不 受 不 施 白 川 門 流 日 題 派

不受不施白川門流日題派

不受不施白川門流日題派概要

○「不受不施派史料目録 2(岡山県緊急古文書調査報告書)」岡山県教育委員会、昭和51年 より
◆解説
 日題派:最も古い分派で、寛文法難で京都白川心性寺を出寺した僧日題を派祖とする。
身池対論(寛永7年(1630))の際、小湊誕生寺を出寺した可観院日延が京都小川受不施本法寺末寺である博多法性寺に寄住し、住持の謗法供養を受けるという事件が生ずる。
 →可観院日延は博多香正寺中にあり。
この事件に対して、日題らは、たとえ個人的には不受不施を支持しても受不施の組織下にある僧は謗法であり、その謗法の僧から布教供養を受けるのは謗法であると主張する。一方主流は惣滅の折、過去に遡って罪を追求すべきでないと主張する。
そのため、日題らは主流から袂を分かつ。
日題派は日奥の俗甥日慈を迎え、日奥の聖教多く結集し、先斗町・木屋町周辺に庵室を置いていたという。
享保頃までは上方国筋に多くの信徒を持っていたが、享保の法難以後、木屋町派の分裂があり、衰退し、天保の法難で壊滅する。
 ※日題:白川心性寺歴、蓮華院・信順と号する。寛文5、6年頃27歳であったという。

○「妙本寺意外之誌」宮原日鷲、本山妙本寺、平成12年 より →伯耆河岡妙本寺
◆当山教義不受不施の作法
◎不受不施日題派
昭和58年1月14日毎日新聞が特報「ひそかに三百年、幻の信徒、日蓮宗の一派 日題派」を報じる。
 <岡山県史編纂室中務克己主幹の調査による。>
日題派は寛文11年(1671)教義を巡って不受不施派本流と対立、日題上人(寛永10年/1633〜正徳4年/1714)が率いて分裂する。
分裂後は表にでることなく、備前・備中・備後を中心に信仰活動を続け、最後の上人・日養が天保9年(1838)に捕らえられて牢死してからは、各グループの長老が導師役を務め、「しきたり」を守り続けてきた。
今回存在が分かったのは大窪地区(岡山市北区、備前に属するも備中との境界付近である、備前西辛川の北に位置する。)の9世帯約40人。
9世帯に11枚の曼荼羅が残されていて、文禄3年(1594)から天保7年(1836)のものである。この曼荼羅を本尊にして月1回の「月並み」、年3回の「お日待ち」と呼ぶ法要を各家庭持ち回りで行い、みんなで法華経と題目を唱える。
また不受不施の教義を守るため、信徒の葬儀に他の僧侶は招かず、墓石にも戒名を刻まず、本名だけを刻む。
大窪地区の人が他地区に転出した場合、女性は嫁ぎ先の宗教に従い、男性は死ねば遺体を大窪に持ち帰り実家で日題派の儀式にのっとり葬儀を行うしきたりが今も続いている。

