★大覚大僧正開基寺院
大覚大僧正開基寺院<三備(備前・備中・備後)、三備以外>、大覚大僧正自筆題目石<備前和気法泉寺、備前曹源寺寺中大光院、備中西辛川大覚堂、備中軽部大覚寺>、その他
→ 大覚大僧正開基寺院
★美作の諸寺
◇鯰随縁寺:美作市鯰
不変山と号する。京都妙覚寺末。近年に本堂・山門などの堂宇が造替されたようである。
以上の他に情報は皆無である。
2015/09/15追加:「備北・美作地域の寺」川端定三郎、2002 より
寛永18年(1642)江見休夢居士の建立なり、それより以前江見氏鳥越城在城の折、持仏堂法泉坊堂宇を現地に移し、寺号に改め檀越となる。江戸末期日正が在寺という。
なお、清正公像ありという。
2022/09/22追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より
寛永19年(1642)創立、開山恕雲院日輭(ニチナン)、開基檀越江見与左衛門秀綱、京都妙覚寺末、奠師法縁。
弘治元年(1555)鯰村鳥越山城内に法泉坊という堂あり。寛永19年法泉坊を現在地に移転。
2015/04/18撮影;
随縁寺全容 随縁寺山門 随縁寺本堂1 随縁寺本堂2 随縁寺本堂3
随縁寺鐘楼 随縁寺庫裡 随縁寺庫裡2 随縁寺堂宇:堂宇の名称の確認をせず、堂宇名不明。
津山林田は森氏が津山城築城の時、城東に設けた寺町で往時は10ヶ寺あり、現在では6ヶ寺残る。その参道が寺下通りで、通称「東寺町」といわれる。※戦前に妙津寺の前身が成立し、これを加えれば7ヶ寺となる。
◇津山林田妙津寺:本門佛立宗:大阪清風寺末、大坂清風寺が京都宥清寺末とすれば、宥清寺孫末ということになる。
現住の祖母が大阪で出家し、岡山へ来住、信者が現在地の土地を寄進し、岡山より当地へ移る。
昭和9年7月仮親会場設立、昭和26年現本堂建立というも良く分からない。
要するに、昭和初期の成立であり、江戸期から寺下通りに寺地を構えた寺院ではないことは確かであろう。
内陣には日蓮、日隆、日扇各上人を祀る。
2015/04/18撮影;
妙津寺本堂 妙津寺庫裡 妙津寺納骨堂上題目碑
◇津山林田蓮光寺:京都妙覚寺末
中世には林田郷と呼ばれ、津山日蓮宗の発祥の地である。
慶長8年、森忠政津山入部、慶長15年(1610)本光院日秀、この地に明星山蓮光寺を開山する。開基檀越は金谷佐大夫夫妻と伝える。
寛文年中、徳川幕府の不受不施への禁圧、所謂寛文の法難により、衰微する。
延宝年中、第5世是音院日厳の入寺により再興される。
天保末年、本堂を焼失、嘉永元年(1848)第25世浄真院日誠により本堂再建。
昭和62年新本堂落慶。 2022/09/22追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より 京都妙覚寺末、奠師法縁。
寛永元年(1624)創立、開山本光院日秀、開基檀越は金谷佐大夫。 「大観」には5世是音院日厳が再興とある。
※1世本光院日秀は寛永11年(1634)寂、歴代の2世から4世の記載はなく、飛んで5世是音院日厳と歴代は続く。是音院日厳は元禄3年(1690)寂である。以上から推察するに、蓮光寺は寛文年中の弾圧法難で歴代などの記録を失い、元禄年中受派として5世是音院日厳により再興されたのであろう。
2015/04/18撮影;
蓮光寺全景1 蓮光寺全景2 蓮光寺題目碑 蓮光寺山門1 蓮光寺山門2
蓮光寺本堂1 蓮光寺本堂2 蓮光寺鐘楼? 蓮光寺庫裡
◇津山林田本蓮寺:京都妙満寺末
開創は慶長19年(1614)本光院日證によると伝える。
明治9年児玉日容上人本蓮寺に赴任、明治19年この地に津山顕本講(津山弘通所)を開設する。
日容上人は明治23年遷化。
明治31年日蓮宗妙満寺派が独立、日容上人の指定により顕本講の名を採って顕本法華宗と宗名公称する。
日容上人の墓所は当地にある。
2015/04/18撮影;
本蓮寺山門 本蓮寺本堂1 本蓮寺本堂2 本蓮寺庫裡・客殿
日容上人墓碑
なお、本多日生(聖応院)は児玉日容の直弟子であり、日容の宗門改革を継承する。 本多日生は東舞鶴法光寺開山(→丹後の諸寺中)である。
◇津山西寺町妙法寺
長昌山と号する。京都妙覚寺末。
永享12年(1440)頃、山名忠政が鶴山柳の段に福聚山妙王院を創建することに始まるという。
元亀元年(1570)頃、法恩院(法音院)日充上人中興し、妙法寺と改称する。
慶長8年(1603)森忠政が美作入部、築城地を鶴山に決定する。
これに伴い妙法寺を南新座へ移す。その後、南新座は武家地となり、元和3年(1617)西寺町の現在地に移る。
安永年中(1772〜81)、山号を長昌山と改号する。
また境内は広大な規模を誇る。
本堂は桁行5間、梁間6間、向拝1間付きで、入母屋造本瓦葺。
建築年代は板御本尊墨書および鬼瓦銘により、承応2年(1653)と推定される。
正面奥行2間を三方吹放しの札堂、その奥を内陣とし、境には高敷居を入れる。内陣後方に四天柱を立て、唐様須弥壇を置く。
多くの建築彫刻(実見せず)を施し、江戸前期大型日蓮宗本堂建築である。 2018/09/15追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より 嘉吉元年(1441)の創立。 開山法音院日充。開基檀越森忠政。奠師法縁。
森忠政が鶴山に明王院を建立、慶長8年鶴山城築城につき、寺を新座に移転、妙法寺と改称。 ○末寺: 福聚山無量寺(岡山県苫田郡鏡野町入) →下に掲載
妙法山經王寺(津山市下野田)
2015/04/19撮影;
妙法寺山門1 妙法寺山門2 妙法寺山門3 山門前題目碑 妙法寺裏門1 妙法寺裏門2
妙法寺本堂1 妙法寺本堂2 妙法寺本堂3 妙法寺本堂4 妙法寺本堂5 本堂前題目碑
妙法寺客殿庫裡 妙法寺客殿 妙法寺庫裡
妙法寺鐘楼 妙法寺三十番神 妙法寺祠(堂名不明)
◇津山西寺町本行寺
延寿山と号する。美作地方における日蓮宗興隆の一拠点であった。京都妙覚寺末。
《以下、「津山瓦版」>「美作本行寺」》 より
文明年中(1469〜87)、関東から守兵部保重、堅田浄作入道頼国、その子新左エ門為頼等の武人が美作に来たりて、林田郷に牢居する。<※意味が不明であるが、3人は何かの罪を犯し、美作で「牢居」の罰を受けたという意味であろうか。>
3人はいずれも法華宗の信者であり、当時美作には法華宗寺院が無く、京都妙覚寺第12世日寮上人に請いて一寺を建てんことを計るという。
日寮上人は、照知院日立上人を下らしめ、弘教にあたらせ、多くの信者を得て、遂に堂宇を林田丹後山の麓に創建し、延寿山本行寺と称することとなる。
以来、宗風作州のうちに普及するに至る。しかし第5世日誉上人、永禄4年(1561)寂して法嗣なく、消滅の危機に瀕する。
この時苫西郡入村久塚山無量寺(現鏡野町入・西寺町妙法寺末<無量寺は下の項で掲載>)の法音院日繕上人、本行寺の廃滅せんことを憂慮し、備前金川妙国寺日繕上人を招請して本行寺の中興となす。
<※本行寺日繕は善峰院<元和5年(1619)寂>と号し、本行寺第6世である。<「日蓮宗寺院大鑑」>
