★備前金川妙国寺概要
備前藩(幕府)の不受不施廃滅の命により、寛文6年(1666)全ての寺中とともに廃寺となり、現存しない。
2024/10/05追加: 〇「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 より ◆備前金川妙國寺跡
山号は日向山、京都妙覺寺末。 文明12年(1480)松田元成によって創建される。開基は元成の弟である華光院日精(俗名元満)である。
往時の寺域は江戸期の日置氏陣屋と家臣屋敷を含む2町歩余(6000坪余)と推定される。
松田氏歴代の保護を得て栄えるも、永禄11年(1568)松田氏の滅亡によって、寺運は衰退する。
代わって、大壇越として復興に務めたのは金川の豪商江田氏であった。慶長10年(1605)7世化城院日城上人は江田氏の助力により梵鐘を鋳造する。(「日向山梵鐘」)
なお、元和5年(1619)日奥上人妙國寺に巡錫する。
寛永9年(1632)金川城が廃城となり、金川の領主である岡山藩家老日置忠俊は妙國寺及びその寺中を悉く佐波・見谷に遷し、その跡地を陣屋とする。
※寺中は安立院・圓住院・本壽院・陽林院・善住院・本養院・教雲坊・一行坊・大乗坊・圓智坊の10ヶ坊が挙げられる。
これは慶安元年「妙國寺奉加帳」に見られる寺中である。
慶安元年(1648)10世華光院日航上人が寺塔の建立・修築のため、檀信徒に奉加を呼びかけ再興に務める。(「妙圀寺奉加縁起之事」)
※「奉加帳」は下に掲載。
多くの奉加により、妙國寺の再興はなるが、日航は不受派と受派の対立に宗門の危機を感じたためか、重宝・古文書を大壇越江田重右衛門に預け、寺から退出する。
妙國寺は無住となるも、寺中10ヶ寺はとどまり妙國寺を守り、寛文元年(1661)城下蓮昌寺が受派に転んだ時、同年8月妙國寺末寺88ヶ寺、中山道林寺末22ヶ寺、津島妙善寺末6ヶ寺とともに「祖師之立儀堅固可相守」と誓約を交わし、あくまで不受不施を守ろうとした。(「本末諸寺異体同心掟状」) ※「掟状」も下に掲載。
しかし、寛文6年岡山藩が進めた不受不施派弾圧により、寺中寺院は悉く還俗し、妙國寺も廃寺となる。この時末寺寺院んも受派に転じた一部寺院を除き廃寺となる。
2016/08/15追加:
○「大覚大僧正」 より ●金川妙国寺概要
津島福輪寺は大覚弟子日實上人が逗留し復興に務め、松田元方の孫元澄(法号妙善)の法号に因み、妙善寺と改号する。
なお、松田元澄の子元成(法号妙国)は舎弟日精上人を開祖として金川城下に妙国寺を建立する。
妙国寺は寺中20坊、末寺120余寺を擁する巨刹となり、妙善寺・道林寺・蓮昌寺とともに四大本寺の一つと称される。
この四大本寺をはじめとする備前の有力寺院は日實上人が妙顕寺を退出し、妙覚寺を別立したことにより、京都妙覚寺の末寺となる。
○「大覚大僧正」 及び ○「蓮昌寺史」 より ●備前松田氏と備前法華
備前松田氏は、相模足柄郡松田郷の波多野氏の一族で、鎌倉幕府討伐の功により元國が備前御野郡伊福郷を与えられ、富山城を居城としたことに始まるという。やがて津高郡金川に本拠を移し、備前國西半分を領する守護大名となり、宇喜多直家に滅ぼされるまで約200年間、13代続くという。
備前松田氏の略系譜は次の通りである。 初代 2代 3代 4代
元國━元喬(蓮昌院)━元泰(蓮光)━元房
┃ 5代 6代 7代 9代 9代 10代 11代 12代 13代
┗━元方(道林)━元運━元澄(妙善)━元成(妙國)━元勝━元隆━元盛━元輝━元賢
2代元喬(蓮昌院):
元喬の代に大覚大僧正が城下津島に巡錫し、真言宗福輪寺を改宗させた。元喬は大覚大僧正を城内に召し宗論させたが、父元國ともども逆に教化され、ついに岡山に一宇を建立し蓮昌寺を開く。
辛川に妙源寺を建立ともいう。(「岡山の宗教」岡山文庫) 3代元泰(蓮光院)、5代元方:
元泰は大覚大僧正を金川城三の丸(道林丸)に招き遷仏供養を行い、その子元方によって道林寺が開かれる。
元泰の法号は蓮光院であり、備前辛川に字蓮光寺が残る。寛文7年(1667)蓮光寺は備前藩池田光政の寺院破壊で廃寺となり、3基の題目石が大光院に移される。蓮光寺の伝承は現在伝わらないが、元泰の法名に関係する可能性はある。
6代元運: 応永17年(1410)辛川庄に現妙寺を建立し、菩提寺とする。 7代元澄:
福輪寺は大覚の弟子日實が逗留し復興し、元方の孫元澄の法号によって妙善寺と改号される。 8代元成:
文明13年(1481)元成は舎弟の華光院日精(元満)を開祖として、金川城下に日光山妙國寺を建立する。 9代元勝:
父元成が磐梨郡弥上村山の池(岡山市東区瀬戸町塩納山之池)で敗死する。元勝は現地に急行し、遺骸を埋葬し、その場所に法華宗大乗寺を開く。 ※塩納には元成の墓(無縫塔)があるという。大乗寺跡と思われる。
2018/10/02追加: 松田元成、大村盛恒墓所
松田元成、大村盛恒墓所:本図中央に示す所に墓所があると思われる。附近が大乗寺跡であろう。
弥上村(矢上村)山之池というも、現在は弥上に隣接する塩納村に山之池(墓所・大乗寺跡)はある。この間の事情は分からない。 →備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧中の原番=273にあり。 10代元隆:
文亀元年(1501)天台宗金山寺に法華宗改宗を命ずるも拒否され、金山寺を焼き払う。
※妙覚寺15世(17世)日兆の墓碑銘に松田左近将監息十九歳とあるが、天文法華の乱に討死している。元隆討死して5年目のことであるが、日兆は元隆の息と思われる。(御津町史) 12代元輝:
永禄2年(1559)天台宗日應寺に法華宗への改宗を命じ、日應寺は改宗する。
永禄9年(1566)備前一宮吉備津彦神社へ改宗を薦めるも拒否、放火して全社殿を焼き払う。
永禄11年(1568)宇喜多直家によって、金川城落城、松田氏は滅亡する。 ※2019/02/27追加:
なお、○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 >第4章中世>2松田氏(p.128〜)
松田氏に関しる論述がある。参考にすべし。
●金川妙国寺沿革
(現在判明している妙国寺沿革は次の通り。) 日光山(日向山)と号する。 開山: 華光院日精、
文明13年(1481)開創。開基檀越は松田元成。
寺域は近世に金川陣屋(岡山藩家老日置氏陣屋、旧小学校、現在は北区役所支所)があった場所という。 歴世不明: 善峰院日繕、
《美作津山本行寺のページより》
妙国寺から、美作津山本行寺に招聘される。
善峰院日繕は津山本行寺6世、元和5年(1619)寂。おそらく化城院日城より前の住職と推定される。
永禄4年(1561)7月22日本行寺日誉寂するも、法嗣がない状況であった。この時苫西郡入村の久塚山無量寺に法音院日繕が住持して居り、由緒ある本行寺の廃滅せんことを憂慮して備前金川妙国寺の日繕上人を招請して本行寺の中興とする。
<※直前の文に「日繕」が2名出て来るが、この内、無量寺法音院日繕上人とはおそらく誤りで、
無量寺開山の法音院日充であろうと思われる。詳しくは、美作津山本行寺(美作の諸寺中)を参照。>
《終》 8世: 化城院日城、元和4年(1614)寂。
天文12年(1543)御津郡宇甘西町宮脇の二宮家にて誕生。
幼少の時妙国寺に入寺、吉備郡大和村野原妙本寺、伯耆大山寺、吉備郡吉川村に足跡を残す。
吉川村には吉川村に二間四方の石垣が残り、そこでしばしば説法を行うという。
そこには、供養塔(明治17年建立)が建てられているという。 (「日城聖人」)
また、 福渡の山根に化城院という堂があり、中には、かつてこの地に滞在していた日城上人の碑が祀られている。(「福渡町内会」)
中田(当時は市場)龍渕寺を中興(龍淵寺第5世)と云う。
9世: 日欣、宇喜多河内入道の子。
河内入道は宇喜多直家家臣、徳倉城主、4500石、備中松山三村氏狙撃で功をなし、宇喜多姓を賜う。(沼田頼輔「備前法華の由来」) 10世: 日航、
慶安元年(1648)10世日航によって妙国寺の修理が行われる。 日航はその後金川を去って相模衣笠大明寺に移り、寛文3年(1663)同寺に没する。
永禄11年(1568)金川城の落城で松田氏が滅亡、しかし妙国寺の備前における本山の地位は、強固な信仰基盤があり、揺るがなかったようである。
天正11年(1583)正月の「妙國寺本末定判記」では備作二州に於いて120余カ所の末寺を有することが記される。
慶安元年(1648)見谷に再建。(この間の事情は全く不明である)
※現在御津こども園や金川病院のあるところの西(津山線の西)にある墓地の辺が妙国寺が再興なった「見谷」と云う。また「見谷」の墓地には妙国寺歴代の墓碑があるという。
寛文元年(1661)妙国寺・末寺間で、不受不施堅固の本末諸寺誓状を結ぶ。(下に掲載の「妙国寺本末寺諸寺誓状」>「本末諸寺異体同心掟状之事」参照。
寛文6年(1666)備前藩池田光政により、不受不施廃滅のため、妙國寺は津島妙善寺及び多数の末寺とともに廃寺となる。
なお、金川に妙國院と称する敷地・建物があり、松田氏の供養塔があるも、妙國院の実体は良く分からない。
---------------------------------------- 2018/09/22追加: ○「金川町史」板津謙六、昭和32年(1957) より
●妙國寺歴代(備前文明兵乱記による)
1.日精―2.日範―3.日悦―4.日審―5.日寶―6.日詮―7.日使―8.日城―9.日欣―10.日航
日精は松田元成の弟元満であり、権少都、華光院と号する。
日城は虎倉の人、化城院と号し、金川病院の西方の山麓附近の小字を化城院という。寺の跡であろうか。井戸が残る。
福渡の化城院は日城の開基である。 日欣は道林寺過去帳に宇喜多河内守の息とある。宇喜多河内守は前出の通り。
日航は既出・前出の通り。
※s_minagaが前出した善峰院日繕は歴代に名を連ねず、これは妙國寺僧侶ではあったが、歴代住職ではなかったということであろうか。
●松田氏の滅亡後、備前を支配した宇喜多氏・小早川氏共に日蓮宗信徒であった。しかしそれに関係しないかのように地方民衆は熱狂的な信徒として、日蓮宗は繁栄していった。
妙國寺は落城前は旧金川小学校の所にあったが、のちに見谷(けんだに)に再建される。その年代は明らかではないが、本堂建立は慶長頃かも知れない。
●松田氏に代わって妙國寺の大檀那として活躍したのは金川の土豪江田氏である。
慶長10年(1604)妙國寺7世日城の時、鐘が江田氏によって出来、萬治元年(1658)に鐘銘が入る。 次がその銘である。
<前略> 願主 備前金川妙国寺第七之師化城院日城 慶長十年乙未十月 助力 江田 兵衛尉浄蓮
