江戸雑司ヶ谷法明寺

雑司ヶ谷法明寺

◆「江戸名所圖會 巻4」:法明寺/雑司ヶ谷鬼子母神堂

法明寺/雑司ヶ谷鬼子母神堂
 :左図拡大図

威光山法明寺:
子院八宇あり。
釈迦堂、祖師堂(釈迦堂に右に並ぶ)、仁王門

法明寺東側の堂宇は下に掲載の「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」と対比すれば、寺中大行院であろうか。

◆雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図:
本図は「新編若葉の梢」(海老澤了之介著、昭和33年)から転載、但し「新編若葉の梢」に所収の図は金子直徳著「若葉の梢」寛政年中(1789-1801)刊行から「再写」したものと思われる。

雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図
 :左図拡大図

※本図は拙ページ
雑司ヶ谷鼠山感應寺」中の
「櫨楓」に記録される感應寺
の項から転載

上方左側に法明寺伽藍とその寺中(大行院など)、法明寺の南に雑司ヶ谷鬼子母神、鬼子母神の東(右端)に本浄寺、
その南に出現所(雑司ヶ谷鬼子母神出現所)が描かれる。

◆雑司ヶ谷法明寺

○法明寺:威光山と号す。
弘仁元年(810)真言宗威光寺として開創される。
正和元年(1312)中老僧日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と改号する。
  ※日源については岩本実相寺を参照
寛文5年(1665)雑司谷法明寺15世日了流罪となる。
  ※拙ページ「谷中感応寺」中から転載。
 近世初頭から不受不施派と受不施派の対立は深刻であったが、・・・
 受派である身延日奠、池上日豐等は不受側を連訴、幕府は諸寺に対し寺領は国主の供養である旨の手形の提出を命ずる。
  殆どの寺院は手形を提出すも、手形の提出を拒んだ
京都妙満寺日英、(京都)上行寺日応、上総鷲山寺日乾・同日受
 平賀本土寺日述、下総大野法蓮寺日完、上総興津妙覚寺日尭、雑司谷法明寺日了、青山自証寺日庭等は流罪となる。
  
※「寛文の法難と矢田部六人衆」から転載
 
寛文五年(1665年)三月「不受不施派寺請禁止令」を発し、・・・さらに寺領は供養であるとの手形を書くべき旨を 命ずる。
 「書物」を拒否した六上人の処分は次の通りである。
 1、生知院日述(平賀本土寺二十一世)伊予吉田伊達宮内少輔へお預け
 2、義辧院日尭(上総興津妙覚寺歴代)讃岐丸亀京極百助へお預け
 3、智照院日了雑司が谷法明寺十五世)讃岐丸亀京極百助へお預け
 4、明静院日浣(玉造談林五世・津山顕性寺歴代)肥後人吉相良遠江守お預け
 5、長遠院日庭(江戸青山自證寺三世)追院、後の貞享2年(1685)佐渡に流刑さる。
    
→ 日庭上人<備前妙善寺中にあり、江戸自證寺中>
 6、安國院日講(野呂妙興寺能化)は日向砂土原島津飛騨守へお預け
 とそれぞれの流罪地へ追放の処分を受ける。
  この六僧は後(のち)六聖人として尊崇される。

寛文の流罪の後、法明寺も受派に転じたものと思われる。
 ※日蓮の正系(不受不施派)についての概要は「備前法華の系譜」のページを参照。
 ※雑司が谷法明寺十五世智照院日了墓碑は境内墓地に現存する。
 また讃岐丸亀に日堯・日了の墓碑が現存する。(「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」)
 何れも未見、上記図書に写真の掲載がある。