従って、招聘された金川妙国寺日繕とは善峰院日繕であろう。
一方、無量寺法音院日繕上人とはおそらく誤りで、無量寺開山の法音院日充であろう。
日充は無量寺を文禄元年(1562)に建立後、津山妙法寺を元亀元年(1570)頃に建立(中興)、後無量寺に隠居と伝える。
本行寺第5世日誉は永禄4年(1561)寂して法嗣なく、その9年後の元亀元年(1570)頃に津山妙法寺を中興し、
さらに元亀元年以降に無量寿に隠居した法音院日充が金川妙国寺日繕を招聘したという事であろう。> 日繕上人には帰依するものが多く、美作地方における法華宗の総導師となる。
慶長9年(1604)南新座に移り、元和2年(1616)現在の西寺町に移る。
第8世日栄上人の時に至って、寛文の大法難に際会し、日栄上人は宗義を持して出寺し、堂宇もまた法難の犠牲になって破滅するに至る。
2019/09/19追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
寛文の法難で、受不施派に接取され、破却される。
およそ200年後の文政5年(1822)第19世日運上人の時に現在の本堂・庫裡を再建する。
また第23世日浄上人の時には表門を再建し、右わきの「一字一石」の宝塔を造立する。
昭和60年、本堂・庫裡・鐘堂・外塀等の大修理が竣工。 ○末寺: 玄好山万福寺(津山市高野本郷) 秀養山法光寺(津山市西中)
岩谷山妙福寺(津山市中北上)
2015/04/19撮影;
本行寺山門 本行寺伽藍 本行寺本堂 本行寺鐘楼 本行寺庫裡
◇津山西寺町妙勝寺
法光山と号する。京都妙覚寺末。
元は院庄(神戸村)にあり金剛寺と称する真言宗寺院であったというも、日勝により改宗する。
津山藩主森氏の意向により、三世日厳の時南新座に移り日蓮宗妙勝寺と称する。
慶長9年(1604)あるいは元和3年(1617)現在地の西寺町に移転する。 2022/09/20追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より
明治3年備中高松最上稲荷の作州分院として稲荷堂を建立。 昭和50年に本堂・稲荷堂を新築、山門は宝暦4年の建立。 2015/04/19撮影;
妙勝寺鐘楼門1 妙勝寺鐘楼門2 妙勝寺題目碑 妙勝寺本堂 妙勝寺庫裡 妙勝寺稲荷
妙勝寺鐘楼門・本堂
参考:
日蓮宗ではないが、西寺町に本源寺がある。5棟の重文建築を備えるので、それを取り上げよう。
津山寺町本源寺:臨済宗妙心寺派である。東海山と号する。
慶長8年(1603)森忠政、美作一国186,500石を拝領、美作(院庄)に入部する。
慶長9年に院庄を出て鶴山に築城を開始する。
同年、西々条郡神戸村(現津山市神戸)にあった安国寺を菩提所と為し、寺を小田中村に移し、海晏禅師を迎えて安国寺中興の祖とす。開基は森忠政である。
慶長12年安国寺を西今町の北(現在地)に移し「萬松山龍雲寺」と改号する。
天和3年(1683)忠政の50遠年忌に当たり戒名「本源院殿前作州太守先翁宗進大居士」から、寺名を「龍雲寺」から「本源寺」に改める。
元禄10年(1697)4代長成が死去し、末期養子として2代長継の第24子で家臣となっていた関衆利が末期養子と認められるも、発狂し、跡目相続不能となり、津山藩森家は改易となる。
改易後、森家は長継が備中西江原藩(2万石)、長俊が播磨三日月藩(1万5000石)、関長治が備中新見藩(1万8000石)として立藩する。
以後は本源寺は森家・津山藩松平家両家の庇護を受ける。
平成25年本堂、庫裡、霊屋、霊屋表門、中門の5棟が重文指定を受ける。本堂は慶長12年上棟。
森家御霊屋(方四間):寛永16年(1639)二代長継の建立。
忠政、二代長継、三代長武、四代長成、父可成、兄長可、乱丸、坊丸、力丸、忠政内室、子息、息女など、森家と関家と松平家、全29の霊碑を安置するという。
2015/04/19撮影;
本源寺惣門 本源寺中門:総門から中門までの参道両側は蓮池や松林のある庭であったと云う。
本源寺本堂1 本源寺本堂2 本源寺庫裡
本源寺霊屋表門1 本源寺霊屋表門2 本源寺霊屋表門3 本源寺霊屋表門4 本源寺霊屋表門5
本源寺霊屋表門6 本源寺霊屋表門7 本源寺霊屋表門8 本源寺霊屋 本源寺鐘楼
◇美作鏡野無量寺:苫田郡鏡野町入 2018/09/15追加:
「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より 福聚山と号す、津山妙法寺末。→妙法寺は上の項に掲載
文禄元年(1562)の創立、開山開基法音院日充。開基檀越越葛下城主中村大炊佐頼宗。(墓碑あり。)
(大観には永正13年(1516)とある。) 律宗の寺を改宗、日充は当寺を建立後、津山妙法寺を建立、後当寺に隠居と伝える。
無住時代がかなり長い期間ある。(「日蓮宗寺院大鑑」に歴代の記載なし。)
◇美作福渡妙福寺 2018/10/15追加:
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より 本寺は京都妙覚寺。
「西作誌」によれば、宇喜多氏家臣沼本与太郎久家・日笠次郎兵衛頼房が京都妙覚寺日典の弟子日存に帰依し、 天正元年(1573)壽福院日存を開山として建立するという。
寛永10年(1633)京都妙覚寺が幕府に提出した妙覚寺日亮の「上京妙覚寺諸末寺覚」(国立公文書館)には美作の末寺として末寺8ヶ寺があり、その内に「福渡 妙福寺」「同 壱ヶ寺」とあるという。「同 壱ヶ寺」とは川口村妙泉寺と思われる。
しかし両寺とも「違背」と記され、当時は不受不施であったと分かる。 元禄4年(1691)京都妙覚寺との本末関係が回復される。
(両寺とも受派に転じたということであろう。) なお、近世を通じ、福渡村八幡社の別當であった。 末寺: 川口村妙泉寺
下弓削村蓮久寺 →美作弓削廃寺心礎が蓮休寺門前に置かれる。但し、心礎のみ見学し、山門内には立ち入らず。
下二ヶ宮地村善眞寺 上神目村龍泉寺 2022/05/20追加:
天正元年(1573)創立、開山壽福院日存、開基檀越沼本与太郎久家。京都妙覚寺末、生師法縁、
永禄年中に真言宗毘守山多聞示住職大永坊は多門寺を捨て妙福寺に合併。(※意味不明)
本堂・仁王門・三十番神・祖師堂などを建立、鐘楼は備前金川城主松田左近道連が正保年中に建立。中本寺として末寺8ヶ寺を有する。(※「違背」の件の言及はなし。)
◇美作落合垂水本覚寺:真庭市落合垂水
随縁山と号する。京都妙覚寺末。
「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮(仏乗寺住職)著、昭和49年 本覚寺縁起の項 より
延文5年(1360)大覚大僧正来錫の砌、当郷下市瀬に法華堂という草庵あり。その草庵にて大覚大僧正逗留説法17日余演説をなし随縁山本覚寺と号す。その後中絶に及び200余年を過ぎ、今はその處、法華家舗という田地の字呼伝えたり。
その後天正2年(1574)心性院日悟上人当地引地中興相成る。
