寛永年中に鋳造された鐘の銘には「本理山自証寺」と刻される。 正保4年(1647)雑司ヶ谷村で朱印寺領高200石を与えられた。その後、寺領の一部が護国寺(現文京区)や御鷹部屋の用地となったため、上戸塚村のうちに代地(享保18年段階で計10石余)を与えられている。
2024/05/20追加: ○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修 より
慶安4年(1651)日遵は小湊より市谷自證寺に転ずる。
自證寺は自證院殿(高清日恵大姉、徳川家光側室、お振り、千代姫生母、寛永17年歿、享年16〜18歳と推定)の菩提寺で、始め榎町の日蓮宗法常寺に葬られた後、慶安5年(1652)富久町の自證寺に建てられた霊廟(現存する)に改葬される。自證寺は寛文年中円融寺自證院と改号され、元禄4年(1691)悲田宗禁制により廃寺となるが、東叡山公辨親王の願により天台宗として復興する。なお、自證院殿の天台宗の法名は「自證院光山暁柱大姉」となる。
自證院殿の息女が千代姫(徳川家光息女、尾張大納言光友室、尾張3代綱誠・松平義行生母、寛永14/1637年〜元禄11/1698年)である。千代姫が法常寺を四谷市谷に遷したのは尾張藩邸が市谷にあるという理由からであろう。
なお、四谷本源寺も千代姫の外護を受けているといわれ、身延訴状には「自證寺・本源寺は特別の取立があり、故に特別の配慮が必要」と述べているのは、そのあたりを云うのであろう。
身延方では自證寺後任について、天意を覆すよう画策するが、この動きを知った千代姫は若干15歳で登城し、父である大猷院殿から直々に自證寺貰い受け、小湊日遵に与えたという。(「破鳥鼠論」)これにより、日遵は、千代姫の意向により、慶安4年に住持を仰せつけられ、入山する。日遵60歳。
この当時の身延の訴状は悉く不受派の張本として日遵の名を挙げていて、日遵が当時の不受派の頭目であることを示している。
-------------------- 新宿区富久町4-5にあり、鎮護山自證院圓融寺と称する。
しかし、現在は天台宗に改宗され、境内は縮小されている。 もとは牛込榎町にあり、日蓮宗法常寺と号したという。但し、法常寺の創建等は不明と云う。
寛永17年(1640)3代将軍徳川家光の側室:振(自證院※)が法常寺に葬送され、大猷院殿の命によって富久町に移轉、寺号を「本理山自證寺」と改め、日須が新たに開山する。
なお、日須は松樹院日順(慶安三年<1650>八月十二日寂)が該当する可能性があるが、不明である。
→日須については、再興自證庵(現若松寺・・・下に掲載)に供養塔がある。 供養塔には「開山日須聖人/日遵聖人/日庭聖人」と刻する。
※家光の側室・振(於振之方、岡吉右衛門娘、自證院・自證院殿光山暁桂大姉)は長女・千代姫※※の生母である。
※※千代姫:家光・振(自證院)の長女であり、尾張藩2代徳川光友の正室である。法号霊仙院。 寛永14年(1637) - 元禄14年(1699) 2世は日遵:小湊誕生寺第19世、不受不施派の檀林として玉造檀林を再興。
不受不施派の活動拠点を自證寺(自性寺)に求め、入寺する。
◎ 日遵の履歴 : 長遠院日遵上人 3世は長遠院日庭
→日庭については直下に掲載
慶安5年(1652)自證院殿、富久町の自證寺に新たに建てられた霊廟に改葬される。
※慶安5年(1652)尾張光友正室千代姫、生母お振の方(三代将軍・家光の側室)を供養するため、霊廟を富久町自證寺に建立する。 ※現在、この霊廟は「旧自証院霊屋」として「江戸東京たてもの園」内(都立小金井公園内)に移築保存されているという。
自證寺霊廟については以下の変遷を辿る。
明治維新後、寺は荒廃、明治18年台風で霊屋倒壊し、翌年解体される。
明治20年駿河台の某という人物に350円で売却される。
明治21年、さらに転売され谷中頤守院に移築され、位牌堂となる。(霊廟の機能は失われる。) ◇谷中頤守院とは不明
昭和12年建築史家の藤岡通夫は、自證寺霊廟であることを再発見する。
