不 受 不 施 ・ 久 米 右 衛 門 派

不受不施・久米右衛門派

不受不施・久米右衛門派概要

2019/02/09追加:
○「岡山県史 第8巻 近世3」1987 より
 久米右衛門派:
 現在の赤磐郡瀬戸町鍛冶屋(現在は岡山市東区瀬戸町鍛冶屋)を中心とする30軒あまりの内信グループである。
戦前までは御津・赤磐・都窪・岡山の各地区に百数十軒の同信のものがいたという。
そもそも久米右衛門派の発生は、天保法難の時逮捕を免れた大坂高津の講門派の根拠地・衆妙庵の小僧久米右衛門が、宝物を持って命からがらこの内信部落に辿り着き、法脈を伝えたことによる。
 鍛冶屋には拠点である「ご庵」がある
「ご庵」には日蓮真筆を始めとする本尊類、その他多数の古文書が秘蔵されている。
「ご庵」は部落のほぼ中央にある、道路からは農家の納屋の立たずまいに見える、「ご庵」の出入りも信者宅の庭を通るようになっているという。
 公葬など社会儀礼上やむを得ず必要な時は僧侶を頼んで葬儀を行うことはある。しかし、この場合、葬儀が終われば、不浄僧から与えられた位牌や卒塔婆は一切取り払い、改めて同信の者だけで葬儀をやり直すという。
 2019/02/10追加:
  久米右衛門派のご庵
2019/02/21追加:
○「岡山県史 第10巻 近代1」1986 より
 天保8年(1837)不導師派は天保法難で壊滅的打撃を受ける。中心拠点であった大坂高津衆妙庵は根こそぎ検挙され消滅する。
不導師派は明治になってから、釈日心が中心となり、不受不施講門派として公許されるが、講門派とは別に衆妙庵の什物を、同庵の小僧粂右衛門が備前にまで持ち帰り、彼を中心に密かに内信を続ける。所謂、粂右衛門派である。
この派は明治の不受不施派再興にも、今次大戦後の不受不施派再編にも加わることなく、信徒だけでひたすらに内信を続けて、現代に至る。

2019/02/10追加:
○「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」 より
 ※不受不施派史料の保存状況について次にような一文がある。
◇鍛冶屋庵:
 赤磐郡瀬戸町鍛冶屋(※現、岡山市東区瀬戸町鍛冶屋)
 森末庵の移動したもので、未だ内信を行っている。
天保法難の際、大坂高津衆妙庵から持ち帰った本尊・典籍の大半を所持していたが、日充分立の時典籍を携行したので、今は多量の本尊の他は若干の文章を収蔵しているにすぎない。
 ※以上の一文から、次のようなことが分かる。
 瀬戸町鍛冶屋には鍛冶屋庵がある。そして鍛冶屋庵ではまだ内信が行われている。
 また鍛冶屋庵には大坂高津衆妙庵から本尊・典籍が持ち帰られる。
 一方、「岡山県史 第8巻」では天保法難で大坂高津衆妙庵から本尊・転籍を持ち込んだのは衆妙庵の小僧である久米右衛門であるという。
 ※以上から、「岡山県史 第8巻」でいう鍛冶屋の「ご庵」と上記でいう「鍛冶屋庵」とは同じ庵であるようにも推測できる。
 ※一方、上記でいう「森末庵の移動」というところの「森末庵」及び「日充分立」というところの「日充」とは如何なる僧かということであるが、
 同じ「岡山県緊急古文書調査報告書 不受不施派史料目録(2)」でいう次の一文が参考になる。
◇岡山教会:
 岡山市上伊福(※現、岡山市北区伊福町)
 本覚寺の末寺であるが、一時分立していたことがある。
開基の河内日充はもと森末庵(瀬戸町)の法立で、講門派再興の際、多くの典籍・文書を携えて庵を退去し、日心と合流したもので、妙覚寺に次ぐ資料を収蔵している。
 ※推測するに、森末庵(瀬戸町)は瀬戸町にあった講門派(不導師派・津寺派)の庵で瀬戸町森末にあったのであろう。
 森末にあった故に森末庵と称するのであろう。
 そもそも、瀬戸町鍛冶屋の「ご庵」は講門派(不導師派)の本拠地(衆妙庵)の法脈を伝えるものであり、
 森末庵も講門派の流れを汲むものと考えられる。
 であるならば、森末庵が、森末から鍛冶屋に移動し、鍛冶屋庵と称し、鍛冶屋の「ご庵」の機能を代替していったのではないかとも推測される。
 あるいは、鍛冶屋庵は「ご庵」とは別に内信の拠点となっているのかも知れない。
 ※なお、岡山教会とは不明であるが、講門宗本山本覚寺末寺に妙講山霊源寺(岡山市北区伊福町)<備前上伊福村中>がある。
 岡山教会はおそらくいつしか妙講山霊源寺と寺号を公称したのであろうと推測する。
 2025/01/13追加:
 ◇河内日充については、下に掲載の「報恩大師伝承の浸透と日蓮宗不受不施派の信仰」>「◆岡山市東区瀬戸町における久米右衛門派の信仰」中に、「久米右衛門派が)講門派から分派したのは、明治初年に施主代の河内日允が講門派36世恵蓮院日心と何らかの妥協をしたことに反発した人々が再興された講門派から分離し、久米右衛門派を名乗ったということである。」とある。