開基大覚大僧正、二祖心性院日悟上人、中興祖、万治2年(1659)化 2022/09/22追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より
京都妙覚寺末、奠師法縁。 正平15年(1360)創立、開山大覚妙實、天正2年心性院日悟上、垂水池尻より現在地に移転、中興す。
正意殿は明治初年建立で町の文化財である。 ※正意殿とは、下の掲載の本殿とも思わえるが、不明。
2015/04/19撮影;
本覚寺下題目碑:側面に日蓮上人五百年遠忌と刻む、五百遠忌正当は天明元年(1781)であるからその頃の建立であろう。
本覚寺参道 本覚寺遠望:本覚寺は崖状の山腹にある。
本覚寺本堂1 本覚寺本堂2 本覚寺本堂3 本覚寺本堂4 本堂前題目碑1 本堂前題目碑2
本覚寺庫裡 本覚寺鐘楼 本覚寺梵鐘
拝殿・本殿の堂名は不明、おそらくは三十番神堂であろう。
拝殿・本殿・宝庫 本覚寺拝殿
本覚寺本殿1 本覚寺本殿2 本覚寺本殿3 本覚寺本殿4 本覚寺本殿5
本覚寺本殿6 本覚寺本殿7
本覚寺放置梵鐘:本殿前に梵鐘が放置されるも、その理由は分からない。
本覚寺歴代墓碑:本堂裏をさらに登と歴代墓所が整備されている。中央に日蓮・大覚大僧正・日悟上人の墓碑が並ぶ。
日蓮・大覚・日悟墓碑:大覚大僧正墓碑は新しいもので、急造したものである。
◇美作久世興善寺:真庭市久世
正法山と号する。京都妙覚寺末。
由緒、開基、年紀など全く情報がないため、一切が不明。
北方の山中数Km入ったところに奥之院(お滝さま)があり、ここには拝所?があるという。(未見)
2015/09/15追加:「備北・美作地域の寺」川端定三郎、2002 より
慶長8年(1603)の建立。文化12年(1815)当地代官重田又兵衛本堂再建、大正12年本堂山門間に鉄道が敷設される。
2022/09/22追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より 京都妙覚寺末、奠師法縁。
慶長13年(1608)創立、開山開基自性院日元。開基檀越塚谷屋杉山三郎右衛門。
勝山妙円寺16世日元の草庵を元和9年(1623)に久世井手端より現在地に移転。
寛政2年(1790)山門を残して堂宇全焼、山門(楼門)は貞享4年(1687)建立、仁王像は寛延元年(1748)に安置。
全焼後、文化年中に堂宇再建。 妙見堂は昭和5年に寄進される。
奥之院は2世徳行院日春が開き、不動明王が鎮座する瀧で「お瀧さま」と称される。久世より小谷川沿いに3km北上したところにある。 2015/04/19撮影;
興善寺仁王門1 興善寺仁王門2 興善寺仁王門3 興善寺中門と姫新線
興善寺題目碑1 興善寺題目碑2 興善寺本堂1 興善寺本堂2 興善寺庫裡
興善寺妙見大菩薩1 興善寺妙見大菩薩2 興善寺妙見大菩薩3 興善寺妙見大菩薩4
◇美作大庭法光寺 2022/09/22追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より
福裕山と号す。京都妙覚寺末、奠師法縁。 明応3年(1494)創立。開山教林院日従、菊亭大納言の先祖法光院に因んで寺号とする。
天正2年(1574)江原兵庫親次の室が諸堂を建立。のち金田七郎衛門弘矩により再建改造。宝暦14年(1764)三度目の建立。
※江原兵庫は篠向(ささぶき)山城主。
◇美作大庭廃妙蓮寺 2022/09/22追加: 妙蓮寺は既に廃寺であり、殆ど資料がなく、詳細は不明。
「第650遠忌記念 大覚大僧正」京都像門本山会、平成25年(2013)、
「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 などの資料を総合すると次のようなことが辛うじて分かる。
山号は有経山、京都妙覚寺末、所在は真庭郡大庭村であった。 (創立・開山・開基・歴代・寺歴などは不明)
なお、蘭塔の1基には天正13年(1585)の年紀が刻まれているというから、その頃には創建されていたのかも知れない。
昭和17年、鵜飼妙宗(智教院日妙)が備中都窪郡三因に真庭郡川東村(大庭村)妙蓮寺より寺号を移し、三因に堂宇を建立、備中三因妙蓮寺を再興する。 (少なくとも、昭和17年には荒廃・廃寺と化していたのであろう。)
さらに、GoogleMapに「大庭妙蓮寺跡」「妙蓮寺蘭塔」の写真掲載があり、現況は知れる。
なお、妙蓮寺の北に接し、京都妙覚寺末大庭法光寺(上に掲載)がある。 以下、GoogleMapより 転載。
廃妙蓮寺航空写真:出雲街道の東に妙蓮寺、法光寺(北)と並び、妙蓮寺跡ははっきりと残る。画像は2022年。
以下2021/06〜11月画像。
廃妙蓮寺跡1:法光寺から撮影、中央が蘭塔覆屋、その向かって右・手前は廃妙蓮寺記念堂であろうか。
廃妙蓮寺跡2
廃妙蓮寺跡3:廃妙蓮寺記念堂(推測である、本尊・仏具など安置か)・蘭塔・さらに背後に墓碑(推測)3基が並ぶ。
廃妙蓮寺蘭塔群1 廃妙蓮寺蘭塔群2 廃妙蓮寺蘭塔群3:昭和57年真庭市指定文化財となる。
廃妙蓮寺蘭塔群4 廃妙蓮寺墓碑:蘭塔群中に2基?の墓碑が残るが、判読不能。
蘭塔群7基説明板
※蘭塔は、卵塔とは全く異ったもので、家形の墓碑である。岡山や香川に分布する。家型の屋根をもち、その下は四角な箱型にくりとった身舎をおき、前面には観音開きの扉があり、身舎には五輪塔、石仏、位牌などを収納する。
★備前の諸寺(備前東部・備前北部)
◇和気佐伯本久寺:和気郡寺山村
2018/10/10追加 ○平凡社「日本歴史地名大系 34 岡山県の地名」 より
大王山と号する。かって大王山の八合目付近に真言宗蜜言(厳)寺(みつごん)という寺院があった、後に山麓に遷り正善寺と称する。その後、宇喜多土佐守忠家(直家実弟)が当地方を領した時、日蓮宗に改宗し、本久寺と改称したという。忠家は熱心な日蓮宗徒であり、一族の庇護のもと、寺院は繁栄するという。
寛文6年(1666)池田光政の不受不施派弾圧により、寺中の5坊は還俗し、残る5坊の住僧は立退きとなり、廃寺となる。(寛文年中古寺趾書上帳)
しかし当地は不受不施信仰の強固なところで、禁制後も多数の内信者が存在した。
矢田部六人衆の中心妙覚院日閑及び作州福田五人衆の中心堅住院日勢は当寺出寺僧である。
→備前矢田部法難:矢田部六人衆
貞享4年(1687)還俗していた元住職の一雨院日宝の嘆願により再興される。(寛文年中古寺趾書上帳)当寺は安房小湊誕生寺末であったので、再興後は悲田不受不施派に属し、元禄4年(1691)同派の禁制後は受布施となる。そのため表向き当寺の檀徒となっている内信者との間で対立紛争がしばしば発生する。
※再興時に小湊誕生寺末となったと思われるも未確認。
境内に蜜厳寺の塔であったという九重石塔(元亨2年/1322銘)と五重石塔(元亨4年銘)がある。本堂は天正11年(1583)の建築で慶安4年(1651)修理の桃山建築である。(棟札)
※和気郡矢田部村:寺山村の西に位置する。