江田孫右衛門宗安 <伊田之大工 ―略― > 日向山鐘銘并再興序
去文明十二年金凉之頃、臥龍之坤象耆■(門構えに者)一峰、号曰妙国寺。先規松田卿一類開基、権大僧都日精所建立之一宇也
<中略> 萬治元戊戌天十一月 日 本願人 種 仁兵衛 善香
江 田 宗 仁
鋳物師 伊田、林彦兵衛定親
●元和5年(1619)日奥が金川に錫を留める。
2018/10/08追加: ○平凡社「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より
●寛永9年(1632)金川及び周辺諸村を賜った岡山藩家老日置忠俊は島原の乱後金川城が廃城になると、妙國寺および寺中寺院を悉く宇甘川対岸の佐波に移転せしめ、その跡地に御茶屋(陣屋)を設ける。
●慶安元年(1648)妙國寺は十世日航によって修理がなされる。日航はその後金川を去り、相模三浦郡金谷山大明寺に移り、日然の後を継ぎ、寛文3年彼地に歿する。
去るにあたって、開山日精の曼荼羅、寺印その他古記録を江田重右衛門に託して行く。ほどなく妙國寺は廃絶する。
この江田家に託された文物は江戸期秘匿され、金川妙覚寺再興の際、妙覚寺に納められたのは、前述のとおりである。
江田家から妙覚寺に移されたものの中に慶安元年「妙國寺奉加帳」がある。
※この奉加帳については原本をあきらかにすることができず、詳細は不明。 奉加縁起は日航の筆になる。 末寺は約50ヶ寺。
金川の寄付者160名、合計銀5貫700匁。江田一族他船頭、大工、箕打とあらゆる階層が寄付をしている。
草生常蓮寺檀家、88名、計銀609匁。 鹿瀬、長法山医王寺檀家、32名、計銀402匁。
当時の備前法華の潜在力を示す有力な資料であろう。
2018/10/08追加:○平凡社「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より
奉加帳に見える寺中寺院は安立院、圓住院、本壽院、陽林坊、善住院、本養院、教雲坊、一行坊、大乗坊、圓智坊の10ヶ寺である。
(妙國寺文書「妙國寺奉加縁起之事」) この浄財(奉加)により、妙國寺伽藍の再興は成就したことは上述の通りである。
しかし、日航は不受不施を廻る対立に宗門の危機を感じたのか、什宝・古文書を大檀那江田重右衛門に預けて、妙國寺を退出する。
●日蓮宗一色で塗りつぶされたこの地方では、神社も日蓮宗の影響を受けていた。
◇熊野神社(御津町寺部:岡山市北区御津新庄1195)は古くは若王権現と称していたが、仏体が祀られ、天文年中の筆になる南無妙法蓮華経の題目が仏像の背に書かれている。
※現在岡山市指定文化財となっている「熊野本地仏五尊」がそれであろう。但し題目が書かれているとの「解説」はない。
また、社名は室町期は若王子、江戸前期は平岡荘権現宮、中後期は十二所権現と変遷する。
◇菅正八幡宮(備前津高郡菅村:岡山市北区御津高津521)に天正14年と寛永18年の棟札2枚がある。
天正14年の棟札は中央に題目が書かれている。 寛永16年にも中央に題目が書かれる。妙國寺第十祖日航の筆である。
形式は次のようである。
------------------------------------------------------------------ 御遷宮寛永十八巳五月七日
十方仏土中唯有一乗法 住吉山妙安寺日清 神主
惣左衛門
南無妙法蓮華経 王舎城管八幡宮殿開眼師 日 航(花押)
第十祖
我此土安穏天人常充満 大工 対馬守 楢村久左衛門
同 庄三郎 三箇村氏子
聖王天中天 迦陵頻伽聲
------------------------------------------------------------------ ※現在、岡山市指定文化財(正八幡宮本殿 付棟札2枚)となる。
2018/10/08追加: ○平凡社「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より・・・・(既出)
●寛文元年(1661)6月、城下蓮昌寺が受不施派に転ずるも、同年閏8月妙國寺末寺88ヶ寺、中山道林寺末寺22ヶ寺、津島妙善寺末寺6ヶ寺とともに「本末諸寺異体同心掟状」(下に掲載)の不受不施堅持の誓約を結ぶ。
しかし
寛文6年(1666)より始まる岡山藩池田光政の不受不施壊滅の政策によって、妙國寺(既に無住)および寺中寺院の住僧は悉く權俗を強制させられ、妙國寺は廃寺となる。
この時、妙國寺の末寺も授不施に転じた一部寺院を除き廃寺となる。 →「備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧」
退出した僧侶は隠れ庵を転々としながら修行と布教を行い、檀信徒の多くは内信者となる。
この時以降、不受不施は幾多の検挙・弾圧にも屈せず、強固な内信組織を幕末/明治9年の不受不施公許まで維持してゆくことになる。
●地名考 七曲神社:
松田氏の氏神として相模の国神奈川の二宮である七曲神社が金川という地名とともに、備前金川に移されたと伝える。 妙國寺跡:
江戸期は備前藩国老日置家の茶屋屋敷があった。明治5年取り払い。明治35年旧金川小学校となる。
玉松城落城後、見谷に移されたと野々口大村氏蔵の松田系図に出ている。
南側の現在の石垣は数十年前新しく南側に築出したもので、東側の石垣の一部のみが往時の遺構である。東に向かって階段があった跡が見られる。
金川小字佐波: 古くは宇垣郷佐波村と書かれた。妙國寺跡(旧金川小学校)から見谷方向をいう。
※それ故、妙國寺はしばしば佐波村妙國寺と表記される。 見谷(けんだに):
慶安2年(1649)妙國寺が改修されたが、寛文6年廃寺となる。
天保14年(1843)妙國院が再建されたが、昭和6年表町に移転する。跡は墓地となる。 妙國院:
表町にある。天明年中(1781-89)200年遠忌と寛政10年(1798)にできた松田歴代の供養塔、芭蕉の句碑、元和9年(1623)の供養塔もあるが、いずれも見谷から移されたものである。
小字東塔(とうどう): 高等学校の運動場附近、妙国寺の塔が建っていたといわれる。 2024/10/05追加:
現在の御津高等学校東南角に1基の題目塔がある。(GoogleMapで発見」)
日正の署名があり、推測するに、祖山妙妙覚寺は妙國寺追悼のため、建立したのかも知れない。
奇しくも、この場所は子字東塔に近い場所と推測されるからでもある。 御津高校角日正銘題目石:GoogleMapより転載 小字気ホウジ:
寛文の廃寺まで表町に妙国寺寺中があった。寺中圓住院があったその横が気ホウジ通りであったという。
※圓住院は表町南側にあったという。
●松田氏関係の主なる寺院
岡山城下蓮昌寺、金川妙國寺、備前津島妙善寺、備前中山道林寺、備前日應寺は前述の通りあるいはページの通りであるが、それ以外に次の寺院が関係するという。
大倉寺(現大安寺町):永禄年中日蓮宗に改む。 幸福寺(菅野):文明年中、元成これを改宗。 →備前48ヶ寺菅野山
龍淵寺(中田):永正2年元勝建立?。
※寺伝では「永正2年(1505)の創立、開山大乗院日香(松田元成の弟)、開基檀越松田元成」という。 →備前中田龍淵寺 宗善寺(今保)文亀中創建。 妙浄寺(上建部);松田の家臣宇垣勘兵衛の創建
大乗寺(可眞村矢上):文明16年元勝創建、寛文廃寺。 妙法寺(仁堀):永禄中家臣羽床伊賀これを創建
蓮光寺(建部吉田):永禄中松田元輝再建? ※瑞雲山香雲寺:天文年中天台宗日徳の代に領主松田氏によって改宗する。 →備前香雲寺
●●備前金川見谷妙國寺跡
見谷妙國寺跡は現在見谷墓地となるも、墓地の上方に推定ではあるが、妙國寺墓所・供養塔場が残り、少なくとも18基の宝塔・石塔が確認できる。
因みに、妙國寺の略歴を記すと、次の通りである。 ・文明12年(1480)妙國寺、松田元成によって金川城東麓に創建される。
・寛永9年(1632)金川城廃城、金川の領主・岡山藩家老日置忠俊は妙國寺及びその寺中を悉く佐波・見谷に遷す。
その跡地を陣屋とする。(「岡山県の地名」) ・寛文6年見谷妙國寺は岡山藩主池田光政によって、廃寺となる。
・天保14年(1843)妙國院が再建されたが、昭和6年表町に移転する。跡は墓地となる。(「御津町史」)
現地に残る石塔類は古いものが多く、また手入れが行き届かず、少々荒れていて、刻銘の読めない石塔が多い。 僅かに、現状では次の銘が判明する。 大3石塔は「日奥」銘、「天正」年忌の塔1基、日蓮大士銘1基、日蓮大菩薩銘1基、大覺大僧正銘3基
特筆すべきは年忌は不明ながら「日奥」銘の石塔が存在することであろう。
妙國寺が臥龍山東麓にあった時代に建立され、それが見谷に遷されたか、あるいは見谷に遷された妙國寺時代に建立されるとか、またあるいは禁制時代に密かに建立されたとものと推測され、いずれにしても、禁教時代を生き抜いた「日奥の古石塔」と思われる。
2024/04/11撮影: ●推定妙國寺墓所・供養塔場:少なくとも18基の宝塔・石塔が確認できる。
推定妙国寺墓所・供養塔場1:文字入れ:向かって左から、第1・2・3・4・5・6・7・8石塔
推定妙国寺墓所・供養塔場2:文字入れ:左から、第1・2・3・4石塔
推定妙国寺墓所・供養塔場3・左から、第5・6・7・8・9・10・11・12・13・14・15・16・17石塔
推定妙国寺墓所・供養塔場4・文字入れ:同 上
第1石塔:正面:南無妙法蓮華経 日■■■
第2石塔:正面:南無妙法蓮華経 日■■■
第3・4石塔:第3石塔の銘は「日奥」の銘が読み取れる。第4石塔は判読出来ず。
第3石塔・日奥銘:正面:南無妙法蓮華経 日奥・・
第5・6・7石塔
第5石塔・天正年忌:正面:南無妙法蓮華経 ・・・・・、左側面:天正・・・・・ 天正以下がはっきりしないが、天正十年壬■と思われる、天正10年は壬牛。1582年。
第6石塔:判読出来ず
第7石塔・日蓮大士銘:正面:南無妙法蓮華経 日蓮大士
第8・9・10・11石塔
第8石塔:正面:南無妙法蓮華経 日■
第9正塔・日蓮大菩薩銘:正面:南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 第10石塔:正面:南無・・・・・・・
第11・12・13石塔
第11石塔:正面・南無妙法蓮華経 ・・・・ 第12石塔:判読出来ず 第13石塔:判読出来ず
第11・12・13・14石塔
第14・15・16・17基
第14基・大覺大僧正銘:正面:南無妙法蓮華経 大覺大僧正、左側面:後五百歳中