2019/02/09追加:
○「岡山県史 第8巻 近世3」1987 より
 白川日題派:
内信不受不施派の最初の分派で、派祖は京都心性寺第2世蓮華院日題である。
この派は京都を中心とし、京都に庵室を持ち、中国筋の信者を統括してきたようである。
天保法難の時の庵室は京都大仏境内新北斗町丁子屋安五郎方が庵室であった。
天保法難で組織は壊滅し、本拠地は現在の苫田郡鏡野町瀬戸に移される。
同所には京都から移した先師の墓地もある。
 現在、同信は「ご宝前」と呼ばれる瀬戸の金田家を中心に、苫田・御津・都窪・浅口・倉敷・総社の各地域の約100軒ほどが分布する。
「ご宝前」の金田家の当主は、年1回「御経」を奉供して信者宅を巡回し、信者一人一人にお経を頂戴させ、信仰の結束をはかった。しかし信者相互の繋がりはなく、信者には金田家当主の巡回順は知らされていないという。
 この派の特質として、内信信仰は極めて固く、戒律も厳重であった。
彼らは神社仏閣への参詣は一切しない。家には神棚もお札もない。戦前までは、肉食も禁じられていた。神社へ行ったのも、肉を食べたのも軍隊に入って初めて経験したと地元の60〜70台の人が語ってくれた。
天保法難で僧侶を失ってからは、厳重な在家主義で葬儀も同信のものと親族のみで行い、死者への戒名は用いず俗名を以って供養する。
 ※2020/04/03:
 苫田・御津・都窪・浅口・倉敷・総社の各地域とあるが、本ページを要約すれば、
 苫田は苫田郡鏡野町瀬戸、 御津(御野郡+津高郡)は津高郡大窪、
 都窪(都宇郡+窪屋郡)は都宇郡加茂、備中三因日題供養塔のある三因(清音)も都窪である、
 浅口・倉敷・総社については、現在不明。
2019/02/21追加:
○「岡山県史 第10巻 近代1」1986 より
 白川日題派は、京都白川心性寺が不受不施派禁制により廃寺となって以来、関西各地や中国筋で内信を続けていたが、天保法難で捕縛された孝善院日養ら僧侶全員が牢死し、僧侶のいない信徒だけの教団となる。
  ※2020/04/03:孝善院日養聖人は日題派八世で、日題派最後の聖人である。
 備前備中からは日題派の僧侶が多数輩出していて、かなり多くの信徒がいた。明治になり京都の信徒が減少したので、庵室に残された大量の什宝は京都に於ける世話人であった山崎芳兵衛・茂兵衛兄弟が岡山に移す。以来、この派は岡山県内の信徒だけで各地に孤立しながらも、内信を続けている。

2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
日題派日慎
隠岐島前碕に配流される。中良家(屋号)に預けられ、中良家の娘と恋に落ち、入水する。中良家には墓と遺品が残る。
(墓と遺品の写真の掲載あり。)
〇サイト:「隠岐海士町 歴史」>日慎上人 より(全文転載)
 徳川幕府の弾圧に屈せず、流された不受不施僧。渡辺家の娘と恋仲になったが勘当され、崎の海岸で心中したという俗説もあります。
墓は崎の中良家に、碑は延享元年(1744)に弟子が来島し建立、渡辺家の墓地の一隅にあります。当時総て朱塗られていた碑の文字は今も美しく、微かに残る朱塗りが歳月を偲ばせます。
 ※以上の他の情報はなく、従って詳細は不明。
 ※2020/04/03:加茂政所日題派供養塔の刻銘によれば、惣持院日慎聖人は白川門流三世(白川心性寺3世)である。