当村は河本一族を中心に不受不施内信者が多く、本久寺出寺僧日閑も潜伏する。寛文8年日閑及び河本五兵衛などいわゆる矢田部六人衆は柳原刑場で処刑され、一族は追放される。六人衆の墓・殉教碑がある。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
天正年中(1573-92)の創立、開基華光院日東、開基檀越宇喜多忠家、松ヶ崎法縁、小湊誕生寺末。
天正年中に真言宗蜜厳寺を改宗、大王山中腹より現在地に移転。
寛文年中に藩主光政の弾圧を受け、22年間無住であったが、本山の変更、松ヶ崎檀林出身の受け入れ等で復興が許される。
◇備前和気藤野實成寺:和気郡和気町藤野348
○實成寺寺伝(HP) より この地には、天平時代から「藤野寺」という和気清麻呂の菩提寺があった。
しかしながら、源平合戦などの戦乱を経ることで、時の流れとともに荒廃し、塚と番神堂を残すのみとなる。
その址に、元和5年(1619)福昌山實成寺の基となる「福昌寺」が建立される。
池田藩の廃寺政策により、不受不施派に属する福昌寺は一度廃寺となるも、檀信徒の方々の大きな力によって、津高にあった「實成寺」を移し再興の運びとなる。
→ 「福昌寺」については備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧の原番286を参照
元禄3年(1690)福昌山實成寺として再興される。 ○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
元和5年(1619)古代伽藍である藤野寺址に京照院日妙が法榮山福昌寺を建立する。
寛文6年(1666)福昌寺は不受不施派である故に、岡山藩主池田光政の不受不施派弾圧によって廃寺となる。
※福昌寺僧乗仙は不受不施弾圧に身をもって抗議するため、自ら薪を積み衆人環視の中で火定する。(Wikipedia)
元禄3年(1690)藤野村の篤信家である大里正万波籐右衛門によって福昌寺の再興が企てられるも、当時は新寺建立が認められず、津高郡野々口駒井山實成寺の寺号を移し、再興される。
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、昭和56年(1981) より 「大観」には天正14年(1586)の創立。開山は實成院日典とある。 ※創立年・開基は野々口駒井山實成寺のそれである。
岡山蓮昌寺末
○平凡社「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より
廃寺となった野々口實城寺本堂は元禄3年(1690)城下蓮昌寺によって、和気郡藤野村の實成寺本堂として移築される。
→ 野々口實成寺については備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧の原番136〜141(實城寺)を参照
◇備前和気益原法泉寺
大樹山と号する。日蓮宗不受不施派に属する。元岡山蓮昌寺末。
寛文6年(1666)寺中本行坊は還俗、善正坊は他国を徘徊し行方不明となり、廃寺と成る。(寛文年中古寺趾書上帳)
不受不施派再興後、明治11年益原教会所が設立され、本堂が建立される。明治36年法泉寺の寺号公称が許可。 →和気大樹山法泉寺
境内に大覺大僧正真筆と伝える康永元年(1342)銘の題目石がある。 →大覚大僧正自筆題目石
◇備前和気田原上妙應寺:和気郡和気町田原上1265
寺伝では、慶長8年(1603)田原上村西山城主宇喜多秀正の創立で、その子息秀景身延日乾上人に帰依し日秀と号す。よって秀正西山城の麓に本寺を建立。身延末。時正山と号す。
なお、岡山「津倉稲荷」は本寺の別院(飛地)という。 →下に掲載の「津倉稲荷」を参照。
◇備前浦伊部妙圀寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より 浄光山と号す。六条本圀寺末、松ヶ崎法縁。
永長元年(1096)創立。隆明の草創に関わり大法院と称する。貞治5年(1366)天台宗多田山明国寺乗蓮が六条本圀寺5世日伝と法論に及び、敗れ改宗する。国守浄光院法誉源受大居士の寄進を受け伽藍を整備、末寺16、子院7院9坊を有する。
開山大円院(建立院)日伝。開基檀越多田満仲5世の孫下野守明国。
戦国期などに荒廃・焼失。天正・文禄・慶長の頃、伽藍の再建と子院の復興をなす。
12世究竟院日メi元和3年/1617/8月22日寂)は六条本圀寺から。13世顕寿院日演東山檀林開祖。
日伝、日ン凾フ曼陀羅本尊を有する。 ○「片上妙圀寺」サイト より
貞治5年六条本圀寺第5世大円院日伝(1342-1409)が西国布教の途中、浦伊部に立ち寄り、当時の住職乗蓮らと三昼夜に及ぶ法論を行い、寺は日蓮宗に改宗、その名も『浄光山妙圀寺』となる。
当時の住職乗蓮自身も改宗、日伝の弟子となり、名を久遠院日乗を改め、妙圀寺第二世となる。
天正年中、信徒浦伊部の来住法悦が諸堂復興を企て、六条本圀寺第16世究竟院日ヱm正を招請、再興を果たす。
○「岡山の日蓮法華」2019 より
天正年中(1573-93)当地の豪商来住法悦が六条六条本圀寺第16世日モ招き、復興が始まる。その後、方廣寺大仏の千僧供を巡り、不受・受の対立があり、日モヘ不受不施の立場を貫く。来住法悦と日モニの私信が現存する。
→究竟院日 →山城嵯峨常寂光寺
◇備前牛窓本蓮寺:
→備前牛窓本蓮寺
◇備前福岡妙興寺
教意山と号する。本寺については不明。
→2017/01/29追加:「KG氏」ご提供情報:本寺は小湊誕生寺である。
2018/12/23追加: 悲田不受不施派の時代があったようである。
→悲田不受不施派時代である天和3年(1683)には「悲田不受不施派岡山城下妙林寺法難」がある。 →上記の法難については初期内信法難の項を参照。
○「岡山の古寺巡礼」昭和59年 より;
応永10年(1403)播磨守護赤松氏の出である権大僧都日伝上人が父赤松右京大夫則興の菩提のため、建立と伝える。
※山号寺号は法号教意宗興に因む。(「岡山備前地域の寺」)
盛時には十数坊(10坊と1院という)があったという。寛文年中、池田光政の廃仏により、真浄坊、本住坊の2坊となり、この2坊も今は廃寺となる。(但し建物は現存する。)
享保元年(1716)堂宇を火災焼失、現在の本堂・客殿・庫裏は安永3年(1774)の再建と云う。その他西門および仁王門がある。
なお、黒田孝高(官兵衛/如水)の曽祖父・祖父の墓碑が残る。
また筑前博多の城下・福岡の名称は黒田長政(孝高の長子)が入府後に、この地福岡を偲んで命名と云う。 2018/12/23追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より 暦応元年(1338)大覚大僧正が福岡に巡錫。 永禄元年(1558)には寺域2町余に正林坊、蓮光坊、教泉坊、十妙坊、蓮成坊、林應坊、眞浄坊、正住坊、千光坊、千湯坊、自證坊を建立。寛文元年(1661)に妙興寺、眞浄坊、自證坊の1寺2坊となる。
寛文6年自證坊が本住坊と改号する。 ※寛文元年に寺中の整理が行われたようであるが、池田光政の関与があったのかどうかの言及はない。