昭和32年西武鉄道によって買収され、紀尾井町赤坂プリンスホテル内に移築される。 赤坂プリンスH・自證寺霊廟:
「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より転載
昭和54年ホテル新館計画予定地に建っていたため、またもや解体され、永年倉庫に保管される。
昭和61年西武鉄道から東京都に寄贈される。 平成7年(1995)小金井公園・江戸東京たてもの園内に復元・保存される。
2023/04/08画像追加:
江戸東京たてもの園・自證寺霊廟:サイト「東京とりっぷ」より転載
自證寺霊廟平面図:江戸東京たてもの園のサイトより転載
2023/05/26撮影: 自證院殿霊屋
慶安5年(1652)千代姫が施主となり、自證院(徳川家光側室・振・千代姫生母)の霊廟として自證寺に建立。
建築には幕府作事方棟梁甲良氏が関わる。近世初期特有の華やかな(極彩色の)木彫や文様や金具が施された建造物で徳川将軍家霊廟建築を今に伝えるものである。
慶安5年霊屋が建立された頃、日庭は入寺していたと思われ、だとすれば日庭はこの霊屋を眼にし、読経したことなどがあるだろうと推測される。不受不施に関する自證寺の事跡が一切失われていることを考慮すれば、この霊屋が数奇な変遷を辿りながら現存することは、不受不施派であった往時を偲ぶことのできる貴重な遺構であると評価すべきであろう。
【参考】:旧東叡山有徳院殿石灯篭(自證院とは無関係である。)
旧東叡山有徳院殿石灯篭 自證院殿霊廟のすぐ東に、石造宝篋印塔1基、石造五輪塔3基、東叡山有徳院殿石燈籠1基が並んで展示される。
石灯篭以外の銘は不明なので、有徳院殿石灯篭の写真を掲載する。なぜここにこの石灯篭があるのかは不明。
なお、有徳院は言うまでもなく8代将軍吉宗であり、墓所は上野寛永寺(東叡山)である。
寛文5年(1655)日庭は書物をせず(手形を拒否し)、千代姫が自證寺の檀越であるとの関係で寺社奉行も幾分遠慮したのであろうか、手形提出を拒否した他の僧侶が追放処分を下される中で、いわば穏当に出寺を勧告される。 日庭は出寺する。
出寺した日庭は信徒との関係をそのまま地下に持ち込み、自證庵を作り、不受不施の指導を地下で続ける。
元文年中(1736-41)自證寺は不受不施義の故、天台宗に改宗を命ぜられる。 なお、往時の自證寺概要は次の通り。
舊境内一萬六百坪餘、内門前町屋三百坪餘、朱印寺領二百石。 寺中は3院あり、院号は改宗後の改号である。
寺中圓乗院(もと一乗坊)、寺中妙光院(もと常智院)、寺中真珠院(もと常照院)(「牛込區史」)
伽藍は節目の多い材木を使用していたことから、ふし寺・瘤寺と呼ばれる。
天台宗自證院のその後(この項、2023/09/13追加) 享保15年(1730)近隣の火災にて、類焼。
元文3年(1738)尾張徳川家戸山屋敷内の丸太節木作りの観音堂を拝領、本堂、中門、諸堂宇が再建される。
明治4年、社寺上地令により境内地と墓地の一部を残して寺領の大半を上地。
明治末年、墓地を現在の中野区上高田に移転、広大な周囲の寺域も樹木を伐採、売却・貸付が行われ周辺は宅地化される。
昭和3年、境内地の一部を小学校用地として東京都に譲渡。本堂、庫裡の移転・改築を実施。
昭和20年、東京大空襲により、本堂・庫裡その他・什宝が灰燼に帰す。 昭和52年、現在の本堂・庫裡を再建。(追加・終)
○「江戸名所圖繪」巻之四 第十一冊 より(天保年中刊)
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自證寺伽藍:左図拡大図
・・・・・元文年中(1736-41)故ありて天台宗に改めらる。・・・・・と記事がある。
※勿論、天台宗としての自證院伽藍である。自證院霊廟は本図に描かれていないが、本堂向かって左奥の一郭にあるものと思われる。 |
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2023/09/13追加: ○「江戸切絵図」嘉永2年(1849)〜文久2年(1862)刊 より 江戸切絵図・自證院部分図