2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
 瀬戸町久米右衛門派は昭和51年3月9日まで一派を形成していた。現在は不受不施派である。
妙光寺からでた庵で森末庵・鍛冶屋庵と変遷し現在は恵教庵と呼ばれている。
 ※久米右衛門派は昭和51年3月9日に不受不施派(上記では講門派とは言っていない)に合流したようである。
 ※久米右衛門派の庵は妙光寺が源で、森末庵・鍛冶屋庵と変遷し現在は恵教庵と称する。
 ※妙光寺とは森末村の妙光寺と思われる。
  〇「撮要録」の森末村では
   妙光寺     宗堂村妙泉寺末 住僧還俗勘右衛門 寺株田地山藪共賜同人
   正行寺願城坊 宗堂村妙泉寺末 住僧出寺 跡株御拂
  とある。寛文年中廃寺となる。
  「備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧」の241、242を参照。
   241 磐梨郡 森末村 妙光寺 住僧還俗 9)村の東部に正保山妙光寺があった。(備前記)
   242 磐梨郡 森末村 正行寺 住僧出寺 9)村の西部に正行寺があった。(備前記)

 日浣・日述・日講肖像画:備前恵教庵蔵
  ※おそらく大坂衆妙庵からもたらされた什宝の一つであろう。
--- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---