2019/08/25追加: 〇「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より 本住院 永禄元年(1558)の創建、開基は大法院日堯(寛正2年/1461寂)、生師法縁。但し「大観」では康正元年(1544)創建という。
寛文元年(1661)寺中11坊が妙興寺・真浄院・本住院の三院に廃寺統合され、同6年にその一つの自證院が本住院となる。享保元年(1715)焼失、寛政2年(1790)再興される。
妙興寺々中本住院
真浄院 「大観」によれば、文明10年(1478)の創立という。
寛文元年(1661)寺中11坊が妙興寺・真浄坊・本住院の三院に廃寺統合される。
享保元年(1715)焼失、寛政2年(1790)再興され、その間元文元年(1736)真浄院と改称する。
妙興寺々中真浄院:既に昭和62年頃にも堂舎は退転していた模様である。
○2014/02/13追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/07撮影・ご提供:
備前福岡妙興寺本堂 妙興寺庫裡客殿本堂
福岡妙興寺仁王門庫裏:なお西門と仁王門の距離は極端に短いと云う。
○2017/01/01撮影:
往時からみて、衰微したのであろうが、それでも往時の風格を残す印象である。
備前福岡妙興寺山門 妙興寺門前題目碑 妙興寺山門仁王門
備前福岡妙興寺仁王門1:寛保元年(1741)建立。
備前福岡妙興寺仁王門2 備前福岡妙興寺仁王門3
備前福岡妙興寺鐘楼
備前福岡妙興寺本堂1 備前福岡妙興寺本堂2 備前福岡妙興寺本堂3
備前福岡妙興寺本堂4 備前福岡妙興寺本堂5
妙興寺客殿庫裏 備前福岡妙興寺客殿 備前福岡妙興寺庫裡1 備前福岡妙興寺庫裡2
備前福岡妙興寺拝殿 妙興寺拝殿本殿:残念ながらこの拝殿・本殿の名称は判明せず。
妙興寺上人堂?:堂内には袈裟姿の僧侶石像を祀る。
例えば日伝上人なのであろうか。堂の名称は判明せず。
妙興寺日蓮大菩薩碑1 妙興寺日蓮大菩薩碑2 妙興寺大覚大僧正碑
妙興寺日蓮上人遠忌碑:550年、600年、650年、700年遠忌など
かっての坊舎本住院は健在であるが、眞浄院堂舎は退転、寺門・庭などが残る。
寺中本住院
寺中眞浄院寺門:坊舎は退転するも、寺門のみ残る。
寺中眞浄院跡:坊舎は退転し、児童遊園となる。
寺中眞浄院庭園跡:遊園の中に辛うじて庭園の痕跡が残る。
戦国期の墓碑:
黒田高政墓碑:高政は永正8
年(1511)この地福岡に移住、大永3年(1522)この地に没す。その子重隆は大永5年播州に移住、重隆の子職隆は姫路城主となる。職隆の子が官兵衛孝高であり、さらに孝高の子が長政(筑前52万石福岡城主)である。
黒田家墓地か
宇喜多興家墓碑:興家は宇喜多直家の父
◇備前成就寺
→備前成就寺
◇備前中田龍渕寺:建部町、白玉山と号す。
○「岡山・備前地域の寺」 より;
永正2年(1505)松田氏の開基で、大乗院日香上人を開基とする。当初は市場(中田の北方)に建立される。
慶長2年(1597)火災焼失、慶安2年(1649)化城院日城上人が再建、現在地に移す。
○2014/02/08追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/04/06撮影/ご提供:
備前中田龍渕寺
2014/03/02追加: ○「第7回ふるさと探訪(文化財編)資料」 より:
永正2年(1505)金川城主松田元成の開基で、その弟である大聖院日香上人開山という。
市場の深い淵を臨む所に立地し、故に龍渕寺と称す。
第4世移住後無住となり、元亀3年(1572)松田氏滅亡、慶長3年(1598)火災で類焼す。
この時、宇垣郷佐波村妙国寺(金川妙國寺)8世化城院日城上人が入山(第5世)し、本坊、庫裡、塔中1坊を再建する。
慶安2年(1649)水害を避けて、高台の現在地に移転。
寛文6年(1666)11世日賢上人の時、池田光政の寺院淘汰により、不受不施の当山及び末寺浄源寺など3寺を破却する。
その後、廃寺となることを避ける為、受派に転じた京都妙覚寺末として再建する。
現本堂は昭和12年の再建、他に鐘楼、三十番神などがある。 2018/10/15追加:
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」平凡社 より 永正2年(1505)金川の松田氏の創建と伝える。
慶安元年(1648)妙國寺寄進帳に「竹部村龍圓寺」とあり、寛永10年(1633)の京都妙覚寺末寺帳に「武部壱ヶ寺」あるのが、これに当たると思われる。
慶安年中と推定される「妙國寺本末寺檀連印状」では龍圓寺ノ本行坊・大圓坊とあり、寛文元年の「妙國寺本末諸寺檀連印状」には「建部龍淵寺」とある。また寛文5年の妙國寺諸末寺宗旨改證文では「建部龍淵寺守應院」と「上建部白玉山龍圓寺大乗院」が見える。(参照:金川妙覚寺古文書<妙覚寺文書>:金川妙國寺中)
寛文6年(1666)池田光政の寺院淘汰で廃寺となるが、延宝9年(1681)に中田村の現在地に再興される。 2018/10/15追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より 永正2年(1505)の創立、開山大乗院日香(松田元成の弟)、開基檀越松田元成、奠師法縁。
4世法華法印陽翁が野山妙本寺に転じ無住となるも、元亀3年(1573)金川妙國寺8世化城院日城により復興。
慶長3年全焼す。慶安2年9世日達の時市場から現在地に移転。
寛文6年池田光政の不受不施壊滅の政策により、当寺および末寺妙要寺・浄源寺・清久寺など破却される。
延宝9年(1681)に再興し、受派に転じた京都妙覚寺末となる。 5世化城院日城の墓碑、法華塔(寛政7年)、題目碑(享保16年)がある。
◆備前金川近辺諸寺
◇備前鹿瀬本覚寺:久遠山本覺寺:不受不施日蓮講門宗本山 →久遠山本覚寺
◇備前金川妙國寺:寛文6年廃寺
→備前金川妙國寺
◇備前金川妙國院 2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より
昭和6年見谷より金川表町に移転する。日應寺に所属、草生・金川・宇垣の信徒約120戸。 「金川町史」では 見谷(けんだに):
慶安2年(1649)妙國寺が改修されたが、寛文6年廃寺となる。
天保14年(1843)妙國院が再建されたが、昭和6年表町に移転する。跡は墓地となる。 妙國院:
表町にある。天明年中(1781-89)200年遠忌と寛政10年(1798)にできた松田歴代の供養塔、芭蕉の句碑、 元和9年(1623)の供養塔もあるが、いずれも見谷から移されたものである。
という。 →備前金川妙國寺中の●地名考を参照。
◇祖山妙覚寺:備前金川妙覚寺
→祖山妙覚寺
御津久保恵教院日慈墓 ○「不受不施派殉教の歴史」 より 岡山市北区御津久保に所在。
日慈は嘉永4年12月16日処刑される。下の病気に霊験があるとされ、参詣人が多い。 → 備前華の系譜中に記事あり。
◇備前紙工松林寺
