能 登 滝 谷 妙 成 寺 五 重 塔 

滝谷妙成寺五重塔

1972年5月塔遠望

2003年9月塔遠望

 

元和4年(1618)建立。一辺4,85m、総高34.27m。
部分的には唐様を用いるも、主要部は完全な和様建築である。
屋根柿葺。
心柱経は1m、心礎上に建つ。
大工は越前の坂上越後守嘉紹(建仁寺流大工)、日光山東照権現五重塔とほぼ同寸・設計と云う。
初重内部には須彌壇を設け、本尊一塔両尊を祀る。

1972年撮影画像:
 能登妙成寺五重塔1(左上図拡大画像)
   同        2
   同        3
   同        4
   同        5(左図拡大画像)
   同        6

五重塔は寿福院発願、前田利常の寄進による。
寿福院は前田利家室・前田利常生母。
 →壽福院は本ページにあり

 



2003年撮影画像
 能登妙成寺五重塔1(右上図拡大画像)
   同        2
   同        3
   同        4
   同        5
   同        6
   同        7
   同        8(左図拡大画像)
   同        9
   同       10
   同       11
   同       12

2010/05/28追加:
「日蓮宗の本山めぐり」昭和48年刊 より
 能登妙成寺五重塔

2010/05/28追加:「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
 妙成寺五重塔立面図     妙成寺五重塔断面図

2010/05/28追加:
 昭和15年妙成寺五重塔:新聞報道写真

2010/10/12撮影:

滝谷妙成寺五重塔遠望11:左図拡大図
  同           12
  同           13
  同           14


滝谷妙成寺五重塔15
  同        16
  同        17:左図拡大図
  同        18
  同        19
  同        20
  同        21
  同        22
  同        23
  同        24
  同        25
  同        26
  同        27
  同        28
  同        29
  同        30:二重細部
  同        31:初重正面
  同        32:初重北面
  同        33:初重正面桟唐戸
  同        34
  同        35
  同        36
  同        37

○「妙成寺」本山妙成寺、出版年不明(平成9年以降平成22年の間) より
 滝谷妙成寺五重塔内陣

2013/08/30追加:
昭和47年妙楽寺にて購入絵葉書 より
 滝谷妙成寺五重塔絵葉書1     滝谷妙成寺五重塔絵葉書2

滝谷妙成寺伽藍

 ○伽藍配置図(1972年入手)・・・基本的には周囲の環境も境内地の雰囲気も諸伽藍も今日とほぼ同じと思われる。

日蓮宗寺院としては、加賀前田家寄進の伽藍がほぼ1度も火災に遭わず残されている稀有の例とされる。
五重塔のほかに

1972年撮影:
本堂・祖師堂
本 堂(慶長19年1614建立、重文)
仁王門(寛永2年1625建立、重文)
鐘  楼(寛永2年1625建立、重文)
経 堂(寛文10年1670建立、重文)
三十番神堂(元和元年1615建立、
 重文)
三光堂(元和9年1623建立、重文)
祖師堂(寛永元年建立、重文)
書院(万治2年1659建立、重文)
庫裏(文禄2年1593建立、重文)
釈迦堂(貞享3年建立、
 丈六の釈迦立象を安置)
開山堂(延宝5年建立)等の
伽藍が現存する。
2003年撮影:
妙成寺本堂1
 同     2
   :左図拡大図
 同     3
 同   仁王門
 同   鐘楼
 同   三光堂
 同   祖師堂1
 同   祖師堂2
 同 三十番神堂
 同   開山堂
 同   釈迦堂
 同   釈迦如来

 

本堂:桁行5間、梁行5間、入母屋造り、平入り、柿葺、唐様を用いる。
祖師堂:桁行5間、梁行5間、入母屋造り、平入り、柿葺、唐様を用いる。
三光堂:日天・月天・明星天の三光天像を安置する。桁行5間、梁行5間、入母屋造り、平入り、柿葺、唐様を用いる。
三十番神堂:三間社流造り、正面軒唐破風付、柿葺、組物は、和様三斗で、中備は四面ともに蟇股を使う。向拝あり。
経蔵:桁行5間、梁行3間、寄棟造り、妻入り、桟瓦葺、唐様を用いる。
仁王門:3間1戸の楼門。屋根は入母屋造り、桟瓦葺、和様を用いる。
鐘楼:桁行3間、梁行2間、袴腰付、入母屋造り、柿葺、和様を用いる。
2011/02/18追加:「鹿島町史 石動山資料編」昭和61年 より
開山堂:日乗(石動山大宮坊満蔵)笠塔婆
 表面:南無妙法蓮華経、背面:康暦第二庚申六月廿七日施主敬白 とある。
 康暦2年(1380)は日乗上人の命日であるから、この笠塔婆は日乗の墓もしくは供養塔であろう。