2025/01/13追加:
○「報恩大師伝承の浸透と日蓮宗不受不施派の信仰」 より
◆岡山市東区瀬戸町における久米右衛門派の信仰
 ◇概 要
 旧赤磐郡瀬戸町(現・岡山市東区瀬戸町)は備前磐梨郡の東部に位置し、その広範囲に日蓮系寺院の檀家が分布する。
寛文6年(1666)池田光政の寺社整理で、町域にあった全ての寺院が廃寺となる。後に天台宗の1ヶ寺が再興されるも、その1ヶ寺を除き全ての寺が日蓮宗であり、これらの日蓮宗寺院は不受不施派であったため廃寺になったと考えられる。
現在でもこの地域には不受不施派や不受不施旧講門派の檀家が存在する。
 現在、慧教庵(瀬戸町)を拠点に信仰を続ける不受不施派益原法泉寺の檀家である三十三番講社の人々は、昭和57年まで不受不施派の一派である久米右衛門派として信仰を行っていた。
 現在の御庵(慧教庵)
慧教庵の名は不受不施派に帰入した際に、法泉寺の住職から授かった名称で、それまでは「御庵(ごあん)」と称していた。
久米右衛門派の御庵は、かつて鍛冶屋から南西に3kmほど離れた岡山市東区瀬戸町森末にあったが、大正15年に鍛冶屋に移されたという。
 久米右衛門派の始まりは「天保法難」の際に講門派の本拠地である大坂東高津衆妙庵が摘発され、小僧久米右衛門が森末の御庵にたどり着き、消えかかった法灯を伝えたことによる。
 その後明治初年の講門派再興の際になんらかの理由で久米右衛門派として分離する。
久米右衛門派は僧侶不在のまま信者のみで信仰が維持されていた。
昭和57年に不受不施派に帰入するまでは、弾圧下と同様に特定の日蓮宗(受不施派)寺院の僧によって葬儀を行った後に、久米右衛門派によって再度葬儀を行い、法号も同派のものに付け直したという。
同派の信仰や儀礼は、弾圧下における内信の様子を現代に伝える貴重な事例である。
 ◇久米右衛門派の概要と歴史
 昭和期の久米右衛門派の信仰は鍛冶屋にある御庵を中心に展開されていた。
鍛冶屋は約120戸からなる農村で、下の条(しもんじょう)・中村・奥の条・山の谷・五反河内の五つに分れ、現地ではこのような村組をヒラ(平)と呼ぶ。
鍛冶屋の家々の檀那寺は、日蓮宗鍛冶屋実教寺、同じく福岡妙興寺、法泉寺であり、このほかに不受不施講門派の檀家も五反河内に4戸が存在する。
久米右衛門派は現在、法泉寺の三十三番講社となっており、同講社は不受不施派に帰入するまでの久米右衛門派の組織をそのまま引き継いでいる。
前述の通り、信仰の中心となるのは鍛冶屋の御庵(現在慧教庵)である。
 かつて久米右衛門派であった三十三番講社の家は、鍛冶屋の下の条に最も多く、同村組30戸中の16戸、同じく鍛冶屋の五反河内に4戸、瀬戸町万富に2戸、鍛冶屋から岡山市中区と瀬戸町瀬戸へ出た家が1軒ずつあり、合計24戸が存在する。
下の条はかつて全戸が久米右衛門派であったが、転宗や、他所からの移入などがあり現在のような状況になる。
久米右衛門派では法泉寺の三十三番講社になる以前から自らのことを講仲間と称していて、主に不受不施派への帰入以前の講仲間を示すものとして「内信の人」という表現も用いる。
また今岡(現岡山市北区今岡)にも4戸ほどの信者がいたが、鍛冶屋周辺の久米右衛門派信者が法泉寺の檀家になったため、日蓮宗日應寺の檀家となる。
 久米右衛門派の御庵は現在鍛冶屋下の条にあるが、かつては瀬戸町森末にあったことは前述の通りで、久米右衛門派の歴史はこの森末にあった御庵から始まる。森末にあった御庵は森末庵または森庵の名でも呼ばれていたという。
 講門派から分派したのは、明治初年に施主代の河内日允が講門派36世恵蓮院日心と何らかの妥協をしたことに反発した人々が再興された講門派から分離し、久米右衛門派を名乗ったということである。
その後大正15年に曼荼羅本尊や古文書とともに御庵を鍛冶屋下の条に移転したと伝える。
 さらに久米右衛門派の人々は昭和50年代までは特定の日蓮宗寺院に葬儀を頼んでいたが、昭和57年には新たに葬儀を行ってくれる寺院を求めて、不受不施派に帰入し益原法泉寺の檀家になる。