2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より
明治22年宇甘上村の上村庵と紙工村石原の虎渓庵が合併して松林院となり、昭和43年日應寺から独立して松林寺と改称する。
※虎渓庵はもと日應寺の出張所であり、上村庵とは明治10年合併という。 ○紙工松林院のサイト より
松林寺の沿革:安永四年以前の創立にして虎渓庵と号し、吉祥山(現在は勅命山)日應寺の出張所として、備前法華の最西北たり。明治十年、宇甘の上村庵と合併し松林庵と改称。昭和四十三年寺号公称し金子山 松林寺として独立。
◇備前紙工常在寺
2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より 日蓮宗不受不施派。鷲峰山と号す。
天満には往時、妙松山法仙寺と永福寺の2ヶ寺があったが、寛文6年(1666)池田光政の不受不施派弾圧によって廃寺となる。
時に通善院日圓密かに天満嘉休谷の山腹に庵を結び、常在庵と号し信徒の信仰を維持して以来不受不施禁制中200余年の間、時には大谷の山中にあるいは備中に移動しながら不受不施の法灯を守り、明治初年久保にあった浄源庵を合併する。
※近世初頭、紙工村の7ヶ寺は何れも不受不施派であったが、寛文6年池田光政の不受不施弾圧により廃寺となり、
禁制後は地下に潜る。
天満には常在庵(開基通善院日圓)、久保には浄源庵(開基持城院日儀)が設けられ、不受不施の拠点となる。
(平凡社「「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」)
明治9年釈日正は不受不施派再興の公許を得ると、天満に龍華教院第4号教会所を設置、明治15年本堂を建築、明治18年妙覚寺紙工教会所と改称、昭和28年寺号を公称する。
○「不受不施派殉教の歴史」 より 岡山市北区御津矢原に所在。
本妙庵の地にある本妙庵日珠の作った日朝供養塔(「ニッチョウサマ」)は眼病の神となっている。
→ 我が家のご本尊について>本妙院日珠
→ 備前法華の系譜>本妙院日珠の情報多数あり。また備前華の系譜中に記事あり。
◇備前國ヶ原香雲寺
瑞雲山と号する。
報恩大師の建立と伝える。三論宗・天台宗を経て、大永7年(1527)日徳代、金川城主松田氏により日蓮宗に改宗。 (但し、香雲寺を報恩開基とする典拠は不明) 2017/10/27追加:
○「日蓮宗寺院の調査報告 : 岡山県香雲寺・日応寺、山梨県立正寺など」坂輪宣敬(「法華文化研究 29」、2003 所収) より
本寺には在銘の日蓮上人坐像を安置する。 香雲寺像:元亨元年(1321)の銘がある。
従って、現下では、像底に正応元年(1288)銘があるという池上本門寺日蓮上人坐像に次いで、2番目に古い日蓮上人像ということになる。
胎内には木製銘札が納入され、次のような刻銘(墨書ではない)があるという。
「元亨元年十一月二日/承師命/南無日蓮大菩薩/奉造立者也/妙實・花押」 そして、底面には「享保15庚戌年三月十三日/御臺座再興八世日通代」
まさしく、日像の命を受け、大覚大僧正が本像を刻んだことを示すものであろう。
香雲寺の創建は天平勝寶年中報恩大師の開山と云う。開基は瑞輪院日徳とし、天文年中天台宗日徳の代に領主松田氏によって改宗する。さらに徳川末期に願満祖師像を安置するともいう。
◇備前野々口實成寺跡
駒井山と号する。京都妙覚寺末(不受不施派)。
正行坊、(實藏坊)、乗圓坊、眞乗坊、正住坊の寺中があったと思われる。
寛文6年池田光政の不受不施派弾圧により廃寺となる。 → 備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧 中の原番136〜141を参照(實城寺)
参考:→藤野實成寺
2019/02/27追加: ○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より 實成寺跡には次のようなものが残る。
公孫樹 樹齢推定400年、高さ約32m、目通り周5.9m。 一石五輪塔3基
蘭塔1基 豊島石製、高1.83m、間口1.19m。奥行87cmの大型で、天正年中の建立と云われる。 塔内には3基の題目碑が置かれ、その中には「弘安5年(1282)10月13日 大村彦右衛門尉法名盛榮施主敬白」
というのがある。 その他に
日典上人題目碑 明和6年(1769)銘 大覚大僧正題目碑 嘉永6年(1853)銘
大覚大僧正題目碑 文久3年(1863)銘 がある。 ※上記の「蘭塔」とはラントウ墓(藍塔墓・家型の墓)の意で、所謂卵塔・蘭塔ではない。 なお、Googleの地図上では次のような一宇及び題目碑が存在する。
實成寺跡南西直線距離で100mほどの所に實成庵と称する一宇が有る。(溜池に上がる道沿い、溜池の土手前にある。)
さらに手前の集落に一基の題目碑がある。 2023/09/04追加:
○GoogleMapに数枚の写真が掲載される。その掲載写真 より 現地案内板では次のように云う。
御津町指定史蹟・実成寺跡 実成寺は大永年中(1522-27)日養により、向井山に開基と伝える。その後現地に移転。
享禄元年(1538)日典が吉尾に生まれ、9歳で実成寺日圓に入門師事する。
永禄9年(1566)日典京都妙覚寺20世貫主となる。21世日奥はその弟子である。
寛文6年(1666)池田光政の寺院整理は免れるも、寺運衰え、元禄3年(1690)寺籍は和気郡藤野へ移される。 石造美術
一石五輪塔 3基 日養霊 天文11年(1542) 慈父宗久尊位 天文17年(1548)
慈母妙久尊尼 永禄3年(1560) 蘭塔 天正年中建立と推定(1573〜92) 町天然記念物
公孫樹 樹齢推定400年 日典手植えとの口伝あり。 實成寺跡現況:GoogleMap より
野々口実成寺跡1 野々口実成寺跡2:小宇1、小堂1、築地、常夜燈などが残る。
実成寺跡石造物1:宝形小宇の両脇に題目石2、一石五輪塔3基、石螳螂残欠、向かって右に蘭塔がある。
一石五輪塔3基1 一石五輪塔3基2:「御津町史」より
実成寺跡石造物2:蘭塔とその向かって右に題目石2、石灯篭残欠がある。 蘭塔の中に3基の墓碑(題目碑)があるが、1基が上述の通りであるが、残りの2基は不明。 題目石4基も写真が不鮮明などで、銘が判読できず、詳細は不明。
実成寺跡小祠:一間社流造のような小祠があると思われる。番神堂などであろうか。
なお、「御津町史」p.125の「題目石」の項で写真の掲載がある。
タイトルは「吉尾の題目石(天正廿壬辰)」と「髭題目(曼荼羅)」で、それ以外の説明は何もない。 ここでは、その内の「髭題目(曼荼羅)」を取り上げる。
御津町史掲載・髭題目(曼荼羅)
花押は日奥と読めるが、確証はない。さらに 備州津高郡野々口 實成寺経?深院 ■教院
■■院? に授与、慶長七?年(■■/壬寅?)卯月三日 と読める。
おそらく、日奥が慶長7年?に野々口實成寺の三僧あるいは信徒に授与した曼荼羅本尊と推定される。 2023/09/14追加:
○「不受不施派殉教の歴史」 より
