相模衣笠大明寺

江戸初頭の衣笠大明寺不受不施の概要

衣笠大明寺の「縁起」をWebで参照(サイト:「日蓮宗大明寺」)、この中に江戸初期の大明寺における不受不施派の動向に言及した部分がある。
不受不施派に関する動向は殆ど触れられることがなく、この意味では稀有なケースであり、ここに敢えて「転載」させていただくこととする。
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 この時代(江戸初期)大妙寺の教線は広く半島内に伸展し、日蓮宗発展の基盤が形成され、併せて同じ日朗門流の別派の弘通もあり17ヶ寺もの法華寺院の建立がみられている。
 江戸期に入ると徳川幕府は「寺院法度」を布下し、本末制度が規定された。
寛永10年(1633)に京都本国寺から幕府に提出された『本国寺末寺帳』に「寺領十六石 相模国三浦大妙寺」とあり、大妙寺は京都本国寺の末寺であることがわかる。
この大妙寺の記載部分に、「干今汲日樹余流不従本寺之下知也」とあり、大妙寺に不受不施派の池上本門寺主日樹の余流がいて、本寺(本国寺)の下知に従わないと余記している。

 このころ大妙寺は関東における不受不施派の一拠点で、17世日航18世日慈など三浦派といわれ活躍する。
ことに日慈は京都妙覚寺の佛性院日奥上人の弟子であった。このため本山本国寺の下知に従わず強硬な不受不施義を堅持したことから寛文元年(1661)8月老中より本寺に違背する末寺の御仕置が達せられ、大妙寺も幕府の厳しい弾圧に遭遇したであろうことは想像に難くない。

 これに関連して『太田家記』に「三浦大妙寺古跡之所二、先年不受不施御制禁之節より此寺無住に罷成、本国寺支配に成候、依之道顕様其頃之浜松宗林寺住持日成を大妙寺住職に被遣(後略)」と記されて、この間の大妙寺の事情が明らかになる。道顕とは太田道潅六代の嫡孫で、当時浜松城主であった太田資宗の法号である。「此寺無住に罷成」とあるのは、幕府の徹底した一連の禁圧政策のなかで、大妙寺の不受不施派の人々が配流等の処罰を課せられ、寺を追放されたことを物語る。

 寛文の法難に対処した大妙寺の歴住等で、のちに除歴などで歴代譜に見えない僧侶がいる。
即ち、15世日宥、16世日然、17世日航、18世日慈および日淳などである。
このうち日航、日慈は学僧としても聞えていた。

●17世日航上人:
2018/09/09追加:
日航上人についての若干の事績が判明したので、記載する。
 ※日航は備前金川妙國寺10世、慶安元年(1648)妙國寺を修理、その後相模大明寺へ移り、寛文3年(1663)遷化
 という事績が知れる。
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年>第2章 岡山市域に於ける仏教>五、備前法華の本山妙國寺 の項 より
 備前の日蓮宗各寺院の支配は松田氏時代から金川妙国寺がこれに当たっていた。
永禄11年(1568)金川城落城、松田氏滅亡しても、妙国寺の備前法華における地位は変わらず、寛文の不受不施禁制まで存続し、幕府の取締に対しては、不受不施擁護の中心勢力となって、翼下にある50餘ヶ寺を督励した。
 妙国寺は松田氏時代には旧小学校のところにあったが、金川城落城ののち見谷に再建される。本堂の建立は慶長の頃と考えられ、元和5年(1619)には日奧の巡錫があった。(「金川町史」)松田氏滅亡ののち、大檀那になったのが地元の豪族江田氏である。
 妙国寺は慶安元年(1648)10世日航によって修理が行われる。日航はその後金川を去って相模の大明寺に移り、寛文3年(1663)同寺に没したが、金川を去る時、日精(妙国寺開山)の曼荼羅、寺印、その他多くの古記録を大檀那江田重右衛門に託して退寺する。間もなく妙国寺は廃絶し、日航寄託の文書などはそのまま江田家に保存されて明治に至る。江田家は金川の豪商で村方役人を勤めるが、妙国寺の遺品・文書は極秘裏に保存される。明治9年金川に妙覚寺が再興されると、妙国寺の遺品・文書は同寺に納められ、不受不施派の貴重な史料となる。
 → 備前金川妙国寺を参照。
2018/09/22追加:
○「金川町史」板津謙六、昭和32年(1957) より
◇菅正八幡宮(備前津高郡菅村:岡山市北区御津高津521)に天正14年と寛永18年の棟札2枚がある。
天正14年の棟札には中央に題目が書かれている。
寛永16年にも中央に題目が書かれる。妙國寺第十祖日航の筆である。
  形式は次のようである。
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        御遷宮寛永十八巳五月七日
      十方仏土中唯有一乗法        住吉山妙安寺日清 神主
                                  惣左衛門
   南無妙法蓮華経      王舎城管八幡宮殿開眼師        日  航(花押)
                                     第十祖
      我此土安穏天人常充満        大工 対馬守    楢村久左衛門
                             同  庄三郎     三箇村氏子
        聖王天中天      迦陵頻伽聲
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 ※現在、岡山市指定文化財(正八幡宮本殿 付棟札2枚)となる。
 ※法華宗一色であった備前津高郡などでは、日蓮宗が神社にも強い影響力を持っていたことの一例である。
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2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
佐倉の昌相寺(昌柏寺が正)には華光院日航(備前金川妙国寺10世)がいた。
 ※時期は不明であるが、寂年が寛文3年であるので、それ以前であるが、大明寺との関係は不明である。