江戸切絵図・自證院部分図:
周囲には東長寺、源慶寺、善慶寺、道林寺、修行寺、薬王寺、珠宝寺の寺院が描かれるも、
現地に現存するのは自證院、東長寺(明治以降の多宝塔中777)、源慶寺、善慶寺のみとなる。
○「東京市牛込區全圖」国際日本文化研究センター蔵、明治40年1月調査図 東京市牛込區全圖・自證院部分図:
牛込區全圖・自證院部分図:上地後の伽藍地であろう。 --------------------
●現存する天台宗自證院 2023/05/26撮影: 現在の天台宗自證院である。受派に転宗、更に天台宗に転宗し、見るべきものはほぼない。
天台宗自證院門柱 天台宗自證院本堂 天台宗自證院玄関庫裡
天台宗自證院板碑:阿弥陀三尊(阿弥陀・観音・勢至の種子が刻まれる)板碑で、最下部に刻まれる年紀は弘安6円(1282)であり。現在確認されている区内の最古の板碑である。
◆不受不施派若松寺: 自證寺(自證庵)は若松寺として再建される。
港区南麻布3丁目10-7
龍華山と号す。 明治6年日正が麻布本村町に自證庵を再興、昭和17年若松寺の寺号を公称する。 ※宣妙院日正:近世末期から近世初頭にかけて、不受不施派の公称を苦難の後勝ち取る。 →不受不施派の再興(備前法華の系譜中)
→ 備前祖山妙覚寺35世、備前津島妙善寺22世
2023/05/08追加; ※明治再興自證庵 ○「令和元年度特別展 岡山の日蓮法華」岡山県立博物館、2019 より
東京麻布本村自證庵之正図:明治9年、個人蔵 東京麻布本村自證庵之正図
右下: 明治八年亥の春日、日正聖人本宗再興出願の為に此地を求めたまひて草庵におひて大願成就す、
予亦た信徒惣代として上京す、滞留の遑にこれを図しぬ、于時明治九年丙子三月 坂本真楽(印) 左上:
本院は三間ニ七間也、西ニ有リシハ遠国参詣ノ休息所也、是ハ三間ニ二間半也、
隣家ハ皆植木屋、余ニ士族屋敷ニ三軒アリ、亦東門外往還ナリト雖通行ノ人稀ニシテ閑静ナリ、
追々此地繁栄ニ及フ時ハ又景況カハルト雖トモ再興ノ時ノ爲體ク正ク写シ置ク者也
境内には信徒会館、本堂、庫裡があり、7基の先師供養塔が並ぶ。 先師供養塔は石造宝塔・日遵聖人石塔・日樹聖人五輪塔・日樹聖人報恩塔・日正聖人石塔・日行聖人五輪塔・開山日須/日遵/日庭石碑である。
※長遠院日遵:寛文法難・後六聖人 →下総玉造檀林(蓮華寺)、、備前法華の系譜>寛文法難の項など参照。
※長遠院日樹:身池対論・寛永法難・前六聖人 →長遠院日樹、M不受不施派『身池対論』、備前法華の系譜>身池対論・寛永法難の項など参照。
→ 備前祖山妙覚寺22世、池上本門寺日樹上人五輪塔
2022/12/26撮影:
若松寺寺号碑:日蓮宗不受不施派龍華山若松寺 若松寺寺標碑
若松寺本堂 若松寺本堂扁額 若松寺信徒会館 若松寺庫裡
先師供養塔は向かって右から、石造宝塔・日遵聖人石塔・日樹聖人五輪塔・日樹聖人報恩塔・日正聖人石塔・日行聖人五輪塔・開山日須/日遵/日庭石碑と並ぶ。
先師供養塔1 先師供養塔2 先師供養塔3
長遠院日遵聖人石塔1
長遠院日遵聖人石塔2:師範大僧都日遵聖人/引導結縁之諸聖霊/慈父理經院・・・:慈母正智院・・・と刻す。
長遠院日樹聖人五輪塔1 長遠院日樹聖人五輪塔2
長遠院日樹聖人五輪塔3:題目:日樹聖人:寛永八辛未五月十九日/奉納首題十万部/奉誦妙典百部と刻す。
長遠院日樹聖人報恩塔:題目 備 長遠院日樹聖人第三百遠忌報恩謝徳と刻す、昭和5年が300遠忌。
宣妙院日正聖人石塔1 宣妙院日正聖人石塔2:明治41年6月23日寂。
一樹院日行聖人五輪塔:祖山四十二世:一樹院日行聖人/平成二十年五月十三日遷化 →備前祖山妙覚寺
開山日須/日遵/日庭石碑:開山日須聖人、自證寺2世長遠院日遵聖人、自證寺3世長遠院日庭聖人
◆日庭上人
2014/03/10追加:
●日庭上人:市谷自證寺3世、長遠院、寛文6年追院、後の貞享2年(1685)佐渡流罪、後六聖人。
◇備中妹尾盛隆寺に供養塔があるという。
→ 備中妹尾盛隆寺