昭和20年戦災で灰燼に帰す。
昭和34年本堂再建、昭和37年客殿庫裡再建、昭和43年鐘楼・山門再建。
そのほか、祖師堂(安国堂)、威光稲荷堂などを有する。
 威光山題目碑     法明寺山門     法妙寺本堂     法妙寺祖師堂     法明寺鐘楼     威光稲荷尊天
●寺中:
現在は真乗院、蓮光院、玄静院、観静院の4坊を有する。
顕妙坊・良泉坊・大行院(鬼子母神別当)は文政・天保の火災で廃寺、遠沾院、信了坊の存在も知られるが、委細は不明。
・真乗院:合掌山と号す。宝永年中(1704-11)以前の創立と云うも、記録焼失、詳細不明。
 真乗院本堂
・観静院:平等山と号す。元禄年中に創建、のち法明寺寺中天神堂を合併、池袋三嶽神社の別当であった。
  (三嶽神社は現池袋御嶽神社と称し、昭和13年国家神社として村社となり現社名に改号する。
 観静院本堂
・玄静院:紫雲山と号す。江戸中期に高松藩海尾沢某がこの地に摩利支天を勧請し、創建される。
 観静院本堂     観静院庫裏     観静院摩利支天堂
・蓮光院:妙高山と号す。宝永元年(1704)の創建とも寛永元年(1624)の創建とも云う。下谷谷中妙伝寺を移転・合併し、明治40年に再興 される。(※妙伝寺については、巣鴨慈眼寺と合併との異説もあると云う)
 蓮光院寺門     蓮光院本堂
●末寺:
長慶山蓮成寺(山形県西村山郡朝日町三中甲)
妙永山本納寺(豊島区雑司が谷)
法光山本覚寺(練馬区旭町/土支田村本覚寺)
松久山妙蓮寺(横浜市旭区善部町)
がある。
 なを、本立寺(江戸末期に離脱・現存)があったという。
○本納寺:雑司ヶ谷鬼子母神の東方にある。
慶安3年(1650)法明寺22世実蔵院日相上人の創建になる。
「江戸名所圖會 巻4」:
妙永山本納寺:法明寺に属せり。
当寺に九老僧の像を安ず。(九老僧は日朗上人の徒弟たり、日印、日像、日輪、日典、日澄、日善、日行、日範、朗慶等なり)
 本納寺題目碑:「九老僧安置」とある。      本納寺本堂
○法明寺仁王門(鼠山感應寺仁王門)
拙ページ「雑司ヶ谷鼠山感應寺」中の「感應寺遺構・遺物・関連情報」 より転載
「新編若葉の梢」海老澤了之介著、新編若葉の梢刊行会、昭和33年(1958) では
安藤対馬守下屋敷:本尊その他は池上本門寺に移され、伽藍の用材は大部分、比企ヶ谷妙本寺の再建に使用されたが、本堂の用材はそのまま畳置かれていたが、明治10年身延山に運ばれ、祖師堂外陣経座の建築に使用された。
仁王門はそのまま雑司ヶ谷法明寺に移されたが、昭和20年戦災で焼失する。云々
 
「かたりべ 豊島区立郷土資料館だより 82号」2006年6月15日発行 より転載
  ◇雑司ヶ谷法明寺仁王門:鼠山感応寺仁王門;昭和10年頃法明寺参拝記念絵葉書(豊島区立郷土資料館蔵か):
 未だ再建に至らず。 
と云う。
 →残念ながら、元鼠山感應寺仁王門は法明寺に移され、昭和20年まで存在したが、昭和20年に戦災で焼失と云う。
 →蓋し、大変貴重な写真と云うべきであろう。
なお
上掲「江戸名所圖會 巻4」:法明寺/雑司ヶ谷鬼子母神堂 では三間一戸の仁王門が描かれる。
しかしこの仁王門は鼠山感應寺から移建された仁王門を描いたものではない。
なぜならば、鼠山感應寺の廃寺は天保12年(1841)であり、仁王門の移建はその翌年と考えられるが、江戸名所圖會の刊行は天保5年(1834)と天保6年であ り、さらに江戸名所圖會の編集はそれ以前の寛政期(1789-1801)であるからである。
 及び
上掲「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」 でも仁王門と思われる門が描かれるが、これも鼠山感應寺から移建された仁王門を描いたものではない。なぜならば、この絵図は寛政年中(1789-1801)には成立していたものであり、これは鼠山感應寺の建立の前のことであるからである。
○「櫨楓」は現在法明寺蔵であるが、法明寺蔵となったのは古いことではないと云う。

雑司ヶ谷鬼子母神

鬼子母神堂は重文、自昌院(満姫)の寄進により寛文4年(1664)に建立。
自昌院は加賀前田利常の三女、広島藩主浅野光晟の正室。

○雑司ヶ谷鬼子母神:「江戸名所圖會 巻4」:
法明寺子院大行院の持なり。(東陽坊が改号し大行院となる、現在は法明寺に合併す)
この本尊は、永禄4年(1561)この地山本氏、田口氏なる者、池水に星の現ずるを見て後、その地を穿ち鍬下に是を得奉りしとなり。依って東陽坊五世日性師に贈る。(東陽坊は今の大行院のことなり。)・・・
寛文4年(1664)自昌院殿英心日妙大姉(前田利常息女、安芸藩主浅野家室)宝殿を造立せらる。・・・
 雑司ヶ谷鬼子母神拝殿1     雑司ヶ谷鬼子母神拝殿2     雑司ヶ谷鬼子母神本殿     雑司ヶ谷鬼子母神石像
  自昌院については「安芸國前寺」中の自昌院満姫を参照。
・大行院:「江戸名所圖會 巻4」:
鬼子母神の別当なり。往古は東陽坊と云う。天正年中、前田利家公の建立。
堂内に六老僧の影像(日像、日照、日朗、日興、日向、日頂)を安置す。或人云ふ、此像は始め谷中感応寺にありしが、彼寺改宗の頃、一躯紛失しければ、残を当寺へ納むとぞ。・・・
 大行院は上掲「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」(法明寺の東)に描かれる。
・雑司ヶ谷鬼子母神出現所:「江戸名所圖會 巻4」:
本浄寺(護国寺西、身延末、現存する)より南にあり。此地を清土と云ふ。蒼林の中に小社あり。即ち雑司ヶ谷鬼子母神出現の地にして、同じ神を鎮(まつ)れり。
社前にある所の井泉を星の清水と号(なづ)く。往古鬼子母神出現の頃、此井に星の影を顕現(あらは)せしことありし故に名づくるといへり。
 鬼子母尊神出現所     鬼子母神堂?     出現所小祠:祠名称不明


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