衣笠大明寺縁起


 大明寺はもと京都本圀寺派(六条門流)に属する中本寺として、三浦半島を中心に33か寺の末寺を擁し広大な伽藍を誇っていた。
   →六条門流本圀寺
 その創始は宗祖日蓮の檀越石渡左衛門による草庵建立といわれ、これを米ヶ浜道場、または三浦法華堂と云い、日蓮を開山とする。
明徳年中(1390〜94)、第六世大妙房日栄(左衛門の子息平三郎則次の子)は現在地に移転させ、寺号を大妙寺(大明寺は当初大妙寺と称す)としたと伝え、日栄を中興開山とする。
 また別伝では、相州三浦の石渡平三郎は甚だ富裕の人で夫妻して鎌倉本国寺(松葉谷法華堂)の妙龍院日静に篤く帰依この法縁により自家を寺とし一子をその弟子とする。すなわち大妙房日栄である。
のち日栄は伽藍を整え金谷山大妙寺と称し、自らを開山としたという。『日蓮宗年表』によれば、これを応永6年(1399)のこととする。
 ※石渡平三郎則次は俗に「法華の平三郎」と呼ばれた「無二の信夫」で応安2年(1369)に京都本国寺で執行された日静の本葬式に天蓋を捧持して参列している。つまりは当時本国寺派を支える有力檀那であり、すでにこの頃家を寺にしていたことも推察される。

 大妙寺は平三郎が家を寺(三浦法華堂か)としたものを、14世紀末頃に伽藍を整え本格寺院として開基し、その実質開山は大妙房日栄であったことがうかがえる。日栄はこの地方の有力者で開基でもあった石渡氏の出自であり、大妙寺は石渡氏の氏寺的性格が強かったものと思われる。

 この時期、大妙寺の記録は乏しいが、江戸太田氏との法縁が伝えられる。
すなわち太田道潅の子資康が三浦道寸に与同して永正10年(1513)9月三浦において討死大妙寺に葬られた<という。([寛永諸家譜][太田家記])
だが資康の歿年には諸説があり,すでに永正7年に嫡子資高が太田大和守を名乗ることなどから資康の三浦での討死を否定する説がある。
 この場合でも資高が江戸平川に父資康の13回忌供養のためその前年の大永4年(1524)に、本所法恩寺(本住坊)を建立したということ。その際、三浦大妙寺の住持日瑞(天正4年寂)を招き、開山としたということなどが記録されている。

 これに関して太田氏の法華信仰をみるに、すでに文明10年(1478)に太田道潅は京都・本国寺に番神堂を建立13世日遵は道潅の季子であるといわれその兄資高は永正11年(1514)に輪蔵を造立するなど、道潅の頃から本国寺と外護檀那の契りを結んでいたことがわかる。このため関東における本国寺派の有力寺院であった大妙寺との法縁関係も、資康、資高時代には結ばれていたことが想定されるのである。

 『新編相模国風土記稿』にある元和元年(1615)の大妙寺番神宮再建の棟札裏に追記された三十番神像造立に関する銘文に、「(前略)此山願主太田氏某、永正年中、奉再興之、願主太田伴好斎、子息権大僧都日導開眼(後略)」とあり、太田氏の檀那としての作善の様子がうかがえる。文意がやや不明であるが、銘文中の太田氏某は資康であろう。伴好斎はその子資高、日導は日遵の誤記と思われ、前述の太田道潅の三子で本国寺 13世のことであろう。

 江戸初期には、既に「江戸初頭の衣笠大明寺不受不施の概要」で転載したように
大妙寺は六条門流京都本国寺末寺であったこと、
しかし関東における不受不施の一拠点でもあり本寺である本国寺の下知に従わないこともあったこと、
その中心は17世日航や18世日慈(京都妙覚寺佛性院日奥上人の弟子)であったこと、
そのため寛文元年(1661)本寺に背反する末寺の処分即ち僧侶の追放(配流)などの処分を受けたと推測されること、
その結果ついには無住となること<『太田家記』に「三浦大妙寺古跡之所二、先年不受不施御制禁之節より此寺無住に罷成、本国寺支配に成候、依之道顕様其頃之浜松宗林寺住持日成を大妙寺住職に被遣(後略)」>
などが知られる。

 寛文の法難を受け、太田資宗の斡施で浜松宗林寺日成が、大妙寺に入寺する。
  ※宗林寺は資宗が父重政の菩提のため建立する。なお、大妙寺歴譜によれば、日成は第二十世という(『日蓮宗寺院大鑑』)。寛文5年(1665)8月、二十一世日迢は身延山に「受不の誓状」を提出し(身延山文書)幕府から改めて朱印状を受ける。
「大妙寺」が「大明寺」と改称されたのは、この頃のことと推定される。

 天明6年(1786)の [法華宗本圀寺派下寺院帳]が幕府に提出される。
これによれば大明寺は「御朱印十六石 末寺33ヶ寺 塔頭二軒 金谷山大明寺」と記され、大明寺末寺として大塚山妙蔵寺以下33ヶ寺が並記される。この頃になると本末制度も本格的な定着をみせ、大明寺も六条門流の中本寺としての寺格と伽藍規模を備えた寺院として発展を遂げる。
  衣笠大明寺の三浦郡末寺については「K.G氏調査作成「三浦郡日蓮宗寺院一覧(Excel)」2012/11/06版」がある。
   →相模三浦郡の日蓮宗寺院一覧
    なお、末寺のうち、大塚山妙蔵寺、平作山大光寺、松郷山妙覚寺、宝泉山常勝寺、大明山本圓寺を「大明寺評定五ヶ寺」
    と称する。

 明治の変革を経た後の明治19年(1886) 1月不慮の大火に遭い仁王門を除く広大な伽藍(16棟)が悉く灰燼に帰す。

   ※市史研究 横須賀 第3号より抜粋


2012/11/07作成:2018/09/19更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系