◇横浜孝道山仏舎利殿:某ページ<現在、参照が出来ないサイトとなる。>には
「孝道山は寛文の頃、日庭聖人隠棲の地であり、既にお堂があったとのことです。廃堂になった後、昭和24年に孝道山として整地されるまで、鳥越山と呼ばれる松林の丘陵で残り、その際、山頂から日庭聖人の像が掘り出されたとのことです。」とある。
→ 横浜孝道山仏舎利殿
◇佐渡妙法山蓮長寺の寺内に日庭上人の配流された本敬寺があったといわれる。
→ 蓮長寺は佐渡法華宗諸山中のあり
2023/04/20追加: 〇サイト「佐渡人名録」 より 日庭聖人 元和9年(1623)〜元禄5年(1692)
元和9年に江戸星田久右衛門の子として生れ、7歳で出家。16歳のとき下総玉造談林に入談、字を了憶・長遠院と号する。
江戸青山の自證寺(家光側室お振の菩提寺)二世日遵の弟子となり、三世を継ぎ律師となる。
寛文8年(1668)不受不施派の故に同寺を出寺し、江戸原宿の草庵でなかば公然と不受不施の布教活動を行う。
貞享4年(1687)8月に佐渡に流罪。配所は相川。 最初は円徳寺(現法輪寺)に、のち本敬寺(現蓮長寺)に謫居する。
佐渡から信者宛てに発した数通の書状が、祖山妙覚寺など各地に残る。
書状によれば「門外不出」「一日片時も心の安まる事も無く候」などとあり、軟禁状態であったこと、
江戸から藤田孫六・円周・恵三・江田源七の四人が、日庭を見舞うため佐渡へ渡るも番所で不許可とされ、日庭と対面できなかったことが分かるという。
このうちの三人は薩摩へ流されるともいう。
なお、佐渡蓮長寺には、配流中日庭が所持していた明応6年(1497)7月、行学院日朝(身延山久遠寺11世)のしたためた本尊(裏書に日庭の署名と書判がある)が、また佐渡本敬寺跡地には、新しく昭和55年に建てられた日庭の供養墓が残る。
→佐渡蓮長寺<佐渡法華宗諸山中> 2019/08/19追加:2023/04/20加筆: ○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
斎藤新八郎という幕臣がいた。
斎藤新八郎は幕臣でありながら、不受不施を信仰するものであった。新八郎は将軍綱吉から新年を祝う儀式で幕臣に下される鏡餅を辞退したのである。
周囲のものはその辞退する理由が皆目分からなかったが、問い詰めると、新八郎は法華の信徒であり、不受不施の原則を守ろうとした結果であることが判明する。
周囲は新八郎を宥め、鏡餅を受領させようとしたが、頑として態度を改めなかった。
貞享4年(1687)かくして、新八郎は三宅島に流罪となる。
「徳川実記」には「不受不施という邪教に傾き、その宗旨を改むべからずと抗言するをもて、三宅島に遠島せらる。よて父兄弟も各遠流に処せらる。」とある。
不受不施派に対する公的な禁止は寛文9年(1669)の「不受不施寺請禁止令」であった。
「公儀へ書き物致さざる不受不施の日蓮宗、寺請に取るべからず。」と。
即ち、不受不施思想そのものが直截に否定されたわけではないが、不受不施を貫き、受派寺院への寺請けを拒否する信者には、切支丹と同様不受不施派も社会的に抹殺される措置が採られたのある。
新八郎は表面では不受不施ではなく、内面では不受不施の信仰をもっていた武士であった。
幕臣の中に不受不施の信者がいたということは、これを指導する強力な僧がいるのは必定ということで、長遠院日庭の存在が突き止められる。
日庭は市谷自證寺住職であったが寛文5年(1665)幕府の命で、寺を追放されている。それから22年間、半ば公然であったといえども、日庭は自證庵を拠点に不受不施の教義を弘通していたのである。
寛文5年の法難は身延からの幕府からの度重なる提訴によって引き起こされる。
幕府は「寺領はもとより土・水・行路なども国主の布施供養とする手形を差し出すべし」との布達を出す。
手形を出せば、不受不施は根本から成立しない。
手形を拒否した生知院日述(平賀本土寺21世)、義辧院日尭(上総興津妙覚寺歴代)、智照院日了(雑司が谷法明寺15世)、明静院日浣(玉造談林五世・津山顕性寺歴代)がまず、流罪となる。