備中加茂政所不受不施白川門流日題派供養塔
 ※備中加茂は現岡山市北区、供養塔の建立されている場所は小字政所かどうかは不明であるが、いずれにしろ政所の近隣である。
 緯度・経度:34.677086, 133.828314 に所在。
○2007/06/23付「山陽新聞」記事
 江戸時代前期に不受不施派の主流から分派した日題派は天保9年(1838)の大弾圧で寺も僧も絶え、信徒のみで信仰を守ってきた。
明治になり信仰の自由が保証されても、信徒らは信仰を積極的には口外せず、近年まで存在自体が知られていなかった。現在でも僧がいないため、葬儀や法要は信徒の代表の「導師」が執り行い、戒名もない。
 信徒の殆どは岡山県県内在住で、判明しているのは約100世帯という。その内の約25世帯が集まる加茂(談所?政所?)には江戸期の曼荼羅・僧の日記・僧と信徒との書簡などが残る。これらは昨秋県立資料館に寄託される。
これを機に、先祖を供養し歴史を後世に伝えるため、加茂に供養塔を建立する。供養塔は平成19年(2007)年除幕が行われる。
◎日題派供養塔:
 正面は題目と日蓮大菩薩、日朗菩薩、日像菩薩と刻む。南側面には「不受不施白川門流日題派由緒」と題し、由緒を刻む。北側面と背面は不明。供養塔側面には墓誌が建てられる。
 ※備中加茂村は近世、大部が旗本備中高松花房領であった。
 ※備中加茂には蓮休寺がある。しかも蓮休寺は物集女石塔寺末である。
 ※備中加茂の西は津寺である。津寺には宗蓮寺があり、この寺院も物集女石塔寺末である。津寺の更に西南は日指である。
2018/09/30追加:
白川門流供養塔の位置(GoogleMap)及び写真(GoogleStreetView)を掲載する。
 白川門流加茂供養塔位置:中央付近が供養塔設置位置     白川門流加茂供養塔1     白川門流加茂供養塔2
2020/04/03撮影:
白川門流日題派供養塔には次のように刻む。
(正面)
 題目/日蓮大菩薩/日朗菩薩/日像菩薩
(左面)
 代々御先師
  開基心性院日悟大徳 二世蓮華院日題聖人 三世惣持院日慎聖人
  四世覺樹院日源大徳 五世成就院日勇大徳 六世義精院日鏡大徳
  七世白慶院日幸大徳 八世孝善院日養聖人 代々御先師先徳報恩謝徳
(右面)
 日蓮宗不受不施白川門流日題派由緒
  当門流は日蓮大菩薩御入滅の地武州池上本門寺第十一世仏寿院日現聖人の御弟子先の蓮華院日題聖人は武州忍に蓮華寺を開く。
  心性院日悟大徳は帝都布教の拠点として白川心性寺を建立す。
  以後代々の御先師先徳よく祖師日蓮大菩薩の金言不受不施の宗規を厳守し妙覚寺日奥門流と共に日題聖人は内信布教を展開す。
  天保九年の大法難により中京の拠点は壊滅し御本尊経典類は山崎茂兵衛により備中妹尾村啓運講中瀬川林平らに伝えられ
  後に加茂政所講中が護持するに至る。
(裏面)
 日蓮宗不受不施白川門流日題派 政所講中
  導師  中山實
  岩佐 敦 (他23名)
   平成十九年六月吉日建立
 政所日題派供養塔1     政所日題派供養塔2     日題派供養塔左面1     日題派供養塔左面2
 日題派供養塔右面1     日題派供養塔右面2     日題派供養塔背面
 日題派供養塔墓碑:墓誌(大意は次のとおり。
平成18年政所講中所蔵のお宝を岡山県立記録資料館に寄託し維持管理を依頼する。これは不受不施派中務日量の指導による。
その後の調査により孝善院日養の弟子21名余の遺歯等を発見する。
そもそも江戸期不受不施派は禁制とされ、苛酷な弾圧を受けるが、その中で法灯を堅固し継承した代々の先師先徳の供養のために石塔を建立し、講中が護持していた先師の遺歯仏像七体及び日養の弟子21名余の遺歯を奉安するものである。

蓮華院日題200遠忌報恩供養塔:備中三因法華経題目石塔
2018/11/07追加:2022/09/28追加;
○「清音村誌」昭和54年 より
  (横):一天四海皆帰妙法
 正面 :南無妙法蓮華経 蓮華院日題聖人
  (横):第二百報恩忌供養塔
     :大正2年8月24日
上天神にある。
不受不施日題派祖日題の200回忌に盛大に祭をして供養塔を建立したものである。
とあるが、
銘文は
   左横:第二百報恩忌供養塔
  正面 :南無妙法蓮華経 蓮華院日題聖人
   右横:大正2年8月24日
である。(※「一天四海皆帰妙法」の銘はなし。)
2022/05/05撮影:
聞取りは一切しておらず、従って、この付近に日題派信徒がいるのかどうかなどは不明。
 蓮華院日題報恩塔11    蓮華院日題報恩塔12    蓮華院日題報恩塔13    蓮華院日題報恩塔14
 蓮華院日題報恩塔15    蓮華院日題報恩塔16    蓮華院日題報恩塔17    蓮華院日題報恩塔18
 蓮華院日題報恩塔19
 平成3年にはおそらく信徒であろう、石灯篭が寄進されている。
 寄進石燈籠1     寄進石灯篭2
 報恩塔境内地神     報恩塔境内石碑:奉修呪(以下の4、5文字判読できず)と刻むも不明、年紀は昭和18年と思われる。


2017/08/07作成:2022/09/29更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系