日典の少年期の修行した場所、焼身自殺僧の「正善坊」の五輪塔の頭部はイボ神様となっていて、ここの小石を借りていき、平癒してからは歳の数だけの小石を返すことになっている。
◇備前野々口實成庵
本庵についてはほぼ情報がなく、不詳。 不受不施派に関係する庵とも、実成寺あるいは日典上人(実成院)に関係するとも思われるが、良く分からない。
次に掲載のGoogleMapからの写真で多少の推測は可能ではあるが。
○GoogleMapに数枚の写真が掲載される。その掲載写真 より
実成庵堂宇:入母屋造で妻入り、間口3間で奥行は5〜7間程あると思われる。
傍らに日典歌碑が写る。 正面には切妻の向拝付設、奥には練塀の囲いを設け、そこに日典・日奥の供養塔を安置する。
実成庵扁額:日學と甲辰とある。
日學とは祖山妙覚寺38世宣正院日学(明治9年〜昭和51年正月)であるならば、 明治37年日學28歳の時の揮毫であろう。
以上の推論が但しければ、実成庵はこの頃の成立であろうか。
日典・日奥供養塔1 日典・日奥供養塔2:日典聖人/文禄元年(1592)9月1日とある。
(但し、9月1日は文禄元年というより天正20年とすべきであろう)
実成庵日典歌碑:「御津町史」p.817では次のように解説する。
野々口講社、昭和52年12月建立。高さ1.47m、実成院境内。 見わたせば心の色もなかりけり柳桜の春のあけぼの
聖人自筆の短冊より写したもので、前書きに「安楽行品 観一切法空如実相」とあるが、法華経安楽品に、一切の法を観ずるに空なり、如実相なり・・・常に楽(ねが)いて是(かく)の如き法制を観ぜよとあり、永遠の実相の上に立って人の世を見よという悟りの世界が、37文字に表現されているのであろう。
御津町史掲載・日典歌碑:御津町史に掲載されているものであるが、刻文は判読できない。
◇日典上人産湯の井戸;日典生誕地
岡山市北区御津吉尾にあり。
日典産湯の井戸の位置図 八百屋お七の墓の東隣に隣接してあるというも、GogleMapで確認できず。
東方野々口の山中の溜池の下に實成庵および實成寺跡がある。 道林寺は日典産湯井戸から南東、実成庵から南西方向にある。
日典産湯の井戸:「令和元年度特別展 岡山の日蓮法華」 より
○「御津町史」p.125の「題目石」の項で写真の掲載がある。
タイトルは「吉尾の題目石(天正廿壬辰)」と「髭題目(曼荼羅)」で、それ以外の説明は何もない。
ここでは「吉尾の題目石(天正廿壬辰)」を取り上げる。 吉尾の題目石:上記の「日典産湯の井戸」に写る「題目石」のことであろう。
(天正廿壬辰)とあるから1592年の年紀があるのだろうが、これは建立の年代ではなく日典寂年の可能性が高い。
2023/09/14追加: ○「不受不施派殉教の歴史」 より
「題目石」はこの地では「オデンサマ」といい、日典の命日には餅を搗き、供票するという。 「オデンサマ」とは典師様の仮装である。
→日典上人
◇備前中牧十谷題目碑
この題目碑には題目と大覚大僧正と刻み、左には「弘化二乙巳年」の年紀がある。(弘化2年は1845年。)
右には「家内安全五穀成就」と刻む。
備前のこの地は備前法華の中心の一つであり、十谷の集落あるいは十谷を中心とした集落の日蓮宗宗徒が世の中が騒がしくなった幕末の弘化2年、家内安全と五穀成就を願って建立したものであろうと推測される。
2016/04/12「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/07撮影・ご提供:
備前御津中牧十谷題目碑:背後の中央を左右に貫くのは築堤であるが、それはJR津山線の築堤である。
撮影場所・撮影された題目碑を機会があれば訪れたいが、その場所を奇しくも写した写真を掲載したページがあるので、その写真を転載する。題目碑のある場所は十谷の火の見櫓の傍らである。
十谷火の見櫓・題目碑:ページ「津山線 野々口−牧山」中より転載。
◇備前中牧十谷妙行院
2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より 中牧十谷
日應寺出張所、吉尾・野々口・中牧の信徒約158戸、創立不詳。 ※他に情報がなし、存在及び所在が確認できない。
◇備前菅野幸福寺 →備前48ヶ寺菅野山(正保山幸福寺)
正保山と号する。小湊誕生寺末。
天平勝宝4年(752)創立、開山報恩大師、開基自雲院日満。 菅野山菅野寺と号する三論宗であった。仁和年中に天台宗に改宗、その後永禄2年(1559)松田氏により、日蓮宗に改宗。
寛永17年から正保3年の間に堂宇を再建、寺号を正保山幸福寺に改称する。
寛文6年(1666)池田光政不受不施の廃滅を命じ、寺を取壊すも、翌7年3月に庄屋坂野惣兵衛・仁兵衛により再建がなる。
◇備前二軒茶屋祖師堂・・・・・未見 津高郡栢谷(かいだに)村二軒茶屋にある。(緯度・経度:34.720877, 133.909001)
栢谷村:笹ヶ瀬川沿いに津山往来が通り、二軒茶屋には茶屋があった。 日蓮宗古屋山安立寺(津島妙善寺末)と同寺末受圓坊は寛文6年廃寺となる。受圓坊本尊釈迦如来は幸福寺へ預けられる。 ○「歴史の道調査報告書 津山往来」岡山県教育委員会、1992 より
道は再び、山裾に沿って北にのび、二軒茶屋の集落に入る。200mほど進むと道端右側に祖師堂が建つが、年代・由来については不明である。
2020/01/03追加: ○GoogleMap より
二軒茶屋祖師堂1 二軒茶屋祖師堂2
○ページ「津山往来2・御野幼稚園(倉敷往来分岐)から辛香峠まで」 より
看板なども見当たらず詳細は不明であるが、お堂の背後に3基の題目碑と1基の地水神がある。日蓮宗関係のお堂であろう。真ん中の題目碑には昭和六年の銘があった。
二軒茶屋祖師堂題目石等
◇岡山市北区日講寺
岡山市北区横井上1811−2に不受不施講門派の日講寺がある。(詳細不明)
◇備前中山道林寺
2018/10/10追加: ○平凡社「日本歴史地名大系 34 岡山県の地名」 より 臥竜山と号する。もと京都妙覚寺末。
開基は松田左近将監元方、開山は大覚大僧正。
金川の金川城内道林寺丸にあったが、永禄11年(1568)金川城落城が落城し、大檀越の松田氏が滅亡した後、現在地に再興される。往時は末寺38ヶ寺を有するも、寛文年中(1661-73)備前岡山藩池田光政の寺院淘汰によって末寺は全て廃寺とある。
元禄11年(1698)には城下蓮昌寺末となる。
なお、本堂の脇檀に妙見大菩薩を祀る。この妙見は元大坪村の金山山頂に祀られていたが、宝暦元年(1751)盗難に遭い、城下丸亀町の道具屋に売られていたのを、当寺に戻したもので、以降当寺の鎮守として祀られるという。
妙見大菩薩は金山山頂の金山寺村境に妙見社があり、大坪村講持ちであったが、妙見大菩薩像を盗まれ、、社殿が破損したため、寛政5年(1793)廃社とする。跡地には妙見社旧跡、津高・御野両郡境の石柱を建てている。
また、松田元方の墳墓と伝える宝篋印塔がある。 現存する仁王門は天明8年(1788)の再建(棟札)。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