 江戸後期に編纂された『撮要録』によると、森末村には日蓮宗である妙光寺と正行寺の二か寺があったが、寛文6年の池田光政の寺社整理で廃寺になり、両寺は不受不施派であったと考えられる。
妙光寺については住僧が還俗し、寺屋敷などはそのまま還俗人に帰属し、正行寺については「住僧出寺」とあり、受不施派への転向や還俗を拒否し行方を眩ましたことが分かる。おそらく出寺僧は頃合いをみてムラに戻り、密かに内信者の指導を行ったものと推定される。
妙光寺は森末にある奥ノ堂池の下に、正行寺は同じく森末の青木池の南側、現在西番神とよばれる番神堂の下辺りにあったとされる。
 ※瀬戸森末略図:マピオン地図:奥ノ堂池下妙光寺、青木池南・番神堂付近正行寺と、仮称森末下池題目塔を示す。
 ※この論文には出てこないが、森末下池には4基の題目塔と思われる石塔と常夜灯がある。(GoogleMap より)
  よって、このページに収録する。
  題目塔:34.74865353243999, 134.05493445650902に位置する。但し、写真が粗く明確に題目塔であるとは断定はできない。
   仮称森末下池題目塔1     仮称森末下池題目塔2
森末村の人々はこれらの寺が廃寺になった後に、新たな寺の檀家になったとみられるが、信仰を継続する内信者が存在し、森末には内信の拠点となる御庵(森末庵・森庵)が開かれる。現地での調査では、「西番神(番神堂)の付近で見張りを立てて集まりをしてた」という伝承を聞くことができた。
明治初期に久米右衛門派として分離する以前は講門派であり、現在も森末にはかつての講門派である不受不施日蓮講門宗の家が複数ある。
森末の御庵の場所については、『瀬戸町誌』によると番神堂(西番神・青木池の南側付近)青木池の南側付近)の下にあった入矢林太家の裏納屋二階が、内信の集会所であったという伝承があり、ここが御庵であったとされるほか、森末の妙光寺跡にあったともいわれる。
 次に、現在御庵がある鍛冶屋の久米右衛門派と不受不施派の歴史についても確認しておきたい。
『撮要録』によると鍛冶屋村には道覚寺があったが、寛文6年の寺社整理で廃寺になり、「住僧出寺」とあることから不受不施派を堅持し寺を去ったことが窺える。
道覚寺が廃寺になった後に、新たな寺の檀家になったはずである。鍛冶屋の久米右衛門派では昭和50年代に至るまで、特定の日蓮宗寺院に頼んで葬儀を行っていたことから、この寺が檀那寺であった可能性が考えられる。また鍛冶屋での調査時には「千種山の薮に僧を匿っていた」という伝承を聞くことができた。
久米右衛門派が講門派から分かれたことは現在では伝えられておらず、御庵が森末から鍛冶屋に移された経緯も聞くことはできなかった。御庵を森末から鍛冶屋に移した理由については、今日の森末には久米右衛門派の家はなく、鍛冶屋下の条には多い。信者の多いムラに信仰の拠点を置くために移転されたものと考えられる。
 ◇森末にある内信者の墓と御庵の位牌
 森末には、導師を務めるなど信者を指導する立場にあった人物のものと考えられる墓地がある。
また御庵には同様の立場にあったとみられる人物の位牌が祀られている。
久米右衛門派には昭和57年に不受不施派に帰入するまで僧侶が不在であり、俗人が導師を務め信仰を維持してきた。
ここでは森末の墓地にある石塔と、御庵にある位牌を調査した。
 墓地は森末にある西番神(番神堂)のやや南にあり、正行寺跡や御庵もこの付近にあったという。
  久米右衛門派墓地:上にある「西番神(番神堂)}は確認できない。
この墓地に特定の呼称はなく、どのような人物の墓であるかも伝えられていない。
現在この墓地には11基の石塔が有り、反時計回りにおおよそ年代順に並んでいる。
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  ■森末にある久米右衛門派の石塔一覧(石塔の銘文を書き起こしたもの)
         正面           左側面             右側面       形  石材
   1.慧□院日壽法師      四月上浣七日       文化三寅□星宿   位牌型 豊島石
   2.妙法 三智院日修大徳  なし              なし          位牌型 砂岩
   3.妙法 □日院日□     不明             不明          位牌型 豊島石
   4.妙法 圓明院日□□位  不明             不明          位牌型 豊島石
   5.不明             不明             不明          位牌型 豊島石
   6.妙法 恵□院日普     十月廿七日         文化十三子天    位牌型 花崗岩