第15基・大覺大僧正銘:正面:南無妙法蓮華経 大覺大僧正、左側面:癸酉四月上旬 ※癸酉が年とすれば、天正元年(1573)、寛永10年(1633)、元禄6年(1693) 、宝暦3年(1753)、文化10年(1813)であり、妙國寺の歴史から云えば、天正・寛永・元禄の可能性が高いと思われるが、癸酉が年を表しているかどうかは確かではない。
第16基・大覺大僧正銘:正面:南無 大覺大僧正、左側面:判読できす 第17基・無縫塔1 第17基・無縫塔2・無縫塔:判読出来ず
※第18石塔は第17石塔の東にあると思われる。(所在場所は曖昧)
第18基石塔1 第18基宝塔2:判読出来ず
●見谷墓地
推定妙國寺供養塔場から見谷墓地を見る1 推定妙國寺供養塔場から見谷墓地を見る2
●金川遠望及び推定妙國寺跡
見谷妙國寺跡から金川遠望
正面中央やや右の山は「赤磐富士」、その手前の中央の町並が「金川の町」、その町の左手の山塊が臥龍山(金川城跡)である。
上記の「金川の町」に寛永9年まで、当時大伽藍を備えた「妙國寺」があった。
写真中央を横切る線路が「津山線」、手前が「見谷墓地」の下方部分である。
写真撮影地点が「推定妙國寺供養塔場」であり、この付近から「見谷墓地」下方にかけて「妙國寺」が寛文6年まで存在したのであろう。
天保14年再興という妙國院も、見谷のいずれかに再興されたのであろう。
(参考) ○「岡山県の地名」
文明12年(1480)妙國寺、松田元成によって金川城東麓に創建される。
寛永9年(1632)金川城が廃城、金川の領主・岡山藩家老日置忠俊は妙國寺及びその寺中を悉く佐波・見谷に遷し、その跡地を陣屋とする。
○「御津町史」 見谷(けんだに): 慶安2年(1649)妙國寺が改修されたが、寛文6年廃寺となる。
天保14年(1843)妙國院が再建されたが、昭和6年表町に移転する。跡は墓地となる。 ●見谷難波家墓所
見谷難波家墓所
見谷難波抱節墓塔:向かって左が抱節墓塔、右は「大姉」とあるのでその夫人であろう。抱節の戒名は「清風軒勁節虚心居士」。
★金川妙國寺古文書(現在は金川妙覚寺古文書として伝わる。)
2018/09/22追加:
金川妙國寺は禁制とされた宗旨の故に早くに廃寺となるが、次に述べるような事情により、多くの文書が祖山妙覚寺に残る。
これらの「金川妙覚寺文書」は「岡山縣古文書集 第三輯」藤井駿, 水野恭一郎、昭和31年(1956) 及び
「妙覚寺文書」日蓮宗不受不施派史料、立正護法会、昭和32年(1957) に活字化され、収録される。
2018/09/09追加: ○「岡山市史 宗教教育編」>第2章 岡山市域に於ける仏教>五、備前法華の本山妙國寺 の項 より
備前の日蓮宗各寺院の支配は松田氏時代から金川妙国寺がこれに当たっていた。
永禄11年(1568)金川城落城、松田氏滅亡しても、妙国寺の備前法華における地位は変わらず、寛文の不受不施禁制まで存続し、幕府の取締に対しては、不受不施擁護の中心勢力となって、翼下にある50餘ヶ寺を督励した。
妙国寺は松田氏時代には旧小学校のところにあったが、金川城落城ののち見谷に再建される。本堂の建立は慶長の頃と考えられ、元和5年(1619)には日奥の巡錫があった。(「金川町史」)松田氏滅亡ののち、大檀那になったのが地元の豪族江田氏である。
上述のように、妙国寺は慶安元年(1648)10世日航によって修理が行われる。 日航はその後金川を去ってに相模の大明寺に移り、寛文3年(1663)同寺に没するも、金川を去る時、日精(妙国寺開山)の曼荼羅・寺印・その他多くの古記録を大檀那江田重右衛門に託して退寺する。間もなく妙国寺は廃絶し、日航寄託の文書などはそのまま江田家に保存されて明治に至る。 江田家は金川の豪商で村方役人を勤めるが、妙国寺の遺品・文書は極秘裏に保存される。 明治9年金川に妙覚寺が再興されると、江田家秘蔵の妙国寺の遺品・文書は同寺に納められ、不受不施派の貴重な史料(妙覚寺古文書)となる。
●妙國寺古文書(現在は金川妙覚寺古文書として伝わる。)
上術のように妙国寺の遺品・文書を含め、祖山妙覚寺には再興後に蒐集した多くの古文書や遺品が収蔵されている。
その<妙覚寺古文書>の金川妙国寺関係の古文書を次に掲載する。
○「岡山市史 宗教教育編」(2018/09/09追加)および「妙覚寺文書」(2018/09/22追加) より転載
120.妙國寺本末寺檀連印状
※本寺妙國寺とその末寺及び檀越の連印状である。
※本資料の年代ははっきりしないが、「妙覚寺文書」の解説では慶安年中(1648-52)であろうという。
この年代感が正しいとすれば、本資料はこの時代のある程度の妙國寺の寺勢を示すものと思われる。
連印している本末寺の総数はおよそ88ヶ寺、檀越の人数は139人になる。
但し、岡山城下の寺院については本資料には現れないので、寺院数・檀越数ともかなり過小に示されているものと思われる。
※表形式で掲載する。
金川本寺妙國寺 |
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安立院(花押) |
妙知院(花押) |
善立院(花押) |
慶陽坊(花押) |
學乗院(花押) |
教住坊(花押) |
陽林坊(花押) |
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教雲坊(花押) |
詮妙院(花押) |
一行坊(花押) |
江田孫右衛門 (花押) |
江田彦左衛門 (花押) |
難波輿三 右衛門(花押) |
江田彦右衛門 (花押) |
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片山五郎 右衛門(花押) |
江田重右衛門 (花押) |
江田四郎兵衛 (花押) |
江田二郎右衛門 (花押) |
江田五郎兵衛 (花押) |
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宇垣ノ本妙寺※ |
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妙蔵院(花押) |
大教坊(花押) |
乗運坊(花押) |
一運坊(花押) |
善正坊(花押) |
蓮行坊(花押) |
宇垣ノ新右衛門 (花押)他1名 |
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原村ノ宇野藤左衛門(花押) 他3名 |
小山村ノ蜂屋五郎左衛門(花押)
他2名 |
生前村ノ杢右衛門(花押) 他1名 |
山城村ノ新十郎 (花押) |
宇垣ノ願正寺 |
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本行院(花押) |
圓乗坊(花押) |
教泉坊(花押) |
學圓坊(花押) |
光林坊(花押) |
本乗坊(花押) |
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母谷村庄や小平次(花押) 他3明 |
河内村庄や九兵衛(花押) ほか2名 |
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草生ノ常蓮寺 |
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光泉坊(花押) |
玉圓坊(花押) |
一乗坊(花押) |
(侍)侍従(花押) |
同村勘二郎(黒印)他2名 |
久志井ノ輿三右衛門(黒印) 他1名 |
矢原ノ |
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宗祐寺(花押) |
圓明坊(略押) |
慈眼坊(花押) |
矢原村勘四良(花押)他3名 |
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伊田村ノ |
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常久寺(花押) |
同村三七郎(花押)他5名 |
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斗有村ノ |
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妙蓮寺(花押) |
同村岡村八郎兵へ(花押)他4名 |
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大苅田村 |
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妙泉寺(花押) |
圓珠坊(花押) |
庄や又右衛門(花押)他5名 |
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可眞内野間村 |
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大善寺(花押) |
同村庄屋九兵へ(花押)他5名 |
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上村 |
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妙圓寺(花押) |
大高寺(花押) |
慶運寺(花押) |
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彌上村 |
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光長寺(花押) |
山ノ池 大乗寺(花押) |
高照寺(花押) |
稗田ノ 妙興寺(花押) |
同村庄や九郎右衛門(花押) 他3名 |
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小原村ノ |
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新福寺(花押) |
助兵へ(略押)他4名 |
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平岡ノ |
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建徳寺(花押) |
本立坊(花押) |
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新庄村 |
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加兵へ(花押)他3名 |