応永元年(1394)の創立、開山大覚大僧正、開基檀越備前玉松城主松田左近将監元喬、生師法縁、京都妙覚寺末。
備前松田氏5代目元方が遁世し、玉松城三の丸に仏殿を建立、感応2年に大覺大僧正を請じて開堂供養を行い、本方の法号に因んで恭愍院道林寺と公称する。
永禄11年宇喜多氏により落城、天正年中に現在地に移転再建、寛文6年頃焼討に遭う。
もとは備前四個の本寺と称せられ、寺中・末寺38ヶ寺もあったが、寛文の焼討の時に之を廃する。この頃京都本山妙覚寺末となる。
大観には開基は松田元方、天正17年に松田家没落と共に寺もまた兵火に罹る。同年現在地に移転再興する。
2018/10/30追加: ○「大覚大僧正と三備開基寺院」 より
松田13世元賢、永禄11年(1568)宇喜多氏の為に落城す。
爾来天正年中(1573-1592)松田家の家臣大村出雲の長男甚左衛門、松田家13代祖先供養のため、中山の地に移し奉る。
往古備前4箇の本山と称せられ第二の寺なり。後寛文5年、京都本山妙覚寺に属しその末寺となる。
又寛文年中に寺中院々末寺38ヶ寺悉く廃す。 主たる末寺は次の如し。 寺中林乗坊、寺中大林坊
吉尾村法道寺、同学乗坊、中野村東光坊、中牧村宗林寺、同東光院、法住坊、十谷村妙行寺、同清立坊、同圓乗坊、
大坪村山名寺、同壽圓坊、下牧村長福寺、同大圓寺、湯須村常住坊、大月村本行寺、面室村妙雲寺、牟佐村眞藏坊
2019/02/27追加 ○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より
金川の城郭の中に道林寺・妙國寺の2大本山が建てられていたが、金川落城後に道林寺は中山に移される。
元禄11年(1698)には蓮昌寺支配となり、創建や移転についても諸説がある。
寛文6年の光政による法難では38ヶ寺の末寺が全て廃寺となる。
さて、次は最近調査された道林寺関係の曼荼羅本尊である。
日扇:天文廿一壬子(1552)・・・、・・・備前國金川道林寺住侶大弐公・・・・
日現:天文廿一壬子(1552)・・・、備前國金川道林寺住侶大弐公・・・・
日典:天正十一年(1583)、道林寺住僧声明院日玄人
日典:天正十五年(1587)・・・、備州中山道林寺住僧林乗房日徳授典
日船:寛永11甲戌(1634)・・・、中山道林寺勧持院日漸授典
日扇の曼荼羅について「天文の頃、道林寺の尚金川に在りしを知らば・・・」(備前日蓮宗沿革史)とある。上記の曼荼羅で天正10年頃には道林寺は中山に移されていることが分かる。
◇備前日應寺
○「岡山・備前地域の寺」、「岡山の神社仏閣」 「岡山の門」 より
養老2年(718)報恩大師の建立と伝え、応永山法華経寺と号し、三論宗であったと伝える。
また備前津高郡波河村(芳賀顕本寺)に生まれたとされる報恩が入寺したと伝える。
後に報恩が備前48ヶ寺を建立した時、その根本道場となし、勅命山日應寺と改号するという。
なお、山号の「勅命山」を含め、寺内と付近には、「勅使堂」、「勅使道」、「王御膳所」の旧跡などを残す。これは報恩大師が桓武天皇の病気平癒を祈祷し、平癒の霊験が見え、勅使が来たりてこれを謝したという言い伝えによるものである。
要するに中世以前に創建された寺院であることを示すのであろう。
永禄2年(1559)金川城主松田将監元賢によって天台宗から日蓮宗に強制改宗させられ、備前法華の一翼となる。
この時、吉祥山と山号を改号する。
明治31年勅命山と復号する。 ○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」平凡社、昭和63年 より
江戸初頭は金川妙國寺末、寛文6年(1666)池田光政の不受不施弾圧によって、寺中恵性院、新藏坊、泉林坊が廃寺となる。
番神堂に安置する木造毘沙門天立像・木造不動明王立像(いずれも重文)は大和子島寺の旧佛と伝えられる。 2019/03/10追加:
※金川妙國寺末であった日應寺は、寛文6年の法難では廃寺とならず、寺中恵性院、新藏坊、泉林坊のみが廃寺となる。
本寺である日應寺が廃寺を免れた理由は不明であるが、おそらく、いち早く受派に転じたのであろうと推測される。
※受派に転じてからの日應寺は上伊福妙林寺・浦伊部妙國寺などとともに、江戸期は内信への讒訴を繰り返し、
多くの不受不施派法難の端緒を作る。 また、明治維新後の信教の自由が認められた後も、不受不施派再興運動の弾圧・妨害を繰り返すという
今は過去のことであるが、寺歴を持つ。
→ 備前法華の系譜を参照。
◎日應寺現況
現在は、仁王門・鐘楼門・本堂・番神堂・客殿・太鼓堂・庫裡・位牌堂・堂名不詳の新築堂・収蔵庫などがある。
◇印は2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2008/02/12撮影・ご提供画像、無印は2015/08/23撮影
◇備前日應寺遠望
○仁王門:三間一戸の八脚門、正面7.1m、側面4.1m、本堂よりやや早い18世紀末頃の建立であろう。(「岡山の門」)
平成9年解体修理という。
◇備前日應寺仁王門
日應寺仁王門11 日應寺仁王門12 日應寺仁王門13 日應寺仁王門14
日應寺仁王門15 日應寺仁王門16 日應寺仁王門17 日應寺仁王門18
日應寺仁王門19 日應寺仁王門20
○鐘楼門:建築年代を含め詳細不明
◇日應寺鐘楼門前
日應寺鐘楼門2 日應寺鐘楼門3
○本堂:5間×4間、入母屋造・屋根茅葺(現在は銅板葺)。はっきりした建築年代は不明(江戸後期の建築)。
◇備前日應寺本堂
日應寺本堂11 日應寺本堂12 日應寺本堂13 日應寺本堂14 日應寺本堂15
日應寺本堂16 日應寺本堂17 日應寺本堂18 日應寺本堂19 日應寺本堂20
日應寺本堂21 日應寺本堂22 日應寺本堂23
本堂は天保年中の建立ともいい、天井絵は屋内外に約400枚があるという。 2022/09/19追加; 天井画は横山春篤筆という。
横山春篤は→備中国分寺五重塔初重天井画を描く。(2022/05/05撮影写真中>横山春篤筆天井画)
日應寺手水舎
○収蔵庫:以前は番神堂に安置していた毘沙門天立像、不動明王立像(鎌倉期、重文)を蔵す。
日應寺収蔵庫
○客殿・庫裡
日應寺客殿/庫裡1 日應寺客殿/庫裡2
日應寺客殿(推定)
日應寺庫裡(推定)1 日應寺庫裡(推定)2 日應寺太鼓堂
○番神堂
:桃山期もしくは江戸初期の建立か、3間×3間、入母屋造、向拝を付設し前1間は吹き放し、但し当初から番神堂であったかどうかは不明という。昭和57年解体修理する。
日應寺位牌堂:推定
日應寺新築堂宇:本堂横手の堂宇は新築であり、堂宇名は不明、本堂背後は推定位牌堂
日應寺稲荷明神
日應寺勅使堂:勅使が滞在したという旧跡といい、今堂を建て勅使明王として祭祀する。
日應寺歴代墓碑
なお、永和3年(1377)年紀の梵鐘を有するという(未見)。この梵鐘は児島湾から引き揚げられ、妹尾盛隆寺にあり、日応寺に移したものという。
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