2005/12/11追加:
○「社寺境内図資料集成 1巻」より
 能州滝谷山妙成寺惣絵図(石川県立図書館蔵、江戸後期)

2011/02/11追加:
○「能登めぐり」直山大夢、嘉永7年(1854)<器水写、文久元年(1861)> より
 滝谷妙成寺

2010/10/12撮影:
 滝谷妙成寺総門:高麗門、寛文5年(1665)建立
 滝谷妙成寺仁王門11      同        12:重文
・本堂
 滝谷妙成寺本堂11        同       12       同       13       同       14
   同       15        同       16       同       17:重文
・祖師堂
 滝谷妙成寺祖師堂11       同        12       同        13       同        14
   同   祖師堂内陣:重文
 妙成寺本堂・祖師堂11       同         12:重文
 滝谷妙成寺三光堂11       同        12:重文
 滝谷妙成寺鐘楼11        同       12        同       13;重文
・三十番神堂
 妙成寺三十番神堂11       同        12       同        13       同        14
   同        15       同        16       同        17
   同        18
  :重文、慶長15年(1614)建立、京都北野天神より移建とも云われる。以前の資料では元和元年建立とする場合が多い。
 妙成寺三十番神堂拝殿11
  :「三十番神之本社並拝殿御建立、微妙院様<前田利常>大坂御出陣ニ付為御祈祷、寿福院様・微妙院様より
   慶長十九甲寅被仰付」(「日体覚書」)との記録があり、番神堂並びに同拝殿は慶長19年建立と知れる。
  明治6年、神仏分離の処置により、番神堂拝殿は推葉円比盗_社(羽咋市円井町)に売却される。
  平成3年、同拝殿は解体修理、現地に復される。
  桁行3間、梁間2間、入母屋造、正背面に軒唐破風付、屋根柿葺。
 滝谷妙成寺経蔵11       同       12:重文
 滝谷妙成寺庫裏11
  :重文、文禄2年(1593)建立、前田家下護以前の建立で、妙成寺最古の堂宇である。昭和41・42年解体修理。
 滝谷妙成寺客殿11:建立年代不詳        同     内陣
 滝谷妙成寺釈迦堂11:丈六堂
  同 本尊丈六釈迦立像      同 毘沙門天立像      同  持国天立像
◇妙成寺寺中
 :現在、総門左側に以下の5ケ寺の寺中がある。(なぜか全て寺号を称するも理由は不明。)
 妙成寺寺中大鏡寺
 妙成寺寺中円融寺
 妙成寺寺中善住寺 →下に掲載
 妙成寺寺中本覚寺
 妙成寺寺中玉寿寺
2017/06/25追加
寺中善住寺:
 前田利家は越前府中に在城の時、経王寺を一乗谷から越前府中に遷す。その時、実成院日淳上人が府中経王寺を再興開山する。その日淳は前田利常生母壽福院の実兄である。
その後、日淳は、前田利家能登・加賀に移封時には乞われて金澤に移り、金澤にて「寿福山経王寺」を開基す。
後年、日淳は能登滝谷妙成寺中興14世に転薫。晩年は善住院と号し、善住寺を開き閑居す。という。
以上から、滝谷妙成寺14世日淳の開いた寺中と推測される。
  →以上は金澤経王寺<金沢城下2の諸寺中>、府中経王寺<越前府中の諸寺中>を参照。
○寺伝では次のように云う。
当山は永仁2年(1294)の創建にして、日像菩薩の開山である
元々は一乗谷にあり朝倉家の菩提所として権勢を誇るが、織田信長越前制圧に伴い廃寺となる。
天正3年(1575)前田利家、越前府中在城の砌、名跡再興の為 前田家の庇護を蒙り府中宿明(現在地)に寺領を賜り、慶長元年(1596)堂宇を建立し、華岳山と号す。
再興開山実成院日淳は、国高村高木、上木新兵衛息男で、前田利家側室、中納言利常の生母「寿福院殿華岳日栄大姉」の兄君なり。
前田利家能登・加賀に移封時には乞われて金沢に移り「寿福山経王寺」を開基す。