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にほり |
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出理村 |
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上田村 |
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妙法寺(花押) |
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眞福寺(花押) |
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九郎左衛門(花押) |
金川妙國寺 |
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行事(花押) |
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下田ノ |
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妙典寺(花押) |
長右衛門(花押)他2名 |
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菅ノ |
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妙安寺(花押) |
久左衛門(花押)他6名 |
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西原ノ |
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浄現寺(花押) |
五郎兵(黒印)他4名 |
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龍圓寺ノ |
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中田村 |
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本行坊(花押) |
大圓坊(花押) |
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權右衛門(花押)他1名 |
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さくらノ |
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一はノ(「市場ノ」であろう) |
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さくらノ |
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上村 |
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二郎右衛門(花押)他1名 |
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理兵衛(花押)他1名 |
九郎右衛門(花押) |
成就寺 |
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大乗坊(花押) |
本乗坊(花押) |
正信坊(花押) |
蓮明坊(花押) |
自仙坊 |
中正坊(花押) |
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しなの 浄圓坊(花押) |
田地こ 乗林坊(花押) |
宮地村 三藏(花押)他8名(宮地村ほか小山村、久々村、田地こ村を含む) |
大田下村 |
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正雲坊(花押) |
や右衛門(花押)他1名 |
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大田中村 |
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立行坊(花押) |
藤兵衛(花押)他1名 |
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同上村 |
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圓徳坊(花押) |
輿左衛門尉(花押)他1名 |
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山内 眞櫻坊(花押) |
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輿三左衛門(花押) |
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土師方 |
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九郎兵へ(黒印) |
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堅乗院(花押) |
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吉田村 |
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蓮行院(花押) |
江田久左衛門(花押) |
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蓮光寺 丹生房(花押) |
同八右衛門(花押) |
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かせ村 |
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醫應寺蓮乗房(花押) |
江田孫十郎(略押)他1名 |
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小倉村 |
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本乗院(花押) |
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貴志秀二郎(花押)他1名 |
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作州波賀當香寺(花押) |
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片岡仁左衛門(花押) |
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備前國津高郡勝尾村正満寺(花押) |
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二ノ宮太郎兵衛(花押)他1名 |
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備前國津高郡虎倉村 |
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庄や七郎右衛門尉(花押)他4名 |
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備中皆竹部村 |
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妙福寺(花押) |
法福寺(花押) |
備中皆建部庄屋難波輿助(花押)他3名、上野村庄屋を1名含む |
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備前之國津高郡紙工上村 |
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眞光寺善行院(花押) |
上村庄や河原弥三郎(花押)他1名 |
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備前之國津高郡久保村 |
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西岡寺實乗院(花押) |
大徳寺常光院(花押) |
玉保寺常泉坊(花押) |
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同 五助(花押)他2名 |
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しとり内てんま村 |
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法仙寺善立坊(花押) |
永福寺圓立坊(花押) |
庄屋松村助右衛門(花押)他1名 |
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眞光寺(花押) |
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斗有村妙蓮寺(花押) |
上芳賀村妙典寺 |
同 浄光院(花押) 同 清水夫(花押) |
【追筆】 天正十一年 正月定判之 合百二十ヶ寺
◆この追筆は疑わしい、文書の内容からいって天正11年(1583)の年紀には疑問がある。
略々、慶安年中(1648-52)のものであろう。
※宇垣村及び本明寺村:
旭川右岸、金川村の南にある。 寛永・正保には宇垣村とある。母谷・山条・本明寺・原・小田の5ヶ枝村がある。
延宝3年(1675)までには、宇垣村は河内村(以降は河内村)と改称される。(理由は不明)
枝村の本明寺は貞享3年(1686)富谷と改称される。
寛文年中、池田光政は河内村(宇垣村)20社、母谷12社、山条6社、富谷3社、原3社を吉尾村の寄宮に合祀する。