さらに安國院日講(野呂妙興寺能化)も流罪となる。
※日述は伊予吉田伊達宮内少輔へお預け、日尭は讃岐丸亀京極百助へお預け、日了も讃岐丸亀京極百助へお預け、日浣は肥後人吉相良遠江守お預け、日講は日向佐土原島津飛騨守へお預けとなる。
※日庭と合わせて後六聖人と称する。
日庭については、住持する自證寺が将軍家光の側室(お振)の菩提寺であり、その娘(千代姫)は尾張2代藩主光友の正室で日庭に帰依している為、幕府も穏やかに出寺を勧告する措置に出る。日庭には千代姫以外にも多くの弟子や帰依者がいたに違いない、それ故、寛文5年から22年間、地下に潜った自證庵で、信徒を指導し続けられたのであろう。
※この時の寺社奉行は加賀爪甲斐守直澄である。 おそらくは、斎藤新八郎の一件で、日庭を幕府も放置はできず、佐渡に流刑となる。
※資料がなく、不明であるが、孝道山(鳥越山)の塚から発見された日庭石像は寛文8年の年紀であり、日庭が出寺後、この山にも隠棲し、信者を指導した庵であったものと思われる。
2023/04/20追加: 〇「忘れられた殉教者」奈良本辰也、高野澄、昭和47年<p.74> より
寛文5年の手形を拒否して追放された僧侶は「後六聖人」を含めて7人いるが、大野法蓮寺日完は次の事情で「聖人」の列から除外されている。
法蓮寺は平賀本土寺末寺であった関係から日完は朱印受領手形のことで本土寺日述と行動を共にすることが多く、それ故日述と同罪となり伊予吉田に流罪となる。 流罪となり7年後日完は日述の居室に忍び込み盗みを働き、それが発覚して死刑となるという。
※日完の人物像の本質については不明であり、また「盗み」ということの真相糾明は今となっては不可能であり、従って日完に関する論評は不能というしかない。
2023/04/20追加: 〇「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大蔵出版、昭和56年 より
出自僧の拠点となった庵として江戸では自證庵がある。
自證庵:江戸旗本の邸内、現在の港区南麻布若松寺境内か(釈日正書簡、釈日學談、日學の実地調査など) 2023/08/02追加: ○「伊那郷土文化10 日樹上人の研究」山田居麓、山村書院版、昭和16年 より
江戸番町邊三千石の旗本進藤五郎右衛門の邸内にあって、40余年間不受施僧の潜在所であった自證庵には不受の廃寺自證寺に秘蔵されていた多くの記録が保存されていたというが、天保法難の時破滅とともに失われたという。
2024/12/07追加: ◇自證庵内佛など おそらく天保法難の混乱の中だと推測するが、
自證庵仏壇及び多くの自證庵什物が、江戸にあった内信組織から上総を経て備前益原(大樹庵)へ運ばれるという。 →備前益原法泉寺
◆日庭石像・孝道教団本山(孝道山)にあり。
孝道教団敷地内から掘り出され、石像と一緒に題目銭も出土したという。日庭は神奈川での新寺建立の科によって佐渡に流罪となる。 市谷自證寺日庭石像:日庭石像は仏舎利殿(二層堂)の背後にある。(未見)
自前の写真がなく、また本書に掲載の写真は小さく判然としないので、ページ:「孝道教団」より転載する。
なお、元自證庵にあった仏壇・内佛その他の什物は備前益原大樹庵(現・法泉寺)へ運ばれる。
当時(文化2年(1805))、内信組織の維持が困難な状況にあり、備前に運ばれたのであろうか。
備前法泉寺内佛:元自證庵仏壇であり江戸の内信組織から上総を経由して備前に運ばれる。
元自證庵仏壇布書:上記仏壇から発見された布書で、文化2年(1805)の年紀である。
--- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終--- ※不受不施派の由来は備前法華の系譜を参照。
2022/12/26撮影: 孝道山現地説明板 日庭聖人像
この石仏は昭和24年2月27日朝、整地中の孝道山山頂の小高い塚より納骨壷や題目の刻まれた青銅銭と共に発掘される。
石仏の背面には「奉唱首題二千部成就/権律師日庭聖人/寛文戌八年(1668)九月二十八日」と刻む。