○「妙成寺」本山妙成寺、出版年不明(平成9年以降平成22年の間) より
 滝谷妙成寺本堂内陣

2013/02/13追加:
◆三十番神堂の山城北野天神からの移建説
 現地(能登滝谷妙成寺)駒札では「慶長19年京都の北野天満宮より移建されたと伝える。・・以下略・・」とある。
 また「妙成寺」本山妙成寺発行、発行年は不明 では「番神堂は、藩主前田利常が大阪出陣の際、戦勝祈願のため建立したと古文書が伝える一説には京都北野天満宮より移したとも伝える。・・以下略・・」とある。
 ※何れにせよ、北野天神からの移建とは明確ではない。
利常の大坂出陣とは慶長19年の大坂の陣のことであろうが、この番神堂は慶長19年の建立との記録が残るので、利常は慶長19年に北野天神の堂宇を移築したのであろうか。この堂は建築様式から見て、桃山期の建築とされるが、であるならば、豊臣氏造営の堂を移建したのであろうか。しかしながら、北野から移建する必然的な理由は見当たらず、以遠説は根拠が薄いと思われる。
 あるいは、前田氏は菅原道真の後裔といわれ、菅原氏を称する。
(勿論、これは江戸初期に前田氏がそう主張を始めただけで、前田氏の出自は殆ど分からないというのが定説である。)
現に、この番神堂の向拝上の鬼瓦は前田氏の家紋「梅鉢」紋をあしらったものである。おそらくは前田氏の寄進を誇示するものなのであろう。
 三十番神堂向拝鬼瓦:2010/10/12撮影
周知のように、管公・天神の紋も梅鉢である。これ等のことから、この番神堂は管公の後裔と主張する前田氏の寄進であることから、北野天神から賜ったということを付会したのであろうか。

妙成寺別院・龍崋山日澄寺・・・奥の院(白山社)および七面山と並ぶ妙成寺境外仏堂の一つである。
妙成寺の東約25kmの石動山中仏蔵院跡地にある。
「妙見菩薩縁起」では、明治22年、石動山仏蔵院(藤島氏邸)に本堂等の堂舎を建立、七尾小島の日蓮宗上慶寺(廃寺)の名跡を移し上慶寺と号し、翌年龍華山日澄寺と改号すると云う。
開基は日澄上人(堀之内妙法寺住職、妙成寺51世松村日澄か)と思われる。
その後、山門・鐘楼・妙見堂・釈迦堂などが建立される。
しかし事情は不明であるが、現在では堂宇は解体、梵鐘は軍に供出、本堂(及び山門)のみ再建されていると思われる。
 以下は能登石動五社権現のページより
 ○石動山仏蔵院跡1     ○石動山仏蔵院跡2
  2010/10/19追加:
  ○龍崋山日澄寺堂宇跡?:仏蔵院跡に礎石建物跡が残るも、おそらく日澄寺関係の退転した堂宇跡であろうと思われる。

滝谷妙成寺略歴

開基は日像上人。永仁2年(1294)日像上人、佐渡より京都弘教の途中の船中で、能登石動山五社権現座主満蔵法印(日乗上人)を教化改宗する。
日乗上人は柴原将監の庇護により、当地に妙成寺を建立する。  →参考:能登石動山・大宮坊
その後、前田利家、福寿院、前田利常などの寄進により現在の伽藍が整備される。
 →日像上人略伝

壽福院

五重塔は寿福院発願。 →壽福院滝谷妙成寺
寿福院は前田利家室・前田利常生母。
慶長8年(1603)能登滝谷妙成寺を菩提所と定める。
 身延山に利家菩提のために五重塔、奥の院祖師堂及び拝殿などを寄進。
 京都妙顕寺に本堂及び五重塔を建立。
寛永8年(1631)逝去。61歳。池上本門寺で荼毘に付す。
 池上本門寺壽福院逆修塔が残存する。
後、国元金沢小立野経王寺にて再び葬儀が行われ、遺骨は妙成寺に納めらる。
 2010/10/12撮影:
  壽福院殿墓11     壽福院殿墓12
  ※浩妙院殿(亀鶴姫)墓は近くに並んである。
  浩妙院殿は前田利常女・徳川秀忠養女・森忠広室である。従って、前田利常生母寿福院は浩妙院の祖母に当たる。
  ※昭和42年、壽福院殿と浩妙院殿の墓石を覆う鞘堂が築かれる。
2017/06/08追加:
加賀金澤小立野経王寺は「金沢城下2の諸寺中 」にあり。