同年中、富谷(本明寺)の生前山本明寺とその寺下の立玄坊・蓮行坊・圓立坊・大教坊、母谷の長谷山現照寺その寺下の本乗坊と學圓坊・圓住坊が、同じく池田光政による不受不施派弾圧によって廃寺となる。本明寺出寺僧4名は山条・金川・下田村・赤坂郡矢原の隠れ庵を拠点として信仰を守る。母谷・富谷・山条・原では不受不施派は内信の形をとり、弘化3年(1846)には農民83人が取調べを受ける。(平凡社「日本歴史地名大系34」より)
つまり、本明寺は寺名であると同時に村名でもある。
121.妙国寺本末寺諸寺誓状 (本末諸寺異体同心掟条)
※総計90を数える寺、坊が連署した不受不施堅守の連判である。 (s_minagaの集計では約100ヶ寺である。)
つまり、本文書は寛文元年の金川妙国寺の勢力(寺中及び末寺とその地域)を示すものである。
そして、本文書は不受不施堅固の盟約であるから、備前における不受不施の勢力の一面を示すものでもある。
但し、本文書には御野郡の一部などが抜け落ちていて、金川妙國寺の勢力の全容を示すものではない。
全容は、下に掲載する「122.妙国寺諸末寺宗旨改証文」の方が、より示すものと思われる。
本末諸寺異体同心掟状之事
一、今度受不施 諸寺通融之儀縦有之候共、当山者三百年従以前、謗法於不受、不受不施堅固霊地故、
今又受布施ゟ如何様之儀出来候共、本末一同ニ祖師之立儀堅固相守者也、
若於違犯輩者、法華経中三宝仏陀御罰可罷蒙者也、自然別心之志所存之衆ハ連判有問布、仍掟状如件
妙国寺本末 寛文元辛丑閏八月 日
延寿院
本住院
日向山妙国寺
円住院(花押)
本住院(花押) 陽輪坊(花押)
教運坊(花押)
一行坊(花押)
乗円坊(花押)
要玄坊(花押)
大乗坊(花押)
善住坊(花押)
本光坊(花押)
本明寺
(※さらに、本明寺以下、妙國寺末寺及び孫末寺の連判が続くが、冗長になるので、表形式で掲載する。)
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日向山妙國寺 |
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(この項重複) |
円住院(花押) |
本住院(花押) |
陽輪坊(花押) |
教運坊(花押) |
一行坊(花押) |
乗圓坊(花押) |
要玄坊(花押) |
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大乗坊(花押) |
善住坊(花押) |
本光坊(花押) |
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本明寺※ |
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善住坊(花押) |
円立坊(花押) |
蓮行坊(花押) |
隆玄坊(花押) |
大教坊(花押) |
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常蓮寺 |
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智雲坊(花押) |
休 玄(花押) |
一乗坊(花押) |
玉圓坊(花押) |
教 傳(花押) |
醫王寺(花押) |
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宇垣 |
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顯照寺(花押) |
蓮乗院(花押) |
本乗坊(花押) |
大乗坊(花押) |
円住坊(花押) |
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矢原 |
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宗祐寺春山(花押) |
慈眼坊(花押) |
圓明坊(花押) |
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菅村 |
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妙安寺(花押) |
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下田 |
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妙傳寺(花押) |
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竹枝 大田 |
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正現寺(花押) |
善宗寺(花押) |
本淵寺(花押) |
圓徳寺(花押) |
本立寺(花押) |
蓮光寺(花押) |
本教寺(花押) |
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本乗寺(花押) |
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虎蔵 |
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大乗寺(花押) |
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紙工(しとり) |
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西光寺(花押) |
信光寺(花押) |
西岡寺(花押) |
大徳寺(花押) |
玉寶寺(花押) |
永福寺(花押) |
法泉寺(花押) |
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善如坊(花押) |
眞乗坊(花押) |
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備中山上 |
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正福寺(花押) |
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伊田 |
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常久寺(花押) |
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建部 |
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同 |
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龍淵寺(花押) |
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龍淵寺清閑(花押) |
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櫻村 |
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妙要寺(花押) |
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西村 |
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浄源寺(花押) |
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成就寺(花押) |
寺家中合九人(花押) |
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可眞諸寺※ |
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妙圓寺(花押) |
大高寺(花押) |
慶運寺(花押) |
高長寺(花押) |
大乗寺(花押) |
大善寺(花押) |
妙光寺(花押) |
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高照寺(花押) |
通幸寺(花押) |
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油津理 |
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眞福寺(花押) |
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町苅田 |
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妙隆寺(花押) |
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大苅田 |
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妙泉寺(花押) |
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里方ノ末寺 |
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岡山 |
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妙勝寺(花押)并衆徒連判 |
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大工村 |
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大供寺(花押) |
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宮ノ方※ |
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寶積寺(花押)并衆徒連判 |
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西古松 |
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願心寺(花押) |