伝承では、日庭はこの地を隠棲の地とし堂(宇)を建立し、法華経の勤行に励むという。
この堂は後に廃寺となるも、それ以来俗家の建てられた例をみない。
市谷自證寺日庭石像11 市谷自證寺日庭石像12 市谷自證寺日庭石像13
市谷自證寺日庭石像14 市谷自證寺日庭石像15 市谷自證寺日庭石像16
市谷自證寺日庭石像17 市谷自證寺日庭石像18
市谷自證寺日庭石像銘1:銘文は上に掲載の通り
市谷自證寺日庭石像銘2:銘文をグレースケールに変換したもの
2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より 《祖心尼なあ》
※振・振局(自證院)の祖母
祖心尼なあの父は、伊勢国田丸城主牧村和貞、豊臣秀吉の朝鮮出征の時、五歳の娘を前田利家に頼んで出征し戦死する。
前田利長(二代)が養父となり、のち前田直知に嫁ぎ、慶長13年(1608)21歳の時、町野幸和に再嫁す。
町野幸和は蒲生氏郷(会津60万石)の家臣である。 なお、二代蒲生秀行の室は、徳川家康の娘・振姫である。
寛永19年(1642)祖心尼「なあ」は大奥に入り、従姉妹である春日局に協力する。
春日局亡きあと、祖心尼が江戸城大奥を一切取締ることとなる。
江戸城大奥の女性は多くが法華宗不受不施派信者であった。祖心尼なあは養祖母となる前田利家の側室・寿福院ちよの法華信仰を見て育ったと考えられる。
ところが、法華宗の不受不施信仰とキリシタンは邪教と言われ幕府より弾圧される。
キリシタンの高山右近は領地を没収され前田家に身を寄せていた。祖心尼の夫・町野幸和が仕えた主君・蒲生氏郷もキリシタン大名であった。
「なあ」の祖父・稲葉重通は臨済宗崇福寺の檀家であり、従って「なあ」自身の宗旨も臨済宗であるが、祖心尼の内信仰は法華信仰であり、キリシタン信仰にも注目していたと考えられる。
(2023/12/06画像入替) 徳川・前田・浅野家関係図:壽福院・自證院(振姫)・千代姫・自昌院(満姫)・本妙院(充姫)系譜
《自證院/振・振局》 祖心院なあの孫姫(不利・お振)は将軍家光の側室に上り「振局( ふりのつぼね)、振、法号は自證院」となる。
※「祖心院なあ」の孫姫、徳川家光の側室、家光の長女千代姫の母、自證院
寛永14年(1637)振局は家光の長女・千代姫を出産し、千代姫2歳の時、尾張徳川光友に嫁す。
寛永17年(1640)8月、千代姫の母・振局(自證院、振)は早世する。
※千代姫を生んだ時の振局は13〜15歳くらいと推定され、16〜18歳ころ逝去したと推定される。無理な出産が早世の理由とも云われる。
振局は牛込榎町日蓮宗法常寺に葬られ、のち寺は市ヶ谷に移され、自證寺(自性寺)と改められる。
※慶安5年(1652)富久町の自證寺に建てられた霊廟に改葬される。
家光は振局の菩提寺として市ヶ谷に法華宗自證寺を建立し200石を扶持する。
従姉妹の満姫はのち、赤穂浅野長直の室と自分の嫡男浅野綱晟(疱瘡死・37歳・広島藩3代藩主)を自性寺に埋葬する。
法華宗自性寺は寛文5年(1665)の不受不施派弾圧を契機として、元文年中(1736-41)天台宗に改宗を命ぜられる。 《千代姫》
法号は霊仙院、徳川家光の息女(長女)、母は振局(自證院) 千代姫は日遵を外護し、小湊誕生寺に70石の寺領を扶持する。
※日遵は小湊誕生寺第19世(身池対論・寛永法難で、誕生寺16世日領は流罪、17世日税は自害、18世日延は流罪)、池上日樹の弟子、不受不施派の檀林として玉造檀林を再興する。また、不受不施派の活動拠点を自證寺(自性寺)に求め、法華宗自證寺(自性寺)の二世として入寺する。
---「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」終---
2023/09/13作成:2024/05/10更新:ホームページ、日本の塔婆、日蓮上人の正系
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