2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より
壽福院ちよ
 壽福院ちよは、加賀前田利家の側室で、三代前田利常の生母である。
越前の上木新兵衛の娘「千代」・「千代保」と言い、母は朝倉義景の家臣・山崎右京の娘と言われる。
 前田利家は加賀に移る前には越前府中(武生)にいた。
壽福院はこの越前府中で元亀元年(1570)に誕生する。母はのち小幡九兵衛に再嫁し、子の壽福院ちよは「小幡氏」とも呼ばれる。
 壽福院は前田利家の正室・芳春院まつ(お松の方)の侍女であった。
朝鮮出兵で、前田利家が肥前国名護屋に滞在中、寿福院ちよは名護屋に赴く。それは、側室になって二ヶ月の時である。
金沢に戻り文禄2年(1593)利家の四男・猿君(後の利常)を出産する。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦があり、家康が勝利する。
慶長6年(1601)猿君は二代藩主兄の前田利長の嗣子となり「利光」と称し、二代将軍・徳川秀忠の次女・珠姫(天徳院)と婚姻する。珠姫3歳、利光9歳の時である。
外様大名として百万石を領する前田家の謀叛を封じるため徳川家康が画した婚儀であった。
 その後は、豊臣家から徳川家へ権力が移動する激浪の時代であったが、前田家はその波に呑まれることなく泳ぎ切り、元和の時代を迎えるのである。
この年、壽福院は実家上木家の菩提寺武生経王寺より兄・善住院日淳の弟子・養仙院日護を招き、金沢小立野に寿福山経王寺を建立する。越前府中経王寺の寺号を移す。 →越前府中経王寺     →加賀金澤小立野経王寺
慶長8年(1603)2月、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開く。
同年、前田利常は生母・壽福院の菩提寺を滝谷妙成寺と定める。
慶長13年壽福院の兄・善住院日淳が滝谷妙成寺十四世を嗣ぐ。
慶長19年壽福院による妙成寺本堂、三十番神堂、同拝殿が着工される。
 日體覚書(宝永5年・1708)によると
「三十番神之本社並拝殿御建立、微妙院様(利常)大坂御出陣ニ付、為御祈祷寿福院様、微妙院様より慶長十九甲寅年被仰付、本社葵之紋被成置候、且又神前之杉者、寿福院様御意を以、従江戸杉苗到来、被植置候」とある。
慶長20年(1615)5月壽福院、妙成寺に参詣し、加賀藩の長久を祈る。
同じく日體覚書には、
「寿福院様元和元年乙卯八月江戸御発駕ニ付、同年五月当山御参詣被為成、其砌三ケ国(加賀、能登、越中)永代御静謐、御武運長久之御祈祷可奉勤仕、当寺十四代日淳上人江被仰達、依之塔頭各々七条之袈裟等被成下候。」
とある。
年号は慶長20年が元和元年となり、8月壽福院は芳春院に代り、江戸に人質として住むことになる。
この年、壽福院及び前田利常が発願主となり妙成寺五重塔建立が着工され、元和4年(1618)10月建仁寺流の工匠坂上嘉紹によって完成する。
 →滝谷妙成寺五重塔は本ページの始めに掲載

五重塔建立に関しては、
元和5年(1619)身延にも五重塔建立する。
 →身延山元和創建五重塔
  ※身延山五重塔現存棟札(上記の身延山元和創建五重塔から転載)
   ○元和5年年紀棟札
   元和5年の年紀がある。檜材、高さ約70cm。
    (表)施主は加能越太守前田利常母寿福院と記す。
      「・・・信心願主加能越太守諌議太夫朝臣母公寿福院日榮抽於浄信建霊廟・・・」
    (裏)棟梁の名前を記す。筆頭は鈴木近江守長次の名が記される。
      「天下工匠遠州住人 鈴木近江守長次 ・・・・     元和萬々歳第五龍集己未九月如意吉辰」
ところで、妙成寺は不受不施派の寺院であり、身延は受不施派の寺院である。寿福院の信仰は不受不施義の池上十六世長遠院日樹の教化に基づいていた。
つまり、身延の五重塔は、寿福院の利家追善は勿論のことだが、一方では幕府による加賀藩取り潰し(改易)の口実− 不受不施義の信仰による幕府への反逆− を回避するための高度な政治判断が一面に有ったと考えられる。
 元和8年(1622)7月3日、前田利常の室・珠姫(二代将軍秀忠の二女)天徳院殿乾運順貞大姉(30歳)が死去し、
7月20日利常と寿福院は本阿弥光堂に資金援助し、不受派の中山法華経寺に五重塔を建立する(棟札・日本建築年表)。
 ※本阿弥光室の願(両親−前田利家・壽福院−の菩提のため)により、前田利光(利常)の寄進により建立される。
更に四条妙顕寺にも五重塔を寄進する。
 ※天明の大火<天明8年(1788)>で失われ、再建に至らず。
 建立時期は必ずしも明確ではないが、妙顯寺17世日莚代と云う。