乗蓮寺(花押) |
寶泉寺(花押) |
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東古松 |
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福傳寺(花押) |
善性房(花押) |
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福長村※ |
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願福寺(花押) |
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新保村 |
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本立寺(花押) |
正行院(花押) |
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木村 |
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眞福寺(花押) |
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青江村 |
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妙長寺(花押) |
妙泉寺(花押) |
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田住村 |
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成就院(花押) |
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奥内村 |
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安静時(花押) |
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下伊福山王 |
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石井寺(花押)并衆徒連判 |
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矢坂村甲山 |
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慈雲寺(花押)并衆徒連判 |
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ならす村ノ |
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寶泉寺(花押) |
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山サキ村ノ |
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|
蓮教寺(花押) |
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今岡村ノ |
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妙教寺(花押) |
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正面村ノ |
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光林坊(花押) |
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辛川村ノ |
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玄妙寺(花押) |
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山際村ノ |
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妙蓮寺(花押) |
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大窪村ノ |
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教行坊(花押) |
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長野村ノ |
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長濱寺(花押) |
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下芳賀村ノ |
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東福寺(花押) |
日應寺(花押) |
大乗寺(花押) |
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※以下(川高村妙林寺迄)は道林寺末 |
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大目村ノ |
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永久山本行寺 |
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大坪村ノ |
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山名寺 |
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中野村ノ |
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当高寺(当光) |
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下牧村ノ |
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長福寺 |
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中牧村ノ |
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宗林寺 |
清住坊(清養) |
法住坊(宗林寺下) |
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十谷村ノ |
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十谷妙興寺 |
清立坊(寺中) |
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吉尾村ノ |
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佛生山法道寺 |
学乗坊 |
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中山村ノ |
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林乗坊 |
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湯須 |
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圓宅坊(妙興寺末) |
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九谷 |
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眞福寺 |
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中泉 |
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井福寺 |
玄立坊 |
善福寺 |
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下畑 |
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平井山金積寺 |
泉来國福寺 |
慈徳寺 |
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國ヶ原 |
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本正坊(眞浄寺末) |
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川高村ノ |
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正保山妙林寺 |
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實成寺は妙善寺末 |
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野々口村ノ |
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駒井山實成寺 |
實藏院(寺中) |
正行坊(寺中) |
乗圓坊(寺中) |
眞乗坊(寺中) |
正住坊(寺中) |
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※本明寺とは寺名であり同時に地名でもある。本明寺村本明寺は寛文6年(1666)その寺中とともに廃寺となる。
なお、上に掲載の「120.妙國寺本末寺檀連印状」の脚注を参照。 ※可眞諸寺とは磐梨郡可眞村の諸寺と思われる。
※地名の「宮ノ方」とは不明、福長村は福永村とも、この村は享保2年富田村と改称する。