   7.恵実院教是         十月八日 国村忠三郎  明治七期甲戌年   方柱形 花崗岩
                      行年四十二
   8.妙法 新若□修実     行年三十五         不明          位牌型 花崗岩
                      俗名 □□
   9.妙法 恵宝院道位     俗名 徳治      明治十三□□年三月六日 位牌型 花崗岩
  10.妙法 笑顔院静寂信士  国歳吾吉       明治四十一年十一月八日 方柱形 花崗岩
  11.妙法 妙講院法信信士  国定若松       明治四十二年四月十四日 方柱形 花崗岩
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文化年間の石塔が存在することから、この墓地は天保法難で久米右衛門が大坂衆妙庵から逃れてくる以前からの墓地であることがわかる。
1の石塔には「法師」、2の石塔には「大徳」とあり、僧であると考えられる。
また7から11は明治期に建てられたもので正面に法号、側面に没年月日と俗名が刻まれており、俗人のものであることが分かる。
森末の墓地にある石塔は、森末にあったころの御庵に関係するもので、久米右衛門派が講門派から分かれた際にこの墓地を引き継いだものと考える。
今日では森末に住む講門派の人がお参りすることはないという。
 次に御庵に祀られている位牌について分析する。今日御庵には御先師とよばれる位牌が12基祀られている。
その内の一つには正面に「行覚院日朝上人」、背面に「仏滅度後四百十年十月建立元和十七年三月十七日去森末常在山妙光寺開山師」と記されている。これは妙光寺の信者であった人々の子孫が御庵を信仰の拠点としたために同庵に伝えられ、庵と共に大正15年に鍛冶屋に移転されたものと考えられる。
また位牌の中には久米右衛門のものも含まれていて、正面に「妙法慧教院覚位」、背面に「安政四丁巳歳十一月三日俗名粂右ヱ門」とある。
久米右衛門が大坂から森末の御庵に逃れて、ここで生涯を終えたのであろう。一方墓地に石塔は確認できなかった。
 このほかには石塔同様に俗人の位牌も九基が祀られている。位牌と対応する石塔は、表1の7・8・9・10・11である。これらの俗人の位牌は僧侶にかわって導師を務めるなど、信者を指導する立場にあった人物のものであると考えられる。
 鍛冶屋の国定若松氏が導師を務めた後は、今岡(現岡山市北区今岡)の富山財八氏、さらにその後は鍛冶屋の弓本氏が導師を務めていたという。
国定氏については石塔(表1の11)と御庵の位牌がある。御庵にある最も新しい位牌が富山氏のものである。それ以後も導師を務める人がいたものの固定された役割ではなく、年長者の男性が順に務めていたようである。信仰を指導する立場にあった人の位牌を御庵に祀って霊魂供養していたことがわかる。
 ◇久米右衛門派の儀礼と信仰
 ※特記した事象以外は省略する。
葬儀:
 久米右衛門派の人々は、不受不施派に帰入するまで内信を行っていたが、特に葬儀は弾圧下に準ずる形で行われており、近世における内信の様子をよく伝えている。(省略)
題目石:
 鍛冶屋にはムラの中に題目石がある。
  ※鍛冶屋題目石:GoogleMapより:34.76074688598506, 134.06005251707447に位置する。
  一基の題目塔(日像)が鍛冶屋にあるが、上の題目石のことかどうかは不明。上にいう題目石は別に存在するかも知れない。
   鍛冶屋題目塔1     鍛冶屋題目塔2:日像菩薩塔と思われる。
下の条の番神堂:
 番神様とよばれ、ヒラ(村組)の番神堂である。毎月一日にヒラの人があつまりオカンキをする。
令和二年現在は五人ほどが毎回参加しているという。この番神堂は久米右衛門派のものではなくヒラのものであり、宗派に関係なく参加する。
  ※緯度経度:34.76147692325028, 134.05996037243125に番神堂がある。
   但し、上でいう「下の条の番神堂」かどうかは不明であるが、おそらく次の番神堂が該当すると思われる。
   ○GoogleMap より
    鍛冶屋番神堂1     鍛冶屋番神堂2     鍛冶屋番神堂3     番神堂題目石:宗祖大菩薩塔である。
 ◇最後に、
 久米右衛門派の特徴は明治初期に不受不施派や講門派が再興された後も、受不施派寺院の僧によって葬儀を行ったあとに、久米右衛門派の人々により再度葬儀が行われたこと、オカンキの際に声を出さずに題目を念じていたことなど、内信時代同様の信仰を現代に伝えたことにある。


2019/02/09作成:2019/08/19更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系