同年8月、不受派の池上比企16世日樹の鎌倉妙本寺客殿を壽福院は建立する(棟札)。
寛永5年(1628)11月日樹は池上本門寺大堂再建の勧進をする(遺滴新目録)。
この再建にも寿福院は日樹に再建資金を奉納し、一年後の寛永6年11月に大堂(祖師堂、25間×23間)が再建される。通常では考えられない猛スピードの工事日程である。
 ※池上本門寺大堂(四十間四面の大堂)は慶長6年(1601)加藤清正によって建立される。建立から19年目の元和五年(1619)12月、庫裡客殿とともに炎上する。日樹が池上入山して半年の事である。
寛永5年(1628)四条妙顯寺壽福院塔を建立。「壽福院日榮預修(預修は逆修と同義)」と刻む。
 →四条妙顕寺に現存する。
 ※壽福院逆修十一重層塔の残欠が池上本門寺にある。 →池上本門寺壽福院供養塔:逆修十一重層塔

滝谷妙成寺末寺

正栄山妙行寺(台東区谷中)
神通山長清寺(富山市梅沢町)
法光山妙輪寺(富山県下新川郡朝日町泊)
妙運山法乗寺(南砺市城端町)
昌久山乗光寺(富山市中野新町)
長興山本成寺(羽咋市柴垣町)
 本成寺末:浄修山本立寺(北海道利尻郡利尻富士町鴛泊字富士岬)
 本成寺末:星場山法雲寺(南砺市坂本)
法広山妙相寺(輪島市河井町)
妙法山成隆寺(輪島市別所谷町)
実掌山浄覚寺(石川県鳳珠郡能登町鵜川)
法立山大乗寺(石川県鳳珠郡能登町宇出津)
○華開山成蓮寺(七尾市小島町) →能登の日蓮宗諸寺
常在山本土寺(石川県鹿島郡中能登町西馬場) →能登の日蓮宗諸寺
宝栄山妙法輪寺(石川県羽咋郡宝達志水町麦生) →能登の日蓮宗諸寺
立実山大蓮寺(石川県羽咋郡宝達志水町敷波)
涌出山宝泉寺(羽咋市柴垣町)
宝昌山浄心寺(羽咋市柳田町)
本證山妙法寺(羽咋市太田町)
戒忍山護國寺(羽咋市旭町)
妙法山蓮華寺(羽咋市飯山町)
久栄山妙広寺(石川県羽咋郡志賀町堀松)
○龍華山日澄寺(石川県鹿島郡中能登町石動山) →本ページの上に掲載の「妙成寺別院・龍崋山日澄寺」の項
○金澤卯辰松倉山本法寺    →卯辰山麓の諸寺
○教徳山妙円寺(金沢市山の上町) → 同上
○精進山妙正寺(金沢市東山) → 同上
○久栄山常福寺(金沢市東山) → 同上
○妙法山蓮華寺(金沢市東山) → 同上
妙法山円光寺(金沢市東山) → 同上
○【廃寺と思われる】卯辰長栄山妙玄寺 → 同上
○【廃寺】卯辰倉谷山宗榮寺    → 同上
○弘法山三宝寺(金沢市東山) → 同上
○妙運山真成寺(金沢市東山) → 同上
○【廃寺】日蓮宗蓮心寺      →金沢城下2の諸寺
寿福山経王寺(金沢市小立野) → 同上
○金昌山興徳寺(金沢市寺町)  →金澤寺町の諸寺
加賀金沢泉野寺町常榮寺【現在の消息不明】 → 同上
華徳山蓮光寺(加賀市大聖寺下屋敷町)
妙林山行善寺(白山市北安田町)


★参考:北陸鉄道能登線

昭和47年(1972)まで羽咋―三明間で運行されていた。
妙成寺へは途中の柴垣で下車。羽咋から能登一ノ宮を過ぎると柴垣まで無人の日本海海岸沿いを走る。
現在廃線跡地は、ほぼ終点の三明までサイクリング専用道路として整備維持される。


2006年以前作成:2019/09/03更新:ホームページ日本の塔婆