2018/09/15追加:
122.妙国寺諸末寺宗旨改証文
註:ここには各末寺から提出した50通の宗旨改証文が載せられる。その中でまず岡山市関係の寺院のもの数通を示す。
その後に続けて、全部の文書(宗旨改証文)を示す。
※宗旨改証文は全て寛文5年(1665)のものである。
ここに表れる金川妙國寺の末寺及び孫末寺はおよそ145ヶ寺院坊にのぼる。
そして、おそらく、本文書は寛文5年における金川妙國寺の寺勢の全容をほぼ示すものと推定される。
金川妙國寺の支配する寺院は金川のある津高郡及び赤坂郡及び御野郡にほぼ分布する。
おそらくこれは中世松田氏の支配地と重なるのである。加えて、この範囲にはさらに妙善寺・道林寺・蓮昌寺の末寺も多く分布する。
まさに、「備前法華」とは「松田氏」の強権によって成立した「王国」であることが示される。
本文書の書かれた翌年、寛文6年(1666)岡山藩池田光政の不受不施廃滅の令で、これらの妙國寺及び末寺はほぼ惣滅する。
もちろん、妙善寺・道林寺・蓮昌寺の本末寺も惣滅する。
ここに、「備前法華」は瓦解する。不受不施派は地下に潜行するしかなかったのである。
○末寺請状之事 一、津高郡野殿村大雲寺生者当村に御座候、歳廿三、日蓮宗に御座候、右の通少も相違無御座候、為後日如件
寛文五年
四月廿五日 大雲寺(花押)
庄や 三郎右衛門(黒印)
金川 妙国寺御路(ママ)僧中様
※津高郡(明治9年野殿村は御野郡に所属変更)野殿村に末寺大雲寺があったと知れる。寛文6年廃寺。
※寛文5年の金川妙国寺末寺大雲寺の状況が分かる文書である。
○宗旨御改書物之事 慈雲寺衆徒 一、本法院 一、真浄院 一、化明院 一、善正院 一、円明院 一、常養坊
※衆徒の院坊の下に各々の生国郡村名と年齢の記載がある。院坊は一行に一院・坊を書いている。
右の寺数六ヶ寺、代々日蓮宗の寺にて御座候、(以下略) 寛文五年
四月廿五日 御野郡矢坂村慈雲寺
本 法 院(花押)
金川 妙国寺御老僧中 ※寛文5年の金川妙国寺末寺慈雲寺の寺中などの状況が分かる文書である。
○石井寺衆徒中請状之事
一、領雄院 一、延壽院 一、勧持院 一、蓮乗院 一、実相院 一、是雲院 一、三祥院 一、常林房 一、中藏院
一、千寿院 一、林乗房 一、鷲林房 一、本浄房 一、恵運房 一、円住房 一、教雲房 一、本住房 一、千桜房
※衆徒の院坊の下に各々の生国郡村名と年齢の記載がある。院・房名は一行一院・房に書いてある。
右寺数十八坊、代々日蓮宗の寺にて御座候、(以下略) 寛文五年
四月二十一日 御野郡下伊福村之内石井寺
住持 領 雄 院(花押)
妙 国 寺 御老僧中
※石井寺は備前48ヶ寺の一寺であるが、寛文5年の金川妙国寺末寺石井寺の寺中など状況が分かる文書である。
そして、寛文6年の備前藩不受不施廃滅の命令の石井寺に対する処置を裏付ける文書である。 →備前48ヶ寺日蓮宗吉乗山石井寺
以下は「122.妙国寺諸末寺宗旨改証文」の続きである。 (以下は2018/09/22追加:「妙覚寺文書」 より
津高郡生前山本妙寺:宗旨并出家故郷御改之事:寛文5年
1.善住院 2.善蔵院 3.蓮行坊 4.立玄坊 5.大教坊 6.光林坊
佐波村妙國寺の内 圓住院・本住院様 ※「生在所改め」であるから、各々の住持の下には例えば「善住院生在所山条村ニ而御座候」など記載されるが、寺院坊名のみを抽出して表示する。
津高郡草生村常蓮寺:宗旨御改常蓮寺之内:寛文5年 1.寶蔵院 2.智運坊 3.一乗坊 4.光泉坊 5.玉圓坊 6.蓮乗坊
佐波村妙國寺の内 圓住院・本住院様
赤坂郡矢原村宗祐寺:宗旨之義付、生在所之事:寛文5年 1.貫首宗祐寺春山 2.寺中智光院 3.圓妙坊 4.慈眼坊 5.末寺赤坂郡圓山村眞福寺坊号教泉坊 6.眞福寺内蓮光院
佐波村妙國寺の内 圓住院・本住院様
津高郡長谷山本顯照寺:宗旨并出家古跡御改事:寛文5年 1.蓮乗院 2.本乗坊 3.十行坊 4.大乗坊 5.圓住坊
佐波村妙國寺の内 圓住院・本住院様
津高郡菅村妙安寺:宗旨之義ニ付御改事:寛文5年 1.妙安寺
佐波村妙國寺の内 圓住院・本住院様
津高郡下田村妙典寺:宗旨之義ニ付御改事:寛文5年 1.妙典寺
佐波村妙國寺の内 圓住院・本住院様
赤坂郡平岡村建徳寺:宗旨證文指上■:寛文5年 1.妙典寺
佐波村妙國寺の内 圓住院・本住院様
「宗旨及び僧侶の出生地改」はほぼ同一形式であるので、次からは、所在及び寺院坊名のみを記する。
1・赤坂郡伊田村:暁雲山常久寺 1・赤坂郡油津里村:眞福寺 1・赤坂郡斗有村:妙蓮寺 1・赤坂郡仁堀東村:蓮住坊
1・赤坂郡町苅田村:本行院
(赤坂郡)可眞九ヶ寺分
1.可眞上村妙圓寺(明圓寺) 2.可眞上村大高寺 3.可眞上村慶運寺 4.彌上村光長寺 5.彌上村大乗寺 6.野間村大善寺 7.稗田村妙光寺 8.下村嵩照寺 9.下村道幸寺 10.大苅田村妙泉寺 11.大苅田村眞光寺 12.町苅田村妙隆寺
※報告では九ヶ寺と云いながら、実際は12ヶ寺記載される理由は不明。大苅田・町苅田は古の可眞荘あるいは可眞村の範疇ではないのが、近隣であり便宜上、可眞村衆徒中九ヶ寺に加わっているものと推測される。
赤坂郡:正現寺報告(八ヶ寺)
1.大田上村宗善寺 2.大田下村本渊寺 3.吉田村蓮光寺 4.同村本教寺 5.土師方村圓徳寺 6.山内本隆寺 7.小倉村本乗寺 8.大田中村正現寺
建部:龍渊寺報告 1.建部龍渊寺 2.建部櫻村妙要寺 3.建部西原村浄源寺 4.建部中田村教住坊
1.津高郡上建部白玉山龍圓寺
津高郡建部:成就寺 1.寺中慈仙坊 2.寺中大林坊 3.寺中學乗坊 4.寺中中之坊 5.末寺富沢村蓮乗院 6.末寺櫻村正光院 7.末寺神目裏村涌圓坊 8.末寺中田村本住坊
津高郡虎蔵衆徒中
1.虎藏大乗寺 2.寺中一雲坊 3.寺中文長(※院坊名は無しか)
津高郡紙工七ヶ寺分
1.紙工村:西光寺 2.同村:眞光寺 3.久保村:西岡寺 4.同村:大徳寺 5.同村:玉寶寺 6.天満村:永福寺 7.同村:法仙寺
日應寺衆徒中
1.津高郡日應寺村:日應寺 2.恵性院 3.新藏院 4.泉林坊 5.津高郡勝尾村正満寺 無住 6.東福寺
1.津高郡西辛川村:妙蓮寺 1.津高郡山崎村:蓮教寺 1.津高郡正面村:妙法寺 1.津高郡辛川市場村:玄妙寺
1.津高郡辛川市場村:元妙寺 1.津高郡大窪村:正覚院
(野殿村大雲寺はこの項「122.妙国寺諸末寺宗旨改証文」のすぐ下に掲載あり。) 1.津高郡中楢津村:寶泉寺
1.津高郡西楢津村:道泉寺
(慈雲寺<御野郡矢坂村>衆徒中はこの項「122.妙国寺諸末寺宗旨改証文」のすぐ下に掲載あり。)
(石井寺<御野郡下伊福村>衆徒中はこの項「122.妙国寺諸末寺宗旨改証文」のすぐ下に掲載あり。)
従御公儀様就宗旨御改書上候事
一、御野郡東古松村:福傳寺 一、同郡青江村:妙長寺 一、同奥内村:安祥寺 一、同新保村:本立寺 一、同村圓珠院
一、同木村:眞福寺 一、同青江村:妙泉寺 一、同縁覺村:願心寺 一、福永村:願福村 一、田住村:成就院 一、同東古松村:善唱寺 一、同:願心寺 一、同:大乗寺 一、同西古松村:乗蓮寺
右拾四箇寺之分、如前書之うさん成者壱人も無御座候、・・・・・
寛文五年乙巳
卯月十八日 金川妙國寺 行事様
1.御野郡十日市村:覺成院 1.御野郡十日市村:成福寺 1.御野郡大供村:大福寺
御野郡宮保衆徒
1.中仙道村:寶積寺 2.同村:慈雲坊 3.辰巳村:昌林寺 4.同村:妙經坊 5.田中村:妙蔵寺 6.同村:唯圓坊
7.西長瀬村:永久寺 8.北長瀬村:教住坊 9.辻村:玉圓坊
---------------------------------- 1.備中賀陽郡日斤村:佛性山善修寺
1.備中賀陽郡山之上村:正福寺
2018/09/30追加: 123.岡山藩寺社奉行達書
定 一、津高郡本明寺村日蓮宗本寺佐波村妙国寺
妙國寺下頭坊住持善藏院(花押)
寺中 善住院(花押)
同 蓮行坊(花押)
同 隆玄坊(花押)
同 大教坊(花押)
母谷村 末寺 光林坊(花押) 以上六ヶ寺
右書付の銘々、今度改被仰出候上者、法儀出家行儀慥相勤、為慈悲正直旨、更不可交世俗業、従住持堅可被申渡、
違亂僧等於有之者早速此方ヘ可被申届、尤寺家僧中住持掟堅固可被相守、於理不盡族ハ糺理非、急度可令追放、付、
寺中寺々ニ而祈祷佛事年忘刻、其一寺ニ而執行可仕候者、住持可被致請待、右之旨池田伊賀・日置猪右衛門被申渡者也、仍如件、
寛文五年八月晦日 稲川十郎右衛門(花押) 本明寺村住持善藏院
寺家中
※「妙覚寺文書」より転載
※寛文5年寺社奉行稲川十郎右衛門の名のもとに、宗旨改の達が発せられる。趣旨は不受不施禁止を徹底するというものであった。
これは、(妙國寺下寺であると思われる)本明寺及びその寺中などに発せられたものである。
※寛文5年の文書に示される本明寺(本妙寺)の寺中名をその前後の文書で比較する。
A)は123.岡山藩寺社奉行達書(寛文5年「津高郡本明寺村日蓮宗本寺佐波村妙国寺」・・・上記の文書である。)、B)は120.妙國寺本末寺檀連印状(慶安年中/1648-52)、C)は121.妙国寺本末寺諸寺誓状(寛文元年/1661)、122.妙国寺諸末寺宗旨改証文(寛文5年/1665)、D)は撮要録(寛文6年廃寺) から寺中名を抽出したものである。
A)妙國寺下頭坊住持 |
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善藏院 |
善住院 |
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蓮行坊 |
隆玄坊 |
大教坊 |
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B)宇垣ノ本妙寺 |
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蓮行坊 |
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大教坊 |
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(善正坊、乗運坊、一運坊、妙蔵院) |
C)本明寺 |
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善住坊 |
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蓮行坊 |
隆玄坊 |
大教坊 |
円立坊 |
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D)富谷 生前山大明寺 |
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蓮行坊 |
立玄坊 |
大教坊 |
圓立坊 |
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以上で判断すれば、概ね、寛文年中の本明寺寺中は
善住坊、蓮行坊、立玄坊、大教坊、圓立坊であったと判断できる。B)で見られるように、慶安年中には、蓮行坊・大教坊のみが共通で、その他の寺中はまた違っていたようである。
旭川右岸及び三谷川下流の平野と川上の小盆地一帯が宇垣村(後に河内村と改称する)である。
宇垣村は母谷、山条・本明寺・原・小田の5枝村を有する。枝村本明寺は貞享3年(1686)に富谷と改称する。
本明寺は本明寺村にあり、以上のような事情から、宇垣の本明寺や富谷本明寺と呼称される。
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(金川 江田善彦氏蔵) 定 一、津高郡佐波村本寺妙國寺日蓮宗
寺領 高六石 老僧 円住院(花押)
同 本住院(花押)
利正院(花押)
一行坊(花押)
浄月坊(花押)
要玄坊(花押)
大乗院(花押)
善住坊(花押)
本香坊(花押)
末寺 妙傳寺(花押)
(但妙安寺末寺)
妙安寺(花押) 以上十二ヶ寺
右書付の銘々、今度改被仰出候上者、・・・・中略・・・・違亂僧之有るに於いては早速此方ヘ可被申届らるべく・・・・略
寛文五年八月晦日 稲川十郎右衛門(花押) 佐波村妙國寺老僧中
寺家末寺中
※「金川町史」より転載
※同じく寛文5年社奉行稲川十郎右衛門の名のもとに、本山である妙國寺及びその寺中に、宗旨改の達が発せられる。
趣旨は不受不施禁止を徹底するというものであった。
寛文6年妙國寺は廃寺とされ、街中に並んでした寺中全ても廃寺となり、姿を消すこととなる。
さらに、妙国寺寺中を加えて凡そ145ヶ寺にのぼる寺院も廃寺となる。
加えて妙善寺・道林寺の末寺も不受不施の故に、ほぼ全て廃寺とされ、「備前法華」は表向きには惣滅する。
※寛文5年の文書に示される金川妙国寺の寺中名をその前後の文書で比較する。
A)は江田氏蔵(寛文5年「津高郡佐波村本寺妙國寺日蓮宗」・・・上記の文書である。)、
B)は120.妙國寺本末寺檀連印状(慶安年中/1648-52)、
C)は121.妙国寺本末寺諸寺誓状(寛文元年/1661)、122.妙国寺諸末寺宗旨改証文(寛文5年/1665)、
D)は撮要録(寛文6年廃寺) から寺中名を抽出したものである。
A) |
円住院 |
本住院 |
一行坊 |
要玄坊 |
大乗院 |
善住坊 |
本香坊 |
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(利正院 浄月坊) |
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C) |
円住院 |
本住院 |
一行坊 |
要玄坊 |
大乗坊 |
善住坊 |
本光坊 |
陽輪坊 |
教運坊 |
乗円坊 |
|
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(延寿院) |
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D) |
圓住院 |
本住院 |
一□□ |
要□□ |
大乗坊 |
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本光坊 |
養林坊 |
教雲院 |
乗圓坊 |
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(□□坊) |
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B) |
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一行坊 |
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陽林坊 |
教雲坊 |
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(安立院 妙知院 善立院 慶陽坊 學乗院 教住坊 詮妙院) |
以上を概括すれば、金川妙国寺の寛文年中における寺中は圓住院、本住院、一行坊、要玄坊、大乗坊、善住坊、本光坊(本香坊)、養林坊(陽輪坊・陽林坊)、教雲坊(教運坊)、乗圓坊の10ヶ坊がほぼ確実に存在したと推測可能である。
B)は慶安年中のもので、一行坊・陽林坊・教雲坊以外は共通せず、その理由は分からない。
●参考項目:
「京山物語」郷土史「京山物語」編集委員 高原忠敏、平成15年(2003) p.652 に
「備前松田氏の滅亡後、讃岐に移住した松田一族も、先祖の日蓮宗不受不施派の信仰を守り通している。」
とあるので、それを調査すると複数のWebページがある。 その内の一つ、矢坂山
ツツジ祭2013 | 市久会 矢坂山を語る会 より、ピックアップして、転載する。 ---以下 転載---
[玉松城落城]
永禄11年(1568)宇喜多直家の謀略に依り玉松城は落城。13代元賢の弟左門盛明(元脩)冨山城主は急を聞き、混乱に紛れ玉松城に入り防戦をするが父親の元輝は討死、兄の元賢と元脩は命運を悟り城を脱出。然し雑兵に元賢は討死、元脩は備中方面に落行。元脩は毛利家に属す。
[秀吉の中国毛利攻め]
天正10年(1582)3月豊臣秀吉の毛利攻めが始まり、高松城水攻めの時、元脩は冠山城に籠もる。天正11年宇喜多秀家は父直家の松田家に対する不義を悔やみ松田氏の再興を念じ元脩の妹の夫、直家の弟・春家の病死に伴い、遺児・右衛門丞の後見人を依頼され、奥郷(児島)の小串城八百石の城主になる。
〔壬辰倭乱〕<朝鮮出兵に従軍> 文禄元年(1592)元脩は秀家に随い嫡子の元起と共に出陣。 〔関ヶ原合戦〕
慶長5年9月15日(1600)秀家は西軍の総大将、西軍は敗戦により元脩は翌月10月に一族郎党25名で直島に逃れる。
〔讃岐に移住〕 慶長7年10月 讃岐高松城主・生駒一正を頼り香西堀之内に遁世する。時に元脩60歳、元起29歳。
〔詫間村の開発〕
丸亀藩生駒氏より詫間村の新田と塩田開発を命じられ、長男甚右衛門尉元明は干拓工事にて60町歩の新田と30町歩畑の潅漑工事、7町歩の塩田開発を行い半農半漁の寂れた郷の繁栄の礎を成す。後に45町歩の松田塩田を開発。
〔詫間・高松・冨山氏〕
富山城落城後・冨山六兵衛重信は松田氏と同様に讃岐高松城主・生駒一正公を頼り高松に来讃。その後重信は生駒氏より詫間村に知行(高65石)を与えられ、また高谷山を馬の牧草地にする事を許された。生駒氏より再三にわたる仕官の勧めを断り、松田氏と共に詫間村の開発を行う。詫間に移往時重信は弟の六良右衛門と甚三郎の二人を高松に残した。詫間に住した冨山氏は産土神の浪打八幡宮に元禄三年(1690)冨山市郎右衛門と冨山多左衛門は末社九宇を寄進。享保八年(1723)に御輿三躰造営時に五ヶ村の庄屋として、また天明二年(1782)に御殿上葦、拝殿等再建時に作事奉行をしていた。宝永三年(1706)冨山安兵衛が津島神社を建立。(古今讃岐名勝図絵参照)寛延三年(1750)西讃百姓一揆時に冨山安兵衛(襲名)は多度津藩の代官であった(多度津町誌参照)幕末には医師・冨山謙益(号・凌雪)は勤王家としで著名な琴平の日柳燕石と親交かあり和歌連歌を嗜む。(詫間町誌参照)等々地域の産業文化に貢献現在に至る。
囚みに讃岐初代冨山六兵衛重信の娘は詫間住初代松田甚右衛門尉元明に嫁いでいる。
一方、高松に残した重信の弟、冨山六良右衛門と冨山甚三郎の子孫冨山家(法華宗)は、高松城下で豪商「三倉屋」と分家の「西三倉屋」を営み讃岐随一の豪商と称される隆盛ぶりである。
三倉屋は明治末期まで11代続く豪商で、宝暦11年(1761)5代目市太夫宗有は与謝蕪村を招き、蕪村は琴平を経て三倉屋に逗留した。当主宗有の厚遇を受けた蕪村は、5年後明和3年の秋、再び三倉屋を訪れ翌春までとどまり、更に三たび讃岐路に足跡を印している。
〔金川屋佐平太〕 讃岐琴平・表参道「一の橋」のたもとに、造り酒屋を営む、豪商「金川屋」があった。
菅佐平太は、菅暮牛のことで、菅家は代々俳人を輩出している。この家は備前金川の出身の菅氏である。金川に菅神社(すげ)があり古い時代に松田氏の城が有り同族と推測される。菅家の菩提寺は丸亀妙法寺である。妙法寺は落城後来讃した松田氏と冨山氏の菩提寺であった。寛文6年(1666)日蓮宗不受不施派の法難で妙法寺は天台宗に改宗している。しかし改宗しても内実は不受不施の信者が出入りしていた。
〔与謝蕪村〕
前述の三倉屋と金川屋に俳諧で著名な与謝蕪村が関わっている。現在蕪村寺と称される、丸亀市の妙法寺に蕪村の描いた「蘇鉄の図」が国の重要文化財に指定されている。
蕪村は高松(三倉屋)〜丸亀(妙法寺)〜琴平(金川屋)を往来逗留しているが、宗門改めての厳しい折から、蕪村を通じ信仰の交わりと結束を垣間見ることができる。
なお、土光敏夫、松田伊三雄(三越)、八千草薫(本姓:松田瞳)、宇垣美里(アナウンサー)などは 備前松田氏一族から出た近代以降の著名人という。
---転載終---
備前松田氏一族は讃岐に渡り、不受不施を貫くという。その菩提寺・丸亀妙法寺は寛文6年法難で天台宗に改宗するという。しかし改宗しても不受不施の信者が出入していたという。
◆丸亀妙法寺のHPより 妙法寺の歴史:
創建は天平年中行基菩薩が諸国を遍歴した際、豊田郡和田村(香川県三豊郡豊浜町和田)の正因山に一宇のお堂を建立したことに始まる。長宗我部元親の兵火による消失の後、再建されたが、文禄4年(1595)、豊田郡坂本郷(香川県観音寺市坂本町)に移り、当時は日蓮宗不受不施派に属していた。
慶長2年(1597)丸亀城主生駒親正の命により当山中興1世日眼上人の時、現在の地・丸亀に移る。
寛文6年(1666)徳川幕府の命により日蓮宗不受不施派が禁止になり、寛文9年(1669)に京都毘沙門堂の末寺となり、天台宗に改宗し、現在に至る。
本堂安置の釈迦三尊(釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩)は日蓮宗時代の本尊という。
2018/09/22作成:2024/10/06更新:ホームページ、日本の塔婆、日蓮上人の正系
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